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中国革命と中国共産党
          (一九三九年十二月)
     『中国革命と中国共産党』は、一九三九年の冬、毛沢東同志と他の何人かの延安にいた同志が協力して執筆した教科書である。第一章の「中国社会」は、他の何人かの同志が起草して毛沢東同志が筆をいれたものであり、第二章の「中国革命」は、毛沢東同志がみずから書いたものである。第三章では、「党の建設」をとりあつかう予定であったが、執筆を担当した同志が原稿を書きあげなかったのでとりやめた。しかし、この二つの章、とくに第二章は、中国共産党と中国人民のあいだで、やはり大きな教育的役割をはたした。毛沢東同志は、本文第二章のなかの新民主主義にかんする観点を、一九四〇年一月に書いた『新民主主義論』で大いに発展させている。

     第一章中国社会

    第一節 中華民族

 わが中国は世界でもっとも大きな国の一つであり、その領土はヨーロッパ全体の面積にほぼ等しい。この広大な領土には、われわれに衣食のみなもとをあたえてくれるひろい肥沃《ひよく》な土地がある。そしてわれわれのために広大な森林をそだて豊富な鉱物資源をたくわえてくれている、全国を縦横にはしる大小の山脈がある。またわれわれに水運と灌漑の利をあたえてくれる多くの河川や湖沼があるし、われわれに海外の各民族との交通の便をあたえてくれる長い海岸線がある。はるか古代から、わが中華民族の祖先は、この広大な土地のうえで労働し、生活し、子孫をふやしてきた。
 現在、中国の国境は、東北、西北および西部の一部では、ソビエト社会主義共和国連邦と接している。真北では、モンゴル人民共和国と接している。西部の一部と西南部では、アフガニスタン、インド、ブータン、ネパールと接している。南部では、ビルマおよびベトナムと接している。東部では、朝鮮と接し、日本やフィリピンにも近い。この地理的な国際環境は、中国人民の革命に、外部からの有利な条件と困難な条件をつくりだしている。有利な条件は、ソ連と境を接し、欧米の主要な帝国主義諸国からはかなり遠くはなれており、まわりの国ぐにの多くが植民地、半植民地国だということである。困難な条件は、日本帝国主義が、中国に近いという関係を利用して、たえず中国諸民族の生存をおびやかし、中国人民の革命をおびやかしていることである。
 わが中国は、いま、四億五千万の人口をもち、全世界人口のほぼ四分の一を占めている。この四億五千万の人口のうち、九割以上が漢族である。このほかにも、蒙古族、回族、チベット族、ウィグル族、苗族、彝《い》族、壮族、布依族、朝鮮族などあわせて数十の少数民族がいて、文化の発展の程度こそちがっているが、みな長い歴史をもっている。中国は、多数の民族が結合してできた、多くの人口をもつ国である。
 中華民族の発展(ここでは主として漠族の発展をいう)は、世界の他の多くの民族とおなじように、かつて何万年かにわたる階級のない原始共同体の生活をへてきた。そして原始共同体がくずれて社会生活が階級生活にうつったその時代から、奴隷社会、封建社会をへて現在にいたるまで、およそ四千年もたっている。中華民族の文明史には、発達していることでよく知られている農業と手工業があり、たくさんの偉大な思想家、科学者、発明家、政治家、軍事家、文学者、芸術家があり、ゆたかな文化的典籍がある。中国では、ずっと昔に羅針盤が発明された〔1〕。千八百年前にはすでに製紙法が発明された〔2〕。千三百年前には木版印刷が発明された〔3〕。八百年前にはさらに活字印刷が発明された〔4〕。火薬の応用〔5〕もヨーロッパ人よりはやかった。したがって、中国は世界でもっともはやく文明の発達した国の一つであり、中国にはすでに四千年にちかい、文字によって考証できる歴史がある。
 中華民族は、刻苦勤勉なことで世界に知られているだけでなく、同時に自由を熱愛する、革命の伝統に富んだ民族でもある。漢族の歴史を例にとってみても、中国人民は暗黒勢力の支配に甘んずるものではなく、そのつど革命的手段によって、そうした支配の打倒や変革の目的をたっしてきたことが証明できる。漢族の数千年の歴史には、地主と貴族の暗黒支配に反抗した大小何百回もの農民蜂起があった。多くの王朝の交代は、農民蜂起の力によってはじめて成功したのである。中華民族のなかの各族の人民はいずれも外来民族の抑圧とたたかい、反抗の手段によってこうした抑圧をとりのぞこうとした。かれらは、平等な連合には賛成するが、たがいに抑圧しあうことには賛成しない。中華民族の数千年の歴史には、民族の英雄と革命の指導者がたくさんうまれた。したがって、中華民族は、光栄ある革命的伝統と優秀な歴史的遺産をもつ民族でもある。

 第二節 古代の封建社会

 中国は偉大な民族の国であり、土地のひろい、人口の多い、歴史のふるい、また革命の伝統と優秀な遺産に富んだ国ではあるが、奴隷制度をぬけだして封建制度にはいってからは、経済、政治、文化の発展が長いあいだ緩慢な状態におちいっていた。この封建制度は、周、秦以来、ずっと三千年ばかりもつづいた。
 中国の封建時代の経済制度と政治制度は、つぎのような主要な特徴からなっていた。
 一、自給自足の自然経済が主要な地位をしめていた。農民は、自分に必要な農産物を生産したばかりでなく、自分に必要な大部分の手工業品をも生産した。また地主と貴族は、農民から搾取した小作料を、主として自分の消費にあて、交換にはあてなかった。当時、交換も発展していたが、経済全体のなかでは決定的な役割をはたさなかった。
 二、封建的支配階級である地主、貴族、皇帝が土地の圧倒的部分をにぎり、農民は土地をほんの少ししかもたないか、あるいは全然もたなかった。農民は、自分の農具をつかって地主、貴族、皇室の土地をたがやし、その収穫物の四割、五割、六割、七割、さらには八割以上も地主、貴族、皇室の消費のために上納した。このような農民は、実際にはまだ農奴であった。
 三、地主、貴族、皇室が農民から搾取する小作料でくらしていたばかりでなく、地主階級の国家もまた、膨大な数にのぼる国家の官吏と、おもに農民の弾圧につかう軍隊とをやしなうために、農民に貢物や税金の納入を強制し、無償の労役につくことを強制した。
 四、このような封建的搾取制度を保護する権力機関は、地主階級の封建国家であった。秦のまえの時代は諸侯が割拠して覇をとなえた封建国家であったとすれば、秦の始皇帝が中国を統一してからは、専制主義的、中央集権的な封建国家がうちたてられ、同時に、封建的割拠の状態も、いぜんとしてある程度のこされていた。封建国家においては皇帝は最高至上の権力をもち、各地方にそれぞれ、兵、刑、銭、糧などをつかさどる役人をおくとともに、封建的支配全体の基礎として、地主と豪紳に依拠していた。
 中国の歴代の農民は、このような封建的な経済的搾取と封建的な政治的抑圧のもとで、貧苦にあえぐ奴隷的な生活をおくっていたのである。農民は、封建制度にしばられて、人身の自由をもっていなかった。地主は、勝手に農民をなぐり、どなりつけ、はては殺すことさえできる権利をもっていたが、農民はなんらの政治的権利ももっていなかった。地主階級のこのように残酷な搾取と抑圧によってつくりだされた農民の極度の貧困とたちおくれこそ、中国の社会が経済のうえでも社会生活のうえでも、何干年ものあいだ、停滞していた基本的原因である。
 封建社会の主要な矛盾は、農民階級と地主階級との矛盾であった。
 そして、このような社会では、農民と手工業労働者だけが、富をつくりだし文化をつくりだす基本的な階級であった。
 地主階級の農民にたいする残酷な経済的搾取と政治的抑圧のために、農民は地主階級の支配に反抗して、何度となく蜂起をおこなわざるをえなかった。秦代の陳勝、呉広、項羽、劉邦〔6〕から、漢代の新市、平林、赤眉、銅馬〔7〕、黄巾〔8〕、隋代の李密、竇建徳《とうけんとく》〔9〕、唐代の王仙芝、黄巣〔10〕、宋代の宋江、方臘〔11〕、元代の朱元璋〔12〕明代の李自成〔13〕をへて、清代の太平天国〔14〕にいたるまでの大小あわせて数百回の蜂起は、みな農民の反抗運動であり、農民の革命戦争であった。中国の歴史にみられる農民蜂起と農民戦争の規模の大きいことは、世界の歴史にもまれなものである。中国の封建社会では、このような農民の階級闘争、農民の蜂起、農民の戦争だけが、歴史を発展させる真の原動力であった。なぜなら、比較的大きな農民蜂起と農民戦争のたびごとに、その結果として当時の封建的支配に打撃があたえられ、これによって多かれ少なかれ社会の生産力の発展がうながされたからである。ただ、当時は、まだ新しい生産力と新しい生産関係がなく、新しい階級勢力がなく、先進的な政党がなかったので、こうした農民蜂起や農民戦争は、いまのようなプロレタリア階級と共産党の正しい指導を得ることができなかった。それで、当時の農民革命は、いつも失敗に終わり、いつも革命の最中、または革命ののちに、地主と貴族に王朝交代の道具として利用されてしまったのである。こうして、農民の大規模な革命闘争がやんだあとは、そのたびごとに、社会はいくらか進歩したが、基本的にはあいかわらず封建的な経済関係と封建的な政治制度がつづいた。
 このような状態に新しい変化がうまれたのは、ここ百年来のことである。

  第三節 現代の植民地・半植民地・半封建の社会

 中国の過去三千年来の社会が封建社会であったことは、さきに説明した。では、中国の現在の社会もまだ完全な封建社会であろうか。そうではない。中国はすでに変化している。一八四〇年のアヘン戦争以後、中国は一歩一歩半植民地・半封建の社会に変わった。一九三一年の九・一八事変で日本帝国主義が中国にたいする武力侵略をおこなってからは、中国はさらに植民地・半値民地・半封建の社会に変わった。つぎに、このような変化の過程について説明しよう。
 第二節でのべたように、中国の封建社会はほぼ三千年もつづいた。一九世紀のなかごろになってから、外国資本主義の侵入によって、この社会の内部にはじめて大きな変化がおきた。
 中国の封建社会内部における商品経済の発展は、すでに資本主義の芽をはらんでいたので、外国資本主義の影響がなかったとしても、中国はやはり緩慢ながら資本主義社会に発展していったであろう。外国資本主義の侵入はこのような発展をうながした。外国資本主義は中国の社会経済にたいして、一方では、中国の自給自足の自然経済の基礎を破壊し、都市の手工業と農民の家内手工業を破壊するとともに、他方では、中国の都市と農村における商品経済の発展をうながす、という大きな分解作用をおよぽした。
 こうした状況は、中国の封建経済の基礎に解体作用をおこさせたばかりでなく、同時に、中国の資本主義的生産の発展のためにもある程度の客観的な条件と可能性をつくりだした。なぜなら、自然経済の破壊は資本主義のために商品市場をつくりだし、大量の農民と手工業者の破産は資本主義のために労働力市場をつくりだしたからである。
 事実、外国資本主義の刺激と封建的経済構造のある程度の破壊によって、はやくも一九世紀の後半、つまりいまから六十年まえには、一部の商人、地主、官僚による新式工業への投資がはじまった。一九世紀の末から二〇世紀のはじめ、つまりいまから四十年まえになると、中国の民族資本主義が初歩的な発展をはじめた。二十年まえ、すなわち第一次帝国主義世界大戦の時期になると、欧米帝国主義諸国が戦争に忙殺されて、一時、中国にたいする抑圧をゆるめたために、中国の民族工業、主として紡績業と製粉業はいっそうの発展をとげた。
 中国の民族資本主義の発生と発展の過程は、中国のブルジョア階級とプロレタリア階級の発生と発展の過程であった。一部の商人、地主、官僚が中国のブルジョア階級の前身であったとすれば、一部の農民と手工業労働者は中国のプロレタリア階級の前身であった。中国のブルジョア階級とプロレタリア階級は、二つの特殊な社会階級としてみれば新しくうまれたものであり、中国の歴史にはかってなかった階級である。この二つの階級は、封建社会の胎内からうまれ出て、新しい社会階級を構成した。これらは、たがいに関連もし、対立もする二つの階級であって、中国のふるい社会(封建社会)がうんだ双生児である。だが、中国のプロレタリア階級は、中国の民族ブルジョア階級の発生と発展にともなって発生し、発展しただけでなく、中国において帝国主義が企業を直接経営するのにともなって発生し、発展した。だから、中国のプロレタリア階級の大きな部分は、中国のブルジョア階級よりも、その歴史と資格がいくらかふるく、したがってその社会的な力と社会的基礎もいくらか大きい。
 だが、上にのべた資本主義の発生と発展という新しい変化は、帝国主義が中国に侵入してからおこった変化の一つの側面にすぎない。このほかに、この変化と同時に存在し、しかもこの変化をさまたげているもう一つの側面がある。それは、帝国主義が中国の封建勢力と結託して中国の資本主義の発展をおさえていることである。
 帝国主義列強の中国侵入の目的は、けっして封建的な中国を資本主義的な中国に変えることではない。帝国主義列強の目的は、それとは反対に、中国をかれらの半植民地または植民地に変えることである。
 帝国主義列強は、この目的のために、中国にたいして、つぎにのべるような軍事的、政治的、経済的、文化的なあらゆる抑圧手段をこれまでもとってきたし、いまもとりつづけており、こうして、中国を一歩一歩半植民地または植民地に変えてきた。
 一、中国にたいして、たびかさなる侵略戦争をおこなった。たとえば、一八四〇年のイギリスのアヘン戦争、一八五七年の英仏連合軍の戦争〔15〕、一八八四年の中仏戦争〔16〕、一八九四年の中日戦争①、一九〇〇年の八ヵ国連合軍の戦争〔17〕がそれである。帝国主義列強は、中国を戦争でうち負かしたのち、中国のまわりの、もと中国に保護されていた多くの国を占領しただけでなく、中国の領土の一部を強奪したり「租借」したりした。たとえば、日本は台湾と澎湖諸島を占領し、旅順を「租借」し、イギリスは香港を占領し、フランスは広州湾を「租借」した。帝国主義列強は領土を割譲させたほかに、さらに莫大な賠償金をとりたてた。こうして中国という膨大な封建帝国に大きな打撃をあたえた。
 二、帝国主義列強は、中国に強制的に多くの不平等条約を結ばせ、これらの不平等条約にもとづいて、海軍と陸軍を中国に駐留させる権利を手にいれ、領事裁判権〔18〕を手にいれ、さらに全中国をいくつかの帝国主義国の勢力範囲に分割した〔19〕。
 三、帝国主義列強は、不平等条約にもとづいて、中国のすべての重要な通商港をおさえるとともに、多くの通商港の土地の一部を仕切って、かれらの直接管理する租界〔20〕にした。かれらは、中国の税関と貿易をおさえ、中国の交通事業(海上、陸上、河川、航空)をおさえている。それによってかれらは、中国をその工業品の市場に変えて商品を大量に売りさばき、同時に、中国の農業生産を帝国主義の需要にしたがわせることができるようになった。
 四、帝国主義列強は、さらに、中国の原料とやすい労働力を直接利用するために、中国で多くの軽工業と重工業の企業を経営し、それによって、中国の民族工業に直接の経済的圧迫をくわえ、中国の生産力の発展を直接さまたげた。
 五、帝国主義列強は、中国政府に借款をあたえ、中国に銀行をもうけることによって、中国の金融と財政を独占した。それによってかれらは、商品競争のうえで中国の民族資本主義を圧倒したばかりでなく、金融、財政の面でも中国ののどくびをおきえた。
 六、帝国主義列強は、広範な中国農民とその他の人民大衆を搾取するのに都合のよいように、中国の通商都市からへんぴな片田舎にいたるまで、買弁的、商業・高利貸し的な搾取網をはりめぐらし、帝国主義に奉仕する買弁階級と商業・高利貸し階級をつくりだした。
 七、帝国主義列強は、買弁階級のほかに、中国の封建的地主階級をもかれらの中国支配の支柱にした。かれらは、「人民の大多数に反対して、まず、これまでの社会制度における支配階級――封建的地主、商業・高利貸しブルジョア階級と連合する。帝国主義は、いたるところで(とくに農村で)、前資本主義的なすべての搾取形態の保存とその永久化に力をつくす。これらの形態は、かれらの反動的同盟者の生存のための基礎である」〔21〕。「帝国主義とその中国における金融上、軍事上の全勢力は、封建的残存物および官僚・軍閥というその全上部構造を支持し、鼓舞し、育成し、保存する勢力である。」〔22〕
 八、帝国主義列強は、中国の軍閥の混戦をつくりだし、中国人民を弾圧するために、中国の反動政府に大量の武器と多数の軍事顧問を提供している。
 九、帝国主義列強は、上にのべたあらゆる手段のほかに、中国人民の精神を麻痺《まひ》させる面でも手をゆるめてはいない。それは、かれらの文化侵略政策である。布教、病院や学校の開設、新聞の発行、留学生の誘致などが、この侵略政策の実施である。その目的は、かれらのいいなりになる知識人幹部をそだてあげることと、広範な中国人民を愚弄《ぐろう》することにある。
 十、一九三一年の「九・一八」以後、日本帝国主義の大がかりな進攻は、すでに半植民地になっていた中国領土の大きな部分をさらに日本の植民地におちいらせた。
 上にのべた状況は、帝国主義が中国に侵入してからうまれた新しい変化のもう一つの側面であり、封建的な中国を半封建、半植民地および植民地の中国に変えた血まみれの絵図である。
 これらのことからあきらかなように、帝国主義列強の中国侵略は、一方では、中国の封建社会の解体をうながし、中国における資本主義的要素の発生をうながして、封建社会を半封建社会に変えたが、他方では、かれらはまた中国を残酷に支配し、独立の中国を半植民地と植民地の中国に変えたのである。
 この二つの側面の状況をまとめてみると、われわれのこの植民地・半植民地・半封建の社会は、つぎのようないくつかの特徴をもっている。
 一、封建時代の自給自足の自然経済の基礎は破壊された。だが、封建的搾取制度の基盤――地主階級の農民にたいする搾取は、依然としてたもたれているばかりでなく、買弁資本や高利貸し資本の搾取と結びついて、中国の社会経済生活のなかであきらかに優位を占めている。
 二、民族資本主義は、ある程度の発展をとげ、中国の政治的、文化的生活のなかでかなりの役割をはたしている。だが、それは中国の社会経済の王菱な形態とはなっておらず、その力は非常に弱く、その大部分は多かれ少なかれ外国の帝国主義および国内の封建主義とつながりをもっている。
 三、皇帝と貴族の専制権力はくつがえされたが、これにとって代わったのは、まず地主階級の軍閥・官僚支配であり、ついで地主階級と大ブルジョア階級の同盟による独裁である。被占領区では、日本帝国主義とそのかいらいの支配である。
 四、帝国主義は、中国の財政と経済の大動脈をにぎっているばかりでなく、中国の政治と軍事力をも牛耳っている。被占領区では、すべてが日本帝国主義に独占されている。
 五、中国が多くの帝国主義国の支配、あるいは半支配下にあること、中国が事実上長いあいだ不統一な状態におかれていること、さらに、中国の土地が広大であることによって、中国の経済、政治、文化の発展には極度の不均等があらわれている。
 六、帝国主義と封建主義の二重の抑圧、とくに日本帝国主義の大がかりな進攻によって、中国の広範な人民、とりわけ農民は、ますます貧困化し、さらには大量に破産しており、かれらは、飢えと寒さにさいなまれ、政治的権利のまったくない生活をおくっている。中国人民ほど貧しく、自由をもたない人民は、世界でもあまりみられない。
 これらが、植民地・半植民地・半封建の中国社会の特徴である。
 このような状態は、主として日本帝国主義その他の帝国主義勢力によって決定されたものであり、外国帝国主義と国内の封建主義とが結びついた結果である。
 帝国主義と中華民族との矛盾、封建主義と人民大衆との矛盾、これらが近代中国社会の基本的な矛盾である。もちろん、ほかにも矛盾はある。たとえば、ブルジョア階級とプロレタリア階級との矛盾、反動的支配階級内部の矛盾などがそれである。だが、帝国主義と中華民族との矛盾は、さまざまな矛盾のなかの主要な矛盾である。これらの矛盾の闘争とその先鋭化は、日ましに発展する革命運動をもたらさないではおかない。近代および現代の偉大な中国革命は、これらの基本的矛盾を基礎にして発生し発展してきたものである。

第二章 中国革命

    第一節 百年来の革命運動

 帝国主義が中国の封建主義と結びついて、中国を半植民地および植民地に変えてきた過程は、中国人民が帝国主義とその手先に反抗してきた過程でもある。アヘン戦争、太平天国運動、中仏戦争、中日戦争、戊戌《ウーシュイ》政変②、義和団運動、辛亥《シンハイ》革命、五・四運動、五・三〇運動、北伐戦争、土地革命戦争から、現在の抗日戦争にいたるまで、そのすべてが、帝国主義とその手先におめおめとは屈服しない中国人民の頑強《がんきょう》な反抗精神をしめしている。
 この百年来、中国人民の不撓《ふとう》不屈のますますはげしい英雄的闘争によって、帝国主義はいまなお中国を滅ぼすことができないでいるし、また永遠に中国を滅ぼすことはできない。
 現在、日本帝国主義は全力をあげて中国にたいする大がかりな進攻をおこなっており、中国の多くの地主や大ブルジョア分子、たとえば公然たる汪精衛《ワンチンウェイ》やかくれた汪精衛のやからは、すでに敵に投降したか、あるいは敵に投降しようとしているが、しかし、英雄的な中国人民はかならずさらにたたかいつづけていくであろう。日本帝国主義を中国からおいだし、中国を完全に解放するまで、このたたかいはけっしてやむことはない。
 中国人民の民族革命闘争は、一八四〇年のアヘン戦争からかぞえて、すでにまる百年の歴史をもち、一九一一年の辛亥革命からかぞえても、三十年の歴史をもっている。この革命の過程はいまなお完結していないし、革命の任務もまだいちじるしい成果をおさめていないので、全国人民、まず中国共産党が断固として奮闘する責務をになうよう要求されている。
 では、この革命の対象はいったいだれか。この革命の任務はいったいなにか。この革命の原動力はなにか。この革命の性質はなにか。また、この革命の前途はどうか。これらがつぎに説明しようとする問題である。

