«1 2 3456» Pages: ( 2/24 total )
本页主题: 毛沢東選集(Japanese edition. 5 volumes) 打印 | 加为IE收藏 | 复制链接 | 收藏主题 | 上一主题 | 下一主题

maobadi
级别: 精灵王


精华: 0
发帖: 1265
威望: 1275 点
红花: 12650 朵
贡献值: 0 点
在线时间:535(小时)
注册时间:2009-11-30
最后登录:2013-12-21

 

大衆の生活に関心をよせ、活動方法に注意せよ
          (一九三四年一月二十七日)
     これは、毛沢東同志が、一九三四年一月、江西省瑞金でひらかれた第二回全国労農代表大会でのべた結語の一部である。

 同志諸君が討議のなかで、あまり注意をはらわなかった問題が三つある。わたしはそれをとりあげてのべろ必要があるとおもう。
 第一の問題は、大衆の生活についての問題である。
 われわれの現在の中心任務は、広範な大衆を動員して革命戦争に参加させ、革命戦争によって帝国主義と国民党をうちたおし、革命を全国におしひろめ、帝国主義を中国から追いだすことである。この中心任務を軽視するなら、だれであろうとりっぱな革命の活動家とはいえない。もし、われわれの同志がこの中心任務をほんとうによくつかみ、どうしても革命を全国におしひろめなければならないことを理解しているならば、われわれは広範な大衆の切実な利益にかんする問題、大衆の生活の問題を、少しでもおろそかにしたり、軽視したりはしないはずである。なぜなら、革命戦争は大衆の戦争であり、大衆を動員してはじめて戦争ができるのであり、大衆にたよってはじめて戦争ができるからである。
 われわれが、ただ人民を戦争に動員するだけで、ほかの活動を少しもやらないとしたら、敵にうち勝つという目的をはたすことができるだろうか。もちろんできない。われわれが勝とうとおもうなら、どうしてもそのほかに多くの活動をしなければならない。農民の土地闘争を指導して土地を農民にわけること、農民の労働意欲をたかめて農業の生産をふやすこと、労働者の利益を保障すること、協同組合をつくること、対外貿易を発展させること、大衆の衣服の問題、食事の問題、家の問題、たきぎや米や油や塩の問題、病気や衛生の問題、婚姻の問題を解決すること、要するに、大衆の生活のすべての実際問題は、みなわれわれが気をくばらなければならない問題である。われわれが、こうした問題に気をくばり、それを解決し、大衆の要求をみたしたならば、われわれはほんとうに大衆の生活の組織者となるし、大衆はほんとうにわれわれのまわりにあつまってきて、われわれを心から支持するようになる。同志諸君、そのとき、われわれが大衆によびかけて革命戦争に参加させることができるだろうか。できる。それは完全にできることである。
 われわれの活動家たちのあいだには、かつてつぎのような状況がみられた。かれらはただ赤軍の拡大、輸送隊の拡充、土地税の徴収、公債の売りさばきを口にするだけで、そのほかのことになると、口にもしなければかまいもせず、すべてのことをほったらかしにさえした。たとえば、かつてある期間、汀州《ティンチョウ》市政府は、赤軍の拡大と輸送隊の動員をはかるだけで、大衆の生活の問題は少しもかまわなかった。汀州市の大衆の問題とは、たきぎがないこと、資本家が塩をしまいこんだため塩が買えないこと、一部の大衆には住む家がないこと、米が不足しており、その値段もまた高いことであった。これらが汀州市の人民大衆の実際問題であり、かれらはわれわれの援助で解決することを心からのぞんでいた。だが、汀州市政府は少しもそれを討議しなかった。だから、そのころ、汀州市労農代表者会議が改選されてからあと、何回かひらかれた会議では、いつも赤軍の拡大と輸送隊の動員を討議するだけで、大衆の生活のことはぜんぜんかまわなかったので、百人あまりの代表者は、そのうち会議に出るのがいやになり、会議もひらけなくなってしまった。赤軍の拡大と輸送隊の動員はどうかというと、これも、そのために成績がほとんどあがらなかった。これが一つの状況である。
 同志諸君、諸君にくばった二つの模範的な郷についてのパンフレットは、諸君もおそらく読んだこととおもう。そこでは反対の状況がみられる。江西《チァンシー》省の長岡《チャンカン》郷〔1〕、福建省の才渓《ツァイシー》郷〔2〕ではなんと大幅に赤軍を拡大したことだろう。長岡郷の青壮年男女は、百人のうち八十人が赤軍に参加した。才渓郷では、百人のうち八十八人が赤軍に参加した。公債も非常によく売れ、長岡郷は全人口千五百人であるが、四千五百元の公債を消化した。そのほかの活動でも非常に大きな成果をあげた。どういうわけだろうか。いくつかの例をあげてみればわかるとおもう。長岡郷のある貧しい農民が火事で家をひと間半焼いたが、郷政府はすぐ、大衆が金を出しあってかれをたすけるように、はたらきかけた。また飯の食えないものが三人いたが、郷政府と共済会はただちに米をおくってかれらを救済した。昨年の夏の食糧不足のとき、郷政府は二百華里あまりはなれた公略《コンリュエ》県〔3〕から米を買ってきて大衆を救済した。才渓郷でもこうした活動が非常によくやられている。このような郷政府がほんとうの模範的な郷政府である。かれらのやりかたは汀州市の官僚主義的な指導のしかたとまったくちがう。われわれは汀州市のような官僚主義的な指導者に反対し、長岡郷、才渓郷にまなぼうではないか。
 わたしは、しんけんにつぎのことをこの大会に提案する。われわれは、土地、労働の問題からたきぎや米や油や塩の問題まで、大衆の生活の問題に深く気をくばらなければならない。婦人たちはすき、まぐわの使いかたをならいたがっているが、だれに教えさせたらよいだろうか。子どもたちは勉強したいといっているが、小学校をつくっただろうか。むかいの木の橋はせますぎて通行人が落ちるかもしれないから、なおす必要があるのではないだろうか。たくさんの人がおできができたり病気になったりしているが、なんとか方法はないだろうか。こうした大衆の生活上のすべての問題を自分の議事日程にのぼせなければならない。そして討議し、決定し、実行し、点検しなければならない。広範な大衆に、われわれはかれらの利益を代表するものであり、かれらと息がかよいあっているということを理解させなければならない。そして、かれらがこうしたことがらから出発して、われわれの提起したいっそう高い任務、すなわち革命戦争の任務を理解し、革命を支持し、革命を全国におしひろめ、われわれの政治的なよびかけをうけいれて、革命の勝利のために最後までたたかうようにしなければならない。長岡郷の大衆は、「共産党はほんとうによい。わしらのためにどんなことでも考えてくれる」といっている。模範的な長岡郷の活動家、尊敬すべき長岡郷の活動家たち! かれらは広範な大衆に心から愛されているし、戦争への動員というかれらのよびかけは広範な大衆から支持されている。大衆の支持をえようとするのか、大衆の全力を戦線にそそがせようとするのか、それなら、大衆と一つにならなければならないし、大衆の積極性をよびおこさなければならないし、大衆の痛いところかゆいところに手がとどくようにしなければならないし、心から大衆の利益をはかり、大衆の生産や生活の問題、塩の問題、米の問題、家の問題、着物の問題、お産の問題を解決し、大衆のすべての問題を解決しなければならない。われわれがそのようにしたなら、広範な大衆はかならず、われわれを支持し、革命を自分たちの生命とし、革命を自分たちのこのうえもない光栄な旗じるしとするようになる。国民党が赤色地域に攻めてくれば、広範な大衆は命をかけて国民党とたたかう。これは疑いのないところである。敵の一回目、二回目、三回目、四回目の「包囲討伐」はまぎれもなくわれわれに粉砕されたではないか。
 国民党はいま、堡塁政策〔4〕を実行し、さかんにトーチカを構築して、これをかれらの金城鉄壁だと考えている。同志諸君、これははたして金城鉄壁だろうか。けっしてそうではない。見たまえ、何千年らい、封建君主たちのあの城や宮殿は堅固ではなかったか。だが、大衆が立ちあがると、つぎつぎにつぶれてしまった。ロシアの皇帝は世界でもっとも凶悪な支配者であったが、プロレタリア階級と農民の革命がおきたのち、その皇帝というものはまだあっただろうか。なくなってしまった。金城鉄壁はどうか。つぶれてしまった。同志諸君、ほんとうの金城鉄壁とはなにか。それは大衆である。それは心から革命を支持する幾百万、幾千万の大衆である。これが、どんな力にもうちやぶられることのない、まったくうちやぶられることのない、ほんとうの金城鉄壁である。反革命はわれわれをうちやぶることはできないが、われわれは反革命をうちやぶるのだ。革命政府のまわりに幾百万、幾千万の大衆を結集して、われわれの革命戦争を発展させるなら、われわれはすべての反革命を消滅することができ、全中国を奪取することができる。
 第二の問題は、活動方法についての問題である。
 われわれは、革命戦争の指導者、組織者であるとともに、大衆の生活の指導者、組織者でもある。革命戦争を組織すること、大衆の生活を改善すること、これがわれわれの二大任務である。ここでは、活動方法という重大な問題がわれわれのまえにおかれている。われわれは、任務を提起するばかりでなく、任務を達成する方法の問題をも解決しなければならない。われわれの任務が川をわたることであるとすれば、橋か船がないとわたることはできない。橋か船の問題を解決しないかぎり、川をわたるということは空念仏におわってしまう。方法の問題を解決しないかぎり、任務もまたでまかせのおしゃべりにすぎない。赤軍を拡大することについての指導に気をくばらず、赤軍を拡大する方法について工夫をこらさなかったら、たとえ赤軍拡大を千遍となえてみたところで、やはり成功しない。その他の、たとえば土地点検活動、経済建設活動、文化教育活動、新解放区・周縁地区の活動などすべての活動についても、ただ任務を提起するだけで、実行するときの活動方法に注意しないなら、また官僚主義的な活動方法に反対して実際的で具体的な活動方法をとるようにしないなら、命令主義的な活動方法をすてて根気よく説得する活動方法をとるようにしないなら、どんな任務も達成できない。
 興国《シンクォ》県の同志たちが活動のなかでもっともすぐれた創造をしていることは、模範的な活動家として称賛にあたいする。おなじように、江西省東北部の同志たちもすぐれた創造をしており、かれらもまたおなじく模範的な活動家である。興国県や江西省東北部の同志たちは、大衆の生活と革命戦争とをむすびつけており、革命の活動方法の問題と革命の活動任務の問題とを同時に解決した。かれらはそこでしんけんに活動しており、かれらはそこで問題をきめ細かに解決しており、かれらは革命にたいしてほんとうに責任をおっており、かれらは革命戦争のよい組織者、指導者であるとともに、大衆の生活のすぐれた組織者、指導者でもある。そのほか、たとえば福建省の上杭《シャンハン》、長汀《チャンティン》、永定《ヨンティン》などの県の一部のところ、江西省南部の西江《シーチァン》その他のところ、湖南《フーナン》・江西辺区の茶陵《チャーリン》、永新《ヨンシン》、吉安《チーアン》などの県の一部のところ、湖南・湖北《フーペイ》・江西辺区の陽新《ヤンシン》県の一部のところ、それに江西省の多くの県の区や郷、さらに直属県瑞金《リイチン》など、それらのところの同志たちもみな先進的な活動をしており、おなじく、われわれの称賛にあたいする。
 われわれの指導するすべての地方には、疑いもなく、多くの積極的な幹部がいるし、大衆のなかからあらわれたりっぱな活動家がいる。これらの同志は、活動のよわい地方をたすけ、まだ活動のじょうずにやれない同志をたすけて活動がうまくやれるようにする責任をおっている。われわれは偉大な革命戦争に直面しており、われわれは敵の大規模な「包囲討伐」をつきやぶらなければならないし、革命を全国におしひろめなければならない。革命の活動家は全部がきわめて大きな責任をおっている。大会ののち、われわれはかならず地についたやり方でわれわれの活動を改善し、すすんだところはさらにいっそう前進し、おくれたところはすすんだところに追いつかなければならない。何千の長岡郷、何十の興国県をつくりださなければならない。これらがわれわれの強固な陣地である。こうした陣地を占拠したならば、われわれは、これらの陣地からうってでて、敵の「包囲討伐」をうちくだき、帝国主義と国民党の全国における支配をうちたおすことができるのである。



〔1〕 長岡郷は江西省興国県の郷の一つである。
〔2〕 才渓郷は福建省上杭県の郷の一つである。
〔3〕 公略県は当時の江西省赤色地域内の一つの県で、吉安県東南の東固鎮がその中心であった。赤軍第三軍軍長黄公略同志が一九三一年十月ここで戦死したので、かれを記念してこの県がもうけられた。
〔4〕 一九三三年七月、蒋介石は江西省盧山の軍事会議で、五回目の「包囲討伐」での新しい軍事戦術として、赤色地域の周囲にトーチカをきずくことを決定した。統計によると、一九三四年一月末までに、江西省にはトーチカが二千九百きずかれた。その後、日本侵略者が中国で八路軍、新四軍と戦ったときにも、蒋介石のこの堡塁政策を採用した。毛沢東同志の人民戦争にかんする戦略によれば、完全に、このような反革命の堡塁政策をうちやぶることができ、うち勝つことができる。これはすでに歴史の事実によって十分に証明されている。
  
  
  

 
 
indianmaoist.blogspot.com
顶端 Posted: 2010-12-02 14:05 | 10 楼
maobadi
级别: 精灵王


精华: 0
发帖: 1265
威望: 1275 点
红花: 12650 朵
贡献值: 0 点
在线时间:535(小时)
注册时间:2009-11-30
最后登录:2013-12-21

 

日本帝国主義に反対する戦術について

          (一九三五年十二月二十七日)


 これは、毛沢東同志が陝西省北部瓦窰堡の党活動者会議でおこなった報告で、一九三五年十二月の中国共産党中央委員会政治局瓦窰堡会議のあとでおこなわれたものである。この政治局会議は、きわめて重要な党中央の会議で、中国の民族ブルジョア階級は中国の労働者、農民と連合して抗日することができないという党内のあやまった観点を批判し、民族統一戦線をうちたてる戦術を決定した。この報告で、毛沢東同志は党中央の決議にもとづいて、抗日という条件のもとで民族ブルジョア階級とあらたに統一戦線をうちたてる可能性と重要性を十分に説明し、この統一戦線のなかで、共産党と赤軍が決定的意義をもつ指導的役割をはたすことをとくに指摘し、中国革命の長期性を指摘し、それまで長いあいだ党内に存在していたせまい閉鎖主義と革命にたいするせっかち病――これらは第二次国内革命戦争の時期に党と赤軍が重大な挫折をこうむった基本的原因である――を批判した。同時に、毛沢東同志は、一九二七年に陳独秀の右翼日和見主義が革命を失敗にみちびいた歴史的教訓について党内の注意をよびおこし、蒋介石が革命勢力を破壊するのは必至であると指摘した。こうして、毛沢東同志は、蒋介石のはてしない欺瞞とたびかさなる武装攻撃にあっても革命勢力に損害をこうむらせることのないよう、わが党がその後の新しい情勢のなかではっきりした考え方をもつことができるように保障した。一九三五年一月、党中央は、貴州省の遵義でひらかれた政治局拡大会議で、それまでの「左」翼日和見主義の指導をあらため、毛沢東同志をはじめとする新しい党中央の指導をうちたてた。だが、その会議は赤軍の長征の途上でひらかれたため、当時もっとも切迫していた軍事問題と中央委員会書記処、中央革命軍事委員会の組織問題についてしか、決議することができなかった。赤軍が長征して陝西省北部に到着したのち、党中央ははじめて政治上の戦術の諸問題を系統的に説明できるようになったのである。こうした政治上の戦術の諸問題について、毛沢東同志のこの報告は、もっとも完全な分析をくわえている。
当面の政治情勢の特徴

 同志諸君、当面の政治情勢には、すでに大きな変化がおきている。この変化した情勢にもとづいて、わが党はすでに自己の任務をさだめた。
 当面の情勢はどうか。
 当面の情勢の基本的特徴は、日本帝国主義が中国を植民地に変えようとしていることである。周知のように、ほぼ百年らい、中国はいくつもの帝国主義国が共同で支配する半植民地国であった。中国人民の帝国主義にたいする闘争と帝国主義国相互間の闘争によって、中国はなお半独立の地位をたもっている。第一次世界大戦は、ある期間、日本帝国主義に中国をひとりじめする機会をあたえた。だが、中国人民の日本帝国主義反対の闘争と他の帝国主義国の干渉によって、当時の売国奴のかしら袁世凱《ユァンシーカイ》〔1〕が署名した日本にたいする屈服と投降の条約二十一ヵ条〔2〕は、無効に終わらざるをえなかった。一九二二年には、アメリカの招集したワシントン九ヵ国会議で条約がむすばれて〔3〕、中国はふたたびいくつかの帝国主義国が共同で支配する状態にもどった。ところが、まもなく、こうした状況にもまた変化がおきた。一九三一年九月十八日の事変〔4〕で、中国を日本の植民地にかえる段階がはじまったのである。ただ、日本の侵略の範囲がしばらく東北四省〔5〕にかぎられていたことから、人びとは、日本帝国主義者がおそらくそれ以上前進することはあるまいとおもっていた。こんにちでは事情がちがっている。日本帝国主義者は、中国中心部に進出し、全中国を占領しようとしていることを、すでにはっきりとしめしている。いま日本帝国主義は、全中国をいくつかの帝国主義国がわけまえにあずかる半値民地の状態から、日本が独占する植民地の状態に変えようとしている。最近の冀東《チートン》事変〔6〕や外交交渉〔7〕は、この方向をはっきりとしめし、全国人民の生存をおびやかしている。こうした状況は、中国のすべての階級、すべての政党政派に「どうするか」という問題をなげかけた。抵抗か、投降か、それともこの二つのあいだをゆれ動くか。
 では、中国の各階級がこの問題にどうこたえているかを見ることにしよう。
 中国の労働者と農民は、みな抵抗を要求している。一九二四年から一九二七年までの革命、一九二七年から現在までの土地革命、一九三一年の九・一八事変いらいの反日の波は、中国の労働者階級と農民階級が中国革命のもっとも確固とした勢力であることを証明している。
 中国の小ブルジョア階級も抵抗しようとしている。青年学生と都市の小ブルジョア階級は、いますでに大きな反日運動をまきおこしているではないか〔8〕。中国の小ブルジョア階級のこれらの層は、かつて一九二四年から一九二七年までの革命に参加している。かれらは農民とおなじように、帝国主義とは両立しない小生産者の経済的地位にある。帝国主義と中国の反革命勢力は、かれらに大きな損害をあたえ、かれらのうちの多くのものを失業、破産、または半破産の状態におとしいれてきた。かれらはいまにも亡国の民になろうとしており、もはや抵抗する以外に活路はない。
 この問題をまえにして、では民族ブルジョア階級、買弁階級、地主階級、そして国民党はどうするだろうか。
 大土豪、大劣紳、大軍閥、大官僚、大買弁は、早くから腹をきめている。かれらはこれまでもそうであったが、いまもやはり、革命(どんな革命であろうと)はどうあっても帝国主義よりわるい、といっている。かれらは売国奴の陣営をつくっており、かれらにとって亡国の民になるかどうかなどは問題にならない。かれらはすでに民族のけじめをなくし、かれらの利益は帝国主義の利益と切りはなせなくなっている。かれらの大頭目が蒋介石《チァンチェシー》である〔9〕。この売国奴の陣営は、中国人民のうらみかさなる敵である。もしこの売国奴の一味がいなければ、日本帝国主義はこれほどまでのさばることはできなかったであろう。かれらは帝国主義の手先である。
 民族ブルジョア階級の問題は複雑である。この階級は、かつて一九二四年から一九二七年までの革命に参加したが、その後、この革命の炎に腰をぬかして、人民の敵、すなわち蒋介石集団の側についてしまった。問題は、こんにちの状況のもとで、民族ブルジョア階級に変化のおこる可能性があるかどうかということである。われわれはその可能性があると考える。それは、民族ブルジョア階級が地主階級、買弁階級とおなじものでなく、かれらのあいだにはちがいがあるからである。民族ブルジョア階級には、地主階級ほどつよい封建性もなければ、買弁階級ほどつよい買弁性もない。民族ブルジョア階級のなかには、外国資本や国内の土地所有制とわりあいふかい関係をもつものも一部いるが、この部分の人びとは民族ブルジョア階級の右翼であり、われわれは、しばらく、これらの人の変化の可能性については考えないことにする。問題は、そうした関係をもたないか、あるいは関係のわりあいすくない部分にある。われわれは、植民地化の脅威がせまっている新しい環境のもとでは、民族ブルジョア階級のこれらの部分の人びとの態度に変化のおこる可能性があると考える。その変化の特徴はかれらの動揺である。かれらは、一方では帝国主義をこのまないが、他方では革命の徹底性をおそれ、この両者のあいだを動揺している。このことは、一九二四年から一九二七年までの革命の時期に、かれらがなぜ革命に参加したか、またこの時期の終わりになると、なぜ蒋介石の側についてしまったかを説明している。現在の時期は、一九二七年に蒋介石が革命を裏切った時期とどうちがっているだろうか。当時の中国はまだ半植民地であったが、いまは植民地になりつつある。こと九年らい、かれらは、自分の同盟者である労働者階級をすてて、地主・買弁階級を友にしてきたが、なにか得をしただろうか。えたものといえば、民族工商業の破産、または半破産の境遇だけで、なにも得はしていない。こうした状況から、こんにちの時局のもとでは、民族ブルジョア階級の態度に変化のおこる可能性があると、われわれは考える。ではどの程度の変化であろうか。全般的な特徴は動揺である。だが、闘争のある段階では、かれらの一部(左翼)は闘争に参加する可能性がある。他の一部も、動揺から中立的な態度をとるようになる可能性がある。
 蔡廷[金+皆]《ツァイティンカイ》らが指導している十九路軍〔10〕は、どんな階級の利益を代表しているだろうか。かれらは、民族ブルジョア階級、小ブルジョア階級の上層、農村の富農と小地主を代表している。蔡廷[金+皆]らはかつて赤軍と死にものぐるいの戦争をしたのではなかったか。だが、のちには赤軍と抗日反蒋同盟をむすんだ。かれらは、江西《チァンシー》省では、赤軍を攻撃したが、上海《チャンハイ》に移ると、日本帝国主義に抵抗し、福建《フーチェン》省に移ると、こんどは赤軍と妥協し、蒋介石にたいして戦争をはじめた。蔡廷[金+皆]らが将来どういう道にすすもうと、また当時の福建人民政府がどんなにありきたりのやり方にしがみついて民衆を闘争に立ちあがらせなかったとしても、かれらがそれまで赤軍にむけていた銃口を日本帝国主義と蒋介石にむけかえたことは、革命にとって有利な行為だといわなければならない。これは国民党陣営の分裂である。九・一八事変後の環境でもこうした一部の人びとを国民党の陣営から分裂させることができたのに、こんにちの環境でどうして国民党の分裂をひきおこせないことがあろうか。地主・ブルジョア階級の全陣営は統一し、固定しており、どんな状況のもとでも変化をおこさせることはできないという見方をもつものがわが党内にいるが、それはまちがいである。かれらは、こんにちのこの重大な情勢を認識しないばかりか、歴史さえもわすれてしまっている。
 もうすこし歴史についてはなしてみよう。一九二六年と一九二七年、革命軍が武漢にむかって前進し、さらに武漢に攻めいり、河南《ホーナン》省に攻めいったとき、唐生智《タンションチー》や馮玉祥《フォンユイシァン》〔11〕が革命に参加するということがおこった。馮玉祥は、一九三三年にも察蛤爾《チャーハール》省①で共産党と協力し、抗日同盟軍をつくったことがある。
 もう一つはっきりした例をとると、かつて十九路軍といっしょに江西省の赤軍を攻撃した第二十六路軍は、一九三一年十二月、寧都《ニントウ》県で蜂起して〔12〕赤軍になったではないか。この寧都の蜂起を指導した趙博生《チャオポーション》や董振堂《トンチェンタン》らは、確固とした革命の同志となった。
 東北三省における馬占山《マーチャンシャン》の抗日の行動〔13〕も、支配者陣営内の分裂である。
 こうした例はすべて、日本の爆弾の脅威圏が全中国におよぶばあい、また闘争が普通の状態から突然はげしい勢いで進展するばあいには、敵の陣営に分裂がおこりうることをしめしている。
 同志諸君、それでは問題をもう一つの点にうつしてみよう。
 もし、中国の民族ブルジョア階級の政治的、経済的軟弱性というこの点をとらえて、われわれの論点に反対し、中国の民族ブルジョア階級は新しい環境でも態度を変える可能性はないというものがあるとしたら、そういういい方は正しいだろうか。わたしは、やはりまちがっているとおもう。もし、態度を変えられない原因が民族ブルジョア階級の軟弱性にあるとしたら、どうして、かれらは一九二四年から一九二七年にかけて、通常の態度を変え、たんに動揺しただけでなく、革命にまで参加したのだろうか。民族ブルジョア階級の軟弱性は、あとから身についた新しい欠陥であって母胎からもってでたふるい欠陥ではないのだろうか。いまは軟弱だが、あのときは軟弱ではなかったのだろうか。半値民地の政治、経済の主要な特徴の一つは、民族ブルジョア階級の軟弱性にある。だからこそ、帝国主義はあえてかれらをしいたげるのであり、それがまた、かれらの帝国主義をこのまない特徴を規定しているのである。またこの点から、帝国主義や地主・買弁階級はその場かぎりのある種の餌《えさ》をもって、かれらをたやすく釣っていけるし、それがまた、かれらの革命にたいする不徹底性を規定しているということを、もちろんわれわれは否定しないばかりか、完全に認めている。だからといって、こんにちの状況のもとで、かれらが地主階級や買弁階級となんのちがいもないとは、どうしてもいえないのである。
 したがって、われわれは、民族的危機が重大な瀬戸ぎわにたっしたとき、国民党の陣営には分裂が生ずることをとくに指摘する。このような分裂は、民族ブルジョア階級の動揺にもあらわれ、馮玉祥、蔡廷[金+皆]、馬占山ら、いちじ名をとどろかせた抗日の人物にもあらわれている。このような状況は、基本的にいって、反革命には不利であるが革命には有利である。中国の政治経済の不均等、また、それからうまれる革命の発展の不均等によって、こうした分裂の可能性は大きくなっている。
 同志諸君、これでこの問題の正面からの説明は終わった。こんどはその逆の面から説明してみよう。つまり、民族ブルジョア階級のある一部のものは、しばしば民衆をだます名人だという問題である。それはなぜか。かれらのうち、ほんとうに人民の革命事業を支持しているものは別として、多くのものは、ある一時期、革命的またはなかば革命的なふりをしてあらわれることができるため、同時に民衆をだます元手をもっており、したがって、民衆にはかれらの不徹底性やもっともらしく見せかけたにせの姿がなかなか見ぬけないのである。このため、同盟者を批判し、にせの革命家を暴露し、指導権をかちとるという共産党の責務は増大する。もし大きな変動のなかで民族ブルジョア階級が動揺し、革命に参加する可能性のあることをわれわれが否定するなら、それは指導権をかちとるわが党の任務を解消するか、すくなくともこれを軽減することになる。なぜなら、民族ブルジョア階級が地主や買弁とまったくおなじように売国奴としての凶悪なつらがまえをしているなら、指導権をかちとるという任務は大いに解消できるか、すくなくとも軽減することができるからである。
 大変動のさなかにある中国の地主・ブルジョア階級の態度を全体的に分析するばあい、もう一つ指摘しておかなければならない側面がある。それは、地主・買弁階級の陣営さえ完全には統一していないことである。これは、半植民地の環境、つまり多くの帝国主義が中国を奪いあっている環境からでてくるのである。闘争が日本帝国主義にむけるれるばあい、アメリカやイギリスの飼い犬どもは、その主人のけしかける声の強さに応じて、日本帝国主義者やその飼い犬と、かくれた闘争ひいては公然とした闘争をおこなう可能性がある。これまでにも、こうした犬どものかみあった事実はたくさんあったが、それにはふれないでおこう。ここでは、蒋介石に監禁されたことのある国民党の政治屋胡漢民《ホーハンミン》〔14〕も、さきごろ、われわれの提起した抗日救国六大綱領〔15〕の文書に署名したことだけをのべておく。胡漢民がたのみにしている広東《コヮントン》・広西《コヮンシー》派の軍閥〔16〕も、いわゆる「失地回復」とか「抗日と討匪《とうひ》〔17〕の併進」(蒋介石のばあいは「討匪をさきにし、抗日をあとにする」)といった欺瞞的なスローガンをかかげて、蒋介石と対立している。どうだろう、すこし変ではないだろうか。変ではない。それはただ、大きな犬と小さな犬、食いぶくれた犬と飢えた大の、とくにおもしろい争いであり、大きいとはいえないが小さくもない裂け目であり、痛しかゆしの矛盾である。だが、そのような争い、そのような裂け目、そのような矛盾も、革命的な人民には役にたつ。われわれは、敵の陣営内のすべての争いや裂け目や矛盾をみんなあつめてきて、当面の主要な敵とたたかうために利用しなければならない。
 こうした階級関係の問題をまとめてみると、日本帝国主義が中国中心部に攻めこんできたこの基本的な変化のもとで、中国の各階級の相互関係に変化がおこり、民族革命陣営の勢力が大きくなり、民族反革命陣営の勢力が弱まった、ということになる。
 つぎに、中国の民族革命陣営内の状態についてのべよう。
 まず、赤軍の状態である。同志諸君、ご承知のように、ほぼこの一年半のあいだに、中国の三つの赤軍主力部隊が陣地の大移動をおこなった。昨年八月、任弼時《レンピーシー》同志〔18〕らのひきいる第六軍団が賀竜《ホーロン》同志のところへ移動をはじめて〔19〕から、つづいて十月には、われわれの移動がはじまった〔20〕。ことしの三月には、四川《スーチョワン》・陝西《シャンシー》辺区の赤軍も移動をはじめた〔21〕。この三つの赤軍部隊はいずれも、もとの陣地を放棄して、新しい地区に移動したのである。この大移動で、もとの地区は遊撃区に変わった。また、移動中に、赤軍自身はひどく弱まった。もし全局面のなかのこの面だけを見れば、敵は一時的、部分的な勝利をおさめ、われわれは一時的、部分的な失敗をなめたことになる。こうしたいい方は正しいだろうか。わたしは正しいとおもう。それは事実だからである。しかし、あるもの(たとえば張国燾《チャンクォタオ》〔22〕)は、中央赤軍〔23〕は失敗したという。このことばは正しいだろうか。正しくない。それは事実ではないからである。マルクス主義者は、問題を見るばあい、部分を見るだけでなく、全体をも見なければならない。井戸のなかのかえるが「空の大きさは井戸口ほどだ」というなら、それは正しくない。空の大きさは井戸口ぐらいのものではないからである。だが、もし「空のある部分の大きさは井戸口ほどだ」というなら、これは正しい。事実に合っているからである。われわれはいう。赤軍は一つの面(もとの陣地を確保した面)からいえば失敗したが、もう一つの面(長征計画を完遂した面)からいえば勝利した。敵は一つの面(わが軍のもとの陣地を占領した面)からいえば勝利したが、もう一つの面(「包囲討伐」や「追撃討伐」の計画を実現する面)からいえば失敗した。われわれは長征をやりとげたのだから、こういってこそ適切である。
 長征についていえば、それにはどんな意義があるだろうか。われわれはいう。長征は歴史の記録にあらわれた最初のものである。長征は宣言書であり、宣伝隊であり、種まき機である、と。盤古が天地をひらいてから、三里五帝②をへて、こんにちにいたるまで、われわれのこのような長征がかつて歴史上にあっただろうか。十二ヵ月のあいだ、空ではまいにち何十機という飛行機が偵察と爆撃をおこない、地上では何十万という大軍が包囲し、追撃し、阻止し、遮断《しゃだん》し、途上ではことばでいいつくせない困難と険害に出あったにもかかわらず、われわれはめいめいの二本の足を動かして二万余華里を踏破し、十一の省を縦横断した。われわれのこのような長征がかつて歴史上にあっただろうか。なかった、いまだかつてなかった。長征はまた宣言書である。それは、赤軍が英雄であり、帝国主義者やその手先蒋介石などのやからはまったく無能であることを全世界に宣言した。長征は、帝国主義や蒋介石の包囲、追撃、阻止、遮断が破産したことを宣言した。長征はまた宣伝隊である。それは、十一の省のおよそ二億の人民にたいして、かれらを解放する道は赤軍の道しかないことを宣布した。もしこの壮挙がなかったら、世界には赤軍というこの大きな道理があることを、広範な民衆はどうしてこんなに早く知ることができただろうか。長征はまた種まき機である。それは、十一の省にたくさんの種をまいたが、それらは芽をだし、葉をのばし、花をきかせ、美をむすび、やがては収穫されることになる。要するに、長征はわれわれの勝利、敵の失敗という結果をもって終わりをつげた。だれが長征を勝利させたのか。共産党である。共産党なしには、このような長征は想像することもできない。中国共産党、その指導機関、その幹部、その党員は、どんな困難や苦労もおそれない。革命戦争を指導するわれわれの能力を疑うものは、すべて日和見主義の泥沼におちこむだろう。長征が終わったとたんに、新しい局面があらわれた。直羅《チールオ》鎮の戦いは、中央赤軍と西北赤軍が兄弟のような団結によって、売国奴蒋介石の陝西・甘粛《カンスー》辺区にたいする「包囲討伐」を粉砕し〔24〕、全国の革命の大本営を西北地方におくという党中央の任務のための基礎がための式典となった。
 赤軍の主力部隊は以上のようであるが、南方各省の遊撃戦争はどうだろうか。南方の遊撃戦争は、ある程度の挫折をこうむったが、消滅されてはいない。多くの部分が、回復し、成長し、発展しつつある〔25〕。
 国民党の支配地域では、労働者の闘争は、工場のなかから工場のそとへ、経済闘争から政治闘争へとむかっている。労働者階級の反日・反売国奴の英雄的な闘争の気運は大きくもりあがっており、爆発の時期はそう遠くはなさそうにおもわれる。
 農民の闘争はやんだことがない。外患、内憂、さらに自然災害などの圧迫のもとで、農民は遊撃戦争、一揆《いっき》、米よこせ騒動など、さまざまな形態の闘争を広範に展開している。東北地方や河北省東部の抗日遊撃戦争〔26〕は、日本帝国主義の進攻に回答をあたえているのである。
 学生運動は、すでにきわめて大きな発展をとげており、今後はいっそう大きく発展するにちがいない。だが、学生運動が持久性をもち、売国奴の戒厳令や、警察、スパイ、学校ゴロ、ファシストの破壊と虐殺の政策をつきやぶるためには、どうしても労働者、農民、兵士の闘争に呼応する以外にない。
 民族ブルジョア階級と、農村の富農、小地主らの動揺、ひいては抗日闘争への参加の可能性については、まえにのべた。
 少数民族、とくに内蒙古の民族は、日本帝国主義に直接おびやかされて、闘争に立ちあがりつつある。将来は、華北地方の人民の闘争や西北地方の赤軍の活動と合流するだろう。
 すべてこうしたことは、革命の勢力配置が、局部的なものから全国的なものに変わり、不均等状態からしだいにある種の均等状態にうつりつつあることをしめしている。いまは大変動の前夜にある。党の任務は、赤軍の活動を全国の労働者、農民、学生、小ブルジョア階級、民族ブルジョア階級のすべての活動と合流させて、統一的な民族革命戦線を結成することである。

民族統一戦線

 反革命と革命の両方の情勢をみたので、われわれは党の戦術的任務を容易に説明することができる。
 党の基本的な戦術的任務はなにか。ほかでもなく、広範な民族革命統一戦線をつくることである。
 革命の情勢が変化したときには、革命の戦術、革命の指導方式もこれに応じて変えなければならない。日本帝国主義と民族裏切り者、売国奴の任務は、中国を植民地に変えることであり、われわれの任務は、中国を独立、自由、領土保全の国家に変えることである。
 中国の独立と自由を実現することは偉大な任務である。そのためには、外国帝国主義および自国の反革命勢力と戦わなければならない。日本帝国主義は、がむしゃらに突きすすもうと決意している。国内の蒙紳・買弁階級の反革命勢力は、いまのところまだ人民の革命勢力をしのいでいる。日本帝国主義と中国の反革命勢力をうちたおす事業は、一日や二日で成功するものではなく、長い時間をかける心がまえがなければならず、また、すこしばかりの力で成功するものではなく、巨大な力をつみあげていかなければならない。中国と世界の反革命勢力はまえよりも弱まっており、中国と世界の革命勢力はまえよりも大きくなっている。これは正しい評価であり、一面の評価である。だが同時に、ここしばらく、中国と世界の反革命勢力はやはり革命勢力よりも大きいというべきである。これも正しい評価であり、もう一つの面の評価である。中国の政治経済の発展の不均等は、革命の発展の不均等をうみだしている。革命の勝利は、いつも、反革命勢力のわりに弱いところから、さきにはじまり、さきに発展し、さきに勝利する。そして、反革命勢力の強いところでは、革命はまだおきていないか、あるいはその発展が非常におそい。これは、中国革命がすでにこれまでの長い期間にぶつかったことである。将来、ある段階では、革命の全般的な情勢がさらに発展しても、不均等な状態はなお存在することが考えられる。不均等な状態をほぼ均等した状態に変えるには、なお長い時間をかけ、大きな努力をはらい、党の戦術路線の正しさに依拠しなければならない。ソ連共産党の指導した革命戦争〔27〕が三年で終わったとすれば、中国共産党の指導する革命戦争は、これまですでに長い時間をかけてきたものの、内外の反革命勢力を最終的、徹底的に片付けるには、なおそれに相応した時間をかける心がまえがなくてはならず、これまでのような過度のあせりは禁物である。その上、りっぱな革命の戦術を提起しなければならず、これまでのように、いつも狭いわくのなかをぐるぐるまわりしていたのでは、大きな仕事がやれるものではない。もちろん、中国のことはのんびりやるほかはないというのではない。亡国の危険は、われわれに一分でも気をゆるめることをゆるさず、中国のことは果敢にやらなければならない。こんごの革命の発展速度も、これまでよりずっと早くなるにちがいない。中国と世界の局面は、いずれも戦争と革命の新しい時期にのぞんでいるからである。だが、そうはいうものの、中国の革命戦争はやはり持久戦であり、帝国主義の力と革命の発展の不均等がその持久性を規定しているのである。われわれはいう。時局の特徴は、あらたな民族革命の高まりがおとずれ、中国があらたな全国的大革命の前夜にあることであり、これが現在の革命情勢の特徴である、と。これは事実であり、これは一面の事実である。だが、われわれはまたいう。帝国主義はまだ容易ならぬ勢力であり、革命勢力の不均等な状態は重大な欠点であって、敵をたおすには持久戦の心がまえがなければならず、これが現在の革命情勢のもう一つの特徴である、と。これも事実であり、もう一つの面の事実である。この二つの特徴、この二つの事実がいっしょに出てきて、われわれに教訓をあたえ、状況に応じて戦術をあらため、戦闘のための勢力配置の方式をあらためるよう要求している。当面の情勢は、われわれに閉鎖主義を勇敢にすてさり、広範な統一戦線を採用し、冒険主義を防ぐよう要求している。決戦の時期にならなければ、決戦の力をもたなければ、向こうみずに決戦をおこなってはならない。
 ここでは、閉鎖主義と冒険主義の関係についても、将来の大きな情勢の展開のなかで冒険主義がうまれる危険性についても、のべないことにする。こうした点については、後日にゆずってもおそくはない。ここでは、統一戦線の戦術と閉鎖主義の戦術がまったく正反対の異なった戦術であることだけをのべておく。
 一方は、ひろく人馬をあつめて、敵を包囲し、これを消滅しようとする。
 他方は、ただ単騎で、強大な敵と強引な戦いをしようとする。
 一方はつぎのようにいう。中国を植民地に変える日本帝国主義の行動が、中国の革命と反革命の戦線に変化をもたらすことを十分に評価しなければ、広範な民族革命統一戦線を組織する可能性を十分に評価することはできない。日本の反革命勢力、中国の反革命勢力、中国の革命勢力という、このいくつかの方面の強い点や弱い点を十分に評価しなければ、広範な民族革命統一戦線を組織する必要性を十分に評価することはできず、断固とした措置をとって閉鎖主義をうちやぶることはできず、統一戦線という武器によって何百何千万の民衆や、革命の友軍となりうるすべてのものを組織し結集して、日本帝国主義とその手先である中国の売国奴というもっとも中心的な目標にむかって前進し攻撃することはできず、また自分の戦術的武器で当面のもっとも中心的な目標を射撃することはできずに、目標を分散させ、そのため主要な敵には命中しないで、かえって副次的な敵、ひいては同盟軍にわれわれの弾丸をあびせるようになるのである。これが、敵をえらべず、弾薬を浪費するということである。こんなことでは、敵を孤立したせまい陣地に追いこむことができない。こんなことでは、敵の陣営内の脅かされて従っている人びとや、まえには敵であったがこんにちでは友軍になりうる人びとを、敵の陣営と敵の戦線からひきぬくことができない。こんなことでは、実際には敵に手をかすことになり、革命を停滞させ、孤立させ、縮小させ、退潮させ、ひいては失敗の道に向かわせることになる。
 他方はつぎのようにいう。こういう批判はみなまちがっている。革命の勢力は、純粋なうえにも純粋でなければならないし、革命の道は、まっすぐなうえにもまっすぐでなければならない。聖典にのっているものだけが正しい。民族ブルジョア階級は全部が永遠に反革命である。富農には一歩もゆずってはならない。御用組合とはあくまでもたたかいぬくだけだ。もしも蔡廷[金+皆]と握手するなら、握手した瞬間にかれを反革命とののしらなければならない。油をなめない猫がどこにいるか。反革命でない軍閥がどこにあるか。知識人の革命性は三日坊主だ。かれらをひきいれるのは危険である。したがって、結論としては、閉鎖主義が唯一の万能の宝で、統一戦線は日和見主義の戦術だということになる。
 同志諸君、統一戦線の道理と閉鎖主義の道理とは、いったいどちらが正しいのか。 マルクス・レーニン主義は、いったいどちらに賛成するのか。統一戦線に賛成し、閉鎖主義に反対すると、わたしはきっぱり答える。人間のなかには三歳の子どももあり、三歳の子どものいうことにも道理にかなったことはたくさんある。だが、このような子どもに天下国家の大事をまかせるわけにはいかない。かれらにはまだ天下国家の道理がわからないからである。マルクス・レーニン主義は革命の隊列内の小児病に反対する。閉鎖主義の戦術を固執している人びとの主張しているのは、小児病そのものである。革命の道は世界のあらゆる事物の運動の道とおなじように、まっすぐではなく、つねにまがりくねっている。革命と反革命の戦線が変動しうるのも、世界のすべての事物が変動しうるのとおなじである。日本帝国主義が全中国を植民地に変えようときめていること、また、中国革命の現在の勢力がまだ重大な弱点をもっていること、この二つの基本的な事実が党の新しい戦術、すなわち広範な統一戦線の出発点である。何百何千万の民衆を組織し、津波のような革命の部隊をうごかすことは、こんにち革命勢力が反革命勢力を攻撃するために必要なことである。日本帝国主義と民族裏切り者、売国奴をうちたおすことができるのは、このような勢力以外にない。これはだれにもわかる真理である。だから、統一戦線の戦術だけが、マルクス・レーニン主義の戦術である。閉鎖主義の戦術は一人天下の戦術である。閉鎖主義は「魚を深みに追いこみ、すずめを茂みに追いこみ③」「何百何千万の民衆」と「津波のような革命の部隊」をみな敵の側に追いやるもので、敵の喝采《かっさい》をうけるだけである。閉鎖主義は、実質的には、日本帝国主義と民族裏切り者、売国奴の忠実な下僕《げぼく》である。閉鎖主義のいわゆる「純粋」とか「まっすぐ」とかは、マルクス・レーニン主義からは横っつらをはられ、日本帝国主義からはほめられるしろものである。われわれは、ぜったいに閉鎖主義を必要としない。われわれが必要とするのは、日本帝国主義と民族裏切り者、売国奴の死命を制する民族革命統一戦線である。
人民共和国〔28〕

 われわれのこれまでの政府が労働者、農民、都市小ブルジョア階級の同盟による政府であったというなら、これからは、労働者、農民、都市小ブルジョア階級のほか、さらに、その他の階級のなかの、民族革命に参加することをのぞむすべての人びとをもふくめたものにあらためなければならない。
 いまのところ、この政府の基本任務は、日本帝国主義の中国併呑《へいどん》に反対することである。この政府の構成要素は広い範囲に拡大される。土地革命には興味をもたなくても、民族革命には興味をもっているものも、これに参加できるだけでなく、欧米帝国主義と関係があって欧米帝国主義には反対できなくても、日本帝国主義とその手先には反対できる人びとも、かれらがのぞみさえすれば、これに参加することができる。したがって、この政府の綱領は、当然、日本帝国主義とその手先に反対するという基本任務に合致することを原則とし、これにもとづいて、われわれのこれまでの政策を適切にあらためるべきである。
 現在の革命の側の特徴は、きたえあげられた共産党が存在し、またきたえあげられた赤軍が存在することである。これはきわめて重要なことである。もし、いまでもまだきたえあげられた共産党と赤軍が存在しないとすれば、きわめて大きな困難がうまれるにちがいない。なぜか。中国の民族裏切り者、売国奴は数も多く、力も強く、かれらは、かならず、さまざまな手口を考えだして、この統一戦線をうちこわす、すなわち、売国奴からはなれてわれわれとともに日本とたたかおうとする、かれらよりも小さい勢力を各個撃破するため、脅迫、誘惑やあらゆる術策によって挑発と離間をはかり、また武力によって強圧するからである。もし、抗日の政府と抗日の軍隊に共産党と赤軍という重要な要素が欠けるなら、こうした状態はさけがたい。一九二七年の革命が失敗したおもな原因は、共産党内の日和見主義路線から、自己の隊列(労農運動と共産党の指導する軍隊)の拡大につとめず、一時的な同盟者である国民党だけにたよったことにある。その結果、帝国主義は自分の手先である豪紳・買弁階級に命じて、ありとあらゆる手を動かし、まず蒋介石を、のちにまた汪精衛《ワンチンウェイ》を抱きこんで、革命を失敗におちいらせた。当時の革命統一戦線には中心の支柱がなく、強固な革命の武装部隊がなかったので、四方八方に裏切りがはじまると、共産党は孤軍奮闘せざるをえなくなり、帝国主義と中国の反革命勢力の各個撃破戦術に対抗することができなかった。当時、賀竜、葉挺《イエティン》の部隊はあったが、まだ政治的に強固な軍隊でなく、党もそれをうまく指導できなかったので、ついに失敗してしまった。これは、革命の中心勢力が欠けていたために革命の失敗をまねいた血の教訓である。こんにちでは、この点が変わって、すでに強固な共産党と強固な赤軍が存在し、そのうえ赤軍の根拠地もある。共産党と赤軍は、いま抗日民族統一戦線の発起人になっているばかりでなく、将来の抗日政府や抗日軍隊のなかでも、かならずしっかりした大黒柱になり、日本帝国主義者と蒋介石に抗日民族統一戦線切りくずし政策の最後の目的をとげさせないであろう。疑いもなく、日本帝国主義者と蒋介石は、多くの面で脅迫、誘惑やあらゆる術策をつかうにきまっている。われわれは、それを十分注意しなければならない。
 もちろん、抗日民族統一戦線のはばひろい隊列にたいして、そのすべての部分が共産党や赤軍とおなじように強固であることはのぞめない。その活動の過程では、一部の悪質分子が敵の影響をうけて、統一戦線をぬけだすようなこともありうる。だが、われわれは、そうした人びとの脱落をおそれない。一部の悪質分子が敵の影響をうけてぬけだしても、一部のよい人がわれわれの影響をうけてはいってくる。共産党と赤軍そのものが存在し、発展するかぎり、抗日民族統一戦線もかならず存在し、発展する。これが民族統一戦線における共産党と赤軍の指導的役割である。共産党員は、いまはもう子どもではない。かれらは、すでに自分のことをりっぱにさばいていくことができるし、また同盟者をもうまくさばいていくことができる。日本帝国主義者や蒋介石があらゆる術策をつかって革命の隊列にむかってくることができるなら、共産党もあらゆる術策をつかって反革命の隊列にたちむかうことができる。かれらがわれわれの隊列内の悪質分子をひきぬくことができるなら、われわれももちろん、かれらの隊列内の「悪質分子」(われわれにとってはよい人びと)をひきぬくことができる。もし、われわれがかれらの隊列から一人でも多くひきぬくことができれば、それだけ敵の隊列は減り、われわれの隊列は大きくなる。要するに、いまは二つの基本的な勢力がたたかっており、すべての中間勢力はあちら側につくか、さもなければこちら側につく。これは理の当然である。そして、日本帝国主義者の中国を滅ぼす政策と蒋介石の中国を売りわたす政策は、どうしても多くの勢力をわれわれの側に追いやり、直接共産党や赤軍の隊列に参加させるか、または共産党や赤軍と連合戦線をむすばせるようになる。われわれの戦術が閉鎖主義でないかぎり、この目的はたっせられるのである。
 では、なぜ労農共和国を人民共和国に変えなければならないのか。
 われわれの政府は、労働者と農民を代表するばかりでなく、民族をも代表するものである。労農民主共和国のスローガンには、もともとその意義がふくまれていた。なぜなら、労働者と農民が全民族の人口の八〇パーセントないし九〇パーセントをしめているからである。わが党の第六回全国代表大会できまった十大政綱〔29〕は、労働者と農民の利益を代表しているばかりでなく、同時に民族の利益をも代表している。だが、いまの状況は、われわれに、このスローガンをあらためること、つまり人民共和国にあらためることをもとめている。それは、日本の侵略という状況が中国の階級関係を変え、小ブルジョア階級だけでなく、民族ブルジョア階級も抗日闘争に参加する可能性がうまれたからである。
 人民共和国が敵階級の利益を代表しないことは、もちろんである。反対に、人民共和国は帝国主義の手先である豪紳・買弁階級とは正反対の立場に立つもので、これらの階級を人民という範囲には入れない。これは、蒋介石の「中華民国国民政府」が、ただ最大の金持ちを代表するだけで、民衆を代表せず、民衆をいわゆる「国民」の範囲には入れていないのと同様である。中国の八〇パーセントないし九〇パーセントの人□が労働者と農民であるから、人民共和国はなによりもまず、労働者と農民の利益を代表しなければならない。だが、人民共和国が帝国主義の抑圧をはらいのけて、中国を自由・独立の国にすること、地主の抑圧をはらいのけて、中国を半封建制度からぬけださせること、こうしたことは、労働者と農民に利益をあたえるばかりでなく、他の人民にも利益をあたえる。労働者、農民その他の人民のすべての利益を一括したものが、中華民族の利益を構成している。買弁階級や地主階級も中国の土地に住んではいるが、かれらは民族の利益をかえりみず、かれらの利益は多数の人びとの利益と衝突している。われわれが決別するのはかれらのような少数者だけであり、われわれが衝突するのも、かれらのような少数者だけである。だから、われわれには、われわれこそ全民族を代表するものだという権利がある。
 労働者階級の利益は、民族ブルジョア階級の利益とも衝突するところがある。民族革命をくりひろげるには、民族革命の前衛に政治上、経済上の権利をあたえ、労働者階級に帝国主義とその手先である売国奴に立ちむかう力をださせるようにしなければ、成功するものではない。しかし、民族ブルジョア階級が帝国主義反対の統一戦線に参加するなる、労働者階級と民族ブルジョア階級は共通の利害関係をもつことになる。ブルジョア民主主義革命の時代において、人民共和国は、非帝国主義的、非封建主義的な私有財産は廃止せず、民族ブルジョア階級の工商業は没収しないばかりか、これらの工商業の発展を奨励する。どんな民族資本家でも、帝国主義と中国の売国奴に手をかさないかぎり、われわれはこれを保護する。民主主義革命の段階では、労資間の闘争には限度がある。人民共和国の労働法は労働者の利益を保護するが、民族資本家の金もうけにも反対しないし、民族工商業の発展にも反対しない。なぜなら、このような発展は、帝国主義にとっては不利で、中国の人民にとっては有利だからである。このことからもわかるように、人民共和国は、帝国主義に反対し封建勢力に反対する各階層人民の利益を代表するものである。人民共和国の政府は、労働者、農民を主体とし、同時に、帝国主義に反対し封建勢力に反対するその他の階級をも包容する。
 これらの人びとを人民共和国の政府に参加させるのは、危険ではないのか。危険ではない。労働者、農民は、この共和国の基本大衆である。都市小ブルジョア階級、知識層および反帝・反封建の綱領を支持するその他の人びとに人民共和国政府のなかで発言し仕事をする権利をあたえ、選挙権と被選挙権をあたえるが、労農基本大衆の利益にそむくことはできない。われわれの綱領の重要な部分は、労農基本大衆の利益を保護するものでなければならない。人民共和国政府のなかで労農基本大衆の代表が大多数をしめること、共産党がこの政府のなかで指導と活動をおこなうことによって、かれらがはいってきても危険でないように保障される。中国革命の現段階がプロレタリア社会主義的性質の革命ではなく、いまなおブルジョア民主主義的性質の革命であることは、きわめてあきらかである。中国ではすでにブルジョア民主主義革命は完成した、つぎに革命をやるなら、社会主義革命よりほかにない、とでたらめをいうのは、ただ反革命のトロツキスト〔30〕だけである。一九二四年から一九二七年までの革命はブルジョア民主主義的性質の革命であったが、その革命は達成されず失敗した。一九二七年から現在までの、われわれの指導してきた土地革命も、ブルジョア民主主義的性質の革命である。なぜなら、革命の任務は反資本主義ではなく、反帝・反封建だからである。今後のかなり長い期間における革命も、やはりそうしたものである。
 革命の原動力は、基本的にはやはり労働者、農民、都市の小ブルジョア階級であるが、現在ではもう一つ民族ブルジョア階級がくわわることも可能である。
 革命の転化は将来のことである。民主主義革命は、将来、必然的に社会主義革命に転化する。いつ転化するかは、転化の条件がそなわったかどうかによってきめられなければならないが、時間的にはかなり長くかかる。政治上、経済上のすべての必要条件がそなわらないうちは、また、転化が全国の最大多数の人民にとって不利でなく、有利になるような時がこないうちは、かるがるしく転化を提起すべきではない。この点に疑いをもって、ごく短期間での転化をのぞむのは、いぜん一部の同志が民主主義革命が重要な省で勝利しはじめたときこそ革命が転化しはじめるときだといったのと同様に、まちがっている。それは、かれらが中国はどんな政治経済状態の国であるかがわからないからであり、中国が政治的、経済的に民主主義革命を達成するのは、ロシアよりもずっと困難で、ずっと多くの時間と努力が必要であることを知らないからである。

 国際的援助

 最後に、中国革命と世界革命の相互関係にひとことふれる必要がある。
 帝国主義という怪物がこの世にあらわれてから、世界のことがらは一つにつながり、切りはなそうとしても切りはなせなくなった。われわれ中華民族は、自分たちの敵と最後まで血戦をする気概をもち、自力更生を基礎として失われたものを回復する決意をもち、世界の諸民族のあいだに自立する能力をもっている。だが、このことはわれわれに国際的援助がなくてもよいという意味ではない。いや、国際的援助は現代のあらゆる国、あらゆる民族の革命闘争にとって必要である。昔のひとは「春秋に義戦なし」〔31〕といったが、いまの帝国主義にはなおさら正義の戦争はなく、ただ、被抑圧民族と被抑圧階級にだけ正義の戦争がある。人民が立ちあがって抑圧者とたたかう全世界のすべての戦争は、正義の戦争である。ロシアの二月革命と十月革命は正義の戦争であった。第一次世界大戦後のヨーロッパ各国人民の革命も正義の戦争であった。中国における、アヘン反対の戦争〔32〕、太平天国の戦争〔33〕、義和団の戦争〔34〕、辛亥《シンハイ》革命の戦争〔35〕、一九二六年から一九二七年までの北伐戦争④、一九二七年から現在までの土地革命戦争⑤、こんにちの抗日と売国奴討伐の戦争は、みな正義の戦争である。当面の全中国における抗日の高まりと全世界における反ファシズムの高まりのなかで、正義の戦争は全中国、全世界にひろがるだろう。すべて、正義の戦争はたがいにたすけあうものであり、不正義の戦争は正義の戦争に転化させなければならないものである。これがレーニン主義の路線である〔36〕。われわれの抗日戦争は、国際的な人民の援助、まず第一にソ連人民の援助を必要とし、かれらもまた、われわれを援助してくれるにちがいない。われわれとかれらは苦楽をともにしているからである。過去のある時期、中国の革命勢力と国際的な革命勢力の結びつきは蒋介石によって断ちきられていたので、この点からいえばわれわれは孤立していた。いまでは、こうした情勢はすでに変わり、われわれに有利になっている。今後、こうした情勢はなおひきつづき有利な方向に変わっていくだろう。われわれはもう孤立することはない。これは、中国の抗日戦争と中国革命が勝利をかちとるのに必要な条件の一つである。


〔注〕
〔1〕 袁世凱は清朝末期の北洋軍閥の頭目である。一九一一年の革命で清朝がくつがえされたのち、かれは、反革命の武力と帝国主義の支持にたより、当時革命を指導していたブルジョア階級の妥協性を利用して、総統の地位を奪いとり、大地主、大買弁階級を代表する最初の北洋軍閥政府をつくった。一九一五年、かれは皇帝になろうとして、日本帝国主義の支持を得るために、全中国の独占を企図した日本の二十一ヵ条の要求を承認した。同年十二月、皇帝を名のる袁世凱に反対する蜂起が雲南省におこり、それに呼応する運動がたちまち全国各地にひろがった。袁世凱は、一九一六年六月、北京で死亡した。
〔2〕 一九一五年一月十八日、日本帝国主義は中国の袁世凱政府に二十一ヵ条の要求をつきつけ、五月七日には、四十八時間以内に回答をもとめる最後通牒を出した。この要求の全文は五つの大項目からなり、まえの四つの大項目には、ドイツにかすめとられた山東省の権利を日本に移譲するとともに、山東省における日本の新しい権利を認めること、南満州と東蒙古における土地租借権、あるいは所有権、居住権、工商業経営権、鉄道敷設および鉱山採掘の独占権を日本にあたえること、漠治菰公司を中国と日本の共同経営にすること、また中国沿海の港湾、島嶼などはすべて第三国に譲渡してはならないことなどの条項があった。第五の大項目には、中国の政治、財政、警察、軍事を支配する大権をうばいとるとともに、湖北、江西、広東の諸省をむすぶ重要な鉄道の敷設権をうばいとる各条項があった。袁世凱は、第五の項目について「日をあらためて協議したい」と声明したほかは、すべて承認した。しかし、中国人民の一致した反対にあって、日本の要求は実行されなかった。
〔3〕 一九二一年十一月、アメリカ政府は、中国、イギリス、フランス、イタリア、ベルギー、オランダ、ポルトガル、日本の八ヵ国の代表を招集し、アメリカをくわえたワシントン九ヵ国会議をひらいた。これは、アメリカと日本が極東の覇権をあちそった会議である。翌年の二月六日、「中国における各国の機会均等」「中国の門戸開放」というアメリカの主張にもとづいて、九ヵ国条約が締結された。九ヵ国条約は日本の中国独占計画をうちこわすため、帝国主義列強による中国の共同支配の局面、実際にはアメリカ帝国主義の中国独占を準備する局面をつくりだす役割をはたした。
〔4〕 一九三一年九月十八日、中国の東北地方に駐屯していた日本のいわゆる「関東軍」が瀋陽を襲撃、占領した。当時、瀋陽をはじめ東北各地に駐屯していた中国の軍隊(東北軍)が、蒋介石の「絶対に抵抗するな」という命令を受けて山海関以南に撤退したため、遼寧、吉林、黒竜江などの諸省はたちまち日本軍に占領されてしまった。中国人民のあいだでは、日本侵略者のこの侵略行動を「九・一八事変」とよんでいる。
〔5〕 東北四省とは、当時中国の東北部にあった遼寧、吉林、黒竜江、熱河の四省のこと(現在の遼寧、吉林、黒竜江の三省および河北省東北部の長城以北と内蒙古自治区東部の地区をさしている――訳者)。九・一八事変後、日本侵略軍は、まず遼寧、吉林、黒竜江の三省を占領し、一九三三年にはさらに熱河省を占領した。
〔6〕 一九三五年十一月二十五日、日本は国民党の民族裏切り者殷汝耕をそそのかして、河北省東部の二十二県にかいらい政権をつくらせ、「冀東防共自治政府」と名づけた。これが「冀東事変」である。
〔7〕 外交交渉とは、当時、蒋介石政府と日本政府とのあいだですすめられたいわゆる「広田三原則」についての交渉をさす。「広田三原則」とは、当時の日本の外相広田弘毅が提出したいわゆる「対華三原則」のことである。その内容は、一、中国はすべての排日運動をとりしまる、二、中国、日本、「満州国」の経済協力体制をうちたてる、三、中日共同で防共にあたる、というものであった。一九三六年一月二十一日、広田は、日本の議会で、「中国政府はすでに帝国の提出した三原則を承認した」とのべている。
〔8〕 一九三五年、全国人民の愛国運動はあらたなもりあがりをみせはじめた。北京の学生は、中国共産党の指導のもとで、まず十二月九日、「内戦を停止し、一致して外敵にあたれ」「日本帝国主義をうちたおせ」などのスローガンをかかげて、愛国的なデモをおこなった。この運動は国民党政府と日本侵略者の同盟による長期のテロ支配をつきやぶり、全国人民が急速にこれに呼応した。これは「一二・九運動」とよばれている。これによって、全国の各階級間の関係にはっきりした新しい変化があらわれ、中国共産党の提起した抗日民族統一戦線はすべての愛国的な人びとの公然と主張する国是となった。蒋介石政府の売国政策は極度の孤立におちいった。
〔9〕 毛沢東同志がこの報告をおこなった当時、蒋介石はひきつづき東北を売りわたしていたばかりでなく、華北をも売りわたしており、同時に、赤軍にたいしてもさかんに攻撃をつづけていた。したがって、中国共産党としては、売国奴蒋介石の正体を極力暴露しなければならなかったから、当時、中國共産党の提起していた抗日民族統一戦線には、また蒋介石はふくまれていなかった。しかし、毛沢東同志はこの報告のなかでも、すでに、帝国主義諸国間の矛盾は中国の地主、買弁階級の陣営に分化をもたらす可能性のあることをのべている。のちに、日本帝国主義が華北に進攻し、英米帝国主義の利益とひどく衝突するようになると、中国共産党は、英米帝国主義の利益と密接につながる蒋介石集団がその主人の命令にしたがって、日本にたいする態度をかえる可能性があるとみて、蒋介石に圧力をくわえて抗日に転じさせる政策をとった。一九三六年五月、赤軍は山西省から陝西省北部に軍をひきあげ、直接、南京の国民党政府にむかって、内職を停止して一致抗日することを要求した。同年八月、中国共産党中央委員会は、また自民党中央執行委員会に書簡をおくって、両党が共同抗日の統一戦線を結成することと、代表を派遣してその交渉をすすめることを要求した。ところが、蒋介石は依然として共産党の主張を拒否した。かれは、一九三六年十二月、国民党内の連共抗日を主張する軍人に西安で監禁されたとき、はじめて、内戦を停止して抗日するという共産党の要求をやむなくうけいれた。
〔10〕 当時、蔡廷[金+皆]は国民党第十九路軍の軍長のひとりで、十九路軍の副総指揮をかね、陳銘枢、蒋光[”乃”の下に鼎]らとともに同軍の責任者であった。十九路軍は、もと江西省で赤軍と戦ったが、九・一八事変ののち、上海に移動した。当時、上海と全国人民のあいだにおきていた抗日のたかまりは、十九路軍に大きな影響をあたえた。一九三二年一月二十八日の夜、日本海軍の陸戦隣が上海を攻撃すると、十九路軍は上海の市民とともに抗戦した。だが、この戦争は、のちに蒋介石と汪精衛の裏切りによって敗北した。その後、十九路軍は、蒋介石によって福建省に移動させられ、赤軍と戦うことになった。当時、十九路軍を指導していた人たちは、赤軍と戦うのが活路のない行為であることをだんだん自覚してきた。一九三三年十一月、十九路軍の将領は、国民党内の李済深ら一部の勢力とむすんで、蒋介石との決裂を公然と宣言した。かれらは、福建省で「中華共和国人民革命政府」をうちたて、赤軍と抗日反蒋の協定をむすんだ。十九路軍と福建人民政府は蒋介石の兵力の圧迫によって失敗した。その後、蔡廷[金+皆]らはしだいに共産党と協力する立場をとるようになった。
〔11〕 一九二六年九月、北伐の革命軍が武漢まで攻めのぼったとき、馮玉祥は綏遠省(現在の内蒙古自治区西部――訳者)で、自分の軍隊をひきいて北洋軍閥系からはなれることを宣言し、革命に参加した。一九二七年のはじめ、その部隊は陝西省を出発して、北伐軍と合流し、河南省に進攻した。一九二七年、蒋介石と汪精衛が革命を裏切ると、馮玉洋もまた反共活動に参加した。だが、かれと蒋介石集団とのあいだには終始利害の衝突があった。九・一八事変ののち、かれは抗日に賛成し、一九三三年五月、共産党と協力して張家口で民衆抗日同盟軍を組織した。このときの抗日蜂起は、蒋介石勢力と日本侵略軍の二重の圧迫をうけて、八月に失敗した。馮玉祥は、晩年においても共産党と協力する立場をとりつづけた。
〔12〕 国民党第二十六路軍は、蒋介石の命令で赤軍を攻撃するため江西省に派遣された。一九三一年十二月、同軍の一万余人は、趙博生、董振堂らの同志の指導のもとに、中国共産党の抗日のよびかけにこたえて、江西省寧都で蜂起し、赤軍に参加した。
〔13〕 馬占山はもと国民党東北軍の将校であり、その部隊は黒竜江省に駐屯していた。九・一八事変ののち、日本の侵略軍が遼寧省から黒竜江省にむかって進撃したとき、その部隊はこれに抵抗した。
〔14〕 胡漢民は国民党の有名な政治屋で、かつて孫中山が中国共産党と協力する政策をとったことに反対した。また、一九二七年、蒋介石が「四・一二」反革命クーデターをおこなったときの共謀者であった。その後、蒋介石との権力争いがもとで、蒋介石に監禁された。九・一八事変ののち、釈放されて、南京から広州にいき、広東・広西派の軍閥勢力をうごかし、蒋介石南京政府とのあいだに長期にわたる対立状態をつくりだした。
〔15〕 「抗日救国六大綱領」とは「中華人民対日作戦基本綱領」のことで、中国共産党が一九三四年に提起し、宋慶齢らの署名をえて公表されたものである。この綱領にはつぎのような項目がふくまれている。(一)全陸海空軍を総動員して日本と戦う。(二)全国人民を総動員する。(三)全国人民の総武装化をおこなう。(四)中国にある日本帝国主義の財産と売国奴の財産を没収して抗日の戦費にあてる。(五)労働者、農民、兵士、知識層、商工業者の代表が選出した全中国民族武装自衛委員会をつくる。(六)日本帝国主義のすべての敵と連合してこれを友軍とし、善意の中立をまもるすべての図と友好関係をうちたてる。
〔16〕 広東・広西旅軍閥とは、広東省の陳済[”学”の”子”の代わりに”呆”]、広西省の李宗仁、白崇禧らをさす。
〔17〕 蒋介石匪賊一味は、革命的な人民を「匪賊」といい、かれらが自己の軍隊をもって革命的な人民を攻撃し、虐殺する行為を「討匪」といった。
〔18〕 任弼時同志は、中国共産党のもっとも早くからの党員であり、組織者のひとりであった。一九二七年の中国共産党第五回全国代表大会いらい、毎回の党大会で中央委員に選出され、一九三一年の党の第六期中央委員会第四回総会では中央委員会政治局委員に選出された。一九三三年、湖南・江西辺区省委員会書記となり、赤軍第六軍団政治委員を兼ねた。赤軍第六軍団と赤軍第二軍団が合流してからは、第二、第六両軍団で編成した第二方面軍の政治委員となった。抗日戦争の初期には、八路軍総政治部主任となった。一九四〇年には、中国共産党中央委員会書記処の活動に参加した。一九四五年、党の第七期中央委員会第一回総会では、中央委員会政治局委員と中央委員会書記処書記に選出された。一九五〇年十月二十七日、北京で逝去した。
〔19〕 中国労農赤軍第六軍団は、もとは湖南・江西辺区の根拠地に駐屯していたが、一九三四年八月、中国共産党中央の命令によって、包囲を突破し、移動をはじめた。同年十月、貴州省東部で、賀竜同志のびきいる赤軍第二軍団と合流し、赤軍第二方面軍を編成して、湖南・湖北・四川・貴州革命根拠地をきりひらいた。
〔20〕 一九三四年十月、中国労農赤軍第一、第三、第五軍団(すなわち赤軍第一方面軍で、中央赤軍ともよばれる)は、福建省西部の長汀、寧化、江西省南部の瑞金、[”あまかんむり”の下に”一”、その下に”号の口のない字”]都などの各地から出発して、戦略的な大移動をはじめた。赤軍は、福建、江西、広東、湖南、広西、貴州、四川、雲南、西康(現在の四川省西部とチベット自治区の東部――訳者)、甘粛、陝西など十一の省を通過して、年中雪をいただく高山をこえ、人跡まれな湿地帯をすぎ、あらゆる困難をなめつくして、敵のたびかさなる包囲、追撃、阻止、遮断を撃破し、二万五千華里(一万二千五百キロ)を歩きとおして、ついに一九三五年十月、勝利のうちに陝西省北部の革命根拠地に到着した。
〔21〕 四川・陝西辺区の赤軍とは、中国労農赤軍第四方面軍のことである。一九三五年三月、第四方面軍は、四川・陝西辺区の根拠地をはなれて四川、西康両省の省境に移動した。同年六月には、四川省西部の懋功地方で赤軍第一方面軍と合流し、左路軍と右路軍を編成して北上した。同年九月、松潘付近の毛児蓋一帯の地区についたのち、第四方面軍で活動していた張国燾が、中国共産党中央の命令にそむいて、勝手に左路軍をひきいて南下し、赤軍を分裂させた。一九三六年六月、赤軍第二万両軍が湖南・湖北・四川・貴州辺区から包囲を突破し、湖南、貴州、雲南の諸省をとおって、西康省の甘孜に到着し、第四方面軍と合流した。このとき、第四方面軍の同志たちは、張国燾の意志にそむいて、第二方面軍とともに北方への移動をおこなった。同年十月、第二方面軍の全部と第四方面軍の一部は陝西省北部に到着し、赤軍第一方面軍と勝利のうちに合流した。
〔22〕 張国燾は中国革命の裏切り者である。かれは若いころ、投機的に革命にくわわり、中国共産党に入党した。党内でのかれのあやまりはきわめて多く、そのおかした罪悪ははかりしれない。なかでももっとも重大なのは、一九三五年、赤軍の北上に反対して、赤軍を四川省、西康省の少数民族地区に退却させることを主張した敗北主義と解党主義であり、同時にまた、公然と反党、反中央の裏切りをはたらき、勝手ににせの中央をつくりあげて、党と赤軍の統一を破壊し、赤軍第四方面軍に重大な損失をこうむらせたことである。赤軍第四方面軍とその広範な幹部は、毛沢東同志と党中央の辛抱づよい教育によって、すぐ党中央の正しい指導のもとにかえり、その後の闘争で光栄ある役割をはたした。しかし、張国燾自身は、ついに救いようもない状態になり、一九三八年春、陝西・甘粛・寧夏辺区を単身ぬけだして、国民党の特務集団に投じた。
〔23〕 中央赤軍とは、もと江西、福建地域で発展し、中国共産党中央の直接の情導をうけていた赤軍、すなわち赤軍第一方面軍のことである。
〔24〕 一九三五年七月、国民党軍は、陝西・甘粛革命根拠地にたいして三回目の「包囲討伐」をはじめた。陝西省北部の赤軍第二十六軍は、まず東部戦線で敵の二コ旅団をうちやぶり、この戦線の敵を黄河以東に追いやった。同年九月、もと湖北・河南・安徽根拠地にいた赤軍第二十五軍は、陝西省南部から甘粛省東部をへて陝西省北部に到着し、陝西省北部の赤軍と合流して、赤軍第十五軍団を編成した。赤軍十五軍団は、甘泉県の労山の戦役で、敵軍の一一〇師団の大部分を撃滅し、その師団長を戦死させた。その後まもなく、敵軍の一〇七師団の四コ大隊を甘泉県の楡林橋で撃滅した。そこで、敵はまた新しい攻撃を計画し、童英斌(東北軍の一軍長)が五コ師団をひきい、ふた手にわかれて進攻してきた。東の一コ師団は洛川、[鹿+”おおざと”]県の街道を北上し、西の四コ師団は甘粛省の慶陽、合水から葫盧河にそって陝西省北部の[鹿+”おおざと”]県方面に進撃してきた。同年十月、中央赤軍は陝西省北部に到着した。十一月、中央赤軍と赤軍十五軍団は共同して敵軍の一〇九師団を[鹿+”おおざと”]県西南の直羅鎮で殲滅し、さらに追撃して敵軍一〇六師団の一コ連隊を黒水寺で殲滅した。こうして、陝西・甘粛根拠地にたいする敵の三回目の「包囲討伐」を徹底的に粉砕した。
〔25〕 一九三四年かち一九三五年にかけて、中国南部にいた赤軍の主力が移動したとき、一部の遊撃部隊をのこした。それらの遊撃部隊は、八つの省の十四の地域で遊撃戦争を堅持した。その他域とは、湖江省南部地域、福建省北部地域、福建省東部地域、福建省南部地域、福建省西部地域、江西省東北地域、福建・江西省境地域、広東・江西省境地域、湖南省南部地域、湖南・江西省境地城、湖南・湖北・江西省境地域、湖北・河南・安徽省境地域、河南省南部桐柏山地城および広東省の瓊崖地域である。
〔26〕  一九三一年、日本帝国主義が東北地方を侵略すると、中国共産党は、人民に武装抵抗をよびかけて、抗日遊撃隊と東北人民革命軍を編成し、さまざまな形態の抗日義勇軍を援助した。一九三四年以後になると、中国共産党の指導のもとに、東北のすべての抗日部隊をあわせて、統一した東北抗日連合軍が組織され、有名な共産党員楊靖宇が総指揮となって、長いあいだ東北の抗日遊撃戦争を堅持した。河北省東部の抗日遊撃戦争は、一九三五年五月におこった農民の抗日蜂起である。
〔27〕 ソ連共産党の指導した革命戦争とは、一九一八年から一九二〇年にかけて、ソ連人民がイギリス、アメリカ、フランス、日本、ポーランドなどの帝国主義国の武力干渉とたたかい、白衛軍の反乱を平定した戦争をいう。
〔28〕 毛沢東同志がここで提起している人民共和国の政権の性質とその諸政策は、抗日戦争の期間に、共産党の指導する人民解放区で完全に実現されていた。だからこそ、共産党は、敵の後方戦場で、人民を指導し、日本侵略者にたいする勝利的な戦争をすすめることができたのである。日本の降伏後に勃発した第三次国内革命戦争でも、戦争の進展につれて、人民解放区はしだいに全中国に拡大し、ついに統一された中華人民共和国が出現した。毛沢東同志の人民共和国の理想はついに全国的な範囲で実現したわけである。
〔29〕 一九二八年七月にびちかれた中国共産党第六回全国代表大会では、つぎの十六政綱がさだめられた。一、帝国主義の支配をくつがえす。二、外国資本の企業や銀行を没収する。三、中国を統一し、民族自決権を認める。四、軍閥国民党の政府をくつがえす。五、労農兵代表者会議の政府を樹立する。六、八時間労働制、賞金の引きあげ、失業救済、社会保障などを実施する。七、すべての地主階級の土地を没収し、耕地を農民のものにする。八、兵士の生活を改善し、兵士に土地と仕事をあたえる。九、すべての苛酷で雑多な税金を廃止し、統一的な累進税を実施する。十、世界のプロレタリア階級およびソ連と連合する。
〔30〕 トロツキスト集団は、もと、ロシアの労働運動のなかでレーニン主義に反対した一分派で、のちに完全な反革命の匪賊一味に堕落した。この裏切り者集団の変わりかたについて、スターリン同志は、一九三七年、ソ連共産党中央委員会総会における報告でつぎのように説明している――「過去七、八年まえまでは、トロツキズムは、労働者階級のなかの政治的一派であった。それはたしかに反レーニン主義的であり、したがって極度にまちがった政治的一派ではあったが、しかし、当時はやはり政治的一派といえた。……現在のトロツキズムは、けっして労働者階級のなかの政治的一派ではなく、原則のない、思想のない暗殺者であり、破壊者であり、スパイであり、殺人の下手人であり、外国のスパイ機関にやとわれて活動する労働者階級の仇敵である。」一九二七年、中国革命が失敗したのち、中国にも少数のトロツキストがあらわれた。かれらは陳独秀らの裏切り者とむすんで、一九二九年、反革命的グループをつくり、国民党はすでにブルジョア民主主義革命を完成したなどという反革命的宣伝をおこない、帝国主義と自民党の反人民的なきたない道具に完全になりさがった。中国のトロツキストは公然と国民党の特務機関に参加した。九・一八事変ののち、かれらはトロツキー一味から「日本帝国の中国占領を妨げるな」という指令をうけて、日本の持務機関に協力し、日本侵略者から手当をうけて、さまざまな利敵行為をおこなった。
〔31〕 「春秋に義戦なし」とは『孟子』のなかのことばである。春秋時代(西紀前七二二~前四八一年)には中国の多くの封建諸民のあいだで権力や利益を争う戦争かたえずおこなわれたので、孟子はこのようにいった。
〔32〕 一八四〇年から一八四二年にかけて、イギリスは、中国人がアヘン貿易に反対したので、通商保護を口実に出兵し、中国を侵略した。中国の軍隊は林則徐の指導のもとに抵抗戦争をおこなった。当時、広州の人びとも自然発生的に「平英団」を組織して、イギリスの侵略者に大きな打撃をあたえた。
〔33〕 太平天国の戦争は、一九世紀のなかごろ、清朝の封建支配と民族抑圧に反対しておこった農民の革命戦争である。一八五一年一月、この革命の指導者洪秀全、楊秀清らは、広西省の桂平県金田村で蜂起し、「太平天国」の成立を宣言した。太平軍は、一八五二年に広西省を出発して、湖南、湖北、江西、安徽の諸省をへて、一八五三年に南京を攻略した。その後すぐ南京から一部の兵力をさいて北上し、天津付近まで進撃した。しかし、太平軍は、占領した地方に強固な根拠地をつくらなかったことと、南京に都をおいてから、その指導者集団が政治上、軍事上の多くのあやまりをおかしたことから、清朝の反革命軍と英米仏侵略者の連合攻撃に抵抗できず、一八六四年に失敗した。
〔34〕 義和団の戦争とは、一九〇〇年、中国北部の農民、手工業者大衆が、神秘主義的な秘密結社の形態をとり、武力をもって帝国主義とたたかった広範な自然発生的運動である。八つの帝国主義国の連合軍は、北京、天津を占領し、この運動をきわめて残酷に弾圧した。
〔35〕 本巻の『湖南省農民運動の視察報告』の注〔3〕にみられる。
〔36〕 レーニンの『プロレタリア革命の軍事綱領』および『ソ連共産党(ボリシェビキ)歴史小教程』第六章第三節を参照。
〔訳注〕
① 察蛤爾省は現在の河北省西北部と内蒙古の中部にあたる。
② 中国の神話に、盤古が天地をびちき、人類最初の支配者になったとつたえられている。三皇五帝は、伝説にでてくる中国原始社会の部落の長である。ここでは、「歴史がはじまっていらい」という意味にたとえている。
③ 本巻の『小さな火花も広野を焼きつくす』訳注②を参照。ここでは、閉鎖主義者が結集できる人びとをも敵の側に追いやってしまうことのたとえにつかっている。
④ 北伐戦争とは、一九二六年七月、国民革命軍が広東省を出発して北上し、北洋軍閥を討伐した戦争をさす。国民革命軍は、中国共産党の政治的指導と広範な労農大衆の積極的支持をうけたので、急速に長江流域まで攻めよせ、中国のほぼ半分を占領し、帝国主義と封建勢力に手きびしい打撃をあたえた。ところが、一九二七年の春から夏へかけて、北伐戦争が発展していた矢先に、蒋介石に代表される国民党右派は、帝国主義の支持のもとに革命を裏切って、その成果を奪い、残忍きわまる新軍閥のテロ支配をうちたてた。
⑤ 土地革命戦争とは中国共産党の指導する第二次国内革命戦争のことである。一九二七年七月、第一次国内革命戦争が失敗したのち、毛沢東同志を代表とする中国共産党は、土地革命の旗を高くかかげて、敵の支配が比較的弱くて、革命の基礎が比較的しっかりした農村に活動の重点をうつし、おもいきり農民を立ちあがらせて土地改革をおこない、遊撃戦争を展開し、革命根拠地をうちたてた。一九三六年末、全国人民の抗日運動の新しい高まりによって、蒋介石国民党がやむなく国内戦争の政策を一時放棄し、第二次国内革命戦争は基本的に終わりをつげた。
  
  
  

 
 
indianmaoist.blogspot.com
顶端 Posted: 2010-12-02 14:07 | 11 楼
maobadi
级别: 精灵王


精华: 0
发帖: 1265
威望: 1275 点
红花: 12650 朵
贡献值: 0 点
在线时间:535(小时)
注册时间:2009-11-30
最后登录:2013-12-21

 

中国革命戦争の戦略問題

          (一九三六年十二月)


 毛沢東同志のこの著作は、第二次国内革命戦争の経験を総括するために書かれたもので、当時陝西省北部に設立されていた赤軍大学で講演されたことがある。著者によれば、この著作は五章までを完成しただけで、このほかになお戦略的進攻、政治工作およびその他の問題があったが、西安事変が発生したために書きつづける時間がなくなり、筆をおいたままであるという。この著作は第二次国内革命戦争の時期に軍事問題について党内でおこなわれた一大論争の結果であり、一つの路線が他の路線に反対する意見を表明したものである。一九三五年一月におこなわれた党中央の遵義会議は、この路線上の論争について結論をくだし、毛沢東同志の意見を是認して、あやまった路線の意見を否定した。一九三五年十月、党中央が陝西省北部に移ってからまもなく、十二月に、毛沢東同志は、『日本帝国主義に反対する戦術について』という講演をおこない、第二次国内革命戦争の時期における党の政治路線上の問題を系統的に解決した。その翌年、すなわち一九三六年、毛沢東同志はさらにこの著作を書いて、中国革命戦争の戦略面にかんする諸問題について系統的に説明した。


第一章 戦争をいかに研究するか


     第一節 戦争の法則は発展するものである

 戦争の法則――これは戦争を指導するものが、だれでも研究しなければならない問題であり、解決しなければならない問題である。
 革命戦争の法則――これは革命戦争を指導するものが、だれでも研究しなければならない問題であり、解決しなければならない問題である。
 中国革命戦争の法則――これは中国革命戦争を指導するものが、だれでも研究しなければならない問題であり、解決しなければならない問題である。
 われわれは現在、戦争に従事している。われわれの戦争は革命戦争である。われわれの革命戦争は、中国という半植民地的・半封建的な国ですすめられている。したがって、われわれは戦争一般の法則を研究するだけではなく、特殊な革命戦争の法則も研究しなければならないし、さらに、いっそう特殊な中国革命戦争の法則をも研究しなければならない。
 周知のように、どんなことをするにも、そのことの状況、その性質、それとそれ以外のこととの関連がわからないと、そのことの法則もわからず、どういうふうにやるのかもわからず、また、それをなしとげることもできない。
 戦争――私有財産と階級があるようになってからはじまった、階級と階級、民族と民族、国家と国家、政治集団と政治集団とのあいだの、一定の発展段階での矛盾を解決するためにとられる最高の闘争形態である。その状況、その性質、それとそれ以外のこととの関連がわからないと、戦争の法則はわからず、戦争をどういうふうに指導するかもわからず、戦争で勝つこともできない。
 革命戦争――革命的な階級戦争と革命的な民族戦争は、戦争一般の状況と性質のほかに、その特殊な状況と性質をもっている。したがって、それには戦争の一般法則のほかに、いくつかの特殊な法則がある。これらの特殊な状況や性質がわからず、その特殊な法則がわからないと、革命戦争を指導することもできないし、革命戦争で勝つこともできない。
 中国革命戦争――国内戦争あるいは民族戦争をとわず、それは中国という特殊な環境のなかですすめるれているのであって、戦争一般、革命戦争一般にくらべると、その特殊な状況、特殊な性質をもっている。したがって、それには戦争一般および革命戦争一般の法則のほかに、なおいくつかの特殊な法則がある。これらのことがわからないと、中国革命戦争で勝つことはできない。
 したがって、われわれは戦争一般の法則を研究すべきであり、革命戦争の法則も研究すべきであり、最後に、さらに中国革命戦争の法則をも研究すべきである。
 つぎのような意見をもっているものがあるが、それはまちがっている。われわれはそのような意見をとうに反駁《はんばく》した。かれらは、戦争一般の法則さえ研究すればいいのだ、具体的にいえば、反動的な中国政府、あるいは反動的な中国の軍事学校で出版している軍事典範令のとおりにやりさえすればいいのだ、というのである。これらの典範令は、戦争一般の法則についてのものでしかなく、しかも、みな外国のもののまるうつしであり、もしわれわれがその形式や内容に少しも変更をくわえないで、そっくりそのまま使うとすれば、どうしても足をけずって靴にあわせることになり、戦争に負けるということを、かれらは知らない。かれらの言い分は、過去に血を流してえたものが、どうして役にたたないのか、というのである。過去に血を流してえた経験はもとより尊重すべきであるが、自分が血を流してえた経験もやはり尊重すべきであるということを、かれらは知らないのである。
 また、つぎのような意見をもっているものがあるが、それもまちがっている。われわれはそのような意見をも、とうに反駁した。かれらは、ただロシアにおける革命戦争の経験を研究しさえすればいいのだ、具体的にいえば、ソ連の国内戦争の指導法則とソ連の軍事機関が公布した軍事典範令のとおりにやりさえすればいいのだ、というのである。ソ連の法則や典範令には、ソ連の国内戦争とソビエト赤軍の特殊性がふくまれており、もしわれわれがなんの変更もゆるさないで、そっくりそのまま使うとすれば、これも同様に足をけずって靴にあわせることになり、戦争に負けるということを、かれらは知らない。この人たちの言い分は、ソ連の戦争は革命戦争であり、われわれの戦争も革命戦争である、しかもソ連では勝利している、それなのにどうして取捨の余地があろうか、というのである。ソ連の戦争の経験は、もっとも近代的な革命戦争の経験であり、レーニンとスターリンの指導のもとでえたものであるから、われわれは、もとより、とくに尊重すべきであるが、中国革命と中国赤軍にもまた多くの特殊な事情があるので、中国革命戦争の経験もやはり尊重すべきであることを、かれらは知らないのである。
 さらに、つぎのような意見をもっているものがあるが、それもまちがっている。われわれはそのような意見をも、とうに反駁した。かれらは、一九二六年から一九二七年の北伐戦争の経験がいちばんよい、われわれはそれを学ぶべきだ、具体的にいえば、北伐戦争の長駆前進や大都市攻略を学ぶべきだ、というのである。北伐戦争の経験はまなぶべきであるが、しかし、われわれが現在やっている戦争の状況は、すでに変化しているので、それを型どおりにひきうつして使うべきでないということを、かれらは知らない。われわれは、北伐戦争のなかから、現在の状況のもとでなお適用できるものだけをとりいれるべきであり、現在の状況にもとづいて、われわれ自身のものを規定すべきである。
 このようにみてくると、戦争の状況のちがいが、異なった戦争指導法則を決定するのであり、それには、時間、地域および性質上の差異がある。時間的条件からすると、戦争と戦争指導法則は、いずれも発展するものであり、それぞれの歴史的段階には、その段階での特徴があるので、戦争の法則にも、それぞれの特徴があり、それを機械的に異なった段階に転用することはできない。戦争の性質についてみると、革命戦争と反革命戦争には、それぞれ異なった特徴があるので、戦争の法則にも、それぞれの特徴があり、それを機械的に転用しあうことはできない。地域的条件についてみると、それぞれの国、それぞれの民族、とくに大きな国、大きな民族には、いずれもその特徴があるので、戦争の法則にもそれぞれの特徴があり、これも同様に機械的に転用することはできない。われわれは、それぞれ異なった歴史的段階、それぞれ異なった性質、異なった地域や民族の戦争の指導法則を研究するさい、戦争問題における機械論に反対し、その特徴と、その発展に着眼すべきである。
 そればかりではない。ひとりの指揮員についていっても、はじめは小兵団しか指揮できなかったものが、のちにはさらに、大兵団を指揮できるようになれば、これは、その人にとって進歩であり、発展である。また一つの地域と、多くの地域とでもちがいがある。はじめは、よく知っている一つの地域でしか作戦を指揮できなかったものが、のちにはさらに、多くの地域でも作戦を指揮できるようになれば、これはまたその指揮員にとって進歩であり、発展である。敵味方の双方の技術、戦術、戦略の発展によって、一つの戦争でも、その各段階の状況にはちがいがある。低い段階でしか指揮できなかったものが、高い段階になっても、指揮できるようになれば、その指揮員にとって、いっそうの進歩であり、発展である。一定の兵団、一定の地方、戦争発展の一定段階にしか適応できないのをさして進歩も発展もないという。一つの技《わざ》やちょっとした見識にしがみついて、それ以上進歩のないような人は、革命にとって一定の場所と時期にはいくらか役割をはたしても、大きな役割ははたせない。われわれは、大きな役割をはたす戦争指導者を必要としている。すべての戦争指導法則は、歴史の発展にしたがって発展し、戦争の発展にしたがって発展するのであり、一定不変のものはない。

第二節 戦争の目的は戦争を消滅することにある

 戦争――人類がたがいに殺しあうこの怪物は、人類社会の発展が、終局的にはこれを消滅するし、しかも遠くない将来にこれを消滅するにちがいない。だが、それを消滅する方法はただ一つしかない。つまり、戦争をもって戦争に反対し、革命戦争をもって反革命戦争に反対し、民族革命戦争をもって民族反革命戦争に反対し、階級的革命戦争をもって階級的反革命戦争に反対することである。歴史上の戦争には、正義のものと不正義のものとの二種類しかない。われわれは正義の戦争を支持し、不正義の戦争に反対する。すべての反革命戦争は不正義のものであり、すべての革命戦争は正義のものである。人類の戦争生活の時代は、われわれの手で終わらせることになる。われわれがすすめている戦争は、疑いもなく最終的な戦争の一部分である。だが、われわれが直面している戦争は、また疑いもなくもっとも大きな、もっとも残酷な戦争の一部分である。もっとも大きな、もっとも残酷な不正義の反革命の戦争が、われわれの頭上にのしかかっており、われわれが、もしも正義の戦争の旗じるしをかかげないなら、人類の大多数はふみにじられてしまう。人類の正義の戦争の旗じるしは、人類を救う旗じるしであり、中国の正義の戦争の旗じるしは、中国を救う旗じるしである。人類の大多数と中国人の大多数がおこなう戦争は、疑いもなく正義の戦争であり、人類を救い、中国を救うこのうえもなく光栄な事業であり、全世界の歴史を新しい時代にうつらせるかけ橋である。人類の社会が、階級を消滅し、国家を消滅するところまで進歩したときには、どんな戦争もなくなる。反革命戦争はなくなるし、革命戦争もなくなる。不正義の戦争はなくなるし、正義の戦争もなくなる。これが人類の永遠の平和の時代である。われわれが革命戦争の法則を研究するのは、すべての戦争を消滅しようとするわれわれの願望からでており、これがわれわれ共産党員とすべての搾取階級とを区別する境界線である。

 第三節 戦略問題とは戦争の全局についての法則を研究するものである

 戦争があるかぎりは、戦争の全局というものがある。世界が戦争の一つの全局になりうるし、一国も戦争の一つの全局になりうるし、また一つの独立した遊撃地域も、一つの大きな独立した作戦方面も、戦争の一つの全局になりうる。およそ各方面、各段階に配慮をくわえなければならないような性質をもったものは、すべて戦争の全局である。
 全局的な戦争指導法則を研究することが、戦略学の任務である。局部的な戦争指導法則を研究するのが、戦役学と戦術学の任務である。
 戦役指揮員や戦術指揮員にたいして、ある程度の戦略上の法則について理解をもつことを要求する必要があるのは、なぜだろうか。それは、局部的なものが全局的なものに従属しているので、全局的なものを理解すれば、局部的なものをいっそうよく使いこなせるからである。戦略的勝利が戦術的勝利によって決定されるという意見はあやまっている。なぜなら、このような意見は、全局と各段階にたいする配慮のよしあしが、戦争の勝敗を決定する主要な、そしてまず最初の問題であることを見ていないからである。もし、全局と各段階にたいする配慮に重大な欠陥、あるいはあやまりがあれば、その戦争はかならず失敗する。「一石のうちちがいで、全局がまける」というのは、全局的なもの、つまり全局に決定的な意義をもつ一石のことをいっているのであって、局部的なもの、つまり全局に決定的な意義をもたない一石のことではない。碁がそうであり、戦争もそうである。
 だが、全局的なものは、局部からはなれて独立できるものではなく、全局は、そのすべての局部からなりたっている。ときによっては、いくつかの局部が崩壊し、あるいは失敗しても、全局に重大な影響をおよぼさないことがあるのは、それらの局部が全局にたいして決定的な意義をもつものでないからである。戦争においては、いくつかの戦術上、あるいは戦役上の失敗または不成功が、戦争全局の悪化をひきおこすまでに至らないことがしばしばあるのは、これらの失敗が決定的な意義をもつものでないからである。だが、もし戦争の全局を構成する多数の戦役が失敗したばあい、あるいは決定的な意義をもつ一つ、二つの戦役が失敗したばあいには、ただちに全局に変化がおきる。ここでいう多数の戦役、および一つ、二つの戦役とは、すべて決定的なものである。戦争の歴史には、連戦連勝ののち、一つの敗戦によって、いままでの戦果のすべてが無に帰したこともあり、あるいはたくさんの敗戦をかさねたのち、一つの勝利によって、新しい局面が打開されたこともある。ここでいう「連戦連勝」と「たくさんの敗戦」は、いずれも局部的なもので、全局にたいしては決定的な作用をおよぼさないものである。ここでいう「一つの敗戦」および「一つの勝利」とは、いずれも決定的なものである。これらのことは、みな全局について配慮することの重要性をものがたっている。全局を指揮するものにとって、もっとも大事なことは、戦争の全局にたいする配慮に自分の注意力をそそぐことである。主要なことは、状況にもとづいて、部隊と兵団の編成問題、二つの戦役のあいだの関係の問題、各作戦段階のあいだの関係の問題、味方の活動全体と敵の活動全体とのあいだの関係の問題に配慮をくわえることである。これらのことがもっとも骨の折れるところであり、もし、こうしたことをそっちのけにして、一部の副次的な問題に頭をつっこんでいると、損をするのはさげられない。
 全局と局部との関係についていうならば、戦略と戦役との関係がそうであるばかりでなく、戦役と戦術との関係もまたそうである。師団の行動と連隊・大隊の行動との関係、中隊の行動と小隊・分隊の行動との関係などは、その実例である。いかなる級の首長でも、その注意の重点は、かれが指揮する全局にとって、もっとも重要な、もっとも決定的な意義をもつ問題、または行動におくべきであり、他の問題、または他の行動におくべきではない。
 重要とか、決定的な意義をもつとかいうことは、一般的な、あるいは抽象的な状況によって規定してはならず、具体的な状況によって規定しなければならない。作戦にあたって、突撃方向や突撃点の選定は、当面している敵の状態、地形と味方の兵力の状況によってきめなければならない。給養の十分なところでは、兵士に食べすぎをさせないように注意しなければならず、給養の不足しているところでは、兵士を飢えさせないよう注意しなければならない。白色地域では、わずか一つの情報がもれたために、その後の戦闘を失敗にみちびくこともありうるが、赤色地域では、情報がもれるということは、ふつうもっとも重要な問題にはならない。あるいくつかの戦役では、高級指揮員みずから戦役に参加する必要があるが、他のばあいにはその必要がない。軍事学校でもっとも重要な問題は、校長および教員をえらぶことと教育の方針を規定することである。民衆集会では、主として、民衆をその集会に動員し、適切なスローガンを提起することに注意しなければならない、等々といったものである。要するに、全局にかかわる重要な環に注意すること、これが原則である。
 戦争の全局の指導法則を学ぶには、頭を使って考えることが必要である。なぜなら、このような全局的なものは、目には見えないので、頭を使って考えてはじめてわかるものであり、頭を使って考えなければわかるものではないからである。ところが、全局は局部からなりたっており、局部について経験をもっている人、あるいは戦役や戦術について経験をもっている人が、もし頭を使って考えようとするならば、そうしたより高級なものも理解することができる。戦略問題、たとえば、敵と味方との関係について配慮すること、各戦役、あるいは各作戦段階のあいだの関係について配慮すること、全局にかかわる(決定的意義をもつ)あるいくつかの部分について配慮すること、全般的な状況のなかの特徴について配慮すること、前線と後方とのあいだの関係について配慮すること、消耗と補充、作戦と休息、集中と分散、攻撃と防御、前進と後退、隠蔽《いんぺい》と暴露、主攻方面と助攻方面、突撃方面と牽制《けんせい》方面、集中指揮と分散指揮、持久戦と速決戦、陣地戦と運動戦、本軍と友軍、この兵種とほかの兵種、上級と下級、幹部と兵士、古参兵と新兵、高級幹部と下級幹部、ふるい幹部と新しい幹部、赤色地域と白色地域、旧地区と新地区、中心地区と周縁地区、暑いときと寒いとき、勝ちいくさと負けいくさ、大兵団と小兵団、正規軍と遊撃隊、敵を消滅することと大衆を獲得すること、赤軍の拡大と赤軍の強化、軍事工作と政治工作、過去の任務と現在の任務、現在の任務と将来の任務、ある状況のもとでの任務と他の状況のもとでの任務、固定した戦線と固定しない戦線、国内戦争と民族戦争、ある歴史的段階と他の歴史的段階などといった問題の区別や連係について配慮すること、これらはいずれも、目には見えないものであるが、頭を使って考えれば、みな理解することもでき、把握することもでき、精通することもできるのである。つまり、戦争あるいは作戦上のすべての重要な問題は、より高い原則にまでたかめて解決することができるということである。この目的を達成することが、戦略問題を研究することの任務である。

第四節 書要な問題はよく学ぶことにある

 なぜ赤軍を組織するのか。それを使って敵にうち勝つためである。なぜ戦争の法則を学ぶのか。それらの法則を戦争に使うためである。
 学ぶことは容易なことではなく、使うことはいっそう容易なことではない。戦争という学問は、教室や書物のうえでは、多くの人がたとえおなじように、もっともらしくならべたてても、いざ戦争をやってみると、勝ち負けのちがいがでてくる。戦争史も、われわれ自身の戦争生活もこのことを立証している。
 では、その鍵《かぎ》はどこにあるのか。
 われわれは事実上の常勝将軍を求めることはできず、そういう人は昔からまれであった。われわれが求めるのは、戦争の過程において、一般的に勝ちいくさをする勇敢で聡明な将軍――すなわち知勇兼備の将軍である。知勇兼備になるには、学ぶときにも使うときにもそれによる一つの方法を学ばなければならない。
 どういう方法か。それは敵味方の双方の各方面の状況をよく知り、その行動の法則をみつけ、しかも、それらの法則を自分の行動に応用することである。
 多くの国で公布している軍事典範令には、いずれも「状況に応じて原則を活用する」ことの必要が指示されており、さらに、戦いに負けたときの処置方法が指示されている。前者は、指揮員が、原則をしゃくし定規に使って主観的なあやまりをおかさないようにするためのものであり、後者は、指揮員が主観的なあやまりをおかしたか、あるいは客観情勢に予想外の変化や不可抗力の変化がおきたときに、どう処置すればよいかを指揮員に教えているものである。
 なぜ主観上のあやまりをおかすくとになるのか。それは、戦争あるいは戦闘の部署配置と指揮が、その時、その場所の状況に合わないこと、主観的指導と客観的実際状況とがくい違っていて、合致しないこと、ことばをかえていえば、主観と客観とのあいだの矛盾を解決していないことによるものである。だれがどんな仕事をするばあいでも、こうした事情はさけがたいのであって、わりあいよくやれるかやれないかのちがいがあるだけである。仕事ではわりあいよくやることが要求され、軍事の面では、勝ちいくさをわりあい多くすることが要求される。逆にいえば、負けいくさをわりあいすくなくすることが要求されるのである。ここでの鍵は、主観と客観の両者をよく合致させることである。
 戦術の例をあげていおう。攻撃点を敵陣地のある一翼にえらび、しかもそこがちょうど敵の弱い部分であれば、突撃はそれによって成功する。これは主観が客観と合致したというのであり、つまり指揮員の偵察《ていさつ》と判断と決心が、敵および敵の配置の実際状況に合致したというのである。もし攻撃点を他の一翼、あるいは中央部にえらび、その結果、ちょうど敵の強いところにぶちあたって、攻めこむことができないとすれば、それは合致しなかったという。攻撃の時機が当をえており、予備部隊の使用が早くもおそくもなく、各種の戦闘処置と戦闘行動が、みな味方に有利であり、敵に不利であったとすれば、それは全戦闘における主観的指揮と客観的状況がことごとく合致したことになる。ことごとく合致するということは、戦争や戦闘においては、ごくまれなことである。それは、戦争や戦闘をしている双方が、ともに集団をなした、武装している生きた人間であり、しかもたがいに秘密を保っているからで、これは静物や日常のことがらをとりあつかうのとは大いに異なる。しかし、指揮が大体において状況に合致しさえすれば、すなわち決定的意義をもつ部分が状況に合致しておれば、それが勝利の基礎となる。
 指揮員の正しい部署配置は、正しい決心からうまれ、正しい決心は、正しい判断からうまれ、正しい判断は、周到な、また必要な偵察と、さまざまな偵察材料をむすびつけた思索とからうまれる。指揮員は、あらゆる可能な、また必要な偵察手段をつかい、偵察でえた敵側の状況にかんするさまざまな材料にたいして、滓《かす》をすてて粋《すい》をとり、偽をすてて真をのこし、これからあれへ、表面から内面へという思索をおこない、そのうえで、味方の状況をくわえて、双方の対比や相互の関係を研究し、それによって、判断をくだし、決心をかため、計画をたてる――これが軍事家の毎回の戦略、戦役、あるいは戦闘の計画をたてるにさきだっておこなう状況認識の全過程である。大ざっぱな軍事家は、こうはしないで、一方的な願望を基礎として軍事計画をたてるが、そのような計画は空想的な、実際と合致しないものである。向こうみずの、ただ情熱しかない軍事家が、どうしても敵からあざむかれ、敵の表面的な、あるいは一面的な状況にまどわされ、自分の部下の無責任な、洞察力に欠けた提案にあおられ、それでかべにつきあたるのをまぬがれないのは、かれらがどんな軍事計画でも、必要な偵察と敵味方の状況やその相互関係にたいする周到な思索を基礎としてたてるべきであることを知らないか、あるいは知ろうともしないからである。
 状況認識の過程は、軍事計画をたてる前だけでなく、軍事計画をたてたのちにも存在する。ある計画を実施するばあいには、実施しはじめたときから戦局の終わるときまでが、状況認識のもう一つの過程であり、すなわち実行の過程である。このときには、第一の過程のものが、実際の状況に合致しているかどうかを、あらためて点検する必要がある。もし、計画と状況とが合致しないか、あるいは完全には合致していないばあい、新しい認識にもとづいて新しい判断をくだし、あらたな決心をかため、新しい状況に適応するように既定の計画を変更しなければならない。部分的に変更することは、ほとんど毎回の作戦にみられることで、全面的に変更するようなこともたまにはある。向こうみず屋は、盲滅法にやるだけで、変更することを知らないか、あるいは変更しようとしないので、その結果は、またどうしてもかべにつきあたってしまう。
 以上のべたことは、一つの戦略での行動、あるいは一つの戦役と戦闘での行動についてである。経験をつんだ軍人で、もし、かれが謙虚にものを学ぶ人であり、自分の部隊(指揮員、戦闘員、武器、給養など、およびその全体)の気性をよく知り、また敵の部隊(同様に指揮員、戦闘員、武器、給養など、およびその全体)の気性もよく知り、戦争と関連のあるその他すべての条件、たとえば政治、経済、地理、気候などもよく知っている人であるならば、このような軍人の指導する戦争や作戦は、比較的に確実性があり、勝利をうることができる。これは、長い時間のあいだに、敵味方の双方の状況を認識し、行動の法則をさがしだし、主観と客観との矛盾を解決した結果である。この認識の過程は非常に重要であって、こういう長期の経験がなければ、戦争全体の法則を理解し、把握することは困難である。ほんとうに有能な高級指揮員には、かけだしのものや、たんに紙の上で戦争を論ずることに長じている人間ではなれるものでなく、そうなるには戦争のなかで学ばなければならない。
 すべての原則性をおびた軍事法則あるいは軍事理論は、みな昔の人あるいは今の人が過去の戦争の経験を総括したものである。これら過去の戦争がわれわれにのこしてくれた血の教訓は、とくに力をいれて学ぶべきものである。これが一つのことである。だが、もう一つのことがある。すなわち自分の経験のなかから、それらの結論を検証し、そのうちの使えるものはくみとり、使えないものはすて、自分特有のものをつけくわえていくことである。このもう一つのことは、非常に重要であって、こうしなければ、われわれは戦争を指導することができない。
 書物をよむことは学習であるが、使うことも学習であり、しかもより重要な学習である。戦争から戦争を学ぶ――これがわれわれの主要な方法である。学校にいく機会のなかった人でも、やはり戦争を学ぶことができる、つまり戦争のなかから学ぶのである。革命戦争は民衆のやることであって、先に学んでからやるのではなく、やりだしてから学ぶのが常であり、やることが学ぶことである。「民衆」から軍人までには距離があるが、それは万里の長城ではなく、急速になくすことのできるものである。革命をやり、戦争をやることが、その距離をなくす方法である。学ぶことと使うことが容易でないというのは、徹底的に学び、それを使いこなすことが容易でないということである。民衆がすぐに軍人になれるというのは、入門が別にむずかしいものではないということである。この二つのことを総合するならば、中国の古いことわざにあるように「世間に難事はなく、ただ心がけ次第だ」ということになる。入門がむずかしくないならば、ふかくきわめることもできるわけで、ただ心がけ次第であり、よく学びさえすればよいのである。
 軍事上の法則は、他の事物の法則とおなじように、客観的実際〔1〕のわれわれの頭脳への反映である。われわれの頭脳以外のすべては、客観的実際である。したがって、学習と認識の対象は敵と味方の二つの面をふくんでおり、この二つの面はいずれも研究の対象とみなすべきであって、研究の主体は、われわれの頭脳(思想)だけである。味方については明るいが、敵については暗い人がいる。また敵については明るいが、味方については暗い人もいる。こうした人たちは、いずれも戦争の法則を学ぶことと使うことの問題を解決することはできない。中国古代の大軍事学者孫武子〔2〕の書物には「かれを知り、おのれを知れば、百戦あやうからず」ということばがあるが、これは、学ぶことと使うことの二つの段階をふくめていったのであり、客観的実際における発展法則を認識することから、これらの法則にしたがって、自分の行動を決定し、当面している敵を克服することまでをふくめていったものであり、われわれは、このことばを軽視してはならない。
 戦争は、民族と民族、国家と国家、階級と階級、政治集団と政治集団とのあいだの相互の闘争の最高形態であり、戦争にかんするすべての法則は、いずれも戦争をする民族、国家、階級、政治集団が自己の勝利をたたかいとるために使うものである。戦争の勝敗が、主として戦う双方の軍事、政治、経済、自然などの諸条件によって決定されることはいうまでもない。だがそれだけではなく、戦う双方の主観的指導の能力によっても決定される。軍事家には物質的条件のゆるす範囲をこえて戦争の勝利をはかることはできないが、物質的条件のゆるす範囲内で、戦争の勝利をたたかいとることはできるし、またそうしなければならない。軍事家の活躍する舞台は、客観的物質的条件の上にきずかれているが、しかし軍事家は、この舞台一つで、精彩にとんだ、勇壮な多くの活劇を演出できるのである。したがって、われわれ赤軍の指導者は、既定の客観的な物質的基礎、すなわち軍事、政治、経済、自然などの諸条件の上で、われわれの威力を発揮し、全軍をひっさげて、民族の敵と階級の敵をうちたおし、このわるい世界を改造しなければならない。ここではわれわれの主観的指導の能力が使えるし、また使わなければならない。われわれは、赤軍のどんな指揮員にも、盲滅法にぶつかっていく向こうみず屋になることをゆるさない。われわれは、赤軍の指揮員の一人ひとりが、すべてを圧倒する勇気をもつだけでなく、戦争全体の変化、発展を駆使できる能力をもつ、勇敢で、聡明な英雄となることを提唱しなければならない。指揮員は、戦争という大海をおよいでいるのであって、沈まないようにし、確実に、段どりをおって、対岸に到達するようにしなければならない。戦争を指導する法則は、つまり戦争の水泳術である。
 以上がわれわれの方法である。
 第二章 中国共産党と中国革命戦争

 一九三四年にはじまった中国革命戦争は、すでに二つの段階、すなわち一九二四年から一九二七年までの段階と、一九二七年から一九三六年までの段階を経過した。これからのちは抗日民族革命戦争の段階である。この三つの段階の革命戦争は、いずれも中国のプロレタリア階級とその政党である中国共産党が指導している。中国革命戦争の主要な敵は、帝国主義と封建勢力である。中国のブルジョア階級は、歴史のある時点では、革命戦争に参加することができても、その私利私欲性と、政治的、経済的に独立性を欠いていることによって、中国革命戦争を徹底的勝利の道にみちびくのをのぞまないし、またみちびくこともできない。中国の農民大衆と都市の小ブルジョア大衆は、革命戦争に積極的に参加することをのぞむとともに、また戦争を徹底的に勝利させることをのぞんでいる。かれらは革命戦争の主力軍である。だが、かれらの小生産者的特徴が、かれらの政治的視野を制約している(一部の失業者大衆は無政府的な思想をもっている)ので、かれらは戦争の正しい指導者になることはできない。したがって、プロレタリア階級がすでに政治の舞台にあらわれてきた時代では、中国革命戦争を指導する責任は、中国共産党の肩にかかってこざるをえない。このようなときには、どんな革命戦争でも、プロレタリア階級と共産党の指導がないか、あるいはその指導にそむけば、その戦争はかならず失敗する。なぜなら、半植民地的な中国の社会各階層と各種の政治集団のなかで、すこしも狭隘《きょうあい》性や私利私欲性をもたず、もっとも遠大な政治的視野と組織性をそなえており、しかも、もっとも謙虚に世界の先進的プロレタリア階級およびその政党の経験をとりいれて、それを自分の事業に用いることができるものは、プロレタリア階級と共産党以外にはないからである。したがって、プロレタリア階級と共産党だけが、農民、都市小ブルジョア階級とブルジョア階級を指導して、農民、小ブルジョア階級の狭隘性を克服し、失業著大衆の破壊性を克服することができ、またブルジョア階級の動揺と不徹底性を克服して(共産党が政策上であやまりをおかさなければ)、革命と戦争を勝利にみちびくことができるのである。
 一九二四年から一九二七年までの革命戦争は、基本的にいうと、国際プロレタリア階級と中国のプロレタリア階級およびその政党の、中国の民族ブルジョア階級およびその政党にあたえた政治的影響と政治的協力のもとですすめられたものである。ところが、革命と戦争が危急の瀬戸ぎわにたっしたとき、まず、大ブルジョア階級の裏切りによって、同時にまた革命の陣営内の日和見主義者が革命の指導権を自発的に放棄したことによって、このときの革命戦争は失敗した。
 一九二七年から現在までの土地革命戦争は、新しい状況のもとですすめられた。戦争の敵は、たんに帝国主義だけでなく、大ブルジョア階級と大地王の同盟もそうであった。民族ブルジョア階級は大ブルジョア階級の追随者となった。この革命戦争を指導するものは、ただ共産党だけであり、共産党は革命戦争の絶対的な指導権をすでに確立した。共産党のこの絶対的な指導権が、革命戦争を最後まで堅持するもっとも主要な条件である。共産党のこのような絶対的な指導がなければ、革命戦争にこのような堅持性があるなどとは思いもおよばない。
 中国共産党は、中国の革命戦争を勇敢に断固として指導しており、十五年の長い年月をつうじて〔3〕、共産党こそが人民の友であって、人民の利益をまもるため、人民の自由と解放のために、一日として革命戦争の最前線に立たない日はなかったことを全国人民にしめしてきた。
 中国共産党は、苦難にめげず奮闘してきた自己の経歴によって、また何十万の英雄的な党員や何万の英雄的な幹部の流した血の犠牲によって、全民族数億のあいだで、偉大な教育的役割をはたしてきた。革命闘争における中国共産党の偉大な歴史的成果によって、こんにち、民族の敵の侵入という危急の瀬戸ぎわに立たされている中国は、滅亡から救われる条件をもつようになった。この条件とは、つまり大多数の人民から信任され、長期にわたって人民の考査をうけてえらびだされた政治指導者をもつようになったことである。現在、共産党のいうことは、他のどんな政党のいうことよりも人民によくうけいれられる。中国共産党の過去十五年にわたる苦難にめげない奮闘がなかったならば、あらたな亡国の危険を救うことは不可能である。
 中国共産党は、革命戦争のなかで、陳独秀《チェントウシウ》〔4〕の右翼日和見主義と李立三《リーリーサン》の「左」翼日和見主義〔5〕の二つのあやまりのほかに、さらに、つぎの二つのあやまりをも犯した。その一は、一九三一年から一九三四年までの「左」翼日和見主義〔6〕である。このあやまりは、土地革命戦争にきわめて重大な損失をあたえ、五回目の反「包囲討伐」においては、敵にうち勝つことができなかったばかりか、逆に根拠地をうしない、赤軍をよわめる結果をまねいた。このあやまりは、一九三五年一月、遵義《ツンイー》でひらかれた拡大中央政治局会議のときに是正された。その二は、一九三五年から一九三六年までの張国燾《チャンクォタオ》の右翼日和見主義〔7〕である。このあやまりは、党と赤軍の規律を破壊するまでに発展し、一部の赤軍主力に重大な損失をあたえた。しかし、党中央の正しい指導と、赤軍内の党員、指揮員、戦闘員の自覚によって、ついにそのあやまりも是正された。これらすべてのあやまりは、われわれの党にとって、われわれの革命と戦争にとって、もちろん、不利なものであったが、ついには、われわれによって克服され、われわれの党と赤軍は、これらのあやまりを克服するなかで、いっそう強くきたえあげられた。
 中国共産党はあらしのような、光栄ある、勝利にかがやく革命戦争を指導してきたし、また指導しつづけている。この戦争は、中国を解放する旗じるしであるばかりでなく、国際的な革命的意義をもつものである。世界の革命的な人民の目はわれわれにそそがれている。新しい抗日民族革命戦争の段階で、われわれは、中国革命を達成にみちびくであろうし、また東方および世界の革命にたいしても深刻な影響をあたえるであろう。過去の革命戦争は、われわれが、マルクス主義の正しい政治路線を必要としているばかりでなく、マルクス主義の正しい軍事路線をも必要としていることを証明している。十五年にわたる革命と戦争によって、すでにこのような政治路線と軍事路線がねりあげられている。今後の戦争の新しい段階では、このような路線は、新しい環境にもとづいて、いっそう発展し、充実し、豊富になって、民族の敵にうち勝つ目的を達成するものとわれわれは信じている。歴史は、正しい政治路線と軍事路線が、自然に平穏裏に発生し発展するのではなくて、闘争のなかで発生し、発展するということをわれわれに教えている。一方で、それは「左」翼日和見主義と闘争しなければならないし、他方では、また右翼日和見主義とも闘争しなければならない。革命と革命戦争をあやうくするこれらの有害な偏向にたいして闘争し、それらを徹底的に克服しなければ、正しい路線の確立と革命戦争の勝利は不可能である。わたしがこのパンフレットでしばしばあやまったほうの意見にふれるのはそのためである。

第三章 中国革命戦争の特徴


     第一節 この問題の重要性

 中国革命戦争に特徴があることを認めず、知らす、あるいは知ろうともしないものは、赤軍が国民党軍と戦うことを戦争一般とおなじだとみなしているか、あるいはそれをソ連の国内戦争とおなじだとみなしている。レーニン、スターリンの指導したソ連の国内戦争の経験は世界的な意義をもっている。すべての共産党は、中国共産党も同様であるが、この経験と、レーニン、スターリンがこの経験を理論的に総合したものとを指針としている。だが、このことは、われわれの条件のもとで、この経験を機械的につかうべきだというのではない。中国の革命戦争は多くの面で、ソ連の国内戦争とは異なったそれ自身の特徴をもっている。こうした特徴を考慮にいれなかったり、あるいは否定したりすることは、もちろんあやまりである。この点は、われわれの十年にわたる戦争のなかですでに完全に証明されている。
 われわれの敵も、かつてそれに似たようなあやまりをおかした。かれらは赤軍と戦争するには、ほかの戦争とはちがった戦略と戦術が必要であることを認めなかった。かれらは、自分たちの各方面での優勢をたのみにして、われわれを軽視し、いつもの戦法を固執した。これが一九三三年の敵の四回目の「包囲討伐」の時期、およびそれ以前の状況であり、その結果は、かれらのたびかさなる失敗をまねいた。国民党軍のなかで、いちばんさきにこの問題について新しい意見をだしたのは、国民党の反動将軍柳維垣《リウウェイユァン》で、のちには戴岳《タイユエ》がいる。かれらの意見はついに蒋介石《チァンチェシー》によって採用された。これが、蒋介石の盧山《ルーシャン》軍官訓練団〔8〕および五回目の「包囲討伐」で実施した反動的な新しい軍事原則〔9〕のうまれた過程である。
 ところが、敵がその軍事原則を赤軍との作戦状況に適応するように変えているとき、われわれの隊列には、逆に「いつものやり方」にもどる人たちがあらわれた。かれらは一般的な状況の方へもどることを主張した。そして、どのような特殊状況も理解することをこばみ、赤軍の血戦の歴史の経験をこばみ、帝国主義と国民党の力を軽視し、国民党軍の力を軽視し、敵が採用した反動的な新しい原則など、目にはいらないかのようであった。その結果は、陝西《シャンシー》・甘粛《カンスー》辺区以外のすべての革命根拠地を失い、赤軍を三十万から数万に減少させ、中国共産党の党員を三十万から数万に減少させ、国民党地域における党の組織をほとんど全部失ってしまった。要するに、きわめて大きな歴史的懲罰をうけたわけである。かれらはマルクス・レーニン主義者と自称しているが、じつはマルクス・レーニン主義を少しも身につけていない。レーニンは、マルクス主義のもっとも本質的なものとマルクス主義の生きた魂は、具体的状況にたいする具体的分析にある〔10〕といっている。われわれのこれらの同志はまさにこの点をわすれていたのである。
 このことからわかるように、中国革命戦争の特徴を理解しなければ、中国革命戦争を指導することができず、中国革命戦争を勝利の道にみちびくことはできない。

第二節 中国革命戦争の特徴はなにか

 では、中国革命戦争の特徴はなにか。
 わたしは、主要な特徴が四つあるとおもう。
 第一の特徴は、中国が政治的、経済的発展の不均等な半値民地の大国であり、また、一九二四年から一九二七年までの革命をへていることである。
 この特徴は、中国革命戦争に発展と勝利の可能性があることをしめしている。一九二七年の冬から一九二八年の春にかけて、中国の遊撃戦争が発生してまもなく、湖南《フーナン》、江西《チァンシー》両省の省境地域――井岡《チンカンシャン》山の同志のなかの一部のものから、「赤旗はいったいいつまでかかげられるか」という疑問がだされたとき、われわれはこのことを指摘した(党の湖南・江西省境地区第一回代表大会〔11〕)。なぜなら、これはもっとも基本的な問題であり、中国の革命根拠地と中国赤軍が存在し発展しうるかどうかという問題にこたえなければ、われわれは一歩も前進することができなかったからである。一九二八年の中国共産党第六回全国代表大会では、もう一度この問題についてこたえた。それいらい、中国の革命運動は、正しい理論的基礎をもつようになった。
 いま、この問題を分解して見ることにしよう。
 中国の政治的、経済的発展が不均等であること――貧弱な資本主義的経済と根づよい半封建的経済が同時に存在しており、近代的な若干の商工業都市と停滞している広大な農村が同時に存在しており、何百万かの産業労働者と古い制度の支配のもとにある何億もの農民、手工業労働者とが同時に存在しており、中央政府を統轄している大軍閥と各省を統轄している小軍閥が同時に存在しており、反動軍隊のなかには、蒋介石配下のいわゆる中央軍と各省の軍閥配下のいわゆる雑軍との、こうした二種類の軍隊が同時に存在しており、また若干の鉄道、航路、自動車道路と、いたるところにある一輪車しか通れない道、徒歩でしか通れない道、徒歩でさえ通りにくい道とが同時に存在している。
 中国は半植民地国であること――帝国主義の不統一が、中国の支配者集団のあいだの不統一をひきおこしている。いくつかの国が支配している半植民地国と、一国が支配している植民地とのあいだには、差異がある。
 中国は大国であること――「東が暗くても西は明るく、南で消えても北で燃えている」のであるから、動きまわる余地がないなどと心配することはない。
 中国は大革命を一度へていること――赤軍の種子が用意されており、赤軍の指導者、すなわち共産党が用意されており、また革命に一度参加したことのある民衆が用意されている。
 だから、われわれは、中国は革命を一度へた、政治的、経済的発展の不均等な半植民地の大国で、これが中国革命戦争の第一の特徴であるというのである。この時徴は、われわれの政治上の戦略と戦術とを基本的に規定しているばかりでなく、われわれの軍事上の戦略と戦術をも基本的に規定している。
 第二の特徴は敵が強大なことである。
 赤軍の敵である自民党は、どんな状況にあるのか。それは政権をうばいとっており、しかもその政権を相対的に安定させている政党である。それは全世界の主要な反革命諸国の援助をえている。それは、すでに自己の軍隊を、中国の歴史上のどの時代の軍隊とも異なった、世界の近代国家の軍隊とほぼおなじものに改造しており、武器やその他の軍需物資の供給が、赤軍よりずっとまさっているばかりでなく、兵員の多い点でも、中国の歴史上のどの時代の軍隊をもしのぎ、世界のどの国家の常備軍をもしのいでいる。その軍隊と赤軍をくらべると、じつに雲泥の差がある。国民党は全中国の政治、経済、交通、文化等の中枢あるいは命脈をにぎっており、その政権は全国的な政権である。
 中国の赤軍は、このような強大な敵を前にしている。これが中国革命戦争の第二の特徴である。この特徴は、赤軍の作戦が戦争一般や、ソ連の国内戦争や、北伐戦争とも多くのちがいをもたざるをえないようにしている。
 第三の特徴は赤軍が弱小なことである。
 中国の赤軍は、第一次大革命が失敗したのちにうまれ、遊撃隊からはじまったものである。それは、中国の反動的時期におかれていたばかりでなく、また、世界の反動的資本主義諸国が、政治的、経済的に比較的安定した時期におかれていた。
 われわれの政権は、山地あるいは僻地《へきち》にある分散し孤立した政権であり、いかなる外部からの援助もない。革命根拠地の経済的条件と文化的条件は、国民党地区にくらべるとおくれている。革命根拠地には農村と小さな町しかない。その地区は、はじめは非常に小さかったし、その後も、そう大きくなってはいない。しかも根拠地はつねに流動しており、赤軍にはほんとうに強固な根拠地はない。
 赤軍の数はすくなく、その武器はおとっており、食糧、被服などの物資の供給は非常に困難である。
 この特徴は、前にあげた第二の特徴とするどい対照をなしている。赤軍の戦略戦術は、こうしたするどい対照の上にうまれたのである。
 第四の特徴は、共産党の指導と土地革命である。
 この特徴は、第一の特徴の必然的な結果である。この特徴から、二つの面の状況がうまれている。一つの面では、共産党の指導と農民の援助があるので、中国革命戦争は、中国および資本主義世界の反動的時期におかれてはいても、勝利できるものである。われわれには農民の援助があるので、根拠地は小さいながらも大きな政治的威力をもっており、膨大な国民党政権に厳然と対立し、国民党の進攻にたいして、軍事上大きな困難をあたえている。共産党の指導のもとにある赤軍の成員は、土地革命のなかからうまれ、自分たちの利益のために戦っており、しかも、指揮員と戦闘員のあいだが政治的に一致しているので、赤軍は小さいながらも、強大な戦闘力をもっているのである。
 もう一つの面では、自民党がこれとするどい対照をなしていることである。自民党は土地革命に反対しているので、農民の援助がない。その軍隊は多いが、兵士大衆、小生産者出身の多くの下級幹部たちに、みずからすすんで国民党のために命をなげださせるようにすることはできない。将校と兵士のあいだは政治的にくいちがっており、これがその戦闘力をよわめている。