第二節 中国革命の対象

 第一章第三節の分析によって、現在の中国社会は植民地・半植民地・半封建の性質をもつ社会であることがわかった。中国革命の対象、中国革命の任務、中国革命の原動力、中国革命の性質、中国革命の前途と転化をはっきり理解するには、中国社会の性質をはっきり理解する以外にない。したがって、中国社会の性質をはっきり理解すること、つまり、中国の国情をはっきり理解することは、革命のすべての問題をはっきり理解する基本的なよりどころである。
 現在の中国社会の性質が植民地・半植民地・半封建のものである以上、中国革命の現段階の主要な対象あるいは王要な敵はいったいだれであろうか。
 それはほかでもなく、帝国主義と封建主義、つまり帝国主義国のブルジョア階級と自国の地主階級である。なぜなら、現段階の中国社会で中国社会の発展をおさえ、はばんでいる主要なものはほかでもなく、この二つだからである。この二つはたがいに結託して中国人民を抑圧しているが、帝国主義の民族的抑圧が最大の抑圧であり、したがって、帝国主義は中国人民の第一の、そしてもっとも凶悪な敵である。
 日本が中国に武力侵入してからは、中国革命の主要な敵は、日本帝国主義および日本と結託して公然と投降したか、あるいは投降しようとしているすべての民族裏切り者と反動派である。
 中国のブルジョア階級も、もともと帝国主義から抑圧されており、辛亥革命のように、革命闘争を指導して主要な指導的役割を演じたこともあれば、北伐戦争や現在の抗日戦争のように、革命闘争に参加したこともある。だが、このブルジョア階級の上層部、つまり国民党反動集団に代表される層は、かつて一九二七年から一九三七年までの長い期間、帝国主義と結託するとともに、地主階級と反動的同盟をむすんで、以前かれらを援助した友――共産党、プロレタリア階級、農民階級、その他の小ブルジョア階級を裏切り、中国革命を裏切り、革命の失敗をもたらした。したがって、当時、革命的な人民と革命的な政党(共産党)は、これらのブルジョア分子を革命の対象の一つにせざるをえなかった。抗日戦争では、汪精衛に代表される大地主・大ブルジョア階級の一部がすでに寝がえりをうち、民族裏切り者になりさがった。したがって、抗日の人民はやはり、民族の利益を裏切ったこれらの大ブルジョア分子を革命の対象の一つにせざるをえなくなった。
 このことからもわかるように、中国革命の敵は異常に強大なものである。中国革命の敵には、強大な帝国主義があるばかりでなく、強大な封建勢力があり、しかも、一定の時期には、帝国主義、封建勢力と結託して人民に敵対するブルジョア階級の反動派もある。したがって、中国の革命的人民の敵の力を軽視するような観点は正しくない。
 このような敵をまえにしていることから、中国革命の長期性と残酷性がうまれてくる。われわれの敵が異常に強大であるため、革命勢力は長い期間をかけなければ、最終的に敵にうち勝つだけの力をたくわえることも、きたえあげることもできない。また、中国革命にたいする敵の弾圧が異常に残酷であるため、革命勢力は、自分の頑強性をきたえ、発揮しなければ、自分の陣地を堅持することも、敵の陣地を奪取することもできない。したがって、中国の革命勢力がまたたくまに組織され、中国の革命闘争がたちまちのうちに勝利することができるというような観点は、正しくない。
 このような敵をまえにしていることから、中国革命の主要な方法、中国革命の主要な形態は平和的なものではありえず、武力的なものでなければならないこともきまってくる。なぜなら、われわれの敵は中国人民に平和的に活動する可能性をあたえず、中国人民にはいかなる政治的な自由の権利もないからである。スターリンは「中国では、武装した革命が武装した反革命とたたかっている。これは、中国革命の特徴の一つであり、その長所の一つでもある」といっている〔23〕。これは、まったく正しい規定である。したがって、武装闘争を軽視し、革命戦争を軽視し、遊撃戦争を軽視し、軍隊にかんする活動を軽視するような観点は、正しくない。
 このような敵をまえにしていることから、革命の根拠地の問題もうまれてくる。強大な帝国主義とその中国における反動的同盟軍は、つねに長期にわたって中国の中心都市を占領するのだから、もし革命の隊列が帝国主義およびその手先との妥協をのぞまず、あくまでもたたかいつづけようとするなら、もし革命の隊列が自分の力をたくわえ、きたえあげようとし、力のたりないうちに強大な敵と勝敗を決する戦闘をおこなうのをさけようとするならば、おくれた農村をすすんだ強固な根拠地にきずきあげ、これを軍事、政治、経済、文化のうえでの偉大な革命の陣地にきずきあげなければならない。そうすることによって、都市を利用して農村地域を攻撃してくる凶悪な敵とたたかい、また、長期の戦闘をつうじてしだいに革命の全面的勝利をたたかいとるのである。こうした状況のもとでは、中国経済の発展が不均等なこと(統一的な資本主義経済でないこと)、中国の土地が広大なこと(革命勢力に機動の余地があること)、中国の反革命陣営の内部が不統一で、さまざまな矛盾にみちていること、中国革命の主力軍である農民の闘争がプロレタリア政党である共産党の指導のもとにあること、こうしたことによって、一方では、中国革命がまず農村地域で勝利する可能性がうまれ、他方ではまた、革命の不均等状態がつくりだされて、革命の全面的勝利をたたかいとる事業に長期性と苦難性がもたらされる。このことからもわかるように、このような革命の根拠地でおこなわれる長期の革命闘争は、主として、中国共産党の指導のもとでの農民の遊撃戦争である。したがって、農村地域を革命の根拠地にすることを無視する観点、農民にたいする骨の折れる活動を無視する観点、遊撃戦争を無視する観点は、いずれも正しくない。
 だが、武装闘争に重点をおくことは、他の形態の闘争を放棄してもよいということではない。反対に、武装闘争以外のさまざまな形態の闘争の呼応がなければ、武装闘争は勝利を得ることができない。また、農村根拠地での活動に重点をおくことは、都市での活動や、まだ敵の支配下にある他の広大な農村での活動を放棄してもよいということではない。反対に、都市での活動や他の農村での活動がなければ、農村の根拠地は孤立し、革命は失敗するのである。しかも、革命の最終目的は、敵の主要な根拠地となっている都市を奪取することであって、都市での十分な活動がなければ、この目的をたっすることはできない。
 このことからもわかるように、革命を農村と都市でともに勝利させるには、人民にたちむかう敵の主要な道具、すなわち敵の軍隊を破壊しなければ、それはやはり不可能である。したがって、戦争で敵軍を消滅するほかに、敵軍を瓦解《がかい》させる活動も重要な活動になってくる。
 このことからもわかるように、敵が長いあいだ占領している反動的な暗黒な都市と反動的な暗黒な農村で共産党の宣伝活動と組織活動をおこなうには、せっかち病的、冒険主義的な方針をとってはならず、隠蔽《いんぺい》と精鋭化をはかり③、力をたくわえ、時機を待つという方針をとらなければならない。敵にたいする人民の闘争を指導する戦術としては、法律、命令、社会慣習のゆるす範囲の、公然とした合法的な、利用できるすべてのものを利用し、道理があり、有利であり、節度があるという観点から出発して、一歩一歩着実に根をおろし着実にたたかいをすすめていかなければならず、わめきたてたり、向こうみずにぶちあたっていくようなやり方では、けっして成功するものではない。

第三節 中国革命の任務

 現段階での中国革命の敵が主として帝国主義と封建的地主階級である以上、現段階での中国革命の任務はなにか。
 それは、疑いもなく、主としてこの二つの敵を打撃すること、すなわち、対外的には帝国主義の抑圧をくつがえす民族革命、対内的には封建的地主の抑圧をくつがえす民主主義革命であって、そのもっとも主要な任務は帝国主義をうちたおす民族革命である。
 中国革命の二大任務はたがいに関連している。帝国主義は封建的地主階級の主要な支持者であるから、もし帝国主義の支配をくつがえさなければ、封建的地主階級の支配をつぶすことはできない。反対にまた、封建的地主階級は帝国主義の中国支配の主要な社会的基礎であり、農民は中国革命の主力軍であるから、もし農民をたすけて封建的地主階級をうちたおさなければ、中国革命の強大な隊列を組織して帝国主義の支配をくつがえすことはできない。したがって、民族革命と民主主義革命という二つの基本的任務は、たがいに区別されるとともに、たがいに統一されている。
 中国のこんにちの民族革命の任務は、主として国土に侵入してきた日本帝国主義とたたかうことであり、また民主主義革命の任務は、戦争の勝利をかちとるために完遂しなければならないものであるから、この二つの革命の任務はすでに一つにむすびついている。民族革命と民主主義革命とをまったく異なるニつの革命段階にわけるような観点は、正しくない。

 第四節 中国革命の原動力

 現段階の中国社会の性質、中国革命の対象、中国革命の任務についての分析と規定によると、中国革命の原動力はなにか。
 中国社会が植民地・半植民地・半封建の社会であり、中国革命の対象が主として中国における外国帝国主義の支配と国内の封建主義であり、中国革命の任務がこの二つの抑圧者をうちたおすことである以上、中国社会の各階級、各階層のなかで、どんな階級、どんな階層が帝国主義および封建主義とたたかう力になりうるのか。これが現段階における中国革命の原動力の問題である。この革命の原動力の問題をはっきり認識することによってはじめて、中国革命の基本戦術の問題を正しく解決することができる。
 現段階の中国社会にはどんな階級があるか。地主階級があ閨Aブルジョア階級がある。地主階級とブルジョア階級の上層部は、いずれも中国社会の支配階級である。また、プロレタリア階級があり、農民階級があり、農民以外のさまざまな類型の小ブルジョア階級がある。この三つの階級は、こんにちの中国のもっとも広大な領土において、いまなお被支配階級である。
 これらすべての階級の中国革命にたいする態度と立場は、もっぱらかれらが社会経済のなかでしめている地位によってきまるのである。したがって、社会経済の性質は、革命の対象と任務を規定しているばかりでなく、革命の原動力をも規定している。
 つぎに、中国社会の各階級を分析してみよう。

   一 地主階級

 地主階級は、帝国主義の中国支配の主要な社会的基礎であり、封建制度によって農民を搾取し抑圧する階級であり、政治的、経済的、文化的に中国社会の前進をさまたげ、すこしも進歩的役割をもたない階級である。
 したがって、階級としてみれば、地主階級は革命の対象であって、革命の原動力ではない。
 抗日戦争のなかで、一部の大地主は、一部の大ブルジョア階級(投降派)に追随して、すでに日本侵略者に投降し、民族裏切り者になっている。他の一部の大地主は、他の一部の大ブルジョア階級(頑迷派)に追随しており、まだ抗戦陣営の内部にとどまってはいるが、やはり非常に動揺している。しかし、多くの中小地主出身の開明紳士、すなわちいくらか資本主義的色彩をもった地主たちには、まだ抗日の積極性があるので、われわれはやはりかれらとも団結して、いっしょに抗日する必要がある。

   二 ブルジョア階級

 ブルジョア階級は、買弁性をおびた大ブルジョア階級と民族ブルジョア階級に区別される。買弁性をおびた大ブルジョア階級は、直接に帝国主義国の資本家につかえるとともに、かれらにやしなわれている階級であり、農村の封建勢力とこみいった無数のつながりをもっている。したがって、中国の革命史上では、買弁性をおびた大ブルジョア階級は、これまでずっと、中国革命の原動力ではなくて、中国革命の対象であった。
 しかし、買弁性をおびた中国の大ブルジョア階級はいくつかの帝国主義国にそれぞれ属しているので、いくつかの帝国主義国のあいだの矛盾がするどい対立をみせ、革命が主としてある一つの帝国主義とたたかうばあいには、他の帝国主義の系統に属する買弁階級は、やはり、一定の程度、一定の期間、当面の反帝国主義戦線に参加する可能性をもっている。だが、いったんかれらの主人が中国革命に反対するようになると、かれらもすぐ革命に反対する。
 抗日戦争のなかで、親日派の大ブルジョア階級(投降派)は、すでに投降したか、あるいは投降しようとしている。欧米派の大ブルジョア階級(頑迷派)は、まだ抗日陣営の内部にとどまってはいるが、やはり非常に動揺しており、かれらこそ、一面では抗日、一面では反共の二面的人物である。大ブルジョア階級の投降派にたいするわれわれの政策は、かれらを敵としてあつかい、断固としてかれらをうちたおすことである。大ブルジョア階級の頑迷派にたいしては、革命的な二面政策をもってあたることである。すなわち、一方では、かれらと連合する。それは、かれらがまだ抗日しており、かれらと日本帝国主義との矛盾はやはり利用すべきものだからである。また、他方では、かれらと断固闘争する。それは、かれらが抗日と団結を破壊する反共、反人民の高圧政策をとっており、これと闘争しなければ、抗日と団結を危うくするからである。
 民族ブルジョア階級は、二重性をおびた階級である。
 一方では、民族ブルジョア階級は、帝国主義の抑圧をうけ、また封建主義の束縛をもうけているので、帝国主義および封建主義とのあいだに矛盾がある。この面からいえば、かれらは革命の力の一つである。中国の革命史上では、かれらも帝国主義反対、官僚・軍閥政府反対で一定の積極性をしめしたことがある。
 だが、他方では、かれらの経済的、政治的軟弱性から、また帝国主義および封建主義との経済的なつながりをまだ完全にはたちきっていないことから、かれらは徹底した反帝、反封建の勇気ももっていない。とくに民衆の革命の力が強大になったときには、こうした状況がもっともはっきりあらわれてくる。
 民族ブルジョア階級のこうした二重性はつぎのことを決定している。すなわち、かれらは一定の時期、一定の程度で帝国主義反対、官僚・軍閥政府反対の革命に参加することができ、革命の一つの力になりうる。だが、他の時期には、買弁大ブルジョア階級に追随して、反革命の助手となる危険がある。
 中国における民族ブルジョア階級、それは主として中層ブルジョア階級であって、かれらは一九二七年から一九三一年(九・一八事変)まで大地主・大ブルジョア階級に追随して革命に反対したが、基本的にはまだ政権をにぎったことがなく、政権をにぎる大地主・大ブルジョア階級の反動政策にしぼられてきた。抗日の時期には、かれらは、大地主・大ブルジョア階級の投降派とちがいがあるばかりでなく、大ブルジョア階級の頑迷派ともちがいがあり、いまもやはりわれわれの比較的よい同盟者である。したがって、民族ブルジョア階級にたいして慎重な政策をとることは、ぜひとも必要なことである。

   三 農民以外のさまざまな類型の小ブルジョア階級

 農民以外の小ブルジョア階級には、広範な知識人、小商人、手工業者、自由職業者がふくまれる。
 これらすべての小ブルジョア階級は、農民階級のなかの中農の地位にいくらか似ており、帝国主義、封建主義、大ブルジョア階級の抑圧をうけて、日ましに破産と没落の羽目においやられている。
 したがって、これらの小ブルジョア階級は、革命の原動力の一つであり、プロレタリア階級のたよりになる同盟者である。これらの小ブルジョア階級も、プロレタリア階級の指導のもとでのみ解放されるのである。
 ここで、農民以外の、さまざまな類型の小ブルジョア階級を分析してみよう。
 第一は、知識人と青年学生である。知識人と青年学生は、一階級または一階層をなしていない。しかし、かれらの出身家庭、かれらの生活条件、かれらの政治的立場からみれば、現代の中国の知識人と青年学生の大部分は小ブルジョア階級の範囲にいれることができる。数十年来、中国には大量の知識人と青年学生があらわれた。これらの人びとのなかで、帝国主義と大ブルジョア階級に接近し、かれらにつかえて民衆に反対する一部の知識人をのぞけば、一般には、帝国主義、封建主義、大ブルジョア階級の抑圧をうけ、失業と学業中断の脅威にさらされている。したがって、かれらは大きな革命性をもっている。かれらは多かれ少なかれ、資本主義の科学知識を身につけ、政治感覚に富み、現段階の中国革命のなかではしばしば先頭部隊としての、かけ橋の役割をはたしている。辛亥革命前の留学生の運動、一九一九年の五・四運動、一九二五年の五・三〇運動、一九三五年の一二・九運動は、そのあきらかな例証である。ことに広範な比較的まずしい知識人は、労働者、農民といっしょになって革命に参加し、革命を支持することができる。マルクス・レーニン主義の思想が、中国でひろくつたわり、うけいれられたのも、最初はやはり、知識人と青年学生のあいだであった。革命勢力の組織化と革命事業の建設は、革命的知識人の参加なしには成功しない。だが、知識人が、まだ大衆の革命闘争と一体にならず、まだ大衆の利益に奉仕し大衆とむすびつく決意をかためないうちは、とかく主観主義と個人主義の傾向をおび、かれらの思想はとかく空虚で行動もとかく動揺的である。したがって、中国の広範な革命的知識人は、先頭部隊としての、かけ橋の役割をもってはいるが、これらの知識人のすべてが最後まで革命をやりぬけるわけではない。そのうち一部のものは、革命の重大な瀬戸ぎわになると、革命の隊列からはなれて消極的な態度をとるようになり、そのうち少数のものは、革命の敵になってしまう。知識人のこのような欠点は、長期の大衆闘争のなかでなければ克服できない。
 第二は、小商人である。かれらは、小さな店をひらいているが、一般には店員をやとわないか、少数の店員しかやとわない。帝国主義、大ブルジョア階級、高利貸しの搾取によって、かれらは破産の脅威にさらされている。
 第三は、手工業者である。その数は非常に多い。かれらは、自分で生産手段をもっているが、労働者をやとわないか、一、二の徒弟または手伝いしかやとわない。かれらの地位は中農に似ている。
 第四は、自由職業者である。さまざまな職をもつ自由職業者がおり、医師もその一つである。かれらは、他人を搾取しないか、ごくわずかしか搾取しない。かれらの地位は手工業者に似ている。
 以上にのべた小ブルジョア階級の諸構成部分はおびただしい人口にのぼっている。かれらは、一般に、革命に参加し革命を支持することができ、革命のよい同盟者であり、したがって、かれらを獲得し保護しなければならない。かれらのうち一部のものはブルジョア階級の影響をうけやすい欠点をもっており、したがって、かれらのあいだで革命の宣伝活動と組織活動をおこなうよう心がけなければならない。

   四 農民階級

 農民は、全国総人口のおよそ八〇パーセントを占め、現在の中国国民経済の主要な力である。
 農民の内部ははげしい分化の過程にある。
 第一は、富農である。富農は、農村人口の五パーセント前後を占めており(地主とあわせれば農村人口の一〇パーセント前後を占める)、農村のブルジョア階級とよばれる。中国の富農の大多数は、一部の土地を小作にだし、また高利貸しもやっており、雇農にたいする搾取も残酷で半封建性をおびている。しかし、富農は一般に自分も労働に参加しており、この点では農民の一部でもある。富農の生産は一定の時期にはやはり有益である。富農は、一般に農民大衆の帝国主義反対の闘争になんらかの力をだす可能性があるし、地主反対の土地革命闘争でも中立をたもつ可能性がある。したがって、われわれは、富農を地主とちがいのない階級とみてはならないし、富農消滅の政策をはやくとりすぎてはならない。
 第二は、中農である。中農は中国農村人口のニ○パーセント前後を占めている。中農は、一般には、他人を搾取せず、経済的に自給自足することができる(しかし、豊作のときにはいくらかの余裕ができ、ときにはすこしばかりの雇用労働をつかったり、小金を貸したらすることもある)が、しかし、帝国主義、地主階級、ブルジョア階級の搾取をうけている。中農には政治的権利がない。一部の中農は土地がたりず、いくらか余分に土地をもっているのは一部の中農(富裕中農)だけである。中農は、反帝国主義革命と土地革命に参加できるばかりでなく、社会主義をもうけいれることができる。したがって、すべての中農は、プロレタリア階級のたよりになる同盟者となりうるし、革命の重要な原動力の一部分である。中農の態度の向背は、革命の勝敗を決定する一つの要素であり、土地革命ののち中農が農村で大多数を占めたばあいには、とくにそうである。
 第三は、貧農である。中国の貧農は、雇農をふくめて、農村人口のほぼ七〇パーセントを占めている。貧農は、土地をもたないか土地のたりない、膨大な数にのぼる農民大衆であり、農村の半プロレタリア階級であり、中国革命のもっとも大きな原動力であり、プロレタリア階級の本来の、もっともたよりになる同盟者であり、中国革命の隊列のなかの主力軍である。貧農と中農は、プロレタリア階級の指導のもとでのみ解放をかちとることができ、プロレタリア階級も、貧農、中農とかたい同盟をむすんでのみ革命を勝利にみちびくことができるのであって、そうしないかぎりそれは不可能である。農民ということばにふくまれる内容は、主として貧農と中農をさしている。

   五 プロレタリア階級

 中国のプロレタリア階級のうち、近代産業労働者はほぼ二百五十万から三百万、都市の小工業と手工業の雇用労働者と商店の店員はほぼ千二百万で、このほか農村のプロレタリア階級(すなわち雇農)および都市と農村のその他のプロレタリアも膨大な数にのぼっている。
 中国のプロレタリア階級は、プロレタリア階級一般の基本的な長所、すなわちもっともすすんだ経済形態とつながっていること、組織性、規律性に富んでいること、生産手段を私有していないことのほかにも、多くのきわだった長所をもっている。
 中国のプロレタリア階級には、どのようなきわだった長所があるだろうか。
 第一に、中国のプロレタリア階級は、三重の抑圧(帝国主義の抑圧、ブルジョア階級の抑圧、封建勢力の抑圧)をうけており、しかも、その抑圧のきびしさと残酷さは世界の諸民族のうちでもまれである。したがって、かれらは、革命闘争のなかで、他のどの階級よりも断固としており、徹底している。植民地・半植民地の中国には、ヨーロッパのような社会改良主義の経済的基礎がないので、ごく少数の労働貴族をのぞいては、この階級は全体がもっとも革命的である。
 第二に、中国のプロレタリア階級は、革命の舞台に登場しはじめたときから、この階級の革命政党――中国共産党の指導をうけて、中国社会でもっとも意識の高い階級となった。
 第三に、中国のプロレタリア階級は、破産した農民の出身者が多数を占めているので、広範な農民とのあいだに本来的なつながりをもち、農民と親密な同盟をむすぶのに都合がよい。
 したがって、中国のプロレタリア階級は、人数が比較的少ないこと(農民にくらべて)、歴史が比較的あさいこと(資本主義国のプロレタリア階級にくらべて)、文化水準が比較的ひくいこと(ブルジョア階級にくらべて)などのさけがたい弱点をもつにもかかわらず、かれらは結局のところ中国革命のもっとも基本的な原動力となっている。中国革命は、プロレタリア階級の指導がなければ、どうしても勝利することはできない。遠い例は辛亥革命で、当時はまだプロレタリア階級の意識的な参加もなく、共産党もなかったので、これは流産してしまった。近い例は一九二四年から一九二七年までの革命で、このときはプロレタリア階級の意識的な参加と指導があり、すでに共産党があったので、一時期、大きな勝利をおさめることができた。だが、のちに大ブルジョア階級がプロレタリア階級との同盟を裏切り、共同の革命綱領を裏切ったので、また、当時の中国のプロレタリア階級とその政党がまだ豊富な革命の経験をもっていなかったので、結局は失敗に終わった。抗日戦争がはじまってからは、プロレタリア階級と共産党が抗日民族統一戦線を指導しているので、全民族を団結させ、偉大な抗日戦争を発動し、堅持している。
 中国のプロレタリア階級は、つぎのことを理解しなければならない。すなわち自分自身はもっとも高い意識ともっとも高い組織性をもつ階級ではあるが、自分の階級の力だけでは勝利することができない。勝利するには、さまざまな異なった状況のもとで、結集できるすべての革命的な階級と階層を結集して、革命の統一戦線を組織しなければならない。中国社会の各階級のうち、農民は労働者階級のゆるぎない同盟軍であり、都市小ブルジョア階級もたよりになる同盟軍であり、民族ブルジョア階級は一定の時期、一定の程度での同盟軍であること、これは現代の中国革命の歴史がすでに証明している根本法則の一つである。

   六 ルンペン

 中国の植民地・半植民地の地位は、中国の農村や都市の膨大な失業者群をつくりだしている。この失業者群のなかには、まともな生活の道をいっさいたたれ、生きていくためにいかがわしい職業をもとめざるをえない人がたくさんいる。これが、匪賊《ひぞく》、ごろつき、こじき、娼妓《しょうぎ》、そしてまた迷信を業とする多くのもののうまれてくるみなもとである。この階層は動揺的な階層で、そのうちの一部のものは反動勢力に買収されやすいが、他の一部のものは革命に参加する可能性をもっている。だが、かれらは建設性に欠けており、建設的であるよりは破壊的であるので、革命に参加してからも、革命の隊列のなかの流賊主義や無政府主義思想のうまれてくるみなもとになる。したがって、かれらをうまく改造し、かれらの破壊性をふせぐよう注意しなければならない。
 以上が、中国革命の原動力についての、われわれの分析である。


   第五節 中国革命の性質

 われわれは、すでに中国社会の性質、すなわち中国の特殊な国情を知ったが、これは、中国革命のすべての問題を解決するもっとも基本的なよりどころである。われわれはまた、中国革命の対象、中国革命の任務、中国革命の原動力を知ったが、これらはみな、中国社会の特殊な性質、中国の特殊な国情からうまれた、現段階の中国革命にかんする基本問題である。これらすべての点を知ったので、われわれはつぎに現段階の中国革命のもう一つの基本問題、すなわち中国革命の性質がなんであるかを知ることができる。
 現段階の中国革命は、いったいどんな性質の革命であろうか。ブルジョア民主主義革命であろうか、それともプロレタリア社会主義革命であろうか。あきらかに、後者ではなくて前者である。
 中国社会がまだ植民地・半植民地・半封建の社会である以上、中国革命の敵がまだ主として帝国主義と封建勢力である以上、中国革命の任務がこの二つの主要な敵をうちたおす民族革命と民主主義革命である以上、しかも、この二つの敵をうちたおす革命にはブルジョア階級が参加することもあって、たとえ大ブルジョア階級が革命を裏切って革命の敵になったとしても、革命のほこ先はやはり資本主義一般と資本主義的私有財産にむけられるのではなくて、帝国主義と封建主義にむけられる以上、現段階の中国革命の性質は、プロレタリア社会主義的なものではなくて、ブルジョア民主主義的なものである〔24〕。
 だが、現在の中国のブルジョア民主主義革命は、もはや、時代おくれになったふるい型の一般的なブルジョア民主主義革命ではなくて、新しい型の特殊なブルジョア民主主義革命である。このような革命はいま中国およびすべての植民地、半植民地諸国で発展しつつあるもので、われわれはこのような革命を新民主主義革命とよんでいる。このような新民主主義革命は、世界プロレタリア社会主義革命の一部分であり、帝国主義すなわち国際資本主義と断固たたかうものである。それは、政治的には、いくつかの革命的階級が連合して帝国主義者と民族裏切り者、反動派にたいしておこなう独裁であり、中国社会をブルジョア独裁の社会とすることに反対する。それは、経済的には、帝国主義者と民族裏切り者、反動派の大資本、大企業を没収して国家の経営にうつし、地主階級の土地を分配して農民の所有にうつすが、同時に、一般の私的資本主義企業は保存し、富農経済も消滅しない。したがって、このような新しい型の民主主義革命は、一方では資本主義のために道をはききよめろが、他方では社会主義のために前提をつくりだすものである。中国の現在の革命段階は、植民地・半植民地・半封建の社会を終結させ社会主義社会を樹立するまでの一つの過渡的段階であり、新民主主義革命の過程であるいこの過程は第一次世界大戦とロシア十月革命ののちにはじめてうまれたもので、中国では一九一九年の五・四運動からはじまったものである。新民主主義革命とは、プロレタリア階級の指導のもとにおける人民大衆の反帝・反封建の革命のことである。中国の社会が、さらに一歩すすんで社会主義の社会に発展していくには、この革命を経なければならず、そうしないかぎりそれは不可能である。
 このような新民主主義革命は、過去における欧米諸国の民主主義革命とは大いに異なっている。それは、ブルジョア階級の独裁をつくりあげるのではなくて、プロレタリア階級の指導のもとにおける革命的諸階級の統一戦線の独裁をつくりあげるのである。抗日戦争中、中国共産党の指導する各抗日根拠地にうちたてられる抗日民主政権は、抗日民族統一戦線の政権である。それは、ブルジョア階級一階級の独裁でもなければ、プロレタリア階級一階級の独裁でもなくて、プロレタリア階級の指導のもとにおけるいくつかの革命的階級が連合しておこなう独裁である。抗日にも賛成し、民主主義にも賛成するものでさえあれば、どの政党どの政派に属するものでも、みなこの政権に参加する資格をもっている。
 このような新民主主義革命は、社会主義革命とも異なっている。それは、中国における帝国主義と民族裏切り者、反動派の支配をくつがえすだけであって、反帝・反封建にまだ参加しうる資本主義的要素はどのようなものも破壊しない。
 こうした新民主主義革命は、孫中山《スンチョンシャン》が一九二四年に主張した三民主義の革命と基本的には一致している。孫中山は、この年に発表した『中国国民党第一回全国代表大会宣言』で、「近世各国のいわゆる民権制度は、往々にしてブルジョア階級に専有され、まさしく平民を抑圧する道具になっている。国民党の民権主義についていえば、一般平民の共有するものであって、少数のものが私《わたくし》しうるものではない」といい、「すべて中国人および外国人の企業で、独占的性質をもつか、もしくは規模が大きすぎて私的な力では経営できないもの、たとえば銀行、鉄道、航空事業などのたぐいは、国家がこれを経営管理し、私有資本制度が国民の経済生活を左右できないようにする。これが資本節制の主旨である」ともいっている。孫中山はまたその遺言のなかで、「民衆をよびさまし、そして、世界でわれらを平等に遇する民族と連合し、ともに奮闘しなければならない」という内政、外交の根本原則を指摘している。すべてこうした点から、ふるい国際的、国内的環境に照応した旧民主主義的な三民主義は新しい国際的、国内的環境に照応した新民主主義的な三民主義に改造されたのである。中国共産党が一九三七年九月二十二日に発表した宣言で、「三民主義は中国がこんにち必要とするものであり、わが党はその徹底的な実現のために奮闘するものである」と声明したのは、他のいかなる三民主義でもなく、このような三民主義をさすのである。このような三民主義は、孫中山の三大政策、すなわち連ソ・連共・農労援助の政策をとる三民主義である。新しい国際的、国内的条件のもとでは、三大政策をはなれた三民主義は革命の三民主義ではない(共産主義と三民主義は、民主主義革命の基本的政治綱領のうえでおなじであるだけで、ほかのすべての点では、みな異なっているが、この問題については、ここではふれない)。
 こうして、中国のブルジョア民主主義革命では、その闘争の戦線(統一戦線)からいっても、その国家構成からいっても、プロレタリア階級、農民階級、その他の小ブルジョア階級の地位が無視できなくなっている。中国のプロレタリア階級、農民階級、その他の小ブルジョア階級をそっちのけにしようとするものは、中華民族の運命をけっして解決することができないし、中国のいかなる問題をもけっして解決することができない。中国の現段階の革命がうちたてようとする民主共和国は、かならず労働者、農民、その他の小ブルジョア階級がそのなかで一定の地位をしめ、一定の役割をはたす民主共和国でなければならない。いいかえれば、労働者、農民、都市小ブルジョア階級およびその他すべての反帝・反封建的な人びとの革命的同盟による民主共和国でなければならない。このような共和国の徹底的な実現は、プロレタリア階級の指導のもとでのみ可能である。


第六節 中国革命の前途

 現段階での中国社会の性質、中国革命の対象、任務、原動力、性質というこれらの基本問題をはっきりさせたので、中国革命の前途の問題、つまり中国のブルジョア民主主義革命とプロレタリア社会主義革命との関係の問題、中国革命の現在の段階と将来の段階との関係の問題もたやすく理解することができる。
 現段階の中国のブルジョア民主主義革命が、一般のふるい型のブルジョア民主主義革命ではなくて、特殊の新しい型の民主主義革命であり、新民主主義革命である以上、しかも中国革命が、二〇世紀の三十年代から四十年代にかけての新しい国際環境、すなわち社会主義の高揚、資本主義の低落という国際環境におかれ、第二次世界大戦と革命の時代におかれている以上、中国革命の終極の前途も、資本主義的なものではなくて、社会主義的、共産主義的なるのであることは、疑問の余地がない。
 現段階の中国革命が植民地・半植民地・半封建の社会という現在の地位をあらためるために、すなわち新民主主義革命の達成のためにたたかうものである以上、革命の勝利後、資本主義の発展の途上によこたわる障害物が一掃されたことによって中国の社会で資本主義経済が一定の程度まで発展することはもちろん予想できるし、ふしぎなことでもない。資本主義が一定の程度まで発展することは、経済のおくれている中国で民主主義革命の勝利後さけられない結果である。しかし、これは中国革命の結果の全部ではなく、結果の一つの面にすぎない。中国革命の結果全体としては、一面では資本主義的要素の発展をみせ、もう一面では社会主義的要素の発展をみせる。この社会主義的要素とはなにか。それは、全国の政治勢力のなかでプロレタリア階級と共産党の比重が増大することであり、農民、知識人、都市小ブルジョア階級がプロレタリア階級と共産党の指導権をすでに認めたか、あるいはそれを認める可能性があることであり、民主共和国の国営経済と勤労人民の協同組合経済である。これらはすべて社会主義的要素である。そのうえ国際環境の有利なことがくわわれば、中国のブルジョア民主主義革命が終局において資本主義の前途をさけ、社会主義の前途を実現するというきわめて大きな可能性がどうしてもうまれるようになる。

第七節 中国革命の二重の任務と中国共産党

 この章の各節でのべたことをまとめてみると、中国革命全体は二重の任務をもっていることがわかる。つまり中国革命は、ブルジョア民主主義的性質の革命(新民主主義革命)とプロレタリア社会主義的性質の革命、現在の段階の革命と将来の段階の革命という二重の任務をもっている。この二重の革命の任務にたいする指導は、いずれも中国のプロレタリア政党  中国共産党の双肩にかかっているのであり、中国共産党の指導なしには、どのような革命も成功をおさめることができない。
 中国のブルジョア民主主義革命(新民主主義革命)を達成するとともに、すべての必要条件がそなわったときそれを社会主義革命の段階に転化させること、これが中国共産党の光栄ある偉大な革命的任務の全部である。共産党員の一人ひとりは、このために奮闘すべきであって、絶対に中途でやめてはならない。一部の未熟な共産党員は、われわれには現在の段階の民主主義革命の任務があるだけで、将来の段階の社会主義革命の任務はないと考えたり、現在の革命や土地革命は社会主義革命であると考えたりしている。これらの観点はあやまりであることを、とくに指摘しなければならない。共産党員の一人ひとりは、中国共産党の指導する中国の革命運動全体が民主主義革命と社会主義革命という二つの段階をふくむ革命運動の全部であること、これは性質の異なる二つの革命の過程であり、まえの革命の過程を完結させないかぎり、あとの革命の過程を完結できないことを、知らなければならない。民主主義革命は社会主義革命の必要な準備であり、社会主義革命は民主主義革命の必然の趨勢《すうせい》である。そして、すべての共産主義者の最終目的は、社会主義社会と共産主義社会の最終的な達成をたたかいとることである。民主主義革命と社会主義革命の区別および両者の連係をはっきり認識しないかぎり、中国革命を正しく指導することはできない。
 中国の民主主義革命と中国の社会主義革命という二つの偉大な革命を徹底的に達成するよう指導するのは、中国共産党をのぞいて、他のいかなる政党(ブルジョア政党であれ、小ブルジョア政党であれ)にもできないことである。中国共産党は、党創立のその日から、このような二重の任務を自分の双肩ににない、しかもそのためにまる十八年も刻苦奮闘してきた。
 こうした任務は、非常に光栄なものであるが、同時に非常に骨の折れるものでもある。全国的範囲の、ひろい大衆性のある、思想的、政治的、組織的に完全に強固な、ボリシェビキ化された中国共産党がなければ、このような任務を達成することはできない。したがって、このような共産党を積極的に建設することは、共産党員一人ひとりの責務である。



〔注〕
〔1〕 中国で羅針盤が発明されたという話はずっと昔からつたわっている。西紀前三世紀の戦国時代の『呂氏春秋』に「磁石は鉄を召す」ということばがあるのをみても、当時、中国人はすでに、磁石が鉄を吸いつけるということを知っていたことがわかる。一世紀のはじめ、すなわち東漢の初年、王充の『論衡』に、磁勺の柄か南をさすとのべてあるのをみると、磁石が極をさす性質をもつことは、当時すでに発見されていたことがわかる。一二世紀のはじめ、すなわち宋の徽宗のころ、朱或の『萍洲可談』と徐兢の『宣和奉使高麗図経』には、航海用羅針盤のことがのべてあり、当時すでに羅針盤の使用が相当ゆきわたっていたことがわかる。
〔2〕 東漢の宦官蔡倫は、樹皮、麻くず、ぼろ布、漁網をつかって紙をつくることを発明した。西紀一〇五年、すなわち漢の和帝の未年に、蔡倫はこの発明を皇帝にひきわたした。それ以後、一般にひろく用いられるようになり、「蔡侯紙」とよばれた。
〔3〕 中国の印刷術は、隋朝、すなわち西紀六〇〇年前後にはじまった。
〔4〕 宋の仁宗の慶暦年間(西紀一○四一~一○四八年)に、畢昇が活字印刷を発明した。
〔5〕 中国では、火薬は九世紀に発明されたものといい伝えられている。一一世紀のころになると、中国ではすでに火薬をつかって火砲をつくり、戦争に用いられていた。
〔6〕 これは中国のさいしょの農民の大蜂起であった。西紀前二〇九年、すなわち秦の二世元年、陳勝、呉広は駐屯地におもむく途中、[”くさかんむり”の下に”單+斤”]県(いまの安徽省宿県)地方で、同行の守備兵九百人をひきいて、秦朝の暴政に反抗する蜂起をおこし、全国がこれに呼応した。項羽とその叔父項梁は呉(いまの江蘇省呉県)で兵をあげ、劉邦は沛(いまの江蘇省沛県)で兵をあげた。項羽の部隊は秦軍の主力を消滅したが、劉邦の部隊はさきに関中と秦の首都を占領した。その後、劉邦と項羽の双方が争い、項羽が敗死し、劉邦がついに秦にかわって皇帝となり、漠朝の創始者になった。
〔7〕 西漢の末年には、あちこちで農民騒動や小規模な農民蜂起がおこった。西紀八年、王莽は漢にかわって皇帝になり、農民の騒動をゆるめようとして、いくらかの改革策をかかげた。当時、南部に大飢饉がおこり、新市(いまの湖北省京山県)の人、王匡、王鳳は飢えた民衆から指導者におされて蜂起をおこした。その後、この農民軍は南陽に攻めいり、「新市兵」と称した。平林(いまの湖北省随県の東北部)の人、陳牧ら千余人も蜂起し、「平林兵」と称した。赤眉と銅馬もやはり王莽時代の農民蜂起軍で、銅馬の蜂起した地区は河北の中部一帯であり、赤眉の蜂起した地区は山東の中部一帯である。赤眉の指導者は樊崇であり、蜂起に参加したものはみな眉を赤くぬっていたので「赤眉軍」と称した。「赤眉軍」は当時最大の農民蜂起軍であった。
〔8〕 西紀一八四年、東漢の霊帝のとき、張角は農民を指導して蜂起をおこなった。蜂起軍はみな黄色の頭巾をかぶって目じるしにした。
〔9〕 七世紀のはじめ、すなわち隋朝の末年には、農民がしきりに蜂起した。李密、竇建徳は、当時蜂起した人物である。李密は河南、竇建徳は河北にいたが、かれらが指導する蜂起軍は、当時、非常に意気さかんな隊伍であった。
〔10〕 王仙芝は、西紀八七四年(唐の僖宗年間)に山東地方で蜂起し、翌年、黄巣が民衆をあつめて、これに呼応した。本選集第一巻の『党内のあやまった思想の是正について』注〔2〕を参照。
〔11〕 宋江と方臘は、一二世紀のはじめ、宋の徽宗の宣和年間に北部と南部でおこった農民蜂起の有名な指導者であった。宋江は平原、山東、河北、河南、江蘇の境界地帯で、方臘は新江、安徽一帯で活躍した。
〔12〕 一三五一年、元の順帝の至正十一年、各地の人民が蜂起した。安徽の鳳陽の人、朱元璋は郭子興の蜂起軍に投じ、郭が死ぬと、その蜂起軍の指導者になり、ついに蒙古王朝の支配をくつがえし、明朝の初代皇帝となった。
〔13〕 本選集第一巻の『党内のあやまった思想の是正について』注〔3〕を参照。
〔14〕 本選集第一巻の『日本帝国主義に反対する戦術について』注〔33〕を参照。
〔15〕 一八五六年から一八六〇年にかけてイギリス、フランス両国は連合して、中国にたいする侵略戦争をおこし、アメリカと帝政ロシアも側面からかれらをたすけた。当時、清朝政府は、太平天国農民革命の弾圧に全力をあげていたので、外国の侵略者にたいしては消極的抵抗の政策をとった。イギリス、フランス連合軍は広州、天津、北京などの重要都市をあいついで攻略し、北京の圓明園を略奪し、焼きはらい、清朝政府にせまって「天津条約」と「北京条約」を締結させた。これらの条約は、おもに、天津、牛荘、登州、台湾、淡水、潮州、瓊州、南京、鎮江、九江、漢口などを通商港として開放すること、外国人が中国の奥地を旅行し、あるいは伝道する特権をもち、中国の河川を航行する特権をもつことを規定した。それ以後、外国の侵略勢力は、中国の沿海各省にいっそうひろがり、奥地にもふかくはいりこんだ。
〔16〕 一八八四年から一八八五年にかけてフランス侵略者はベトナムおよび広西、福建、台湾、淅江などを武力侵略した。中国の軍隊は、馮子材、劉永福らにひきいられて、敢然と抵抗し、しばしば勝利をおさめた。だが、腐敗した清朝政府は、戦争に勝利しながら、かえって屈辱的な「天津条約」を締結した。
〔17〕 一九〇〇年、イギリス、アメリカ、ドイツ、フランス、ロシア、日本、イタリア、オーストリアの八つの帝国主義国は、侵略に反抗する中国人民の義和団運動を弾圧するために、連合して出兵し、中国に進攻したが、中国人民は英雄的に抵抗した。八ヵ国連合軍は、大沽を攻めおとし、天津、北京を占領した。一九〇一年、清朝政府は、八つの帝国主義国と「辛丑条約」を締結した。この条約はおもに、中国が各国に軍費の賠償として銀四億五干方両の巨額を支払い、また、各帝国主義が北京および北京から天津、山海関にいたる一帯の地区に駐兵する不法な特権をもつことを規定した。
〔18〕 領事裁判権は、帝国主義国が旧中国政府を強迫して締結させた不平等条約のなかで規定している特権の一つで、一八四三年の中英「虎門条約」と一八四四年の中米「望廈条約」がそのはじまりである。この特権は、中国で領事裁判権をもつ国の居留民が中国で民事訴訟または刑事訴訟の被告となったばあい、中国の法廷はこれを裁判する権利がなく、当該国の領事だけが裁判できるというものである。
〔19〕 一九世紀の末以来、中国を侵略した帝国主義諸国は、それぞれの国の中国における経済的、軍事的勢力に応じて、中国のある地区を自国の勢力範囲にした。たとえば当時、長江の中流と下流の諸省はイギリスの勢力範囲、雲南省、広西省、広東省はフランスの勢力範囲、山東省はドイツの勢力範囲、また福建省は日本の勢力範囲にされていた。東北の遼寧、吉林、黒竜江三省は、もと帝政ロシアの勢力範囲にされていたが、一九○五年の日露戦争のあと、東北三省の南部が日本の勢力範囲となった。
〔20〕 帝国主義諸国は、清朝政府にせまって内河沿岸と沿海のいくつかの都市を通商港としてみとめさせたのち、かれらが適当と考える地方で一定の地区を強引に占拠して「租界」にした。このいわゆる「租界」のなかでは、中国の行政系統と法律制度から完全に独立した一連の支配制度、すなわち帝国主義の植民地制度が実行された。帝国主義は、またこうした「租界」をつうじて、政治的にも経済的にも、中国の封建・買弁階級の支配を直接または間接におさえた。一九二四年から一九二七年にかけての革命で、革命的大衆は、中国共産党の指導のもとに、租界をとりもどす運動をすすめ、一九二七年一月に漢□と九江のイギリス租界をとりもどした。だが、蒋介石が革命を裏切ってから、中国各地における帝国主義の租界は、ひきつづきのこされた。
〔21〕 コミンテルン第六回大会における『植民地、半植民地諸国の革命運動にかんするテーゼ』から引用。
〔22〕 一九二七年五月二十四日、スターリンがコミンテルン執行委員会第八回総会でおこなった演説『中国革命とコミンテルンの任務』から引用。
〔23〕 スターリンの『中国革命の見通しについて』から引用。
〔24〕 レーニンの『社会民主党の農業綱領』を参照。
〔訳注〕
① 本巻の『五・四運動』注〔1〕を参照。
② 本巻の『持久戦について』注〔7〕を参照。
③ 「隠蔽と精鋭化をはかる」とは、革命の力を敵の破壊からまもり、しかも活動を展開するために、党の各級指導機関は行動のにぶくなるような組織の膨大化をかならずさけ、小規模な精鋭化したものにすべきこと、党勢の拡大は、党員の増加だけをはかるのではなくて、質と必要を重んじること、党組織と党員は、ふかく大衆のなかへはいって、広範な大衆と大衆組織のなかに根をおろし、社会運動の各方面にはいりこみ、絶対に露見してはならない、ということである。
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スターリンは中国人民の友である
          (一九三九年十二月二十日)
 ことしの十二月二十一日は、スターリン同志の六十歳の誕生日である。この誕生日には、全世界の、このことを知っていてしかも革命的な人なら、だれでも心の底から親しみのこもったお祝いの気持ちがわいてくることと思われる。
 スターリンをお祝いするのは、おざなりに祝うということではない。スターリンをお祝いするということは、かれを支持することであり、かれの事業を支持することであり、社会主義の勝利を支持することであり、かれが人類にさししめした方向を支持することであり、自分の親しい友を支持することである。なぜなら、現在全世界の人類の大多数はみな受難者であり、ただスターリンのさししめす方向、ただスターリンの援助だけが、人類を災難から救うことができるからである。
 われわれ中国人民は、歴史上災難のもっともひどい時期、他人の援助をもっとも切実に必要とする時期におかれている。『詩経』には「鳥の嚶《おう》々と鳴くは友を求むる声」ということばがあるが、われわれはまさにそういう時期におかれている。
 それなら、だれがわれわれの友であろうか。
 一種のいわゆる友がいて、かれらはみずから中国人民の友だと称しており、中国人のなかでも一部のものは、考えもせずにかれらを友だといっている。だが、そのような友は、唐代の李林甫〔1〕のたぐいでしかない。李林甫は唐代の宰相で、「口に蜜あり、腹に剣あり」といわれた有名な人物である。いまのそうしたいわゆる「友」は、それこそ「口に蜜あり、腹に剣あり」という友である。それはだれであろうか。口先では中国に同情するといっている帝国主義者である。
 もう一種の友は、それとはちがっていて、われわれにほんとうの同情をよせており、われわれを兄弟とみなしている。それはだれであろうか。ソ連の人民であり、スターリンである。
 どの国も中国における特権を廃棄しなかったが、ソ連だけはそれを廃棄した。
 第一次大革命の時期には、すべての帝国主義者がわれわれに反対したが、ソ連だけはわれわれを援助した。
 抗日戦争いらい、どの帝国主義国の政府も、ほんとうにはわれわれを援助しなかったが、ソ連だけは空軍と物資をもってわれわれを援助した。
 これでもまだはっきりしないというのだろうか。
 中華民族と中国人民の解放事業をほんとうに援助してくれるのは、社会主義の国、社会主義の指導者、社会主義の人民、社会主義的な思想家、政治家、勤労者だけである。かれらの援助なしには、われわれの事業は、最後の勝利をかちとることはできないのである。
 スターリンは中国人民の解放事業の誠実な友である。中国人民のスターリンにたいする敬愛、ソ連にたいする友情は、まったく誠意のこもったものであり、なにびとの挑発《ちょうはつ》離間、デマ中傷も、結局はむだである。