  第三節 ここからわれわれの戦略戦術はうまれる

 大革命を一度へている、政治的、経済的に不均等な半植民地の大国、強大な敵、弱小な赤軍、土地革命――これらが中国革命戦争の四つの主要な特徴である。これらの特徴が、中国革命戦争の指導路線およびその戦略戦術上の多くの原則を規定している。第一の特徴と第四の特徴は、中国赤軍の発展が可能であり、また、敵にうち勝つことが可能であることを規定している。第二の特徴と第三の特徴は、中国赤軍が、急速に発展することが不可能であること、また、急速に敵にうち勝つことが不可能であること、すなわち戦争が持久的であること、しかもへたをすると失敗する可能性もあることを規定している。
 これが、中国革命戦争の二つの側面である。この二つの側面は同時に存在している。すなわち、有利な条件もあれば、また困難な条件もある。これが中国革命戦争の根本法則であり、数多くの法則はすべて、この根本法則からうまれたものである。十年にわたるわれわれの戦争の歴史は、この法則の正しさを証明している。目をあげていてもこれらの根本的性質をもつ法則の見えないものには、中国の革命戦争を指導することはできず、赤軍の戦いを勝利させることもできない。
 戦略方向を正しく規定して、進攻にあたっては冒険主義に反対し、防御にあたっては保守主義に反対し、移動にさいしては逃走主義に反対すること、赤軍の遊撃主義には反対するが、赤軍の遊撃性は認めること、戦役での持久戦と戦略での速決戦に反対し、戦略での持久戦と戦役での速決戦を認めること、固定した作戦線と陣地戦に反対し、固定しない作戦線と運動戦を認めること、撃破戦に反対し、殲滅《せんめつ》戦を認めること、戦略方向における二つのゲンコツ主義に反対し、一つのゲンコツ主義を認めること、大後方制度に反対し、小後方制度を認めること、絶対的な集中指揮に反対し、相対的な集中指揮を認めること、軍事一点ばりの観点や流賊主義〔12〕に反対し、赤軍が中国革命の宣伝者であり、組織者であることを認めること、匪賊《ひぞく》主義〔13〕に反対し、厳格な政治的規律を認めること、軍閥主義に反対し、限度のある民主的生活と権威のある軍事規律を認めること、正しくないセクト主義の幹部政策に反対し、正しい幹部政策を認めること、孤立政策に反対し、すべての、可能性のある同盟者をかちとることを認めること、最後に、赤軍をふるい段階にとどめることに反対し、赤軍が新しい段階に発展するようたたかいとること  これらすべての原則的問題を正しく解決することが要求されるのは、非常にあきらかである。われわれがこれからのべる戦略問題は、中国革命戦争の十年にわたる血戦史の経験にてらして、これらの問題を十分に説明するものである。

 第四章 「包囲討伐」と反「包囲討伐」
          ――中国国内戦争の主要な形態

 十年このかた、遊撃戦争がはじまったその日から、どの独立の赤色遊撃隊、あるいは赤軍でも、またどの革命根拠地でも、その周囲では、いつも敵の「包囲討伐」にであった。敵は赤軍を怪物とみなして、あらわれるとすぐにつかまえようとする。数はいつも赤軍をつけまわし、とりかこもうとする。このような形態は、過去十年間、変わっていず、もし、民族戦争が国内戦争にとってかわらないなちは、敵が弱小となり、赤軍が強大となるその日まで、このような形態はやはり変わることはない。
 赤軍の活動は、反「包囲討伐」の形態をとっている。勝利というのは、主として反「包囲討伐」の勝利をいうのであり、これが、戦略と戦役での勝利である。一回の反「包囲討伐」が一つの戦役であって、それは通常大小いくつかの、ないし数十の戦闘からなりたっている。一回の「包囲討伐」を基本的にうちやぶらないかぎり、たとえ多くの戦闘で勝利をえたとしても、戦略上あるいは全戦役上で勝利したとはいえない。十年間の赤軍の戦争の歴史は、反「包囲討伐」の歴史であった。
 敵の「包囲討伐」と赤軍の反「包囲討伐」は、たがいに進攻と防御という二種類の戦闘形態をとっており、これは、古今東西のあらゆる戦争と変わりはない。だが、中国の国内戦争の特徴は、この二つの形態が長期にわたってくりかえされることにある。一回の「包囲討伐」において、敵は進攻をもって赤軍の防御にたちむかい、赤軍は防御をもって敵の進攻にたちむかう、これが反「包囲討伐」戦役の第一段階である。敵が防御をもって赤軍の進攻にたちむかい、赤軍が進攻をもって敵の防御にたちむかう、これが反「包囲討伐」戦役の第二段階である。いずれの「包囲討伐」にもこの二つの段階があり、しかも、それは長期にわたってくりかえされるのである。
 長期間のくりかえしとは、戦争と戦闘形態のくりかえしのことをいう。これは事実であって、だれにも一目ですぐわかることである。「包囲討伐」と反「包囲討伐」は、戦争形態のくりかえしである。敵が進攻をもってわれわれの防御にあたり、われわれが防御をもって敵の進攻にあたる第一段階と、敵が防御をもってわれわれの進攻にあたり、われわれが進攻をもって敵の防御にあたる第二段階とは、毎回の「包囲討伐」のなかでの戦闘形態のくりかえしである。
 戦争と戦闘の内容となると、それは単純にくりかえされるものではなく、毎回ちがうものである。このこともまた事実であって、だれにも一目ですぐわかることである。ここでの法則は、「包囲討伐」と反「包囲討伐」の規模が一回ごとに大きくなり、状況も一回ごとに複雑となり、戦闘も一回ごとにはげしくなることである。
 しかし、それに起伏がないわけではない。五回目の「包囲討伐」ののちは、赤軍の力がひどくよわまり、南方の根拠地が全部失われ、赤軍が西北にうつり、南方にいたときのように、国内の敵を脅かすもっとも重要な地位をしめなくなったので、「包囲討伐」の規模と状況と戦闘は、わりあいに、小さくなり、単純になり、緩和してきた。
 赤軍の失敗とは何か。戦略上からいえば、反「包囲討伐」が根本的に成功しなかったばあいにだけ失敗といえるのであって、しかも、それは、局部的な、一時的な失敗だとしかいえない。なぜなら、国内戦争の根本的な失敗とは、赤軍全体の壊滅ということであるが、そのような事実はないからである。広大な根拠地の喪失と赤軍の移動は、一時的な、局部的な失敗であって、その局部には、党と軍隊と根拠地の九〇パーセントがふくまれてはいたが、永久的な、全面的な失敗ではない。このような事実を、われわれは防御の継続とよび、敵の追撃を進攻の継続とよぶのである。これはつまり、「包囲討伐」と反「包囲討伐」の闘争において、われわれが防御から進攻に転ずることがなく、逆に、敵の進攻によって、われわれの防御がうちやぶられたので、われわれの防御は退却に変わり、敵の進攻は追撃に変わったということである。だが、赤軍が新しい地区に到達したとき、たとえば、われわれが江西省などの地方から陝西省にうつってきたとき、「包囲討伐」のくりかえしが、ふたたびあらわれた。だからわれわれは、赤軍の戦略的退却(長征)は、赤軍の戦略的防御の継続であり、敵の戦略的追撃は、敵の戦略的進攻の継続であるというのである。
 中国の国内戦争は、古今東西のどの戦争ともおなじように、基本的な戦闘形態には攻撃と防御の二種類しかない。中国の国内戦争の特徴は、「包囲討伐」と反「包囲討伐」の長期にわたるくりかえしと、攻撃と防御というこの二種類の戦闘形態の長期にわたるくりかえしであり、しかも、そのなかには、一万余キロにおよぶ偉大な戦略的移動(長征)〔14〕というようなものがふくまれている。
 敵の失敗というのも、こうしたものである。かれらの戦略的失敗とは、かれらの「包囲討伐」がわれわれにうちやぶられ、われわれの防御が進攻に変わり、敵が防御の地位に転じて、もう一度「包囲討伐」をするには、あらためて組織しなおさなければならないことである。敵は全国的な支配者であり、われわれよりずっと強大であるから、われわれのような一万余キロの戦略的移動というような状況はおこらない。しかし、部分的にはそういうことがあった。若干の根拠地で赤軍から包囲攻撃をうけた白色拠点内の敵が、その包囲を突破して、白色区に退却し、そこであらためて進攻を組織しなおすというようなことはおきたことがある。もし、国内戦争が長びき、赤軍の勝利する範囲がいっそう拡大したときには、このようなことは多くなるだろう。だが、かれらには人民の援助がなく、将校と兵士とのあいだも一致していないから、その結果は赤軍とくらべることはできない。かれらがもし赤軍の長距離移動をまねるならば、きっと消滅されてしまうにちがいない。
 一九三〇年の李立三路線の時期に、李立三同志は、中国の国内戦争の持久性がわからなかったので、中国の国内戦争が発展するなかで、「包囲討伐」につぐ「包囲討伐」、それにたいする粉砕につぐ粉砕という、長期にわたるくりかえしの法則(当時、すでに湖南・江西辺区の三回にわたる「包囲討伐」、福建《フーチェン》省の二回にわたる「包囲討伐」などがあった)をみいだせなかった。したがって、全国の革命を急速に勝利させようとはかり、赤軍がまだ幼少であった時期に、武漢攻撃を命令し、全国で武装蜂起をおこなうことを命令した。これで「左」翼日和見主義のあやまりをおかしたのである。
 一九三一年から一九三四年にあらわれた「左」翼日和見主義者も、「包囲討伐」のくりかえしというこの法則を信じなかった。湖北《フーペイ》・河南《ホーナン》・安徽《アンホイ》辺区根拠地では、いわゆる「補助軍」説がうまれた。ここの一部の指導的な同志は、三回目の「包囲討伐」に失敗したのちの国民党は、補助軍にすぎなくなったので、赤軍を攻撃するには、帝国主義がみずから出馬して主力軍を担当するほかないと考えた。こうした評価のもとでの戦略方針が、赤軍の武漢攻撃であった。このことは、江西省の一部の同志が赤軍に南昌《ナンチャン》攻撃をよびかけ、各根拠地を一つにつなぐ活動に反対し、敵をふかく誘いいれる作戦に反対し、省都および中心都市の奪取をその省での勝利の基点にしたこと、および「五回目の『包囲討伐』に反対する闘争は、革命の道と植民地の道との決戦である」とみなしたことなどと、原則的に一致するものである。この「左」翼日和見主義は、湖北・河南・安徽辺区の四回目の「包囲討伐」に反対する闘争と江西省中央地区の五回目の「包囲討伐」に反対する闘争におけるあやまった路線の根をつちかうことになり、敵のきびしい「包囲討伐」を前にして、赤軍を手も足もだせない状態に追いこみ、中国革命に非常に大きな損失をもたらした。
 「包囲討伐」のくりかえしを認めない「左」翼日和見主義と直接結びついて、赤軍はどうあっても防御手段をとるべきではないという意見もあるが、これもまた、まったくあやまりである。
 革命と革命戦争は進攻的である――このようないいかたには、もちろんそれなりの正しさがある。革命と革命戦争が、発生から発展へ、小から大へ、政権をもたない状態から政権の奪取へ、赤軍のない状態から赤軍の創設へ、また革命根拠地のない状態から革命根拠地の創設へとすすむには、どうしても進攻的でなければならない。保守的であってはならず、保守主義の偏向には反対すべきである。
 革命と革命戦争は進攻的ではあるが、また防御も後退もある――こうしたいいかたこそが完全に正しいのである。進攻のための防御、前進のための後退、正面へのための側面へ、直進のための迂回《うかい》、このようなことは、多くの事物の発展過程でさけることのできない現象であり、まして、軍事行動ではなおさらのことである。
 以上のべた二つの論断のうち、まえの論断は、政治のうえでいえば正しいことにもなるが、それを軍事のうえにもってくるとまちがいになる。政治のうえでも、それはある状況のとき(革命が前進するとき)にだけ正しいのであって、他の状況(革命が退却するとき、たとえば一九〇六年のロシア〔15〕、一九二七年の中国のような全面的退却のとき、また一九一八年のブレスト条約当時のロシア〔16〕にのような局部的退却のとき)にもってくるとまちがいになる。あとの方の論断だけが、全面的に正しい真理である。一九三一年から一九三四年までの「左」翼日和見主義が、軍事的防御手段をとることに機械的に反対したことは、非常に幼稚な考えにすぎない。
 「包囲討伐」のくりかえしという形態は、いつ柊わるのか。わたしの考えでは、もし国内戦争が長びくとすれば、それは敵と味方の強弱の対比に根本的な変化がおきたときである。もし赤軍がひとたび敵よりいっそう強大になったときには、こういうくりかえしは終わりをつげてしまう。そのときには、われわれが敵を包囲討伐し、敵は反包囲討伐をくわだてることになるが、しかし政治的、軍事的な条件は、敵に赤軍とおなじような反「包囲討伐」の地位をしめることをゆるさないだろう。そのときになれば、「包囲討伐」のくりかえしという形態は、たとえ完全に終わったとはいえなくても、一般的に終わったということは断言してよい。

 第五章 戦略的防御

 この題目のもとで、わたしはつぎの諸問題を説明しようとおもう。(一)積極的防御と消極的防御、(二)反「包囲討伐」の準備、(三)戦略的退却、(四)戦略的反攻、(五)反攻開始の問題、(六)兵力集中の問題、(七)運動戦、(八)速決戦、(九)殲滅戦。


     第一節 積極的防御と消極的防御

 なぜ防御から説きはじめるのか。一九二四年から一九二七年までの、中国の第一次民族統一戦線が失敗してから、革命はきわめて深刻な、きわめて残酷な階級闘争となった。敵は全国的な支配者であり、われわれはわずかな小部隊しかもっていなかったので、はじめから敵の「包囲討伐」とのたたかいとなった。われわれの進攻は、「包囲討伐」をうちやぶることと密接に結びついており、われわれの発展の運命は、「包囲討伐」をうちやぶることができるかどうかにかかっている。「包囲討伐」をうちやぶる過程は、往々にして、まがりくねったもので、思うままにまっすぐすすめるものではない。まず第一の、しかも重大な問題は、どういうふうに力を保存し、敵をやぶる機会を待つかということである。したがって、戦略的防御の問題は、赤軍の作戦のなかで、もっとも複雑なもっとも重要な問題となる。
 十年間にわたるわれわれの戦争のなかでは、戦略的防御の問題について、二種類の傾向がしばしばうまれた。一つは敵をみくびることであり、もう一つは敵におびえることである。
 敵をみくびったために、多くの遊撃隊は失敗したし、赤軍は、敵の何回かの「包囲討伐」をうちやぶることができなかった。
 革命的な遊撃隊ができたばかりのころ、指導者は敵味方の情勢にたいして、とかく正しくない見方をしがちであった。かれらは、自分たちがあるところで、突然武装蜂起をおこして勝利したか、または反乱をおこして白軍からでてきて、一時的に環境が非常に順調であったことしか見なかったため、あるいはきびしい環境にありながら、それが目にはいらなかったために、とかく敵をみくびりがちであった。他面、かれらは自分の弱点(経験がなく力が弱いといった点)についても理解していなかった。敵が強く、味方が弱いということは、もともと客観的に存在している現象であるが、そのことをその人たちは考えようとせず、防御と退却をとりあげずに、一途《いちず》に進攻だけをとりあげて、防御について精神的に武装を解除したため、行動をまちがった方向にみちびいた。多くの遊撃隊は、このために失敗した。
 これとおなじような原因で、赤軍が「包囲討伐」をうちやぶれなかった例としては、一九二八年の広東《コヮントン》省海豊《ハイフォン》・陸豊《ルーフォン》地域での赤軍の失敗〔17〕があり、また一九三二年、湖北・河南・安徽辺区の赤軍が、国民党は補助軍となったという説にひきずられて、四回目の「包囲討伐」に反対する闘争で、余裕のある措置をとる能力を失ってしまった事実がある。
 敵におびえて挫折《ざせつ》した例は多い。
 敵をみくびるものとは反対に、ある人びとは敵を強く見すぎ、味方を弱く見すぎたため、必要でない退却の方針をとり、おなじように防御について精神的に武装を解除してしまった。その結果、あるいは遊撃隊の失敗となり、あるいは赤軍のいくつかの戦役での失敗となり、あるいは根拠地の喪失となった。
 根拠地を失ったもっともいちじるしい例は、五回目の「包囲討伐」に反対する闘争において江西省の中央根拠地を失ったことである。ここでのあやまりは、右翼的な観点からうまれている。指導者たちは敵を虎のようにおそれ、敵の後方へ攻めいるもともと有利な進攻もしきれなければ、また、大胆に思いきって敵をふかく誘いいれ、それを包囲して殲滅することもしきれずに、いたるところで防備をし、一歩一歩さがっては抵抗した結果、根拠地全部を失い、赤軍に一万二千余キロの長征をおこなわせることになった。しかし、このようなあやまりには、しばしばある種の極左的な、敵を軽視するあやまりが先立っていた。一九三二年にとられた中心都市進攻の軍事的冒険主義こそ、のちに敵の五回目の「包囲討伐」に対処するにあたって、消極的な防御路線をとるようになった根源である。
 敵におびえた極端な例は、退却主義の「張国燾路線」である。赤軍第四方面軍の西路軍の黄河《ホヮンホー》以西での失敗〔18〕は、この路線の最終的な破産であった。
 積極的防御は攻勢防御ともいい、決戦防御ともいう。消極的防御は専守防御ともいい、単純防御ともいう。消極的防御は、実際には、にせの防御であって、積極的防御だけがほんとうの防御であり、反攻と進攻のための防御である。わたしの知っているかぎりでは、価値のあるどんな兵書でも、また、わりあい聡明などんな軍事家でも、古今東西をとわず、戦略的にも、戦術的にも、消極的防御に反対しないものはない。もっともおろかなものか、あるいは、もっとも思いあがったものだけが、消極的防御を万能の宝としてあがめるのである。しかし、世間にはあいにくとこういう人間がいて、こういうことをしでかす。これは戦争のなかでの過失であり、軍事上における保守主義のあらわれであり、われわれは断固としてこれに反対しなければならない。
 あとからおこって、しかも急速に発展した帝国主義国、すなわち、ドイツ、日本両国の軍事家は、戦略的防御に反対し、戦略的進攻の利益を積極的に鼓吹している。このような思想は、中国の革命戦争には全然適しない。帝国主義ドイツ、日本の軍事家たちは、防御の重要な弱点として、人心をふるいたたせることができず、逆に人心を動揺させるという点を指摘している。これは、階級間の矛盾がはげしく、反動的な支配階層ないし政権をにぎっている反動的な政党だけが、戦争から利益をうける国家についていうことである。われわれの事情はこれとちがう。われわれは被抑圧者であり、被侵略者であるから、革命の根拠地をまもれ、中国をまもれ、というスローガンのもとで、最大多数の人民を結集し、心を一つにして戦うことができる。ソ連の国内戦争の時期における赤軍もやはり防御形態のもとで、敵にうち勝った。かれらは、帝国主義諸国が白衛軍を組織して進攻してきたときに、ソビエトをまもれというスローガンのもとで戦ったばかりでなく、十月蜂起を準備した時期にも、やはり首都をまもれというスローガンのもとで軍事動員をおこなった。正義の戦争での防御戦はすべて、政治的異分子をまひさせる作用をもっているばかりでなく、おくれた人民大衆を動員して戦争に参加させることができるのである。
 武装蜂起をおこしたのちは、かたときも進攻を停止してはならない〔19〕とマルクスがいっているのは、敵の不備に乗じて突如蜂起した大衆が、反動的支配者に、政権保持、政権奪回の機会をあたえず、この一瞬を利用して、国内の反動的支配勢力を、手のうつすきもないようにたたかなければならないのであって、すでにえた勝利に満足して敵をみくびったり、敵にたいする進攻をゆるめたり、あるいはたじろいで進まず、みすみす、敵を消滅する時機を失い、革命の失敗をまねくようなことがあってはならないという意味である。これは正しい。だが、これは、敵味方の双方がすでに軍事的に敵対していて、しかも、敵が優勢で、敵からの圧迫をうけているときでも、革命党員は防御の手段をとってはならないという意味ではない。もし、そんなふうに考えるものがあるとすれば、それこそ、一番のおろか者である。
 われわれの過去の戦争は、全体としていえば、国民党にたいする進攻であるが、軍事上では「包囲討伐」をうちやぶる形態をとった。
 軍事上からいうと、われわれの戦争は防御と進攻を交互に応用したものである。われわれにとって、問題の鍵は「包囲討伐」をうちやぶることにあるので、防御のあとに進攻があるといってもよいし、あるいは防御のまえに進攻があるといってもよい。「包囲討伐」をうちやぶるまでは防御であり、「包囲討伐」をうちやぶったとたんに進攻がはじまるが、それは一つのことの二つの段階にすぎず、しかも敵の「包囲討伐」はそのつど、つぎの「包囲討伐」と連結している。この二つの段階のうち、防御の段階は進攻の段階よりいっそう複雑であり、いっそう重要である。この段階は、「包囲討伐」をどのようにうちやぶるかについての多くの問題をふくんでいる。その基本的原則は、消極的防御に反対し、積極的防御を認めることである。
 国内戦争からいうと、もし赤軍の力が敵をしのいだときには、一般的に、戦略的防御をとる必要はなくなる。そのときの方針は戦略的進攻だけである。このような変更は、敵味方の力の全般的な変化によるものである。そのときになれば、のこされた防御の手段は、ただ局部的なものでしかない。

 第二節 反「包囲討伐」の準備

 敵の毎回の計画的な「包囲討伐」にたいして、もしわれわれが、必要な、また十分な準備をしていなければ、必然的に受動的地位におちいる。そのときになってあわてて応戦するのでは、勝利の確実性はない。したがって、敵が「包囲討伐」を準備しているそのときに、われわれも反「包囲討伐」の準備をすることが、ぜひとも必要である。われわれの隊列内にかつてあらわれたような準備に反対する意見はふきだすほど幼稚なものである。
 ここには、論争を引きおこしやすい一つの困難な問題がある。それは、いつ味方の進攻をうちきって、反「包囲討伐」の準備段階にうつるかということである。なぜなら、味方が勝利の進攻をつづけ、敵が防御の地位にあるときには、敵の「包囲討伐」の準備は秘密のうちにすすめられており、かれらがいつ進攻をはじめるかをわれわれが知るのはむずかしいからである。われわれが反「包囲討伐」の準備活動を早めにはじめると、進攻の利益が減少することはまぬがれず、しかも、ときには、赤軍や人民にいくらかわるい影響をあたえることもある。なぜなら、準備段階での主要な段どりは、軍事上の退却準備と、退却準備のための政治的動員をおこなうことだからである。ときには、準備が早すぎたため、敵を待つことになり、ながいこと待っても、敵がやってこないので、ふたたび自分から進攻をはじめなければならなくなることもある。また、われわれがふたたび進攻をはじめたばかりのときに、ちょうど敵の進攻の開始にであい、困難な立場に立たされることもある。したがって、準備をはじめる時機を選ぶことは、重要な問題となる。このような時機の断定には、敵味方の双方の状況と、両者間の関係からみていかなければならない。敵の状況を知るためには、敵側の政治、軍事、財政および社会世論などの各方面から資料をあつめなければならない。またこれらの資料を分析するときには、敵の力全体を十分に評価しなければならず、敵の過去における失敗の程度を過大にみてはならないが、敵の内部の矛盾、財政上の困難、過去の失敗による影響などを評価しないようなことがけっしてあってはならない。自分の側についてはL 過去における勝利の程度を過大にみてはならないが、過去の勝利がもたらした影響を十分評価しないようなこともけっしてあってはならない。
 しかし、準備をはじめる時機の問題では、一般的にいうと、おそすぎるよりも、むしろ早すぎる方がよい。なぜなら、後者の方が、前者よりも損失がすくなく、その利益としては、備えあれば憂いなしで、根本的に不敗の地位にたつからである。
 準備の段階での主要な問題は、赤軍の退却準備、政治的動員、新兵の募集、財政および糧秣《りょうまつ》の準備、政治的異分子の処置などである。
 赤軍の退却準備ということは、つまり、赤軍を退却に不利な方向にむかわせないこと、あまり遠くまで進攻しないこと、赤軍をあまり疲労させないことである。これは敵が大挙進攻してくる前夜において、主力としての赤軍がとるべき措置である。このばあい、赤軍の注意力は、主として、戦場の創造、資材の調達、自己の拡大と訓練などの計画にそそがれなければならない。
 政治的動員は、反「包囲討伐」闘争における第一の重要な問題である。それは、敵の進攻が必至であり切迫していることと、敵の進攻が人民にたいして重大な危害をもたらすことについて、また、敵の弱点や、赤軍のすぐれた条件、われわれはかならず勝利しなければならないという決意、われわれの活動の方向などについて、赤軍の成員と根拠地の人民に、明確に、決然と、十分に説明することである。そして赤軍および全人民に、「包囲討伐」反対と、根拠地防衛のためにたたかうようよびかける。軍事機密をのぞいて、政治的動員は、公然とやるべきであり、しかも、革命の利益を擁護する可能性のあるすべての人びとにゆきわたるようにつとめなければならない。その重要な環は幹部を説得することである。
 新兵の募集は二つの面から考えていかなければならない。一つは、人民の政治的自覚の程度と人口状態を配慮することであり、もう一つは、その時の赤軍の状況と反「包囲討伐」戦役全体のなかでの赤軍の消耗の可能な限度を配慮することである。
 財政と糧秣の問題が、「包囲討伐」反対闘争において重大な意義をもっていることはいうまでもない。「包囲討伐」の期間が長びくかもしれないことを配慮しなければならない。主として赤軍、さらには、革命根拠地の人民が反「包囲討伐」闘争全体で必要とする物資の最低限度を計算しておくべきである。
 政治的異分子にたいして、かれらを警戒しないのはいけないが、かれらの裏切りをおそれるあまり、過度の警戒手段をとるのもいけない。地主と商人と富農のあいだには、区別をつけるべきであるが、主要なことは、かれらに政治の面から説明し、かれらの中立化をたたかいとるとともに、民衆を組織してかれらを監視することである。逮捕などのきびしい手段をとってもよいのは、ごく少数のもっとも危険な分子にかぎられる。
 反「包囲討伐」闘争の勝利の度合いは、準備段階での任務の完成の度合いと密接に結びついている。敵をみくびることからうまれる準備怠慢、敵の進攻におびえることからうまれるあわてふためきは、いずれも断固として反対すべきわるい偏向である。われわれの必要とするものは、熱烈であるが沈着な態度と、緊張しているが秩序のある活動である。

第三節 戦略的退却

 戦略的退却は、劣勢な軍隊が優勢な軍隊の進攻を前にして、その進攻を急速に撃破できないとみたばあいに、軍事力を保存し、敵をやぶる機会を待つためにとる計画的な戦略的段どりである。ところが、軍事冒険主義者は、「敵を国門の外でふせぐ」ということを主張し、このような段どりにあくまで反対する。
 だれでも知っているように、ふたりの拳法《けんぽう》家が立ちむかったばあい、かしこい拳法家はよく相手に一歩をゆずるが、おろかな者は、猛烈ないきおいで、初手にすべての手をだしつくしてしまい、その結果、ゆずったほうに打ちたおされることがしばしばある。
 『水滸《すいこ》伝』にでてくる供師範は柴進の家で林冲を打とうとして、「さあ来い、さあ来い」とつづけざまに叫んだが、その結果、供師範は、一歩ゆずった林冲にすきを見ぬかれて、ひとけりで、けたおされてしまった〔20〕
 春秋時代の魯国が斉国〔21〕と戦ったとき、魯の荘公ははじめ、斉軍の疲れるのを待たずに、出撃しようとしたが、曹[歳+リ]《そうけい》にとめられ、「敵が疲れればわれわれは襲う」方針をとって、斉軍に勝ち、中国の戦史で、弱軍が強軍に勝った有名な戦例をつくった。歴史家左丘明〔22〕の記述によるとつぎのようである。

 「春、斉の師《し》、我を伐《う》つ。公、まさに戦わんとす。曹[歳+リ]、見《まみ》えんことをこわんとす。その郷人曰《いわ》く、『肉食の者、これを謀《はか》る。またなんぞ間《かん》せん。』[歳+リ]曰く、『肉食の者は鄙《いや》し。いまだ遠く謀ることあたわず』と。すなわち入《い》りて見ゆ。問う、『何をもって戦わんとするや。』公曰く、『衣食の安んずるところ、敢《あえ》て専《もっぱら》にせず、かならず以《もっ》て人に分《わか》てり。』こたえて曰く、『小恵にしていまだ[彳+扁]からず、民従わざらん。』公曰く、『犠牲玉帛《ぎせいぎょくばく》、敢て加《くわ》えざるなり、かならず信を以てせり。』こたえて曰く、『小信にしていまだ孚《ふ》ならす。神福《さいわい》せざるなり。』公曰く、『小大の獄、察することあたわずといえども、かならず情を以てせり。』こたえて曰く、『忠の属《たぐい》なり、以て一戦すべし。戦わばすなわち請《こ》う従《したが》わん』と。公これとともに乗りて長勺《ちょうしゃく》に戦う。公まさにこれに鼓《つづみ》うたんとす。[歳+リ]曰く、『いまだ可ならず』と。斉人三たびうつ。[歳+リ]曰く、『可なり』と。斉の師敗績す。公まさにこれに馳《は》せんとす。[歳+リ]曰く、『いまだ可ならす』と。くだりてその轍《わだち》をみ、軾《しょく》に登りてこれを望みて曰く、『可なり』と。遂に斉の師をおう。すでにかちて、公その故を問う。こたえて曰く、『それ戦いは勇気なり。一たび鼓うちて気をおこし、ふたたびして衰え、みたびして竭《つ》く。彼竭き、我盈《み》つ。故にこれにかてり。それ大国ははかりがたし。伏あらんことをおそれたり。われ、その轍をみるに乱れ、その旗を望むになびきたり。故にこれをおえり』と。」〔23〕

 当時の状況は、弱国が強国に抵抗していたのである。この文章のなかには、戦いの前の政治上の準備――人民の信頼をうる点が指摘されており、反攻に転ずるのに有利な陣地――長勺のことがのべられており、反攻をはじめるのに有利な時機――敵軍の勇気が尽き、わが軍の勇気がみらている時のことがのべられており、追撃開始の時機――わだちがみだれ、旗がたおれている時のことがのべられている。これは大きな戦役ではないが、同時に、戦略的防御の原則が説かれている。中国の戦史には、この原則にあって勝利をかちえた実例は非常に多い。楚と漢の成皐《せいこう》の戦い〔24〕、新と漢の昆陽の戦い〔25〕、袁紹《えんしょう》と曹操《そうすお》の官渡の戦い〔26〕、呉と魏《ぎ》の赤壁の戦い〔27〕、呉と蜀《しょく》の彝陵《いりょう》の戦い〔28〕、秦と晋の[シ+肥]水《ひすい》の戦い〔29〕など有名な大戦は、いずれも双方に強弱のちがいがあるばあい、弱者が先に一歩をゆずり、あとからうってでて相手を制したために、戦いに勝ったものである。
 われわれの戦争は、一九ニ七年の秋からはじまったが、当時はぜんぜん経験がなかった。南昌蜂起〔30〕、広州《コヮンチョウ》蜂起〔31〕は失敗した。秋収蜂起〔32〕では、湖南・湖北・江西省境地区の赤軍も、数回敗戦をなめて、湖南、江西省境の井岡山地区にうつった。その翌年の四月、南昌蜂起の失敗後保存されていた部隊も、湘南省南部をへて、井岡山にうつってきた。しかし、一九二八年の五月からは、当時の状況にかなった、素朴な性質をもつ、遊撃戦争の基本原則がうまれていた。それは「敵が進んでくれはわれわれは退き、敵がとどまればわれわれはなやませ、敵が疲れればわれわれは襲い、敵が退けばわれわれは追いかける」という四句の要訣《ようけつ》である。この四句の要訣の軍事原則は、李立三路線以前の党中央が承認したものである。そののち、われわれの作戦原則には、一歩すすんだ発展がみられた。江西省の根拠地での一回目の反「包囲討伐」のときになって、「敵をふかく誘いいれる」という方針が提起され、しかも応用して成功した。敵の三回目の「包囲討伐」にうち勝ったころになると、赤軍の作戦原則全部ができあがっていた。このときは、軍事原則の新しい発展段階で、内容は大いに豊富になり、形式にもまた多くの変化があった。主としては、いままでの素朴性をのりこえたことであるが、基本的な原則はやはりさきの四句の要訣であった。四句の要訣には反「包囲討伐」の基本原則が包括され、戦略的防御と戦略的進攻の二つの段階が包括され、防御のばあいには、また戦略的退却と戦略的反攻の二つの段階が包括されている。のちのものは、それが発展したにすぎない。
 ところが、一九三二年の一月から、すなわち、「三回にわたる『包囲討伐』が粉砕されたのち、一省または数省でまず勝利をたたかいとる」という重大な原則上のあやまりをふくむ党の決議が発表されてからは、「左」翼日和見主義者は正しい原則にたいして闘争をすすめ、最後には、この一連の正しい原則を廃して、これとは反対のいわゆる「新原則」あるいは「正規の原則」という別の一体系をつくりあげた。これ以後は、いままでのは正規のものといわれなくなり、それは否定すべき「遊撃主義」というものになった。「遊撃主義」反対の空気が、まる三年間も支配した。その第一段階は軍事冒険主義であり、第二段階では軍事保守主義にうつり、最後の第三段階では逃走主義に変わってしまった。党中央が一九三五年一月、貴州《コイチョウ》省の遵義で拡大政治局会議をひらくにいたって、はじめてこのあやまった路線の破産が宣告され、まえの路線の正しさが、あらためて確認された。そうなるまでにはなんと大きな代価を払ったことか!
 「遊撃主義」にやっきになって反対する同志たちはいう。敵をふかく誘いいれるのは、多くの土地を放棄することで、まちがいである。まえには、それで勝利をえたことがあるが、いまはもう、まえとはちがっているではないか。しかも、土地を放棄しないで敵に勝てるなら、なおよいではないか。敵の地区、あるいはわが方の地区と敵の地区とが境を接しているところで、敵にうち勝つ方が、なおよいではないか。いままでのものは、なんらの正規性もなく、遊撃隊のつかう方法にすぎない。現在、われわれの国家はすでに成立しており、われわれの赤軍も正規化している。われわれと蒋介石との戦争は、国家と国家との戦争であり、大軍と大軍との戦争である。歴史はくりかえすべきではなく、「遊撃主義」的なものは全部なげすてるべきである。新しい原則は「完全なマルクス主義」的なものである。いままでのものは、遊撃隊が山のなかでつくりあげたもので、山のなかにはマルクス主義はない。新しい原則は、これとは反対で、「一をもって十にあたり、十をもって百にあたり、勇猛果敢で、勝利に乗じてまっしぐらに追撃し」、「全線にわたって出撃し」、「中心都市を奪いとり」、「二つのゲンコツで敵をうつ」ものである。敵が進攻したときに対処する方法は、「敵を国門の外でふせぎ」、「先んじて相手を制し」、「家財道具をぶちこわされないようにし」、「一寸の土地をも失わず」、「兵を六路にわける」ことであり、「革命への道と植民地への道との決戦」であり、短距離強襲、堡塁戦、消耗戦、「持久戦」であり、大後方主義、絶対的集中指揮であり、そして最後は、大規模な引っ越しである。しかも、これらのことを承認しない者には、懲罰をくわえ、日和見主義というレッテルをはる、等々である。
 疑いもなく、これらすべての理論と実際は、みなあやまったものである。これは主観主義である。これは環境の順調なときの小ブルジョア階級の革命的熱狂と革命せっかち病のあらわれであり、情勢が困難になると、状況の変化につれて、体当たり主義、保守主義、さらに逃走主義へとつぎつぎに変わっていく。これこそ、向こうみず屋としろうとの理論と実践であり、マルクス主義のにおいはいささかもないもので、反マルクス主義的なものである。
 ここでは戦略的退却についてのべるだけであるが、江西省ではこれを「敵をふかく誘いいれる」といい、四川《スーチョワン》省では「陣地のひきしめ」といっている。従来の軍事理論家や実際家も、これを弱軍が強軍と戦うばあい、戦争開始の段階でとらなければならない方針だと認めないものはない。外国の軍事家も、かつて「戦略的守勢に立つ作戦においては、たいてい、まず不利な決戦をさけ、有利な状況にしてからはじめて決戦する」といっている。これは完全に正しいし、われわれもこれになんらつけ加えるものはない。
 戦略的退却の目的は、軍事力を保存し、反攻を準備することにある。退却が必要なのは、強敵の進攻を前にして、もし一歩ゆずらなければ、かならず軍事力の保存をあやうくするからである。ところが前には、多くの人が、退却を「日和見主義的な、防御一点ばりの路線」とみなして、断固反対した。われわれの歴史は、すでに、こうした反対が完全にあやまりであることを証明している。
 反攻を準備するには、味方に有利で、敵に不利ないくつかの条件をえらび、つくりださなければならず、敵味方の力の対比に変化をおこさせてのち反攻の段階にはいるのである。
 われわれの過去の状況からいえば、だいたい退却の段階で、つぎの諸条件のうち、すくなくとも二つ以上の条件を獲得しなければ、味方に有利で敵に不利だということにはならず、反攻に転ずることができるようにはならない。その条件とは――
 (一)赤軍を積極的に援助する人民があること
 (二)作戦に有利な陣地があること
 (三)赤軍主力を全部集中すること
 (四)敵の弱い部分を発見すること
 (五)敵を疲労させ、士気を阻喪させること
 (六)敵にあやまちをおかさせること
 人民というこの条件は、赤軍にとってもっとも重要な条件である。根拠地の条件とはこれである。しかも、この条件から、第四、第五、第六の条件も容易につくられ、あるいは発見されるのである。だから、敵が大挙して赤軍を進攻してくるときには、赤軍はいつも白色区から根拠地に退却するのである。なぜなら、根拠地の人民は、赤軍が白軍とたたかうのをもっとも積極的に援助するからである。根拠地でも、周縁地区と中心地区とではちがいがある。中心地区の人民は情報もれの防止、偵察、輸送、戦争への参加などの点で、周縁地区の人民よりすぐれている。だから「退却の終点」としては、これまで、江西省での一、二、三回目の反「包囲討伐」のときには、いずれも人民という条件がもっともよいか、あるいは比較的によい地区をえらんだ。根拠地のこうした特徴が、赤軍の作戦に、通常の作戦とくらべて、非常に大きな変化をおこさせ、それがのちに敵に堡塁主義をとることをよぎなくさせた主要な原因ともなった。
 進攻してくる軍隊を、どうしてもこちらのおもうつぼにはまりこむように、退却する軍隊が、自分のおもいどおりの有利な陣地をえらべるということ、これが内線作戦のすぐれた条件の一つである。弱軍が強軍にうち勝つには、陣地というこの条件を吟味しなければならない。しかし、この条件だけではまだたらず、それに呼応する他の条件がなお要求される。まず第一は人民という条件である。そのつぎには、攻撃しやすい敵、たとえば敵が疲労しているとか、あるいはまちがいをおこしたとか、あるいは前進してくる敵のその部隊が、比較的に戦闘力に欠けているとか、が要求される。これらの条件がそなわらないときは、たとえすぐれた陣地があっても、それをすておいて、自分のおもいどおりの条件がみたされるまで、ひきつづき退却するよりほかない。白色区には、すぐれた陣地がないわけではないが、人民というすぐれた条件がない。もし、他の条件もまだつくりだされていないか、あるいはまだ発見されていないばあいには、赤軍は根拠地にむかって退却せざるをえない。根拠地の周緑地区と中心地区の区別も、だいたいこれとおなじである。
 地方部隊と牽制兵力をのぞいたすべての突撃兵力は、全部集中するのが原則である。戦略上守勢をとっている敵を進攻するときには、赤軍は往々にして分散しているものである。しかし、ひとたび敵がわれわれにむかって大挙進攻してきたときには、赤軍はいわゆる「求心的退却」をおこなう。退却の終点には、よく根拠地の中央部がえらばれる。しかし、ときには前部がえらばれ、ときには後部がえらばれるが、それは状況によって決定される。このような求心的退却は、赤軍の主力全体を完全に集中させることができる。
 弱軍の強軍にたいする作戦での、もう一つの必要な条件は、弱い部分をえらんでたたくことで
ある。しかし、敵が進攻しはじめたとき、分進してくる敵のどの部隊がもっとも強く、どの部隊がつぎに強く、どの部隊がもっとも弱く、どの部隊がつぎに弱いのか、われわれにはわからないことがよくあり、偵察の過程が必要である。その目的をたっするには長い時間を必要とすることがしばしばである。これもまた、戦略的退却が必要とされる理由の一つである。
 もし、進攻してくる敵が、その数の上でも、また強さの上でも、はるかにわが軍をしのいでおり、われわれがその強弱の対比に変化をおこさせようとするなら、三回目の「包囲討伐」において、蒋介石のある旅団の参謀長がいったように「引きずりまわされて、ふとったものはやせ、やせたものは死ぬ」とか、また「包囲討伐」軍西路総司令陳銘枢《チェンミンシュー》がいっているように、「国軍はどこにいってもまっ暗で、赤軍はどこにいっても明るい」という状態になるまで、敵が根拠地にふかくはいりこみ、根拠地で苦しみをなめつくすのを待たなければ、その目的はたっせられない。こうなったときには、敵軍は強くても、大いに弱まっており、兵力は疲労し、士気は阻喪して、多くの弱点をみな暴露してくる。赤軍は弱くても、鋭気をやしない力をたくわえ、休息をえて疲労した敵を待つことになる。このときの双方の対比は、しばしば、ある程度の均衡状態にたっしているか、あるいは敵軍の絶対的優勢が相対的優勢に、わが軍の絶対的劣勢が相対的劣勢に変わるかし、さらには、敵軍がわが軍より劣勢になり、わが軍がかえって敵軍より優勢になることさえある。江西省での三回目の反「包囲討伐」のとき、赤軍は一種の極端な退却をしたが(赤軍は根拠地の後部に集中した)、それは当時の「包囲討伐」軍が、赤軍の十倍をこえていたので、どうしてもそうしなければ、敵に勝つことができなかったのである。孫子が「その気、鋭なるときをさけ、おとろえ、つきはてたるをうつ」といっているのは、敵の優勢をそぐために敵を疲労させ、士気を阻喪させることをいうのである。
 退却で要求される最後の一つは、敵にあやまちをしでかさせ、発見することである。どんな能力のある敵軍の指揮員でも、相当長い時間のあいだに、少しもあやまちをおかさないというのは不可能であること、したがって、われわれが敵のすきに乗ずる可能性はかならず存在していることを知らなければならない。われわれ自身が、ときには、まちがうこともあれば敵に乗ぜられるすきをあたえることもあるのとおなじように、敵もあやまりをおかすのである。しかもわれわれは、孫子のいっている「形をしめす」(東に形をしめして西を撃つこと、すなわち東を撃つとみせかけて西を撃つこと)などのように、人為的に敵軍にあやまちをしでかさせることができる。こうするには、退却の終点をある地区に限定してはならない。その地区にまで退いても、まだ乗ずるすきがないばあいには、乗ずる「すき」が敵にあらわれるのを待つために、さらに何歩か退かなければならない。
 退却でもとめる有利な条件とは、だいたい以上のべたようなものである。しかし、このことはこれらの条件が完全にそなわらないと、反攻がおこなえないということではない。これらの条件を同時にそなえることは不可能であり、しかもそのような必要もない。しかし、敵の当面の情勢に応じて、若干の必要な条件をたたかいとることは、弱い兵力で強い敵にあたる内線作戦をおこなう軍隊が心をそそがなければならないところであり、このことについての反対意見は正しくない。
 退却の終点をけっきょくどこに決定するかは、全体の情勢から出発しなければならない。局部の情勢からみて反攻に転ずることが有利でも、もし同時に全体の情勢からみてわが方に有利でないばあいは、これによって、退却の終点を決定することは、正しくない。なぜなら反攻をはじめるには、それからのちの変化までを計算にいれなければならないからである。ところがわれわれの反攻は、いつも局部からはじまるのである。退却の終点は、ときには根拠地の前部にえらぶべきであり、たとえば、江西省の二回目と四回目の反「包囲討伐」、陝西、甘粛省での三回目の反「包囲討伐」のときがそれである。ときには根拠地の中部にえらぶべきであり、たとえば、江西省の一回目の反「包囲討伐」のときがそれである。ときには根拠地の後部になることもあり、たとえば、江四省の三回目の反「包囲討伐」のときがそれである。これらはいずれも局部の情勢を全体の情勢と結びつけて決定したものである。江西省の五回目の反「包囲討伐」では、局部の情勢にも、全体の情勢にも、目をむけなかったことが原因で、わが軍は全然退却について考えもしなかったが、これはまったく向こうみずのむちゃなやり方である。情勢は条件によってつくられる。局部の情勢と全体の情勢との結びつきを観察するには、局部と全体とにあらわれているそのときの敵味方の双方のもつ条件が、わが軍の反攻開始にある程度有利であるかどうかによって、判断しなければならない。
 退却の終点は、根拠地では、だいたい前部、中部、後部の三種類にわけられる。それなら、白色区での作戦を頭から拒否するのであろうか。そうではない。われわれが白色区での作戦を拒否するのは、ただ敵軍の大規模な「包囲討伐」に対処するばあいだけについていうのである。敵味方の強弱の差がはなはだしいばあいに、われわれは軍事力を保存し敵をやぶる機会を待つという原則のもとで、はじめて根拠地に退却することを主張し、敵をふかく誘いいれることを主張するのであり、反攻に有利な条件をつくるか、あるいは発見するには、どうしてもそうしなければならないからである。もし状況がそれほどきびしくないばあい、または、赤軍が根拠地においてさえまったく反攻のはじめようがないほど状況がきびしいばあい、あるいは反攻が不利で、局面の変化をもとめるためさらに退却する必要があるばあいには、退却の終点を白色区にえらぶことも認めるべきであり、たとえ、われわれがこれまでこのような経験をほとんどもたなかったにしても、すくなくとも理論的には認めるべきである。
白色区での退却の終点も、だいたい三種類にわけられる。第一は根拠地の前方であり、第二は根拠地の側面であり、第三は根拠地の後方である。第一種の終点としては、たとえば、江西省の一回目の反「包囲討伐」のさいに、もし赤軍の内部の不統一と地方の党の分裂がなかったならば、すなわち李立三路線とAB団〔33〕という二つの困難な問題が存在しなかったならば、吉安《チーアン》、南豊《ナンフォン》、樟樹《チャンシュー》の三地点のあいだに兵力を集中して、反攻をおこなうことも考えられることであった。なぜなら、当時[章+”ふゆがまえ”の下に”貢”]江《カンチァン》と撫水《フーショイ》の二つの川のあいだ〔34〕を前進してきた敵の兵力は、赤軍にくらべてそれほど優勢でもなかった(十万対四万)からである。人民という条件は、根拠地ほどよくなかったが、陣地という条件があり、しかも敵が各路にわかれて前進していたのに乗じて、それを各個撃破することもできたのである。第二種の終点としては、たとえば江西省での三回目の反「包囲討伐」のとき、かりに当時敵の進攻の規模があのように大きくなく、そして敵の一路の部隊が福建、江西両省の境界にある建寧《チェンニン》、黎川《リーチョワン》、泰寧《タイニン》から前進し、この一路の部隊の力がまたわれわれの攻撃に手ごろのものであったならば、赤軍は千里も遠まわりして瑞金《ロイチン》をへて興国《シンクォ》へいく必要がなく、福建省西部の白色区に集結して、まずこの敵をうちやぶることも考えられる。第三種の終点としては、たとえばいまのべた江西省での三回目の反「包囲討伐」のとき、もし敵の主力が西にむかわずに、南にむかっていたとすれば、われわれはおそらく会昌《ホイチャン》、尋[鳥+”おおざと”]《シュインウー》、安遠《アンユァン》地区(そこは白色地域である)まで退却をよぎなくされ、敵をもっと南の方へ誘うことになったであろう。そのときには北部の根拠地内部にある敵軍はあまり多くないはずだから、赤軍は南から北にむけて根拠地内部の敵をたたくことができたであろう。だが、以上の説明はいずれも仮定であって、経験したものではないから、特殊なものとしてあつかうのはよいが、一般原則としてあつかってはいけない。敵が大規模な「包囲討伐」をおこなっているとき、われわれにとっての一般原則は、敵をふかく誘いいれることであり、根拠地に退却して戦うことであって、これは、われわれが、敵の進攻をうちやぶるいちばん確実なやり方だからである。
 「敵を国門の外でふせぐ」ことを主張する人たちは、退却によって土地を失い、人民に危害をあたえ(いわゆる「家財道具をぶちこわされる」)、対外的にもわるい影響をおよぼすということを理由にして、戦略的退却に反対する。五回目の反「包囲討伐」のとき、かれらはつぎのようにいった。われわれが一歩退くと、敵の堡塁は一歩まえにおしすすめられ、根拠地は日ましにちぢまっていって、回復できなくなる。敵をふかく誘いいれるということは、まえには役にたったとしても、敵が堡塁主義をとった五回目の「包囲討伐」では役にたたない。それで五回目の「包囲討伐」に対処するには、兵をわけて抵抗することと、短距離強襲の方法をとるよりほかない、と。
 これらの意見にこたえることはたやすく、われわれの歴史がすでにこたえをだしている。土地を失うという問題では、失ってこそ、失わなくてすむようになるということがよくあり、これが「とろうとすればまずあたえよ」の原則である。もしわれわれの失うものが土地で、得るものが敵にたいする勝利であり、そのうえ土地をとりもどし、さらに土地を拡大するならば、これはもうかる商売である。市場での取り引きでも、買う人は金を失わなければ、品物を手にいれることはできないし、売る人は品物を失わなければ、金を手にいれることはできない。革命運動がもたらす損失は破壊であるが、得るものは進歩的な建設である。睡眠と休息によって時間は失われるが、翌日の活動のエネルギーが得られる。もしこの理屈がわからず、睡眠をとることを拒否するようなおろか者がいるとすれば、その人は翌日は元気がなくなる。これはもとでを食いこむ商売である。敵の五回目の「包囲討伐」のときに、われわれがもとでを食いこんでしまったのはこのためである。一部の土地も失うまいとした結果、土地の全部を失ってしまった。エチオピアが叫歩もひかない戦争をやったことも、全国士を失う結果をまねいた。もちろん、エチオピアが失敗した原因は、たんにこの点だけではないが。
 人民に危害をあたえるという問題も、これとおなじ道理である。一部の人民の家でいくらかの家財道具を一時的にぶちこわされないと、全人民が長期にわたって家財道具をぶちこわされることになる。一時のわるい政治的影響をおそれるならば、長期のわるい影響を代価として受けとることになる。十月革命後、ロシアのボリシェビキ党が、もし「左翼共産主義者」の意見にしたがって、ドイツとの講和条約を拒否したならば、うまれたばかりのソビエトは若死にする危険があったであろう〔35〕
 革命的にみえるこのような極左的な意見は、小ブルジョア知識分子の革命焦燥病に由来しており、同時に、農民小生産者の局部的保守性にも由来している。かれらは全局をみわたす能力がなく、問題を一局部からしかみず、きょうの利益とあすの利益とを結びつけようとせず、部分の利益と全体の利益とを結びつけようとせず、一局部、一時期のものにしがみついて、どうしてもはなさない。たしかに、そのときの具体的な状況からみて、そのときの全局および全時期にとって利益のあるもの、とくに決定的な意義をもつ一局部および一時期は、すべてしっかりつかまえてはなすべきではない。そうでなければ、われわれは、なりゆき主義、あるいは放任主義になってしまう。退却には終点がなければならないというのは、こうした道理からである。しかし、けっして、小生産者的な近視眼にたよってはならない。われわれが学ばなければならないのは、ボリシェビキの聡明さである。われわれは眼力がたりないので、望遠鏡や顕微鏡の力を借りなければならない。マルクス主義の方法が政治上、軍事上での望遠鏡であり、顕微鏡である。
 もちろん、戦略的退却には困難がある。退却開始の時機の選定、退却の終点の選定、幹部や人民を政治的に説得することなど、いずれも困難な問題であり、解決しなければならないものである。
 退却開始の時機の問題は重要な意義をもっている。江西省の小回目の反「包囲討伐」でのわれわれの退却が、もし、ちょうどあのような時機でなかったならば、つまり、それよりおくれていたならば、すくなくともわれわれの勝利は、ある程度影響をうけていたであろう。退却は早すぎても、おそすぎても、もちろん損失をこうむる。だが一般的にいえば、早すぎるより、おそすぎるばあいの損失が大きい。適時に退却し、自分を完全に主動的な地位にたたせること、これは、退却の終点に到着したのち、部隊の態勢をととのえ、休息をえて疲労した敵を待って、反攻に転ずるうえに、きわめて大きな影響をもつものである。江西省で、敵の一回目、二回目、四回目の「包囲討伐」を粉砕した戦役では、いずれもゆうゆうと敵に対処した。ただ、ご三目の戦役だけは、二回目の戦役であのような惨雌を喫した敵が、新しい進攻をそんなに早くやるとはおもわなかったので(一九三一年五月二十九日に、われわれは二日の反「包囲討伐」の作戦を終結させたが、七月一日には、蒋介石はその三回目の「包開討伐」をはじめた)、亦車は、あわただしく回り道して集結することになり、そのためにすっかり疲れてしまった。どのようにその時機をえらぶかは、さきにのべた準備段階の開始の時機をえらぶのにとる方法とおなじように、もっぱら必要な資料をあつめることによって、敵味方の双方の大勢から判断するのである。
 戦略的退却で、幹部と人民にまだ経験がないばあい、また軍事指導の権威が、戦略的退却の決定権をごく少数の人ないしはひとりの手に集中し、しかも幹部の信服をうるまでにはいたっていないばあい、幹部と人民を説得するという問題は、きわめて困難な問題である。幹部が経験をもたず、戦略的退却を信じなかったために、一回目と四回目の反「包囲討伐」の初期でも、五回目の反「包囲討伐」の全時期でも、この問題で、大きな困難にぶつかった。一回目の反「包囲討伐」のときには、説得されるまでの幹部の意見は、李立三路線の影響によって、退却ではなくて進攻であった。四回目の反「包囲討伐」のときには、軍事的冒険主義の影響によって、幹部の意見は準備に反対であった。五回目の反「包囲討伐」のときには、幹部の意見は、はじめは敵をふかく誘いいれることに反対し軍事的冒険主義をつづける観点であったが、のちには軍事的保守主義に変わった。チベット族や回《ホイ》族〔36〕の地区ではわれわれの根拠地がうちたてられないことを信じなかった張国燾路線が、壁にぶちあたってからはじめて信じるようになったことも、その実例である。経験は幹部にとって必要なものであり、失敗はたしかに成功のもとである。だが、他人の経験を謙虚にうけいれることもまた必要である。なにもかも自分の経験にたよろうとし、そうでないと、他人の経験はうけいれないで自分の意見を固執するというなら、これこそ、正真正銘の「せまい経験主義」である。われわれの戦争が、こうしたことからうけた損失はすくなくなかった。
 人民が経験をもたないために、戦略的退却の必要を信じなかったことでは、江西省の一回目の反「包囲討伐」のときよりひどいものはない。当時、吉安、興国、永豊《ヨンフォン》等の県の党の地方組織や人民大衆で、赤軍の退却に反対しないものはなかった。しかし、このたびの経験をもってから、その後の何回かの反「包囲討伐」では、この問題はまったくなくなってしまった。人びとは、根拠地の損失、人民の苦痛は、一時的なものであることを信じるようになり、赤軍は「包囲討伐」をうちやぶることができるのだという確信をもつようになった。ところが、人民が信じるかどうかは、幹部が信じるかどうかと密接につながっているので、主要な、また第一の任務は、幹部を説得することである。
 戦略的退却の全役割は、反攻に転ずることにあり、戦略的退却は、戦略的防御の第一段階にすぎない。全戦略の決定的な鍵は、それにつづく反攻の段階で、勝つことができるかどうかにある。


第四節 戦略的反攻

 絶対的に優勢な敵の進攻にうち勝つには、戦略的退却の段階でつくりだされる、味方に有利で敵に不利な、敵が進攻をはじめたときにくらべて変化のおこった情勢にたよるのであって、そのような情勢は、いろいろな条件によってつくりだされる。この点については、まえにのべた。
 ところが、味方に有利で敵に不利な条件と情勢があるだけでは、まだ敵を失敗させたことにはならない。このような条件や情勢は、勝敗を決定する可能性をもっているが、それはまだ勝敗の現実性にはなっていないし、両軍の勝敗はまだ実現されていない。この勝敗の実現は、両軍の決戦にかかっている。両軍のうちいずれが勝ち、いずれが負けるかという問題を解決できるのは、決戦だけである。これが戦略的反攻の段階での全任務である。反攻は一つの長い過程であり、防御戦でのもっとも精彩にとんだ、もっとも活発な段階であり、防御戦の最終段階でもある。いわゆる積極的防御とは、主としてこのような決戦的性質をもつ戦略的反攻をさすのである。
 条件と情勢は、たんに戦略的返却の段階でつくりだされるばかりでなく、反攻の段階でもひきつづいてつくりだされる。そのときの条件と情勢は、まえの段階での条件や情勢と完全には同一形態、同一性質のものではない。
 同一形態、同一性質のものもありうる。たとえば、そのときの敵軍のいっそうの疲労と兵員の減少は、まえの段階での疲労と兵員の減少の継続にすぎない。
 だがまた、完全に新しい条件や情勢も必然的にあらわれてくる。たとえば、敵軍が一回または数回敗戦したばあい、そのときの味方に有利で敵に不利な条件には、たんに敵軍の疲労などだけではなくて、敵軍の敗戦という新しい条件がくわわってくる。情勢にも新しい変化がおこる。敵軍は軍隊の移動配置でごったがえし、その措置をあやまるので、両軍の優劣の関係も、まえとはちがってくる。
 もし、一回ないし数回の敗戦が敵軍にではなくて、わが軍にあったならば、条件と情勢の有利と不利も、逆になってしまう。つまり敵にとっての不利がすくなくなり、味方にとっての不利がうまれはじめ、拡大さえする。これもまた完全に新しい、まえとはちがったものである。
 どちら側が失敗しても、それは失敗した側のある新しい努力を直接に急速にひきおこす。すなわちそれによって、この新しくあらわれた味方に不利で敵に有利な条件と情勢からぬけだし、ふたたび味方に有利で敵に不利な条件と情勢をつくりだして相手を制圧するために、危険な局面の打開をはかる努力である。
 勝利した側の努力はこれとは反対で、味方にとっての有利な条件と情勢の増大、あるいは発展をもとめ、不利からぬけだし危険な局面を打開しようとする相手の企図を達成させないようにもとめて、自分の勝利をひろげ、敵にいっそう大きな損害をあたえるよう極力はかるのである。
 したがって、どちら側からいっても、決戦段階での闘争は、戦争全体あるいは戦役全体のなかで、もっとも激烈な、もっとも複雑な、もっとも変化にとんだものであり、またもっとも困難な、もっともつらいものであって、指揮の面からいえば、もっともむずかしい時である。
 反攻の段階には問題が非常に多く、主要なものとしては、反攻開始の問題、兵力集中の問題、運動戦の問題、速決戦の問題、殲滅戦の問題などがある。
 これらの問題の原則は、反攻についていっても、進攻についていっても、基本的な性質においてはちがいはない。この意味では、反攻はすなわち進攻だといえる。
 しかし、反攻はそのまま進攻だとはいえない。反攻の原則は、敵が進攻してきたときに応用されるものである。進攻の原則は、敵が防御しているときに応用されるものである。この意味では、また若干のちがいがある。
 重複をさけるために、ここでは作戦上の多くの問題をすべて戦略的防御の反攻の部でのべ、戦略的進攻の部では、他の問題について少しのべるだけであるが、前述の理由からして、われわれが応用するばあいには、その共通点を見おとしてはならないとともに、その相違点をも見おとしてはならない。