〔1〕 李林甫は八世紀の人、唐の玄宗の宰相である。『資治通鑑《しじつがん》』はつぎのようにのべている。「李林甫は宰相となるや、才能、人望、功労、業績の自分よりまさる者、および皇帝に重んぜられてその勢力、地位が自分に迫る者は、かならずあらゆる方法を講じてそれをのぞいた。なかでも学問のある人をねたみきらった。表向きにはよくつきあい、甘いことばであしらって、かげでこれをおとしいれた。そこで世間では、李林甫のことを、口に蜜あり腹に剣あり、といった。」
  
  
  

 
 
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ベチューンを記念する
          (一九三九年十二月二十一日)
 ベチューン同志〔1〕はカナダ共産党員で、五十余歳であった。中国の抗日戦争をたすけるため、カナダ共産党とアメリカ共産党から派遣されて、万里を遠しとせず、中国にこられた。昨年の春延安《イェンアン》につき、そのご五台山《ウータイシャン》にいって活動していたが、不幸にして殉職された。外国人が、少しの利己的な動機もなしに中国人民の解放事業を自分自身の事業としたのは、どういう精神からであろうか。それは国際主義の精神であり、共産主義の精神であって、中国共産党員の一人ひとりがこのような精神を学ばなければならない。レーニン主義によれば、世界革命の勝利をかちとるには、資本主義国のプロレタリア階級は植民地・半植民地人民の解放闘争を支持し、植民地、半植民地のプロレタリア階級は資本主義国のプロレタリア階級の解放闘争を支持しなければならない〔2〕。ベチューン同志はこのレーニン主義の路線を実践したのである。われわれ中国共産党員もこの路線を実践しなければならない。われわれはすべての資本主義国のプロレタリア階級と団結し、日本、イギリス、アメリカ、ドイツ、イタリアなどすべての資本主義国のプロレタリア階級と団結しなければならない。そうしてこそ、帝国主義を打倒し、わが民族と人民を解放し、世界の民族と人民を解放することができるのである。これがわれわれの国際主義であり、これがせまい民族主義やせまい愛国主義に反対するわれわれの国際主義である。
 ベチューン同志の少しも利己的でなく、ひたすら人につくす精神は、かれの仕事にたいする極度の責任感、同志と人民にたいする極度の熱誠にあらわれている。共産党員の一人ひとりがかれに学ばなければならない。すくなからぬ人びとは、仕事にたいする責任感がなく、苦しい仕事はさけて楽な仕事をえらび、重い荷物は人におしつけて軽い荷物を自分がかつぐ。なにをするにも、まず自分のためを考え、それから人のことを考える。少しでも仕事をすると、すっかり思いあがって、人が知らないのではないかとこのんでふいちょうする。同志と人民にたいしては、あふれるような熱誠をもって接するのではなく、冷淡そのもので、なんの関心ももたず、まったく無感覚である。このような人は、じつは共産党員ではない、すくなくとも純粋の共産党員とはいえない。前線から帰ってきたもので,話がベチューンのことになると、だれひとり敬服しないものはなく、だれひとりかれの精神に感動しないものはない。山西《シャンシー》・察哈爾《チャーハール》・河北《ホーペイ》辺区の軍民のあいだには、直接ベチューン医師の治療をうけたもの、またはベチューン医師の活動を目のあたりにみたもので、感動しないものはない。共産党員の一人ひとりが、ベチューン同志のこのような真の共産主義者としての精神をぜひとも学ばなければならない。
 ベチューン同志は医師であった。かれは医療を職業とし、技術については、研究のうえにも研究をかさねた。かれの医術は、八路軍の全医務関係者のなかで、とくにすぐれていた。このことも、変わったものをみるとすぐに気うつりする人びとや、技術的な仕事をつまらないものと考えたり、将来性がないと考えたりして、それをみくびる人びとにとって、非常によい教訓である。
 わたしは、ベチューン同志と一回あったきりである。そののち、かれはなんども手紙をくれたが、わたしはいそがしかったので、一回しか返事を出さなかった。それもかれがうけとったかどうかわからない。かれの死を、わたしは非常に悲しんでいる。いま、人びとはかれを記念しているが、これをみても、かれの精神がどんなにふかく人びとを感動させているかがわかる。われわれは、みな、かれの少しも私利私欲のない精神を学ばなければならない。この点から出発すれば、大いに人民に役だつ人となることができる。人の能力には大小のちがいがあるが、この精神さえ持っていれば、それは高尚な人であり、純粋な人であり、道徳的な人であり、低級な趣味からぬけだした人であり、人民にとって有益な人である。



〔1〕 ノーマン・ベチューンはカナダ共産党員であり、有名な医師であった。一九三六年、ドイツ、イタリアのファシスト強盗どもがスペインに侵入したとき、かれは、反ファシズムのスペイン人民に奉仕するため、みずから前線におもむいた。一九三七年、中国の抗日戦争が勃発した。かれはカナダ人とアメリカ人からなる医療隊をひきいて中国の解放区にやってきた。一九三八年四月、延安をへて山西・察哈爾・河北辺区におもむき、そこで二年間活動していた。かれの犠牲的精神、仕事にたいする熱誠、責任感などは、人びとの手本となっている。かれは、負傷者治療のさいの感染によって、一九三九年十一月十二日、河北省の唐県で逝去した。
〔2〕 スターリンの『レーニン主義の基礎について』第六の部分の「民族問題」を参照。
  
  
  

 
 
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新民主主義論
          (一九四〇年一月)
     一 中国はどこへいく

 抗戦いらい、全国の人民のあいだにはいきいきとした気運がみなぎっている。人びとは活路がひらけたとおもい、うれいをおびた顔もすっかりはれやかになった。ところが最近、妥協の空気や反共のわめき声がまたもや急に騒々しくなり、全国の人民をふたたび五里霧中においこんでいる。とくに文化人や青年学生は敏感なだけに、まっさきにそれに突きあたっている。そこで、どうしたらよいのか、中国はどこへいくのか、ということがまた問題になってきた。したがって、『中国文化』〔1〕の出版を機会に、中国の政治と中国の文化の動向の問題を説明することは、あるいは役にたつかもしれない。文化の問題については、わたしは門外漢で、ひとつ研究してみたいとおもいながらも、やっとはじめたばかりである。さいわい、延安《イェンアン》の多くの同志には、すでにくわしい論文があるので、わたしのこの大ざっぱなものが幕あけのどらがわりにでもなれば結構である。全国の進歩的な文化活動家にとって、われわれのものは、さしずめよい意見をひきだすよび水、せめてものとりえというほどのものにすぎないが、みんなで討議して正しい結論をひきだし、わが民族の要求にこたえるようにしたいとおもう。科学的な態度とは、「事実にもとづいて法則性をもとめる」ことであって、「ひとりよがり」や、「先生ぶる」ような思いあがった態度では、けっして問題を解決することはできない。わが民族の災難はきわめて深く、わが民族を解放の道にみちびくことができるのは、科学的な態度と責任をもつ精神だけである。真理は一つしかなく、はたして、だれが真理をつかんだかは、主観的な誇張によるのではなくて、客観的な実践によるのである。何百何千万という人民の革命的実践だけが、真理を検証する尺度である。わたしは、これを『中国文化』出版の態度としてよいとおもう。 img: http://visit.geocities.jp/visit.gif?&r=http%3A//www.geocities.jp/maotext001/maosen-2/maosen-2-459.html&b=Microsoft%20Internet%20Explorer%204.0%20%28compatible%3B%20MSIE%206.0%3B%20Windows%20NT%205.1%3B%20SV1%3B%20GTB6.6%3B%20.NET%20CLR%201.1.4322%29&s=1280x800&o=Win32&c=32&j=true&v=1.2 img: http://bc.geocities.yahoo.co.jp/serv?s=382116081&t=1292558859
 二 われわれは新中国をうちたてる

 われわれ共産党員は、多年にわたって、中国の政治革命と経済革命のために奮闘してきただけでなく、中国の文化革命のためにも奮闘してきた。これらの目的は、すべて中華民族の新社会と新国家を建設することにある。この新社会と新国家には、新政治と新経済があるばかりでなく、新文化もある。つまり、われわれは、政治的に抑圧され経済的に搾取されている中国を、政治的に自由で経済的に繁栄した中国に変えるだけでなく、旧文化に支配され、そのため無知でたちおくれている中国を、新文化に支配され、そのため文明的ですすんだ中国に変えるのである。一言でいえば、われわれは新中国をうちたてるのである。中華民族の新文化をうちたてること、これが文化の分野におけるわれわれの目的である。

 三 中国の歴史的特徴

 われわれは中華民族の新文化をうちたてるのであるが、その新文化とはいったいどのような文化であろうか。
 一定の文化(イデオロギーとしての文化)は、一定の社会の政治と経済の反映であり、また一定の社会の政治と経済に大きな影響をあたえ作用をおよぼす。そして、経済が基礎であり、政治は経済の集中的表現である〔2〕。これが、文化と政治、経済との関係、および政治と経済との関係についてのわれわれの基本的観点である。そこで、一定の形態の政治と経済が、まず、その一定の形態の文化を決定するのであり、それから、その一定の形態の文化がこんどは一定の形態の政治と経済に影響をあたえ作用をおよぼすのである。マルクスは、「人間の意識がかれらの存在を規定するのではなくて、逆に、かれらの社会的存在がかれらの意識を規定する」〔3〕といっている。かれはまた、「哲学者たちは、世界をいろいろに解釈してきただけである。だが、かんじんなことは、それを変革することである」〔4〕ともいっている。これは、人類の歴史はじまっていらい、意識と存在との関係の問題をはじめて正しく解決した科学的な規定であり、のちにレーニンがほりさげて展開した能動的、革命的反映論の基本的観点である。中国の文化問題を討議するにあたって、われわれはこの基本的観点をわすれてはならない。
 こうみてくると、問題は非常にはっきりしている。われわれがとりのぞこうとする中華民族の旧文化のうちのあの反動的要素は、中華民族の旧政治と旧経済からはなれることのできないものであり、われわれがうちたてようとする中華民族のこの新文化も、やはり中華民族の新政治と新経済からはなれることのできないものである。中華民族の旧政治と旧経済は中華民族の旧文化のよりどころであり、中華民族の新政治と新経済は中華民族の新文化のよりどころである。
 中華民族の旧政治、旧経済とはなにか。また、中華民族の旧文化とはなにか。
 周、秦いらい、中国は封建社会であって、その政治は封建的な政治であり、その経済は封建的な経済であった。そして、このような政治と経済の反映としての、支配的な地位をしめていた文化は封建的な文化であった。
 外国の資本主義が中国を侵略し、中国の社会にも資本主義の要素がしだいに生長するようになってから、中国はしだいに植民地・半植民地・半封建の社会に変わってきた。いまの中国は、日本占領区では植民地社会であり、国民党支配区でも基本的にはやはり半植民地社会である。そして、日本占領区と自民党支配区とを問わず、いずれも封建・半封建制度が優位をしめている社会である。これが現在の中国社会の性質であり、これが現在の中国の国情である。支配的なものについていえば、このような社会の政治は植民地・半植民地・半封建的な政治であり、その経済は植民地・半植民地・半封建的な経済である。そしてこのような政治と経済の反映としての、支配的地位をしめる文化は、植民地・半植民地・半封建的な文化である。
 これらの支配的な政治、経済および文化の形態がわれわれの革命の対象である。われわれがとりのぞこうとしているのは、このような植民地・半植民地・半封建的な旧政治、旧経済およびこのような旧政治、旧経済に奉仕する旧文化である。そして、われわれがうちたてようとしているのは、それと反対のもの、すなわち中華民族の新政治、新経済および新文化である。
 では、中華民族の新政治、新経済とはなにか、また中華民族の新文化とはなにか。
 中国革命の歴史的進展は、二歩にわけなければならない。その第一歩は民主主義の革命、第二歩は社会主義の革命であって、それは性質のちがう二つの革命の過程である。そして、その民主主義も、いまではもはやふるい範疇《はんちゅう》の民主主義ではなく、旧民主主義ではなくて、新しい範疇の民主主義であり、新民主主義である。
 このことから、中華民族の新政治とは新民主主義の政治であり、中華民族の新経済とは新民主主義の経済であり、中華民族の新文化とは新民主主義の文化である、と断言することができる。
 これが現在の中国革命の歴史的特徴である。革命にたずさわっている中国のすべての政党、すべての人びとで、この歴史的特徴がわからないものは、この革命を指導することも、この革命を勝利にみちびくこともできず、ついには人民からみすてられて、片すみで涙をながすあわれな存在になってしまうであろう。

四 中国革命は世界革命の一部分である

 中国革命の歴史的特徴は、民主主義と社会主義の二つの段どりにわかれ、しかも、その第一歩が、いまではもはや一般的な民主主義ではなく、中国的な、特殊な、新しい型の民主主義であり、新民主主義であるということにある。では、この歴史的特徴はどのようにして形成されたのか。それは百年もまえからあったものか、それとも、あとになってうまれたものなのか。
 中国と世界の歴史の発展を少しでも研究してみれば、この歴史的特徴が、アヘン戦争のときからあったものではなく、あとになって、第一次帝国主義世界大戦と鴻Vア十月革命ののちにはじめて形成されたものであることがわかる。つぎに、その形成の過程を検討してみよう。
 きわめてあきらかなように、現在の中国社会の性質が植民地・半植民地・半封建のものである以上、中国革命はどうしても二つの段どりにわかれなければならない。その第一歩は、この植民地・半植民地・半封建の社会形態を変えて、独立した民主主義の社会にすることである。第二歩は、革命をさらに発展させて、社会主義の社会をうちたてることである。中国の現在の革命はこの第一歩をあゆんでいる。
 この第一歩の準備段階は、はやくも一八四○年のアヘン戦争から、すなわち中国の社会が封建社会から半植民地・半封建社会に変わりはじめたときからはじまったものである。このかん、太平天国運動、中仏戦争、中日戦争、戊戌《ウーシュイ》政変、辛亥《シンハイ》革命、五・四運動、北伐戦争、土地革命戦争をへて、こんにちの抗日戦争にいたるまで、こうした多くの個々の段階に、ちょうど百年の年月がついやされた。ある意味からいえば、それらはすべてこの第一歩を実行したものであり、中国人民がそれぞれの時期にさまざまな程度でこの第一歩を実行し、帝国主義と封建勢力に反対して、独立した民主主義社会の樹立のためにたたかい、第一歩の革命を達成するためにたたかったものである。そして、辛亥革命は、よりいっそう完全な意味で、この革命の発端となった。この革命は、その社会的性質からいうと、プロレタリア社会主義革命ではなくて、ブルジョア民主主義革命である。この革命は、いまだに達成されておらず、なお多くの精力をそそがなければならない。それは、この革命の敵かいまでもなお非常に強大だからである。孫中山先生が、「革命なおいまだ成功せず、同志よ、さらに努力せよ」といったのは、このようなブルジョア民主主義革命のことである。
 ところが、一九一四年に第一次帝国主義世界大戦がおこり、一九一七年のロシア十月革命で地球の六分の一をしめる土地に社会主義国家がうらたてちれてから、中国のプルジョア民主主義革命には変化が生じた。
 それ以前は、中国のブルジョア民主主義革命は、ふるい世界ブルジョア民主主義革命の範疇にぞくし、ふるい世界ブルジョア民主主義革命の一部分であった。
 それ以後は、中国のブルジョア民主主義革命は、新しいブルジョア民主主義革命の範疇にぞくするものになり、革命の陣営からいえば、世界プロレタリア社会主義革命の一部分となった。
 なぜか。それは、第一次帝国主義世界大戦と最初に勝利した十月社会主義革命が、世界歴史全体の方向を変え、世界歴史全体の時代を画したからである。
 世界資本主義の戦線が地球の一角(その一角は全世界の六分の一の土地をしめている)ですでに崩壊し、その他の個所でもすでにその腐朽性をすっかりさらけだしている時代、これらのまだ残っている資本主義の部分がますます植民地、半植民地にたよらなければ存続できなくなっている時代、社会主義国家がすでにうちたてられ、しかも、すべての植民地、半植民地の解放運動をたすけるためにたたかう用意があると表明している時代、資本主義諸国のプロレタリア階級が日一日と社会帝国主義の社会民主主義政党の影響から解放され、植民地、半植民地の解放運動を支持することを表明している時代、このような時代には、どの植民地、半植民地国でも、そこに帝国主義に反対する革命、すなわち国際ブルジョア階級に反対し、国際資本主義に反対する革命がおこるならば、それはもはや、ふるい世界ブルジョア民主主義革命の範疇にぞくするものではなく、新しい範疇にぞくするものである。それはもはやブルジョア的、資本主義的なふるい世界革命の一部分ではなく、新しい世界革命の一部分、すなわちプロレタリア社会主義世界革命の一部分である。このような革命的な植民地、半植民地は、もはや世界資本主義の反革命戦線の同盟軍とみなすことはできず、世界社会主義の革命戦線の同盟軍に変わっている。
 このような植民地、半植民地の革命の第一段階、第一歩は、その社会的性質からいうと、基本的には依然としてブルジョア民主主義的なものであって、その客観的要求は、資本主義の発展のために道をはききよめることである。だがこのような革命は、もはや、ブルジョア階級の指導する、資本主義社会とブルジョア独裁の国家の樹立を目的としたふるい革命ではなく、プロレタリア階級の指導する、第一段階では新民主主義社会と革命的諸階級の連合独裁の国家の樹立を目的とした新しい革命である。したがって、このような革命はまた、まさしく社会主義の発展のためにいっそうひろびろとした道をはききよめるものである。このような革命は、その進行の過程で、敵の状況と同盟軍の変化によって、さらにいくつかの段階にわかれるが、その基本的性質には変わりはない。
 このような革命は、帝国主義に徹底的な打撃をくわえるものであり、したがって、それは帝国主義からはいれられず、帝国主義からは反対される。だが、それは社会主義からはいれられ、社会主義国や社会主義をめざす国際プロレタリア階級からは援助される。
 したがって、このような革命はプロレタリア社会主義世界革命の一部分に変わらざるをえない。
 「中国革命は世界革命の一部分である」というこの正しい命題は、はやくも一九二四年から一九二七年までの中国の第一次大革命の時期に提起された。これは、中国の共産党員が提起し、当時、反帝・反封建闘争に参加したすべての人びとの賛同をえたものである。ただ、当時この理論の意義がまだ展開されておらず、そのため、この問題はまだばくぜんと認識されているにすぎなかった。
 このような「世界革命」は、もはやふるい世界革命ではなく、ふるいブルジョア世界革命はとっくに終わっている。これは新しい世界革命であり、社会主義世界革命である。同様に、その「一部分」は、もはやふるいブルジョア革命の一部分ではなく、新しい社会主義革命の一部分である。これはこのうえなく大きな変化であり、世界の歴史および中国の歴史はじまっていらい、くらべようのない大きな変化である。
 中国の共産党員が提起したこの正しい命題は、スターリンの理論にもとづくものである。
 はやくも一九一八年、スターリンは十月革命一周年の記念論文でつぎのようにのべている。

     「十月革命の偉大な世界的意義は、主としてつぎの諸点にある。すなわち十月革命が、(一)民族問題の範囲をびろげ、これを、ヨーロッパにおける民族的抑圧にたいする闘争という局部的な問題から、被抑圧民族と植民地、半植民地の帝国主義からの解放という全般的な問題に転化させたこと、(二)西欧と東洋の被抑圧民族を、帝国主義とのかがやかしい闘争という共通の軌道にのせて、この解放のための広範な可能性と現実的な道をひらき、それによってかれらの解放事業をいちじるしく容易にしたこと、(三)まさにこのことによって社会主義的西欧と奴隷的東洋とのあいだに橋をかけ、世界帝国主義にたいする、西欧のプロレタリアからロシア革命をへて東洋の被抑圧民族にいたる新しい革命戦線をうちたてたことである。」〔5〕

 この論文のあと、スターリンは、植民地、半植民地の革命がふるい範疇からぬけでてプロレタリア社会主義革命の一部分になったという理論を、くりかえし展開している。なかでも、もっとも明快、的確に説明しているのは、スターリンが一九二五年六月三十日に発表した、当時のユーゴスラビアの民族主義者と論争した論文である。これは張仲実《チャンチョンシー》訳の『スターリンの民族問題論』に収録されており、表題は『ふたたび民族問題によせて』となっている。それにはつぎの一節がある。

    「セミッチは、一九一二年末に書かれたスターリンの小冊子『マルクス主義と民族問題』の一ヵ所をひきあいにだしている。そこには、『勃興《ぼっこう》しつつある資本主義の諸条件のもとでの民族闘争は、ブルジョア階級相互の闘争である』とのべてある。かれは、これによって、現在の歴史的条件のもとでの、民族運動の社会的意義を規定する自分の定式が正しいことをほのめかそうとしているようである。だが、スターリンの小冊子は帝国主義戦争以前に書かれたものである。当時は、民族問題はマルクス主義者からみて、まだ全世界的意義をもつ問題ではなかった。また民族自決権にかんするマルクス主義者の基本的要求は、プロレタリア革命の一部分とはみなされず、ブルジョア民主主義革命の一部分とみなされていた。そのときいらい、国際情勢が根本的に変化したこと、一方では戦争が、他方ではロシアの十月革命が、民族問題を、ブルジョア民主主義革命の一部分から、プロレタリア社会主義革命の一部分に転化させたということ、この点を見ないのは、笑うべきことであろう。はやくも一九一六年の十月に、レーニンは論文『民族自決権にかんする討論の総括』のなかで、民族自決権にかんする民族問題の基本点は、全民主主義運動の一部分をなすことをやめ、すでに全プロレタリア社会主義革命の構成部分に転化したとのべている。レーニンならびにロシア共産主義者のその他の代表たちの、民族問題についてのそれ以後の著作については、のべるまでもない。こうみてくると、新しい歴史的環境のために、われわれが新しい時代、すなわちプロレタリア革命の時代にはいった現在、セミッチが、ロシアのブルジョア民主主義革命の時代に書かれたスターリンの小冊子の例の箇所を引用するということは、どんな意味をもちうるだろうか。それは、セミッチが、時間と空間をはなれて、生きた歴史的環境とは関連なしに引用し、それによって弁証法のもっとも根本的な要求にそむき、ある歴史的環境のもとでは正しいものも、異なった歴史的環境のもとでは正しくないものになりうろことを考えなかった、という意味をもちうるにすぎない。」

 これによってわかるように、ふたとおりの世界革命がある。一つはブルジョア階級と資本主義の範疇にぞくする世界革命である。この世界革命の時期は、とっくにすぎさっており、はやくも一九一四年、第一次帝国主義世界大戦がおこったとき、とりわけ一九一七年のロシア十月革命のときに終わりをつげた。それ以後もう一つの世界革命、すなわちプロレタリア階級の社会主義世界革命がはじまった。この革命は、資本主義国のプロレタリア階級を主力軍とし、植民地、半植民地の被抑圧民族を同盟軍としている。被抑圧民族のなかで革命に参加している階級、政党、個人がどんな階級、政党、個人であろうと、またかれらがその点を意識しているかどうか、主観的にその点を理解しているかどうかにかかわりなく、かれらが帝国主義に反対するかぎり、その革命はプロレタリア社会主義世界革命の一部分となり、かれらはプロレタリア社会主義世界革命の同盟軍となる。
 中国革命は、こんにちではその意義がいっそう大きくなっている。こんにちは、資本主義の経済的危機と政治的危機によって、世界が日一日と第二次世界大戦におしやられている時期であり、ソ連がすでに社会主義から共産主義への移行をめざしており、全世界のプロレタリア階級と彼抑圧民族を指導し援助して、帝国主義戦争に抵抗し、資本主義的反動に打撃をあたえる力をもっている時期であり、資本主義諸国のプロレタリア階級が資本主義を打倒し、社会主義を実現しようとしている時期であり、中国のプロレタリア階級、農民階級、知識層およびその他の小ブルジョア階級が、中国共産党の指導のもとで、すでに偉大な、独立した政治勢力を形成している時期である。こんにち、われわれはこのような時期におかれているのだから、中国革命の世界的意義がいっそう大きくなったとみるべきではないだろうか。わたしは、そうみるべきだとおもう。中国革命は世界革命の偉大な一部分である。
 この中国革命の第一段階(それはまた多くの小段階にわかれる)は、その社会的性質からいうと、新しい型のブルジョア民主主義革命であって、まだプロレタリア社会主義革命ではないが、それは、とっくにプロレタリア社会主義世界革命の一部分となっており、いまではなおさらこの世界革命の偉大な一部分となり、この世界革命の偉大な同盟軍となっている。この革命の第一歩、第一段階は、けっして中国のブルジョア階級の独裁する資本主義社会を樹立するものではなく、また樹立できるものでもない。それは、中国のプロレタリア階級を指導階級とする中国の革命的諸階級の連合独裁の新民主主義社会を樹立するものであり、これによってこの第一段階を終えるのである。それから、さらにこれを第二の段階に発展させて、中国の社会主義社会を樹立するのである。
 これが、現在の中国革命のもっとも基本的な特徴であり、二十年来(一九一九年の五・四運動からかぞえて)の新しい革命の過程であり、現在の中国革命のいきいきとした具体的な内容である。

 五 新民主主義の政治

 中国革命は二つの歴史的段階にわかれ、その第一段階は新民主主義革命であること、これは中国革命の新しい歴史的特徴である。この新しい特徴は、中国内部の政治関係と経済関係には、具体的にどうあらわれているだろうか。つぎにその状況について説明しよう。
 一九一九年の五・四運動まで(五・四運動は一九一四年の第一次帝国主義大戦と一九一七年のロシア十月革命ののちにおきた)、中国のブルジョア民主主義革命の政治的指導者は、中国の小ブルジョア階級とブルジョア階級(それらの知識人)であった。当時、中国のプロレタリア階級は、まだ、自覚をもった独立した階級勢力としては政治の舞台に登場しておらず、小ブルジョア階級とブルジョア階級の追随者として革命に参加していたにすぎない。たとえば辛亥革命のときのプロレタリア階級がこのような階級であった。
 五・四運動以後、中国の民族ブルジョア階級はひきつづき革命に参加したが、中国のブルジョア民主主義革命の政治的指導者は、もはや中国のブルジョア階級ではなく、中国のプロレタリア階級であった。このとき、中国のプロレタリア階級は、自分自身の成長とロシア革命の影響によって、すでに自覚をもった独立した政治勢力に急速に変わっていた。帝国主義打倒のスローガンと中国のブルジョア民主主義革命全体の徹底した綱領は、中国共産党が提起したものであり、しかも土地革命は中国共産党が単独で実行したものである。
 中国の民族ブルジョア階級は、植民地・半植民地国のブルジョア階級であり、帝国主義の抑圧をうけているため、帝国主義時代にあっても、やはり一定の時期、一定の程度、外国の帝国主義に反対し、また自国の官僚・軍閥政府に反対する(あとの点は、たとえば辛亥革命の時期および北伐戦争の時期がそれである)革命性をもっており、プロレタリア階級および小ブルジョア階級と連合して、かれらの反対しようとおもう敵に反対することができる。これが、中国のブルジョア階級と旧ロシア帝国のブルジョア階級のちがう点である。旧ロシア帝国は、すでに軍事的・封建的帝国主義であり、他国を侵略するものであったため、ロシアのブルジョア階級にはなんらの革命性もなかった。そこでのプロレタリア階級の任務は、ブルジョア階級に反対することであって、それと連合することではなかった。中国は植民地・半植民地で、他国から侵略をうけているため、中国の民族ブルジョア階級は、なお一定の時期、一定の程度の革命性をもっている。ここでのプロレタリア階級の任務は、民族ブルジョア階級のこのような革命性を無視しないで、かれらと帝国主義反対、官僚・軍閥政府反対の統一戦線をうちたてることである。
 しかし、同時に、かれらは、植民地・半植民地のブルジョア階級であるということから、経済的にも政治的にもきわめて弱いため、さらにもう一つの性格、すなわち革命の敵にたいする妥協性をもっている。中国の民族ブルジョア階級は、革命の時期でさえも帝国主義と完全に手をきることをのぞまず、しかも農村での小作料による搾取とかたく結びついているので、帝国主義を徹底的にくつがえすことをのぞまないし、またできもしない、まして封建勢力を徹底的にくつがえすことなどはなおさらのぞまないし、またできもしない。こうしたことから、中国のブルジョア民主主義革命の二つの基本問題、二大基本任務は、中国の民族ブルジョア階級ではどちらも解決することができない。自民党に代表される中国の大ブルジョア階級にいたっては、一九二七年から一九三七年までの長いあいだ、ずっと帝国主義のふところに身を投じ、封建勢力と同盟を結んで、革命的人民に反対してきた。中国の民族ブルジョア階級も、一九二七年およびその後の一時期、反革命に同調したことがあった。抗日戦争では、汪精衛に代表される大ブルジョア階級の一部がまたも敵に投降し、大ブルジョア階級の新しい裏切りをしめした。これも、中国のブルジョア階級が歴史上の欧米諸国のブルジョア階級、とくにフランスのブルジョア階級とちがう点である。欧米諸国、とくにフランスでは、ブルジョア階級がまだ革命の時代におかれていたころは、それらの国のブルジョア革命はわりあい徹底したものであった。中国では、ブルジョア階級はその程度の徹底性さえもっていない。
 一方では革命に参加する可能性、他方では革命の敵にたいする妥協性、これが中国のブルジョア階級のもつ「一人二役」的な二面性である。このような二面性は、欧米における歴史上のブルジョア階級もおなじようにもっていた。かれらは、大敵をまえにすると、労働者、農民と連合して敵に反対するが、労働者、農民が目ざめると、こんどは敵と連合して労働者、農民に反対する。これは世界各国のブルジョア階級のもつ一般的な法則であり、ただ中国のブルジョア階級にはこの特徴がいっそう目だっているだけのことである。
 きわめてあきらかなように、中国では、人民を指導して帝国主義と封建勢力をくつがえすことのできるものが、人民の信頼をかちとることができるのである。なぜなら、人民の不倶戴天の敵が帝国主義と封建勢力であり、とくに帝国主義であるからである。こんにちでは、人民を指導して日本帝国主義を追い出し、民主主義の政治をおこなうことのできるものが、人民の救いの星である。歴史はすでに、中国のブルジョア階級がこの責任をはたしえないこと、この責任はプロレタリア階級の肩にかからざるをえないことを立証している。
 したがって、いずれにしても、中国のプロレタリア階級、農民、知識層およびその他の小ブルジョア階級は、国家の運命を決定する基本的な勢力である。これらの階級のうち、あるものはすでに目ざめており、あるものはいま目ざめつつあるが、かれらは必然的に中華民主共和国の国家構成と政権構成の基本的部分になり、そしてその指導勢力はプロレタリア階級である。いまわれわれがうちたてよらとしている中華民主共和国は、プロレタリア階級の指導のもとでの、反帝反封建のすべての人びとの連合独裁の民主共和国でしかありえない。これこそ、新民主主義の共和国であり、また真に革命的な三大政策をもつ新三民主義の共和国でもある。
 このような新民主主義共和国は、一方では、ふるい形態の、欧米型の、ブルジョア独裁の資本主義の共和国とはちがっている。それは旧民主主義の共和国で、そのような共和国はすでに時代おくれとなっている。新民主主義共和国は、他方では、ソ連型の、プロレタリア独裁の、社会主義の共和国ともちがっている。そのような社会主義の共和国は、すでにソ連で繁栄しているだけでなく、こんご資本主義諸国でも樹立されるものであり、疑いもなく、工業のすすんだすべての国の国家構成と政権構成の支配的な形態になるであろう。だがそのような共和国は、一定の歴史的時期には、まだ植民地、半植民地国の革命にはあてはまらない。したがって、すべての植民地、半植民地国の革命が一定の歴史的時期にとる国家形態は、第三の形態でしかありえない。これが、新民主主義共和国といわれるものである。これは一定の歴史的時期の形態であり、したがって過渡的な形態であるが、他のものではおきかえることのできない必要な形態である。
 したがって、全世界の多種多様な国家体制はその政権の階級的性質からわけると、基本的にはつぎの三種類にほかならない。すなわち、(イ)ブルジョア独裁の共和国、(ロ)プロレタリア独裁の共和国、(ハ)いくつかの革命的階級の連合独裁の共和国である。
 第一の種類は、旧民主主義の国家である。第二次帝国主義戦争勃発後のこんにち、多くの資本主義国は、すでに民主主義のおもかげさえなく、ブルジョア階級の血なまぐさい軍事独裁に変わってしまったか、あるいは変わろうとしている。地主とブルジョア階級による連合独裁の一部の国家はこの部類にいれてよい。
 第二の種類は、ソ連がすでにそうであるほか、資本主義諸国でもはぐくまれつつある。将来、これは一定の時期の世界の支配的形態となるであろう。
 第三の種類は、植民地、半植民地国の革命がとる過渡的な国家形態である。それぞれの植民地、半植民地国の革命には、かならずいくつかのちがった特徴がありうるが、そのちがいは、大同のなかの小異である。植民地あるいは半植民地の革命であるかぎり、その国家構成と政権構成は、基本的にはかならずおなじであり、すなわち帝国主義に反対するいくつかの階級が連合して共同で独裁する新民主主義の国家である。こんにちの中国では、このような新民主主義の国家形態が、抗日統一戦線の形態である。それは、抗日するためのもの、一帝国主義に反対するためのものであり、またいくつかの革命的階級が連合したもの、統一戦線のものである。だが、残念なことに、抗戦をはじめてすでに久しいのに、共産党の指導する抗日民主根拠地以外の大部分の地区では、国家民主化にかんする仕事はほとんどまだ着手されていない。日本帝国主義は、このもっとも根本的な弱点を利用して、おおっぴらに攻めこんできている。これ以上方針を変えないならば、民族の運命は非常な危険にさらされる。
 ここでのべているのは「国体」の問題である。この国体の問題は、清朝の末期から数十年もやかましく論議されてきたが、まだはっきりしていない。じつのところ、それがさしているのは、社会の諸階級が国家のなかでしめる地位という問題にすぎない。ブルジョア階級はいつも、こうした階級の地位をひたかくしにし、「国民」という名によってその一階級独裁の実をあげるのである。このようなことは、革命的人民にとってなんの利益にもならないから、そのことをはっきり指摘すべきである。「国民」という名はつかってもよいが、その国民のなかには、反革命分子もふくまれないし、民族裏切り者もふくまれない。反革命分子や民族裏切り者どもにたいするすべての革命的階級の独裁、これがいまわれわれの必要としている国家である。
 「近世各国のいわゆる民権制度は、往々にしてブルジョア階級に専有され、まさしく平民を抑圧する道具になっている。国民党の民権主義についていえば、一般平民の共有するものであって、少数のものが私《わたくし》しうるものではない。」これは、一九二四年、国共合作による国民党第一回全国代表大会の宣言のなかでおごそかに声明されたものである。十六年らい国民党自身がこの声明にそむいたため、こんにちのような重大な国難の局面がつくりだされたのである。これは国民党のこのうえない大きなあやまりであり、われわれは国民党が抗日の洗礼をうけて、このあやまりをあらためるよう希望する。
 さらに、「政体」という問題があるが、それは政権構成の形態の問題をさし、一定の社会階級が、敵とたたかい自分をまもるための政権機関をどんな形態で組織するかということをさしている。適当な形態の政権機関がなければ、国家を代表することはできない。中国では、いまのところ、全国人民代表大会、省人民代表大会、県人民代表大会、区人民代表大会から郷人民代表大会にいたる体系をとり、その各段階の代表大会でその政府を選挙すればよい。だが、それには、男女、信仰、財産、教育などの差別のない、真に普遍・平等の選挙制を実施しなければならない。そうしてはじめて、革命的諸階級の国家のなかでしめる地位に適し、民意の表明と革命闘争の指揮に適し、新民主主義の精神に適したものとなるのである。このような制度がつまり民主集中制なのである。民主集中制の政府だけがすべての革命的人民の意志を十分に発揚できるし、また革命の敵にもっとも力づよく反対できるのである。「少数のものが私しうるものではない」という精神は、政府と軍隊の構成にもつらぬかれなければならない。真の民主主義制度がなければ、この目的を達成することはできず、政体が国体に適応しないことになる。
 国体――革命的諸階級の連合独裁。政体――民主集中制。これが新民主主義の政治であり、新民主主義の共和国であり、抗日統一戦線の共和国であり、三大政策をもつ新三民主義の共和国であり、名実あいともなった中華民国である。われわれはいま中華民国という名はもっているが、まだ中華民国の実をともなっていない。その名にふさわしく実をととのえていくこと、これこそがこんにちの仕事である。
 これが、革命の中国、抗日の中国がうちたてるべき、またどうしてもうちたてなければならない内部の政治関係であり、これがこんにちの「建国」の仕事の唯一の正しい方向である。

    六 新民主主義の経済

 中国にこのような共和国をうちたてるには、政治的に新民主主義でなければならず、経済的にも新民主主義でなければならない。
 大銀行、大工業、大商業は、この共和国の国有となる。「すべて中国人および外国人の企業で、独占的性質をもつか、もしくは規模が大きすぎて私的な力では経営できないもの、たとえば銀行、鉄道、航空事業などのたぐいは、国家がこれを経営管理し、私有資本制度が国民の経済生活を左右できないようにする。これが資本節制の主旨である。」これもまた、国共合作による国民党第一回全国代表大会の宣言のなかでおごそかに声明されたものであり、これが新民主主義共和国の経済構成の正しい方針である。プロレタリア階級の指導する新民主主義共和国の国営経済は、社会主義的性質のものであり、国民経済全体を指導する力である。だが、この共和国は、その他の資本主義的私有財産を没収するものではなく、また「国民の経済生活を左右できない」ような資本主義的生産の発展を禁止するものでもない。それは、中国の経済がまだ非常におくれているからである。
 この共和国は、ある種の必要な方法をとって地主の土地を没収し、それを土地のない農民や土地のすくない農民に分配して、孫中山先生の「耕すものに土地を」のスローガンを実行し、農村における封建的な関係を一掃し、土地を農民の私有に変える。農村における富農経済もその存在はゆるされる。これが「地権平均」の方針である。この方針の正しいスローガンが「耕すものに土地を」である。この段階では、一般に、まだ社会主義の農業をうちたてるのではない。だが、「耕すものに土地を」の基礎のうえに発展してくるさまざまな協同組合経済は、社会主義的要素をももっている。
 中国の経済は、かならず「資本節制」と「地権平均」の道をあゆまなければならない。それは、けっして、「少数のものが私しうる」ものであってはならず、少数の資本家、少数の地主に「国民の経済生活を左右」させるものであってはならない。けっして、欧米型の資本主義社会をうちたててはならず、またふるい半封建社会のままであってもならない。あえてこの方向にそむくなら、絶対にその目的をとげることはできず、自分自身が痛い目にあうだろう。
 これが、革命の中国、抗日の中国がうちたてるべき、また必然的にうちたてなければならない内部の経済関係である。
 このような経済が新民主主義の経済である。
 そして、新民主主義の政治がこのような新民主主義の経済の集中的表現である。

 七 ブルジョア独裁を反ばくする

 このような新民主主義の政治と新民主主義の経済の共和国は、全国の九〇パーセント以上の人民が賛成しているものであって、これ以外にあゆむべき道はない。
 ブルジョア独裁の資本主義社会をうちたてる道をあゆもうというのか。なるほど、それはかつて欧米のブルジョア階級があゆんだ道ではある。だが、残念ながら、国際、国内環境は、中国がそうするのをゆるさない。
 国際環境からいえば、この道はゆきづまっている。いまの国際環境は、基本的にいって、資本主義と社会主義が闘争している環境であり、資本主義が没落にむかい社会主義が生長にむかっている環境である。中国にブルジョア独裁の資本主義社会をうちたてようとしても、まず第一に国際資本主義、すなわち帝国主義がゆるさない。帝国主義が中国を侵略し、中国の独立に反対し、中国における資本主義の発展に反対してきた歴史、それが中国の近代史である。これまで、中国革命はすべて、帝国主義にしめ殺されて失敗したのであり、革命に殉じた無数の烈士は、そのため、つきぬうらみをいだいて死んでいったのである。いまは、強大な日本帝国主義が攻めこみ、中国を植民地に変えようとしている。いまは、日本が中国で自分の資本主義を発展させているのであって、なにも中国が資本主義を発展させているわけではない。いまは、日本のブルジョア階級が中国で独裁しているのであって、なにも中国のブルジョア階級が独裁をしているわけではない。たしかに、いまは帝国主義の最後のあがきの時期であり、かれらは死にひんしている。「帝国主義とは死滅しつつある資本主義」〔6〕のことである。だが、かれらは死にひんしているからこそ、生きるためにますます植民地、半植民地にたよるのであって、いかなる植民地、半植民地にもブルジョア独裁の資本主義社会などを樹立するのをけっしてゆるしはしない。日本帝国主義は、重大な経済的危機と政治的危機の深みにおちこんでいるからこそ、つまり死にひんしているからこそ、是が非でも中国を攻め、是が非でも中国を植民地に変えようとし、中国のブルジョア独裁の樹立と民族資本主義の発展の道をたちきったのである。
 つぎには、社会主義がそれをゆるさない。この世界では、すべての帝国主義がわれわれの敵であり、中国が独立するには、どうしても会主義国と国際プロレタリア階級の援助からはなれることはできない。それはつまり、ソ連の援助からはなれることはできないし、また日本やイギリス、アメリカ、フランス、ドイツ、イタリアなどの諸国のプロレタリア階級が自国ですすめている反資本主義闘争による援助からもはなれることはできない、ということである。中国革命の勝利はかならず日本やイギリス、アメリカ、フランス、ドイツ、イタリアなどの諸国、あるいはそのうちの一、二ヵ国の革命が勝利したあとになるとはいえないが、しかし、中国革命の勝利のためにはかれるの力がくわわる必要のあることは、疑いがない。とりわけ、ソ連の援助は、抗戦の最後の勝利をかちとるうえで欠くことのできない条件である。ソ連の援助を拒否するなら、革命は失敗する。それは、一九二七年以後の反ソ運動〔7〕の教訓できわめてはっきりしているではないか。いまの世界は、革命と戦争の新時代、つまり、資本主義がかならず死滅し社会主義がかならず繁栄する時代におかれている。このような状況のもとで、中国が反帝・反封建闘争に勝利したのち、ブルジョア独裁の資本主義社会をうちたてるなどということは、まったくの寝言でなくてなんだろう。
 特殊な条件(ブルジョア階級がギリシアの侵略にうち勝ち、プロレタリア階級の力があまりにもよわかった)によって、第一次帝国主義大戦と十月革命ののちに、なおケマル型の、ごく小さなブルジョア独裁のトルコ〔8〕がうまれたとしても、第二次世界大戦とソ連の社会主義建設の完成ののちには、もう一つのトルコがうまれるようなことはけっしてありえないし、まして、四億五千万の人口をもつトルコがうまれるようなことは、けっしてゆるされはしない。中国では、その特殊な条件(ブルジョア階級の軟弱性と妥協性、およびプロレタリア階級の強大さと革命の徹底性)によって、これまでトルコのようなうまい話などはなかった。一九三七年、中国の第一次大革命が失敗したのち、中国のブルジョア分子が、ケマル主義とかなんとかと騒ぎたてたことがあったではないか。だが、中国のケマルはいったいどこにいるのか。中国のブルジョア独裁と資本主義社会はいったいどこにあるのか。まして、いわゆるケマルのトルコも、最後にはイギリス、フランス帝国主義のふところに身を投ぜざるをえなくなり、日一日と半植民地に変わり、帝国主義反動世界の一部分に変わってしまったのである。こんにちの国際環境にあっては、植民地、半植民地のどのような英雄豪傑たちも、帝国主義戦線の側にたって世界反革命勢力の一部分となるか、反帝国主義戦線の側にたって世界革命勢力の一部分となるかである。かならず両者のどちらかであって、それ以外に道はない。
 国内環境からいえば、中国のブルジョア階級は必要な教訓をくみとったはずである。大ブルジョア階級をかしらとする中国のブルジョア階級は、一九二七年の革命がプロレタリア階級、農民およびその他の小ブルジョア階級の力によって勝利したばかりのときに、これらの人民大衆を足げにして、革命の成果をひとりじめにし、しかも、帝国主義および封建勢力と反革命の同盟を結ぶとともに、あらんかぎりの力をふりしぼって、十年にわたる「共産党討伐」の戦争をおこなった。ところが、その結果はどうであったか。いまは強大な敵がわが国土ふかく侵入し、抗日戦争がすでに二年もたたかわれたあとであるのに、それでもなお、欧米ブルジョア階級の、もはや時代おくれになったふるいきまりを踏襲しようとでも考えているのだろうか。以前の「共産党討伐十年」もブルジョア独裁の資本主義社会などは「討《う》ち」ださなかったのに、それでもなお、もう一度ためしてみようとでも考えているのだろうか。たしかに、「共産党討伐十年」は「一党独裁」を「討ち」だしはしたが、それは半植民地的、半封建的な独裁であった。しかも、「共産党討伐」四年(一九二七年かち一九三一年の「九・一八」まで)ののちにはすでに「満州国」を「討ち」だし、さらに六年たった一九三七年には、日本帝国主義を中国中心部に「討ち」いらせてしまった。もしだれかが、いまからさらに十年にわたる「討伐」をやろうとするなら、それはふるいものとは多少のちがいがあって、すでに新しい「共産党討伐」の典型である。ところが、その新しい「共産党討伐」事業を、足はやにぬけがけして勇ましくも買ってでた人物があらわれたではないか。汪精衛がそれだ。かれはすでに名声とどろく新しい型の反共の人物である。その仲間にはいりたいというなら、それもよかろう。だが、そうなると、やれブルジョア独裁だ、やれ資本主義社会だ、やれケマル主義だ、やれ近代国家だ、やれ一党独裁だ、やれ一つの主義だなどという節まわしは、歌うのもますます体裁がわるくなりはしないか。もし、汪精衛の仲間にはいらなくても、抗日の仲間にはいろうとしながら、抗日戦争が勝利したあかつきに、抗日人民を足げにして、自分だけで抗日の成果をひとりじめにし、「一党独裁万歳」をやろうと考えるなら、それも夢のようなものではないだろうか。抗日、抗日、それはだれの力によるのか。労働者、農民およびその他の小ブルジョア階級をはなれては、一歩も動けるものではない。それでも、あえてかれらを足げにしようものなら、こっぱみじんにされてしまう。これまた、常識とされていることではないだろうか。ところが、中国のブルジョア頑迷《がんめい》派(わたしのいっているのは頑迷派のことだ)は、二十年このかた、なんの教訓もくみとっていないようである。かれらは、いまだに「共産党制限」とか、「共産党溶解」とか、「共産党反対」とか、わめきたてているではないか。かれらは「異党活動制限措置法」のあと、また「異党問題処理規程」をもちだし、さらに「異党問題処理実施方案」をもちだしているではないか。大したものだ。このように「制限」し「処理」していって、かれらはいったい民族の運命をどこにおき、また、自分自身をどこにおこうとしているのか。われわれは誠心誠意これらの諸先生にご忠告申しあげる。あなたがたもよく目をあげて中国と世界をみ、国内と国外をみ、いまがどんな情勢であるかをみるべきであり、あなたがたのあやまりを、これ以上くりかえしてはいけない。これ以上あやまりをつづけるなら、民族の運命に災いがふりかかるのはもちろん、あなたがた自身のこともうまくいかないだろう。中国のブルジョア頑迷派が目ざめないなら、かれらのことはかんばしくいかず、かれらは自滅の道をもとめることになるだろう。これは、はっきりしたことであり、きまりきったことであり、たしかなことである。したがって、われわれは、中国の抗日統一戦線が堅持されるよう希望する。ひとりで独占するのではなく、みんなで協力して、抗日の事業を勝利させること、これが上策であり、それ以外はすべて下策である。これがわれわれ共産党員の心からの忠告であり、「あらかじめ言わざりしというなかれ」である。
 中国のふるいことばに、「飯があれば、みんなでたべよう」というのがある。これは、まことに道理がある。敵があればみんなでたたかうのだから、飯があればみんなでたべ、仕事があればみんなでやり、本があればみんなで読むのが当然である。「ひとりじめ」とか、「指一本ささせぬ」とかいう気負った態度は、封建領主のお家芸でしかなく、二〇世紀の四十年代にはとうてい適用しないものである。
 われわれ共産党員は、いかなる革命的な人びとをもけっして排斥するものではない。われわれは、あくまでも抗日をやりぬこうとするすべての階級、階層、政党、政治団体および個人とともに、統一戦線を堅持し、長期協力を実行する。だが、ひとが共産党を排斥しようとするなら、それはゆるされない。ひとが統一戦線を分裂させようとするなら、それはゆるされない。中国はどうしても抗戦し、団結し、進歩していかなければならない。投降し、分裂し、後退しようとするものがあれば、われわれはだまっているわけにはいかない。