第五節 反攻開始の問題

 反攻開始の問題とは、いわゆる「緒戦」あるいは「序戦」の問題である。
 多くのブルジョア軍事家は、いずれも緒戦を慎重にすることを主張しており、これは、戦略的防御でも戦略的進攻でもおなじであるが、防御ではなおさらであるとしている。われわれもかつて、この問題をきびしく提起したことがある。江西省での敵の一回目から五回目までの「包囲討伐」に反対する作戦は、われわれに豊富な経験をあたえた。これらの経験について研究してみることは、無益ではない。
 一回目の「包囲討伐」のときには、敵は十万もの兵力をもって、北から南へ、吉安、建寧の線から八つの縦隊にわかれて赤軍の根拠地に進攻してきた。当時の赤軍は約四万で、江西省寧都《ニントウ》県の黄陂《ホワンピー》、小[イ+布]《シャオプー》地区に集結していた。
 当時の状況はつぎのようであった。(一)「討伐」軍は十万にすぎず、しかも蒋介石の直系は全然なく、全体の情勢はそれほどきびしいものではなかった。(二)吉安を防衛していた敵軍の羅霖《ルオリン》師団は、[章+”ふゆがまえ”の下に”貢”]江の西側にへだてられていた。(三)敵軍の公秉藩《コンピンファン》、張輝[王+贊]《チャンホイツァン》、譚道源《タンタオユァン》の三コ師団は吉安の東南、寧部の西北にある富田《フーティエン》、東固《トンクー》、竜岡《ロンカン》、源頭《ユァントウ》一帯を占領していた。張師団の主力は竜岡におり、護師団の主力は源頭にいた。富田、東固の両地では、人民がAB団にだまされて一時赤軍を信用せず、赤軍と対立していたので、ここは戦場としてえらぶには適しない。(四)敵軍の劉和鼎《リウホーティン》師団は遠く福建省白色区の建寧におり、江西省にはいってくるとはおもわれない。(五)敵軍の毛炳文《マオピンウェン》、許克祥《シュイコーシァン》の二コ師団は、広昌《コヮンチャン》と寧都のあいだの頭[”こざと”+皮]、洛口《ルオコウ》、東韶《トンシャオ》一帯にまですすんでいた。頭[”こざと”+皮]は白色区であり、洛口は遊撃区で、東韶にはAB団がいて、情報がもれやすかった。しかも、毛炳文、許克祥の部隊をうってから西にうって出ると、おそらく西の張輝[王+贊]、譚道源、公秉藩の三コ師団は集中するだろうから、決定的に勝利することは容易でなく、問題を最終的に解決することはできない。(六)張、譚両師団は、「包囲討伐」の主力軍で、「包囲討伐」軍総司令江西省主席魯滌平《ルーテイピン》の直系部隊であり、それに、張輝[王+贊]は前線総指揮であった。この二コ師団を消滅すれば、「包囲討伐」は基本的にうちやぶったことになる。この二コ師団はそれぞれ約一万四千で、しかも張師団はニヵ所にわかれていたので、われわれが一回に一コ師団ずつをたたけば、絶対的に優勢である。(七)張、譚両師団の主力がいた竜岡、源頭一帯は、われわれの集結地点に近接しており、しかも人民という条件がよかったので、隠蔽しながら近づくことができる。(八)竜岡にはすぐれた陣地がある。源頭は戦いにくい。もし敵が小[イ+布]を攻撃してわが軍の方によってきたとしても、陣地はやはりすぐれている。(九)われわれは竜岡の方向に最大の兵力を集中することができる。竜岡の西南方数十里の興国には、なお千余人の独立師団がおり、敵の背後に迂回することもできる。(十)わが軍が中間突破を実行し、敵の戦線に突破口をひらくと、敵の東と西の諸縦隊は、遠くはなれた二つの部分に分割される。以上の理由にもとづいて、われわれの第一戦は、張輝[王+贊]の主力二コ旅団と一つの師団司令部を攻撃することにきめ、しかも、それが成功して、師団長をふくめて九千人を全部捕虜にし、人ひとり、馬一匹ものがさなかった。この一戦の勝利によって敵はきもをつぶし、譚師団は東韶にむかって逃げ、許師団は頭[”こざと”+皮]にむかって逃げた。わが軍はさらに譚師団を追撃し、その半分を消滅した。五日間(一九三〇年十二月二十七日から一九三一年一月一日まで)に二回戦ったので、富田、東固、頭[”こざと”+皮]にいた敵はたたかれるのをおそれ、算をみだして撤退し、一回目の「包囲討伐」はそれで終わった。
 二回目の「包囲討伐」のときの状況はつぎのようであった。(一)「討伐」軍は二十万で、何応欽《ホーインチン》が総司令となり、南昌に駐屯していた。(二)一回目の「包囲討伐」のときとおなじように、蒋介石の直系部隊は全然なかった。蔡廷[金+皆]《ツァイティンカイ》の第十九路軍と、孫連仲《スンリェンチョン》の第二十六路軍、朱紹良《チューシャオリァン》の第八路軍がもっとも強いか、あるいは比較的強かったが、その他はみな比較的に弱かった。(三)AB団は一掃され、根拠地の人民は全部赤軍を支持していた。(四)王金鈺《ワンチンユイ》の第五路軍は北方からやってきたばかりで、おびえていて、その左翼にいた郭華宗《クォホワツォン》、[赤+”おおざと”]夢齢《ハオモンリン》の両師団もだいたいおなじ状態であった。(五)わが軍が富田から攻撃をはじめ、東にむかって横にないでいけば、福建省と江西省との境界地帯の建寧、黎川、泰寧地区で根拠地をひろげ、物資を徴集することができ、つぎの「包囲討伐」をうちやぶるのに便利であった。もし東から西にむかって攻撃していけば、[章+”ふゆがまえ”の下に”貢”]江にさえぎられ、戦局が終結したのちの発展の余地がない。またこの戦いが終わってから東に転じると、時間がかかり軍を疲労させる。(六)わが軍の人数は、前回の戦役のときよりすこし減っていた(三万余)が、四ヵ月のあいだに鋭気を養い力をたくわえてきていた。以上の理由にもとづいて、富田地区の王金鈺、公秉藩(合計十一コ連隊)をえらび、これと第一戦をまじえることにした。勝利ののち、ひきつづき郭軍をうち、孫軍をうち、朱軍をうち、劉軍をうった。十五日のあいだ(一九三一年五月十六日から三十日まで)に七百華里歩き、五回戦いをまじえて、銃二万余を分捕り、「包囲討伐」を思う存分うちやぶった。王金鈺の部隊をうったときは、蔡廷階と郭華宗の二つの敵部隊のあいだにいて、郭軍からは十余華里、蔡軍からは四十余華里であったので、あるものはわれわれが「袋小路につっこんだ」といったが、ついにそれをつきぬけたのである。それは主として根拠地という条件によるが、さらに敵軍の各部隊の不統一にもよる。郭師団がやぶれると、[赤+”おおざと”]師団も夜中に永豊まで逃げかえって難をのがれた。
 三回目の「包囲討伐」のときの状況はつぎのようであった。(一)蒋介石みずから出馬して総司令となり、その下に左、石、中の三路の総司令をおいた。中路は何応欽で、蒋介石とともに南昌に駐屯し、右路は陳銘枢で、吉安に駐屯し、左路は朱紹良で、南豊に駐屯した。(二)「討伐」軍は三十万であった。主力軍は陳誠《チェンチョン》、羅卓英《ルオチュオイン》、趙観濤《チャオコヮンタオ》、衛立煌《ウェイリーホヮン》、蒋鼎文《チァンティンウェン》など蒋介石直系の五コ師団で、どの師団も九コ連隊からなり、全部で約十万であった。そのつぎは蒋光[”乃”の下に鼎]、蔡廷[金+皆]、韓徳勤《ハントーチン》の三コ師団で、四万であった。そのつぎは孫連仲軍で、二万であった。そのほかもみな蒋の直系ではなく、比較的弱かった。(三)「討伐」の戦略は、二回目の「包囲討伐」での「一歩ごとに陣地をかためる」やり方とは大いにちがって、「長駆直進」であり、赤軍を[章+”ふゆがまえ”の下に”貢”]江に追いつめて消滅しようとねらっていた。(四)二回目の「包囲討伐」が終わってから三回目の「包囲討伐」がはじまるまでのあいだは、わずか一ヵ月しかなかった。赤軍が苦戦ののち、休息もとらず、補充もしないで(三万人前後)、千華里もまわり道して江西省南部根拠地の西部にある興国にもどって集結したときには、敵はすでに数路にわかれて、われわれの目のまえにせまっていた。以上のべた状況のもとで、われわれの決定した第一の方針は、興国から万安をへて富田の一点を突破したのち、西から東へ敵の後方連絡線を横にないでいき、敵の主力を江西省南部根拠地に深くはいらせて、役にたたなくさせることであり、これを作戦の第一段階とした。敵がむきをかえて北にむかう時になれば、ひどく疲労するにちがいないから、そのすきに乗じてうつことのできるものをうち、これを第三段階とした。この方針の核心は、敵の主力をさげながら、その弱い部分をうつことであった。ところが、わが軍が富田にむけて開進しているとき、敵に気づかれ、陳誠、羅卓英の二コ師団が富田にせまってきた。わが軍はやむなく計画を変え、興国県西部の高興[土+于]《カオシンユイ》にひきかえしたが、このとき、わが軍の集結のゆるされる地区は、この高興[土+于]およびその付近の地区数十平万華里しかのこっていなかった。集結したつぎの日に、東にむかい、興国県東部の蓮塘《リェンタン》、永豊県南部の良村《リァンツン》、寧都県北部の黄[”こざと”+皮]の方向に突進することを決定した。一日目は夜に乗じて、蒋鼎文師団と蒋光[”乃”の下に”鼎”]、蔡廷[金+皆]、韓徳勤の部隊とのあいだの四十華里の間隙《かんげき》地帯をぬって、蓮塘に移動した。二日目に、上官雲相《シャンコヮニュインシァン》の部隊(上官雲相はかれ自身の一コ師団と[赤+”おおざと”]夢齢師団を指揮していた)の前哨《ぜんしょう》と接触した。三日目に上官師団をたたいたのが第一戦で、四日目に[赤+”おおざと”]夢齢師団をたたいたのが第二戦で、その後三日間行軍して黄[”こざと”+皮]にたっし、毛炳文師団をたたいたのが第三戦である。三つの戦いとも勝利し、分捕った銃は万をこえた。このとき、西と南にむかって進んでいたすべての敵軍の主力は、みな方向を変えて東にむかい、黄[”こざと”+皮」に視線を集中して、猛烈な勢いで並進し、わが軍と戦うために密集した大包囲態勢をとってわが軍に近づいてきた。わが軍は、蒋光鼎、蔡廷[金+皆]、韓徳勤の部隊と陳誠、羅卓英の部隊とのあいだの二十華里の間隙にある大きな山をひそかにこえて、東側から西側の興国県内にもどって集結した。敵がそれを発見して、ふたたび西にむかって進んできた時には、わが軍はすでに半ヵ月ほどの休息をとっていたが、敵は飢えと疲れで士気は阻喪し、どうする力もなくなっていたので、決心して退却した。わが軍は、かれらの退却に乗じて蒋光[”乃”の下に”鼎”]、蔡廷[金+皆]、蒋鼎文、韓徳勤の部隊をうち、蒋鼎文の一コ旅団と韓徳勤の一コ師団を消滅した。蒋光鼎、蔡廷[金+皆]の二コ師団とは戦って対峙《たいじ》状態となり、かれらを逃がしてしまった。
 四回目の「包囲討伐」のときの状況はつぎのようであった。敵は三路にわかれて、広昌にむかって進み、主力は東路にあり、西路車の二コ師団はわれわれのまえに暴露され、しかも、わが軍の集結地点にせまっていた。このため、わが軍はまずその西路軍を宜黄《イーホヮン》南部の地区でうち、李明《リーミン》と陳時驥《チェンシーチー》の二コ師団を一挙に消滅することができた。敵が左路軍から二コ師団をさいて中路軍と呼応してふたたび前進してきたので、わが軍は、またその一コ師団を宜黄南部の地区で消滅することができた。この二回の戦いで一万余の銃を分捕り、このたびの「包囲討伐」を基本的にうちやぶった。
 五回目の「包囲討伐」では、敵は堡塁主義という新しい戦略をとって前進し、まず黎川を占領した。ところがわが方は、敵を根拠地の外で防ごうとして黎川の奪回をはかり、黎川以北の敵の堅固な陣地で、しかも白色区である硝石《シァオシー》をせめた。この戦いでは勝てず、さらにその東南の資渓橋《ツーシーチァオ》をうったが、ここも敵の堅固な陣地であり、白色区であったので、また勝てなかった。それからのちは、敵の主力と堡塁のあいだを戦闘をもとめて転々とし、完全に受動的な地位にたたされてしまった。五回目の反「包囲討伐」戦争は一年もの長いあいだをつうじて、主動的に活躍することが全然なかった。最後には江西省の根拠地から退去しなければならなくなった。
 上述の一回目から五回目までの反「包囲討伐」の時期におけるわが軍の作戦の経験は、防御の地位にある赤軍が強大な「討伐」軍をうちやぶるには、反攻の最初の戦闘が非常に大きな関係をもつものであることを証明している。最初の戦闘の勝敗は全局にきわめて大きな影響をあたえ、さらには最後の戦闘にまでずっと影響をおよぼすものである。したがって、つぎのような結論がえられる。
 第一には、かならず勝たなければならない。敵情、地形、人民等の条件がすべてわが方に有利で敵に不利であり、ほんとうに確実性があったとき手をくだすべきである。でなければ、むしろ退いて、自重して機会を待つべきである。機会というのはかならずあるもので、かるがるしく応戦してはならない。一回目の反「包囲討伐」のときは、まず譚道源師団をうとうとおもったが、敵が源頭のあの見とおしのきく高い陣地をはなれなかったばかりに、わが軍は二度も開進しながち、二度とも忍耐づよくひきかえし、何日かたったのち、うちやすい張輝[王+贊]師団をみつけた。二回目の反「包囲討伐」のときも、わが軍は東固まで開進したが、ただ王金鈺の部隊が富田の堅固な陣地をはなれるのを待つために、むしろ情報のもれる危険をおかしても、すべてのせっかちな早急攻撃の提案をしりぞけて、敵のすぐ近くにとどまり、二十五日もの長いあいだ待って、ついにその目的をたっした。三回目の反「包囲討伐」は、あのあらしのような局面で、千華里も軍をひきかえしたが、敵の側背に迂回しようとした計画をまたさとられてしまった。それでもわれわれは忍耐づよくひきかえして、中間突破にあらため、ついに蓮塘で最初のみごとな勝ちいくさをした。四回目の反「包囲討伐」のときには、南豊を攻めたが、攻めおとせなかったので、決然として退却の段どりをとり、ついに敵の右翼にまわり、東韶地区に集結して、宜黄南部での大勝利の戦いをはじめた。ただ、五回目の反「包囲討伐」のときだけは、緒戦がどんなに大きな関係をもっているかをまったく知らす、黎川という町一つを失ったことにおどろき、それをとりもどそうとして、北上して敵によりついていき、洵口《シュインコウ》で予期しない遭遇戦に勝利した(敵の一コ師団を消滅した)が、これを第一戦とみなさず、この戦いで必然的にひきおこされる変化をみないで、軽率にも必勝をのぞめない硝石を攻撃した。これは第一歩から主動権を失っており、たしかにもっともおろかな、もっともわるい戦い万である。
 第二には、緒戦の計画は、全戦役計画の有機的な序幕でなければならない。すぐれた全戦役計画がなければ、ほんとうにすぐれた第一戦というものはけっしてありえない。つまり緒戦で勝利したとしても、この戦いが全戦役にとって有利とならないばかりか、逆に有害になったときには、この戦いは勝っても負けたことになる(たとえば、五回目の「包囲討伐」のときの洵口の戦闘がそれである)。したがって、第一戦をはじめるに先だって、第二、第三、第四戦から最後の一戦にいたるまで、だいたいどういう戦い方をするか、われわれがつぎの戦いで勝ったばあいには、敵軍の全局にどういう変化がおこるか、また負けたばあいには、どういう変化がおこるかを一戦ごとに考えておかなければならない。結果がすべて予期したようになるとはかぎらないし、またなるはずもないが、しかし、双方の全局面にもとづいて、それを詳細に、実際的に考えぬいておかなければならない。全局が頭になければ、ほんとうによい手はうてるものではない。
 第三には、つぎの戦略段階での発展をも考えておかなければならない。ただ反攻のことだけを考え、その反攻が勝利したのち、あるいは万一反攻が失敗したのち、つぎはどうすればよいかを考えないならば、やはり戦略指導者としての責任をはたしていないことになる。戦略指導者は、ある一つの戦略段階にあるときに、その後の数多くの段階まで計算しておくべきであり、すくなくとも、つぎの段階は計算しておくべきである。たとえその後の変化が推測しにくく、遠い将来のことになればなるほど漠然《ばくぜん》としてはくるが、だいたいの計算は可能であり、遠い将来を見とおしておくことは必要である。一歩すすめばその一歩のことしか考えない指導のしかたは、政治にとって不利であり、戦争にとっても不利である。一歩すすめばその一歩の具体的変化に目をむけ、それによって自分の戦略、戦役計画をあらためるか、または発展させなければならない。そうしなければ、猪《ちょ》突猛進のあやまりをおかすことになる。しかし、全戦略段階ないし、いくつかの戦略段階をつらぬく、そして、だいたいにおいて考えぬかれた一つの長期の方針は、どうしてもなくてはならないものである。そうしなければ、ためらい、立ち往生するあやまりをおかし、実際には、敵の戦略的要求にのせられ、自分を受動的地位におとしいれることになる。敵の統帥部はある種の戦略的眼力をもっているものであることを知らなければならない。われわれは、自分を敵よりもいっそう高いものにきたえあげなければ、戦略的に勝利することはできない。敵の五回目の「包囲討伐」の時期に、「左」翼日和見主義路線と張国燾路線の戦略指導があやまっていたのは、主としてこの点に欠けていたためである。要するに、退却の段階では反攻の段階までを計算しておかなければならないし、反攻の段階では進攻の段階までを計算しておかなければならず、進攻の段階では、さらに退却の段階までを計算しておかなければならない。このような計算がなく、目ききの利害にしばられるならば、それは失敗への道である。
 かならず勝たなければならないこと、全戦役の計画に配慮を加えなければならないこと、つぎの戦略段階に配慮を加えなければならないこと、これが反攻開始にあたって、つまり第一戦をおこなうにあたって、忘れてはならない三つの原則である。

第六節 兵力集中の問題

 兵力を集中することは、みたところ、たやすいようであるが、実行はかなりむずかしい。多数で少数に勝つのがもっともよい方法であることは、だれでも知っているが、多くの人にはそれができず、反対に、いつも兵力を分散させている。その原因は、指導者が戦略的頭脳に欠けていて、複雑な環境にまどわされるために、環境に左右され、自主的能力をうしない、まにあわせ主義をとることにある。
 どんなこみいった、きびしい、みじめな環境にあっても、軍事指導者にとって、まず第一に必要なことは、自分の力を自主独立的に組織し使用することである。敵から受動的地位に追いこまれるのはよくあることだが、重要なのは主動的地位をすみやかにとりもどすことである。もしこのような地位をとりもどせなければ、そのつぎにくるものは失敗である。
 主動的地位というのは、空想的なものではなく、具体的なものであり、物質的なものである。ここでもっとも重要なことは、最大の、しかも活気にみちた軍隊を保存し集結することである。
 防御戦は、もともと受動的地位におちいりやすく、とても進攻戦のように十分に主動権を発揮することはできない。ところが、防御戦は受動的な形式のなかに主動的な内容をもつことができるのであり、形式上の受動的段階から、形式のうえでも内容のうえでも主動的段階に転じることができるのである。完全に計画的な戦略的退却は、形式のうえでは、よぎなくとった行動であっても、内容のうえでは、軍事力を保存し敵をやぶる機会を待つものであり、敵をふかく誘いいれて反攻を準備するものである。ただ退却しようとしないで、あわてて応戦する(たとえば硝石の戦闘)だけでは、表面的には、主動性をかちとろうとつとめているようであっても、実際には受動的である。戦略的反攻は、その内容が主動的であるばかりでなく、形式のうえでも、退却時の受動的な姿勢をすてている。敵軍にとって、反攻とはわが軍が敵に主動権の放棄を強制し、同時に敵を受動的地位に立たせるよう努力することである。
 このような目的を完全にたっするためには、兵力の集中、運動戦、速決戦、殲滅戦はいずれも必要な条件である。その第一の、また主要なものが兵力の集中である。
 兵力の集中が必要なのは、敵味方の形勢を変えるためである。第一には、進退の形勢を変えるためである。まえには、敵が進みわれわれが退いていたが、いまは、われわれが進み敵を退かせるという目的をたっしようとはかるのである。兵力を集中し、一戦して勝てば、この目的はこの戦闘でたっせられ、また全戦役にも影響をあたえる。
 第二には、攻守の形勢を変えるためである。退却終点にまで退却するのは、防御戦では基本的にいって消極的な段階、すなわち「守る」段階に属する。反攻は積極的な段階、すなわち「攻める」段階に属する。戦略的防御の全過程では、防御の性質からはなれてはいないが、反攻は退却にくらべて、形式だけでなく、内容のうえでも、変化をきたしたものである。反攻は戦略的防御と戦略的進攻とのあいだにある過渡的なものであり、戦略的進攻前夜の性質をおびており、兵力の集中は、この目的をたっするためである。
 第三には、内線と外線との形勢を変えるためである。戦略的に内線作戦におかれている軍隊、とくに「包囲討伐」されている環境にある赤軍は、多くの不利をこうむっている。しかし、われわれは、戦役あるいは戦闘で、それを変えることができるし、またぜひとも変えなければならない。わが軍にたいする敵軍の一つの大「包囲討伐」を、敵軍にたいするわが軍の数多くの各個別の小包囲討伐に変える。わが軍にたいする敵軍の戦略上の分進合撃を、敵軍にたいするわが軍の戦役あるいは戦闘上の分進合撃に変える。わが軍にたいする敵軍の戦略上の優勢を、敵軍にたいするわが軍の戦役あるいは戦闘上の優勢に変える。戦略上で強者の地位にある敵軍を、戦役あるいは戦闘上では弱者の地位に立たせる。同時に、戦略上で弱者の地位にあるわが軍を、戦役あるいは戦闘上での強者の地位に変えていく。これがすなわち、内線作戦のなかでの外線作戦、「包囲討伐」のなかでの包囲討伐、封鎖のなかでの封鎖、防御のなかでの進攻、劣勢のなかでの優勢、弱者のなかでの強者、不利のなかでの有利、受動のなかでの主動というものである。戦略的防御のなかで勝利をたたかいとることは、基本的には、兵力の集中という一手にかかっている。
 中国赤軍の戦史のなかで、この問題はつねに重要な論争問題となっていた。一九三〇年十月四日、吉安の戦いでは、兵力の完全な集中を待たずに、開進と攻撃がおこなわれたが、敵(鄧英《トンイン》師団)が自分から逃げてしまったからよかったものの、われわれの攻撃そのものは効果をあげていなかった。
 一九三二年からは、根拠地の東西南北から四方に出撃することを要求した、いわゆる「全線出撃」というスローガンがあった。これは戦略的防御のときでもまちがいであるばかりか、戦略的進攻のときでさえもまちがいである。敵味方の対比の形勢全体に根本的な変化がないばあい、戦略にも、戦術にも、防御と進攻、牽制と突撃の両面があって、いわゆる「全線出撃」ということは実際にはごくまれである。全線出撃のスローガンは、軍事的冒険主義にともなってあらわれた軍事的平均主義である。
 軍事的平均主義者は、一九三三年になると、いわゆる「二つのゲンコツでうつ」といういい方をして、赤軍の主力を二つにわけ、二つの戦略方向で、同時に勝利をえようとはかった。その時の結果は、ゲンコツの一つはつかいようのない所におき、他の一つにはへとへとになるまでうちまくらせ、しかもその時にかちとれたはずの最大の勝利もかちとれなかった。わたしの意見では、強大な敵軍が存在する条件のもとでは、味方にどれだけの軍隊があろうと、一時期におけるその主要な使用方向は、ただ一つであるべきで、二つであってはならない。わたしは、作戦方向が二つあるいは二つ以上あることには反対しないが、しかし、同一の時期における主要な方向は、ただ一つでなければならない。中国赤軍は、弱小者の姿をもって国内戦争の戦場にあらわれ、たびたび強敵をくじいて、世界をおどろかすような戦果をあげたが、これは兵力の集中的使用によるところが非常に大きい。どの大勝利をとってみても、みなこの点を証明することができる。「一をもって十にあたり、十をもって百にあたる」というのは、戦略的ないい方であり、戦争全体、敵味方の対比全体についていったのであって、この意味では、われわれはたしかにそのとおりである。それは戦役および戦術についていったものではなく、この意味では、われわれはけっしてそうであってはならない。反攻においても、進攻においても、われわれはつねに大きな兵力を集結して、敵の一部をうっている。一九三一年一月、江西省寧都県東韶地区で譚道源師団をうった戦いでも、一九三一年八月、江西省興国県高興[土+于]地区で第十九路軍をうった戦いでも、一九三二年七月、広東省南雄《ナンシゥン》県水口[土+于]《ショイコウユイ》地区で陳済[”学”の”子”の代わりに”呆”]の部隊をうった戦いでも、一九三四年三月、江西省黎川県団村《トヮンツン》地区で陳誠をうった戦いでも、すべて兵力を集中しなかったために損をした。水口[土+于]や団村のような戦いは、もともと一般的には勝ちいくさとみなされ、しかも大勝利とさえみなされているが(前者では陳済[”学”の”子”の代わりに”呆”]の二十コ連隊を撃破し、後者では陳誠の十二コ連隊を撃破した)、しかし、われわれは従来から、このような勝ちいくさは歓迎しないもので、ある意味では、まったく負けいくさであったとさえいえる。なぜなら、戦利品がないか、あっても消耗したものよりすくなくて、われわれからみると意義があまりないからである。われわれの戦略は「一をもって十にあたる」のであるが、われわれの戦術は「十をもって一にあたる」のであり、これは、われわれが敵に勝つための根本法則の一つである。
 軍事的平均主義は、一九三四年の五回目の反「包囲討伐」のときになると、その極点にまで発展した。「兵を六路にわけ」、「全線にわたって抵抗」すれば、敵を制圧できると考えたのが、敵から制圧される結果となった。その原因は、土地を失うのをおそれたことにあった。主力を一つの方向に集中して、他の方向には牽制兵力をのこすと、もちろん土地を失うことはさけられない。しかし、それは一時的、局部的損失であって、その代価としては突撃方向で勝利をうることである。突撃方向で勝利すれば、牽制方向での損失はとりかえすことができる。敵の一回、二回、三回、四回目の「包囲討伐」では、いずれもわれわれは土地を失い、とくに敵の三回目の「包囲討伐」では、江西省の赤軍の根拠地のほとんど全部を失ったが、結果は、われわれの土地を全部とりもどしたばかりでなく、さらに拡大したのである。
 根拠地の人民の力がみえないところから、赤軍が根拠地を遠くはなれるのをおそれるというあやまった心理がよくうまれる。一九三二年、江西省の赤軍が遠く福建省の[シ+章]州にうってでたときにも、一九三三年の四回目の反「包囲討伐」戦役が勝利したのち、赤軍が福建省への進攻に転じたときにも、このような心理がうまれた。前者は、根拠地全部が占領されるのをおそれ、後者は、根拠地の一部が占領されるのをおそれて、兵力の集中に反対し、兵力をわけて守備することを主張したが、結果は、いずれもまちがっていたことが証明された。敵からみれば、根拠地はかれらにとって、はいるのにおそろしいところであり、他方、白色区にうって出た赤軍は、かれらの主要な危険物である。敵軍の注意力はいつも主力の赤軍の所在地にむけられ、主力の赤軍を放置して、もっぱら根拠地にむかうことはごくまれである。赤軍が防御をおこなうときも、敵の注意力はやはり赤軍に集中される。根拠地を縮小させようとする計画は、敵の全計画の一部分であるが、もし赤軍が主力を集中して、敵の一路の部隊を消滅するならば、敵軍の統帥部は、かれらの注意力と兵力をいっそう多く赤軍にむけなければならなくなる。したがって、根拠地を縮小させようとする敵の計画も、うちやぶることができるのである。
 「堡塁主義をとっている五回目の『包囲討伐』の時期には、われわれはただ兵をわけて防御し、短距離強襲をかけるほかなく、集中して戦うことはできない」、こういういい方もまたまちがっている。ひと進みに三里、五里、ひと推しに八里、十里とやってくる敵の堡塁主義の戦法は、まったく赤軍自身が一歩一歩さがっては抵抗していくというやり方によってもたらされたものである。もしわが軍が内線で一歩一歩さがっては抵抗していくという戦法をすてて、さらに、必要なまた可能なときには敵の内線にうってでたならば、局面は必然的にちがったものになる。兵力集中の法則こそ、堡塁主義にうち勝つ手段である。
 われわれの主張する兵力の集中には、人民の遊撃戦争を放棄するということはふくまれていない。李立三路線は、「一ちょうの銃も赤軍へ集中せよ」といって、小さな遊撃戦争を放棄することを主張したが、それがまちがいであることは、とうに証明された。革命戦争全体の観点からすると、人民の遊撃戦争は、主力の赤軍とたがいに両腕の関係をなしており、主力の赤軍だけで、人民の遊撃戦争がないならば、それは片腕将軍のようなものである。根拠地の人民という条件は、具体的にいうと、とくに作戦についていうと、武装した人民がいることである。敵がおそれをなしているのも、主としてこの点にある。
 赤軍の支隊を副次的な作戦方向におくこともまた必要であって、すべてを集中しなければならないというのではない。われわれの主張する兵力の集中は、戦場での作戦に絶対的あるいは相対的優勢を保障するという原則のうえにうちたてられている。強い敵に、あるいはきわめて重要な戦場での作戦にたいしては、絶対的優勢な兵力をもってのぞまなければならない。たとえば、一九三〇年十二月三十日の一回目の反「包囲討伐」の最初の戦いで、四万人を集中して張輝[王+贊]師団の九千人をうったのがそれである。弱い敵に、あるいは重要でない戦場での作戦にたいしては、相対的に優勢な兵力をもってのぞめば十分である。たとえば、一九三一年五月二十九日の二回目の反「包囲討伐」の最後の一戦で、建寧にむかって劉和鼎師団の七千人をうったときには、赤軍は一万人あまりしか使わなかった。
 毎回優勢な兵力が必要だということでもない。ある状況のもとでは、相対的に劣勢な、あるいは絶対的に劣勢な兵力をもって戦場にのぞんでもよい。相対的に劣勢なばあいとして、たとえばある地域に大きくない赤軍の部隊が一つしかなくても(兵力をもっていながら集中しないのではない)、人民、地形あるいは天候などの条件が、ある優勢な敵の進攻をうちやぶるのに、われわれにとって大いにたすけとなりうるときには、遊撃隊あるいは小支隊で、敵の正面および一翼を牽制し、赤軍が全力を集中して、突如、敵の他の一翼の一部分を襲撃することも、もちろん必要なことであり、しかも勝利することのできるものである。われわれが、敵の一翼の一部分を襲撃するばあい、兵力の対比ではやはり優勢をもって劣勢にあたり、多数をもって少数に勝つという原則が適用される。絶対的に劣勢なばあいとして、たとえば遊撃隊が白軍の大部隊を襲撃するときには、その一小部分を襲撃するだけであり、同様に上述の原則が適用される。
 大軍を一つの戦場に集中して戦うと、地形、道路、給養、駐屯地などの制約をうけるといういいかたも、事情のちがいによってみなければならない。赤軍は白軍にくらべて、もっと大きな困難にたえることができるので、これらの制約は、赤軍と白軍とでは、その程度にちがいがある。
 われわれは少数をもって多数にうち勝つ――われわれは、全中国の支配者にむかってこのようにいう。われわれはまた多数をもって少数にうち勝つ――われわれは、戦場で戦っているそれぞれの局部の敵にむかってこのようにいう。このことは、もうなにも秘密ではなく、敵はたいていわれわれの気性をよく知っている。しかし、敵はわれわれを勝利させなくすることも、自分の損失をさげることもできない。なぜなら、われわれがいつ、どこでそうするのか、かれらにはわからないからである。その点、われわれは秘密をたもっている。赤軍の作戦は一般には奇襲である。

 第七節 運動戦

 運動戦か、それとも陣地戦か。われわれの答えは運動戦である。大きな兵力もなく、弾薬の補充もなく、どの根拠地でも、一部隊しかない赤軍が戦いまわっているという条件のもとで、陣地戦はわれわれにとって基本的に無用である。陣地戦は、われわれにとって、防御のときに基本的に使えないばかりか、進攻のときにも、同様に使えないものである。
 敵が強大であること、赤軍の技術的装備が貧弱であることからうまれる赤軍の作戦のいちじるしい特徴の一つは、固定した作戦線をもたないということである。
 赤軍の作戦線は、赤軍の作戦方向にしたがう。作戦方向が固定しないので、作戦線も固定しなくなる。大方向は一つの時期においては変更しないが、大方向のなかの小方向は、そのつど変更するものであり、一つの方向が制約をうけると、別の方向に転じていかなければならない。一つの時期がすぎたあと、大方向も制約をうけるとなれば、その大方向でさえも変更しなければならない。
 革命の国内戦争の時期には、作戦線は固定できない。こうしたことはソ連でもあったことである。ソ連の軍隊がわれわれの軍隊とちがっている点は、その固定しない度合いが、われわれほどはなはだしくなかったことである。どんな戦争にも、絶対的に固定した作戦線というものはありえず、勝敗進退の変化がそれをゆるさないのである。ところが、相対的に固定した作戦線は、一般の戦争にはよくみうけられる。ただ、現段階の中国赤軍のように、敵との強弱の差がはなはだしい軍隊では、それは例外である。
 作戦線が固定しないので、根拠地の領土も固定しなくなる。大きくなったり小さくなったり、伸びたり縮んだりするのはつねであり、起伏はあちらこちらでしばしばおこる。このような領土の流動性は、完全に戦争の流動性に由来している。
 戦争と領土の流動性は、根拠地のさまざまな建設活動にも流動性をおこさせている。何年にもわたる建設計画などはおもいもおよばないことである。計画の頻繁《ひんぱん》な変更は、われわれにとって日常茶飯事である。
 このような特徴を認めることは、われわれにとってためになるのである。この特徴から、われわれの日程を定めるのであって、進むだけで退くことのない戦争を夢みてはならず、領土や軍事的後方の一時的な流動におどろいてはならず、長期にわたる具体的な計画をたてようとしてはならない。われわれの思想や活動を状況に適応させ、腰をおろす用意もするが、またいつでもでかける用意もし、口糧袋をすててはならない。将来の比較的に流動しない状態をかちとるためには、また最後の安定をかちとるためには、現在の流動生活のなかで努力する以外にはない。
 五回目の反「包囲討伐」の時期を支配していたいわゆる「正規の戦争」という戦略方針は、このような流動性を否定し、いわゆる「遊撃主義」に反対した。流動に反対した同志たちは、大国家の支配者気どりでことをはこぼうとしたが、結果は、ただごとならぬ大流動――二万五千華里の長征となったのである。
 われわれの労農民主共和国は、一つの国家ではあるが、こんにちでは、まだ不完全な国家である。こんにち、われわれは、まだ国内戦争の戦略的防御の時期におかれており、われわれの政権は完全な国家形態にはまだほどとおく、われわれの軍隊は、数のうえでも技術的装備のうえでも、敵よりまだはるかに劣っており、われわれの領土もまだ小さく、われわれの敵は四六時中われわれを消滅しようと考えており、そうしなければ胸がおさまらないのである。この点から、われわれの方針がきめられるのであり、それは、一般的に遊撃主義に反対することではなくて、赤軍の遊撃性をすなおに認めることである。ここではずかしがることは無用である。それどころか、遊撃性こそ、われわれの特徴であり、われわれの長所であり、われわれが敵にうち勝つための手段である。われわれは遊撃性をすてる用意をすべきであるが、こんにちでは、まだすてられない。遊撃性は、将来には、恥ずべきもの、またすてるべきものとなるにちがいないが、しかし、こんにちでは、なお貴重なまた堅持すべきものである。
 「勝てるなら戦い、勝てなければ去る」、これがこんにちのわれわれの運動戦についてのわかりやすい解釈である。世の中には、戦うことだけを認めて、去ることを認めない軍事家はいないが、ただわれわれほどひどく去らないだけである。われわれにとっては、ふつう、歩く時間の方が戦う時間より多く、平均して月に一回の大きい戦いがあればよい方である。「去る」ことはすべて「戦う」ためであり、われわれの戦略、戦役のすべての方針は「戦う」という一つの基本点のうえにうちたてられている。ところが、われわれには、戦いにくいばあいがいくつかある。第一に、直面している敵が多いと戦いにくい。第二に、直面している敵は多くなくても、それが近くにいる敵の部隊と非常に近接していると、戦いにくいときもある。第三に、一般的にいって、孤立していず、しかも、十分堅固な陣地をもっている敵はみな戦いにくい。第四に、戦っても戦闘をかたづけることができないときには、それ以上戦わない方がよい。以上のべたようなばあいには、われわれは、すべて去る用意をする。こういうときに去るのはゆるされるものであり、またそうすべきである。なぜなら、われわれは、まず戦うことの必要性を認めることを条件として、去ることの必要性を認めるからである。赤軍の運動戦の基本的な特徴はここにある。
 基本的なものが運動戦であるということは、必要なまた可能な陣地戦を拒否することではない。戦略的防御において、われわれが牽制方面で、あるいくつかの重要拠点を固守するばあいにも、戦略的進攻において、孤立無援の敵に出あったばあいにも、陣地戦でたちむかうことを認めるべきである。このような陣地戦で敵にうち勝った経験は、われわれの過去においてもすくなくない。多くの都市、堡塁、とりでが、われわれによってうちやぶられ、敵のある程度強固な野戦陣地が、われわれによって突破された。今後も、この方面での努力をかさね、この方面でのわれわれの弱点をおぎなわなければならない。状況が必要とし、しかもそれがゆるされる陣地攻撃と陣地防御はぜひとも提唱すべきである。われわれが反対しているのは、こんにちにおいて一般的な陣地戦をとること、あるいは陣地戦と運動戦を同等にあつかうことだけであって、これこそゆるすことのできないものである。
 赤軍の遊撃性、固定した作戦線のないこと、根拠地の流動性、根拠地の建設活動の流動性は、この十年の戦争のあいだに少しも変化がなかったであろうか。変化はあった。井岡山から江西省の一回目の反「包囲討伐」前までが第一段階で、この段階での遊撃性と流動性は大きく、赤軍はまだ幼年時代にあり、根拠地はまだ遊撃区であった。一回目の反「包囲討伐」から三回目の反「包囲討伐」までが第二段階で、この段階では、遊撃性と流動性はかなり縮小し、すでに方面軍がつくられ、何百万の人口をもつ根拠地が存在していた。三回目の反「包囲討伐」から五回目の反「包囲討伐」までが第三段階で、遊撃性と流動性はいっそう縮小した。中央政府と革命軍事委員会がすでにつくられていた。長征が第四段階である。小遊撃と小流動を否定するあやまりをおかしたばかりに、大遊撃と大流動をまねいたのである。現在は第五段階である。五回目の「包囲討伐」に勝てなかったことと大流動とによって、赤軍と根拠地は大いに縮小したが、すでに西北地方に足場をかため、陝西・甘粛・寧夏《ニンシァ》辺区の根拠地を強化し発展させている。赤軍主力の三つの方面軍はすでに統一的指揮のもとにあり、このことは前にはなかったことである。
 戦略の性質についていえば、井岡山の時期から四回目の反「包囲討伐」の時期までが一つの段階で、五回目の反「包囲討伐」の時期がもう一つの段階であり、長征からこんにちまでが第三の段階であるともいえる。五回目の反「包囲討伐」のさい、ある人びとは、それまでのもともと正しかった方針を否定するあやまりをおかしたが、こんにち、われわれはまた五回目の反「包囲討伐」のときのかれらのあやまった方針を正しく否定し、以前の正しい方針を復活させた。だが、五回目の反「包囲討伐」のときのすべてを否定するのではないし、以前のすべてを復活させるのでもない。復活させたのは、以前のすぐれたものであり、否定したのは五回目の反「包囲討伐」のときのあやまったものである。
 遊撃主義には二つの面がある。一つの面は非正規性、すなわち集中しないこと、統一しないこと、規律が厳格でないこと、活動方法が単純なことなどである。これらのものは、赤軍が幼年時代に身につけてきたもので、あるものは当時としてはまさに必要なものであった。だが、赤軍が高い段階にたっすれば、赤軍をより集中的にし、より統一的にし、より規律のあるものにし、その活動をより綿密なものにするため、つまりより正規性をもったものにするため、だんだんとそれを意識的にすてさらなければならない。作戦指揮のうえでも、高い段階では不必要になった遊撃性をだんだんと意識的にすくなくしていくようにしなければならない。この面で前進するのを拒否し、ふるい段階にとどまるのを固執するのは、ゆるされないことであり、有害なことであり、大規模な作戦にとって不利なことである。
 もう一つの面は、運動戦の方針であり、現在もなお必要な戦略および戦役作戦の遊撃性であり、阻止することのできない根拠地の流動性であり、根拠地の建設計画の臨機応変性であり、赤軍の建設において、その時の事情にあわないような正規化をしないことである。この面で、歴史的事実を拒否し、役にたつものをのこすことに反対し、軽率に現段階をはなれて、見えても近づけない、さしあたって現実的意義のない、いわゆる「新段階」にむかって盲滅法につっぱしることは、同様にゆるされないことであり、有害なことであり、当面の作戦にとって不利なことである。
 現在、われわれは赤軍の技術的装備および組織の面で、つぎの新しい段階の前夜にある。われわれは新しい段階にうつる用意をしなければならない。そのような用意をしないことはまちがいであり、将来の戦争にとって不利である。将来、赤軍の技術的装備や組織の条件が変わり、赤軍の建設が新しい段階にすすんだならば、赤軍の作戦方向および作戦線はわりあいに固定し、陣地戦は増加し、戦争の流動性、領土および建設の流動性も大いに減少して、最後には消滅することになり、現在われわれを制約しているもの、たとえば優勢な敵とかれらが守備している堅固な陣地も、われわれを制約できなくなるのである。
 われわれは、現在、一方では「左」翼日和見主義が支配していた時期のあやまったやり方に反対し、他方では、赤軍の幼年時代にあったもので、現在ではすでに不用になっている多くの非正規性の復活にも反対するものである。だがわれわれは、赤軍がいままでずっとそれによって勝利をえてきた多くの貴重な錘軍の原則や戦略戦術の原則を、断固として復活しなければならない。われわれは、こんにちの敵にたいする勝利をたたかいとるとともに、将来新しい段階にうつる用意をするためには、いままでのすべてのすぐれたものを総括して、それを体系だった、さらに発展した、より豊富な軍事路線にしなければならない。
 運動戦を実行する面では、問題が非常に多い。たとえば偵察、判断、決心、戦闘配置、指揮、隠蔽、集中、開進、展開、攻撃、追撃、襲撃、陣地攻撃、陣地防御、遭遇戦、退却、夜戦、特殊地形における戦闘、強敵をさけて弱敵をうつこと、敵を包囲してその援軍をうつこと、陽攻、防空、いくつかの敵部隊のあいだにおかれたばあいの作戦、超越作戦、連続作戦、無後方作戦、鋭気をやしない力をたくわえることの必要などである。これらの問題は、みな赤軍の戦史において多くの特徴をしめしており、戦役学のなかで筋道をたててのべ、また総括しなければならないものであって、わたしはここではふれないことにする。

第八節 速決戦

 戦略上の持久戦と、戦役および戦闘上の速決戦、これは一つのことがらの二つの側面であり、国内戦争で同時に重んじられる二つの原則であり、また、帝国主義反対の戦争にも適用できるものである。
 反動勢力が強大なので、革命勢力がじょじょにしか成長しないこと、このことが戦争の持久性を規定している。この面であせることは損をすることになり、この面で「速決」を主張することは正しくない。十年も革命戦争をつづけたことは、他の国にとっては、あるいは驚異に値するかもしれないが、われわれにとっては、ちょうど八股《こ》文をつくるのに、破題、承題および起講〔37〕だけを書いたようなもので、たくさんのにぎやかな文章は、まだこれからである。今後の発展は、内外のあらゆる条件の影響によって、過去にくらべて疑いもなく大いに速度をます可能性がある。国際的、国内的環境には、すでに変化がおきており、しかも、もっと大きな変化がやってこようとしているので、われわれは、すでにいままでのような発展のゆるやかな孤軍作戦の状態からはぬけだしたといえるのである。だからといって、あすにも成功するものと期待してはならない。「朝めし前にかたづける」という気概はよいが、「朝めし前にかたづける」という具体的な計画はよくない。なぜなら、中国の反動勢力は、多くの帝国主義によって支持されており、国内の革命勢力が内外の敵の主要な陣地を突破できるまでに集積されないうちは、また国際革命勢力が国際反動勢力の大部分をうちやぶり、それを牽制しないうちは、われわれの革命戦争は依然として持久的だからである。この点に立って、われわれの長期作戦の戦略方針を規定することは、戦略指導の重要な方針の一つである。
 戦役と戦闘の原則はこれとは逆で、持久ではなくて速決である。戦役と戦闘で速決をめざすことは、古今東西いずれもおなじである。戦争の問題では、古今東西をつうじて速決をもとめないものはなく、月日を長びかすことはなんといっても不利だとみられてきた。だが、中国の戦争だけは、最大の辛抱強さをもってあたらないわけにはいかないし、持久戦をもってこれにあたらないわけにはいかない。李立三路線の時期に、ある人はわれわれのやり方を、「拳法戦術」(何回もうったりうたれたりする手あわせをしなければ大都市は奪取できないという意味である)だとあざけり、またわれわれを、白髪にならなければ革命の勝利はみられないだろうとあざけった。このようなせっかち病の気分が正しくないことは、すでに早くから証明されている。だが、もしかれらの批判的意見が戦略問題にではなくて、戦役や戦闘の問題についておこなわれたのであれば、それは非常に正しい。その理由は、第一に、赤軍の兵器、とくに弾薬には補給源がないこと、第二に、白軍はたくさんの部隊をもっているが、赤軍には一つの部隊しかないので、一回の「包囲討伐」をうちやぶるには、迅速な連続的な作戦を準備しなければならないこと、第三に、白軍の各部隊は分進してはくるが、その多くは比較的に密集しており、かれらのなかの一つをうつさい、迅速に戦闘をかたづけることができなければ、他の部隊がみなやってくることである。こうした理由から、速決戦を実行しないわけにはいかない。われわれにとって、数時間とか、一日、あるいは二日のあいだに、一つの戦闘をかたづけてしまうのはよくあることである。ただ、「敵を包囲してその援軍をうつ」方針のもとでは、目的が包囲した敵をうつのではなくて、敵の援軍をうつのであるから、包囲した敵との作戦は相当に持久の準備をするが、敵の援軍にたいしてはやはり速決である。戦略的防御のさいに牽制方面の拠点を固守するとき、戦略的進攻のさいに孤立無援の敵をうつとき、根拠地内の白色拠点を消滅するとき、こうしたときにも、つねに戦役あるいは戦闘に持久の方針がとられる。しかし、こうした持久戦は、赤軍主力の速決戦をたすけこそすれ、それをさまたげはしない。
 速決戦は、頭のなかでそうしようと考えたらそれで実現できるというものではなく、それには、たくさんの具体的な条件が必要である。その条件の主要なものは、準備が十分できていること、時機を失わないこと、優勢な兵力を集中すること、包囲・迂回戦術をとること、よい陣地があること、運動中の敵をうつこと、あるいは駐止はしたが陣地をまだかためていない敵をうつことである。これらの条件を解決しないで、戦役あるいは戦闘の速決をもとめるのは不可能である。
 一回の「包囲討伐」をうちやぶることは、一つの大戦役であり、それには、持久の原則ではなくて、やはり速決の原則が適用される。なぜなら、根拠地の人力、財力、軍事力などの条件が、いずれも持久をゆるさないからである。
 だが、一般的な速決の原則のもとで、不当なあせりに反対することは必要である。革命根拠地の最高の軍事政治指導機関が、根拠地のもつこうした条件を考慮に入れ、敵の状況を考慮に入れて、敵の気勢にきもをつぶさず、まだたえられるような困難にくじけず、いくらかの挫折にも力をおとさずに、必要な忍耐心と持久力をもつことは、ぜひとも必要である。江西省で一回目の「包囲討伐」をうちやぶったのは、緒戦から終結までわずか一週間であり、二回目の「包囲討伐」をうちやぶったのは、わずか半ヵ月であったが、三回目の「包囲討伐」をうちやぶるには三ヵ月も苦労しぬき、四回目は三週間、五回目はまるまる中年も苦労しぬいた。ところが、五回目の「包囲討伐」をうちやぶることができず、包囲突破をよぎなくされたときには、あってはならないあわてぶりをしめした。状況からみれば、まだ二、三ヵ月もちこたえられ、それによって軍隊を休養・整頓することもできたはずである。もしそうであったならば、また包囲突破後の指導がもう少し賢明であったならば、状況は大いにちがっていたであろう。
 以上のべたとおりではあるが、全戦役の時間を極力縮めるというわれわれの原則は、やはりやぶられてはいない。戦役、戦闘の計画では、兵力の集中や連動戦などの条件を極力たたかいとって、内線で(根拠地において)敵の実兵力を消滅して「包囲討伐」の迅速な解決をはかるほかに、「包囲討伐」が内線で解決できないことが証明されたときには、主力の赤軍をもって敵の包囲攻撃線を突破し、わが方の外線、つまり敵の内線にはいっていって、この問題を解決すべきである。堡塁主義の発達したこんにち、このような手段は通常の作戦手段となるものである。五回目の反「包囲討伐」がはじめられてニヵ月後に、福建事変がおきたとき、主力の赤軍は、疑いもなく、淅江《チョーチァン》省を中心とする江蘇《チァンスー》・淅江・安徽・江西省地区につき進んで、杭州《ハンチョウ》、蘇州《スーチョウ》、南京《ナンチン》、蕪湖《ウーフー》、南昌、福州《フーチョウ》のあいだを縦横にかけめぐり、戦略的防御を戦略的進攻に変えて、敵の中枢要地をおびやかし、堡塁のない広大な地帯で戦いをもとめるべきであった。このような方法がとられたならば、江西省南部、福建省西部地区を進攻していた敵は、その中枢要地を援助するためにひきかえすことをよぎなくされ、われわれは、江西省の根拠地にたいする敵の進攻を粉砕できるとともに、福建人民政府をも援助できたであろう。――このような方法は、たしかにかれらを援助できるものであった。この計略を用いなかったために、五回目の「包囲討伐」はうちやぶることができなかったし、福建人民政府もたおれるよりほかなかった。一年ものあいだ戦ったあとでは、淅江省にうって出るにはすでに不利であったが、もう一つの方向にむけて戦略的進攻をとること、すなわち主力を湖南省にむけて前進させ、湖南省をへて貴州省にむかうのではなくて、湖南省の中部にむけて前進し、江西省の敵を湖南省にひきよせて、それを消滅することもできたはずである。この計略も用いなかったので、五回目の「包囲討伐」をうちやぶる希望は最終的にたちきられ、ただ一つ長征の道だけがのこされた。

第九節 殲滅戦

 「消耗で張りあう」という主張は、中国の赤軍にとってはいまの事情にあっていない。「宝くらべ」を竜王が竜王とやるのでなくて、こじきが竜王とやったら、それこそこっけいである。ほとんどすべてのものを敵側から奪うことによってまかなっている赤軍にとっては、その基本的な方針は殲滅戦である。敵の実兵力を殲滅しないかぎり、「包囲討伐」をうちやぶることも、革命の根拠地を発展させることもできない。敵を殺傷するのは、敵を殲滅する手段としてとられるものであり、そうでなければ意義がない。敵を殺傷することで、味方も消耗するが、また敵を殲滅することで、味方が補充されるのであって、そうすればわが軍の消耗がつぐなえるばかりでなく、わが軍の力は増大される。撃破戦は、強大な敵にたいして勝敗を基本的に決するものではない。ところが、殲滅戦は、どんな敵にたいしても、ただちに重大な影響をもたらす。人のばあいでも、十本の指を傷つけるよりは一本の指を切りおとした方がよく、敵にたいしても、十コ師団を撃破するよりはその一コ師団を殲滅した方がよい。
 一回、二回、三回、四回目の「包囲討伐」にたいするわれわれの方針は、いずれも殲滅戦であった。毎回殲滅した敵は、敵全体にとっては一部分にすぎなかったが、しかし「包囲討伐」はうちやぶった。五回目の反「包囲討伐」のときは、反対の方針がとられ、じっさいには、敵の目的達成をたすけることとなった。
 殲滅戦と、優勢な兵力を集中して包囲・迂回戦術をとることとは、同一の意義をもっている。後者がなければ前者はない。人民の支持、すぐれた陣地、たたきやすい敵、敵の意表にでるなどの条件は、いずれも殲滅の目的を達成するのに欠くことのできないものである。
 撃破に意義があるといい、ひいては敵を逃走させることにも意義があるというのは、全戦闘あるいは全戦役で、わが軍の主力が、目標とした敵にたいして殲滅的な戦いをおこなうばあいにだけいえるのであって、そうでなければ、なんの意義もない。これは、失うことが得ることにたいして意義をもつ、もう一つのばあいである。
 われわれは軍需工業を建設するが、それへの依頼心を助長してはならない。われわれの基本方針は、帝国主義と国内の敵の軍需工業に依存することである。ロンドンと漢陽《ハンヤン》の兵器工場の製品にたいして、われわれは権利をもっており、しかも敵の輸送隊によってそれがはこばれてくる。このことは冗談ではなく、真理である。



〔1〕 中国の文字の「実際」という概念には、二つの意味がふくまれている。一つは実際の状況をさし、他の一つは人びとの行動(つまり一般にいわれる実際)をさす。毛沢東同志がその著作のなかでこの概念をつかうとき、しばしば両方の意味をかねている。
〔2〕 孫武子とは孫武のことで、西紀前五世紀の中国の著名な軍事学者であり、『孫子』十三縞をあらわした。本文に引用したことばは、『孫子』三巻の「謀攻」編にみられる。
〔3〕 一九二一年七月、中国共産党が成立してから、一九三六年に毛沢東同志がこの著作をあらわした時までが、ちょうど十五年である。
〔4〕 陳独秀は、もと北京大学の教授であったが、雑誌『新青年』を編集したことから有名になった。陳独秀は中国共産党の創立者のひとりであった。かれか五・四運動時代に有名であったことと、創立当初の党が幼稚であったことから、かれは党の総書記になった。一九二四年から一九二七年までの革命における最後の一時期には、陳独秀に代表される党内の右翼思想によって、投降主義の路線が形成された。当時の「投降主義者は、農民大衆、都市小ブルジョア階級および中層ブルジョア階級にたいする指導権をすすんで放棄し、とくに武装力にたいする指導権を放棄したため、そのときの革命を失敗に終わらせてしまった」(毛沢東『当面の情勢とわれわれの任務』)。一九二七年、革命が失敗したのち、陳独秀およびその他の少数の投降主義者は、革命の前途に悲観して解党主義者となり、トロツキー主義の反動的立場をとるとともに、トロツキストと結託して反党小グループをつくった。そのため、一九二九年十一月、党から追われた。陳独秀は一九四二年に死んだ。陳独秀の右翼日和見主義については、本選集第一巻の『中国社会各階級の分析』『湖南省農民運動の視察報告』の二つの論文の解題と第二巻の『「共産党人」発刊のことば』を参照。
〔5〕 李立三の「左」翼日和見主義とは、一九三〇年六月以後の約四ヵ月のあいだ、当時の中国共産党中央の主要な指導者李立三によって代表された「左」翼日和見主義路線のことであり、ふつう「李立三路線」といわれている。李立三路線の特徴は、党の第六回全国代表大会の方針にそむいて、革命が大衆的な力の準備を必要とし、革命の発展が不均等であることを否定したことである。李立三路線は、毛沢東同志の、長期にわたって主要な注意力を農村根拠地の創設にそそぎ、農村をもって都市を包囲し、根拠地をもって全国的革命の高まりをおしすすめるという思想を、いわゆる「極度にあやまった」「農民意識の地方的観念であり、保守的観念である」として、全国各地でただちに蜂起する準備をしなければならないと主張した。李立三はこのようなあやまった路線のもとで、全国各中心都市の武装蜂起をただちに組織するという冒険的な計画をたてた。同時に、李立三路線は世界革命の不均等性も認めず、中国革命の全面的勃発が必然的に世界革命の全面的勃発をひきおこし、しかも中国革命は世界革命の全面的勃発のなかにあってのみ成功しうるものだとした。李立三路線はまた、中国のブルジョア民主主義革命の長期性を認めず、一省あるいは数省でさきに勝利をうることが、社会主義へ転換するはじまりであるとして、これにもとづき、当時の事情にあわない若干の「左」翼的冒険政策をきめた。毛沢東同志はこのあやまった路線に反対し、全党の広範な幹部と党員もこの路線の是正を要求した。李立三自身も、一九三〇年九月、党の第六期中央委員会第三回総会で、当時指摘されたあやまりを認め、ついで中央の指導的地位からはなれた。李立三が長い期間のなかで自己のあやまった観点をあらためたので、党の第七回全国代表大会は、またかれを中央委員に選出した。
〔6〕 一九三〇年九月にひらかれた党の第六期中央委員会第三回総会とその後の一時期の党中央は、李立三路線をうちきるために積極的な作用をもつ多くの措置をとった。ところが、第六期中央委員会第三回総会以後、革命闘争の実際の経験をもたない党内の一部の同志は、陳紹禹(王明)、秦邦憲(博古)を先頭として、中央の措置に反抗した。かれらは当時発表した『二つの路線』、または『中国共産党のいっそうのボリシェビキ化のためにたたかおう』と名づけられたパンフレットのなかで、李立三路線の「右」翼的なものにたいする「批判」をその活動のもとでにして、当時の党内の主要な危険が「左」翼日和見主義ではなく、いわゆる「右翼日和見主義」であるととくに強調した。かれらは、新しい形態のもとで李立三路線やその他の「左」翼的思想、「左」翼的政策を継続させ、復活させ、あるいは発展させる新しい政治綱領をうちだして、毛沢東同志の正しい路線に対立した。毛沢東同志のこの著作『中国革命戦争の戦略問題』は、主としてこの新しい「左」翼日和見主義路線が軍事の面でおかしたあやまりを批判するために書かれたものである。この新しい「左」翼的なあやまった路線は、一九三一年一月にひらかれた党の第六期中央委員会第四回総会から、一九三五年一月、党中央が貴州省の遵義でひらいた政治局会議で、あやまった路線の指導を終わらせ、毛沢東同志を先頭とする党中央の新しい指導がはじめられたときまで、党内を支配していた。この「左」翼的なあやまった路線が党内を支配していた時期はとくに長く(四年)、党と革命にあたえた損失はとくに重大であった。そのわるい結果として、中国共産党、中国赤軍および赤軍の根拠地は、その九〇パーセント前後を失い、革命根拠地の数干万の人民は国民党にふみにじられ、中国革命の進展をおくらせた。この「左」翼的路線のあやまりをおかした同志たちも、その大多数は、長期の体験をつうじて、自分のあやまりを認識し、是正して、党と人民にとって有益な多くの仕事をした。これらの同志は、他の広範な同志たちといっしょに、おなじ政治的認識を基礎として、毛沢東同志の指導のもとに、たがいに団結した。
〔7〕 本巻の『日本帝国主義に反対する戦術について』の注〔21〕および注〔22〕を参照。
〔8〕 盧山軍官訓練団とは、蒋介石が反共の軍事幹部を訓練するためにつくった組織のことで、一九三三年七月、江四省九江県の盧山に設けられた。この訓練団では、蒋介石軍の将校が順番にあつめられ、ドイツ、イタリア、アメリカの軍事教官によって、ファッショ的な軍事訓練と政治訓練がほどこされた。
〔9〕 ここでいう五回目の「包囲討伐」でとられた新しい軍事原則とは、主として、トーチカをつくっては前進し、一歩ごとに陣地をかためるという蒋介石匪賊一味の「堡塁政策」のことである。
〔10〕 『レーニン全集』第三十一巻の『共産主義』という論文にみられる。この論文のなかで、レーニンはハンガリー共産党員べラ・クンを批判して、「かれは、マルクス主義のもっとも本質的なものとマルクス主義の生きた魂である具体的状況にたいする具体的分析を放棄した」と指摘している。
〔11〕 党の湖南・江西省境地区第一回代表大会とは、一九二八年五月二十日、湖南・江西辺区の共産党組織が寧岡県の茅坪でひらいた第一回代表大会のことである。
〔12〕 本巻の『党内のあやまった思想の是正について』の注〔2〕および〔3〕を参照。
〔13〕 「匪賊主義」とは、規律がなく、組織性がなく、明確な政治的目標のない略奪行為のことである。
〔14〕 赤軍が江西省から出発して陝西省北部に到達するまでの二万五千華里の長征をさす。本巻の『日本帝国主義に反対する戦術について』の注〔20〕にみられる。
〔15〕 ロシアで、一九〇五年十二月の蜂起が失敗したのち、革命が高揚からしたいに退潮に転じていった時期をいう。『ソ連共産党(ボリシェビキ)歴史小教程』第三章第五、第六節を参照。
〔16〕 ブレスト条約は、一九一八年三月、ソビエト・ロシアがドイツと締結した講和条約である。当時の状況では、敵の力があきらかに革命勢力をしのいでいたので、成立早々まだ自分の軍隊をもっていなかったソビエト共和国か、ドイツ対国主義の打撃をこうむらないようにするためにおこなった一時的な退却である。この講和条約の締結によって、ソビエト共和国はプロレタリア階級の政権を強固にし、経済を調整し、赤軍を建設するための時間をかせぐことができ、プロレタリア階級は農民にたいする指導を保持し、力を結集して、一九一八年から一九二〇年にかけての白衛軍およびイギリス、アメリカ、フランス、日本、ポーランドの諸国の武力千渉を撃破することができるようになった。
〔17〕 一九二七年十月三十日、広東省海豊、陸豊県の農民は、中国共産党の指導のもとで三回目の蜂起をおこない、海豊、陸豊県およびその付近の地区を占領し、赤軍を組織し、労農民主政権をうちたてた。その後、敵をみくびるというあやまりをおかしたため失敗した。
〔18〕 一九三六年の秋、赤軍第四方面軍は、第二方面軍と合流したのち、西康省東北部から出発して、北上のための移動をおこなった。張国燾は、このときにもやはり反党の立場を固持し、一貫してとりつづけてきた退却主義と解党主義を固持した。同年十月、赤軍第二万両軍と第四方面軍が甘粛省についたのち、張国燾は第四方面軍の前衛部隊二万余人にたいし、西路軍を編成し、黄河をわたって西の青海省へ進むことを命令した。一九三六年十二月、西路軍は、戦いで打撃をうけて基本的に失敗し、一九三七年三月には完全に失敗してしまった。
〔19〕 マルクスのクーゲルマンあてのパリ・コミューンについての書簡にみられる。
〔20〕 『水滸伝』は農民戦争を描いた中国の有名な小説で、十四世紀の元未明初の施耐庵の作と伝えられている。林冲、柴進はいずれもこの小説にでてくる英雄的な人物である。洪師範は柴家の武芸指南者である。
〔21〕 魯と斉は、中国春秋時代(西紀前七二二年~前四八一年)の二つの封建国家である。斉は大国で、いまの山東省中部にあり、魯はわりに小さく、いまの山東省南部にあった。魯の荘公は、西紀前六九三年から六六二年にかけての魯の君主であった。
〔22〕 左丘明は、中国の周代の有名な編年史『左伝』の著者である。本文に引用した部分は『左伝』「荘公十年」にみられる。
〔23〕 「肉食の者」とは役人をさす。「またなんぞ間せん」というのは「どうしてその仲間にくわわる必要があろうか」という意味。「犠牲玉帛、敢えて加えざるなり、かならず信を以てせり」という句の「犠牲玉帛」とは神をまつるときの供え物のことで、「加え」とは、誇大に報告するという意味。書の荘公が事実どおりに供え物を報告したといったのは、神にたいし信義をまもったということを表明したものである。「忠の属なり。以て一戦すべし」の忠とは、本分をつくすということである。曹[歳+リ]のことばは、一国の君主が訴訟や疑獄にたいして情理にかなった処置をとれば、人民の支持をうることができるので、戦ってよろしい、という意味である。「公まさにこれに鼓うたんとす」とか「斉人三たびうつ」というこの「鼓」は、陣太鼓をうって兵士の突撃を指揮することをいう。「軾に登りてこれを望み」という「軾」は車に乗るものがつかまる前部の手すりのことで、車の上ではいちばん高いので、これにのぼって遠方を見るのである。
〔24〕 昔の成皐の城は、いまの河南省成皐県の西北部にあり、古代の軍事的要地であった。西紀前二〇三年、漢王劉邦と楚王項羽がこの一帯で戦った。当時項羽は[”塋”の”土”を”水”に変える]陽、成皐をあいついで攻略し、劉邦軍はちりぢりになるまで撃破された。しかし、のちに劉邦は楚軍が氾水をなかばわたる時機をまちかまえて、ついに楚軍を大いにやぶり、成皐を奪回した。
〔25〕 昔の昆陽の城は、いまの河南省葉県にある。西紀二三年、劉秀(東漢光武帝)がここで王莽の軍隊をうちやぶった。この戦いでは、双方の兵力の差がはなはだしく、劉秀の軍隊はわずか八、九千人しかなかったのに、王莽の軍隊は四十余万であった。しかし、劉秀は王莽の将軍王尋、王邑が敵をみくびって、ゆるんでいた弱点を利用して、精兵三千人をひきいて、王莽の軍隊の中堅を突破し、勢いに乗じて進撃し、敵軍を大いにやぶった。
〔26〕 官渡はいまの河南省中牟県の東北部にある。西紀二〇〇年、曹操の軍隊と袁紹の軍隊がこの一帯で戦った。当時袁紹は十万の兵をもっていたが、曹操は兵もすくなく糧秣もつきはてていた。しかし曹操は、袁軍が敵をみくびって防備をしていないのに乗じて、軽装備の軍隊で奇襲をおこない袁軍の輜重《しちょう》に火をはなった。袁軍があわてふためくところを曹軍か出撃し、その主力を殲滅した。
〔27〕 呉とは孫権の側をいい、魏とは曹操の側をいう。赤壁はいまの湖北省嘉魚県の東北の長江南岸にある。西紀二〇八年、曹操は五十余万の兵をひきい八十万と称して孫権を攻撃した。孫権は曹操の敵である劉備と連合し、兵三万をくりだし、曹軍に伝染病があることと水戦に不慣れなことを利用して、火攻めで曹軍の軍船を焼きはらい、これを大いにやぶった。
〔28〕 彝陵はいまの湖北省宜昌県の東にある。西紀二二二年、呉の将軍陸遜はここで蜀漢の劉備を大いにやぶった。この戦いの初期には、劉備軍は連戦連勝して、彝陵まですすみ、呉の国境内に五、六百華里もはいった。陸遜は七、八ヵ月ものあいだたてこもって戦わず、劉備軍の「兵が疲れ、士気がくじけ、うつ手がなくなる」まで侍って、追い風を利用して火をはなち、大いに蜀軍をやぶった。
〔29〕 西紀三八三年、東晋の将軍謝玄は、秦の君主苻堅を安徽省の[シ+肥]水で大いにやぶった。当時、苻堅は歩兵六十余万、騎兵二十七万、親衛隊三万余騎をもっていたのにたいし、東晋は水陸軍あわせてわずか八万しかなかった。両軍が[シ+肥]水をへだてて対峙していたとき、晋軍の将領は、敵軍がおごり高ぶっているのを利用して、秦軍にたいし、晋軍が[シ+肥]水をわたって決戦できるよう、[シ+肥]水北岸に戦場をあけてほしいと申しいれた。秦軍はその予期したとおり承諾したが、軍隊かびとたび後退しだすととどまらなくなったので、晋軍はその機に乗じて[シ+肥]水をわたって攻撃し、大いに秦軍をやぶった。
〔30〕 一九二七年八月一日、中国共産党は、蒋介石、汪精衛の反革命に反対し、一九二四年から一九二七年にかけての革命事業をつづけるため、江西省の省都南昌で有名な蜂起を指導した。この蜂起に参加した武装部隊は三万余人で、指導者には周恩来、朱徳、賀竜、葉挺らの同志がいた。八月五日、蜂起軍は予定の計画にしたがって南昌を撤退したが、広東省の潮州、汕頭一帯まで進んだときに挫折をこうむった。蜂起軍の一部は、のちに朱徳、陳毅、林彪らの同志にひきいられて、転戦をしながら、井岡山に到達し、毛沢東同志の指導する労農革命軍第一軍第一師団と合流した。
〔31〕 本巻の『中国の赤色政権はなぜ存在することができるのか』の注〔8〕を参照。
〔32〕 一九二七年九月、湖南・江西省境地区の修水、萍郷、平江、瀏陽などの県の人民武装組織は、毛沢東同志の指導のもとに、有名な秋収蜂起をおこし、労農革命軍第一軍第一師団をつくった。毛沢東同志はこの軍隊をひきいて井岡山につき、そこで湖南・江西辺区の革命根拠地をうちたてた。
〔33〕 AB団とは当時赤色地域にひそんでいた国民党の反革命特務組織のことである。ABとは英語のAnti-Bolshevik(反ボリシェビキ)の略語である。
〔34〕 江西省中部の[章+”ふゆがまえ”の下に”貢”]江と東部の撫水の二つの川のあいだの地区をいう。
〔35〕 レーニンの『即時に単独講和し、領土割譲条約を締結する問題についてのテーゼ』、『奇妙なことと法外なこと』、『重大な教訓と重大な責任』、『戦争と平和にかんする報告』などの著作および『ソ連共産党(ボリシェビキ)歴史小教程』第七章第七節を参照。
〔36〕 ここでいっているチベット族、回族とは、西康省一帯に住むチベット族と、甘粛省、青海省、新疆に住む回族をさす。
〔37〕 八股文とは十五世紀から十九世紀にかけての中国の封建王朝の官吏登用試験に規定された一種の特殊な文体である。八股文とは破題、承題、起講、入題、短股、中股、後股、束股の部分からなりたっており、「破題」は二句で、まず題目の要義を穿《うが》つ。「承題」はふつう三句か四句で、破題の意義をうけ、それを説明する。「起講」は全体を概説し、ここから論議がはじまる。「入題」は起講ののちに本願に入るところである。起股、中股、後股および束股のこの四段落が、はじめて正式の論議を展開するところで、中股は全文の中心となる。この四段落は、さらにそれぞれたがいに対比した字句をつかう二つの股からなりたち、全部で八股となるので、八股文とよばれ、あるいは八比ともよばれる。毛沢東同志がここでいっているのは、八股文を書くにあたって、一つの部分から他の部分にうつる展開過程のことをさしており、それを革命の発展の各段階にたとえたのである。だが、ふつうのばあい、毛沢東同志は八股文なるものを教条主義にたいするたとえや風刺につかっている。
訳注
① 本巻の『日本帝国主義に反対する戦術について』の訳注④を参照。
② ここでいう「部隊」は、だいたい連隊以下のものをさし、「兵団」は、だいたい師団以上のものをさす。
③ 本巻の『日本帝国主義に反対する戦術について』の訳注⑤を参照。
④ 本巻の『経済活動に心をそそげ』の注〔1〕を参照。
⑤ この会議は一九三五年一月、貴州省の遵義でひらかれた。この会議は、全力を集中して、当時決定的な意義をもっていた軍事上、組織上のあやまりの是正に全力を集中し、党中央における日和見主義路線の支配に終止符をうち、毛沢東同志を代表とする党中央の新しい指導を確立した。これは中国共産党内でもっとも歴史的意義をもつ転換である。
⑥ 「大後方制度に反対する」とは、五回目の反「包囲討伐」のとき、革命根拠地を「大後方」とみなし、一つの国家とみなして、「敵を国門の外でふせぎ」「一歩一歩さがっては抵抗していく」ことと「短距離強襲」などをやろうとする「左」翼日和見主義者のあやまった作戦原則に反対することである。「小後方制度を認める」とは、革命根拠地では、革命戦争を支援するのに分散した小規模な後方を利用すべきことを認めることである。
⑦ 本巻の『日本帝国主義に反対する戦術について』の注〔10〕を参照。
  
  
  

 
 
indianmaoist.blogspot.com
顶端 Posted: 2010-12-02 14:13 | 12 楼
maobadi
级别: 精灵王


精华: 0
发帖: 1265
威望: 1275 点
红花: 12650 朵
贡献值: 0 点
在线时间:535(小时)
注册时间:2009-11-30
最后登录:2013-12-21

 

蒋介石の声明についての声明
          (一九三六年十二月二十八日)
 蒋介石《チァンチェシー》氏は、西安《シーアン》で、張学良《チャンシュエリァン》、楊虎城《ヤンホーチョン》の両将軍および西北地方の人民の抗日の要求をうけいれて〔1〕、まず、内戦をすすめている軍隊に陝西《シャンシー》、甘粛《カンスー》両省から撤退するよう命令した。これは、蒋介石氏が十年来のあやまった政策を転換しはじめたものである。このことは、内戦を指揮し、分裂をつくりだし、同時に今回の事変において蒋氏を死地におとしいれようとした日本帝国主義と中国の討伐派〔2〕の陰謀に打撃をあたえた。日本帝国主義と中国の討伐派の失望は、すでにはっきりとあらわれている。蒋氏がこのような覚醒《かくせい》をしめしたことは、国民党が十年来のあやまった政策をやめようとしていることのあらわれとみてよい。
 蒋介石氏は、十二月二十六日、洛陽《ルオヤン》において「張、楊にたいする訓戒のことば」といわれる声明を発表した。内容はあいまいな、ひねくったもので、中国の政治的文献のなかではじつに興味のある文章である。もし、蒋氏が、ほんとうに今回の事変からふかい教訓をくみとって、国民党の新生のためになんらかの努力をはらい、外国にたいしては妥協、国内にたいしては武力、人民にたいしては抑圧というその伝統的なあやまった政策をやめ、国民党を人民の願望にそむかないところにみちびこうとするならば、かれは、その誠意をしめすために、政治的に過去をふかく悔い、将来の道をひらくもっとよい文章をだすべきである。十二月二十六日の声明は、中国人民大衆の要求を満足させることはできない。
 蒋氏の声明のなかには、称賛にあたいする一節がある。それは、「言った以上かならずまもり、おこなう以上かならず断固としてやる」というくだりである。それは、かれが西安で張、楊のだした条件に署名はしなかったが、国家、民族に有利なそれらの要求は採用するつもりであり、署名しなかったからといって約束をまもらないようなことはない、という意味である。われわれは、蒋氏が撤兵したあとで、はたして確実に信義をまもるかどうか、承諾した条件を実行するかどうかを見まもることにしよう。条件というのはつぎのようなものである。(一)国民党と国民政府を組織がえし、親日派を追いだし、抗日的人物をいれること。(二)上海《シャンハイ》の愛国的指導者たち〔3〕を釈放し、すべての政治犯を釈放し、人民の自由の権利を保障すること。(三)「共産党討伐」の政策をやめ、赤軍と連合して抗日すること。(四)各党、各派、各界、各軍隊による救国会議を招集し、抗日救国の方針をきめること。(五)中国の抗日に共鳴する諸国と協力関係をうちたてること。(六)その他具体的な救国措置をとること。これらの条件を実行するには、なによりもまず確実に信義をまもることが必要であるし、またいくらかの勇気も必要である。われわれは、蒋氏の今後の行動のなかでそれを観察することにしよう。
 しかし、蒋氏の声明のなかには、さらに西安事変は「反動派」の包囲による、ということばがある。残念ながら、かれのいう「反動派」なるものは、いったいどんな人物をさしているのか、蒋氏は説明していないし、また「反動派」という三字を蒋氏の辞典のなかではどのように解釈しているのかもわからない。だが、西安事変はつぎのようないくつかの勢力の影響をうけておこったことはたしかである。(一)張、楊両部隊と西北地方の革命的人民の抗日の波の高まり。(二)全国人民の抗日の波の高まり。(三)国民党左派勢力の発展。(四)各省実力派の抗日救国の要求。(五)共産党の抗日民族統一戦線の主張。(六)世界の平和陣営の発展。これらはすべて争うことのできない事実である。蒋氏のいう「反動派」とはほかでもなくこれらの勢力のことであり、人びとが革命派とよんでいるものを、蒋氏は「反動派」とよんでいるにすぎない。蒋氏は西安で本気になって抗日するという話をしたからには、西安をはなれたとたんにまた全力をあげて革命勢力を攻撃するようなことはやるまい。なぜなら、信義の問題は蒋氏とその一派の政治生命にかかわるばかりでなく、また現実の政治の道においても、蒋氏とその一派の前には、かれらにとって不利な、大きくふくれあがっている勢力が横たわっているからである。西安事変にあたって蒋氏を死地におとしいれようとしたいわゆる討伐派がそれである。だから、われわれとしては、蒋氏に、その政治辞典を改訂して、「反動派」という三字を革命派という三字にあらため、名実あいともなうようにしたほうがよいと忠告する。
 蒋氏は、かれが無事に西安をはなれることのできたのには、西安事変の指導者、張、楊両将軍のほかに、じつに共産党の調停が力になっていることを、記憶しておくべきである。共産党は、西安事変中、平和的解決を主張するとともに、そのためにさまざまな努力をはらったが、それはもっぱら民族の生存という観点から出発したものである。もし、内戦が拡大し、張、楊が長いあいだ蒋氏を監禁したとすれば、事変の進展はいたずらに日本帝国主義と中国の討伐派を有利にするだけであった。このような事情のもとで、共産党は日本帝国主義と中国の討伐派汪精衛《ワンチンウェイ》〔4〕、何応欽《ホーインチン》〔5〕らの陰謀を断固として暴露し、この事変の平和的解決を断固として主張した。これが張、楊両将軍および宋子文《ソンツーウェン》氏〔6〕らの国民党員の主張と、はからずも一致したといえる。これが全国人民の主張である。なぜなら、人民は現在の内戦をひどく憎んでいるからである。
 蒋氏は、西安での条件をうけいれたので、すでに自由をとりもどした。今後の問題は、蒋氏がかれ自身の「言った以上かならずまもり、おこなう以上かならず断固としてやる」という約束をかけ値なしに実行し、救国の条件をぜんぶ確実に実現するかどうか、ということである。全国人民は、蒋氏にこれ以上ためらったり、額面通り実行しなかったりすることを許さないであろう。蒋氏がもし抗日問題でぐらつき、その約束の実行をひきのばそうとするなら、全国人民の革命の波はかならず蒋氏を巻きさらってしまうであろう。古語にも「人にして信なくんば、その可なるを知らず」といわれている。蒋氏とその一派はふかくこの点に注意すべきである。
 蒋氏がもし国民党十年来の反動政策のよごれを洗いおとし、外国にたいしては譲歩、国内にたいしては武力、人民にたいしては抑圧というかれの根本的なあやまりを徹底的にあらため、ただちに各党各派の連合した一致抗日の戦線にはせ参じ、軍事的にも政治的にも、実際に救国のための段どりをとることができるならば、共産党はもちろんかれを支持するであろう。共産党は、はやくも八月二十五日付の国民党あての書簡で、蒋氏と国民党にこうした支持を約束している〔7〕。共産党が「言った以上かならずまもり、おこなう以上かならず断固としてやる」ことは、十五年このかた、全国人民のすでにみとめているところである。共産党の言動にたいする全国人民の信頼は、国内のいずれの党派の言動にたいする信頼よりもじつに高いのである。



〔1〕 張学良をはじめとする国民党東北軍と楊虎城をはじめとする国民党第十七路軍は、中国赤軍と人民の抗日運動の影響をうけて、中国共産党が提起した抗日民族統一戦線に賛成し「蒋介石に共産党と連合して抗日するよう要求した。蒋介石はこの要求を拒絶したばかりでなく、いっそう道理にもとる行動をとり、積極的に「共産党討伐」の軍事配置をととのえるとともに、西安で抗日青年を虐殺した。そこで張学良と楊虎城は共同行動をとり、蒋介石を逮捕した。これが一九三六年十二月十二日の有名な西安事変である。当時、蒋介石は共産党と連合して抗日するという条件をやむをえすうけいれて、釈放され、南京へ帰った。
〔2〕 これは西安事変のとき、張学良と楊虎城を「討伐」するよう主張し、蒋介石と権力争いをしていた南京国民党政府内部の親日派をさす。汪精衛、何応欽をかしらとするこれらのものは、日本帝国主義の進攻に便宜をあたえ、磯に乗じて蒋介石の支配的地位を奪いとるために、西安事変を利用して大規模な内戦をおこそうとしていた。
〔3〕 上海の愛国的な指導者とは、上海で抗日の愛国運動を指導した沈鈞儒、章乃器、鄒韜奮、李公樸、沙千里、史良、王造時の七人をさす。かれらは一九三六年十一月に蒋介石政府に逮捕され、一九三七年七月にようやく釈放された。
〔4〕 汪精衛は当時国民党内の親日派の首領であった。一九三一年から、かれは日本帝国主義の侵略にたいし一貫して妥協を主張していた。一九三八年十二月、かれは重慶をはなれて公然と日本侵略者に投降し、南京かいらい政府を組織した。
〔5〕 何応欽は国民党の軍閥で、国民党内の親日派のもうひとりの首領である。西安事変のなかで、かれは国内戦争の挑発を極力画策し、隴海鉄道に沿って陝西省に進攻するよう、国民党の軍隊を配置するとともに、蒋介石の地位にとってかわるため、西安を爆撃して蒋介石を爆死させる計画をたてていた。
〔6〕 宋子文は親米派である。当時、極東で支配権を争っていた米、日両帝国主義の矛盾から、かれはアメリカの利益にもとづいて、やはり西安事変の平和的解決を主張した。
〔7〕 この書簡は、国民党の反動支配と当時の国民覚中央執行委員会第二回全体会議にたいして、道理にかなった手きびしい批判をくわえると同時に、抗日民族統一戦線を結成することと、あらためて国共合作を実現する用意があることについての中国共産党の政策をあきらかにしたものである。この書簡の主要な部分はつぎのとおりである。「貴党中央執行委員会第二回全体会議のいっている『集中と統一』は、あまりにも本末を転倒している。十年来の内戦と不統一は、まったく貴党と貴党政府の帝国主義に依存して国をあやまらせる政策、ことに『九・一八』いらいの一貫した無抵抗政策によってつくりだされたものであることを知らなければならない。貴党と貴党政府は『外敵を打ちはらうには、まず国内を安んぜよ』というスローガンのもとに、毎年たえまなく内戦をくりびろげ、赤軍にたいしては幾度となく包囲攻撃をおこない、全国人民の愛国運動や民主運動にたいしては全力をあげて弾圧をくわえてきた。最近になってもまだ、東北や華北をすててかえりみず、日本帝国主義が中国の最大の敵であることをわすれ、全力をあげて、赤軍に反対するとともに、貴党員身の陣営内の争いを事とし、また全力をあげて、赤軍の抗日への進路をさえぎり、赤軍の抗日の後方を攪乱し、全国人民の抗日の要求を無視し、全国人民の自由の権利をうばっている。愛国は罪とされ、無実の罪を負うもの全国にみち、売国は賞せられ、民族裏切り者が好運を祝いあっている。このようなあやまった政策によって集中と統一をはかろうとすることは、まさに木によって魚を求めるものであり、まったく逆の結果になる。われわれはここに諸先生に忠告する。もし、諸君が自分のあやまった方針を根本的にあらためないならば、また、憎しみを依然として自己の同胞にむけ、日本帝国主義にむけようとしないならば、諸君が現状をいかに維持しようとしても、不可能であるし、まして集中と統一とか、いわゆる『近代国家』などは、まったく空論となる。全国人民がいま望んでいるのは、外国にへつらい、人民をふみにじる集中と統一ではなくて、抗日救国のための集中と統一なのである。全国人民はいま、真に国を救い人民を救う政府をつよく求め、真の民主共和国をつよく求めている。全国人民は自分たちの利益をはかる民主共和政府を求めている。この政府の主要な綱領はつぎのようなものでなければならない。第一は、外国の侵略に抵抗しうること、第二は、人民に民主主義の権利をあたえうること、第三は、国民経済を発展させ、人民の生活上の苦痛を軽減ないし除去しうることである。『近代国家』というからには、これらの綱領こそ植民地・半植民地の中国がいまの時代にほんとうに求めているものなのである。全国の人民は、現在この目標実現のために、心からの願望と確固たる決意をもってたたかっている。しかるに、貴党と貴党政府の政策は、こうした全国人民の願望とまったく逆行しており、それで人民の信頼をえようとしてもまったく不可能である。中国共産党と中国赤軍は、ここにとくに厳粛に宣言する。われわれは、全中国の統一的な民主共和国の樹立に賛同し、普通選挙権によって選出された国会の招集に賛同し、全国人民と抗日軍隊による抗日救国代表大会を支持し、全国的な統一的国防政府を支持するものである。われわれはつぎのように宣言する。全中国の統一的な民主共和国が樹立されたときには、赤色地域は全中国の統一的な民主共和国の一構成部分となり、赤色地域の人民の代表は、全中国の国会に参加するし、また赤色地域では全中国と同様の民主制度を実行するものである。われわれは、貴党の中央執行委員会第二回全体会議で組織することを決定した国防会議、および貴境と貴党政府が招集しようとしている国民大会では、集中と統一による抗日救国の任務の達成は不可難と考える。貴党中央執行委員会第二回全体会議で採択した国防会議条例によれば、国防会議は、貴境と貴党政府において実権をにぎっている少数の官吏だけによって組織され、国防会議の任務はたんに貴党政府の諮問機関にすぎなくなる。このような会議では、いかなる成果もおさめられず、人民のいかなる信任もえられないことは、きわめてあきらかである。そして、貴党政府採択の『中華民国憲法草案』と『国民大会組織法および代表選挙法』によれば、諸先生の招集しようとする国民大会も、同様に、いかなる成果もおさめられないし、人民のいかなる信任もえられない。なぜなら、このような国民大会は、貴党と貴党政府の少数の官吏たちによってあやつられる機関にすぎず、これらの官吏たちの付属品、装飾品にすぎないからである。このような国防会議と国民大会は、わが党の主張する全国抗日救国代表大会(すなわち国防会議)と中華民主共和国やその国会とはなんの共通点もない。抗日救国の国防会議は、各党、各派、各界、各武装組緘の代表者を参加させて、真に抗日救国の大計を決定しうる権力機関とならなければならず、この会議から全国的な統一国防政府をうみださなければならないものと、われわれは考える。国民大会も、全国人民が普通選挙で選出した国会でなければならず、中華民主共和国の最高権力機関でなければならない。このような国防会議と全国的な国会だけが、全国人民によって歓迎され、支持され、参加されうるものであり、国を救い人民を救う偉大な事業を確固不動の基礎にすえることができる。さもなければ、いかに耳ざわりのよい名称も、けっして、実際には役にたたないし、全国人民から賛成されはしない。貴党と貴党政府がこれまでに招集してきたいろいろの会議の失敗こそ、そのもっともよい証左である。貴党の中央執行委員会第二回全体会議の宣言はさらにつぎのようにものべている。『前途のけわしさはもとより予測しうるが、国事の困難を理由に、そのつくすべき職責をみずからおこたるようなことは断じてしない』、『わが党は国家の興亡にたいし、終始一貫、全知全能をかたむけるべきである。』たしかに貴党は中国の領土の最大部分を支配している政党であり、従来おこなわれた政治のすべての責任は、貴党がおわなければならない。一党独裁の国民党政府のもとでは、自民党はその責任からけっしてのがれることはできない。とくに、九・一八事変以来、貴党は、全国の人民の意思にそむき、全民族の利益にそむいて、完全にあやまった政策を実行し、中国のほとんど半分を喪失する結果をまねいた。この責任はぜったいに他のいかなる人にもおしつけることのできないものである。われわれおよび全国の人民からみれば、中国の半分が貴党によってうしなわれているので、どうしても領土主権回復の責任を貴党に課すとともに、それを督促しないではおれない。同時に、貴党のなかの多くの良心的な人びとも、いまでは亡国のおそろしさと民意の侮るべからざることをはっきりさとって、あらたな転換をしはじめ、自分の党内にいる、党と国家に災いをもたらす連中にたいして、怒りと不満をいだきはじめている。中国共産党は、このようなあらたな転換に完全に共鳴し、愛国心をもつ良心的な中国国民党員の意志と覚醒を心から歓迎し、民族の危機をまえにして、献身的にたたかい、勇敢に革新をはかろうとするその精神を歓迎するものである。貴党の中央執行委員会や各省の党部のなかにも、中央政府や各省政府のなかにも、また教育界、科学界、芸術界、新聞界、実業界、婦人界、宗教界、医薬界、警察方面、各種の大衆団体にも、とくに広範な軍隊、国民党の新旧党員および各級の指導者のなかにも、覚醒した、愛国的な人びとが、実際に多くおり、しかも日ごとにふえつつあることを、われわれは知っており、これは非常によろこばしい現象である。中国共産党は、いつでも、これらの国民党員と手をたすさえ、強固な民族統一戦線を組織して、全民族の最大の敵――日本帝国主義とたたかう用意がある。われわれは、これらの国民党員が国民党内で急速に支配的な勢力を形成していって、民族の利益をかえりみす、実際には日本帝国主義の代理人となり親日的民族裏切り者となりさがった、もっとも悪質な、もっとも恥すべき国民党員、孫中山先生を侮辱するあの国民党員どもを圧倒して、孫中山先生の革命的三民主義の精神をとりもどし、孫中山先生の、連ソ、連共、農労援助という三大政策をふたたびふるいおこし、『終始』、自己の『全知全能をかたむけて』、革命的三民主義とその三大政策を『一貫』させ、孫中山先生の革命の遺言を『一貫』させることを希望する。われわれは、かれらが全国の各党、各派、各界の愛国的指導者や愛国的人民とともに、断固として、孫中山先生の革命事業をうけつぐ責任をおい、断固として日本帝国主義を追いだし、中国を滅亡の危機から救うためにたたかい、全国人民の民主主義の権利のためにたたかい、中国の国民経済を発展させて最大多数の人民の苦痛を除くためにたたかい、中華民主共和国およびその民主的国会、民主的政府を実現するためにたたかうよう希望する。中国共産党はすべての中国国民党員につぎのように宣言する。もしも、諸君がほんとうにそうするならば、われわれは断固として諸君をたすける。われわれは、一九二四年から一九二七年までの中国の偉大な革命の時期に、両党が民族的抑圧と封建的抑圧に反対する偉大な統一戦線を結成したのとおなじように、諸君と強固な革命的な統一戦線を結成することを望んでいる。これこそがこんにち、国を滅亡から救い、民族の生存をはかるただ一つの正しい道だからである。」
  
  
  

 
 
indianmaoist.blogspot.com
顶端 Posted: 2010-12-02 14:14 | 13 楼
maobadi
级别: 精灵王


精华: 0
发帖: 1265
威望: 1275 点
红花: 12650 朵
贡献值: 0 点
在线时间:535(小时)
注册时间:2009-11-30
最后登录:2013-12-21

 

抗日の時期における中国共産党の任務
          (一九三七年五月三日)
     これは、毛沢東同志が一九三七年五月、延安でひらかれた中国共産党全国代表者会議でおこなった報告である。

     民族的矛盾および国内的矛盾の当面の発展段階

 (一)中国と日本との矛盾が主要な矛盾になり、国内的矛盾が副次的、従属的な地位にさがったことによってうまれた国際関係と国内の階級関係の変化が、当面の情勢の新しい発展段階を形成している。
 (二)中国は、ずっとまえから、ニつのはげしい基本的な矛盾――帝国主義と中国とのあいだの矛盾、封建制度と人民大衆とのあいだの矛盾のなかにおかれてきた。一九二七年に、国民党を代表とするブルジョア階級が革命を裏切り、民族の利益を帝国主義に売りわたしたことによって、労農政権は国民党政権と鋭く対立し、また民族民主主義革命の任務は中国共産党がひとりでになわなければならない情勢がつくりだされた。
 (三)一九三一年の九・一八事変、とくに一九三五年の華北事変〔1〕いらいの情勢は、これらの矛盾につぎのような変化をおこさせた。
 (1)帝国主義一般と中国との矛盾は、日本帝国主義と中国との、とくにきわだった、とくに鋭い矛盾に変わった。日本帝国主義は、中国を完全に征服する政策を実行している。このため、他の一部の帝国主義と中国との矛盾は、副次的な地位におしやられ、そしてそれらの帝国主義と日本帝国主義とのあいだでは、矛盾の裂け目がいっそう拡大した。このため、中国共産党と中国人民のまえには、中国の抗日民族統一戦線と世界の平和戦線とをむすびつける任務が提起されている。すなわち、中国は、中国人民の終始変わらぬよき友であるソ連と連合しなければならないばかりでなく、いまのところ、新しい侵略戦争に反対し、平和を保つことをのぞんでいる一部の帝国主義国とも、その可能性に応じて、ともに日本帝国主義に反対する関係をうちたてなければならないということである。われわれの統一戦線は、すべての帝国主義に同時に反対するのではなくて、抗日を目的とすべきである。
 (2)中国と日本との矛盾は、国内の階級関係に変化をおこさせ、ブルジョア階級、さらに軍閥にさえも、存亡の問題につきあたらせており、かれらとその政党の内部には、しだいにその政治的態度を変える過程がうまれた。このことが、中国共産党と中国人民のまえに、抗日民族統一戦線をうちたてる任務を提起した。われわれの統一戦線は、ブルジョア階級および祖国の防衛に賛成するすべての人びとをふくみ、挙国一致して外にあたるものである。この任務は、やりとげねばならないだけでなく、やりとげることのできるものである。
 (3)中国と日本との矛盾は、全国の人民大衆(プロレタリア階級、農民および都市小ブルジョア階級)と共産党の状態および政策に変化をおこさせた。人民はいっそう大きな規模で、救国のたたかいに立ちあがっている。共産党は、三つの条件(革命根拠地にたいする進攻を停止すること、人民の自由の権利を保障すること、人民を武装すること)のもとで、われわれと協力して抗日することをのぞむ国民党内の一部の人びとと抗日協定をむすぶという「九・一八」以後の政策を、全民族の抗日統一戦線をうちたてる政策に発展させた。これが、わが党の一九三五年八月の宣言〔2〕、十二月の決議〔3〕、一九三六年五月の「反蒋」スローガンの放棄〔4〕、八月の国民党への書簡〔5〕、九月の民主共和国についての決議〔6〕、十二月の西安《シーアン》事変にたいする平和的解決の堅持、一九三七年二月の自民党中央執行委員会第三回全体会議への電報〔7〕などの措置をとってきた理由である。
 (4)帝国主義の勢力範囲をつくる政策と中国の半植民地的経済状態からうまれた、中国における軍閥の割拠や軍閥間の内戦にも、中国と日本との矛盾をまえにして、変化がおきている。日本帝国主義は、中国を独占するのに都合のよいように、そうした割拠と内戦を支持している。他の一部の帝国主義は、かれら自身の利益から、一時的に中国の統一と平和を支持している。中国共産党と中国人民は、内戦と分裂に反対し、平和と統一をたたかいとるのに、非常に大きな努力をはらっている。
 (5)中国と日本との民族的矛盾の発展は、政治的比重のうえで、国内各階級間の矛盾と政治集団間の矛盾の地位を引きさげ、それらを副次的な、従属的なものに変えた。しかし、国内の各階級間の矛盾と政治集団間の矛盾そのものは、べつに減少したのでも消滅したのでもなく、依然として存在している。中国と日本以外の他の帝国主義諸国とのあいだの矛盾もまたそのとおりである。したがって、中国共産党と中国人民のまえにはつぎのような任務が提起された。すなわち、いま調整することができ、また調整しなければならない国内的、国際的な矛盾を、団結して抗日するという全般的任務に適合させるよう、適切に調整することである。これが、中国共産党の平和と統一、民主的政治、生活改善、および日本に反対する外国との交渉などを要求する、さまざまな方針をとってきた理由である。
 (四)一九三五年十二月九日からはじまった中国革命の新しい時期の第一段階は、一九三七年二月の国民党中央執行委員会第三回全体会議のときをもって、一段落をつげた。この段階での重要なできごとは、学生、文化人、言論界の救国運動、赤軍の西北地方への到達、共産党の抗日民族統一戦線政策の宣伝と組織活動、上海《シャンハイ》と青島《チンタオ》の反日ストライキ〔8〕、イギリスの対日政策の比較的強硬化の傾向〔9〕、広東《コヮントン》・広西《コヮンシー》の事変〔10〕、綏遠《スイユァン》戦争と綏遠援助運動〔11〕、中日交渉における南京《ナンチン》の比較的強硬な態度〔12〕、西安事変、そして最後に、南京の国民党中央執行委員会第三回全体会議〔13〕である。これらのできごとは、すべて中国と日本の対立という基本的矛盾を中心としており、いずれも直接に抗日民族統一戦線の結成という歴史的要求を中心としている。この段階での革命の基本的任務は、一致団結して、ともに抗日するために、国内の平和をたたかいとり、国内の武装衝突を停止させることである。共産党はこの段階で、「内戦を停止し、一致して抗日せよ」というよびかけをだした。このよびかけは基本的に実現された。こうして、抗日民族統一戦線を実際に組織していくうえでの第一の必要な条件ができあがった。
 (五)国民党中央執行委員会第三回全体会議は、その内部に親日派が存在していることから、政策の明確な、徹底した転換をしめさなかったし、問題を具体的に解決しなかった。ところが、人民からの圧力と国民党内部の変動によって、国民党は過去十年間のあやまった政策を転換しはじめなければならなくなった。すなわち、内戦と独裁と対日無抵抗政策から、平和と民主と抗日の方向への転換であり、抗日民族統一戦線政策をうけいれはじめたことである。このような初歩的な転換が、国民党中央執行委員会第三回全体会議にあらわれてきたのである。今後の要求は、国民党の政策の徹底的な転換である。こうした目的をたっするには、われわれおよび全国の人民が、国民党にたいする批判、推進、督促をさらにつよめ、国民党内の平和と民主と抗日を主張する人びとと団結し、動揺しためらっている人びとを前におしすすめ、親日分子を排除し、抗日と民主主義の運動をいっそう大きく発展させることが必要である。
 (六)当面の段階は、新しい時期の第二の段階である。まえの段階もこの段階も、全国的な対日武力抗戦へとすすむ過渡的段階である。まえの段階の任務が主として平和をたたかいとることであったとすれば、この段階の任務は主として民主主義をたたかいとることである。ほんとうの強固な抗日民族統一戦線をうちたてるには、国内の平和がなければならないことはもちろんであるが、国内の民主主義もなければならないことを知るべきである。したがって、民主主義をたたかいとることは、当面の発展段階での革命の任務の中心的な環である。民主主義的任務の重要性をはっきり見てとらず、民主主義をたたかいとる努力をゆるめるならば、われわれは、ほんとうの強固な抗日民族統一戦線をうちたてることはできないであろう。
民主と自由のためのたたかい

 (七)日本帝国主義は、いま中国中心部にたいする侵略準備に、拍車をかけている。ヒトラーやムッソリーニが西方で準備に拍車をかけている強盗戦争に呼応して、日本は東方で、既定の段どりにしたがって、中国を一挙に滅ぼす条件――国内の軍事的、政治的、経済的、思想的条件、国際上の外交的条件、中国での親日勢力の育成――をあらゆる精力をかたむけて準備している。「中日提携」なるものの宣伝や、一部の外交的措置の緩和は、まさに戦争前夜における日本の侵略政策の戦術的必要からでている。中国はその存亡をきめる瀬戸ぎわにおいこまれている。中国の救国抗戦は、駆け足で準備されなければならない。われわれは、準備に反対するものではないが、長期準備論には反対であり、また官吏や軍人の安楽をむさぼり、飽食して日をすごす亡国的現象には反対する。こうしたことは、実際には敵をたすけるもので、すみやかに一掃しなければならない。
 (八)政治、軍事、経済、教育のうえで国防の準備をすることは、救国抗戦にとって欠くことのできない条件であり、一刻も猶予してはならないものである。そして、政治上の民主と自由をかちとることは、抗戦の勝利を保障する中心的な環である。抗戦には、全国的な平和と団結が必要であり、民主と自由がなければ、すでにかちとった平和をかためることもできなければ、国内の団結をつよめることもできない。抗戦には人民の動員が必要であるが、民主と自由がなければ、動員をするにもしようがない。強固な平和と団結がなく、人民の動員がなければ、抗戦の前途はエチオピアの二の舞いをふむことになる。エチオピアが敗北したのは、おもに内部の団結をかためることができず、人民の積極性を発揮させることのできない封建制度の支配によるものである。中国がほんとうの強固な抗日民族統一戦線をうちたて、またその任務を達成するには、民主主義がなければだめである。
 (九)中国は、ただちに、つぎの二つの面で民主的改革を実行しはじめなければならない。第一の面は、政治制度のうえで国民党による一政党、一階級だけの反動的独裁的政体を、各政党、各階級の協力による民主的政体にあらためることである。この面です、まず国民大会の選挙とその招集上の反民主的なやり方をあらためて、民主的な選挙を実行し、入会の自由な開催を保障することから、ほんとうの民主的憲法を制定し、ほんとうの民主的国会を招集し、ほんとうの民主的政府を選出し、ほんとうの民主的政策を実施することまでやらなければならない。そうしないかぎり、挙国一致して外敵に抵抗するために、ほんとうに国内の平和をかため、国内の武力による対立をやめさせ、国内の団結をつよめることはできない。しかし、われわれの改革が終わらないうちに、日本帝国主義が進攻してくるという事態がおこる可能性もある。したがって、日本の進攻にいつでも抵抗でき、それに徹底的にうち勝つためには、われわれはすみやかに改革をすすめなければならず、また抗戦の過程で徹底的改革にまですすむ心構えをすることである。全国人民および各政党の愛国的な人びとは、国民大会や憲法制定の問題にたいするこれまでの冷淡な態度をすて、国防的意義をもつこの具体的な国民大会運動と憲法運動に力を集中し、政権をにぎっている国民党をきびしく批判し、国民党がその一政党、一階級の独裁をすてて人民の意見を実行するように推進し督促しなければならない。ことしの数ヵ月のあいだに、全国で広範な民主主義運動をおこさなければならない。この運動の当面の目標は、国民大会と憲法の民主化の達成におくべきである。第二の面は、人民の言論、集会、結社の自由である。このような自由がなければ、政治制度の民主的改革を実現することもできず、祖国防衛と失地回復の勝利をかちとるよう人民を抗戦に動員することもできない。ここ数ヵ月のうちに、全国人民の民主主義運動は、政治犯の釈放、政党禁止の解除などをふくむこの任務の最低限度の達成をたたかいとらなければならない。政治制度の民主的改革と、人民の自由の権利は、抗日民族統一戦線の綱領の重要な部分であり、同時にそれは、ほんとうの強固な抗日民族統一戦線をうちたてるための必要な条件でもある。
 (一〇)われわれの敵――日本帝国主義、中国の民族裏切り者、親日派、トロツキストは、全力をあげて中国の平和と統一、民主と自由、および対日抗戦の一つ一つの段どりを破壊している。これまで、われわれが平和と統一のためにたたかっていたとき、かれらは、内戦と分裂を挑発することに全力をつくした。現在および近い将来、われわれが、民主と自由のためにたたかうとき、かれらはまたこれを破壊しようとするにちがいない。かれらの総目標は、祖国を防衛するわれわれの抗戦任務を成功させないようにし、中国を滅亡させようとするかれらの侵略計画の目的を達成することにある。今後、民主と自由をたたかいとる闘争では、国民党の頑迷派や人民内部のおくれた層にたいする宣伝、扇動および批判の活動に力をいれるだけでなく、日本帝国主義および日本の中国侵略の手先をつとめる親日派とトロツキストの陰謀にたちむかい、あますところなくこれを暴露し、断固としてこれとたたかわなければならない。
 (一一)平和と民主と抗戦のために、また抗日の民族統一戦線をうちたてるために、中国共産党は、すでに国民党中央執行委員会第三回全体会議にあてた電報のなかで、つぎの四項目を保証している。(イ)共産党の指導する陝西《シャンシー》・甘粛《カンスー》・寧夏《ニンシァ》革命根拠地の政府は、中華民国特別地区政府と改称し、赤軍は国民革命軍と改称して、南京中央政府および軍事委員会の指示をうけること。(ロ)特別地区政府の地域内では、徹底的な民主制度を実行すること。(ハ)国民党を武力によってうちたおす方針をとりやめること。(ニ)地主の土地の没収をとりやめること。これらの保証は、必要なことであり、またゆるされることである。なぜなら、そうしないかぎり、民族的矛盾と国内的矛盾の政治的比重のうえでの変化にもとづいて、国内の二つの政権の敵対状態をあらため、一致団結し、ともに敵にあたることはできないからである。これは、原則性のある条件つきの譲歩であり、このような譲歩をするのは、そのかわりとして全民族が必要としている平和、民主、抗戦を手にいれるためである。だが、譲歩には限度がある。特別地区と赤軍のなかでの共産党の指導の確保、国民党と共産党の両党の関係における共産党の独立性と批判の自由の確保、これが譲歩の限度であり、この限度をこえることはゆるされない。譲歩は両党の譲歩である。国民党は内戦、独裁および対外無抵抗政策を放棄し、共産党は二つの政権の敵対という政策を放棄することである。われわれは、後者によって前者を手にいれ、あらためて国民党と協力し、救国のためにたたかうのである。これを共産党の降伏だというならば、それは阿Q主義〔14〕と悪意にみちた中傷でしかない。
 (一二)共産党は三民主義に賛成するのか。賛成するとわれわれは答える〔15〕。三民主義には歴史上変化があった。孫中山《スンチョンシャン》先生の革命的三民主義は、かつて孫中山先生が共産党と協力し、それを断固として実行したことによって人民の信頼をかちとり、一九二四年から一九二七年までの勝利にかがやく革命の旗じるしとなった。ところが、一九二七年に国民党は共産党を排斥し(清党運動〔16〕と反共戦争)、まったく反対の政策をとって、革命を失敗させ、民族を危険な状態におとしいれたので、三民主義も人民から信頼をうしなった。現在、民族の危機はきわめて重大で、国民党は、もはやいままでどおりの支配をつづけられなくなったので、全国の人民や国民党内の愛国的な人びとは、両党が協力することをふたたび切実に要求している。したがって、三民主義の精神をたてなおし、対外的には独立と解放をたたかいとる民族主義、対内的には民主と自由を実現する民権主義および人民の幸福を増進する民生主義のもとで、両党がふたたび協力し、また断固それを実行するよう人民を指導することは、中国革命の歴史的要求に完全に合致するものであって、共産党員はだれでもこれをはっきりと認識していなければならない。共産党員は、けっして社会主義と共産主義の理想をすてるものではなく、ブルジョア民主主義革命の段階をへて社会主義と共産主義の段階に到達しようとするものである。中国共産党は自分の政治経済綱領をもっている。その最高の綱領は社会主義および共産主義であって、それは三民主義とはちがっている。その民主主義革命の時期における綱領もまた、国内のどの政党のものよりも徹底している。しかし、共産党の民主主義革命の綱領は、国民党の第一回全国代表大会で宣言された三民主義の綱領と、基本的には衝突しない。だから、われわれは、三民主義を拒否しないばかりか、三民主義を断固実行する考えであり、しかも、国民党にわれわれとともに三民主義を実行するよう要求し、また全国の人民に三民主義を実行するようよびかけるものである。共産党、国民党、全国の人民は一致協力して、民族の独立、民権の自由、民生の幸福という、この三大目標のために奮闘しなければならないものとわれわれは考える。
 (一三)われわれのこれまでの労農民主共和国のスローガンは、まちがっていたであろうか。まちがってはいなかった。ブルジョア階級、とくに大ブルジョア階級が、革命から脱落し、しかも帝国主義と封建勢力に身を投じ、人民の敵となった以上、革命の原動力は、ただプロレタリア階級、農民および都市の小ブルジョア階級だけとなり、革命の政党は、ただ共産党だけとなり、革命を組織する責務は、唯一の革命政党としての共産党の肩にかかってこざるをえなかった。共産党だけが、革命の旗を高くかかげつづけ、革命の伝統をまもり、労農民主共和国のスローガンをかかげ、しかも、そのスローガンのために長い年月のあいだ困難にめげず奮闘してきた。労農民主共和国のスローガンは、ブルジョア民主主義革命の任務にそむくものではなくて、ブルジョア民主主義革命の任務を断固として実行するものである。実際のたたかいにおいてわれわれの政策はなに一つとしてこの任務に反するものはなかった。地主の土地の没収と八時間労働制の実施をふくむわれわれの政策は、資本主義的範疇《はんちゅう》での私有財産制の限界をこえるものではなかったし、社会主義を実行するものでもなかった。新しい民主共和国にふくまれる階級的要素とはどのようなものか。それにふくまれるものは、プロレタリア階級、農民、都市小ブルジョア階級、ブルジョア階級および民族民主主義革命に賛成する国内のすべての人びとであり、それは、これらの階級の民族民主主義革命の同盟である。ここでの特徴はブルジョア階級がふくまれることであり、それは、こんにちの環境のもとで、ブルジョア階級にふたたび抗日に参加する可能性がでてきたので、プロレタリア階級の政党としては、かれらを拒否すべきではなく、中国革命の前進に役立てるために、かれらをひきいれ、かれらとともにたたかう同盟を復活しなければならないからである。国内の武力衝突を停止させるために、共産党は、地主の土地を暴力によって没収する政策をとりやめるつもりであり、土地問題は、新しい民主共和国を建設する過程で、立法的な方法や別の適切な方法で解決する用意がある。中国の土地は、日本人のものか、それとも中国人のものか。これがまず解決されなければならない問題である。中国を防衛するという大前提のもとで、農民の土地問題を解決するからには、暴力によって没収する方法から新しい適切な方法に転換することは、ぜひとも必要なことである。
 労農民主共和国のスローガンが以前提起されたことも、こんにち放棄されたことも、どちらも正しい。
 (一四)民族統一戦線をうちたて、ともに敵にあたるためには、国内の一部の矛盾を適切に解決しなければならない。それは、抗日民族統一戦線をよわめたり、せばめたりすることではなく、その強化と拡大に役立つことを原則とすべきである。民主主義革命の段階では、国内の各階級間、各政党間、各政治集団間の矛盾と闘争は、さげられないものである。だが、団結して抗日することにとって不利な闘争(国内戦争、政党間の敵対、地方的割拠、一方における封建的な政治的抑圧および経済的抑圧、他方における暴動政策および抗日に不利な過大な経済的要求など)は停止できるし、また停止しなければならず、団結して抗日することにとって有利な闘争(批判の自由、政党の独立性、人民の政治的条件および経済的条件の改善など)は持続していく。
 (一五)抗日民族統一戦線と統一的な民主共和国のためにたたかうという全般的任務のもとでの、赤軍と抗日根拠地の任務はつぎのとおりである。(1)赤軍を抗日戦争という状況に適応させるよう、ただちに国民革命軍に編成がえするとともに、軍事的、政治的、文化的教育をよりいっそうたかめて、抗日戦争における模範兵団につくりあげる。(2)根拠地を国家の一構成部分にかえ、新しい条件のもとでの民主制度を実行し、保安部隊を編成しなおし、民族裏切り者や攪乱《かくらん》分子を一掃して、抗日と民主の模範地域につくりあげる。(3)この地域内で必要な経済建設をおこない、人民の生活状態を改善する。(4)必要な文化建設をおこなう。

 われわれの指導責務

 (一六)一定の歴史的環境のもとでは、帝国主義や封建制度とのたたかいに参加しうる中国のブルジョア階級は、その経済的、政治的軟弱性から、他の歴史的環境のもとでは、動揺し変節する。この法則は、中国の歴史においてすでに証明されている。したがって、中国の反帝・反封建のブルジョア民主主義革命の任務を達成するには、ブルジョア階級の指導によるのではなくて、プロレタリア階級の指導によらなければならないことは、すでに歴史によって判定されている。しかも、ブルジョア階級のもつあの先天的な動揺性と不徹底性を克服して、革命を流産させないようにするには、民主主義革命のなかで、プロレタリア階級がその強靱《きょうじん》性と徹底性を十分に発揮する以外にない。プロレタリア階級をブルジョア階級に追随させるか、それともブルジョア階級をプロレタリア階級に追随させるか。中国革命を指導する責務というこの問題は、革命が成功するか失敗するかの鍵《かぎ》である。一九二四年から一九二七年までの経験は、ブルジョア階級がプロレタリア階級の政治的指導にしたがったとき、革命がどんなに前進したか、プロレタリア階級(共産党が責任を負う)が政治的にブルジョア階級に追随してしまったとき〔17〕、革命はまたどんなに失敗をなめたかを、あきらかにしている。このような歴史を二度とくりかえしてはならない。いまの状況からいうならば、プロレタリア階級とその政党の政治的指導をはなれては、抗日民族統一戦線をうちたてることも、平和と民主と抗戦の目的を実現することも、祖国を防衛することも、統一的な民主共和国を実現することもできない。こんにちでも、国民党に代表されるブルジョア階級は、まだ多くの受動性と保守性をもっており、共産党が提唱した抗日民族統一戦線を長いあいだうけいれようとしなかったことが、その証拠である。このような状況が、プロレタリア階級とその政党の政治的指導の責務をさらに重くしている。抗日救国の参謀本部としての職責は、共産党にとって他に転嫁することも、また辞退することもできないものである。
 (一七)プロレタリア階級は、その政党をつうじて、全国の革命的諸階級にたいして、どのように政治的指導を実現するか。第一に、歴史の発展過程にもとづいた基本的な政治的スローガンを提起し、またこのスローガンを実現するために、一つ一つの発展段階、一つ一つの重要なできごとについて、動員のスローガンを提起する。たとえば、われわれは「抗日民族統一戦線」と「統一的な民主共和国」という基本的なスローガンを提起し、さらに全国人民が一致して行動する具体的目標として「内戦を停止せよ」「民主主義をたたかいとろう」「抗戦を実行せよ」というスローガンを提起したが、このような具体的目標がなければ、政治的指導といったものはありえない。第二に、このような具体的目標にもとづいて全国的に行動に立ちあがったとき、プロレタリア階級、とくにその前衛――共産党は、これちの具体的目標を実現するうえでの模範となるよう自己のかぎりない積極性と忠実さをしめすべきである。抗日民族統一戦線と民主共和国についてのすべての任務のためにたたかうにあたって、共産党員は、もっとも遠い見通しをもち、もっとも犠牲的精神に富み、もっとも確固としており、またもっとも虚心に状況を把握《はあく》することができ、大衆の多数に依拠し、大衆の支持をかちとるようにしなければならない。第三に、確定した政治目標をみうしなわないという原則のもとに、同盟者と適切な関係をうちたて、この同盟を発展、強化させる。第四に、共産党の隊列の拡大と思想の統一、規律の厳格さである。全国の人民にたいする共産党の政治的指導は、以上のべたこれらの条件を実行することによって実現される。これらの条件は自己の政治的指導を保障する基礎であり、また革命が同盟者の動揺性によって破壊されることなく、徹底的な勝利をかちとる基礎でもある。
 (一八)平和が実現し、両党の協力関係が成立したのちには、いままで二つの政権が敵対していたときの路線のもとでの闘争方式や組織方式や活動方式には、なんらかの変更がなされなければならない。それは主として、武力的なものから平和的なものにうつり、非合法的なものから合法的なものにうつることである。このような転換は、たやすいものではなく、あらためて学習する必要がある。幹部をあらためて訓練することがその主要な環になる。
 (一九)民主共和国の性格と前途の問題については、多くの同志からすでに提起された。われわれの答えはつぎのとおりである。その階級的性格は革命的諸階級の同盟であり、その前途は社会主義にすすむ可能性をもっている。われわれの民主共和国は、民族的抗戦の任務を遂行する過程で樹立されるものであり、プロレタリア階級の指導のもとで樹立されるものであり、新しい国際環境(ソ連における社会主義の勝利、世界革命の新しい時期の前夜)のもとで樹立されるものである。したがって、社会的、経済的条件からすれば、それはやはりブルジョア民主主義的性格の国家ではあるが、具体的な政治的条件からすれば、一般的なブルジョア共和国とは異なるもので、労働者、農民、小ブルジョア階級およびブルジョア階級の同盟による国家でなければならない。したがって、その前途はやはり資本主義の方向にすすむ可能性をもってはいるが、同時にまた社会主義の方向に転ずる可能性をももっている。中国のプロレタリア政党はこの後者の前途をたたかいとるようつとめなければならない。
 (二〇)閉鎖主義と冒険主義にたいする、同時にまた追随主義にたいするたたかいは、党の任務を遂行するための必要な条件である。わが党は、民衆運動において、ひどい閉鎖主義、高慢なセクト主義および冒険主義という伝統的傾向をもっている。これは党が抗日民族統一戦線をうちたて、多数の大衆を獲得することをさまたげる悪い傾向である。一つ一つの具体的な活動のなかでこのような傾向を一掃していくことは、ぜひとも必要である。われわれが要求することは、多数にたより、全局面に気をくばることである。陳独秀的追随主義の復活はゆるされない。これはプロレタリア階級の隊列におけるブルジョア改良主義の反映である。党の立場をひきさげ、党の姿をあいまいにし、労働者、農民の利益を犠牲にして、ブルジョア改良主義の要求に迎合することは、かならず革命を失敗にみちびくものである。われわれが要求することは、断固たる革命政策を実行し、ブルジョア民主主義革命の徹底的勝利をたたかいとることである。以上のべたような悪い傾向を克服する目的を果たすためには、全党的にマルクス・レーニン主義の理論的水準をたかめることがぜひとも必要である。なぜなら中国革命を勝利にみちびく指針としては、そうした理論しかないからである。