八 「左」翼空論主義を反ばくする

 ブルジョア独裁の資本主義の道をあゆまないとすれば、プロレタリア独裁の社会主義の道をあゆんでよいのだろうか。
 それもできない。
 疑いもなく、いまの革命は第一歩であって、将来は第二歩に発展し、社会主義に発展する。中国が真の幸福な時代になるには、やはり社会主義の時代にはいる以外にない。だが、いまはまだ社会主義を実行するときではない。中国のいまの革命の任務は反帝・反封建であり、この任務が達成されないうちは、社会主義など問題にならない。中国革命は二歩にわけてあゆまなくてはならず、その第一歩は新民主主義であって、社会主義は第二歩である。しかも、第一歩の期間はかなり長く、けっして一朝一夕に達成されるものではない。われわれは空想家ではなく、当面している実際の条件からはなれることはできない。
 悪意をもった一部の宣伝家は、この二つのちかった革命段階をわざと混同して、「一回革命論」というものをとなえ、どんな革命も三民主義のなかにふくまれ、共産主義は存在の理由がなくなったことを証明しようとしている。また、このような「理論」によって、やっきになって共産主義と共産党に反対し、八路軍、新四軍および陝西《シャンシー》・甘粛《カンスー》・寧夏《ニンシァ》辺区に反対している。その目的は、どんな革命をも根こそぎに消滅し、ブルジョア民主主義革命の徹底性に反対し、抗日の徹底性に反対して、日本侵略者に投降するための世論を準備することにある。このような状況は、日本帝国主義が計画的につくりだしたものである。日本帝国主義は、武漢《ウーハン》を占領してのち、武力だけでは中国を屈服させることができないのを知って、政治攻勢と経済誘惑に着手したのである。政治攻勢とは、抗日陣営の内部で動揺分子を誘惑し、統一戦線を分裂させ、国共合作を破壊することである。経済誘惑とは「合弁企業」なるものである。日本侵略者は、華中と華南では日本資本を四九パーセントにして、中国の資本家に五一パーセントの投資をゆるし、華北では日本資本を五一パーセントにして、中国の資本家に四九パーセントの投資をゆるしている。日本侵略者は、また、中国の資本家のもとからもっていた企業を返還し、それを換算して資本にあてることをゆるしている。こうなると、良心のひとかけらさえない若干の資本家は、利益に目がくらんで正義をわすれ、いまにもとびつこうとしている。汪精衛に代表される一部の資本家は、すでに投降してしまった。抗日陣営のなかに身をひそめている他の一部の資本家も、とびだそうとしている。しかし、かれらは、共産党にそのゆく手をはばまれはしないか、それにもまして、民衆から民族裏切り者呼ばわりされはしないかと、うしろめたい気持ちでびくびくしている。そこで、かれらはぐるになって会議をひらき、あらかじめ文化界や言論界で下準備することを決議した。術策がきまった以上、事はいそげとばかり、何人かの玄学亡者〔9〕をやといいれ、それにトロツキーを何人かくわえ、仰々しく筆陣をはって、やたらにわめきたて、めくら滅法に攻撃をしかけてきた。こうして、「一回革命論」とか、共産主義は中国の国情にあわないとか、共産党は中国では存在の必要がないとか、八路軍や新四軍は抗日を破壊し、遊して撃せずとか、陝西・甘粛・蜜夏辺区は封建割拠だとか、共産党はいうことを聞かず、統一をこばみ、陰謀をたくらみ、攪乱《かくらん》をくわだてているとかならべたてて、世事にうとい人たちをだましている。これは時機がきたら、資本家たちがもっともらしく四九パーセントあるいは五一パーセントを手にいれ、全民族の利益をすっかり敵に売りわたせるようにするためである。これこそ中味のすりかえというもので、投降するまえの思想の準備、または世論の準備をしているのである。これらの諸先生は、いかにもまことしやかに「一回革命論」をとなえ、共産主義と共産党に反対しているが、それは、ほかでもなく、もっぱら四九パーセントか五一パーセントのためであって、その苦心たるや並み大抵ではない。「一回革命論」とは、これ革命不用論なりで、これこそが問題の本質である。
 だが、そのほかにも、まだ一部につぎのような人たちがいる。かれらはべつに悪意はないようだが、やはりこの「一回革命論」なるものにまどわされ、「政治革命と社会革命を一挙に成功させる」といったまったく主観的な考え方にまどわされている。革命には段階があり、ある革命から他の革命にうつりうるだけで、「一挙に成功させる」といったものはないことをかれらは知らない。このような観点は、革命の段どりを混同し、当面の任務にたいする努力をよわめるもので、やはりひじょうに有害である。もし二つの革命段階のうち第一は第二のために条件を準備するものであり、二つの段階はかみあわせるべきで、そのあいだにブルジョア独裁の段階をさしはさむのをゆるさないというならば、それは正しいのであり、マルクス主義の革命発展論である。だが、もし民主主義革命にはそれ自身としての一定の任務も一定の時期もなくて、別の時期でなければ達成されない別の任務、たとえば、社会主義の任務を、この民主主義の任務といっしょにして達成できるとし、そのことを「一挙に成功させる」というならば、それこそ空想であって、真の革命家のとるところではない。

 九 頑迷派に反ばくする

 すると、ブルジョア頑迷派がとびだしてきていう。よろしい、きみたち共産党は社会主義の社会制度をあとの段階におしやったし、きみたちはまた、「三民主義は中国がこんにち必要とするものであり、わが党はその徹底的実現のために奮闘するものである」〔10〕とも宣言したのだから、共産主義をしばらくひっこめたらよかろう、と。このような議論は、いわゆる「一つの主義」という題目のもとで、身の程しらずのさわぎ方にまで変わってきている。こうしたさわぎ方は、その本質において頑迷分子たちのブルジョア専制主義である。だが、すこし遠慮して、それを常識のまったくないものだといってもよい。
 共産主義はプロレタリア階級の全思想体系であると同時に、また新しい社会制度でもある。このような思想体系と社会制度は、他のいかなる思想体系、他のいかなる社会制度ともちがうもので、人類の歴史はじまっていらい、もっとも完全な、もっとも進歩した、もっとも革命的な、もっとも合理的なものである。封建主義の思想体系と社会制度は、すでに歴史博物館にはいっている。資本主義の思想体系と社会制度も、一部ではすでに博物館にはいっているが(ソ連では)、他の部分でも、すでに「日は西山にせまり、気息奄《えん》々、生命も危うく、朝《あした》に夕《ゆうべ》をはかりがたし」であって、まもなく博物館入りするであろう。ただ、共産主義の思想体系と社会制度だけがいままさに天地をくつがえす勢い、万雷のとどろく力で、全世界にひろがり、そのうるわしい青春をたもっている。中国が科学的共産主義をもつようになってから、人びとの視野がひらけ、中国革命もその面目を一新した。中国の民主主義革命は、共産主義にみちびかれなければ、けっして成功するものではないし、革命のつぎの段階についてはなおさらいうまでもない。これはブルジョア頑迷派があのようにさわぎたて、共産主義を「ひっこめろ」と要求している理由でもある。実際には、これは「ひっこめ」てはならないもので、ひっこめれば中国は滅亡する。現在の世界は共産主義を救いの星としている。現在の中国もまさにそうである。
 周知のように、共産党は、社会制度についての主張で、現在の綱領と将来の綱領、あるいは最低綱領と最高綱領という二つの部分をもっている。現在では新民主主義、将来では社会主義、これは有機的構成の三つの部分であって、共産主義の全思想体系によってみちびかれるのである。共産党の最低綱領が三民主義の政治原則と基本的におなじだからといって、共産主義を「ひっこめろ」とわめきたてるのは、まったくでたらめもはなはだしいではないか。共産党員にとっては、三民主義の政治原則に自分たちの最低綱領と基本的におなじ点があるからこそ、「三民主義を抗日統一戦線の政治的基礎とする」と認めることができ、また「三民主義は中国がこんにち必要とするものであり、わが党はその徹底的実現のために奮闘するものである」と認めることができるのである。さもなければ、そのような可能性はない。これが民主主義革命の段階での共産主義と三民主義の統一戦線であり、孫中山が「共産主義は三民主義のよき友である」といった〔11〕のも、まさしくこのような統一戦線をさしているのである。共産主義を否定することは、実際には統一戦線を否定することである。頑迷派も、まさにその一党主義を実行して統一戦線を否定しようとするからこそ、共産主義を否定するでたらめな論法をもちだしたのである。
 「一つの主義」もすじがとおらない。階級が存在する条件のもとでは、階級の数だけ主義があり、それどころか一つの階級のなかの各集団にさえ、それぞれの主義がある。いま、封建階級には封建主義があり、ブルジョア階級には資本主義があり、仏教徒には仏教主義があり、キリスト教徒にはキリスト主義があり、農民には多神教主義がある。近年は、ケマル主義だとか、ファシズムだとか、唯生主義〔12〕だとか、「労働に応じて分配する主義」〔13〕だとかをとなえるものがいるのに、どうしてプロレタリア階級に共産主義があってはいけないのか。このように数えきれないほどの主義があるのに、どうして共産主義とみれば大声で「ひっこめろ」とさけぶのか。卒直にいって、「ひっこめる」ことはできない。やはり競争しようではないか。競争して共産主義をうち負かすものがあれば、われわれ共産党員も、みずから不運とあきらめよう。もしそうでないならば、あの「一つの主義」という反民権主義的な作風こそ、さっさと「ひっこめ」てもらいたい。
 誤解をさけ、また頑迷派の目をみひらかせるために、三民主義と共産主義のちがう点とおなじ点について、はっきり指摘する必要がある。
 三民主義と共産主義のこの二つの主義を比較してみると、おなじ部分もあるが、またちがう部分もある。
 第一、おなじ部分。中国のブルジョア民主主義革命の段階における二つの主義の基本的政治綱領がそれである。一九二四年に、孫中山があちたに解釈をくだした三民主義のなかの革命的な民族主義、民権主義、民生主義という三つの政治原則は、中国の民主主義革命の段階における共産主義の政治綱領と基本的におなじである。こうしたおなじ点があるため、また三民主義を実行にうつしたことによって、二つの主義、二つの党の統一戦線がうまれたのである。この面を無視するのはあやまりである。
 第二、ちがう部分はつぎの点である。(一)民主主義革命の段階における一部の綱領の相違。民主主義革命における共産主義の全政治綱領のなかには、人民の権力の徹底的実現、八時間労働制および徹底した土地革命綱領があるが、三民主義にはこれらの部分がない。もし三民主義がこれらの部分を補足せず、しかもそれを実行しようとしないならば、それは民主主義の政治綱領にたいして、基本的におなじであるだけで、まったくおなじだとはいえない。(二)社会主義革命の段階があるかないかのちがい。共産主義には、民主主義革命の段階のほかに、もう一つ、社会主義革命の段階がある。したがって、最低綱領のほかにもう一つ、最高綱領、すなわち社会主義と共産主義の社会制度を実現する綱領がある。三民主義には民主主義革命の段階があるだけで、社会主義革命の段階はない。したがって、それは最低綱領があるだけで、最高綱領、すなわち社会主義と共産主義の社会制度をうちたてる綱領はない。(三)世界観のちがい。共産主義の世界観は弁証法的唯物論と史的唯物論であるが、三民主義の世界観はいわゆる民生史観で、実質的には、二元論または観念論であって、両者はあい反している。(四)革命の徹底性のちがい。共産主義者は理論と実践が一致している。すなわち革命の徹底性をもっている。三民主義者は、革命と真理にもっとも忠実な一部の人をのぞいては、理論と実践が一致していず、いうこととすることが相互に矛盾じている。すなわち革命の徹底性をもっていない。以上のべた点は、いずれも両者のちがう部分である。こうしたちがいから、共産主義者と三民主義者のあいだには差異がでてくるのである。このような差異を無視し、ただ統一の面だけをみて、矛盾の面をみないならば、疑いもなく非常なあやまりである。
 これらの点がわかれば、ブルジョア頑迷派が共産主義を「ひっこめろ」と要求することがどんな意味をもつかがわかる。それはブルジョア専制主義か、さもなければ、常識のまったくないものである。

 一〇 旧三民主義と新三民主義

 ブルジョア頑迷派は、歴史の変化をまったく知らず、その知識の貧弱なことはほとんどゼロにひとしい。かれらは、共産主義と三民主義のちがいも知らなければ、新三民主義と旧三民主義のちがいも知らない。
 われわれ共産党員は、「三民主義を抗日民族統一戦線の政治的基礎とする」ことをみとめ、「三民主義は中国がこんにち必要とするものであり、わが党はその徹底的実現のために奮闘するものである」ことをみとめ、共産主義の最低綱領が三民主義の政治原則と基本的におなじであることをみとめている。ところで、その三民主義とはどのような三民主義のことなのか。その三民主義とは、孫中山先生が「中国国民党第一回全国代表大会宣言」のなかであるたに解釈をくだした三民主義のことで、それ以外のいかなる三民主義でもない。頑迷派の諸先生にも「限共」「溶共」「反共」などの活動に得意満面になっているひまに、ひとつこの宣言を読んでもらいたい。もともと、孫中山先生はこの宣言のなかで、「国民党の三民主義についての真の解釈はかくのごとくである」といっている。このことから、この三民主義だけが真の三民主義であって、その他はすべてにせの三民主義であることがわかる。「国民党第一回全国代表大会宣言」のなかの三民主義についての解釈だけが「真の解釈」であって、他のすべてはにせの解釈である。これは共産党の「デマ」ではあるまい。わたしも多くの国民党員も、この宣言の採択されたのを目のあたりにみたのである。
 この宣言によって、三民主義は二つの歴史的時期にわけられた。それよりまえの三民主義は、ふるい範疇の三民主義であり、ふるい、半植民地のブルジョア民主主義革命の三民主義であり、旧民主主義の三民主義であり、旧三民主義であった。
 それよりあとの三民主義は新しい範疇の三民主義であり、新しい、半植民地のブルジョア民主主義革命の三民主義であり、新民主主義の三民主義であり、新三民主義である。新しい時期の革命の三民主義は、この三民主義以外にはない。
 このような新しい時期における革命の三民主義、新三民主義あるいは真三民主義は、連ソ、連共、農労援助という三大政策をもつ三民主義である。三大政策がなければ、あるいはそのうちの一つでも欠ければ、新しい時期においては、にせ三民主義か、または半三民主義である。
 第一に、革命の三民主義、新三民主義、あるいは真三民主義は、連ソの三民主義でなければならない。いまの事態は非常にはっきりしていて、もし連ソ政策がなく、社会主義国と連合しないならば、必然的に連帝政策になり、必然的に帝国主義と連合することになる。すでに一九二七年以後にも、こうしたことがあったではないか。社会主義のソ連と帝国主義とのあいだの闘争がさらに先鋭化してくると、中国はこちらに立つか、さもなければあちらに立つことになり、これは必然のなりゆきである。つかずかたよらずにはいられないだろうか。それは空想である。全地球がこの二つの戦線にまきこまれていくのだから、これからの世界で、「中立」とはごまかしのことばにすぎない。まして、中国は国土ふかく侵入してきた帝国主義とたたかっているので、ソ連の援助がなければ最後の勝利など考えられない。もし連ソをすてて連帝するなら、反動的な三民主義に変わり、「革命」の二字を取り消さなければならない。帰するところ、革命の三民主義か、または反革命の三民主義があるだけで、「中立」の三民主義はない。もし、汪精衛が以前いったとおり「はさみうちのなかの奮闘」〔14〕をやり、「はさみうちのなかで奮闘」する三民主義をやるなら、なんと勇ましいことではないか。だが、惜しいことに、発明者の汪精衛さえも、そのような三民主義をすてて(あるいは「ひっこめ」て)、いまでは連帝の三民主義をとるようになった。もし帝国主義にも東帝と西帝の別があり、かれの連合するのが東帝で、自分はそれとは逆に一連の西帝と連合し、東にむけて攻撃する、というなら、これまたなんと革命的ではないか。だが、残念ながら、西帝たちは反ソ反共をやろうとしており、きみがかれらと連合すれば、北にむけて攻撃することをもとめてくるから、革命しようにもできなくなってしまうのである。こうしたすべての事情は、革命の三民主義、新三民主義あるいは真三民主義が、帝国主義と連合する反ソの三民主義であってはならず、連ソの三民主義でなければならないことを規定している。
 第二に、革命の三民主義、新三民主義、あるいは真三民主義は、連共の三民主義でなければならない。連共しなければ、反共することになる。反共は日本帝国主義と汪精衛の政策である。反共するなら、それも結構だ、そうすればかれらはその反共会社に加入をもとめてくるだろう。だが、それでは、いささか民族裏切り者の疑いがかかりはしまいか。自分は日本にはつかず、他の国についていくだけだ、という。それもこっけいな話だ。だれについていこうと、反共をやるかぎり、もう抗日はできなくなるから、民族裏切り者になってしまう。自分は独立で反共する、という。それも寝言である。植民地、半植民地の英雄たちで、帝国主義の力にたよらずに、このような反革命の大事業をしでかせるものがいるだろうか。かつて全世界の帝国主義の力をほとんど動員して、十年ものあいだ反対しながら、反対しされなかった共産党に、いまいきなり「独立」で反対できるだろうか。外部では一部の人たちのあいだで、「反共は結構だが、反対しきれない」といわれているとのことである。もしこうしたうわさがうそでなければ、このことばは半分だけまちがっている。「反共」がどうして「結構」なはずがあろうか。だが、半分はあたっている。「反共」といっても、じっさいには「反対しきれない」。その原因は、共産党にあるのではなく、基本的には民衆にある。なぜなら、民衆は「共」をこのむが、「反」はこのまないからである。民衆は、けっして容赦しないもので、民族の敵が国土ふかく侵入しているときに反共などしようものなら、かれらはそれを生かしてはおかない。これはきまりきったことであって、反共するものは、だれでもこなごなにされるつもりでいなければならない。もし、こなごなになる覚悟をしていなければ、たしかに反対などしない方がよいだろう。これが、すべての反共の英雄たちにたいするわれわれの心からの忠告である。このことから、はっきりしすぎるほどはっきりしているように、こんにちの三民主義は連共の三民主義でなければならず、さもなければ三民主義は滅亡する。これは三民主義の存亡にかかわる問題である。連共すれば三民主義は存続し、反共すれば三民主義は滅亡する。そうではないと、だれが証明できようか。
 第三に、革命の三民主義、新三民主義、あるいは真三民主義は、農労政策をもつ三民主義でなければならない。農労政策をとらず、農労援助に誠意をしめさず、「総理遺言」の「民衆をよびさます」ことを実行しないなら、それこそ革命を矢敗させようとするものであり、また自己を失敗させようとするものでもある。スターリンは、「民族問題とは、実質的には農民問題である」といっている〔15〕つまり、中国革命は実質的には農民革命であり、現在の抗日は実質的には農民の抗日だということである。新民主主義の政治とは、実質的には農民に権力をあたえることである。新三民主義、真三民主義とは、実質的には農民革命主義である。大衆文化とは、実質的には農民の文化をたかめることである。抗日戦争とは、実質的には農民戦争である。いまは「山のぼり主義」〔16〕のときで、会議、執務、授業.新聞発行、著述、演劇はみな山のうえでおこなわれており、実質的にはすべて農民のためである。抗日のすべて、生活のすべてが、実質的には農民からあたえられている。「実質的」というのは基本的ということであって、その他の部分を無視することではない。これはスターリン自身が説明していることである。中国では人口の八○パーセントが農民であって、このことは小学生の常識である。だから、農民問題が中国革命の基本問題となっており、農民の力は中国革命の主要な力である。農民のほかに、中国の人口で第二位をしめるのは労働者である。中国には産業労働者が数百万、手工業労働者と農業労働者が数千万いる。各種の工業労働者は工業経済の生産者であるから、かれらがなければ中国は生活していけない。近代工業の労働者階級は中国革命の指導者であり、もっとも革命性にとんでいるから、かれらがなければ革命は勝利できない。このような事情のもとで、革命の三民主義、新三民主義、あるいは真三民主義は、かならず農労政策をもつ三民主義でなければならない。農労政策をもたず、農労援助に誠意をしめさず、「民衆をよびさます」ことを実行しないような三民主義があるとすれば、それはかならず滅亡するにちがいない。
 これによってわかるように、連ソ、連共、農労援助の三大政策からはなれた三民主義は、前途のないものである。すべての良心的な三民主義者は、この点をまじめに考えなければならない。
 このような三大政策をもつ三民主義、革命の三民主義、新三民主義、真三民主義は新民主主義の三民主義であり、旧三民主義の発展であり、孫中山先生の大きな功績であり、中国革命が社会主義世界革命の一部分となった時代にうまれたものである。中国共産党が、「中国がこんにち必要とする」ととなえ、「その徹底的実現のために奮闘するものである」と宣言しているのは、このような三民主義だけである。中国共産党の民主主義革命の段階における政治綱領、すなわちその最低綱領と基本的におなじなのは、このような三民主義だけである。
 旧三民主義についていえば、それは中国革命のふるい時期の産物である。当時のロシアは帝国主義のロシアであったから、もちろん連ソ政策はありえなかった。当時は国内に共産党もなかったから、もちろん連共政策もありえなかった。当時は労農運動も、政治面でのその重要性を十分にあらわしておらず、まだ人びとの注意もひいていなかったから、もちろん労働者、農民と連合する政策もなかった。したがって一九二四年、国民党が改組されるまでの三民主義は、ふるい範疇の三民主義であり、時代おくれの三民主義であった。それを新三民主義に発展させなければ、国民党は前進できなかった。聡明な孫中山はこの点をみてとり、ソ連と中国共産党の助力をえ、三民主義にあらたな解釈をくだして、ついに新しい歴史的特徴をもたせ、三民主義と共産主義との統一戦線をうちたて、第一次国共合作をうちたて,全国人民の共鳴をえて、一九二四年から一九二七年にかけての革命をおこなったのである。
 旧三民主義は、ふるい時期には革命的であり、ふるい時期の歴史的特徴を反映していた。だが、新しい時期になって、新三民主義が確立されたのちにもまだそのふるいやり方をくりかえし、社会主義国が出現したのちにも連ソに反対し、共産党ができたのちにも連共に反対し、また、労働者、農民がすでに自覚をもち自己の政治的威力をあらわしたのちにも、農労政策に反対するなら、それこそ時勢をわきまえない反動的なものである。一九二七年以後の反動化は、時勢をわきまえなかったことの結果である。ことわざに「時勢をわきまえるものは俊傑なり」という。こんにちの三民主菱者にこのことばを銘記してもらいたいものである。
 もしもふるい範疇の三民主義であれば、それはふるい時期のものであり、すでに時代おくれのものであるから、共産主義の最低綱領とはなんら基本的におなじような点がない。もしも反ソ、反共、反農労の三民主義というものがあるとすれば、それは反動的な三民主義であり、共産主義の最低綱領とはいささかもおなじ点がないばかりか、共産主義の敵であり、すべては問題にならない。この点も、三民主義者がひとつ慎重に考えるべきである。
 だがいずれにしても、反帝・反封建の任務が基本的に達成されるまでは、新三民主義はすべての良心的な人びとから見すてられることはない。それを見すてるのは、あの汪精衛とか李精衛とかいったたぐいだけである。汪精衛、李精衛らがどんなにやっきになって反ソ、反共、反農労といったにせ三民主義をやろうとしても、孫中山の真三民主義をまもりつづけようとする良心的な、正義感をもった人びとが、おのずからあらわれるにちがいない。一九二七年の反動化ののちも、多くの真三民主義者は中国革命のためにたたかいつづけてきたのだから、民族の敵が国土ふかく侵入しているこんにち、そういう人は疑いもなく何千何万にものぼるだろう。われわれ共産党員は、すべての誠実な三民主義者と終始、長期協力をおこなうものであり、あの民族裏切り者や死んでも変わらない反共分子のほかは、どんな友人をもけっして見すてることはない。