〔1〕 華北事変とは、一九三五年、日本侵略者が華北を侵略し、蒋介石をかしらとする国民党政府が華北で主権を売りわたした一連の事件をさす。同年五月、日本侵略者は、華北における支配権を国民党政府に要求し、華北における国民党政府代表何応欽は、六月に日本侵略者の華北駐屯軍司令官梅津美治郎と協定を結び、この要求をうけいれた。これがいわゆる「何応欽・梅津協定」である。この協定によって、中圏は河北省と察哈爾省の王権の大部分をうしなってしまった。日本侵略者はまた十月に河北省の香河県で民族裏切り者をさしずして、暴動をおこさせ、県部を占領させた。さらに十一月には、民族裏切り者をあやつって、「華北五省自治運動」なるものをおこすとともに、河北省東部の民族裏切り者の「防共自治政府」をつくった。国民党政府は日本侵略者の「華北政権特殊化」の要求に応ずるため、宋哲元らに命じて、「冀察政務委員会」をつくらせた。
〔2〕 これは一九三五年八月一日に中国共産党が発表した宣言をさす。この宣言の要点はつぎのとおりである。「わが国家、民族の滅亡の危機が目前にせまっているこのとき、共産党はかさねて、全国同胞によびかける。あらゆる国力(人力、物力、財力、武装力など)を集中して抗日救国の神聖な事業につくすために、各政党間に、過去および現在、政見や利害のうえでいかなるちかいがあろうと、また各界の同胞のあいだに、主張や利害のうえでいかなる相違があろうと、各軍隊間に、過去および現在、いかなる敵対行為があろうと、すべてのものが『兄弟牆《かき》に鬩《せめ》げど、外その侮りを禦《ふせ》ぐ』という真の自覚をもつべきであり、まずすべてのものが内戦を停止すべきである。共産党はとくにかさねて厳粛に宣言する。国民党軍隊が赤軍攻撃の行動をやめさえすれば、またいかなる部隊であろうと対日抗戦を実行しさえすれば、過去および現在、かれらが赤軍とのあいだにいかなる宿怨を有しようと、また赤軍とのあいだに国内問題でいかなる相違があろうと、赤軍は、ただちに敵対行為を停止するばかりでなく、かれらとかたく手をむすび、ともに救国にあたりたいとのぞむものである。」「共産党はこのような国防政府樹立の発起人になる用意があり、また共産党は抗日救国事業への参加をねがう中国のあらゆる政党、団体(労働組合、農会、学生会、商業会議所、教育会、新聞記者連合会、教職員連合会、同郷会、致公堂、民族武装自衛会、反日会、救国会など)、知名人、学者、政治家、およびすべての地方軍政機関と共同して国防政府を樹立する問題についてただちに話しあいをする用意がある。話しあいによって樹立される国防政府は、国家、民族を滅亡から救う臨時指導機関となるべきである。この国防政府は抗日救国にかんするさまざまの問題をいっそう具体的に討議するために、真に全同胞を代表する(労働者、農民、軍人、官公吏、商工業者.知識層など各界の人びと、抗日救国をねがうすべての政党や団体、および国外の華僑や中国国内の各民族によって、民主的条件のもとで選出された代表)代表機関を招集する措置を講ずべきである。共産党は、このような全人民を代表する機関の招集をあくまでも支持するとともに、この機関の決議をあくまでも実行するものである。」「抗日連合軍は、抗日をねがうすべての部隊によって組織されるべきである。そして、国防政府の指導のもとに統一的な抗日連合軍総司令部がつくられる。この総司令部が、各軍の抗日をする長官および兵士によって選出された代表からなるか、あるいはその他の形式からなるかは、各方面の代表および全人民の共同の意思によって決定される。赤軍は抗日救国の使命をはたすために、あくまでも率先してこの連合軍にくわわる。国防政府が国防の重任を真ににないうるようにするために、また抗日連合軍が抗日の重責を真にはたしうるようにするために、共産党は全同胞につぎのようによびかける。わが全同胞を総動員し、新旧あらゆる武器をもって何百何千万の民衆を武装するために、金あるものは金を、武器あるものは武器を、食糧あるものは食糧を、力あるものは力を、専門技術あるものは専門技術を提供しよう。」
〔3〕 これは一九三五年十二月二十五日、陝西省北部の瓦窰堡でひらかれた中国共産党中央政治局会議で採択された「当面の政治情勢と党の任務についての決議」をさす。この決議は、当時の中国の内外情勢と階級関係の変化を全面的に分析して、党の政策を決定した。以下はこの決議の一部である。「当面の情勢は、日本帝国主義の中国併呑の行動が全中国と全世界に衝動をあたえたことをわれわれに教えている。中国の政治生活における各階級、階層、政党および武装勢力間の相互関係はあらたに変化したか、あるいは、変化しつつある。民族革命戦線と民族反革命戦線は再編されつつある。したがって、党の戦術路線は、全中国、全民族のすべての革命勢力を動員し、結集し、組織して、当面する主要な敵――日本帝国主義と売国奴の頭目蒋介石に反対することである。いかなる人、いかなる党派、いかなる武装部隊、いかなる階級でも、日本帝国主義と売国奴蒋介石に反対するものならば、すべて連合して、神聖な民族革命戦争を展開し、日本帝国主義を中国から追いだし、日本帝国主義の手先どもの中国における支配をくつがえし、中華民族の徹底的な解放をたたかいとり、中国の独立と領土の保全をはかるべきである。日本帝国主義とその手先蒋介石にうち勝ちうるのは、もっとも広範な反日民族統一戦線(下部のものと上部のもの)だけである。もちろんそれぞれの個人、団体、社会階級、社会階層、武装部隊が、反日の民族革命に参加するのには、それぞれ異なった動機や立場がある。あるものはかれらの従来の地位を保持するためであり、あるものはこの運動が自分たちのゆるす範囲をでないように運動の指導権をうばうためであり、またあるものは真に中華民族の徹底的な解放をはかるためである。それぞれの動機と立場が異なっているからこそ、闘争がはじまるとすぐに動揺して裏切るものがいたり、中途で消極的になるか、あるいは戦線から脱落するものがいたり、最後までたたかいぬこうとするものがいたりするのである。しかし、われわれの任務はあらゆる可能な反日の基本勢力を結集するだけではなくて、あらゆる可能な反日の同盟者をも結集することであり、愛国的な中国人なら、だれひとり反日戦線に参加しないものがないよう、全国の人民に、力あるものは力を、金あるものは金を、武器あるものは武器を、知識あるものは知識をださせることである。これが、党のもっとも広範な民族統一戦線戦術の総路線である。われわれが全国の人民の力を動員して、全国人民の共同の敵である日本帝国主義と売国奴蒋介石に対処しうるには、ただこの路線にもとづく以外にない。中国の労働者階級と農民は、依然として中国革命の基本的な原動力である。広範な小ブルジョア大衆、革命的な知識層は、民族革命のなかでもっともたよりになる同盟者である。労働者、農民、小ブルジョア階級のかたい同盟は、日本帝国主義と民族裏切り者、売国奴にうち勝つ基本的な力である。一部の民族ブルジョア階級と軍閥は、土地革命と赤色政権にいかに不賛成であっても、かれらが日本に反対し、民族裏切り者、売国奴に反対する闘争にたいして、共鳴する態度をとるか、あるいは善意の中立をたもつか、あるいはこれに直接参加するばあいは、反日戦線の展開にとって有利である。なぜならば、このことは、かれらを反革命勢力全体からひきはなして、革命勢力全体を拡大させるからである。この目的を達成するために、党はこれらの勢力を反日戦線にたたかいとるようさまざまな適切な方法と方式をとるべきである。そればかりでなく、地主買弁階級の陣営内部も、完全に統一しているわけではなく、中国ではいままで多くの帝国主義がたがいに競争してきた結果、各帝国主義国のために中国でたがいに競争しあう売国奴集団がうまれており、かれらのあいだには矛盾と衝突があるので、党はまた、一部の反革命勢力を、一時的にせよ反日戦線に積極的に反対しない立場にたたせるようさまざまな方法を講ずべきである。日本帝国主義以外の他の帝国主義にたいする戦術もまたこれとおなじである。党は、全中国人民の共同の敵にあたるため、全中国人民の力を動員し、結集し、組織するばあい、反日統一戦線内部のあらゆる動揺、妥協、投降および裏切りの傾向にたいしては、動揺することなく断固として闘争をおこなうべきである。中国人民の反日運動を破壊するものは、すべて民族裏切り者、売国奴であって、こぞってこれを攻撃すべきである。共産党は日本反対、民族裏切り者、売国奴反対の徹底した正しい言論と行動とをもって、反日戦線における自己の指導権を獲得すべきである。また、反日運動は、共産党の指導によってのみ徹底的な勝利をかちとることができる。反日戦争に参加する広範な大衆にたいしては、その基本的利益についての要求(農民の土地にたいする要求、労働者、兵士、貧民、知識層などの生活と待遇改善の要求)をみたすべきである。かれらの要求をみたしてのみ、より広範な大衆を反日の戦列に動員することができ、反日運動を持久性のあるものにすることができ、運動を徹底的な勝利にみちびくことかできるのである。またこうしてのみ、反日戦争における党の指導権を獲得することができるのである。」『日本帝国主義に反対する戦術について』という論文を参照。
〔4〕 一九三六年五月五日、南京政府に停戦・講和および一致抗日を要求した赤軍の通告電にみられる。この通告電の全文はつぎのとおりである。「南京国民政府軍事委員会、陸海空全軍、全国各党、各派、各団体、各新聞社、および亡国奴となることをのぞまないすべての同胞諸君。中国赤軍革命軍事委員会が中国人民赤軍抗日先鋒軍を組織して黄河を渡って東征していらい、行くさきざきで勝利し、全国がこれに呼応している。ところが、抗日先鋒軍が同蒲鉄道(大同―蒲州)を占領して、河北省へ東進し日本帝国主義と直接戦おうと積極的に準備していたとき、蒋介石氏はこともあろうに十コ師団以上の兵力を山西省におくり、閻錫山氏と協力して、赤軍の抗日への進路をさえぎるとともに、張学良、楊虎城の両氏および陝西省北部の軍隊に、陝西、甘粛の赤色地域に挺進し、わが抗日の後方を攪乱するよう命令した。中国人民赤軍抗日先鋒軍は、日本と直接戦う目的をたっするためには、本来ならば、全力を集中して、抗日への進路をはばむ蒋氏の部隊を消滅すべきである。しかし、赤軍革命軍事委員会は再三考慮の結果、国難をまえにして双方が決戦すれば、勝敗がどうきまろうとも、中国の国防力にとっては損失であり、それをよろこぶものは、日本帝国主義であると考えた。しかも、蒋介石、閻錫山両氏の部隊には、内戦停止、一致抗日をねがう愛国的軍人もすくなくなく、かれらがいま、両氏の命令をうけて、赤軍の抗日への進路をさえざるのは、実際には自分の良心にそむく行動となるのである。したがって、赤軍革命軍事委員会は、抗日戦争を早急におこなえるよう国防の実力を保持するために、またわれわれが、幾度となく国民にたいして宣言してきた内戦停止と一致抗日の主張を断固として実行するために、蒋介石氏およびその部下の愛国的軍人たちの最後の覚醒をうながすために、山西省で数多くの勝利をえたにもかかわらず、人民抗日先鋒軍を黄河の西岸に撤退させた。われわれはこの行動によって、南京政府、全国の陸海空軍および全国の人民にたいし、停戦抗日の目的を達成するために、抗日する赤軍を攻撃しているすべての武装部隊と一ヵ月以内に、停戦・講和をおこないたいという誠意をしめした。赤軍革命軍事委員会は、南京政府の諸公にとくに丁重に進言する。国家、民族の滅亡がせまっているこの緊急な瀬戸ぎわには、当然、翻然として悔いあらため、『兄弟牆に鬩げど、外その侮りを禦ぐ』の精神をもって、全国的範囲において、まず陝西省、甘粛省、山西省において内戦を停止し、双方から代表をだして抗日救国の具体的方法について協議すべきである。これは、諸公の幸であるのみか、じつに民族、国家の福でもある。もし、依然として頑迷にしてさとらず、甘んじて民族裏切り者、売国奴となるならば、諸公の支配はかならず最後には瓦解し、かならず全国の人民から見すてられ、くつがえされるであろう。ことわざにも『千人の指さすところ、病なくして死す』といわれ、『凶刃をすてて、善人になる』ともいわれている。諸公の熟慮をのぞむ。赤軍革命軍事委員会は、亡国奴となることをのそまない全国のすべての団体、政党、人民に、われわれの停戦・講和と一致抗日の主張を支持し、内戦停止促進会を組織し、代表を派遣して双方の火線を隔離し、この主張の完全な実現を督促し監視するよう、さらによびかけるものである。」
〔5〕 本巻の『蒋介石の声明についての声明』の注〔7〕にみられる。
〔6〕 一九三五年十二月、中国共産党中央政治局会議で採択された「当面の政治情勢と党の任務についての決議」と毛沢東同志の『日本帝国主義に反対する戦術について』という報告で、人民共和国のスローガンが提起された。その後情勢の必要にもとづいて、中国共産党は蒋介石に抗日をせまる政策をとり、人民共和国というこのスローガンは蒋介石集団にはうけいれられないと推定して、一九三六年八月、国民党にあてた書簡で、民主共和国というスローガンにあらためた。つづいて、同年九月、中国共産党中央が採択した「抗日救国運動の新しい情勢と民主共和国についての決議」で、さらに民主共和国のスローガンについて具体的な説明をおこなった。この二つのスローガンは、形式のうえではちがっているが、実質は一致している。以下は、一九三六年九月、中国共産党中央で採択された決議の民主共和国の問題にかんする部分の二節である。「党中央は、当面の情勢のもとで民主共和国樹立のスローガンを提起する必要があると考える。なぜなら、これはあらゆる抗日勢力を結集して、中国領土の保全を保障し、中国人民を国家、民族の滅亡の惨禍からふせぐもっともよい方法であり、しかも、広範な人民の民主主義的要求からうまれた、もっとも適切な統一戦線のスローガンでもあるからである。民主共和国は、一部の領土にうちたてられた労農民主主義独裁の制度よりも、いっそう、地域的にひろげられた民主主義であり、全中国の主要な地域での国民党の一党独裁よりも、大いにすすんだ政治制度であり、したがって、抗日戦争をひろくまきおこし、徹底的勝利をかちとることをいっそう保障しうるのである。同時に、民主共和国は、全中国のもっとも広範な人民大衆を政治生活に参加させ、その自覚の度合いと組織の力をたかめることができるばかりでなく、さらに、中国のプロレタリア階級とその指導者共産党にも、将来の社会主義の勝利のためのたたかいに自由な活動の舞台をあたえるものである。したがって、中国共産党は、民主共和国の運動を積極的に支持することを宣言する。さらに、民主共和国が全中国において樹立され、普通選挙にもとづいた国会が招集されるときには、赤色地域はその一構成部分となり、赤色地域の人民は代表を選出して国会におくり、赤色地域内で同様な民主主義制度を完成することを宣言する。」「党中央はつぎのことを強調する。われわれが、国民党南京政府を抗日の方向にすすませるためには、また民主共和国を実現する前提条件をつくるためには、全中国人民の抗日救国運動をひきつづき展開し、各党・各派、各界・各軍の抗日民族統一戦線を拡大し、民族統一戦線における中国共産党の政治的情導の役割をつよめ、赤色政権と赤軍を極力強化する以外になく、国の主権を売りわたし、民族統一戦線の力をよわめるようなあらゆる言論と行動にたいして、断固としてたたかう以外にない。苦難な長期にわたる闘争がなければ、全中国人民のたちあがりと革命のたかまりがなければ、民主共和国の実現は不可能である。中国共産党は、民主共和国のためにたたかう過程において、この民主共和国を、わが党の提起した抗日救国十六綱領の実行にはじまって、中国のブルジョア民主主義革命の基本的任務の徹底的完成にまですすませるべきである。」
〔7〕 この電報は、一九三七年二月十日に発したもので、原文はつぎのとおりである。「中国国民党中央執行委員会第三回全体会議の諸先生。西安問題の平和的解決は、国をあげてのよろこびであり、平和と統一、団結によって外敵にあたるという方針がこれより実現しうることは、じつに国家、民族の幸である。日本侵略者が横暴をきわめ、中華民族の存亡が危機一髪にあるとき、貴党の中央執行委員会第三回全体会議が、この方針にもとづき、つぎの各項を国策として決定されることをわが党は切望するものである。すなわち、(一)すべての内戦を停止し、国力を結集し、一致して外敵にあたる、(二)言論、集会、結社の自由を保障し、すべての政治犯を釈放する、(三)各党、各派、各界、各軍の代表者会議を招集し、全国の人材を結集して、ともに救国にあたる、(四)対日抗戦のあらゆる準備を早急に完了する、(五)人民の生活を改善する、ことである。もし貴党の中央執行委員会第三回全体会議が、決然として、これを国策として確定されるならば、わが党は、団結によって外敵にあたる誠意をしめすために、貴党の中央執行委員会第三回全体会議に、つぎの点を保証したい。(一)国民政府をくつがえそうとする武装暴動の方針を全国的範囲でとりやめる、(二)労農民主政府は中華民国特別地区政府と改称し、赤軍は国民革命軍と改称し、直接、南京中央政府と軍事委員会の指示をうける、(三)特別地区政府の地域内では、普通選挙による徹底的な民主制度を実行する、(四)地主の土地を没収する政策をとりやめ、抗日民族統一戦線の共同綱領を断固実行する。」
〔8〕 一九三六年十一月から十二月にかけて、上海にある日本の紡績工場と中国の紡績工場あわせて二十六工場の労働者四万五干余人が、大ストライキをおこなった。十二月には、青島にある日本の各紡績工場の労働者も、上海の労働者に呼応して、いっせいにストライキをおこなった。上海の労働者は、十一月分から五パーセントの賃上げを獲得し、工場側が労働者を不当に解雇したり、殴打し、侮辱したりすることを許さないという勝利をおさめた。青島の労働者は、日本の海軍陸戦隊の弾圧にあった。
〔9〕 一九三三年に日本侵略者が山海関を占領して華北に侵入してから、とくに一九三五年の「何応欽・梅津協定」が締結されてから、イギリス、アメリカ帝国主義の華北、華中における利益は、日本帝国主義の直接の打撃をうけるようになった。そのため、イギリス、アメリカは、日本にたいする態度を変えはじめるとともに、蒋介石政府の対日政策にも影響をあたえた。一九三六年、西安事変がおきたとき、イギリスはその在華利益にとって不利な日本の要求を拒否することを主張したばかりでなく、蒋介石政府がひきつづき中国人民を支配することができさえすれば、日本の侵略政策に打撃をあたえるため、「共産党とのなんらかの形での提携」をしてもよいという態度さえしめした。
〔10〕 広西省軍閥の李宗仁、白崇禧、広東省軍閥の陳済[”学”の”子”の代わりに”呆”]らは、一九三六年六月、「抗日救国」に名をかりて、連合して蒋介石に反対した。同年八月、このできごとは、蒋介石の離間、買収などの手段によって、つぶされた。
〔11〕 一九三六年八月、日本侵略軍とかいらい軍が綏遠省にたいする侵略をはじめた。十一月、綏遠省駐屯の中国軍はこれに抵抗し、全国人民は、綏遠援助運動をくりひろげた。
〔12〕 一九三五年の「何応欽・海津協定」締結後、中国人民の抗日の波におされ、また、イギリス、アメリカ帝国主義の対日政策がわりあい強硬化したことに影響されて、南京国民党政府は、日本にたいし、わりあい強硬な態度をとるようになった。一九三六年九月から十二月にかけての交渉で、国民党政府はひきのはしの方法をとり、交渉を結果がえられないままに中断させた。
〔13〕 西安事変が平和的に解決されたあと、一九三七年二月十五日南京でひらかれた国民党中央執行委員会の会議をさす。
〔14〕 阿Qとは、中国の偉大な作家魯迅の有名な小説「阿Q正伝」の主人公である。魯迅はこの人物をつうじて、自分で自分をなぐさめることか習性になり、どんな状況のもとでも自分では勝利者、すなわち「精神的勝利」者と思いこんでいるものの典型を描きだしている。
〔15〕 ここでいう孫中山の三民主義とは、かれが提起した民族、民権、民生の三つの問題についての原則と綱領をさし、かれの世界観あるいは理論体系をさすのではない。共産党員は、ブルジョア民主主義革命の段階では、孫中山の綱領の基本的な面に賛成し、かれと協力するが、しかし、かれに代表されるブルジョア的、小ブルジョア的な世界観あるいは理論体系には賛成していない。世界観あるいは理論体系のうえでは、また民族問題その他の問題の理論的観点のうえでは、中国プロレタリア階級の前衛としての共産党員は、孫中山とは完全にちがっている。毛沢東同志の『新民主主義論』を参照。
〔16〕 国民党は、一九二四年、孫中山によって改組されてから、諸階級の革命的同盟体に変わり、当時、中国共産党員は個人の資格で国民党に参加していた。一九三七年、国民党は、革命を裏切ったのち、全国各地で共産党員と、国民党内における孫中山の三大政策の真の支持者である左派の人びとを多数殺害し、これを「清党運動」と称した。国民党はこのときから大地主、大ブルジョア階級の反革命政党に変わってしまった。
〔17〕ここでは、一九二七年の上半期、共産党中央の日和見主義的指導によってもたらされた状態をさしている
  
  
  

 
 
indianmaoist.blogspot.com
顶端 Posted: 2010-12-02 14:20 | 14 楼
maobadi
级别: 精灵王


精华: 0
发帖: 1265
威望: 1275 点
红花: 12650 朵
贡献值: 0 点
在线时间:535(小时)
注册时间:2009-11-30
最后登录:2013-12-21

 

何百何千万の大衆を抗日民族統一戦線へ参加させるためにたたかおう

          (一九三七年九月七日)


これは、毛沢東同志が一九三七年五月の中国共産党全国代表者会議でおこなった結語である。


 同志諸君! わたしの報告――『抗日の時期における中国共産党の任務』にたいして、この数日間にわたる討議で、ごく少数の同志がちがった意見をだしたほかは、みなすでに賛意を表明した。かれらのちがった意見は、かなり重要性をもっているので、わたしの結語ではまずこれらの意見を検討し、そのうえで、ほかのいくつかの問題にふれよう。

     平和の問題

 わが党が国内の平和のためのたたかいをはじめてから、ほぼ二年の月日がたった。国民党中央執行委員会第三回全体会議のあとで、われわれは、平和はすでにかちとった、「平和をかちとる」段階はすでにすぎた、新しい任務は「平和をかためる」ことである、というとともに、これは「民主をかちとる」こととつながっている――民主をかちとることによって平和をかためるのだ、と指摘した。ところが、われわれのこうした意見は、何人かの同志にいわせるとなりたたないことになる。かれらの結論は、どうしても反対のものになるか、あるいは両者のあいだを動揺するものになるのである。なぜなら、かれらは、「日本は後退した〔1〕、南京《ナンチン》はいっそう動揺してきた、民族的矛盾が低下し、国内的矛盾が上昇した」といっているからである。このような評価にしたがえば、もちろん新しい段階とか、新しい任務とかいうものはなくなり、状況はもとの段階にかえったか、あるいはそれよりも悪いことになる。わたしは、このような意見はまちがっているとおもう。
 われわれは、平和をかちとったとはいっているが、それは平和がかためられたといっているのではなく、逆に、平和はかためられていないといっているのである。平和が実現することと平和がかためられることとは別問題である。歴史が一時的に逆もどりすることはありうるし、平和には曲折もありうる。その原因は、日本帝国主義と民族裏切り者、親日派がいることである。しかし、西安《シーアン》事変ののち、平和が実現したことは事実であり、この状況は多方面(日本がとっている進攻という基本方針、ソ連と英米仏諸国の平和への支持、中国人民の圧力、西安事変における中国共産党の平和の方針と二つの政権の敵対を停止させる政策、ブルジョア階級の分化、国民党の分化など)からつくりだされたものであって、蒋介石がひとりで決定したり、くつがえしたりすることのできるものではない。平和をくつがえそうとするには、多方面の勢力とたたかわなければならないし、また日本帝国主義や親日派に近づいていかなければ、なしとげられるものではない。日本帝国主義や親日派が中国に内戦をつづけさせようといまなおたくらんでいることは、いうまでもない。平和がかためられていないのは、まさにこのためである。こうした状況のもとでのわれわれの結論は、「内戦をやめよう」とか「平和をかちとろう」とかいった古いスローガンにもどるのではなくて、一歩前進して、「民主をかちとろう」という新しいスローガンをかかげることである。そうしなければ、平和をかためることもできないし、また抗戦を実現することもできない。なぜ、「平和をかためよう」「民主をかちとろう」「抗戦を実現しよう」という三位一体のスローガンをかかげるのか。それは、われわれの革命の車輪を一歩前進させるためであり、また状況がすでにわれわれに一歩前進をゆるしているからである。もし、新しい段階と新しい任務を否定し、国民党が「転換しはじめた」ことを否定し、しかも、その論理的結論として、平和をかちとるためにたたかってきた各派勢力のこの一年半の努力のすべての成果をも否定せざるをえないとしたら、それは、一歩の前進もなく、自分をもとの位置にとどまらせているにすぎない。
 これらの同志は、なぜこのような適切でない評価をくだすのか。その原因は、かれらが時局を観察するばあいに根本的な点から出発しないで、多くの局部的な、また一時的な現象(佐藤外交、蘇州《スーチョウ》裁判〔2〕、ストライキ強圧、東北軍の東部への移動〔3〕、楊虎城《ヤンホーチョン》の外遊〔4〕など)から出発するからであり、それで暗い画面がえがきだされるのである。われわれは、国民党がすでに転換しはじめたといったが、同時に、国民党は敵底的に転換してはいないともいう。われわれおよび人民の新しいより多くの、またより大きな努力なしに、国民党の十年にわたる反動政策を、徹底的に転換させることは考えられないことである。みずからを「左」翼だと豪語している多くの人は、平素から国民党をひどくののしり、西安事変では、蒋を殺し、「潼関《トンコヮン》からうって出よ」〔5〕と主張しておりながら、平和が実現したばかりのときに蘇州裁判などの事件がおこると、おどろいたような口ぶりで、「なぜ蒋介石はまたこんなことをやったんだ」といっている。これらの人びとは、共産党員も蒋介石も仙人ではなく、また孤立した個人でもなくて、一つの政党、一つの階級のなかにいる人間だということを知らなければならない。共産党は革命を一歩一歩前進させる能力をもってはいるが、全国の悪事を、一朝のうちにきれいに取りのぞいてしまうような能力はもっていない。蒋介石や国民党はすでに転換しはじめているが、全国人民のさらに大きな努力がなければ、けっして一朝のうちに、かれらの十年間のよごれをきれいに洗いさられるものではない。われわれは、運動の方向が平和、民主、抗戦にむかっている、といっているが、努力もしないで内戦、独裁、無抵抗というこれまでの毒素を一掃できるといっているのではない。これまでの毒素、よごれ、革命の進展過程でのなんらかの曲折やおこりうる逆もどりを克服することができるのは、たたかいと努力だけであって、しかも長期にわたるたたかいと努力を必要とするのである。
 「かれらはひたすらわれわれを破壊しようとしている」。そのとおりである。かれらはいつもわれわれを破壊しようとたくらんでおり、わたしはこのような評価の正しさを完全にみとめる。この点を評価しないなら、眠っているのとおなじである。だが、問題は、破壊の仕方に変化があったかどうかにある。わたしは変化があったとおもう。戦争と虐殺の政策から改良と欺瞞の政策に変わり、強硬な政策から柔軟な政策に変わり、軍事的政策から政治的政策に変わったのである。なぜこのような変化があったのか。それは、日本帝国主義を前にして、われわれが同盟軍をブルジョア階級にもとめるのとおなじように、ブルジョア階級と国民党も一時的に同盟軍をプロレタリア階級にもとめざるをえなくなったからである。問題をみるには、この点から出発しなければならない。国際関係において、フランス政府がソ連敵視からソ連との連合に変わった〔6〕のも、これとおなじ理由である。圏内におけるわれわれの任務もまた、軍事的なものから政治的なものに変わったのである。われわれは陰謀や詭計《きけい》を必要としない。われわれの目的は、ブルジョア階級と国民党内の抗日に共鳴するすべての人びとを結集して、ともに日本帝国主義をうちやぶることにある。


 民主の問題

 「民主を強調するのはあやまりで、ただ抗日だけを強調すべきである。抗日の直接行動がなければ、民主運動はありえない。多くの人は、抗日だけを要求して、民主は要求していない。『一二・九』①がもういちどあれば、それでよいのだ」。
 まず、問題をすこしだそう。まえの段階(一九三五年の一二・九運動から一九三七年二月の国民党中央執行委員会第三回全体会議まで)では、多くの人が抗日だけを要求して、平和は要求していなかったといえるだろうか。まえに平和を強調したのはまちがっていただろうか。抗日の直接行動がなければ、平和運動はありえないだろうか(西安事変や国民党中央執行委員会第三回全体会議は綏遠《スイユァン》抗戦が終わったのちのことであり、現在でもまだ綏遠抗戦や「一二・九」のようなものはない)。抗日には平和が必要であり、平和がなければ抗日はできず、平和が抗日の条件であることを、知らないものはない。まえの段階でのあらゆる直接、間接の抗日行動(「一二・九」から国民党中央執行委員会第三回全体会議まで)は、すべて平和をかちとることをめぐっておこなわれ、平和はまえの段階での中心的な環であり、まえの段階での抗日運動のもっとも本質的なものであった。
 抗日の任務にとって、民主もまた新しい段階におけるもっとも本質的なものであり、民主のためとは、抗日のためということである。抗日と平和、民主と平和がたがいに条件となっているのとおなじように、抗日と民主はたがいに条件となっているのである。民主は抗日の保障であり、抗日は民主運動の発展に有利な条件をあたえることができる。
 新しい段階で、直接的、間接的な多くの反日闘争のおこることをわれわれはのぞむし、またおこるにちがいない。それらが対日抗戦をおしすすめるであろうし、また大いに民主運動の助けともなる。しかし、歴史がわれわれにあたえている革命の任務の中心的な本質的なものは、民主をかちとることである。「民主」、この「民主」はまちがっているだろうか。 わたしはまちがっていないとおもう。
 「日本は後退した、イギリスと日本は均衡がとれはじめている、南京はいっそう動揺してきた」。これは歴史の発展法則を理解しないことからうまれた的はずれの心配である。日本がもし国内革命によって根本的に後退したのなら、中国革命にとって有利であり、われわれののぞむところであり、世界侵略戦線の崩壊の始まりであるのに、どうしてまた心配することがあるのだろうか。しかし、本当は、まだそうなっていない。佐藤外交は大戦の準備であり、大戦はわれわれの前にせまっている。イギリスの動揺政策も無結果に終わるほかない。これはイギリスと日本との利害が異なることによって決定づけられている。南京が長期にわたって動揺しつづけるなら、かれらは全国人民の敵となってしまうので、それも南京の利益がゆるさない。一時的な後退現象が全般的な歴史の法則にとってかわることはできない。したがって、新しい段階を否定することはできないし、また民主の任務の提起を否定することもできない。しかも、状況がどうあっても、民主のスローガンはすべて適応できるものであり、民主は、中国人にとってありあまっているものではなくて、欠けているものである。これはだれにもあきらかである。まして、実際の状況がしめしているように、新しい段階を指摘し、民主の任務を提起したことは、抗戦に一歩近づいたものである。時局はすでに前進した。それをあとにひきもどしてはならない。
 「なぜ国民大会を強調するのか」。それは、国民大会が、生活のすべての面と関連する可能性をもつものであり、反動的独裁から民主へのかけ橋であり、国防的な性質をおびており、合法的なものだからである。同志諸君が提起しているように、河北《ホーペイ》省東部と察哈爾《チャーハール》省北部の奪回、密輸入反対、「経済提携」反対などは、いずれも正しい。だが、このことは民主の任務や国民大会と、たがいに補いあっていて、少しも矛盾するものではない。しかし、中心的なものは国民大会と人民の自由である。
 日常的な反日闘争および人民の生活のための闘争が、民主運動と呼応しなければならないということは、まったく正しいし、またなんら論議の余地もない。だが、現段階での中心的なそして本質的なものは、民主と自由である。

革命の前途の問題

 何人かの同志がこの問題をだしているが、わたしは簡単に答えることにする。
 上下二編からなる論文は、前編をうまく書かないと、後編もうまく書けない。民主主義革命を断固として指導することは、社会主義の勝利をかちとる条件である。われわれは社会主義のためにたたかうものであって、この点はいかなる革命的な三民主義者とも異なっている。現在の努力は将来の大きな目標にむけられており、この大きな目標をみうしなっては、共産党員ではなくなる。しかし、こんにちの努力をゆるめても、やはり、共産党員ではなくなる。
 われわれは革命の転化論〔7〕者であり、民主主義革命を社会主義の方向に転化させていくことを主張する。民主主義革命には、いくつかの発展段階があるが、それらはみな民主共和国のスローガンのもとですすめられる。ブルジョア階級の優位からプロレタリア階級の優位へ、これは、闘争の長い過程であり、指導権をかちとる過程であって、それは共産党がプロレタリア階級の意識水準、組織水準をたかめ、農民と都市小ブルジョア階級の意識水準、組織水準を高めることにかかっている。
 プロレタリア階級のかたい同盟者は農民であり、そのつぎは都市の小ブルジョア階級である。われわれと指導権を争うものはブルジョア階級である。
 ブルジョア階級の動揺と不徹底性を克服するには、大衆の力と正しい政策に依拠しなければならない。そうしなければ、ブルジョア階級が逆にプロレタリア階級を制圧するであろう。
 血を流さない転化はわれわれの希望するものであり、われわれはそうなるように努力すべきであるが、できるかどうかは大衆の力いかんにかかっている。
 われわれはトロツキー主義の「永久革命」論者〔8〕ではなく、革命の転化論者である。われわれは、民主共和国のあらゆる必要な段階をへて、社会主義に到達することを主張する。われわれは追随主義に反対するが、また冒険主義やせっかち病にも反対する。
 ブルジョア階級の革命への参加の一時性を理由にして、ブルジョア階級はいらないといい、ブルジョア階級の抗日派(半植民地での)との連合を投降主義だというのは、トロツキー主義者のいい方であって、われわれはこれには同意できない。こんにちのブルジョア階級の抗日派との連合こそ、社会主義へすすむためにとおらなければならないかけ橋である。

    幹部の問題

 偉大な革命を指導するには、偉大な党がなければならないし、多くのもっとも優秀な幹部がなければならない。四億五千万の人口をもつ中国で、歴史上空前の大革命をおこなうには、指導するものがせまい小集団であってはならないし、またささいなことにこだわって大局をみず、遠い見通しをもたない、能力のない指導者や幹部しか党内にいないようであってもならない。中国共産党ははやくから大政党であったし、反動期に損失をうけながらも、依然として大政党であり、多くの優秀な指導者と幹部をもっている。だが、まだ十分ではない。わが党の組織は全国に発展しなければならず、何万もの幹部を意識的に養成し、何百人ものもっとも優秀な大衆の指導者をもたなければならない。これらの幹部と指導者は、マルクス・レーニン主義を身につけ、政治的に遠い見通しをもち、活動能力をもち、献身的精神に富み、独自で問題を解決することができ、困難のなかにあっても動揺せず、民族のため、階級のため、党のために誠心誠意活動するものでなければならない。党は、これらの人びとに依拠して、党員や大衆とむすびつき、これらの人びとの大衆にたいするしっかりした指導に依拠して、敵を打倒する目的を達成するのである。これらの人びとは、私利私欲のない、個人英雄主義や売名主義のない、怠惰や消極性のない、尊大なセクト主義のない、大公無私の民族の英雄、階級の英雄であって、これこそ、共産党員、党の幹部、党の指導者のもつべき性格であり、作風である。命をささげたわが何万人の党員、何千人の幹部、何十人のもっとも優秀な指導者がわれわれに残してくれた精神もまた、こうしたものである。いうまでもなくわれわれは、これらのものをまなんで、自己をよりよく改造し、より高い革命的水準に高めなければならない。だが、それだけではまだ十分ではない。さらに、全党および全国において多くの新しい幹部と指導者を発見するということをも、一つの任務にしなければならない。「幹部がすべてを決定する」〔9〕とスターリンがいったように、われわれの革命は幹部にかかっている。

党内民主の問題

 このような目的をたっするには、党内の民主が必要である。党に力をもたせるには、党の民主集中制の実行によって全党の積極性を発揮させなければならない。反動期と内戦の時期には、集中制の方がやや多くあらわれていた。新しい時期には、集中制は民主制と緊密にむすびつかなければならない。民主制を実行することによって全党の積極性を発揮させるのである。全党の積極性の発揮によって、大量の幹部をきたえあげ、セクト的観念の残りかすを一掃し、全党をはがねのように固く団結させよう。

大会の団結と全党の団結

 大会における政治問題についての異なった意見は、説明をつうじてすでに一致をみるにいたった。党中央の路線とごく少数の同志の指導する退却的な路線とのあいだにかつてあった相違も、すでに解決され〔10〕、わが党がすでに非常にかたく団結していることをしめしている。このような団結は当面の民族民主主義革命のもっとも重要な基礎である。なぜなら、共産党の団結があってはじめて、全階級と全民族の団結を実現することができ、全階級と全民族の団結があってはじめて、敵にうち勝ち、民族民主主義革命の任務を達成することができるからである。

     何百何千万の大衆を抗日民族統一戦線へ参加させるためにたたかおう

 われわれの正しい政治方針とかたい団結は、何百何干方の大衆を抗日民族統一戦線へ参加させることが、その目的である。プロレタリア階級、農民、都市小ブルジョア階級の広範な大衆にたいして、われわれは宣伝、扇動および組織の活動をする必要がある。ブルジョア階級の抗日派とわれわれが同盟をむすぶことでも、やはりわれわれはいっそうの活動をする必要がある。党の方針を大衆のものにするためには、われわれの長期にわたって堅持する、どんな失敗にもくじけない、あらゆる苦難にたえる、辛抱づよい、めんどうをいとわない努力がなければならない。このような努力なしには、なにごともなしとげられない。抗日民族統一戦線の結成と強化、およびその任務の達成、中国における民主共和国の実現には、この大衆をかちとる努力をすこしでもゆるがせにすることはできない。このような努力によって、何百何千万の大衆をわれわれの指導のもとにかちとったならば、われわれの革命の任務は急速に達成できるのである。われわれの努力によって、日本帝国主義は確実にうちたおされ、民族の解放と社会の解放は完全に実現されるにちがいない。



〔注〕
〔1〕 西安事変ののち、日本帝国主義者は国民党当局にはたらきかけ、当時すでに実現しはじめていた中国国内の平和と、しだいに形成されつつあった抗日民族統一戦線を破壊させようとして、表面的には一時おだやかな速度をとった。一九三六年十二月と一九三七年三月、日本侵略者は、二度にわたって、かいらい内蒙古自治政府をそそのかして、南京の国民党政府を支持するという通告電をうたせた。そのうえ日本の外棺佐藤は、これまでの中国にたいする関係をあらため、中国の統一と復興に協力するなどといつわりのことばをならべて、蒋介石の篭絡にのりだした。他方、日本の財閥の児玉謙次らは、また中国が「近代国家の組織を完成する」ことに協力すると称して、「経済視察団」なるものを組織して中国にやってきた。いわゆる「佐藤外交」および日本帝国主義のこうしたうわべだけの現象にまどわされた一部の人たちのいう「日本の後退」とは、こうした一連の侵略的陰謀をさしている。
〔2〕 一九三六年十一月、国民党政府は、当時、上海で抗日救国運動を指導していた沈鈞儒ら七人の指導者を逮捕した。一九三七年四月、蘇州の国民党高等法院の検察官は、沈鈞儒らを「公訴」した。国民党当局は、すべての愛国運動のことを「民国をあやうくする」ものだという、これまでの反動的なきまり文句をとなえつづけ、沈鈞儒らにたいしても「民国をあやうくする」という「罪状」をかぶせた。
〔3〕 西安事変前、東北軍は、陝西省、甘粛省の境界地区に駐屯し、陝西省北部の赤軍と直接接触していたので、赤軍の影響をふかくうけ、それで西安事変をおこすにいたった。一九三七年三月、国民党反動派は、赤軍と東北車との関係をひきはなし、またその機会に乗じて、東北軍の内部を分裂させようとして、東北軍に東の河南省と安徽省への移動を強硬に命令した。
〔4〕 楊虎城は、西安事変をおこした西北地方の軍事指導者で、張学良とならんで名声をはせ、当時「張楊」とよばれていた。張学良は蒋介石を釈放したのち、蒋を南京までおくりとどけると、ただちに抑留された。一九三七年四月、楊虎城も国民党反動派から、辞職して外遊することを強制された。楊虎城は抗日戦争勃発後、抗日活動に参加しようとして帰国したが、これも蒋介石のために長期監禁され、一九四九年九月、人民解放軍か重慶にせまったとき、ついに強制収容所で殺害された。
〔5〕 潼関は、陝西、河南、山西の省境にある軍事的要地である。西安事変のとき、国民党の部隊は主として潼関以東に駐屯していた。当時、「左」翼と豪語していた一部の人(張国燾はそのひとりである)は「潼関からうって出よ」、つまり国民党部隊にむかって進攻せよ、と主張した。このような主張は、西安事変を平和的に解決しようとする党中央の方針と相反するものであった。
〔6〕 フランス帝国主義は、ロシア十月革命後、長いあいだソ連を敵視する政策をとってきた。十月革命後まもなく、フランス政府は、一九一八年から一九二〇年にかけてのソ連にたいする十四ヵ国の武力干渉に積極的に参加した。そしてこの干渉が失敗したのちも、依然としてソ連を孤立させる反動政策をとりつづけた。一九三五年五月になって、ソ連平和外交政策のフランス人民にたいする影響、ファシスト・ドイツのフランスにたいする脅威によって、フランスはようやく、ソ連と相互援助条約を結ぶにいたった。だが、フランスの反動政府は、のちになるとこの条約を忠実に実行しなかった。
〔7〕 マルクス、エンゲルスの『共産党宣言』の第四の部分、レーニンの『民主主義革命における社会民主党の二つの戦術』の第十二と第十三の部分、『ソ連共産党(ボリシェピキ)歴史小教程』の第三章第三節を参照。
〔8〕 スターリンの『レーニン主義の基礎について』の第三の部分、『十月革命とロシア共産主義者の戦術』の第二の部分、『レーニン主義の諸問題によせて』の第三の部分を参照。
〔9〕 一九三五年五月、赤軍大学卒業式におけるスターリンの演説にみられる。原文はつぎのとおりである。「世界にあるすべての貴重な資本のうちで、もっとも貴重で、もっとも決定的な意義をもつ資本は、人材であり、幹部である。われわれの現在の条件のもとでは、『幹部がすべてを決定する』ということを理解すべきである。」
〔10〕 一九三五年から一九三六年までのあいだの党中央の路線と張国燾の退却路線との相違をさしている。本巻の『日本帝国主義に反対する戦術について』の注〔22〕を参照。毛沢東同志がここで「相違も、すでに解決され」たといっているのは、赤軍第四方面軍と中央赤軍が合流したことをさしている。その後の張国燾の党にたいする公然たる裏切り、反革命への転落は、もはや指導路線上の問題ではなくて、個人の裏切り行為でしかない。
〔訳注〕
① 本巻の『日本帝国主義に反対する戦術について』の注〔8〕を参照。
  
  
  

 
 
indianmaoist.blogspot.com
顶端 Posted: 2010-12-17 09:28 | 15 楼
maobadi
级别: 精灵王


精华: 0
发帖: 1265
威望: 1275 点
红花: 12650 朵
贡献值: 0 点
在线时间:535(小时)
注册时间:2009-11-30
最后登录:2013-12-21

 

実践論

   認識と実践の関係――知と行の関係について

          (一九三七年七月)


 わが党内では、かつて、一部の教条主義的な同志が、長いあいだ中国革命の経験をうけいれることを拒み、「マルクス主義は教条ではなく行動の指針である」という真理をみとめず、ただマルクス主義文献のなかの字句のきれはしをぬきとり、それで人びとをおどかすだけであった。また、一部の経験主義的な同志は、長いあいだ自分の断片的な経験にしがみついて、革命の実践にとっての理論の重要性を理解せず、革命の全局が見えなかったので、苦労して活動したが、盲目的であった。この二種類の同志たちのあやまった思想、とくに教条主義の思想は、一九三一年から一九三四年にかけて、中国革命にきわめて大きな損失をあたえたのに、教条主義者は、マルクス主義のころもをまとって、多くの同志をまどわしていた。毛沢東同志の『実践論』は、マルクス主義的認識論の観点から、党内の教条主義と経験主義――とくに教条主義――という主観主義のあやまちを暴露するために書いたものである。その重点が、実践を軽視する教条主義という主観主義の暴露にあったので、『実践論』という題名がつけられた。毛沢東同志は、かつてこの論文の観点について、延安の抗日軍事政治大学で講演したことがある。


 マルクス以前の唯物論は、人間の社会性からはなれ、人間の歴史的発展からはなれて、認識の問題を考察したので、社会的実践にたいする認識の依存関係、すなわち生産および階級闘争にたいする認識の依存関係を理解できなかった。
 まず第一に、マルクス主義者は、人類の生産活動がもっとも基本的な実践活動であり、他のすべての活動を決定するものであると考える。人間の認識は、主として物質の生産活動に依存して、しだいに自然界の現象、自然界の性質、自然界の法則性、人間と自然界との関係を理解するようになる。しかも、生産活動をつうじて、人と人との一定の相互関係をもしだいにさまざまな程度で認識するようになる。これらの知識は、生産活動をはなれてはなにひとつえられない。階級のない社会では、人類の物質生活の問題を解決するために、それぞれの人が社会の一員として、社会の他の構成員と協力し、一定の生産関係をむすんで、生産活動に従事する。また、それぞれの階級社会では、人類の物質生活の問題を解決するために、各階級の社会の構成員が、さまざまのちがった様式で一定の生産関係をむすんで、生産活動に従事する。これが人間の認識の発展の基本的な源である。
 人間の社会的実践は、生産活動という一つの形態にかぎられるものではなく、そのほかにも、階級闘争、政治生活、科学活動、芸術活動など多くの形態がある。要するに、社会の実際生活のすべての領域には社会的人間が参加しているのである。したがって、人間の認識は、物質生活のほかに、政治生活、文化生活(物質生活と密接につながっている)からも、人と人とのいろいろな関係をさまざまな程度で知るようになる。そのうちでも、とくにさまざまな形態の階級闘争は、人間の認識の発展に深い影響をあたえる。階級社会では、だれでも一定の階級的地位において生活しており、どんな思想でも階級の烙印《らくいん》のおされていないものはない。
 マルクス主義者は、人類社会の生産活動は低い段階から高い段階へと一歩一歩発展していくのであり、したがって、人間の認識もまた、自然界にたいしてであろうと、社会にたいしてであろうと、やはり低い段階から高い段階へ、すなわち浅いところから深いところへ、一面から多面へと一歩一歩発展していくものであると考える。歴史上長いあいだ、社会の歴史についての人びとの理解は、ただ一面的なものにかぎられるほかはなかった。それは、一方では搾取階級の偏見がつねに社会の歴史をゆがめていたからであり、他方では、生産規模が小さかったために、人びとの視野がかぎられていたからである。巨大な生産力――大工業にともなって、近代プロレタリア階級が出現したときになってはじめて、人びとは、社会の歴史の発展について全面的、歴史的に理解することができるようになり、社会についての認識を科学にかえた。これがマルクス主義の科学である。
 マルクス主義者は、人びとの社会的実践だけが外界にたいする人びとの認識の真理性をはかる基準であると考える。実際の状況はつぎのようである。社会的実践の過程において(物質生産の過程、階級闘争の過程、科学実験の過程において)、人びとが頭のなかで予想していた結果に到達したばあいにだけ、その認識は実証される。人びとが仕事に成功しようとおもうなら、つまり予想した結果をえようとするなら、かならず自分の思想を客観的外界の法則性に合致させなければならない。合致させなければ、実践において失敗する。失敗したあとで、失敗から教訓をくみとり、自分の思想を外界の法則性に合致するようにあらためると、失敗を成功に変えることができる。「失敗は成功のもと」とか、「いちどつまずけば、それだけ利口になる」とかいうのは、この道理をいっているのである。弁証法的唯物論の認識論は、実践を第一の地位にひきあげ、人間の認識は実践から少しでもはなれることができないと考えており、実践の重要性をみとめず認識を実践から切りはなすすべてのあやまった理論をしりぞける。レーニンはつぎのようにいっている。「実践は(理論的)認識よりも高い。なぜなら、実践はたんに普遍性という長所をもつだけでなく、直接的な現実性という長所をももっているからである。」〔1〕マルクス主義の哲学、つまり弁証法的唯物論にはもっともいちじるしい特徴が二つある。一つはその階級性で、弁証法的唯物論はプロレタリア階級に奉仕するものであることを公然と言明していること、もう一つはその実践性で、実践にたいする理論の依存関係、すなわち理論の基礎は実践であり、理論はまた転じて実践に奉仕するものであることを強調していることである。認識あるいは理論が真理であるかどうかは、主観的にどう感じるかによって判定するのではなく、客観的に社会的実践の結果がどうであるかによって判定するのである。真理の基準となりうるものは、社会的実践だけである。実践の観点は、弁証法的唯物論の認識論の第一の、そして基本的な観点である〔2〕。
 だが、人間の認識は、いったいどのようにして実践からうまれ、また実践に奉仕するのか。これは認識の発展過程を見ればわかる。
 もともと人間は、実践過程において、はじめのうちは、過程のなかのそれぞれの事物の現象の面、それぞれの事物の一面、それぞれの事物のあいだの外部的なつながりしか見ることができない。たとえば、よその人たちが延安に視察にきたとする。最初の一両日は、延安の地形、街路、家屋などをながめたり、多くの人に会ったり、宴会や交歓会や大衆集会に出席したり、いろいろな話を聞いたり、さまざまな文献を読んだりする。これらは事物の現象であり、事物のそれぞれの一面であり、また、これらの事物の外部的なつながりである。これを認識の感性的段階、すなわち感覚と印象の段階という。つまり延安のこれらの個々の事物が、視察団の諸氏の感覚器官に作用して、かれらの感覚をひきおこし、かれらの頭脳に多くの印象と、それらの印象のあいだの大まかな外部的なつながりを生じさせたのである。これが認識の第一の段階である。この段階では、人びとは、まだ深い概念をつくりあげることも、論理にあった(すなわちロジカルな)結論をひきだすこともできない。
 社会的実践の継続によって、人びとに実践のなかで感覚と印象をひきおこさせるものが何回となくくりかえされると、人びとの頭脳のなかで、認識過程における質的激変(すなわち飛躍)がおこり、概念がうまれる。概念というものは、もはや事物の現象でもなく、事物のそれぞれの一面でもなく、それらの外部的なつながりでもなくて、事物の本質、事物の全体、事物の内部的なつながりをとらえたものである。概念と感覚とは、たんに量的にちがいがあるばかりでなく、質的にもちがいがある。このような順序ですすみ、判断と推理の方法をつかっていけば、論理にあった結論をうみだすことができる。『三国演義』に「ちょっと眉根をよせれば、名案がうかぶ」といわれているのも、またわれわれが日常「ちょっと考えさせてくれ」といったりするのも、つまりは、人間が頭脳のなかで、概念をつかって判断や推理をする作業のことをいっているのである。これが認識の第二の段階である。よそからきた視察団の諸氏が、いろいろの材料をあつめて、さらに「よく考える」と、「共産党の抗日民族統一戦線政策は徹底しており、誠意があり、ほんものである」という判断をくだすことができる。こうした判断をくだしたのちに、もしかれらの団結救国もほんものであるならば、かれらは一歩すすんで「抗日民族統一戦線は成功する」という結論をくだすことができるようになる。この概念、判断および推理の段階は、ある事物にたいする人びとの認識過程全体のなかでは、より重要な段階、つまり理性的認識の段階である。認識の真の任務は、感覚をつうじて思惟《しい》にたっすること、一歩一歩客観的事物の内部矛盾、その法則性、一つの過程と他の過程とのあいだの内部的なつながりを理解するようになること、つまり論理的認識にたっすることにある。くりかえしていえば、論理的認識が感性的認識と異なるのは、感性的認識が事物の一面的なもの、現象的なもの、外部的なつながりのものに属するのにたいして、論理的認識は、大きく一歩前進して、事物の全体的なもの、本質的なもの、内部的なつながりのものにまでたっし、周囲の世界の内在的矛盾をあばきだすところまでたっし、したがって、周囲の世界の発展を、周囲の世界の全体において、周囲の世界のすべての側面の内部的なつながりにおいて、把握《はあく》することができるからである。
 実践をもとにした、浅いところから深いところへすすむ認識の発展過程についての弁証法的唯物論の理論を、マルクス主義以前にはこのように解決したものが一人もいなかった。マルクス主義の唯物論が、はじめてこの問題を正しく解決し、唯物論的に、しかも弁証法的に認識の深化する運動を指摘し、社会的な人間がかれらの生産と階級闘争の複雑な、つねにくりかえされる実践のなかで、感性的認識から論理的認識へと推移していく運動を指摘した。レーニンはいっている。「物質という抽象、自然法則という抽象、価値という抽象など、一言でいえば、すべての科学的な(正しい、まじめな、でたらめでない)抽象は、自然をより深く、より正確に、より完全に反映する。」〔3〕マルクス・レーニン主義はつぎのように考える。認識過程における二つの段階の特質は、低い段階では認識が感性的なものとしてあらわれ、高い段階では認識が論理的なものとしてあらわれるが、どの段階も統一的な認識過程のなかでの段階である。感性と理性という二つのものは、性質はちがうが、たがいに切りはなされるものではなく、実践という基礎のうえで統一されているのである。われわれの実践はつぎのことを証明している。感覚されたものはすぐには理解できず、理解したものだけがより深く感覚されるということである。感覚は現象の問題を解決するだけであって、理論こそが本質の問題を解決するのである。これらの問題の解決は、少しでも実践からはなれることはできない。だれでも、ある事物を認識しようとすれば、その事物にふれること、つまりその事物の環境のなかで生活すること(実践すること)よりほかには、解決の方法がない。封建社会にいて、資本主義社会の法則をまえもって認識することはできない。なぜなら、資本主義はまだあらわれておらず、まだその実践がないからである。マルクス主義は資本主義社会の産物でしかありえない。マルクスは資本主義の自由競争時代にまえもって帝国主義時代のいくつかの特殊な法則を具体的に認識することができなかった。なぜなら、帝国主義という資本主義の最後の段階がまだきておらず、そのような実践がまだなかったからであって、レーニンとスターリンだけがこの任務をになうことができたのである。マルクス、エンゲルス、レーニン、スターリンがその理論をつくりあげることのできたのは、かれらが天才であったという条件のほかに、主としてみずから当時の階級闘争と科学実験という実践に参加したからであり、後者の条件がなければ、どんな天才でも成功できるものではない。「秀才は門を出《い》でずして、ことごとく天下のことを知る」ということばは、技術の発達していなかった昔では、たんなる空言にすぎなかった。技術の発達した現代では、このことばを実現することもできるが、ほんとうに身をもって知っているのは世の中で実践している人たちであって、こうした人がその実践のなかで「知」をえ、それが文字と技術による伝達をつうじて「秀才」につたわり、そこで秀才が間接に「天下のことを知る」ことができるのである。ある事物、もしくはあるいくつかの事物を直接に認識しようとするには、現実を変革し、ある事物もしくはあるいくつかの事物を変革する実践的闘争にみずから参加しないかぎり、その事物もしくはそれらの事物の現象にふれることができないし、また、現実を変革する実践的闘争にみずから参加しないかぎり、その事物もしくはそれらの事物の本質をあばきだし、それらを理解することができない。これはだれもが実際に歩んでいる認識の道すじであって、ただ一部の人が故意にそれをゆがめて反対のことをいっているにすぎない。世の中でいちばんこっけいなのは、「もの知り屋」たちが、ききかじりのなまはんかな知識をもって、「天下第一」だと自認していることであり、これこそ身のほどを知らないことのよいあらわれである。知識の問題は科学の問題であって、少しの虚偽も傲慢《ごうまん》さもあってはならない。決定的に必要なのは、まさにその反対のこと――誠実さと謙虚な態度である。知識をえようとすれば、現実を変革する実践に参加することである。梨の味を知りたければ、梨を変革すること、すなわち自分でそれを食べてみることである。原子の構造と性質を知りたければ、物理学や化学の実験をおこない、原子の状態を変革することである。革命の理論と方法を知りたければ、革命に参加することである。ほんとうの知識はすべて直接の経験がその源になっている。しかし、人間はなにもかも直接に経験できるものではなく、じじつ、知識の多くは間接に経験されたものであり、昔のことや外国のことについてのすべての知識がそれである。それらの知識は、昔の人や外国の人にとっては直接に経験したもので、もし昔の人や外国の人が直接に経験したさい、それがレーニンの指摘した条件、つまり「科学的な抽象」に合致しており、客観的な事物を科学的に反映していたならば、それらの知識は信頼できるが、そうでないものは信頼できない。だから、一人の人間の知識は、直接に経験したものと、間接に経験したものとの二つの部分以外にはない。しかも、自分にとっては間接に経験したものでも、ほかの人にとっては直接に経験したものである。したがって、知識全体についていうと、どのような知識も直接の経験から切りはなせるものではない。どんな知識も、客観的な外界にたいする人間の肉体的感覚器官の感覚にその源がある。この感覚をみとめず、直接の経験をみとめず、現実を変革する実践にみずから参加することをみとめないものは、唯物論者ではない。「もの知り屋」がこっけいなわけは、ここにある。中国には、「虎穴《こけつ》に入らずんば、虎児《こじ》を得ず」ということわざがある。このことばは、人びとの実践にとっても真理であるし、認識論にとっても真理である。実践をはなれた認識というものはありえない。
 現実を変革する実践にもとづいてうまれる弁証法的唯物論の認識運動――認識のしだいに深化する運動をあきちかにするために、さらにいくつかの具体的な例をあげよう。
 資本主義社会にたいするプロレタリア階級の認識は、その実践の初期――機械の破壊や自然発生的闘争の時期には、まだ感性的認識の段階にとどまっていて、資本主義のそれぞれの現象の一面およびその外部的なつながりを認識したにすぎなかった。当時、かれらは、まだいわゆる「即自的階級」であった。しかし、かれらの実践の第二の時期――意識的、組織的な経済闘争および政治闘争の時期になると、実践によって、また長期にわたる闘争の経験、これらのさまざまな経験をマルクスとエンゲルスが科学的な方法で総括し、マルクス主義の理論をつくりだして、プロレタリア階級を教育したことによって、プロレタリア階級は資本主義社会の本質を理解し、社会階級間の搾取関係を理解し、プロレタリア階級の歴史的任務を理解するようになった。この時、かれらは「対自的階級」に変わったのである。
 帝国主義にたいする中国人民の認識もまたこのとおりである。第一段階は、表面的な感性的な認識の段階であり、それは太平天国運動①や義和団運動②などのばく然とした排外主義的な闘争にあらわれている。第二段階で、はじめて理性的な認識の段階にすすみ、帝国主義の内部と外部のさまざまな矛盾を見ぬくとともに、帝国主義が中国の買弁階級および封建階級とむすんで、中国の人民大衆を抑圧し搾取している本質を見ぬいたのであって、このような認識は、一九一九年の五・四運動前後になってやっとうまれはじめたのである。
 つぎに戦争について見てみよう。戦争の指導者たちが、もし戦争に経験のない人びとであるならば、はじめの段階ではある具体的な戦争(たとえば、われわれの過去十年にわたる土地革命戦争)の深い指導法則がわからない。はじめの段階では、かれらは身をもって多くの戦いを経験するだけであって、しかもなんどとなく負けいくさをやる。しかし、これらの経験(勝ちいくさの経験、とくに負けいくさの経験)によって、戦争全体をつらぬいている内部的なもの、すなわちその具体的な戦争の法則性が理解でき、戦略と戦術がわかるようになり、したがって確信をもって戦争を指導できるようになる。この時に、もし経験のない別の人にかえて戦争を指導させることになると、戦争の正しい法則を会得するまでには、また何回か負けいくさにあわなければ(経験をつまなければ)ならない。
 一部の同志が活動の任務を引きうけるのにしりごみするとき、自信がないということばを口にするのをよくきく。どうして自信がないのか。これは、その人がその活動の内容と環境について法則性にかなった理解をしていないからである。つまりこれまでそういう活動に接したことがないか、あるいはあまり接することがなかったので、そういう活動の法則性については知りようもなかったからである。活動の状況と環境をくわしく分析してやると、その人はわりあい自信がついたように感じて、その活動をやろうという気になる。もしその人がその活動にある期間たずさわって、活動の経験をつんだなら、そしてまた、かれが問題を主観的、一面的、表面的にみるのでなく、状況を虚心に考察する人であるなら、その活動をどのようにすすめるべきかについての結論を自分で引きだすことができ、活動にたいする勇気も大いに高まるであろう。問題を主観的、一面的、表面的に見る人にかぎって、どこへいっても周囲の状況をかえりみず、ことがらの全体(ことがらの歴史と現状の全体)を見ようとせず、ことがらの本質(ことがらの性質およびこのことがらとほかのことがらとの内部的なつながり)にはふれようともしないで、ひとりよがりにさしずしはじめる。こういう人間はつまずかないはずはない。
 以上のことからわかるように、認識の過程は、第一歩が外界のことがらにふれはじめることで、これが感覚の段階である。第二歩が感覚された材料を総合して、それを整理し改造することで、これが概念、判断および推理の段階である。感覚された材料が十分豊富で(断片的な不完全なものでなく)、実際にあって(錯覚ではなくて)いなければ、それらの材料にもとづいて正しい概念と論理をつくりだすことはできない。
 ここでとくに指摘しておかなければならない重要な点が二つある。第一の点は、前にものべたが、ここでくりかえしていえば、つまり理性的認識は、感性的認識に依存するという問題である。もし、理性的認識が感性的認識からでなくてもえられると考えるなら、その人は観念論者である。哲学史上には「合理論」といわれる学派があって、理性の実在性だけをみとめて、経験の実在性をみとめず、理性だけが信頼できて、感覚的な経験は信頼できないと考えているが、この一派のあやまりは、事実を転倒しているところにある。理性的なものが信頼できるのは、まさにそれが感性を源にしているからであって、そうでなければ、理性的なものは源のない流れ、根のない木となり、ただ主観的にうみだされた、信頼できないものとなる。認識過程の順序からいえば、感覚的経験がさいしょのものである。われわれが認識過程における社会的実践の意義を強調するのは、社会的実践だけが、人間に認識を発生させはじめ、客観的外界から感覚的経験をえさせはじめることができるからである。目をとじ耳をふさいで、客観的外界とまったく絶縁している人には、認識などありえない。認識は経験にはじまる――これが認識論の唯物論である。
 第二の点は、認識は深化させていくべきであり、認識の感性的段階は理性的段階に発展させていくべきである――これが認識論の弁証法である〔4〕。認識は低い感性的段階にとどまっていてもよいと考え、感性的認識だけが信頼できるもので、理性的認識は信頼できないものだと考えるなら、それは歴史上の「経験論」のあやまりをくりかえすことになる。この理論のあやまりは、感覚的材料はもちろん客観的外界の一部の真実性を反映したものではあるが(わたしはここでは、経験をいわゆる内省的体験としてしか考えない観念論的経験論についてはのべない)、それらは、一面的な表面的なものにすぎず、このような反映は不完全で、事物の本質を反映したものではない、ということを知らない点にある。完全に事物の全体を反映し、事物の本質を反映し、事物の内部的法則性を反映するには、感覚された豊富な材料に、思考のはたらきをつうじて、滓《かす》をすてて粋《すい》をとり、偽をすてて員をのこし、これからあれへ、表面から内面へという改造と製作の作業をくわえて、概念および理論の体系をつくりあげなければならないし、感性的認識から理性的認識へ躍進しなければならない。改造されたこのような認識は、より空虚な、より信頼できない認識になるのではなく、反対に、もしそれが認識過程で、実践という基礎にもとづいて科学的に改造されたものでありさえすれば、まさにレーニンがいっているように、より深く、より正しく、より完全に客観的事物を反映したものである。俗流の事務主義者はそうではない。かれらは経験を尊重するが理論を軽視するので、客観的過程の全体をみわたすことができず、明確な方針をもたず、遠大な見通しがなく、ちょっとした成功やわずかばかりの見識で得意になる。このような人間が革命を指導したなら、革命は壁にうちあたるところまで引きずられていくことになる。
 理性的認識は感性的認識に依存するし、感性的認識は理性的認識にまで発展させるべきである。これが弁証法的唯物論の認識論である。哲学における「合理論」と「経験論」は、いずれも認識の歴史的性質や弁証法的性質を理解することができず、それぞれ一面の真理をもってはいるが(これは唯物的な合理論と経験論についていうのであって、観念的な合理論と経験論についていうのではない)、認識論の全体からいえば、どちらもあやまりである。感性から理性にすすむ弁証法的唯物論の認識運動は、小さな認識過程(たとえばある事物、あるいはある活動についての認識)においてもそのとおりであり、大きな認識過程(たとえばある社会、あるいはある革命についての認識)においてもそのとおりである。
 しかし、認識運動はここで終わるのではない。弁証法的唯物論の認識運動を、もし理性的認識のところでとどめるならば、まだ問題の半分にふれたにすぎない。しかも、マルクス主義の哲学からいえば、それはあまり重要だとはいえない半分にふれたにすぎない。マルクス主義の哲学が非常に重要だと考えている問題は、客観世界の法則性を理解することによって、世界を説明できるという点にあるのではなく、この客観的法則性にたいする認識をつかって、能動的に世界を改造する点にある。マルクス主義からみれば、理論は重要であり、その重要性は「革命の理論がなければ、革命の運動もありえない」〔5〕というレーニンのことばに十分あらわされている。しかし、マルクス主義が理論を重視するのは、まさにそれが行動を指導できるからであり、またその点だけからである。たとえ、正しい理論があっても、ただそれについておしゃべりするだけで、たな上げしてしまって、実行しないならば、その理論がどんなによくても、なんの意義もない。認識は実践にはじまり、実践をつうじて理論的認識にたっしてから、ふたたび実践にもどらなけれはならない。認識の能動的作用は、たんに感性的認識から理性的認識への能動的飛躍にあらわれるだけではなく、もっと重要なのは、理性的認識から革命の実践へという飛躍にもあらわれなければならないことである。世界の法則性についての認識をつかんだならば、それをふたたび世界を改造する実践にもちかえる、つまり、ふたたび生産の実践、革命的な階級闘争と民族闘争の実践、および科学実験の実践に応用しなければならない。これが理論を検証し、理論を発展させる過程であり、全認識過程の継続である。理論的なものが客観的真理性に合致するかどうかという問題は、まえにのべた感性から理性への認識運動のなかでは、まだ完全には解決されていないし、また完全に解決できるものでもない。この問題を完全に解決するには、理性的認識をふたたび社会的実践のなかにもちかえり、理論を実践に応用して、それが予想した目的を達成できるかどうかを見るほかはない。多くの自然科学の理論が真理だといわれるのは、自然科学者たちがそれらの学説をつくりだしたときだけでなく、さらにその後の科学的実践によってそれが実証されたときである。マルクス・レーニン主義が真理だといわれるのも、やはりマルクス、エンゲルス、レーニン、スターリンなどが、これらの学説を科学的につくりあげたときだけでなく、さらにその後の革命的な階級闘争と民族闘争の実践によってそれが実証されたときである。弁証法的唯物論が普遍的真理であるのは、いかなる人が実践しても、その範囲からでることができないからである。人類の認識の歴史は、つぎのことをわれわれに教えている。すなわち多くの理論は真理性において不完全なものであり、その不完全さは実践の検証をつうじてただされること、多くの理論はあやまっており、そのあやまりは実践の検証をつうじてただされることである。実践は真理の基準であるとか、「生活、実践の観点は認識論の第一の、そして基本的な観点でなければならない」〔6〕とかいわれる理由はここにある。スターリンがつぎのようにいっているのは正しい。「理論は、革命の実践と結びつかなければ対象のない理論となる。同様に実践は、革命の理論を指針としなければ、盲目的な実践となる。」〔7〕
 ここまでくると、認識運動は完成したといえるであろうか。完成もしたし、まだ完成してもいないというのがわれわれの答えである。社会の人びとが、ある発展段階におけるある客観的過程を変革する実践(それが、ある自然界の過程を変革する実践であろうと、ある社会の過程を変革する実践であろうと)に身を投じて、客観的過程の反映と主観的能動性の作用によって人びとの認識を感性的なものから理性的なものへと推移させ、その客観的過程の法則性にほぼ照応する思想、理論、計画あるいは成案をつくりあげ、さらに、この思想、理論、計画あるいは成案をそのおなじ客観的過程の実践に応用してみて、もし予想した目的を実現することができたならば、つまりあらかじめもっていた思想、理論、計画、成案を、そのおなじ過程の実践のなかで事実に変えるか、あるいはだいたいにおいて事実に変えるならば、この具体的な過程についての認識運動は完成したことになる。たとえば、自然を変革する過程では、ある工事計画が実現され、ある科学上の仮説が実証され、ある器物がつくりあげられ、ある農作物がとりいれられたこと、また社会を変革する過程では、あるストライキが勝利し、ある戦争が勝利し、ある教育計画が実現したことは、いずれも予想した目的を実現したものといえる。しかし、一般的にいって、自然を変革する実践においても、社会を変革する実践においても、人びとがあらかじめもっていた思想、理論、計画、成案が、なんの変更もなしに実現されることはきわめてすくない。これは、現実の変革にたずさわる人びとが、たえず多くの制約を受けていること、たんに科学的条件および技術的条件の制約をたえず受けているだけでなく、客観的過程の発展とそのあらわれる度合いの制約(客観的過程の側面および本質がまだ十分に露呈していない)をも受けていることによるのである。このような状況のもとでは、まえもって予想できなかった事情を実践のなかで見いだしたことによって、思想、理論、計画、成案が部分的に改められることがよくあるし、全面的に改められることもある。つまり、あらかじめもっていた思想、理論、計画、成案が部分的に、あるいは全面的に実際にあわなかったり、部分的にあるいは全面的にあやまっていたりすることは、どちらもあることである。多くのばあい、何回も失敗をくりかえしてはじめて、あやまった認識を改めることができ、客観的過程の法則性に合致させることができ、したがって主観的なものを客観的なものに変えることができる。つまり、実践のなかで予想した結果がえられるのである。しかし、いずれにしても、ここまでくると、ある発展段階におけるある客観的過程についての人びとの認識運動は、完成したといえる。
 しかし、過程の推移という点からいえば、人びとの認識運動は完成していないのである。どのような過程も、それが自然界のものであろうと、社会のものであろうと、すべて内部の矛盾と闘争によって、さきへさきへと推移し発展するものであって、人びとの認識運動も、またそれにつれて推移し発展すべきである。社会運動についていえば、革命の真の指導者は、自分の思想、理論、計画、成案にあやまりがあったばあいには、前にのべたように、それを改めることに上手でなければならないばかりでなく、ある客観的過程が一つの発展段階から他の発展段階に推移、転化したときには、自分をはじめ革命に参加しているすべての人びとを主観的認識のうえでも、それにつれて推移、転化させることに上手でなければならない。すなわち新しい状況の変化に適応するように、新しい革命の任務と新しい活動の成案を提起しなければならない。革命の時期の情勢の変化はきわめて急速である。もし革命党員の認識がそれに応じて急速に変化することができなければ、革命を勝利にみちびくことはできない。
 しかし、思想が実際より立ちおくれることはよくある。これは人間の認識が多くの社会的条件によって制約されているからである。われわれは革命陣営内の頑迷分子に反対する。かれらの思想は変化した客観的状況にしたがって前進することができず、歴史のうえでは右翼日和見主義としてあらわれる。これらの人びとには矛盾の闘争がすでに客砲的過程を前へおしすすめたことが見ぬけず、かれらの認識は、あいかわらずふるい段階に立ちどまっているのである。すべての頑迷派の思想はこのような特徴をもっている。かれらの思想は社会的実践から遊離しており、かれらは社会という車の前にたって、その導き手をつとめることができず、ただ車のうしろについて、車がはやくすすみすぎると愚痴をこぼし、車をうしろにひっぱって、逆もどりさせようとすることしか知らない。
 われわれはまた「左」翼空論主義にも反対する。かれらの思想は客観的過程の一定の発展段階をとびこえており、かれらのうちのあるものは幻想を真理だとみなし、またあるものは将来にしか実現の可能性のない理想を、いまむりやりに実現しようとし、当面の大多数の人びとの実践から遊離し、当面の現実性から遊離して、行動のうえでは冒険主義としてあらわれる。
 観念論と機械的唯物論、日和見主義と冒険主義は、いずれも主観と客観との分裂、認識と実践との分離を特徴としている。科学的な社会的実践を特徴とするマルクス・レーニン主義の認識論は、これらのあやまった思想に断固として反対しないではおれない。マルクス主義者は、宇宙の絶対的な、総体的な発展過程のなかで、それぞれの具体的な過程の発展はすべて相対的なものであるから、絶対的真理の大きな流れのなかでは、それぞれ一定の発展段階にある具体的な過程についての人びとの認識には相対的真理性しかないと考える。無数の相対的真理の総和が絶対的真理である〔8〕。客観的過程の発展は矛盾と闘争にみちた発展であり、人間の認識運動の発展もまた矛盾と闘争にみちた発展である。客観的世界のあらゆる弁証法的な運動は、おそかれはやかれみな人間の認識に反映されうるものである。社会的実践における発生、発展、消滅の過程は無限につづき、人間の認識の発生、発展、消滅の過程もまた無限につづく。一定の思想、理論、計画、成案にもとづいて、客観的現実の変革にとりくむ実践が、一回一回と前進すれば、客観的現実についての人びとの認識もそれにともなって、一回一回と深化していく。客観的現実世界の変化する運動は、永遠に完結することがなく、実践のなかでの真理にたいする人間の認識も永遠に完結することがない。マルクス・レーニン主義は、真理に終止符をうつものではなく、実践のなかでたえず真理を認識する道をきりひらいていくのである。われわれの結論は、主観と客観、理論と実践、知と行との具体的な歴史的な統一であり、具体的な歴史から遊離した、あらゆる「左」の、あるいは右のあやまった思想に反対することである。
 社会がいまのような時代にまで発展してくると、世界を正しく認識し、改造する責務は、すでに歴史的にプロレタリア階級とその政党の肩にかかっている。このような、科学的認識にもとづいて定められた世界改造の実践過程は、世界においても、中国においても、すでに一つの歴史的な時期――有史いらいかつてなかった重大な時期にきている。それは、世界と中国の暗黒面を全面的にくつがえして、これまでになかったような光明の世界にかえることである。プロレタリア階級と革命的人民の世界改造の闘争には、つぎのような任務の実現がふくまれている。すなわち、客観的世界を改造し、また自己の主観的世界をも改造する――自己の認識能力を改造し、主観的世界と客観的世界との関係を改造することである。地球上の一部では、すでにこのような改造がおこなわれている。それがソ連である。ソ連の人民は、いまもこのような改造の過程をおしすすめている。中国の人民も世界の人民も、すべてこのような改造の過程をいま経過しているか、あるいは将来経過するであろう。改造される客観的世界というもののなかには、改造に反対するあらゆる人びとがふくまれており、かれらが改造されるには、強制の段階をへなければならず、そののちにはじめて自覚的段階にすすむことができるのである。全人類がすべて自覚的に自己を改造し、世界を改造するときがくれば、それは全世界の共産主義時代である。
 実践をつうじて真理を発見し、さらに実践をつうじて真理を実証し、真理を発展させる。感性的認識から能動的に理性的認識に発展し、さらに理性的認識によって能動的に革命的実践を指導し、主観的世界と客観的世界を改造する。実践、認識、再実践、再認識というこの形態が循環往復して無限にくりかえされ、実践と認識の内容は一循環ごとに、より一段と高い段階にすすんでいく。これが弁証法的唯物論の認識論の全体であり、これが弁証法的唯物論の別と行の統一観である。



〔注〕
〔1〕 レーニンの『ヘーゲルの著書「論理学」の摘要』から引用。
〔2〕 マルクスの『フォイエルバッハにかんするテーゼ』とレーニンの『唯物論と経験批判論』第二章第六節を参照。
〔3〕 レーニンの『ヘーゲルの著書「論理学」の摘要』から引用。
〔4〕 レーニンが『ヘーゲルの著書「論理学」の摘要』のなかで、「理解するためには、経験の上から理解し研究しはじめ、経験から一般へとのぼっていかなければならない」といっている個所を参照。
〔5〕 レーニンの『なにをなすべきか?』第一章第四節から引用。
〔6〕 レーニンの『唯物論と経験批判論』から引用。その第二章第六節を参照。
〔7〕 スターリンの『レーニン主義の基礎』から引用。その第三の部分を参照。
〔8〕 レーニンの『唯物論と経験批判論』第二章第五節を参照。
〔訳注〕
① 本巻の『日本帝国主義に反対する戦術について』の注〔33〕を参照。
② 本巻の『日本帝国主義に反対する戦術について』の注〔34〕を参照。
  
  
  

 
 
indianmaoist.blogspot.com
顶端 Posted: 2010-12-17 09:28 | 16 楼
maobadi
级别: 精灵王


精华: 0
发帖: 1265
威望: 1275 点
红花: 12650 朵
贡献值: 0 点
在线时间:535(小时)
注册时间:2009-11-30
最后登录:2013-12-21

 

矛盾論

          (一九三七年八月)


 この哲学論文は、毛沢東同志が『実践論』についで、それとおなじ目的のために、つまり党内に存在するゆゆしい教条主義思想を克服するために書いたもので、かつて延安の抗日軍事政治大学で講演したことがある。『毛沢東選集』におさめるにあたって、著者は部分的な補足、削除、訂正をおこなった。


 事物の矛盾の法則、すなわち対立面の統一の法則は、唯物弁証法のもっとも根本的な法則である。レーニンはいっている。「本来の意味においては、弁証法は、対象の本質そのものにおける矛盾の研究である。」〔1〕レーニンはつねにこの法則を弁証法の本質とよび、また弁証法の核心〔2〕ともよんでいる。したがって、この法則を研究するばあい、どうしてもひろい面にわたり、多くの哲学問題にふれないわけにはいかない。これらの問題をはっきりさせれば、われわれは唯物弁証法を根本的に理解することになる。これらの問題とは、二つの世界観、矛盾の普遍性、矛盾の特殊性、主要な矛盾と矛盾の主要な側面、矛盾の諸側面の同一性と闘争性、矛盾における敵対の地位である。
 ソ連の哲学界では、この数年間、デボーリン学派の観念論が批判されてきた。このことは、われわれの非常に大きな興味をよんでいる。デボーリンの観念論は、中国共産党内にも非常にわるい影響をおよぼしており、わが党内の教条主義思想は、この学派の作風と関係がないとはいえない。したがって、われわれの現在の哲学研究活動は、教条主義思想の一掃をおもな目標にしなければならない。

一 二つの世界観

 人類の認識史には、宇宙の発展法則についてこれまで二つの見解が存在してきた。一つは形而上《けいじじょう》学的な見解、他の一つは弁証法的な見解であって、それらはたがいに対立しあう二つの世界観を形成している。レーニンはいっている。「発展(進化)についての二つの基本的な(あるいは二つの可能な? あるいは二つの歴史上よくみられる?)観点は、つぎのとおりである。すなわち、発展とは減少および増大であり、反復であるとみること、発展とは対立面の統一(統一物がたがいに排斥しあう二つの対立面にわかれ、そしてこの二つの対立面がたがいに関連しあっている)であるとみることである。」〔3〕レーニンがいっているのはつまり、この二つの異なった世界観のことである。
 形而上学は、玄学ともよばれている。この思想は、中国でもヨーロッパでも、歴史上非常に長いあいだ、観念論的な世界観にぞくし、人びとの思想のなかで支配的な地位をしめていた。ヨーロッパでは、ブルジョア階級の初期の唯物論も形而上学的であった。ヨーロッパの多くの国の社会経済が資本主義の高度に発達した段階にすすみ、生産力、階級闘争および科学がいずれも歴史上かつてない水準に発展し、工業プロレタリア階級が歴史を発展させるもっとも偉大な原動力になったことによって、マルクス主義の唯物弁証法的世界観がうまれた。そこで、ブルジョア階級のあいだには、公然たる、極度に露骨な、反動的観念論のほかに、また俗流進化論があらわれて、唯物弁証法に対抗するようになった。
 形而上学あるいは俗流進化論の世界観というものは、世界を孤立的な、静止的な、一面的な観点でみるものである。こうした世界観は、世界のすべての事物、すべての事物の形態と種類を、永遠にそれぞれ孤立した、永遠に変化することのないものとみなしている。変化があるとしても、それはただ量の増減と場所の変動にすぎない。しかも、その増減と変動の原因は、事物の内部にあるのではなくて事物の外部にある、すなわち外力によって動かされるものだとしている。形而上学者は、世界のさまざまな異なった事物と事物の特性は、それらが存在しはじめたときからそうなっており、その後の変化は量の上での拡大または縮小にすぎないとしている。かれらは、一つの事物は永遠におなじ事物としてくりかえして発生するだけで、異なった別の事物に変化することはない、と考えている。形而上学者からみれば、資本主義の搾取、資本主義の競争、資本主義社会の個人主義思想などは、古代の奴隷社会でも、さらに原始社会でさえ、見いだすことができるし、しかも、永遠に変わることなく存在しつづけるということになる。社会発展の原因ということになると、かれらはそれを地理、気候など社会外部の条件によって説明する。かれらは単純に、発展の原因を事物の外部にもとめ、事物の発展が内部矛盾によってひきおこされると主張する唯物弁証法の学説を否定する。したがって、かれらには事物の質の多様性を説明することができないし、ある質が他の質に変化する現象を説明することができない。こうした思想は、ヨーロッパでは一七世紀と一八世紀には機械的唯物論となってあらわれ、一九世紀末から二〇世紀のはじめには、俗流進化論となってあらわれた。中国には「天は不変であり、道もまた不変である」〔4〕といった形而上学の思想があり、長いあいだ、腐敗した封建的支配階級から支持されてきた。百年このかた、ヨーロッパの機械的唯物論や俗流進化論が持ちこまれて、これがブルジョア階級から支持されている。
 形而上学の世界観とは反対に、唯物弁証法の世界観は、事物の発展を事物の内部から、またある事物の他の事物にたいする関係から研究するよう主張する。すなわち事物の発展を事物の内部の、必然的な自己運動とみなし、また一つ一つの事物の運動は、すべてその周囲の他の事物とたがいに連係しあい、影響しあっているものとみる。事物の発展の根本原因は、事物の外部にあるのではなくて事物の内部にあり、事物の内部の矛盾性にある。どんな事物の内部にもこうした矛盾性があり、そのために事物の運動と発展がひきおこされる。事物の内部のこの矛盾性は、事物の発展の根本原因であり、ある事物と他の事物がたがいに連係しあい、影響しあうことは、事物の発展の第二義的な原因である。このように、唯物弁証法は、形而上学の機械的唯物論や俗流進化論の、外因論または受動論に、力づよく反対してきた。たんなる外部的原因は、事物の機械的運動、すなわち範囲の大小、量の増減をひきおこすだけで、事物はなぜその性質が千差万別であり、また、なぜたがいに変化しあうかを説明することができないのはあきらかである。事実は、たとえ外力によって動かされる機械的運動でも、やはり事物の内部の矛盾性をつうじなければならないのである。植物や動物の単純な成長、その量的な発展も、主としてその内部の矛盾によってひきおこされる。同様に、社会の発展は、主として、外因によるのではなくて内因によるのである。多くの国はほとんどおなじような地理的、気候的条件のもとにあるが、その発展の相違性と不均等性は非常に大きい。一つの国についてみても、地理や気候に変化がないという状況のもとで、社会には大きな変化がみられる。帝国主義のロシアは社会主義のソ連に変わり、封建的な鎖国日本は帝国主義の日本に変わったが、これらの国の地理や気候には別に変化がなかった。長いあいだ封建制度によって支配されてきた中国には、この百年来、大きな変化がおこり、いま、自由・解放の新中国にむかって変化しつつあるが、中国の地理や気候には別に変化がなかった。地球全体および地球の各部分の地理や気候も変化はしているが、社会の変化にくらべると、ごくわずかな変化しかみられない。前者は、何万年かを単位として変化があらわれるが、後者は、何千年、何百年、何十年、ときには何年あるいは何ヵ月(革命の時期には)のあいだにさえ変化があらわれるのである。唯物弁証法の観点によれば、自然界の変化は、主として自然界の内部矛盾の発展によるものである。社会の変化は、主としで社会の内部矛盾の発展、すなわち、生産力と生産関係との矛盾、諸階級のあいだの矛盾、新しいものとふるいものとのあいだの矛盾によるものであり、これらの矛盾の発展によって社会の前進がうながされ、新旧社会の新陳代謝がうながされる。では、唯物弁証法は外部的原因を排除するものだろうか。排除はしない。唯物弁証法は、外因を変化の条件、内因を変化の根拠とし、外因は内因をつうじて作用するものと考える。鶏の卵は適当な温度をあたえられると、ひよこに変化するが、石ころは温度をくわえてもひよこにはならない。それは両者の根拠がちがうからである。各国人民のあいだの相互影響はつねに存在する。資本主義時代、とくに帝国主義とプロレタリア革命の時代には、各国のあいだの政治的、経済的、文化的な相互影響と相互衝撃はきわめて大きい。十月社会主義革命は、ロシアの歴史に新紀元をひらいたばかりでなく、世界の歴史にも新紀元をひらき、世界各国の内部の変化に影響をおよぼし、同様にしかもとくに深刻に、中国の内部の変化に影響をおよぼした。しかし、このような変化は、各国の内部そのもの、中国内部そのもののもつ法則性をつうじておこった。二つの軍隊が戦うばあい、一方が勝ち、他方が負けるが、勝つのも負けるのも、みな内因によってきまる。勝つ方は、強いか、あるいはその指揮にまちがいがないからであり、負ける方は、弱いか、あるいはその指揮にまちがいがあるからで、外因が内因をつうじて作用するのである。一九二七年に、中国の大ブルジョア階級がプロレタリア階級をうちまかしたのは、中国プロレタリア階級内部の(中国共産党内部の)日和見主義をつうじて作用をおこしたのである。われわれがこの日和見主義を清算すると、中国革命はあらたに発展した。その後、中国革命はまた敵からひどい打撃をうけたが、それは、われわれの党内に冒険主義があらわれたからである。われわれがこの冒険主義を清算すると、われわれの事業はまたあらたに発展した。こうしたことからみて、ある政党が革命を勝利にみちびくには、どうしても自己の政治路線の正しさと組織の強固さに依存しなければならない。
 弁証法的な世界観は、中国でも、ヨーロッパでも、古代にすでにうまれていた。しかし、古代の弁証法は、自然発生的な、素朴な性質をおびていて、当時の社会的、歴史的条件から、完備した理論をもつことができなかった。したがって、宇宙を完全に説明することができず、やがて、形而上学にとって代わられてしまった。一八世紀の後期から一九世紀の初期にかけてのドイツの有名な哲学者へーゲルは、弁証法にたいして重要な貢献をしたが、かれの弁証法は観念論的弁証法であった。プロレタリア運動の偉大な活動家であったマルクスとエンゲルスが、人類の認識史の積極的な成果を総合し、とくにへーゲルの弁証法の合理的な部分を批判的にとりいれて、弁証法的唯物論と史的唯物論という偉大な理論を創造するようになってはじめて、人類の認識史には空前の大革命がおこった。その後、レーニンとスターリンによって、この偉大な理論はさらに発展させられた。この理論がひとたび中国につたわると、中国の思想界に非常に大きな変化がおこった。
 この弁証法的世界観は主として、さまざまな事物の矛盾の運動の観察と分析に熟達すると同時に、その分析にもとづいて矛盾の解決方法を見いだすよう、人びとに教えている。したがって、事物の矛盾という法則を具体的に理解することは、われわれにとって非常に重要なことである。


  二 矛盾の普遍性

 叙述の便宜上、わたしはここで、まず矛盾の普遍性についてのべ、それから矛盾の特殊性についてのべることにする。それは、マルクス主義の偉大な創始者および継承者であるマルクス、エンゲルス、レーニン、スターリンが、唯物弁証法の世界観を発見し、すでに唯物弁証法を人類の歴史の分析と自然界の歴史の分析の多くの面に応用し、また社会の変革と自然界の変革(たとえばソ連におけるように)の多くの面に応用して、きわめて偉大な成功をおさめており、矛盾の普遍性はすでに多くの人によってみとめられているので、この問題は簡単にのべるだけではっきりさせることができるからである。しかし、矛盾の特殊性の問題については、多くの同志たち、とくに教条主義者たちは、まだわかっていない。かれらは矛盾の普遍性が矛盾の特殊性のなかにこそやどっていることを理解していない。かれらはまた、当面する具体的な事物の矛盾の特殊性を研究することが、われわれが革命の実践の発展をみちびいていくうえでどれほど重要な意義をもっているかということを理解していない。したがって、矛盾の特殊性の問題はとくに力をいれて研究し、また十分紙面をさいて説明しなければならない。こうした理由から、事物の矛盾の法則を分析するにあたって、われわれはまず矛盾の普遍性の問題を分析し、そのあとで矛盾の特殊性の問題について力をいれて分析し、最後にふたたび矛盾の普遍性の問題にたちかえることにする。
 矛盾の普遍性または絶対性という問題には、二つの意味がある。その一つは、矛盾があらゆる事物の発展の過程に存在するということであり、他の一つは、どの事物の発展の過程にも始めから終わりまで矛盾の運動が存在するということである。
 エンゲルスは「運動そのものが矛盾である」〔5〕といっている。レーニンが対立面の統一の法則にたいしてくだした定義によると、それは「自然界(精神も社会もふくめて)のすべての現象と過程における矛盾した、排斥しあう、対立した諸傾向をみとめること(発見すること)」〔6〕である。こうした見解は正しいだろうか。正しい。すべての事物のなかにふくまれている矛盾する側面の相互依存と相互闘争は、すべての事物の生命を決定し、すべての事物の発展を推進する。矛盾をふくまない事物は一つもなく、矛盾がなければ世界はない。
 矛盾は、単純な運動形態(たとえば機械的運動)の基礎であり、それ以上に、複雑な運動形態の基礎である。
 エンゲルスは、矛盾の普遍性について、つぎのように説明している。「すでに単純な機械的な場所の移動でさえも、矛盾をふくんでいるとすれば、物質のより高度な運動の諸形態、とくに、有機的生命とその発展とはなおさらそうである。生命とは、なによりもまず、ある生物がおのおのの瞬間にそれ自身でありながら、また別のものである、という点にある……。したがって、生命もまた、諸事物と諸過程そのもののなかに存在する、たえず自己を樹立し、かつ自己を解決する矛盾である。そして、この矛盾がやむやいなや、生命もやみ、死が到来する。同様に、思惟の領域でも、われわれが諸矛盾をさけることができないということ、たとえば、人間の内的に限界をもたない認識能力と、外的に局限された、しかも認識上でも局限された人間の認識能力の実際のありかたとのあいだの矛盾が、われわれにとっては少なくとも実際上かぎりのない世代の連続のうちで、無限の進行のなかで、解決されるということを、われわれは見てきたのである。」
 「高等数学は、……矛盾をそのおもな基礎の一つにしている。」
 「初等数学でさえも、矛盾にみちている。……。」〔7〕
 レーニンもまた矛盾の普遍性をつぎのように説明している。「数学では、+《プラス》と-《マイナス》、微分と積分。
 力学では、作用と反作用。
 物理学では、陽電気と陰電気。
 化学では、原子の化合と分解。
 社会科学では、階級闘争。」〔8〕
 戦争における攻撃と防御、前進と後退、勝利と敗北は、みな矛盾した現象である。一方がなくなれば、他方も存在しなくなる。双方はたたかいながらまた結びついて、戦争の全体を形づくり、戦争の発展をうながし、戦争の問題を解決する。
 人間のもっている概念の一つ一つの差異は、すべて、客観的矛盾の反映とみなさなければならない。客観的矛盾が、主観的な思想に反映して、概念の矛盾運動を形づくり、思想の発展をうながし、人びとの思想問題をたえず解決していくのである。
 党内における異なった思想の対立と闘争は、つねに発生するものである。それは社会の階級的矛盾と新旧事物の矛盾が党内に反映したものである。もし、党内に矛盾と、矛盾を解決する思想闘争がなくなれば、党の生命もとまってしまう。
 以上からみて、単純な運動形態であろうと複雑な運動形態であろうと、また客観的現象であろうと思想現象であろうと、矛盾が普遍的に存在し、矛盾がすべての過程に存在している点は、すでにあきらかになった。だが、どの過程のはじめの段階にも、矛盾は存在するだろうか。どの事物の発展過程にも、始めから終わりまで矛盾の運動があるだろうか。
 ソ連の哲学界でデボーリン学派を批判した論文によると、デボーリン学派はつぎのような見解をもっていることがわかる。すなわち、かれらは、矛盾は過程の始めからあらわれるのではなくて、その過程が一定の段階に発展したときにはじめてあらわれるのだ、と考えている。もしそうだとすると、そのときまでは、過程の発展は、内部的な原因によるのではなくて、外部的な原因によることになる。このように、デボーリンは、形而上学の外因論と機械論にもどってしまった。そして、このような見解をもって、具体的な問題を分析したため、かれらはソ連の条件のもとでは、富農と一般農民のあいだには差異があるだけで矛盾はないとみ、ブハーリンの意見に完全に賛成したのである。フランス革命の分析にあたっても、かれらは、革命前の労働者、農民、ブルジョア階級からなる第三身分のなかには、差異があるだけで矛盾はないと考えた。デボーリン学派のこうした見解は反マルクス主義的なものである。かれらは、世界の一つ一つの差異にはすでに矛盾がふくまれており、その差異とは矛盾であるということを知らなかった。労働者と資本家とは、この二つの階級がうまれたそのときからたがいに矛盾していたが、ただ激化していなかったにすぎない。労働者と農民のあいだには、たとえソ連の社会的条件のもとでも、やはり差異はあり、かれらの差異はすなわち矛盾である。ただ、それは労資間の矛盾とはちがい、階級闘争の形態をとらず、敵対となるほど激化しないだけのことである。かれらは、社会主義建設の過程で強固な同盟を形成するとともに、社会主義から共産主義への発展過程でしだいにこの矛盾を解決していくのである。これは、矛盾の差異性の問題であって、矛盾があるかないかの問題ではない。矛盾は普遍的な、絶対的なものであり、事物の発展のすべての過程に存在し、また、すべての過程を始めから終わりまでつらぬいている。
 新しい過程の発生とはなにか。それは、ふるい統一とその統一を構成する対立的要素とが、新しい統一とその統一を構成する対立的要素に席をゆずり、そこで、新しい過程がふるい過程にとって代わって発生することである。ふるい過程が終わって、新しい過程が発生する。新しい過程はまた、新しい矛盾をふくんでいて、それ自身の矛盾の発展史がはじまる。
 事物の発展過程の始めから終わりまでの矛盾の運動について、マルクスが『資本論』のなかで模範的な分析をしていることを、レーニンは指摘している。これはどんな事物の発展過程を研究するにも応用しなければならない方法である。レーニン自身もそれを正しく応用し、かれの全著作のなかにつらぬいている。
 「マルクスの『資本論』では、まず最初に、ブルジョア(商品)社会のもっとも単純な、もっとも普通な、もっとも根本的な、もっとも大量にみられる、もっとも日常的な、何億回となくでくわす関係、すなわち商品交換が分析されている。その分析は、このもっとも単純な現象をつうじて(ブルジョア社会のこの「細胞」をつうじて)現代社会のすべての矛盾(あるいはすべての矛盾の胚芽《はいが》)をあばきだす。それから先の叙述は、これらの矛盾の発展と、この社会の、この社会の個々の部分の総和における、この社会の始めから終わりまでにおける発展とを(成長をも運動をも)、われわれにしめしている。」
 レーニンはこうのべたあとで、つづいてつぎのようにいっている。「弁証法一般の叙述(および研究)の方法も、またこのようなものでなければならない。」〔9〕
 中国共産党員は、中国革命の歴史と現状を正しく分析し、革命の将来を予測するには、かならずこの方法を身につけなければならない。


     三 矛盾の特殊性

 矛盾はあらゆる事物の発展の過程に存在しており、矛盾は一つ一つの事物の発展過程を始めから終わりまでつらぬいている。これが矛盾の普遍性と絶対性で、これについては、すでに前にのべた。これから矛盾の特殊性と相対性についてのべよう。
 この問題は、いくつかの状況をつうじて研究しなければならない。
 まず、物質のさまざまな運動形態のなかの矛盾は、いずれも特殊性をもっている。人間が物質を認識するというのは、物質の運動形態を認識するのである。なぜなら、世界には運動する物質のほかになにものもなく、物質の運動はかならず一定の形態をとるからである。物質の一つ一つの運動形態については、それとその他のさまざまな運動形態との共通点に注意しなければならない。しかし、とくに重要なことで、われわれが事物を認識する基礎となるものは、その特殊点に注意しなければならないということ、つまり、それとその他の運動形態との質的なちがいに注意しなければならないということである。この点に注意してはじめて、事物を区別することができるようになる。いかなる運動形態にも、その内部にそれ自身の特殊な矛盾がふくまれている。この特殊な矛盾が、ある事物を他の事物から区別する特殊な本質を構成している。これが、世界のさまざまな事物が千差万別であることの内在的な原因であり、根拠といわれるものでもある。自然界には、たくさんの運動形態が存在しており、機械的運動、音、光、熱、電流、分解、化合など、みなそれである。これらの物質の運動形態は、みなたがいに依存しあい、また本質的にたがいに区別しあっている。物質のそれぞれの運動形態がもっている特殊な本質は、その運動形態自身の特殊な矛盾によって規定される。このような状況は、自然界のなかに存在しているばかりでなく、社会現象および思想現象のなかにも、おなじように存在している。一つ一つの社会形態と思想形態は、みなその特殊な矛盾と特殊な本質をもっている。
 科学研究の区分は、科学の対象がもっている特殊な矛盾性にもとづいている。したがって、ある現象の領域に特有なある矛盾についての研究が、その部門の科学の対象を構成する。たとえば、数学における正数と負数、力学における作用と反作用、物理学における陰電気と陽電気、化学における分解と化合、社会科学における生産力と生産関係、階級と階級との相互闘争、軍事学における攻撃と防御、哲学における観念論と唯物論、形而上学と弁証法など、みな特殊な矛盾と特殊な本質をもっているからこそ、異なった科学研究の対象を構成しているのである。もちろん、矛盾の普遍性を認識しなければ、事物が運動し発展する普遍的な原因、つまり普遍的な根拠を発見するすべもなくなる。しかし、矛盾の特殊性を研究しなければ、ある事物が他の事物と異なる特殊な本質を確定するすべもなく、事物が運動し発展する特殊な原因、つまり特殊な根拠を発見するすべもなく、また、事物を識別し、科学研究の領域を区分するすべもない。
 人類の認識運動の順序についていうと、それはつねに、個々の、また特殊の事物の認識から、しだいに一般的な事物の認識へと拡大していくものである。人びとは、つねに、まず多くの異なった事物の特殊な本質を認識し、そののちはじめてさらに一歩すすんで概括作業をおこない、さまざまな事物の共通の本質を認識することができるのである。すでにこの共通の本質を認識したならば、この共通の認識を手びきとして、ひきつづき、まだ研究されたことのない、あるいはまだふかく研究されたことのない、さまざまな具体的な事物にたいする研究をすすめ、その特殊な本質をさがしだす。そうしてはじめて、この共通の本質の認識がひからびた、硬直したものにならないように、この共通の本質の認識を補足し、豊富にし、発展させることができるのである。これは、一つは特殊から一般へ、一つは一般から特殊へという、認識の二つの過程である。人類の認識は、つねにこのように循環し、往復しながらすすむのであって、その一循環ごとに(厳格に科学的方法にしたがうかぎり)人類の認識を一歩高め、たえずふかめていくことができる。われわれの教条主義者たちの、この問題についてのあやまりは、すなわち、一方では、矛盾の普遍性を十分認識し、さまざまな事物の共通の本質を十分に認識するには、矛盾の特殊性を研究し、それぞれの事物の特殊な本質を認識しなければならないということがわかっていないこと、他方では、われわれが事物の共通の本質を認識したあとでも、まだふかく研究されていないか、あるいは新しくあらわれてきた具体的な事物について、ひきつづき研究しなければならないということがわかっていないことにある。われわれの教条主義者たちはなまけものである。かれらは具体的な事物について、骨のおれるどんな研究活動もこばみ、真理一般がなんのよりどころもなくあらわれてくるものとみなし、それをとらえることのできない純抽象的な公式にしてしまい、人類が真理を認識するというこの正常な順序を完全に否定し、しかもそれを転倒するのである。かれらはまた、特殊から一般へそして一般から特殊へという、人類の認識の二つの過程の相互の結びつきがわからず、マルクス主義の認識論がまったくわからないのである。
 物質の一つ一つの大きな体系としての運動形態がもつ特殊な矛盾性と、それによって規定される本質を研究しなければならないばかりでなく、物質の一つ一つの運動形態の、長い発展の途上での一つ一つの過程の特殊な矛盾とその本質をも研究しなければならない。あらゆる運動形態の、憶測でなくて実在する一つ一つの発展過程は、すべて質を異にしている。われわれの研究活動はこの点に力をいれ、またこの点からはじめなければならない。
 質の異なる矛盾は、質の異なる方法でしか解決できない。たとえば、プロレタリア階級とブルジョア階級との矛盾は社会主義革命の方法によって解決され、人民大衆と封建制度との矛盾は民主主義革命の方法によって解決され、植民地と帝国主義との矛盾は民族革命戦争の方法によって解決され、社会主義社会における労働者階級と農民階級との矛盾は農業の集団化と農業の機械化の方法によって解決され、共産党内の矛盾は批判と自己批判の方法によって解決され、社会と自然との矛盾は生産力を発展させる方法によって解決される。過程が変化し、ふるい過程とふるい矛盾がなくなり、新しい過程と新しい矛盾がうまれ、それによって、矛盾を解決する方法もまたちがってくる。ロシアの二月革命と十月革命とでは、解決された矛盾およびその矛盾の解決にもちいられた方法が根本的に異なっていた。異なる方法によって異なる矛盾を解決すること、これはマルクス・レーニン主義者の厳格にまもらなければならない原則である。教条主義者はこの原則をまもらない。かれらは、さまざまな革命の状況のちがいを理解せず、したがって、異なる方法によって異なる矛盾を解決しなければならないということも理解しないで、動かすことのできないものとおもいこんでいるある公式を千篇《せんぺん》一律に、どこにでもむりやりあてはめるだけである。これでは、革命を失敗させるか、もともとうまくいくことをめちゃくちゃにするばかりである。
 事物の発展過程における矛盾がその全体のうえで、相互の結びつきのうえでもっている特殊性をあばきだすには、つまり、事物の発展過程の本質をあばきだすには、過程における矛盾の、それぞれの側面の特殊性をあばきださなければならない。そうしなければ、過程の本質はあばきだせない。この点もまた、われわれが研究活動をするにあたって十分注意しなければならないことである。
 大きな事物には、その発展過程に多くの矛盾がふくまれている。たとえば,中国のブルジョア民主主義革命の過程には、中国社会の被抑圧諸階級と帝国主義との矛盾があり、人民大衆と封建制度との矛盾があり、プロレタリア階級とブルジョア階級との矛盾があり、農民および都市小ブルジョア階級とブルジョア階級との矛盾があり、それぞれの反動的支配者集団のあいだの矛盾があるなど、その状況は非常に複雑である。これらの矛盾にはそれぞれ特殊性があって、これを一律にみてはならないばかりでなく、一つ一つの矛盾の二つの側面にもそれぞれ特徴があるので、これも一律にみてはならない。われわれ中国革命にたずさわるものは、それぞれの矛盾の全体のうえで、すなわち矛盾の相互の結びつきのうえでその特殊性を理解しなければならないばかりでなく、矛盾のそれぞれの側面から研究していくことによってはじめて、その全体を理解することができる。矛盾のそれぞれの側面を理解するということは、その一つ一つの側面がどんな特定の地位をしめているか、それぞれどんな具体的なかたちで相手かたとたがいに依存しあいながらたがいに矛盾しあう関係をもつか、また、たがいに依存しあいながらたがいに矛盾しあうなかで、そして依存がやぶれたのちに、それぞれどんな具体的な方法で相手かたと闘争するかを理解することである。これらの問題の研究はきわめて重要なことである。レーニンが、マルクス主義のもっとも本質的なもの、マルクス主義の生きた魂は、具体的状況にたいする具体的分析にある〔10〕、といっているのはつまりこういう意味である。われわれの教条主義者たちは、レーニンの指示にそむいて、どんな事物についてもこれまで頭をつかって具体的に分析したことはなく、文章を書いたり演説をしたりすると、いつも中味のない紋切り型のものになってしまい、わが党内に非常にわるい作風をつくりだした。
 問題を研究するには、主観性、一面性および表面性をおびることは禁物である。主観性とは、問題を客観的に見ることを知らないこと、つまり唯物論的観点から問題を見ることを知らないことである。この点については、わたしはすでに『実践論』のなかでのべた。一面性とは、問題を全面的に見ることを知らないことである。たとえば、中国の方について知っているだけで日本の方を知らない、共産党の方について知っているだけで国民党の方を知らない、プロレタリア階級の方について知っているだけでブルジョア階級の方を知らない、農民の方について知っているだけで地主の方を知らない、順調な状況の方について知っているだけで困難な状況の方を知らない、過去の方について知っているだけで将来の方を知らない、個体の方について知っているだけで全体の方を知らない、欠点の方について知っているだけで成果の方を知らない、原告の方について知っているだけで被告の方を知らない、革命の秘密活動の方について知っているだけで革命の公然活動の方を知らない、といったことなどである。一口にいえば、矛盾の各側面の特徴を知らないのである。こういうのを、問題を一面的に見るというのである。あるいは、局部だけを見て全体を見ない、木だけを見て森を見ないともいう。これでは、矛盾を解決する方法を見いだすことはできず、革命の任務を達成することはできず、うけもった仕事をりっぱにやりとげることはできず、党内の思想闘争を正しく発展させることはできない。孫子は軍事を論じて、「かれを知り、おのれを知れば、百戦あやうからず」〔11〕といっている。かれは戦争をする双方についていっているのである。唐代の人、魏徴は「兼《あわ》せ聴けば明るく、偏《かたよ》り信ずれば暗し」〔12〕といっているが、やはり一面性はまちがいであることがわかっていたのである。ところが、われわれの同志は、問題をみるばあい、とかく一面性をおびがちであるが、こういう人はしばしば痛い目にあう。『水滸《すいこ》伝』では、宋江が三回祝家荘《チュチャチョワン》を攻撃する〔13〕が、はじめの2回は状況がわからず、やり方もまちがっていたので敗北した。そののち、やり方をかえて、状況の調査からはじめた。そこで迷路に明るくなり、李家荘《リーチャチョワン》、扈家荘《ホーチャチョワン》と祝家荘との同盟をきりくずし、また敵の陣営内に伏兵をはいりこませ、外国の物語にでてくる木馬の計に似た方法をとって、三回目の戦いに勝利した。『水滸伝』には、唯物弁証法の事例がたくさんあるが、この3回の祝家荘攻撃は、そのなかで、もっともよい例だといえる。レーニンはいっている。「対象をほんとうに知るためには、そのすべての側面、すべての連関と『媒介』を把握《はあく》し、研究しなければならない。われわれは、けっして完全にそこまでたっすることはないだろうが、全面性を要求することは、われわれをあやまりや硬直に陥らないよう用心させてくれる。」〔14〕われわれは、このことばを銘記しなければならない。表面性とは、矛盾の全体も矛盾のそれぞれの側面の特徴もみず、事物に深くはいって矛盾の特徴をこまかく研究する必要を否定し、ただ遠くからながめて、矛盾のちょっとした姿を大ざっぱにみただけで、すぐ矛盾の解決(問題の解答、紛争の解決、仕事の処理、戦争の指揮にとりかかろうとすることである。こんなやり方では、まちがいをしでかさないはずがない。中国の教条主義者や経験主義者があやまりをおかしたのは、事物を見る方法が主観的であり、一面的であり、表面的だったからである。一面性も表面性も主観性である。なぜなら、すべての客観的事物はもともとたがいに連係しあったもの、内部法則をもったものであるのに、人びとがこの状況をありのままに反映しないで、ただ一面的に、あるいは表面的にそれらを見る、つまり事物の相互連係を認識せず、事物の内部法則を認識していないからである。したがって、このような方法は主観主義的である。
 われわれは、事物の発展の全過程における矛盾の運動にたいして、その相互の結びつきとそれぞれの側面の状況において、その特徴に注意しなければならないばかりでなく、過程の発展のそれぞれの段階にもやはりその特徴があり、それにも注意しなければならない。
 事物の発展過程における根本的矛盾と、この根本的矛盾によって規定される過程の本質は、その過程が完了するときでなければ消滅しない。しかし、事物の発展する長い過程のなかのそれぞれの発展段階は、その状況がたがいにちがうことがよくある。これは事物の発展過程における根本的矛盾の性質と過程の本質には変化がなくても、長い過程でのそれぞれの発展段階で、根本的矛盾がしだいに激化する形式をとるからである。しかも、根本的矛盾によって規定されるか、あるいは影響される大小さまざまな多くの矛盾のうち、一部のものは激化し、一部のものは一時的にあるいは局部的に解決されたり緩和したりし、さらに一部のものは発生するので、過程に段階性があらわれるのである。もし、人びとが事物の発展過程のなかの段階性に注意しないとしたら、事物の矛盾を適切に処理することはできない。
 たとえば、自由競争時代の資本主義は発展して帝国主義となるが、このときにも、プロレタリア階級とブルジョア階級という根本的に矛盾する二つの階級の性質およびこの社会の資本主義的本質は変化していない。だが、二つの階級の矛盾が激化し、独占資本と非独占資本とのあいだの矛盾が発生し、宗主国と植民地との矛盾が激化し、資本主義諸国間の矛盾、すなわち各国の発展の不均等状態によってひきおこされた矛盾がとくにするどくなってきたので、資本主義の特殊な段階、すなわち帝国主義の段階が形成されたのである。レーニン主義が帝国主義とプロレタリア革命の時代のマルクス主義となったのは、レーニンとスターリンが、これらの矛盾を正しく解明するとともに、これらの矛盾を解決するためのプロレタリア革命の理論と戦術を正しくつくりだしたからである。
 辛亥《シンハイ》革命①からはじまった中国のブルジョア民主主義革命の過程の状況について見ても、いくつかの特殊な段階がある。とくに、ブルジョア階級が指導した時期の革命とプロレタリア階級が指導する時期の革命とは、大きなちがいのある二つの歴史的段階として区別される。すなわち、プロレタリア階級の指導によって、革命の様相が根本的に変わり、階級関係の新しい配置、農民革命の大きなもりあがり、反帝国主義、反封建主義革命の徹底性、民主主義革命から社会主義革命への転化の可能性などがでてきた。これらすべては、ブルジョア階級が革命を指導していた時期には、あらわれることのできなかったものである。過程全体をつらぬく根本的矛盾の性質、すなわち、過程の反帝・反封建の民主主義革命という性質(その反面は半植民地的、半封建的な性質)には、変化がないにもかかわらず、この長い時間のあいだには、辛亥革命の失敗と北洋軍閥②の支配、第1次民族統一戦線の樹立と一九二四年から一九二七年までの革命、統一戦線の分裂とブルジョア階級の反革命への転移、新しい軍閥の戦争、土地革命戦争、第二次民族統一戦線の樹立と抗日戦争などの大きなできごとを経過し、この二〇余年のあいだにいくつかの発展段階を経過した。それらの段階には、一部の矛盾の激化(たとえば土地革命戦争と日本帝国主義の東北四省への侵略)、一部の矛盾の部分的あるいは一時的な解決(たとえば、北洋軍閥が消滅されたこととか、われわれが地主の土地を没収したこととか)、一部の矛盾のあらたな発生(たとえば、新しい軍閥のあいだのあらそいとか、南方の各地の革命根拠地がうしなわれたのち、地主がふたたび土地をとりかえしたこととか)などの特殊な状況がふくまれている。
 事物の発展過程の、それぞれの発展段階における矛盾の特殊性を研究するには、その結びつきのうえで、その全体のうえでそれを見なければならないばかりでなく、それぞれの段階における矛盾のそれぞれの側面からも見なければならない。
 国民党と共産党の両党に例をとろう。国民党の側についていうと、第一次統一戦線の時期には、連ソ、連共、労農援助という孫中山《スンチョンシャン》の三大政策を実行したので、それは革命的で生気にあふれ、諸階級の民主主義革命の同盟体であった。一九二七年以後、国民党はこれと正反対の側に変わり、地主と大ブルジョア階級の反動的集団になった。一九三六年一二月の西安《シーアン》事変以後は、また、内戦を停止し共産党と連合してともに日本帝国主義に反対するという側に転じはじめた。これが三つの段階における国民党の特徴である。これらの特徴が形成されたのには、もちろんさまざまな原因がある。中国共産党の側についていえば、第一次統一戦線の時期には幼年の党であったが、一九二四年から一九二七年までの革命を勇敢に指導した。しかし、革命の性質、任務、方法についての認識の面では、その幼稚さがあらわれ、そのため、この革命の後期に発生した陳独秀《チェントウシウ》主義③が作用をおこし、この革命を失敗させてしまった。一九二七年以後、中国共産党はまた、土地革命戦争を勇敢に指導し、革命の軍隊と革命の根拠地をつくりあげた。しかし、また冒険主義のあやまりをおかして、軍隊と根拠地に大きな損失をこうむらせた。一九三五年以後は、ふたたび、冒険主義のあやまりを是正して、新しい、抗日の統一戦線を指導するようになり、この偉大な闘争はいま発展しつつある。この段階では、共産党は二回の革命の試練をへた、豊富な経験をもった党となっている。これらが三つの段階における中国共産党の特徴である。これらの特徴が形成されたのには、やはりさまざまな原因がある。両党のこれらの特徴を研究しなければ、それぞれの発展段階での国共両党の特殊な相互関係、すなわち統一戦線の樹立、統一戦線の分裂および統一戦線の再樹立を理解することはできない。そして、両党のさまざまな特徴を研究するためにより根本的なことは、この両党の階級的基礎と、それによってそれぞれの時期に形成された、両党と他の方面とのあいだの矛盾の対立とを研究しなければならないということである。たとえば、国民党が共産党と一回目に連合した時期には、国民党は、一方では外国帝国主義とのあいだに矛盾があったので、帝国主義には反対したが、他方では国内の人民大衆とのあいだに矛盾があったので、口先では勤労人民に多くの利益をあたえると約束しながら、実際には、ごくわずかの利益しかあたえなかったか、ぜんぜんなにもあたえなかった。そして、反共戦争をすすめた時期には、帝国主義、封建主義と協力して人民大衆に反対し、人民大衆が革命のなかでたたかいとったすべての利益をいっさいがっさい奪いとり、人民大衆とのあいだの矛盾を激化させた。現在の抗日の時期には、国民党は、日本帝国主義とのあいだに矛盾があるので、一方では共産党と連合する必要にせまられているが、同時に共産党や国内の人民大衆にたいしては闘争と圧迫をゆるめていない。ところが共産党は、どんな時期にも、つねに人民大衆といっしょになって、帝国主義と封建主義に反対してきた。だが、現在の抗日の時期には、国民党が抗日を表明しているので、共産党は、国民党および国内の封建勢力にたいする政策を緩和した。これらの状況から、両党の連合あるいは両党の闘争が形成されたのであるが、たとえ両党が連合している時期でも、連合もし闘争もするという複雑な状況が存在するのである。もしわれわれが矛盾のこれらの側面の特徴を研究しないならば、われわれは、この両党がそれぞれその他の方面とのあいだにもっている関係を理解できないばかりか、両党のあいだの相互の関係も理解できない。
 こうした点からみて、どんな矛盾の特性を研究するにも、つまり物質のそれぞれの運動形態がもつ矛盾、それぞれの運動形態がそれぞれの発展過程でもつ矛盾、それぞれの発展過程でもつ矛盾のそれぞれの側面、それぞれの発展過程がそれぞれの発展段階でもつ矛盾、およびそれぞれの発展段階の矛盾のそれぞれの側面など、これらすべての矛盾の特性を研究するには、主観的任意性をおびてはならず、それらにたいして、具体的な分析をしなければならない。具体的な分析をはなれては、どんな矛盾の特性も認識できない。われわれはつねに、具体的な事物について具体的な分析をせよというレーニンのことばを銘記しておかなければならない。
 このような具体的な分析については、マルクス、エンゲルスが最初にわれわれにりっぱな手本をしめしてくれた。
 マルクス、エンゲルスは、事物の矛盾の法則を社会の歴史的過程の研究に応用したとき、生産力と生産関係とのあいだの矛盾を見いだし、搾取階級と被搾取階級とのあいだの矛盾、およびこれらの矛盾によってうまれる経済的土台と政治、思想などの上部構造とのあいだの矛盾を見いだし、そしてこれらの矛盾が、それぞれ異なった階級社会で、どのように不可避的に、それぞれ異なった社会革命をひきおこすかを見いだした。
 マルクスは、この法則を資本主義社会の経済構造の研究に応用したとき、この社会の基本的矛盾が生産の社会性と占有の個人性のあいだの矛盾であることを見いだした。この矛盾はそれぞれの企業における生産の組織性と、社会全体における生産の無組織性とのあいだの矛盾としてあらわれる。この矛盾の階級的なあらわれがブルジョア階級とプロレタリア階級のあいだの矛盾である。
 事物の範囲はきわめて広く、その発展は無限であるから、あるばあいには普遍性であったものが、他のばあいには特殊性に変わる。それとは逆に、あるばあいには特殊性であったものが、他のばあいには普遍性に変わる。資本主義制度にふくまれる生産の社会化と生産手段の私的所有制との矛盾は、資本主義が存在しまたは発展しているすべての国に共通するものであって、これは資本主義にとっては、矛盾の普遍性である。しかし、資本主義のこの矛盾は、階級社会一般が一定の歴史的段階に発展したときのものであって、階級社会一般での生産力と生産関係との矛盾からいえば、これは矛盾の特殊性である。しかし、マルクスが資本主義社会のこれらすべての矛盾の特殊性を解剖した結果、階級社会一般における生産力と生産関係との矛盾の普遍性は、よりいっそう、より十分に、より完全に、あきらかにされた。
 特殊な事物は普遍的な事物と結びついているので、また、一つ一つの事物の内部には矛盾の特殊性ばかりか、矛盾の普遍性もふくまれており、普遍性は特殊性のなかにこそ存在しているので、われわれが一定の事物を研究するばあいには、この二つの側面、およびその相互の結びつきを発見し、ある事物の内部にある特殊性と普遍性という二つの側面、およびその相互の結びつきを発見し、ある事物とそれ以外の多くの事物との相互の結びつきを発見しなければならない。スターリンはその名著『レーニン主義の基礎について』のなかで、レーニン主義の歴史的根源を説明するにあたって、レーニン主義のうまれた国際的環境を分析し、帝国主義という条件のもとですでに極点にまで発展した資本主義の諸矛盾と、これらの諸矛盾によってプロレタリア革命が直接的実践の課題になり、資本主義に直接突撃をくわえるよい条件がつくりだされたこととを分析している。そればかりでなく、かれはさらに、どうしてロシアがレーニン主義の発祥地になったかを分析し、帝政ロシアがその当時帝国主義のあらゆる矛盾の集中点となり、またロシアのプロレタリア階級が世界の革命的プロレタリア階級の前衛となることができた原因を分析した。このように、スターリンは帝国主義の矛盾の普遍性を分析して、レーニン主義が帝国主義とプロレタリア革命の時代のマルクス主義であることを解明し、また帝政ロシアの帝国主義がこの一般的な矛盾のなかでもっていた特殊性を分析して、ロシアがプロレタリア革命の理論と戦術の誕生地となったこと、そして、この特殊性のなかに矛盾の普遍性がふくまれていることを解明している。スターリンのこの分析は、われわれに、矛盾の特殊性と普遍性、およびその相互の結びつきを認識する手本をしめしている。
 マルクスとエンゲルス、おなじくレーニンとスターリンは、弁証法を客観的現象の研究に応用するばあい、主観的任意性をいささかもおびてはならず、かならず客観的な実際の運動にふくまれている具体的な条件から、これらの現象のなかの具体的な矛盾、矛盾のそれぞれの側面の具体的な地位および矛盾の具体的な相互関係を見いださなければならないことを、いつも教えている。われわれの教条主義者たちは、このような研究態度がないので、正しいことは何一つやれなかった。われわれは教条主義の失敗をいましめとして、このような研究態度を身につけなければならない。これ以外にはどんな研究方法もないのである。
 矛盾の普遍性と矛盾の特殊性との関係は、矛盾の通性と個性との関係である。通性とは、矛盾があらゆる過程に存在するとともに、あらゆる過程を始めから終わりまでつらぬいているということであり、矛盾とは、運動であり、事物であり、過程であり、また思想でもある。事物の矛盾を否定することは、すべてを否定することである。これは共通の道理であって、古今東西をつうじて例外はない。したがって、それは通性であり、絶対性である。しかしながら、この通性はあらゆる個性のなかにふくまれており、個性がなければ通性はない。あらゆる個性をとりさったら、通性などあるだろうか。矛盾はそれぞれ特殊であるから、個性がうまれるのである。すべての個性は条件的、一時的に存在するものであり、したがって相対的である。
 この通性と個性、絶対と相対との道理は、事物の矛盾の問題の真髄であって、これを理解しなかったら、弁証法を捨てたにひとしい。
 四 主要な矛盾と矛盾の主要な側面

 矛盾の特殊性という問題のなかには、とくにとりあげて分析する必要のある状況がまだ二つある。それは主要な矛盾と矛盾の主要な側面である。
 複雑な事物の発展過程には、多くの矛盾が存在しているが、そのなかではかならず一つが主要な矛盾であり、その存在と発展によって、その他の矛盾の存在と発展が規定され、あるいは影響される。
 たとえば、資本主義社会では、プロレタリア階級とブルジョア階級という二つの矛盾する力が主要な矛盾をなしており、それ以外の矛盾する力、たとえば、残存する封建階級とブルジョア階級との矛盾、小ブルジョア階級、農民とブルジョア階級との矛盾、プロレタリア階級と小ブルジョア階級、農民との矛盾、非独占ブルジョア階級と独占ブルジョア階級との矛盾、ブルジョア民主主義とブルジョア・ファシズムとの矛盾、資本主義国相互間の矛盾、帝国主義と植民地との矛盾、およびその他の矛盾はいずれも、この主要な矛盾する力によって規定され、影響される。
 半植民地国では、たとえば中国のように、その主要な矛盾と主要でない矛盾との関係が、複雑な状況を呈している。
 帝国主義がこのような国にたいして侵略戦争をおこなっているときには、このような国の内部の各階級は、一部の売国分子をのぞいて、帝国主義に反対するために、一時的に団結して民族戦争をすすめることができる。そのときには、帝国主義とこのような国とのあいだの矛盾が主要な矛盾となり、このような国の内部の各階級のあいだのあらゆる矛盾(封建制度と人民大衆とのあいだの矛盾というこの主要な矛盾をもふくめて)は、いずれも一時的には副次的な、また従属的な地位にさがる。中国では、一八四〇年のアヘン戦争、一八九四年の中日戦争、一九〇〇年の義和団戦争および現在の中日戦争に、いずれもこのような状況がみられる。
 しかし、別の状況のもとでは、矛盾の地位に変化がおこる。帝国主義が戦争によって圧迫するのではなくて、政治、経済、文化など比較的温和な形式をとって圧迫するばあいには、半植民地国の支配階級は帝国主義に投降するようになり、両者は同盟をむすんで、いっしょになって人民大衆を圧迫する。こうしたばあい、人民大衆はしばしば国内戦争の形式をとって帝国主義と封建階級の同盟に反対するが、帝国主義はしばしば、直接行動をとらずに間接的な方式で半植民地国の反動派の人民大衆への圧迫を援助する。そのため内部矛盾がとくにするどくあらわれてくる。中国の辛亥革命戦争、一九二四年から一九二七年までの革命戦争、一九二七年以後一〇年にわたる土地革命戦争には、いずれもこのような状況がみられる。また、たとえば中国の軍閥戦争のような、半植民地国のそれぞれの反動支配者集団のあいだの内戦も、こうした部類にぞくする。
 国内革命戦争が発展して、帝国主義とその手先である国内反動派の存在を根本からおびやかすようになると、帝国主義はしばしば上述の方法以外の方法をとって、その支配を維持しようとする。つまり、革命陣営の内部を分裂させたり、直接軍隊を派遣して国内反動派を援助したりする。こうしたとき、外国帝国主義と国内反動派とはまったく公然と一方の極にたち、人民大衆は他方の極にたって、主要な矛盾を形成し、これがその他の矛盾の発展状態を規定するか、あるいはそれに影響をあたえる。十月革命後、資本主義諸国がロシアの反動派をたすけたのは、武力干渉の例である。一九二七年の蒋介石《シァンチェシー》の裏切りは、革命陣営を分裂させた例である。
 しかし、いずれにしても、過程の発展のそれぞれの段階で指導的な作用をおこすのは、主要な矛盾だけである。これはまったく疑いのないところである。
 こうしたことからわかるように、どんな過程にも、もし多くの矛盾が存在しているとすれば、そのなかの一つはかならず主要なものであって、指導的な、決定的な作用をおこし、その他は副次的、従属的地位におかれる。したがって、どんな過程を研究するにも、それが二つ以上の矛盾の存在する複雑な過程であるならば、全力をあげてその主要な矛盾を見いださなければならない。この主要な矛盾をつかめば、すべての問題はたやすく解決できる。これは、マルクスが資本主義社会を研究するさいわれわれに教えている方法である。また、レーニンとスターリンが帝国主義と資本主義の全般的危機を研究するさいにも、ソ連の経済を研究するさいにも、こういう方法を教えている。ところが、何千何万という学者や実行家は、こういう方法がわからないために、五里霧中におちいり、核心がみつからず、したがって矛盾を解決する方法もみつからない。
 うえにのべたとおり、過程のなかのすべての矛盾を同等にあつかってはならず、それらを主要なものと副次的なものとの二つの種類にわけ、主要な矛盾をつかむことに重点をおかなければならない。だが、さまざまな矛盾のなかで、主要なものであろうと、あるいは副次的なものであろうと、矛盾する二つの側面は、また同等にあつかってよいだろうか。やはりいけない。どんな矛盾であろうと、矛盾の諸側面は、その発展が不平衡である。あるばあいには、力が伯仲しているかのようにみえるが、それは一時的な相対的なものにすぎず、基本的な状態は不平衡である。矛盾する二つの側面のうち、かならずその一方が主要な側面で、他方が副次的な側面である。その主要な側面とは、矛盾のなかで主導的な作用をおこす側面のことである。事物の性質は、主として支配的地位をしめる矛盾の主要な側面によって規定される。
 しかし、このような状況は固定したものではなく、矛盾の主要な側面と主要でない側面とはたがいに転化しあい、事物の性質もそれにつれて変化する。矛盾の発展する一定の過程あるいは一定の段階では、主要な側面がAの側にあり、主要でない側面がBの側にあるが、別の発展段階あるいは別の発展過程にうつると、その位置はいれかわる。これは、事物の発展のなかで矛盾する両側面の闘争している力の増減の度合いによって決定される。
 われわれは「新陳代謝」ということばをよく口にする。新陳代謝は宇宙における普遍的な、永遠にさからうことのできない法則である。事物自身の性質と条件によって、異なった飛躍の形式をつうじて、ある事物が他の事物に転化するのが新陳代謝の過程である。どんな事物の内部にも新旧両側面の矛盾があって、一連の曲折した闘争が形づくられている。闘争の結果、新しい側面は小から大に変わって支配的なものに上昇し、ふるい側面は大から小に変わってしだいに滅亡していくものになってしまう。新しい側面がふるい側面にたいして支配的地位をうると、すぐ、ふるい事物の性質は新しい事物の性質に変わる。このことからわかるように、事物の性質は主として支配的地位をしめている矛盾の主要な側面によって規定される。支配的地位をしめている矛盾の主要な側面が変化すれば、事物の性質もそれにつれて変化する。
 資本主義社会では、資本主義がふるい、封建主義社会の時代におかれていた従属的地位から、すでに支配的地位をしめる勢力に転化しており、社会の性質もまた、封建主義的なものから資本主義的なものに変わっている。新しい、資本主義社会の時代には、封建的勢力はそれまで支配的地位におかれていた勢力から従属的勢力に転化し、そしてしだいに消滅していく。たとえば、イギリス、フランスなどの諸国ではそうであった。生産力の発展にともなって、ブルジョア階級は新しい、進歩的な役割をはたした階級から、ふるい、反動的な役割をはたす階級に転化し、最後にはプロレタリア階級にうちたおされて、私有の生産手段を収奪され、権力をうしなった階級に転化する。こうして、この階級もまた、しだいに消滅していくのである。人数のうえではブルジョア階級よりはるかに多く、しかも、ブルジョア階級と同時に生長しながら、ブルジョア階級に支配されているプロレタリア階級は、一つの新しい勢力であって、ブルジョア階級に従属していた初期の地位から、しだいに強大になって、独立した、歴史上主導的な役割をはたす階級となり、最後には権力をうばいとって支配階級になる。このとき、社会の性質は、ふるい、資本主義の社会から、新しい、社会主義の社会に転化する。これはソ連がすでにとおってきた道であり、他のすべての国もかならずとおる道である。
 中国の状況についていえば、帝国主義は、半植民地を形成しているという矛盾の主要な地位にたって、中国人民を抑圧しており、中国は独立国から半植民地に変わっている。だが、ものごとはかならず変化する。双方がたたかっている情勢のなかで、プロレタリア階級の指導のもとに生長してきた中国人民の力は、かならず中国を半植民地から独立国に変え、帝国主義はうちたおされ、ふるい中国はかならず新しい中国に変わる。
 ふるい中国が新しい中国に変わるということのなかには、さらに国内のふるい封建勢力と新しい人民勢力とのあいだの状況の変化ということがふくまれている。ふるい封建的地主階級は、うちたおされ、支配者から被支配者に変わり、この階級もまたしだいに消滅していく。そして人民はプロレタリア階級の指導のもとで、被支配者から支配者に変わる。このとき、中国の社会の性質には変化がおこり、ふるい、半植民地的半封建的な社会から、新しい、民主的な社会に変わる。
 このような相互転化は、過去にも経験がある。中国を三〇〇年近く支配してきた清朝帝国は、辛亥革命の時期にうちたおされ、一方、孫中山の指導していた革命同盟会④が一度は勝利をおさめた。一九二四年から一九二七年までの革命戦争では、共産党と国民党との連合による南方革命勢力が弱小なものから強大なものに変わって、北伐の勝利をおさめ、一方、一時権勢をほこった北洋軍閥はうちたおされた。一九二七年には、共産党の指導する人民の力は、国民党反動勢力の打撃をうけて小さくなったが、自己の内部の日和見主義を一掃することによって、またしだいに強大になってきた。共産党の指導する革命根拠地のなかでは、農民は被支配者から支配者に転化し、地主はそれとは逆の転化をとげた。世界では、いつもこのように、新陳代謝がおこなわれ、古い制度が廃されて新しい制度がうちたてられ、古い文化が淘汰されて新しいものをうみだすというように、新しいものが古いものにとって代わるのである。
 革命闘争においては、困難な条件の方が順調な条件より大きいときがあり、そのようなときには、困難の方が矛盾の主要な側面で、順調の方が副次的な側面である。しかし、革命党員の努力によって、困難がしだいに克服され、順調な新しい局面がきりひらかれるので、困難な局面は順調な局面におきかえられる。一九二七年の中国革命失敗後の状況や、長征中の中国赤軍の状況などはみなそうである。現在の中日戦争でも、中国はまた困難な地位におかれているが、われわれはこのような状況をあらため、中日双方の状況に根本的な変化をおこさせることができる。逆の状況のもとでは、もし革命党員があやまりをおかせば、順調も困難に転化する。一九二四年から一九二七年までの革命の勝利は失敗に変わってしまった。一九二七年以後南方各省につくられてきた革命の根拠地も、一九三四年になると、みな失敗してしまった。
 学問を研究するばあい、無知から知への矛盾もまたそうである。われわれがマルクス主義を研究しはじめたときは、マルクス主義にたいして無知であるか、あるいはあまり知らないという状況と、マルクス主義の知識とは、たがいに矛盾しあっている。しかし、学習にはげむことによって、無知は有知に転化し、あまり知らないという状態は非常によく知っているという状態に転化し、マルクス主義にたいする盲目的状態はマルクス主義を自由に運用できる状態に変わる。
 ある人は、一部の矛盾はそうではないと考えている。たとえば、生産力と生産関係との矛盾では生産力が主要なものであり、理論と実践との矛盾では実践が主要なものであり、経済的土台と上部構造との矛盾では経済的土台が主要なものであって、それらの地位は、たがいに転化しあうものではないと考えている。これは弁証法的唯物論の見解ではなくて、機械的唯物論の見解である。たしかに、生産力、実践、経済的土台は、一般的には主要な決定的な作用をするものとしてあらわれるのであって、この点をみとめないものは唯物論者ではない。しかし、生産関係、理論、上部構造といったこれらの側面も、一定の条件のもとでは、逆に、主要な決定的な作用をするものとしてあらわれるのであって、この点もまたみとめなければならない。生産関係を変えなければ、生産力が発展できないというばあい、生産関係を変えることが、主要な決定的な作用をおこす。レーニンがいったように「革命の理論がなければ、革命の運動もありえない」〔15〕というばあいには、革命の理論の創造と提唱とが主要な決定的な作用をおこすのである。ある事(どんな事でもおなじであるが)をするにあたって、まだ方針、方法、計画あるいは政策をもたないばあいには、方針、方法、計画あるいは政策を確定することが主要な決定的なものとなる。政治や文化などの上部構造が経済的土台の発展をさまたげているばあいには、政治や文化の革新が主要な決定的なものとなる。われわれがこのようにいうのは唯物論にそむくだろうか。そむかない。なぜなら、われわれは、歴史の発展ぜんたいのなかでは、物質的なものが精神的なものを決定し、社会的存在が社会的意識を決定することをみとめるが、同時に、精神的なものの反作用、社会的意識の社会的存在にたいする反作用、上部構造の経済的土台にたいする反作用もみとめるし、またみとめなければならないからである。このことは唯物論にそむくことではなく、これこそ機械的唯物論におちいらず、弁証法的唯物論を堅持するものである。
 矛盾の特殊性の問題を研究するにあたって、もし、過程における主要な矛盾と主要でない矛盾、および矛盾の主要な側面と主要でない側面という、二つの状況を研究しないならば、つまり、矛盾のこの二つの状況の差異性を研究しないならば、抽象的な研究におちいり、矛盾の状況を具体的に理解することはできず、したがって、矛盾を解決する正しい方法を見いだすこともできない。矛盾のこの二つの状況の差異性あるいは特殊性というのは、矛盾する力の不平衡性である。世界には絶対的に平衡に発展するものはなく、われわれは平衡論あるいは均衡論に反対しなければならない。同時に、矛盾のこうした具体的な状態、および発展過程における矛盾の主要な側面と主要でない側面との変化こそ、新しい事物がふるい事物にとってかわる力をあらわしている。矛盾のさまざまな不平衝な状況についての研究、主要な矛盾と主要でない矛盾、矛盾の主要な側面と主要でない側面についての研究は、革命政党が政治上軍事上の戦略戦術方針を正しく決定する重要な方法の一つであって、すべての共産党員が気をくばらなければならないところである。