 一一 新民主主義の文化

 以上で、新しい時期における中国政治の歴史的特徴について説明し、新民主主義共和国の問題について説明した。つぎに文化の問題にすすむことにしよう。
 一定の文化は、一定の社会の政治と経済がイデオロギーに反映したものである。中国には帝国主義的文化があり、それは中国にたいする帝国主義の政治上、経済上の支配、あるいは半支配を反映したものである。こうした文化は、帝国主義が中国で直接経営している文化機関のほかに、一部の恥しらずな中国人によっても提唱されている。奴隷化思想をふくんだすべての文化は、この部類にはいる。中国にはまた半封建的文化がある。それは半封建的政治と半封建的経済を反映したものであり、孔子をたっとび四書五経を読むことを主張し、旧倫理と旧思想を提唱し、新文化、新思想に反対する人びとは、みなこの部類の文化を代表するものである。帝国主義的文化と半封建的文化は非常に親密な兄弟であり、文化の面で反動同盟を結び、中国の新文化に反対している。この部類の反動文化は、帝国主義と封建階級に奉仕するものであり、うちたおされるべきものである。こういうものをうちたおさなければ、どんな新文化もうちたてられない。破らなければ立たず、塞《せ》きとめなければ流れず、止《とど》めなければ進まない。両者の闘争は生死をかけた闘争である。
 新文化についていえば、イデオロギーのうえで新政治と新経済を反映したものであり、新政治と新経済に奉仕するものである。
 すでに第三節でのべたように、中国に資本主義経済がうまれてから、中国の社会はしだいにその性質を変えており、封建経済がまだ優位をしめてはいるが、それは完全な封建社会ではなく、半封建社会に変わっている。このような資本主義経済は、封建経済にとっては新経済である。このような資本主義の新経済と同時に発生し発展している新しい政治勢力が、ブルジョア階級、小ブルジョア階級およびプロレタリア階級の政治勢力である。そしてイデオロギーのうえでこのような新しい経済勢力と新しい政治勢力を反映し、それらに奉仕するものが、新文化である。資本主義経済がなければ、またブルジョア階級、小ブルジョア階級およびプロレタリア階級がなければ、そしてこれらの階級の政治勢力がなければ、いわゆる新しいイデオロギーも、いわゆる新文化も発生のしようがない。
 新しい政治勢力、新しい経済勢力、新しい文化勢力は、いずれも中国の革命勢力であって、旧政治、旧経済、旧文化に反対するものである。これらのふるいものは二つの部分からなっており、一つは中国自身の半封建の政治、経済、文化、もう一つは、帝国主義の政治、経済、文化で、後者を盟主としている。これらはすべてわるいものであり、徹底的に破壊すべきものである。中国社会における新旧の闘争とは、人民大衆(革命的諸階級)という新勢力と帝国主義および封建階級という旧勢力のあいだの闘争である。このような新旧の闘争は、とりもなおさず革命と反革命の闘争である。このような闘争は、アヘン戦争からかぞえて、ちょうど百年をへており、辛亥革命からかぞえても、ほぼ三十年になる。
 しかし、まえにのべたように、革命にも新旧の別があり、ある歴史的時期には新しかったものでも、別の歴史的時期にはふるくなってしまう。中国のブルジョア民主主義革命の百年は、まえの八十年とあとの二十年の二つに大きく区切られる。この二つの大きな時期には、それぞれ歴史的性質をもった基本的な特徴がある。すなわちまえの八十年間では、中国のブルジョア民主主義革命はふるい範疇にぞくし、あとの三十年間では、国際的、国内的政治情勢の変化によって新しい範疇にぞくするようになった。旧民主主義――これがまえの八十年の特徴である。新民主主義――これがあとの二十年の特徴である。このようなちがいは政治のうえでもそうであるし、文化のうえでもそうである。
 では、文化の面でこのちがいはどのようにあらわれているか。これが、つぎに説明する問題である。

 一二 中国文化革命の歴史的特徴

 中国の文化戦線または思想戦線においては、「五・四」以前と「五・四」以後とが、三つの異なった歴史的時期をなしている。
 「五・四」以前には、中国の文化戦線での闘争は、ブルジョア階級の新文化と封建階級の旧文化との闘争であった。「五・四」以前の学校と科挙の争い〔17〕、新学と旧学の争い、洋学と漢学の争いは、いずれもこのような性質をもっていた。当時のいわゆる学校、新学、洋学は、基本的にはいずれも、ブルジョア階級の代表者たちが必要としていた自然科学とブルジョア社会・政治学説であった(基本的にというのは、そのなかになお中国の封建的余毒がたくさんまじっていたことである)。当時、このようないわゆる新学の思想は、中国の封建思想とたたかう革命的な役割をもち、ふるい時期の中国のブルジョア民主主義革命に奉仕するものであった。ところが、中国のブルジョア階級が無力であったことと世界がすでに帝国主義の時代にはいっていたことによって、このようなブルジョア思想は、出陣して数合のうち合いをみただけで、外国帝国主義の奴隷化思想と中国封建主義の復古思想との反動同盟によって撃退されてしまい、いわゆる新学はこの思想上の反動同盟軍のちょっとした反撃に、たちまち旗をまいて、なりをしずめ、退却を宣し、魂も消しとび、わずかにその形骸《けいがい》を残すのみとなった。ふるいブルジョア民主主義文化は、帝国主義の時代にあっては、すでに腐敗し無力化しており、その敗北は必然的である。
 「五・四」以後になると、そうではない。「五・四」以後には、中国にまったく新しい文化の新鋭軍がうまれた。それが中国共産党員の指導する共産主義の文化思想、すなわち共産主義の世界観と社会革命論である。五・四運動がおこったのは一九一九年であり、中国共産党がうまれ、労働運動がほんとうにはじまったのは一九二一年であって、いずれも第一次世界大戦と十月革命ののち、すなわち民族問題と植民地革命運動が世界的にこれまでの面目を一新したときである。ここに中国革命と世界革命の結びつきが非常にはっきりとあらわれている。中国の政治の新鋭軍、すなわち中国のプロレタリア階級と中国共産党が、中国の政治舞台に登場したことによって、この文化の新鋭軍も、新しいいでたちで新しい武器をとり、すべての可能な同盟軍と連合して、自己の陣列を張り、帝国主義的文化と封建的文化にたいして勇敢な攻撃をくりひろげた。この新鋭軍は社会科学の分野や文学芸術の分野で、哲学、経済学、政治学、軍事学、歴史学、文学、芸術(演劇、映画、音楽、彫刻、絵画の別なく)のいずれをとわずきわめて大きな発展をとげた。三十年らいこの文化の新軍のほこ先の向かうところ、思想から形式(文字など)にいたるまで、巨大な革命をおこさないものは一つとしてなかった。その気勢のすさまじさ、その威力のはげしさは、まさに向かうところ敵なしであった。その動員の広さは、中国の歴史上のいかなる時代をもこえた。そして魯迅《ルーシュイン》が、この文化の新軍のもっとも偉大な、もっとも勇敢な旗手であった。魯迅は中国の文化革命の主将であり、かれは偉大な文学者であったばかりでなく、偉大な思想家、偉大な革命家であった。魯迅の背骨はもっともかたく、かれには奴隷の根性やへつらいの態度がいささかもなかった。これは植民地、半植民地人民のもっとも貴重な性格である。魯迅は文化戦線で全民族の大多数を代表して敵陣に突入した、もっとも正しい、もっとも勇敢な、もっとも断固とした、もっとも忠実な、もっとも情熱的な、空前の民族英雄であった。魯迅の方向こそ中華民族の新文化の方向である。
 「五・四」以前には、中国の新文化は旧民主主義の性質をもった文化であり、世界ブルジョア階級の資本主義文化革命の一部分であった。「五・四」以後の中国の新文化は、新民主主義の性質をもつ文化であり、世界プロレタリア階級の社会主義文化革命の一部分である。
 「五・四」以前には、中国の新文化運動、中国の文化革命は、ブルジョア階級が指導したもので、かれらはまだ指導的役割をはたしていた。「五・四」以後、この階級のもつ文化思想は、その政治面におけるものよりもさらにおくれ、まったく指導的役割をうしない、せいぜい革命の時期に一定の程度で、同盟者となりうるだけであり、盟主の資格はプロレタリア文化思想の肩にかかってこざるをえない。これはだれも否定できない動かしがたい事実である。
 新民主主義の文化とは、人民大衆の反帝・反封建の文化であり、こんにちでは抗日統一戦線の文化である。このような文化は、他のいかなる階級の文化思想でもこれを指導することはできず、ただプロレタリア階級の文化思想、すなわち共産主義思想だけが指導できるのである。新民主主義の文化とは、一口にいって、プロレタリア階級の指導する、人民大衆の反帝・反封建の文化である。

 一三 四つの時期

 文化革命は、イデオロギーのうえで政治革命と経済革命を反映するとともにそれらに奉仕するものである。中国では、文化革命にも政治革命と同様に統一戦線がある。
 この文化革命の統一戦線は、ここ二十年らい、四つの時期にわけられる。第一の時期は一九一九年から一九二一年までの二年間、第二の時期は一九二一年から一九二七年までの六年間、第三の時期は一九三七年から一九三七年までの十年間、第四の時期は一九三七年から現在までの三年間である。
 第一の時期は、一九一九年の五・四運動から一九二一年の中国共産党創立までである。この時期は五・四運動を主要な指標としている。
 五・四運動は反帝国主義の運動であり、また反封建の運動でもあった。五・四運動のすぐれた歴史的意義は、辛亥革命ではまだみられなかった様相をおぴていたことにある。それは徹底的に、妥協なく帝国主義に反対し、徹底的に、妥協なく封建主義に反対することであった。五・四運動がこのような性質をもっていた理由は、当時、中国の資本主義経済がすでにいっそうの発展をみたこと、また当時の中国の革命的知識人が、すでにロシア、ドイツ、オーストリアの三大帝国主義国はくずれ、イギリス、フランスの二大帝国主義国は傷つき、ロシアのプロレタリア階級は社会主義国をうちたて、ドイツ、オーストリア(ハンガリー)、イタリア三国のプロレタリア階級は革命をおこなっているのを目のあたりにみて、中国の民族解放に新しい希望をいだいたことにある。五・四運動は、当時の世界革命のよびかけのもとで、ロシア革命のよびかけのもとで、またレーニンのよびかけのもとでおこったものである。五・四運動は当時のプロレタリア世界革命の一部分であった。五・四運動の時期には、中国共産党はまだなかったが、ロシア革命に賛成し、初歩的な共産主義思想をもつ知識人はすでにたくさんいた。五・四運動はそのはじめのうち、共産主義的知識人、革命的小ブルジョア知識人およびブルジョア知識人(当時の運動における右翼であった)の三つの部分からなる統一戦線の革命運動であった。その弱点は労働者、農民の参加がなく、知識人にかぎられたことにある。だが、それが六・三運動〔18〕にまで発展したときには、たんに知識層ばかりでなく、広範なプロレタリア階級、小ブルジョア階級およびブルジョア階級も参加し、全国的な革命運動になった。五・四運動でおこなわれた文化革命は、封建的文化に徹底的に反対する運動であり、中国の歴史はじまっていらい、これほど偉大な徹底した文化革命はかつてなかった。当時、旧道徳に反対して新道徳を提唱し、旧文学に反対して新文学を提唱することを文化革命の二つの大きな旗じるしとして、偉大な功績をうちたてた。この文化運動は、当時まだ労農大衆のなかにまで普及していく可能性はなかった。この文化運動は「平民文学」というスローガンを提起したが、当時の「平民」というのは、実際には、まだ都市の小ブルジョア階級とブルジョア階級の知識人、つまりいわゆる市民階級の知識人にかぎられていた。五・四運動は、思想の面でも、幹部の面でも、一九二一年の中国共産党の創立を準備し、また五・三〇運動と北伐戦争を準備した。当時のブルジョア知識人は、五・四運動の右翼であって、第二の時期にはいると、かれらのうちの大部分が敵と妥協して反動の側に立つようになった。
 第二の時期は、中国共産党の創立と五・三〇運動、北伐戦争を指標としている。この時期には、五・四運動のころの三つの階級からなる統一戦線を継続し、発展させ、農民階級を吸収し、しかも政治的にこれら諸階級の統一戦線を形成した。それが国共両党の第一次合作であった。孫中山先生が偉大であったのは、かれが偉大な辛亥革命(ふるい時期の民主主義革命ではあったが)を指導したばかりでなく、また、「世界の潮流に適し、衆人の要求に合す」ることができ、連ソ、連共、農労援助という三大革命政策を提起し、三民主義にあらたな解釈をくだし、三大政策をもつ新三民主義を確立したからでもある。このときよりまえ、三民主義は、教育界、学術界、青年層と、それほど結びついていなかった。なぜなら、それはまだ帝国主義反対のスローガンを提起していなかったし、封建社会制度反対、封建文化思想反対のスローガンも提起していなかったからである。このときよりまえ、三民主義は旧三民主義で、そのような三民主義は、一部のものが政府の権力をうばうための、つまり官職を得るためのその場かぎりの旗じるしだとみられ、純然たる政治運動の旗じるしだとみられていた。このときよりのち、三大政策をもつ新三民主義があらわれた。国共両党の合作、両党の革命的党員の努力によって、この新三民主義は全中国におしひろめられ、一部の教育界、学術界および広範な青年学生のなかにおしひろめられた。それはほかでもなく、従来の三民主義が、反帝・反封建の、三大政策をもつ、新民主主義的な三民主義に発展したからである。この発展がなければ、三民主義思想をひろめることは不可能であった。
 この時期には、このような革命の三民主義が国共両党および革命的諸階級の統一戦線の政治的基礎となり、「共産主義は三民主義のよき友」となり、二つの主義が統一戦線を結んだ。階級からいえば、それはプロレタリア階級、農民階級、都市小ブルジョア階級およびブルジョア階級の統一戦線であった。当時は、共産党の『嚮導週報』、国民党の上海『民国日報』および各地の新聞を拠点として、反帝国主義の主張をともに宣伝し、孔子をたっとび四書五経を読ませる封建教育にともに反対し、封建的なふるいよそおいの旧文学と文語文にともに反対し、反帝・反封建を内容とする新文学と口語文を提唱した。広東《コヮントン》戦争と北伐戦争では、中国軍隊のなかに反帝・反封建の思想をそそぎこんで、中国の軍隊を改造した。また、何百何千万という農民大衆のあいだに、汚職官吏打倒、土豪劣紳打倒のスローガンを提起し、偉大な農民革命闘争をまきおこした。これらのことによって、またソ連からの援助によって、北伐の勝利がかちとられたのである。ところが、大ブルジョア階級がひとたび政権の座にはいあがると、たちまちこの革命はうちきられ、新しい政治的局面に転じた。
 第三の時期は、一九二七年から一九三七年までの新しい革命の時期である。まえの時期の終わりごろ、革命陣営に変化がおこって、中国の大ブルジョア階級が帝国主義と封建勢力の反革命陣宮にうつり、民族ブルジョア階級も大ブルジョア階級に追随し、もとから革命陣営内にあった四つの階級のうち、このとき残ったのは三つ、すなわちプロレタリア階級、農民階級、その他の小ブルジョア階級(革命的知識人もふくむ)となったので、中国革命はこのとき新しい時期にはいらざるをえなくなり、中国共産党が単独で大衆を指導して、この革命をおこなうことになったのである。この時期は、一方では反革命の「包囲討伐」がおこなわれ、他方では革命が深化した時期であった。この時期には、反革命のふたとおりの「包囲討伐」、つまり軍事的「包囲討伐」と文化的「包囲討伐」がおこなわれた。同時に、革命のふたとおりの深化、つまり農村革命の深化と文化革命の深化がみられた。このふたとおりの「包囲討伐」には、帝国主義の策動のもとで、全中国と全世界の反革命勢力が動員され、その期間は十年の長さにおよび、その残酷さは世界のどこにも見られないもので、何十万という共産党員や青年学生が虐殺され、何百万という労農人民が蹂躙《じゅうりん》された。当事者からみると、共産主義と共産党をかならず「根こそぎ討伐し虐殺し」うるとおもえたらしい。だが結果は反対で、このふたとおりの「包囲討伐」はどちらも惨敗した。軍事的「包囲討伐」の結果は赤軍の北上抗日となり、文化的「包囲討伐」の結果は一九三五年の「一二・九」の青年革命運動の勃発となった。そして、このふたとおりの「包囲討伐」の共通の結果は全国人民の覚醒となった。この三つはいずれも積極的な結果である。なかでも、もっとも不思議なことは、国民党支配区内のすべての文化機関で、共産党がまったく抵抗する力のない立場におかれていたにもかかわらず、どうして文化的「包囲討伐」までが一敗地にまみれたかということである。それでもなお深く考えないでいられるだろうか。共産主義者の魯迅は、まさしくこの「包囲討伐」のなかにあって、中国の文化革命の偉人となったのである。
 反革命の「包囲討伐」の消極的結果としては、日本帝国主義が攻めこんできたことである。これこそ、全国人民がいまなお、あの十年におよぶ反共を心からにくんでいる最大の原因である。
 この時期の闘争で、革命の側は、人民大衆の反帝・反封建の新民主主義と新三民主義を堅持し、反革命の側は、帝国主義の指揮のもとに地主階級と大ブルジョア階級の同盟による専制主義をとった。この専制主義は、政治の面でも文化の面でも、孫中山の三大政策をきってすて、かれの新三民主義をきってすて、中華民族にはかりしれない災難をもたらした。第四の時期は、つまり現在の抗日戦争の時期である。中国革命の曲線運動のなかで、もういちど四つの階級による統一戦線があらわれた。しかし、その範囲はいっそうひろくなって、上層階級は多くの支配者をふくめ、中層階級は民族ブルジョア階級と小ブルジョア階級をふくめ、下層階級はすべてのプロレタリアをふくめ、全国の各階層がみな同盟者となり、日本帝国主義に断固として抵抗した。この時期の第一段階は、武漢陥落までである。このときには、全国の各方面にいきいきとした気運がみなぎって、政治のうえでは民主化の傾向があらわれ、文化のうえではかなり普遍的な動員がおこなわれた。武漢陥落以後がその第二段階で、政治状況にいくたの変化がおこり、大ブルジョア階級の一部は敵に投降し、他の一部も抗戦をはやくうちきりたいと考えるようになった。文化の面にもこの状況が反映して、葉青《イエチン》、張君[萬+力]《チャンチュィンマイ》どもの反動的活動、そして言論、出版の制限があらわれた。
 このような危機を克服するためには、抗戦に反対し団結に反対し進歩に反対するすべての思想と断固たたかわなければならず、これらの反動思想をうちやぶらなければ、抗戦の勝利はのぞめない。この闘争の将来はどうか。これは全国人民の胸中にある大間題である。国内的、国際的条件からいうと、たとえ抗戦の途上にどれほどの困難があろうとも、中国人民はけっきょく勝利する。中国の全歴史において、五・四運動以後の二十年間の進歩は、それ以前の八十年間にくらべてまさっているばかりか、それまでの数千年にくらべてもまさっている。さらに二十年の年月をへたなら、中国がどれほどまでに進歩するか想像がつくではないか。内外のすべての暗黒勢力が狂暴をほしいままにしていることから、民族の災難がもたらされてはいる。だが、こうした狂暴ぶりは、これらの暗黒勢力にまだ力があることをしめしてはいるが、かれらの最後のあがきをもしめしており、人民大衆がしだいに勝利に近づきつつあることをもしめしている。これは、中国においてそうであるばかりでなく、東方全体においてもそうであり、世界においてもそうである。

 一四 文化の性質の問題についての偏向

 すべての新しいものは苦難の闘争のなかできたえあげられるものである。新文化も同様で、この二十年間に「之」の字型に、三つの曲折をあゆみ、よいものもわるいものも、すべてためされてあきるかになった。
 ブルジョア頑迷派は、文化問題でも、政権問題のばあいと同様に完全にあやまっている。かれらは中国の新しい時期の歴史的特徴を知らず、人民大衆の新民主主義の文化をみとめない。かれらの出発点はブルジョア専制主義であり、文化の面ではブルジョア階級の文化専制主義である。一部のいわゆる欧米派の文化人〔19〕(わたしがいっているのは一部である)は、かつて実際に国民党政府の文化的「共産党討伐」を賛助し、いままた「限共」とか「溶共」とかいう政策を賛助しているようである。かれらは、労働者、農民が政治の面でたちあがるのをのぞまないし、また労働者、農民が文化の面でたちあがるのものぞまない。ブルジョア頑迷派のこの文化専制主義の道はゆきづまるもので、これには、権力問題と同様に、国内的、国際的な条件がない。したがって、このような文化専制主義は、やはり「ひっこめる」ほうがよい。
 国民文化の方針としては、指導的地位にあるのは共産主義思想であり、しかも、われわれは労働者階級のなかで社会主義と共産主義の宣伝につとめるとともに、適切に、段どりをふみ、社会主義によって農民およびその他の大衆を教育するようつとめるべきである。だが国民文化全体としては、いまのところまだ社会主義的なものではない。
 新民主主義の政治、経済、文化は、すべてプロレタリア階級に指導されているため、いずれも社会主義的要素をもっており、それも、ふつうの要素ではなく、決定的な役割をはたす要素である。しかし、政治状況全体、経済状況全体および文化状況全体についていえば、まだ社会主義的なものではなく、新民主主義的なものである。なぜなら、現段階の革命の基本任務は、まだ資本主義をくつがえすことを目標とする社会主義革命ではなく、主として外国の帝国主義と自国の封建主義に反対することであり、ブルジョア民主主義革命であるからである。国民文化の分野についていうと、現在の国民文化全体が社会主義の国民文化であるとか、あるいはそうあるべきだとか考えるのはまちがっている。それは、共産主義の思想体系の宣伝を当面の行動綱領の実践とみなすものであり、共産主義の立場と方法で問題を観察し、学問を研究し、仕事を処理し、幹部を訓練することを、中国の民主主義革命の段階における国民教育、国民文化全体の方針とみなすものである。社会主義を内容とする国民文化は、社会主義の政治と経済を反映するものでなければならない。われわれは政治面、経済面で、社会主義的要素をもっており、それが反映して、われわれの国民文化も社会主義的要素をもっている。だが社会全体からいえば、われわれは、現在、まだこうした全体としての社会主義の政治と経済を形成してはいないので、まだこうした全体としての社会主義の国民文化をもつことはできない。現在の中国革命は世界プロレタリア社会主義革命の一部分であるから、現在の中国の新文化もまた、世界プロレタリア社会主義の新文化の一部分であり、その偉大な同盟軍である。この一部分は社会主義文化の重要な要素をふくんではいるが、国民文化全体からいうと、まだ完全に社会主義文化の資格で参加しているのではなく、人民大衆の反帝・反封建の新民主主義文化の資格で参加しているのである。現在の中国革命は中国プロレタリア階級の指導からはなれることができないのだから、現在の中国の新文化も中国プロレタリア階級の文化思想の指導、すなわち共産主義思想の指導からはなれることはできない。だがこのような指導は、現段階では人民大衆の反帝・反封建の政治革命と文化革命を指導することであり、したがって、いまの新しい国民文化全体の内容は、社会主義的なものではなく、やはり新民主主義的なものである。
 現在では、疑いもなく、共産主義思想の宣伝を拡大し、マルクス・レーニン主義の学習を強化すべきであり、こうした宣伝と学習がなければ、中国革命を将来の社会主義の段階にみちびくことができないばかりか、現在の民主主義革命を勝利にみちびくこともできない。だが、われわれは、共産主義の思想体系と社会制度についての宣伝を、新民主主義の行動綱領についての実践から区別すべきであり、また、問題を観察し、学問を研究し、仕事を処理し、幹部を訓練するものとしての共産主義の理論と方法を、国民文化全体としての新民主主義の方針から区別すべきである。この両者を混同することは、疑いもなく適切でない。
 これによってわかるように、現段階の中国の新しい国民文化の内容は、ブルジョア階級の文化専制主義でもなければ、またたんなるプロレタリア階級の社会主義でもなく、プロレタリア階級の社会主義文化思想によって指導される、人民大衆の反帝・反封建の新民主主義である。