 五 矛盾の諸側面の同一性と闘争性

 矛盾の普遍性と特殊性の問題を理解したならば、われわれはさらにすすんで、矛盾の諸側面の同一性と闘争性の問題を研究しなければならない。
 同一性、統一性、一致性、相互浸透、相互貫通、相互依頼(あるいは依存)、相互連結、あるいは相互協力などといったこれらの異なったことばは、すべておなじ意味であって、つぎの二つのことをいっている。第一は、事物の発展過程における一つ一つの矛盾のもつ二つの側面は、それぞれ自己と対立する側面を自己の存在の前提としており、双方が一つの統一体のなかに共存しているということ、第二は、矛盾する二つの側面は、一定の条件によって、それぞれ反対の側面に転化していくということである。これらが同一性といわれるものである。
 レーニンはいっている。 「弁証法とは、対立面がどのようにして同一であることができ、どのようにして同一であるのか(どのようにして同一となるのか)──それらは、どんな条件のもとで、同一であり、たがいに転化しあうのか──なぜ人間の頭脳はこれらの対立面を、死んだ、凝固したものとしてではなく、生きた、条件的な、可動的な、たがいに転化しあうものとして見なければならないのか、ということについての学説である。」〔16〕
 レーニンのこのことばは、どういう意味だろうか。
 あらゆる過程のなかで、矛盾しているそれぞれの側面は、もともと、たがいに、排斥しあい、闘争しあい、対立しあっている。世界のあらゆる事物の過程および人びとの思想には、すべてこのように矛盾性をおびた側面がふくまれており、それには一つの例外もない。単純な過程には一つの矛盾しかないが、複雑な過程には、一つ以上の矛盾がある。それぞれの矛盾のあいだも、またたがいに矛盾をなしている。このようにして、客観世界のあらゆる事物や人びとの思想が組み立てられ、またそれらに運動をおこさせている。
 こういえば、きわめて不同一、きわめて不統一でしかないのに、どうしてまた同一あるいは統一というのか。
 矛盾しているそれぞれの側面は、もともと孤立しては存在できないものである。もし、矛盾の一つの側面に、それと対をなす矛盾の側面がなかったら、それ自身も存在の条件をうしなってしまう。あらゆる矛盾している事物、あるいは人びとの心のなかで矛盾している概念の、いずれか一つの側面だけが独立して存在することができるかどうかを考えてみるがよい。生がなければ死はあらわれず、死がなければ生もあらわれない。上がなければ下というものはなく、下がなければ上というものもない。災いがなければ幸いというものはなく、幸いがなければ災いというものもない。順調がなければ困難というものはなく、困難がなければ順調というものもない。地主がなければ小作人はなく、小作人がなければ地主もない。ブルジョア階級がなければプロレタリア階級はなく、プロレタリア階級がなければブルジョア階級もない。帝国主義の民族抑圧がなければ植民地や半植民地はなく、植民地や半植民地がなければ帝国主義の民族抑圧もない。すべての対立的要素はみなこうであって、一定の条件によって、一方ではたがいに対立しあいながら、他方ではまたたがいに、連結しあい、貫通しあい、浸透しあい、依頼しあっている。このような性質が同一性とよばれるものである。すべての矛盾している側面は、一定の条件によって、不同一性をそなえているので、矛盾とよばれる。しかし、また同一性をそなえているので、たがいに連結しあっている。レーニンが弁証法とは「対立面がどのようにして同一であることができるか」を研究するものだといっているのは、つまりこのような状況についていったのである。どうしてそれができるか。たがいに存在の条件となっているからである。これが同一性の第一の意義である。
 しかしながら、矛盾する双方がたがいに存在の条件となり、双方のあいだに同一性があり、したがって一つの統一体のなかに共存することができるといっただけで、十分だろうか。まだ十分ではない。問題は矛盾する双方がたがいに依存しあうことで終わるのではなく、いっそう重要なことは、矛盾している事物がたがいに転化しあうことにある。つまり、事物の内部の矛盾する両側面は、一定の条件によって、それぞれ自己と反対の側面に転化していき、自己と対立する側面のおかれていた地位に転化していくのである。これが矛盾の同一性の第二の意義である。
 どうしてここにも同一性があるのか。見たまえ。被支配者であったプロレタリア階級は革命をつうじて支配者に転化し、もと支配者であったブルジョア階級は被支配者に転化していくというように、相手がたがもとしめていた地位に転化していく。ソ連はすでにそうしたし、全世界もそうするにちがいない。もしそのあいだに、一定の条件のもとでの連係と同一性がなかったら、どうしてこのような変化がおこりえようか。
 中国近代史の一定の段階で、かつてある種の積極的役割をはたした国民党は、その固有の階級性と帝国主義からの誘惑(これらが条件である)によって、一九二七年以後、反革命に転化したが、中国と日本との矛盾がするどくなったことと、共産党の統一戦線政策(これらが条件である)によって、また抗日にやむなく賛成している。矛盾するものは一方から他方に変わっていき、そのあいだには一定の同一性がふくまれている。
 われわれの実行した土地革命は、土地を持っていた地主階級が土地を失った階級に転化し、土地を失っていた農民が、逆に、土地を手に入れて小所有者に転化する過程であったし、これからもそのような過程をふむだろう。持つことと持たないこと、また、得ることと失うことは、一定の条件によって、たがいに連結しあい、両者は同一性をもっている。農民の私有制は、社会主義という条件のもとでは、さらに社会主義的農業の公有制に転化する。ソ連はすでにそうしたし、全世界も将来はそうするにちがいない。私有財産と公有財産のあいだには、こちらからむこうに通ずる橋があり、哲学ではこれを同一性あるいは相互転化、相互浸透といっている。
 プロレタリア独裁あるいは人民の独裁を強化することは、まさに、こういう独裁を解消し、どんな国家制度も消滅させた、より高い段階にたっするための条件を準備することである。共産党を結成し、それを発展させることは、まさに、共産党およびすべての政党制度を消滅させる条件を準備することである。共産党の指導する革命軍を創設して革命戦争をすすめることは、まさに、戦争を永遠に消滅させる条件を準備することである。これら多くのたがいに反しあうものは、同時にたがいに成りたたせあっているのである。
 周知のように、戦争と平和はたがいに転化しあうものである。たとえば、第一次世界大戦は戦後の平和に転化し、中国の内戦もいまはやんで、国内の平和があらわれているように、戦争は平和に転化する。また、たとえば、一九二七年の国共合作は戦争に転化したし、現在の世界平和の局面も第二次世界大戦へ転化する可能性があるように、平和は戦争に転化する。どうしてそうなのか。階級社会では、戦争と平和というこの矛盾している事物が、一定の条件のもとで同一性をそなえているからである。
 矛盾しているすべてのものは、たがいに連係しあっており、一定の条件のもとで一つの統一体のなかに共存していること、また一定の条件のもとではたがいに転化しあうこと、これが矛盾の同一性のもつ意義のすべてである。レーニンが「どのようにして同一であるのか(どのようにして同一となるのか)──それらはどんな条件のもとで、同一であり、たがいに転化しあうのか」といっているのは、つまりこういう意味である。
 「なぜ人間の頭脳はこれらの対立面を、死んだ、凝固したものとしてではなく、生きた、条件的な、可動的な、たがいに転化しあうものとして見なければならないのか。」それは客観的事物が、もともとそうなっているからである。客観的事物のなかの矛盾している諸側面の統一あるいは同一性というものは、もともと死んだものでも、凝固したものでもなくて、生きた、条件的な、可動的な、一時的な、相対的なものであり、すべての矛盾は、一定の条件によって、自己と反対の側面に転化するものである。このような状況が、人間の思想に反映してマルクス主義の唯物弁証法的世界観となった。現在の、また歴史上の反動的な支配階級およびかれらに奉仕する形而上学だけが、対立した事物を、生きた、条件的な、可動的な、たがいに転化しあうものとして見ずに、死んだ、凝固したものとして見、しかも、このようなあやまった見方をいたるところで宣伝し、人民大衆をまどわしている。これはかれらの支配をつづけるという目的を達成するためである。共産党員の任務は、反動派や形而上学のあやまった思想を暴露し、事物本来の弁証法を宣伝し、事物の転化をうながし、革命の目的をたっすることにある。
 一定の条件のもとでの矛盾の同一性とは、つまり、われわれのいう矛盾が、現実的な矛盾、具体的な矛盾であり、しかも、矛盾の相互転化も現実的、異体的であるということである。神話のなかの多くの変化、たとえば『山海経《せんがいきょう》』のなかの「夸父《かほ》が太陽を追いかけた」話〔17〕、『淮南子《えなんじ》』のなかの[上は”羽”、下は”にじゅうあし”]《げい》が九つの太陽を射た」話〔18〕、『西遊記』のなかの孫悟空の七十二変化《へんげ》〔19〕、また、『聊斎志異《りょうさいしい》』〔20〕のなかにでてくる多くの幽霊やきつねが人にばける話など、こういう神話のなかでいわれている矛盾の相互変化は、無数の複雑な現実的矛盾の相互変化が、人びとに引きおこさせた一種の幼稚な、想像の、主観的幻想の変化であって、具体的矛盾があらわした具体的変化ではない。マルクスはいっている。「すべての神話は、想像のなかで、かつ想像をつうじて、自然力を征服し支配し形象化する。したがって、それらは、自然力が実際に支配されていくにつれて消失する。」〔21〕このような神話のなかの(さらに童話のなかの)千変万化の物語は、人間が自然力を征服することなどを想像しているので、人びとをよろこばせることができるし、しかも、もっともよい神話は「永遠の魅力」(マルクス)さえもっているが、神話は、具体的矛盾をかたちづくる一定の条件にもとづいて構成されたものではないから、科学的に現実を反映したものではない。つまり、神話あるいは童話のなかの矛盾を構成する諸側面は、具体的な同一性ではなく、幻想的な同一性にすぎない。現実の変化の同一性を科学的に反映したもの、それがマルクス主義の弁証法である。
 なぜ、鶏の卵はひよこに転化できるのに、石ころはひよこに転化できないのか。なぜ戦争と平和は同一性をもっているのに、戦争と石ころは同一性をもっていないのか。なぜ人間は人間を生めるだけで、ほかのものを生むことができないのか。それはほかでもなく、矛盾の同一性の存在は、一定の必要な条件のもとでなければならないからである。一定の必要な条件がなければ、どんな同一性も存在しない。
 なぜ、ロシアでは一九一七年二月のブルジョア民主主義革命が同年一〇月のプロレタリア社会主義革命に直接つながっていたのに、フランスのブルジョア革命は社会主義革命に直接つながることがなく、一八七一年のパリ・コミューンは失敗に終わったのか。なぜ、モンゴルや中央アジアの遊牧制度が社会主義に直接つながったのか。なぜ、中国の革命は、西洋諸国のとおった歴史的なふるい道をとおる必要がなく、ブルジョア独裁の時期をへる必要がなく、資本主義の前途をさけることができ、社会主義に直接つながることができるのか。ほかでもなく、これらはすべてそのときの具体的な条件によるのである。一定の必要な条件がそなわっていれば、事物発展の過程には、一定の矛盾がうまれ、しかも、この、あるいはこれらの矛盾は、たがいに依存しあうし、またたがいに転化しあうのであって、それがないとしたら、すべては不可能である。
 同一性の問題は以上のとおりである。では闘争性とはなにか。同一性と闘争性との関係はどんなものだろうか。
 レーニンはいっている。「対立面の統一(一致、同一、同等作用)は条件的、一時的、経過的、相対的である。たがいに排斥しあう対立面の闘争は、発展、運動が絶対的であるように、絶対的である。」〔22〕
 レーニンのこのことばは、どういう意味だろうか。
 すべての過程には始めと終わりがある。すべての過程は自己の対立物に転化する。すべての過程の常住性は相対的であるが、ある過程が他の過程に転化するという変動性は絶対的である。
 どんな事物の運動も、みな二つの状態、すなわち相対的に静止している状態と著しく変動している状態をとる。二つの状態の運動は、いずれも、事物の内部にふくまれる二つの矛盾する要素の相互の闘争によって引きおこされる。事物の運動が第一の状態にあるときは、量的変化があるだけで、質的変化はないので、あたかも静止しているような様相を呈する。事物の運動が第二の状態にあるときは、それはすでに、第一の状態での量的変化がある最高点にたっし、統一物の分解を引きおこして、質的な変化が発生したので、著しく変化している様相を呈するのである。われわれの日常生活に見られる統一、団結、連合、調和、均勢、対峙《たいじ》、膠着《こうちゃく》、静止、恒常,平衡、凝集、吸引などはすべて事物が量的変化の状態にあるときに呈する様相である。そして、統一物が分解し、団結、連合、調和、均勢、対峙、膠着、静止、恒常、平衡、凝集、吸引などといった状態がやぶれて反対の状態に変わるのは、みな事物が質的変化をしている状態のなかで、一つの過程から他の過程に移行する変化のなかで呈する様相である。事物は第一の状態から第二の状態にたえず転化するものであり、矛盾の闘争は、この二つの状態のなかに存在するとともに、第二の状態をへて矛盾の解決にたっするものである。したがって、対立面の統一は条件的な、一時的な、相対的なものであるが、対立面がたがいに排除しあう闘争は絶対的であるというのである。
 われわれはさきに、たがいに反しあう二つのもののあいだには同一性があり、したがって、二つのものは一つの統一体のなかに共存することができるし、またたがいに転化しあうことができるといったが、これは条件性のことで、つまり一定の条件のもとでは矛盾するものは統一することができるし、またたがいに転化しあうことができるが、この一定の条件がなければ、矛盾となることができず、共存することができず、転化することもできないということである。一定の条件によって矛盾の同一性が構成されるので、同一性は条件的であり、相対的であるというのである。われわれはまた、矛盾の闘争は、過程の始めから終わりまでをつらぬいていると同時に、一つの過程を他の過程に転化させており、矛盾の闘争の存在しないところはないといっている。したがって、矛盾の闘争性は無条件的であり、絶対的である。
 条件的な、相対的な同一性と、無条件的な、絶対的な闘争性とが結合して、あらゆる事物の矛盾の運動を構成する。
 われわれ中国人がつねにいう「たがいに反しあいながら、たがいに成りたたせあう」〔23〕とは、たがいに反しあうものが同一性をもっているという意味である。このことばは、形而上学とは反対の、弁証法的なものである。「たがいに反しあう」とは、矛盾する二つの側面がたがいに排斥しあい、あるいはたがいに闘争しあうことをいう。「たがいに成りたたせあう」とは、矛盾する二つの側面が、一定の条件のもとで、たがいに連結しあって同一牲を獲得することをいう。闘争性は同一性のなかにやどっており、闘争性がなければ、同一性はない。
 同一性のなかには闘争性が存在し、特殊性のなかには普遍性が存在し、個性のなかには通性が存在している。レーニンのことばをかりていえば、「相対的なもののなかに絶対的なものがある」〔24〕のである。

 六 矛盾における敵対の地位

 矛盾の闘争性という問題には、敵対とはなにかという問題がふくまれている。われわれの答えは、敵対とは、矛盾の闘争形態のすべてではなく、矛盾の闘争形態の一つにすぎない、ということである。
 人類の歴史には階級的な敵対が存在する。これは矛盾の闘争の特殊なあらわれである。搾取階級と被搾取階級のあいだの矛盾についていうと、奴隷社会でも、封建社会でも、資本主義社会でも、たがいに矛盾しあう二つの階級は、長期にわたって一つの社会のなかに並存し、たがいに闘争しあっているが、二つの階級の矛盾が一定の段階に発展したとき、はじめて双方は外面的な敵対の形態をとり、革命になるのである。階級社会では、平和から戦争への転化も、やはりこうである。
 爆弾がまだ爆発しないうちは、この矛盾物が一定の条件によって一つの統一休のなかで共存しているときである。新しい条件(発火)があらわれたとき、はじめて爆発をおこす。最後に外面的な衝突の形態をとって、ふるい矛盾を解決し、新しい事物をうみだす自然界の現象には、すべてこれと似た状況がある。
 このような状況を認識することは、きわめて重要である。それはわれわれに、階級社会では、革命と革命戦争が不可避であり、それなしには、社会発展の飛躍を達成することもできなければ、反動的支配階級をうちたおして人民に政権を獲得させることもできない、ということを理解させるものである。共産党員は、反動派のいっている、社会革命は不必要だとか不可能だとかいう欺瞞《ぎまん》的な宣伝を暴露し、マルクス・レーニン主義の社会革命の理論を堅持しなければならず、人民に、社会革命はぜひ必要であるばかりでなく、まったく可能であり、全人類の歴史とソ連の勝利がこの科学的な真理を証明していることを理解させなければならない。
 だが、われわれは、さきにのべた公式をすべての事物にむりやりにあてはめてはならず、矛盾のさまざまな闘争の状況について具体的に研究しなければならない。矛盾と闘争とは普遍的であり、絶対的であるが、矛盾を解決する方法、すなわち闘争の形態は、矛盾の性質のちがいによって異なる。一部の矛盾は公然たる敵対性をもつが、一部の矛盾はそうではない。事物の具体的発展にもとづいて、一部の矛盾は、もともと非敵対性であったものから敵対性のものに発展し、また、一部の矛盾は、もともと敵対性であったものから非敵対性のものに発展する。
 まえにのべたように、共産党内の正しい思想とあやまった思想との矛盾は、階級が存在しているときには、階級的矛盾の党内への反映である。この矛盾は、はじめのうちとか、あるいは個々の問題では、すぐに敵対性のものとしてあらわれるとはかぎらない。だが、階級闘争が発展するにつれて、この矛盾も敵対性のものに発展する可能性がある。ソ連共産党の歴史は、われわれに、レーニンやスターリンの正しい思想とトロツキーやブハーリンなどのあやまった思想との矛盾が、はじめのころはまだ敵対的な形態となってあらわれはしなかったが、のちには敵対的なものに発展したことを教えている。中国共産党の歴史にも、こうした状況があった。わが党内の多くの同志の正しい思想と陳独秀、張国燾《チャンクォタオ》らのあやまった思想との矛盾は、はじめのころは、やはり、敵対的な形態となってあらわれはしなかったが、のちには、敵対的なものに発展した。現在わが党内の正しい思想とあやまった思想との矛盾は、敵対的な形態となってあらわれてはおらず、もし、あやまりをおかした同志が自分のあやまりをあらためることができるならば、それは敵対性のものにまで発展することはない。したがって、党は、一方ではあやまった思想にたいして、きびしい闘争をすすめなければならないが、他方ではまた、あやまりをおかした同志に目ざめる機会を十分あたえるようにしなければならない。このようなばあいに、いきすぎの闘争はあきらかに不適当である。しかし、あやまりをおかした人がそのあやまりを固執し、さらに拡大させていくならば、この矛盾は、敵対性のものに発展する可能性がある。
 経済面での都市と農村との矛盾は、資本主義社会においては(そこではブルジョア階級の支配する都市が農村を残酷に収奪している)、また中国の国民党支配地区においては(そこでは外国の帝国主義と自国の買弁的大ブルジョア階級の支配している都市が農村にたいして野蛮きわまる収奪をしている)、きわめて敵対的なものである。だが、社会主義国では、またわれわれの革命根拠地では、このような敵対的矛盾が非敵対的矛盾に変わっており、そして、共産主義の社会になったときには、このような矛盾は消滅する。
 レーニンはいっている。「敵対と矛盾とは、まったく異なったものである。社会主義のもとでは、前者は消失するだろうが、後者は存続するだろう。」〔25〕これはつまり、敵対とは矛盾の闘争形態のすべてではなく、その形態の一つにすぎないから、この公式をどこにでもあてはめてはならないということである。

  七 結論

 ここで、われわれはつぎのようにまとめることができる。事物の矛盾の法則すなわち対立面の統一の法則は、自然および社会の根本法則であり、したがって思惟の根本法則でもある。それは形而上学の世界観とは正反対のものである。それは人類の認識史における一大革命である。弁証法的唯物論の観点からみると、矛盾は客観的事物および主観的思惟のすべての過程に存在しており、すべての過程の始めから終わりまでをつらぬいている。これが矛盾の普遍性と絶対性である。矛盾している事物およびその一つ一つの側面はそれぞれ特徴をもっている。これが矛盾の特殊性と相対性である。矛盾している事物は、一定の条件によって同一性をもっており、したがって、一つの統一体のなかに共存することができるし、またたがいに反対の側面に転化していくことができる。これもまた矛盾の特殊性と相対性である。しかし、それらが共存しているときでもたがいに転化しあうときでも、闘争が存在しており、矛盾の闘争は絶えることがない。とくにたがいに転化しあうときには、闘争がいっそうはっきりとあらわれる。これもまた矛盾の普遍性と絶対性である。われわれが矛盾の特殊性と相対性を研究するばあいには、矛盾および矛盾の側面の、主要なものと主要でないものとのちがいに注意しなければならず、矛盾の普遍性と闘争性を研究するばあいには、矛盾のさまざまな異なった闘争形態のちがいに注意しなければならない。そうしなければ、あやまりをおかすだろう。もし、われわれが研究をつうじて、うえにのべた諸要点をほんとうに理解したならば、われわれは、マルクス・レーニン主義の基本原則にそむいた、われわれの革命事業にとって不利な教条主義諸思想をうちやぶることができるし、また、経験をもっている同志たちに、その経験を原則性をもつように整理させて、経験主義のあやまりをくりかえさせないようにすることもできる。これらのことが矛盾の法則を研究して得たわれわれの簡単な結論である。



〔注〕
〔1〕 レーニンの『哲学ノート』のなかの『ヘーゲルの著書「哲学史講義」の摘要』の「哲学史第一巻」の「エレア学派」から引用。
〔2〕 レーニンの『弁証法の問題について』(一九一五年著)のなかの「統一物が二つにわかれること、そして、その矛盾したそれぞれの部分を認識することは、弁証法の本質である」というところにみられる。またレーニンの『ヘーゲルの著書「論理学」の摘要も のなかの「弁証法は簡単に対立面の統一の学説と規定することができる。これによって弁証法の核心はつかまれるだろうが、しかしこれは説明と展開とを要する」というところにみられる。
〔3〕 レーニンの『弁証法の問題について』から引用。
〔4〕 漢代における孔子学派の有名な代表的人物董仲舒(西紀前一七九~前一〇四年)は、漢の武帝にたいして「道の大もとは天より出《い》で、天は不変であり、道もまた不変である」とのべた。「道」とは中国古代の哲学者の適用語で、その意味は「道路」または「道理」ということであり、「法則」と解してよい。
〔5〕 エンゲルスの『反デューリンク論』第一編第十二章「弁証法。量と質」にみられる。
〔6〕 レーニンの『弁証法の問題について』にみられる。
〔7〕 エンゲルスの『反デューリング論』第一編第十二章「弁証法。量と質」から引用。
〔8〕 レーニンの『弁証法の問題について』から引用。
〔9〕 レーニンの『弁証法の問題について』から引用。
〔10〕 『レーニン全集』第三十一巻の『共産主義』という論文にみられる。本巻の『中国革命戦争の戦略問題』の注〔10〕を参照。
〔11〕 『孫子』巻三「謀攻」編にみられる。
〔12〕 魏徴(西紀五八〇~六四三年)は唐代初期の政治家であり歴史家であった。本文に引用されていることばは『資治通鑑《しじつがん》』巻一九二にみられる。
〔13〕『水滸伝』は、北宋末期の農民戦争を描いた小説で、宋江はその小説の主要人物である。祝家荘はその農民戦争の根拠地梁山伯の付近にあり、この荘の支配者は祝朝奉という大極悪地主であった。
〔14〕 レーニンの『ふたたび、労働組合について、現在の情勢について、トロツキーとブハーリンのあやまりについて』から引用。
〔15〕 レーニンの『なにをなすべきか?』第一章第四節にみられる。
〔16〕 レーニンの『ヘーゲルの著書「論理学」の摘要』から引用。
〔17〕 『山海経』は、中国の戦国時代(西紀前四〇三~前二二一年)の著作である。夸父とは『山海経』にでてくる神人である。それによれば「夸父が太陽と駆けくらべをした。太陽がしずみ、のどがかわくあまり、黄河と渭水の水を飲んだ。黄河と渭水ではたりなかったので、北の大沢にいって飲もうとしたが、いきつかないうちに、途中でのどかかわききって死んでしまった。その杖のすてられたところが森林となった」(「海外北経」)という。
〔18〕 [上は”羽”、下は”にじゅうあし”]は中国古代の伝説にある英雄で、「太陽を射た」というのは、かれが弓の名人であったという有名な物語である。漢朝の人劉安(西紀前二世紀ごろの貴族)が編集した『淮南子』には、つぎのように書かれている。「堯《ぎょう》の時代に、十個の太陽が一時に出て、作物をこがし、草木を枯らしたので、民にはたべるものがなくなった。[”けものへん”+契][豸+兪]《けつゆ》、鑿歯《さくし》、九嬰《きゅうえい》、大風《たいふう》、封[豕+希]《ほうき》、脩蛇《しゅうだ》がことごとく民を害した。堯は[上は”羽”、下は”にじゅうあし”]をつかわして……天上の十個の太陽を射させ、地上の[”けものへん”+契][豸+兪]を殺させた。……万民はみなよろこんだ。」東漢の人王逸(二世紀ごろの著作家)も屈原の詩「天間」の注釈のなかでつぎのようにいっている。「淮南がいうのに、堯の時代に、十個の太陽が一時に出て、草木はこがされ枯れてしまった。堯は[上は”羽”、下は”にじゅうあし”]に命じて、仰いで十個の太陽を射させ、そのうちの九つを射とめ、……一つを残した。」
〔19〕 『西遊記』は一六世紀の中国の神話小説である。孫悟空はその中にでてくる主人公の神猿で、七十二変化の方術を身につけ、鳥、けもの、虫、魚、草、木、器物、人間など、どんなものにでも思うままにばけることができる。
〔20〕 『聊斎志異』は、一七世紀の清朝の人蒲松齢が民間の伝説をあつめて書いた小説集で、四百三十一縞の短編小説からなっており、大部分が、神や仙人やきつねや幽霊の物語である。
〔21〕 マルクスの『政治経済学批判序説』から引用。
〔22〕 レーニンの『弁証法の問題について』から引用。
〔23〕 このことばは、班固(一世紀ごろの中国の有名な歴史家)があらわした『前漢書』巻三十「芸文志」にはじめてみられ、その後非常に流行した。班固の原文はつぎのとおりである。「諸子十家のうち、見るべきものは九家のみである。これらはみな、王道がおとろえ、諸侯が武力であらそい、時の君主たちがそれぞれ異なる好みをもっていたときにおこった。こうして九家の術がむらがりおこり、おもいおもいの主張をもち、自分がよいとおもうものをかかげ、それをもって遊説し、諸侯にとりいった。かれらのいうところは異なってはいるが、たとえてみれば水と火のように、たがいに滅しあいながら、たがいに生じさせあい、仁は義と、敬は和と、みなたがいに反しあいながら、たがいに成りたたせあった。」
〔24〕 レーニンの『弁証法の問題について』にみられる。
〔25〕 ブハーリンの著『過渡期の経済』へのレーニンの評注にみられる。
〔訳注〕
① 本巻の『湖南省農民運動の視察報告』の注〔3〕を参照。
② 袁世凱がつくった封建的軍閥集団。清朝末、袁世凱が北洋大臣に任命されてのち、かれが新しく編成し、訓練をほどこした陸軍を「北洋軍」とよんだ。辛亥革命(一九一一年)で清朝はたおれたが、革命の成果は表世凱にうばわれ、袁世凱が総統の地位にのしあがって、中央と地方の政権をにぎる軍事集団をつくった。北洋軍閥の支配がこのときからはじまった。袁世凱の死後、北洋軍閥は多くの派閥にわかれ、それぞれちがった帝国主義国に支持されて、たえまなく権力あらそいの混戦をくりびろげた。第一次国内革命戦争の時期に、北洋軍閥政府は人民革命勢力のためにうちたおされた。
③ 本巻の『中国革命戦争の戦略問題』の注〔4〕を参照。
④ 一九〇五年八月、孫中山の指導する興中会は、当時の革命的な小団体である華興会や光復会などと連合して、中国同盟会を結成した。これは当時のブルジョア階級、小ブルジョア階級および清朝に反対する一部の顔役たちの連合戦線組織で、「満州族の駆逐、中華の回復、民国の樹立、地権の平均」というブルジョア革命の政治綱領を提起した。しかし、帝国主義の侵略に反対して民族の独立を実現するというスローガンは、はっきりかかげられなかった。辛亥革命ののち、同盟会は改組されて国民党となった。
  
  
  

 
 
indianmaoist.blogspot.com
顶端 Posted: 2010-12-17 09:32 | 17 楼
maobadi
级别: 精灵王


精华: 0
发帖: 1265
威望: 1275 点
红花: 12650 朵
贡献值: 0 点
在线时间:535(小时)
注册时间:2009-11-30
最后登录:2013-12-21

 

 
毛沢東選集 第二巻
北京 外文出版社
(1968年 初版を電子化)

     電子版凡例(原版の凡例相当部分を適宜変更)

一 本訳書は北京人民出版社一九六四年九月出版の『毛沢東選集』第一巻から第四巻までの完訳である。各論文の解題と注釈もこの版から訳出したものである。
一 注釈は底注と訳注にわかれ、原注は漢数字を〔 〕でかこみ(電子版は漢数字ではなく、半角数字を〔 〕で囲んでいる)、各論文の末尾においた。訳注は訳者がくわえたもので、算用数字を○(電子版では機種依存文字である①などで表現)でかこみ、原注のあとにおいた。
一 度量衡、通貨、行政区画については、一部をのぞいてすべて原文のままの単位を用い、訳注を付した。
一 読み仮名は、《 》で囲まれた範囲で示される。
一 第二水準で表現できない漢字は、基本的に[片+旁]で表現した。それ以外の表現も、適宜[ ]内で記した。
一 本電子版はMS IMEを用いて作成された。
一 傍点のある部分はhtml版では斜字、太字の部分はそのまま太字である。。
一 原文では旧字体などで表現されていても、電子版で表現できないなどの理由により新字体で表現しているところがある。例えば、蒋介石は原文では旧字体だが、電子版では新字体である。


     目次


   抗日戦争の時期(上)

日本の進攻とたたかう方針、方法および前途(一九三七年七月二十三日)
  一 二つの方針
  
二 二つの方法
  
三 二つの前途
  
四 結論

すべての力を動員して抗戦の勝利をかちとるためにたたかおう(一九三七年八月二十五日)

自由主義に反対する(一九三七年九月七日)

国共合作成立後のさしせまった任務(一九三七年九月二十九日)

イギリスの記者バートラムとの談話(一九三七年十月二十五日)
  中国共産党と抗日戦争
  
抗日戦争の状況と教訓
  
抗日戦争における八路軍
  
抗日戦争における投降主義
  
民主制度と抗日戦争

上海、太原陥落後の抗日戦争の情勢と任務(一九三七年十一月十二日)
  一 当面の情勢は一面的抗戦から全面的抗戦への過渡期にある
  二 党内でも全国でも投降主義に反対しなければならない
     
党内では、他階級にたいする階級的投降主義に反対する
     
全国では、他民族にたいする民族的投降主義に反対する
     
階級的投降主義と民族的投降主義との関係

陝西・甘粛・寧夏辺区政府、第八路軍後方留守本部布告(一九三八年五月十五日)

抗日遊撃戦争の戦略問題(一九三八年五月)
  第一章 なぜ遊撃戦争の戦略問題を提起するのか
  
第二章 戦争の基本原則は自己を保存し敵を消滅することである
  
第三章 抗日遊撃戦争の六つの具体的戦略問題
  
第四章 防御戦中の進攻戦、持久戦中の速決戦、内線作戦中の外線作戦の主動的、弾力的、計画的実行
  
第五章 正規戦争との呼応
  
第六章 根拠地の樹立
   
第一節 いくつかの種類の根拠地
   
第二節 遊撃区と根拠地
   
第三節 根拠地樹立の条件
   
第四節 根拠地の強化と発展
   
第五節 敵と味方のあいだのいくつかの種類の包囲
  
第七章 遊撃戦争の戦略的防御と戦略的進攻
   
第一節 遊撃戦争の戦略的防御
   
第二節 遊撃戦争の戦略的進攻
  
第八章 運動戦への発展
  
第九章 指揮関係

持久戦について(一九三八年五月)
  問題の提起
  
問題の根拠
  
亡国論を反ばくする
  
妥協か抗戦か、腐敗か進歩か
  
亡国論はまちがっており、速勝論もまちがっている
  
なぜ持久戦なのか
  
持久戦の三つの段階
  
犬歯錯綜した戦争
  
永遠の平和のために戦おう
  
戦争における能動性
  
戦争と政治
  
抗日のための政治的動員
  
戦争の目的
  
防御のなかでの進攻、持久のなかでの速決、内線のなかでの外線
  
主動性、弾力性、計画性
  
運動戦、遊撃戦、陣地戦
  
消耗戦、殲滅戦
  
敵のすきに乗ずる可能性
  
抗日戦争における決戦の問題
  
兵士と人民は勝利のもとである
  
結論

民族戦争における中国共産党の地位(一九三八年十月)
  愛国主義と国際主義
  
民族戦争における共産党員の模範的役割
  
全民族の団結と、民族内部の敵のまわし者にたいする闘争
  
共産党の拡大と、敵のまわし者の潜入防止
  
統一戦線の堅持と党の独立性の堅持
  
全局に気をくばり、多数に気をくばり、同盟者といっしょに仕事をすること
  
幹部政策
  
党の規律
  
党内民主主義
  
わが党はすでに二つの戦線での闘争をつうじて強固になり、強大になった
  
二つの戦線での当面の闘争
  
学習
  
団結と勝利

統一戦線における独立自主の問題(一九三八年十一月五日)
  援助と譲歩は消極的でなく、積極的でなければならない
  
民族闘争と階級闘争の一致性
  
「すべては統一戦線を通じて」というのはまちがいである

戦争と戦略の問題(一九三八年十一月六日)
  一 中国の特徴と革命戦争
  
二 中国国民党の戦争史
  
三 中国共産党の戦争史
  
四 国内戦争と民族戦争における党の軍事戦略の転換
  
五 抗日遊撃戦争の戦略的地位
  
六 軍事問題の研究に注意すること

五・四運動(一九三九年五月)

青年運動の方向(一九三九年五月四日)

投降の策動に反対せよ(一九三九年六月三十日)

反動派を制裁せよ(一九三九年八月一日)

新しい国際情勢についての新華日報記者との談話(一九三九年九月一日)

中央通信社、掃蕩報、新民報の三記者との談話(一九三九年九月十六日)

ソ連の利益と人類の利益との一致(一九三九年九月二十八日)

『共産党人』発刊のことば(一九三九年十月四日)

当面の情勢と党の任務(一九三九年十月十日)

知識人を大量に吸収せよ(一九三九年十二月一日)

中国革命と中国共産党(一九三九年十二月)
  第一章 中国社会
   
第一節 中華民族
   
第二節 古代の封建社会
   
第三節 現代の植民地・半植民地・半封建の社会
  第二章 中国革命
   
第一節 百年来の革命運動
   
第二節 中国革命の対象
   
第三節 中国革命の任務
   
第四節 中国革命の原動力
   
第五節 中国革命の性質
   
第六節 中国革命の前途
   
第七節 中国革命の二重の任務と中国共産党

スターリンは中国人民の友である(一九三九年十二月二十日)

ベチューンを記念する(一九三九年十二月二十一日)

新民主主義論(一九四〇年一月)
  一 中国はどこへいく
  
二 われわれは新中国をうちたてる
  
三 中国の歴史的特徴
  
四 中国革命は世界革命の一部分である
  
五 新民主主義の政治
  
六 新民主主義の経済
  
七 ブルジョア独裁を反ばくする
  
八 「左」翼空論主義を反ばくする
  
九 頑迷派に反ばくする
 
一○ 旧三民主義と新三民主義
 
一一 新民主主義の文化
 
一二 中国文化革命の歴史的特徴
 
一三 四つの時期
 
一四 文化の性質の問題についての偏向
 
一五 民族的、科学的、大衆的な文化

投降の危険を克服し、時局の好転をたたかいとろう(一九四〇年一月二十八日)

すべての抗日勢力を結集して反共頑迷派に反対しよう(一九四〇年二月一日)

国民党にたいする十項目の要求(一九四〇年二月一日)

『中国工人』発刊のことば(一九四〇年二月七日)

団結と進歩を強調しなければならない(一九四〇年二月十日)

新民主主義の憲政(一九四○年二月二十日)

抗日根拠地の政権問題(一九四〇年三月六日)

当面の抗日統一戦線における戦術の問題(一九四〇年三月十一日)

おもいきって抗日勢力を発展させ、反共頑迷派の進攻に抵抗せよ(一九四〇年五月四日)

あくまで団結しよう(一九四〇年七月)

政策について(一九四〇年十二月二十五日)

安徽省南部事変について発表した命令と談話(一九四一年一月)
  中国共産党中央革命軍事委員会命令
  
中国共産党中央革命軍事委員会スポークスマンの新華社記者にたいする談話

二回目の反共の高まりを撃退した後の時局(一九四一年三月十八日)

二回目の反共の高まりの撃退についての総括(一九四一年五月八日)
[ 此帖被maobadi在2010-12-17 13:11重新编辑 ]
  
  
  

 
 
indianmaoist.blogspot.com
顶端 Posted: 2010-12-17 09:33 | 18 楼
maobadi
级别: 精灵王


精华: 0
发帖: 1265
威望: 1275 点
红花: 12650 朵
贡献值: 0 点
在线时间:535(小时)
注册时间:2009-11-30
最后登录:2013-12-21

 

抗日戦争の時期(上)



日本の進攻とたたかう方針、方法および前途
          (一九三七年七月二十三日)
     一九三七年七月七日、日本帝国主義は、全中国を武力で併呑《へいどん》しようとくわだてて、蘆溝橋事変をひきおこした。全国の人民は、日本と戦うことを一致して要求した。蒋介石は事変発生後十日もしてやっと廬山で談話を発表し、対日抗戦を宣言した。これは全国人民の圧力によると同時に、日本侵略者の行動が中国におけるイギリス、アメリカ帝国主義の利益と、蒋介石の直接代表する大地主・大ブルジョア階級の利益に重大な打撃をあたえたことにもよるのである。だが、この時でも、蒋介石政府は、依然として日本侵略者と交渉をつづけ、日本侵略者と地方当局とのあいだでとりきめたいわゆる平和的解決の方案さえうけいれた。そして、八月十三日、日本侵略者が大挙上海に進攻し、中国東南部における蒋介石の支配的地位がどうにも維持できなくなったとき、はじめて、やむなく抗戦を実行した。だが、その後、一九四四年にいたるまで、蒋介石は日本侵略者との秘密裏の和平交渉を、終始やめたことがなかった。抗日戦争の全期間、蒋介石は「ひとたび戦端がひらかれれば、土地に南北の別なく、人に老若の別なく、なにびともみな国土をまもるために抗戦する責務がある」というかれの廬山談話のなかの言明を完全に裏切って、人民総動員の全面的な人民戦争に反対し、抗日には消極的、反共、反人民には積極的、という反動政策をとった。毛沢東同志がこの論文でのべている二つの方針、二つの方法、二つの前途こそ、抗日戦争における共産党の路線と、もう一つの蒋介石の路線との闘争をあきらかにしたものである。


      一 二つの方針

     中国共産党中央委員会は、蘆溝橋《ルーコウチァオ》事変〔1〕の翌日、七月八日、全国に抗戦をよびかける宣言を発表した。宣言ではつぎのようにのべている。

       「全国の同胞諸君。北平《ペイピン》、天津《ティエンチン》があぶない。華北があぶない。中華民族があぷない。われわれの活路は全民族による抗戦の実行以外にはない。われわれは、進攻してきた日本軍にただちに断固抵抗するとともに、あらたな大事変にただちに対処する準備をするよう要求する。全国のすべてのものが、上下の別なく、日本侵略者と和睦《わぼく》して一時の安泰をもとめるいかなる考えをもただちに捨てさるべきである。全中国の同胞諸君。われわれは、馮治安《フォンチーアン》部隊の勇敢な抗戦を称賛し支持すべきである。われわれは、国土と存亡をともにするという華北当局の宣言を称賛し支持すべきである。われわれは、宋哲元《ソンチョーユァン》将軍に、ただちに第二十九軍〔2〕の全部隊を動員し、前線におもむいて応戦するよう要求する。われわれは南京の中央政府につぎのことを要求する。第二十九軍を確実に援助すること、また、ただちに全国民衆の愛国運動の禁止を解除し、民衆の抗戦意欲をたかめること、応戦準備のため、ただちに全国の陸海空軍を動員すること、後方をかためるため、ただちに中国国内にびそんでいる民族裏切り者、売国奴および日本侵略者のすべてのスパイを一掃することである。われわれは、全国人民に、全力をあげて神聖な抗日自衛戦争を援助するよう要求する。われわれのスローガンはつぎのとおりである。北平、天津と華北を武力で防衛しよう。国土防衛のため最後の血の一滴までささげよう。全中国の人民、政府、軍隊は団結して、民族統一戦線の強固な長城をきずき、日本侵略者の侵略に抵抗しよう。国共両党は親密に協力し、日本侵略者のあらたな進攻に抵抗しよう。日本侵略者を中国から駆逐しよう。」

     これが方針の問題である。
     七月十七日、蒋介石《チァンチェシー》氏は廬山《ルーシャン》で談話を発表した。この談話は、抗戦するという方針を確定したもので、国民党が多年らい対外問題でおこなってきたもののうち最初の正しい宣言であり、したがって、われわれと全国同胞から歓迎されている。この談話は蘆溝橋事件を解決する四つの条件をあげている。

       「(一)中国の王権および領土の保全を侵害するどのような解決策もゆるさない。(二)河北《ホーペイ》省、察哈爾《チャーハール》省の行政機構には、どのような不法な変更をくわえることもゆるさない。(三)中央が派遣した地方官吏は他から要求されるままに免職させてはならない。(四)第二十九軍の現駐屯地区についてはどのような制限もくわえてはならない。」

    この談話は、その結語でつぎのようにのべている。

       「政府は、蘆溝橋事件について、すでに一貫した方針と立場を確定した。全国が応戦してからの情勢はあきらかである。けっして万一をたのみにてきるはずはなく、最後まで犠牲をはらうのみである。ひとたび戦端がひらかれれば、土地に南北の別なく、人に老若の別なく、なにびともみな国土をまもるために抗戦する責務がある。」

     これが方針の問題である。
     以上は、国共両党の蘆溝橋事変にたいする歴史的意義をもつ二つの政治宣言である。この二つの宣言の共通点は、妥協、譲歩に反対し、断固抗戦を主張していることである。
     これは、日本の進攻に対処する第一の方針であり、正しい方針である。
     ところが、第二の方針がとられる可能性もある。最近数ヵ月らい、北平、天津一帯の民族裏切り者および親日派分子は、日本の要求にこたえて、断固抗戦の方針をぐらつかせ、妥協と譲歩を主張して、北平、天津当局に圧力をくわえようとさかんに策動している。これは非常に危険な現象である。
     このような妥協、譲歩の方針は、断固抗戦の方針と根本的に矛盾する。このような妥協、譲歩の方針が早急にあらためられないなら、北平、天津および華北はことごとく敵の手中におちいり、全民族は絶大な脅威をうけるであろう。これは、すべての人びとが十分に注意しなければならないことである。
     第二十九重の愛国的な全将兵は団結して、妥協、譲歩に反対し、断固抗戦を実行せよ。
     北平、天津および華北の愛国的な全同胞は団結して、妥協、譲歩に反対し、断固抗戦を支持せよ。
     全国の愛国的な同胞は団結して、妥協、譲歩に反対し、断固抗戦を支持せよ。
     蒋介石氏およびすべての愛国的な国民党員諸君。諸君が自己の方針を堅持し、自己の公約を実行し、妥協、譲歩に反対し、断固抗戦を実行し、事実をもって敵の侮辱にこたえるよう希望する。
     赤軍をふくめた全国の軍隊は、蒋介石氏の宣言を支持し、妥協、譲歩に反対し、断固抗戦を実行せよ。
     共産党員は、心を一つにして、自己の宣言を忠実に実行すると同時に、蒋介石氏の宣言を断固として支持するものであり、国民党員および全国の同胞とともに、国土防衛のために最後の血の一滴までもささげ、あらゆるためらい、動揺、妥協、譲歩に反対し、断固抗戦を実行するものである。

    二 二つの方法

     断固抗戦という方針のもとに、その目的をたっするには、ぜひとも一連の方法が必要である。どのような方法か。主要なものとしては、つぎのとおりである。
     (一)全国の軍隊の総動員。陸海空軍をふくみ、中央軍、地方軍、赤軍をふくむわれわれの二百数十万の常備軍を動員し、一部を治安維持のため後方にのこして、主力をただちに国防の前線に出動させる。民族の利益に忠実な将領を各方面の指揮員に委嘱する。戦略方針を決定し、戦闘の意志を統一するため、国防会議を招集する。将兵の一致、軍民の一致をはかるため、軍隊の政治工作を改革する。遊撃戦争が戦略的任務の一方面をうけもつことを確認して、遊撃戦争を正規の戦争に呼応させる。軍隊内の民族裏切り分子を粛清する。一定数の予備軍を動員して、訓練をほどこし、前線におくる準備をする。軍隊の装備と給養を合理的に補給する。断固抗戦という総方針にもとづいて、以上各項の軍事計画をたてなければならない。中国の軍隊はすくなくないが、上述の計画を実行しなければ、敵にうち勝つことはできない。政治的条件を物質的条件とむすびつけるなら、われわれの軍事力は東亜において無敵となるであろう。
     (二)全国人民の総動員。愛国運動の禁止をとき、政治犯を釈放し、「民国破壊活動緊急処罰法」〔3〕および「新聞検閲条例」〔4〕を廃止し、現存する愛国団体の合法的地位をみとめ、愛国団体の組織を労働者、農民、商工業者、知識層などの各界にひろげ、民衆を武装化して、自衛させるとともに、軍隊の作戦に呼応させる。一言でいえば、人民に愛国の自由をあたえることである。人民の力が軍事力とむすびつけば、日本帝国主義に致命的な打撃をあたえるであろう。民族戦争であっても人民大衆に依拠しなければ、勝利をかちとれないことは、なんら疑う余地がない。エチオピアの失敗〔5〕が、よいいましめである。心底から断固抗戦するのであるなら、この点をゆるがせにしてはならない。
     (三)政治機構の改革。各党各派と人民の指導者を政府にいれて、いっしょに国事をつかさどり、政府のなかにひそんでいる親日派や民族裏切り分子を一掃して、政府と人民とを結合させる。抗日は大仕事で、少数のものではけっしてやりおおせるものではない。しいてやればことをしそんじるだけである。政府がほんとうの国防政府であれば、かならず民衆に依拠し、民主集中制を実行するものでなければならない。それは民主的でもあれば、また集中的でもあり、このような政府こそもっとも強力な政府である。国民大会は、ほんとうに人民を代表すべきものであり、最高の権力機関であるべきで、国家の根本的な政策と方針をつかさどり、抗日救国の政策と計画を決定しなければならない。
     (四)抗日の外交。日本帝国主義者にはいかなる利益も便宜もあたえてはならず、反対に、その財産を没収し、その債権を無効にし、その手先を一掃し、そのスパイを駆逐しなければならない。ただちに、ソ連と軍事的、政治的同盟をむすんで、中国の抗日をもっともよくたすけてくれる、もっとも信頼のおける、もっとも有力なこの国と緊密に連合する。われわれの抗日にたいするイギリス、アメリカ、フランスの支持をかちとり、領土・主権をうしなわないことを前提として、その援助をかちとる。日本侵略者にうち勝つには、主として自己の力によるべきであるが、外国からの援助も欠くことができない。孤立政策は敵を有利にするものである.
     (五)人民生活改善の綱領を公布し、ただちにその実行にとりかかること。苛酷《かこく》で雑多な税金の廃止、小作料の引き下げ、高利貸しの制限、労働者の待遇改善、兵士と下級将校の生活改善、下級職員の生活改善、災害や飢きんの救済など、こうした最低限度のことからやりはじめる。これらの新政策は、人民の購買力をたかめ、市場を繁栄させ、金融を活発にするものであって、けっして、一部の人のいうように、国家の財政を逼迫《ひっぱく》させるものではない。これらの新政策は、抗日の力を無限にたかめ、政府の基礎をかためるであろう。
     (六)国防教育。これまでの教育方針と教育制度を根本的に改革する。不急の事業や不合理な施策は、すべて廃止する。新聞、出版、映画、演劇、文学・芸術などは、すべて国防上の利益に合致させる。民族裏切り者のおこなう宣伝を禁止する。
     (七)抗日の財政経済政策。金のあるものは金を出し、日本帝国主義者と民族裏切り者の財産は没収するという原則のうえに財政政策をうちたて、日本商品を排斥し国産品を奨励するという原則のうえに経済政策をうちたて、すべてのことは抗日のためにおこなう。貧困は、あやまった施策からうまれたもので、人民の利益に合致した新しい政策がとられれば、貧困などはけっしてありえない。このように土地が広く、人口の多い国で、財政経済上どうにもならないというのは、まったく理屈にあわない話である。
     (八)全中国の人民、政府、軍隊が団結して、民族統一戦線という強固な長城をきずくこと。抗戦の方針と上述の各項の政策を実行するにあたっては、この連合戦線に依拠する。中心の鍵《かぎ》は国共両党の親密な協力にある。政府、軍隊、全国の各政党、全国人民は、この両党の協力を基礎として団結する。「まごころをもって団結し、ともに国難にあたれ」というスローガンを、耳ざわりよくしゃべりたてるだけでなく、りっぱにやってのけなければならない。団結は、ほんとうの団結でなければならず、うそをいったり、だましたりするのはいけない。仕事をするにはすこしおおらかな方がよく、風格はすこし高い方がよい。細かいそろばんはじきや小細工、官僚主義や阿Q主義は、実際にはなんの役にもたたない。こうしたものは、敵にあたる場合にもつかえないのに、同胞にたいしてつかうのは、まったくおかしいことである。物事には大きな道理と小さな道理があるが、小さな道理はすべて大きな道理に支配される。国民は大きな道理にもとづいて物事をよく考えなければ、自分の考え方ややり方を、しかるべきところに位置づけることはできない。こんにち、団結という二字にたいしてすこしでも誠意をしめすことのできないものは、たとえほかからののしられなくても深夜しずかに胸に手をあてて考えれば、いささか恥じるところがあるはずである。
     断固抗戦を実現するためのこの一連の方法は、八大綱領といってもよい。
     断固抗戦という方針には、この一連の方法がともなわなければならない。そうでなければ、抗戦は勝利することはできず、日本はいつまでも中国を侵略するし、中国はいつまでも日本をどうすることもできなくなり、エチオピアの二の舞いもさけるれないであろう。
     断固抗戦という方針に誠意をもつものは、かならずこの一連の方法を実行しなければならない。断固抗戦に誠意をもっているかどうかをたしかめるには、その人がこの一連の方法をとり、実行する気があるかどうかを見ることである。
     このほかにもなお一連の方法があるが、それは、いまのべた一連の方法とはことごとに反対のものである。
     軍隊を総動員するのではなく、軍隊を動員しないか、または後方へ撤退させるのである。
     人民に自由をあたえるのではなく、人民に圧迫をくわえるのである。
     民主集中制の国防的性質をもった政府ではなく、官僚、買弁、豪紳、地主の専制政府である。
     抗日の外交ではなく、日本にこびる外交である。
     人民の生活を改善するのではなく、いままでどおりに人民を抑圧搾取し、人民を苦痛にあえがせ、抗日する力を失わせるのである。
     国防の教育ではなく、亡国の民の教育である。
     抗日のための財政経済政策ではなく、いままでどおりか、いままでよりいっそうひどくさえある、自国にとっては無益で敵にとっては有益な財政経済政策である。
     抗日民族統一戦線という長城をきずくのではなく、この長城をうちこわすか、または面従腹背し、やる気がないのに「団結」についてひとしきりしゃべりたてるだけである。
     方法は方針からでてくるものである。方針が無抵抗主義であれば、方法もすべて無抵抗主義を反映する。このことについては、すでに六年間の教訓がある。方針が断固抗戦であるなら、その方針に合致した一連の方法を実行しなければならず、この八大綱領を実行しなければならない。

     三 二つの前途

     前途はどうなるか。これは、みんなが心配していることである。
     第一の方針を実行し、第一の方法をとるなら、かならず、日本帝国主義を駆逐し、中国の自由と解放を実現する前途がえられる。この点について、まだ疑問があるだろうか。わたしは疑問はないとおもう。
     第二の方針を実行し、第二の方法をとるなら、かならず、日本帝国主義が中国を占領し、中国人民がみな牛馬や奴隷になるという前途がえられる。この点について、まだ疑問があるだろうか。わたしはこれも疑問はないとおもう。


         四 結論

     かならず第一の方針を実行し、第一の方法をとり、第一の前途をたたかいとらなければならない。
     かならず第二の方針に反対し、第二の方法に反対し、第二の前途をさけなければならない。
     すべての愛国的な国民党員と共産党員は団結して、断固第一の方針を実行し、第一の方法をとり、第一の前途をたたかいとり、断固第二の方針に反対し、第二の方法に反対し、第二の前途をさけなければならない。
     全国の愛国的な同胞、愛国的な軍隊、愛国的な政党は、一致団結して、断固第一の方針を実行し、第一の方法をとり、第一の前途をたたかいとり、断固第二の方針に反対し、第二の方法に反対し、第二の前途をさけなければならない。
     民族革命戦争万歳!
     中華民族解放万歳!



    〔1〕 蘆溝橋は北京市街区から西南十余キロのところにある。一九三七年七月七日、日本侵略軍がここで中国の駐屯軍を攻撃した。中国の駐屯軍は全国人民の激しい抗日の波におされて、抵抗に立ちあがった。中国人民の八年間にわたる英雄的な抗戦はここからはじまった。
    〔2〕 第二十九軍は、もと馮玉洋統率下の国民党西北軍の一部で、当時河北省と察哈爾省一帯に駐屯していた。宋哲元はこの軍の軍長、馮治安はこの車の師団長のひとりであった。
    〔3〕 一九三一年一月三十一日、自民党政府は、「民国にたいする破壊活動」という罪名を愛国的人民や革命家にたいする迫害と殺戮《さつりく》の口実とするため、いわゆる「民国破壊活動緊急処罰法」を公布した。この法律による迫害はきわめて残酷なものであった。
    〔4〕 「新聞検閲条例」とは、国民党政府が人民の言論を抑圧するため一九三四年八月に制定した「新聞検閲辧法六綱」をさす。それには「新聞原稿はかならず検閲をうけなければならない」と規定されている。国民党支配区の新聞に発表される記事は、すべて発行前に原稿を国民党の検閲官におくって、検閲をうけなければならない。検閲官は勝手に削除、差し止めをすることができるというものである。
    〔5〕 本題集第一巻の『抗日の時期における中国共産党の任務』(八)にみられる。
    訳注
    ① 本選集第一巻の『抗日の時期における中国共産党の任務』注〔14〕を参照。


  
  
  

 
 
indianmaoist.blogspot.com
顶端 Posted: 2010-12-17 09:36 | 19 楼
«1 2 3456» Pages: ( 2/24 total )
帖子浏览记录 版块浏览记录
中国文革研究网 » CR DOCUMENTS
 
 

Total 0.037120(s) query 4, Time now is:09-27 05:41, Gzip enabled
Powered by PHPWind v6.3.2 Certificate © http://wengewang.tk