一五 民族的、科学的、大衆的な文化

 このような新民主主義の文化は民族的である。それは、帝国主義の抑圧に反対し、中華民族の尊厳と独立を主張するものである。それはわれわれの民族のものであり、われわれの民族の特性をそなえている。それはすべての他の民族の社会主義文化および新民主主義文化と連合し、たがいに吸収し発展しあう関係を樹立し、ともに世界の新文化を形成するものである。だが、われわれの文化は革命的な民族文化であるから、他のいかなる民族のものでも帝国主義反動文化とはけっして連合できない。中国は外国の進歩的な文化を自己の文化の糧《かて》の原料として大いに吸収すべきであるが、その仕事はこれまで非常に不十分であった。それには、当面の社会主義文化と新民主主義文化ばかりでなく、たとえば資本主義諸国の啓蒙時代の文化のような外国のふるい時代の文化でも、およそこんにちわれわれに役だつものはすべて吸収すべきである。だが、すべて外国のものは、われわれが食物にたいするのと同様に、それをからだに有益なものとするためには、ぜひとも自分の口で咀嚼《そしゃく》し、胃腸の運動をつうじて、それに唾液、胃液、腸液をおくり、それを粋《すい》と滓《かす》の二つに分解したうえで、滓を排泄し粋を吸収しなければならず、けっしてなまのままうのみにして無批判に吸収してはならない。いわゆる「全面的西洋化」〔20〕という主張は、まちがった観点である。外国のものを形式主義的に吸収したために、これまで中国は大きな損をした。中国の共産主義者がマルクス主義を中国に適用するばあいも同様で、マルクス主義の普遍的真理と中国革命の具体的実践を完全に適切に統一しなければならない。つまり民族的特徴と結びつけ、一定の民族的形式をつうじてこそ、役にたつのであって、けっして主観的、公式的にそれを適用してはならないのである。公式的なマルクス主義者は、マルクス主義と中国革命を茶化しているだけで、中国革命の隊列内にはかれらの席はない。中国文化は自己の形式、つまり、民族的形式をもつべきである。民族的な形式、新民主主義的な内容――これがわれわれのこんにちの新文化である。
 このような新民主主義の文化は科学的である。それは、すべての封建的思想や迷信的思想に反対し、事実にもとづいて法則性をもとめることを主張し、客観的真理を主張し、理論と実践の一致を主張する。この点で、中国プロレタリア階級の科学的思想は、中国のまだ進歩性をもっているブルジョア階級の唯物論者や自然科学者と反帝・反封建・反迷信の統一戦線をうちたてることができる。だが、いかなる反動的観念論とも統一戦線をうちたててはならない。共産党員は、政治行動のうえでは一部の観念論者、ひいては宗教徒とも、反帝・反封建の統一戦線をうちたててもよいが、かれらの観念論や宗教的教義にはけっして賛成してはならない。中国の長期にわたる封建社会では、かがやかしい古代文化が創造された。古代文化の発展の過程を整理して、封建的な滓を除去し、民主主義的な粋を吸収することは、民族の新文化をのばし、民族の自信をたかめるうえでの必要な条件である。だが、けっして無批判に、なにもかも受けいれてはならない。古代の封建的支配階級のすべての腐敗したものと、古代のすぐれた人民文化、すなわち多少とも民主主義的性質と革命的性質をもったものとを区別しなければならない。中国の現在の新政治、新経済は、古代の旧政治、旧経済から発展してきたものであり、中国の現在の新文化も古代の旧文化から発展してきたものである。したがって、われわれは、けっして歴史をたちきってはならず、自己の歴史を尊重すべきである。しかし、こうした尊重とは、昔をたたえ、今をけなすことではなく、いかなる封建的毒素をほめることでもなくて、歴史に一定の科学的地位をあたえることであり、歴史の弁証法的発展を尊重することである。人民大衆と青年学生にたいして、主要なことはかれらをうしろ向きにみちびくことではなく、まえ向きにみちびくことである。
 このような新民主主義の文化は大衆的であり、したがってそれは民主主義的である。それは全民族の九〇パーセント以上をしめる労農勤労大衆に奉仕し、またしだいにかれらの文化となるべきものである。革命的幹部にあたえる知識と、革命的大衆にあたえる知識とを、程度のうえでたがいに区別しながらたがいに結びつけ、向上と普及とをたがいに区別しながらたがいに結びつけなければならない。革命文化は、人民大衆にとっては革命の有力な武器である。革命文化は、革命のまえには革命の思想的準備であり、革命のさなかには革命の全戦線での必要な、また重要な戦線である。そして革命的な文化活動家は、この文化戦線における各級での指揮者である。「革命の理論がなければ革命の運動もありえない」〔21〕ことから、革命の文化運動が革命の実践運動にとっていかに重要性をもつかがわかる。しかも、このような文化運動と実践運動はすべて大衆的なものである。したがって、すべての進歩的な文化活動家は、抗日戦争のなかで自己の文化軍隊をもつべきであり、その軍隊とは人民大衆である。革命的な文化人でありながら、民衆に近づかなければ、それは「無兵司令官」であって、その火力では敵をうちたおすことができない。この目的を達成するには、文字は一定の条件のもとで改革しなければならず、ことばは民衆に近づけなげればならず、民衆こそ革命文化のかぎりなくゆたかな源であることを知らなければならない。
 民族的、科学的、大衆的な文化こそが、人民大衆の反帝・反封建の文化であり、新民主主義の文化であり、中華民族の新文化である。
 新民主主義の政治、新民主主義の経済が新民主主義の文化と結合したもの、これが新民主主義共和国であり、名実あいともなう中華民国であり、われわれのきずこうとする新中国である。
 新中国は人民の一人ひとりのまえに立っている。われわれはそれを迎えるべきである。
 新中国丸のマストはすでに水平線のかなたにあらわれた。われわれは拍手をもってこれを迎えるべきである。
 双手をあげよう。新中国はわれわれのものである。



〔1〕 『中国文化』は、一九四〇年一月、延安で創刊された雑誌である。『新民主主義論』は、まず、この雑誌の創刊号に発表された。
〔2〕 「政治は経済の集中的表現である」ということばは、レーニンの『労働組合、時局およびトロツキーの誤謬について』にみられる。
〔3〕 マルクスの『経済学批判』序文から引用。
〔4〕 エンゲルスの『フォイエルバッハとドイツ古典哲学の終結』の付録、マルクスの『フォイエルバッハにかんするテーゼ』第十一条にみられる。
〔5〕 スターリンの『十月革命と民族問題』から引用。
〔6〕 レーニンの『資本主義の最高の段階としての帝国主義』にみられる。
〔7〕 蒋介石が革命を売りわたしてのち国民党政府のおこなった一連の反ソ連動をさす。すなわち、一九二七年十二月十三日、国民党は広州駐在のソ連の副領事を射殺した。同月十四日、南京の国民党政府は、「対ソ国交断絶舎」をだして、中国各省におかれていたソ連領事を承認せず、中国各省にあったソ連通商機構の業務停止を命じた。一九二九年八月、蒋介石は、またも、帝国主義にそそのかされて、東北でソ連にたいする挑発をおこない、軍事衝突をひきおこした。
〔8〕 ケマルは第一次世界大戦後のトルコの商業ブルジョア階級の代表者である。第一次大戦後、イギリス帝国主義者は、その従属国ギリシアを指図して、トルコにたいする武力侵略をおこなわせた。トルコ人民は、ソ連の援助をえて、一九二二年、ギリシアの軍隊にうち勝った。一九二三年、ケマルは、トルコの大統領にえらばれた。スターリンは、「ケマル式革命は民族商業ブルジョア階級の上層革命で、外国帝国主義者との闘争のなかからうまれたが、その後の発展においては、本質上、農民と労働者に反対し、土地革命の発生を阻止するものである」といっている。スターリンの『中山大学の学生にたいする談話』を参照。
〔9〕 毛沢東同志はここで張君[萬+力]とその一味のことをいっている。五・四運動ののち、張君[萬+力]は、「精神文化」という「玄学」を鼓吹して、公然と科学に反対し、当時、「玄学亡者」といわれた。一九三八年十二月、張君[萬+力]は蒋介石の意をうけて、「毛沢東氏への公開状」を発表し、八路軍、新四軍の解消、陝西、・甘粛・寧夏辺区の解消をわめきたて、日本帝国主義と蒋介石のお先棒をかついだ。
〔10〕 一九三七年九月、中国共産党中央の発表した、国共両党の合作成立の宣言にみられる。
〔11〕 一九二四年、孫中山がおこなった「民生主義講演」第二講にみられる。
〔12〕 蒋介石集団の特務の頭目のひとりである陳立夫は、何人かの反動的なごろつきをやとって、『唯生論』というものを書かせ、悪名高い陳立夫の名で発表した。この本のなかで、かれらは、でたらめな論議をならべたてて、国民党のファシズムを鼓吹した。
〔13〕 山西地方の大地主・大買弁の代表である軍閥の闇錫山は、恥しらずにもこうしたスローガンをかかげた。
〔14〕 汪精衛は、一九二七年、革命を売りわたしたのち、「はさみうちのなかの奮闘」と題する論文を書いた。
〔15〕 一九二五年三月三十日、スターリンはコミンテルン執行委員会のユーゴスラビア委員会の会議で「ユーゴスラビアにおける民族問題について」という演説をおこなったが、そのなかでつぎのようにのべている。「……農民は民族運動の主力であり、農民軍がなければ強力な民族運動もないし、またありえない。……民族問題とは、実質的には農民問題である。」
〔16〕 共産党内で、かつて一部の教条主義者は、毛沢東同志が農村の革命根拠地を重要視したことを「山のぼり主義」とあざけった。毛沢東同志は、ここで教条主義者のこのような風刺をかりて、農村の革命根拠地の偉大な役割を説明している。
〔17〕 「学校」とは、当時、欧米の資本主義国にみならった教育制度をさす。「科挙」とは、もと中国にあった封建的試験制度をいう。一九世紀の末ごろ、中国の革新派の知識人は、科挙を廃止し、学校を創設することを主張した。
〔18〕 一九一九年の五・四愛国運動は、六月の初めになって、新しい段階にはいった。六月三日、北京の学生が警察の弾圧に抵抗して、集会をひらき、講演をおこなったのをきっかけに、学生の授業放棄から、上海、南京、天津、杭州、武漢、九江および山東省、安徽省など各地の労働者のストライキ、商人の閉店ストに発展した。こうして、五・四運動は、ついにプロレタリア階級、都市小ブルジョア階級、民族ブルジョア階級の参加する広範な大衆運動となった。
〔19〕 欧米派の文化人とは、胡適らを代表とする一部のものをさす。
〔20〕 いわゆる「全面的西洋化」は、一部のブルジョア学者の主張である。かれらは、すでに時代おくれのものとなった、個人主義を中心とする西洋のブルジョア文化を無条件に称賛し、中国はなにごとも欧米資本主義国を完全に模倣しなければならないと主張し、それを「西洋文化の全面的な受けいれ」といった。
〔21〕 レーニンの『なにをなすべきか』第一章第四節から引用。
訳注
① 「一つの主義」とは、国民党が一回目の反共の高まりのときにもちだした反動的スローガンの一つである。一九三八年十月、武漢陥落ののち、国民党の反共活動はしだいにひどくなり、軍事上、政治上の反共活動と呼応して、「一つの党」、「一つの主義」、「一人の指導者」という反動的スローガンをもちだした。いわゆる「一つの主義」とは、中国で蒋介石のにせ三民主義、すなわちファシズムの存在だけをゆるし、その他の主義はすべて清算せよというものである。
② 本巻の『戦争と戦略の問題』〔2〕にみられる。
③ 第二次国内革命戦争の時期、国民党反動政権は、中国共産党に指導された労働者、農民の武装勢力にたいしては軍事的「包囲討伐」をおこなう一方、国民党支配地区内の革命的文化界にたいしては文化的「包囲討伐」をおこなった。国民党反動当局は政治的高圧手段とテロ政策をもちいて、進歩的な出版物を禁止し、進歩的な書店を閉鎖し、進歩的な文化団体を破壊し、進歩的な作家を迫害、殺害し、反動的な文化人をそそのかして、革命的文化運動を妨害し、破壊させた。中国共産党の指導のもとで、文化的「包囲討伐」反対闘争が、断固として展開された。それは、プロレタリア階級の指導する反帝・反封建・反独裁を前提として、すべての進歩的文化界を革命的文化戦線に結集させ、さまざまな反動的文化思想をあいついで暴露し、批判して、文化的「包囲討伐」反対闘争の勝利をかちとった。
④ 葉青は、共産党の裏切り者であり、トロツキストであった。その後、国民党特務機関の御用文化人になりさがった。
  
  
  

 
 
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投降の危険を克服し、時局の好転をたたかいとろう
          (一九四○年一月二十八日)
     これは、毛沢東同志が中国共産党中央のために書いた党内指示である。

 当面の時局の発展状況は、党中央のたびたびおこなってきた評価が正しかったことを立証している。大地主・大ブルジョア階級の投降の方向と、プロレタリア階級、農民、都市小ブルジョア階級、中層ブルジョア階級の抗戦の方向とは対立しており、たがいに闘争している。いまは、二つの方向が同時に存在しており、二つの前途がどちらも可能である。ここで、全党の同志に認識させなければならないのは、各地でおこっている投降、反共、後退などの重大な現象を孤立したものとして見てはならないということである。これらの現象にたいしては、その重大性を認識し、断固これに反抗すべきで、これらの現象の威力に圧倒されてはならない。もしこのような精神がなく、これらの現象に断固反抗する正しい方針がなく、国民党頑迷《がんめい》派の「軍事面での共産党制限」と「政治面での共産党制限」が強まるのをそのままにさせ、統一戦線が割れはしないかとおそれるだけならば、抗戦の前途は危ういものとなり、投降と反共は全国化し、統一戦線は割れるおそれがある。現在、国内的にも国際的にも、われわれが抗戦をつづけ、団結をつづけ、進歩をつづけていくのに有利な客観条件がまだたくさん存在していることを、はっきり見てとらなければならない。たとえば、日本の中国にたいする方針が依然として非常に強硬であること、イギリス、アメリカ、フランスと日本とのあいだは、部分的には矛盾が縮小しているが、まだほんとうには協調しておらず、しかも東方におけるイギリス、フランスの地位もヨーロッパ戦争によって弱められているために、いわゆる極東ミュンヘン会議の招集がなかなかできないこと、ソ連が積極的に中国を援助していること、これらが国民党に投降と妥協を困難にさせ、全国的な反共戦争を困難にさせている国際的条件である。またたとえば、共産党、八路軍、新四軍が投降に断固反対し、抗戦と団結の方針を堅持していること、中間階級も投降に反対していること、国民党内の投降派や頑迷派は権力をにぎってはいるが、数のうえでは少数にすぎないこと、これらが国民党に投降と妥協を困難にさせ、全国的な反共戦争を困難にさせている国内的条件である。以上のべた状況から、党の任務は、一方では、投降派や頑迷派の軍事攻勢と政治攻勢に断固反抗することであり、また他方では、政党、政府、軍隊、民衆、知識層など各方面の全国的な統一戦線を積極的に発展させて、極力、国民党内の大多数をたたかいとり、中間層をたたかいとり、抗戦部隊内の共鳴者をたたかいとり、民衆運動の深化をたたかいとり、知識人をたたかいとり、抗日根拠地の強化と抗日武装組織、抗日政権の発展をたたかいとり、党の強化と進歩をたたかいとることである。このように両方の任務を同時にすすめていくならば、大地主・大ブルジョア階級の投降の危険を克服し、時局の好転の前途をかちとることが可能となる。したがって、時局の好転をたたかいとると同時に、おこりうる突発事件(当面は局部的、地方的な突発事件)にたいして警戒心をつよめること、これが党の当面の政策の全般的方針である。
 汪精衛《ワンチンウェイ》売国協定〔1〕を公表し、蒋介石が国民に告げる書を発表したのち、一方では、和平の空気が打撃をうけ、抗戦勢力が発展をみせるにちがいないが、他方では、「軍事面での共産党制限」と「政治面での共産党制限」がやはりつづき、地方的な事件がやはりおこり、国民党が「統一して外敵にあたる」ということを強調して、われわれに攻撃をくわえてくる可能性がある。これは抗戦と進歩の勢力が、当分のあいだは、投降と後退の勢力を完全に圧倒するところまで発展できないからである。われわれの方針は、全国にわたって共産党の組織のあるところではすべて、汪精衛の売国協定に反対する宣伝を極力ひろめることである。蒋介石の宣言は、かれがひきつづき抗戦することを表明しているが、全国が団結をつよめなければならないことは強調していないし、抗戦と進歩を堅持するどのような方針にもふれていない。だが、このような方針がなければ、抗戦を堅持することはできないのである。したがって、われわれは汪精衛反対運動のなかでつぎのことを強調しなければならない。(一)最後まで抗戦するという国策を支持し、汪精衛の売国協定に反対すること。(二)全国人民が団結して、民族裏切り者汪精衛を打倒し、汪精衛のかいらい中央政府を打倒すること。(三)国共合作を支持し、汪精衛の反共政策を打倒すること。(四)反共は抗日統一戦線を分裂させる汪精衛の陰謀であるから、潜伏している汪精衛一派の民族裏切り者を打倒すること。(五)全国的団結をつよめ、内部の摩擦をなくすこと。(六)内政を革新し、憲政運動をくりひろげ、民主政治をうちたてること。(七)政党禁止を解除し、抗日諸政党の合法的存在をゆるすこと。(八)日本侵略者に抵抗し、民族裏切り者に反対する言論、集会の自由の権利を人民に保証すること。(九)抗日根拠地をかため、汪精衛一派の民族裏切り者による破壊の陰謀に反対すること。(一〇)抗日に功労のある軍隊を支持し、前線に十分な補給をすること。(一一)抗戦の文化を発展させ、進歩的青年を保護し、民族裏切り者の言論を取り締まること。以上のスローガンは公表すべきである。各地では論文、宣言、ビラ・演説、パンフレットを大量に発表し、また、その地方の状況に適したスローガンをつけくわえるべきである。
 延安《イェンアン》ではニ月一日に、汪精衛の売国協定に反対する民衆大会がひらかれる。各地では二月上旬あるいは中旬に、各界および国民党の抗日派と連合して、みな民衆大会をひらき、投降に反対し、民族裏切り者に反対し、摩擦に反対する高まりを全国にもりあげていかなければならない。



〔1〕 一九三九年末、汪精衛が日本侵略者と調印した売国的秘密条約「日支新関係調整要綱」をさす。そのおもな内容はつぎのとおりである。一、東北地方は日本に割譲し、蒙疆地方(当時の綏遠、察哈爾両省と山西省北部をさす)、華北地方、長江下流および華南地方の島嶼は「日支強度結合地帯」として日本軍が長期にわたって占領する。二、かいらい政権は、中央政府から地方政府にいたるまで、すべて日本の顧問または職員が監督する。三、かいらい軍とかいらい警察は、日本人教官が訓練し、武器も日本が提供する。四、かいらい政府の財政経済政策、工業、農業、交通事業はみな日本が統制し、すべての資源は日本が自由に開発する。五、すべての抗日活動を禁止する。
訳注
① 本巻の『投降の策動に反対せよ』注〔2〕、〔3〕を参照。
② 本巻の『投降の策動に反対せよ』注〔8〕を参照。
  
  
  

 
 
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すべての抗日勢力を結集して反共頑迷派に反対しよう
          (一九四〇年二月一日)
     これは、毛沢東同志が延安の汪精衛糾弾民衆大会でおこなった講演である。

 きょうわれわれ延安《イェンアン》各界の人民がここで集会をひらいているのは、なんのためだろうか。売国奴汪精衛《ワンチンウェイ》を糾弾するためであり、すべての抗日勢力を結集して、反共頑迷《がんめい》派に反対するためである。
 われわれ共産党員がしばしば指摘してきたように、日本帝国主義の中国を滅亡させる方針はゆるがないものである。日本が内閣をどのようなものにとりかえようと、中国を滅亡させ、中国を植民地化するその基本方針は変わるものではない。中国の親日派大ブルジョア階級の政治的代表者である汪精衛は、このありさまをみて、気もくるわんばかりに仰天し、日本のまえにひざまずいて、日本・汪精衛売国条約を結び、中国を日本帝国主義に売りわたした。かれはまた、かいらい政府をつくって、抗日政府に対立させようとし、かいらい軍隊をつくって、抗日軍隊に対立させようとしている。かれは、最近、反蒋《チァン》をあまり口にしなくなっており、すでに「連蒋」にきりかえたとのことである。日本と汪精衛のおもな目的は反共である。かれらは、共産党の抗日がもっとも徹底しており、国民党と共産党が協力すれば、抗日の力がいっそう大きくなるのを知っているので、全力をあげて国共合作を分裂させ、両党をそれぞれ孤立させ、あわよくば、両党を戦わせようとしているのである。こうして、かれらは国民党内部の頑迷派を利用して、いたろところに火をつけている。湖南《フーナン》省では平江《ピンチァン》虐殺事件〔1〕をおこさせ、河南《ホーナン》省では確山《チュエシャン》虐殺事件〔2〕をおこさせ、山西《シャンシー》省では旧軍に新軍を攻撃させ〔3〕、河北《ホーペイ》省では張蔭梧《チャンインウー》に八路軍を攻撃させ〔4〕、山東《シャントン》省では秦啓栄《チンチーロン》に遊撃隊を攻撃させ〔5〕、湖北《ホーペイ》省東部では程汝懐《チョンルーホヮイ》に共産党員五、六百人を殺害させ〔6〕、陝西《シャンシー》・甘粛《カンスー》・寧夏《ニンシァ》辺区にたいしては、内部での「点線工作」〔7〕、外部からの「封鎖工作」をおこない、さらに軍事的進攻をも準備している〔8〕。このほかにも、多数の進歩的青年を逮捕して、強制収容所におくったり〔9〕、玄学亡者張君[萬+力]《チャンチュィンマイ》をやといいれて、共産党の解消、陝西・甘粛・寧夏辺区の解消、八路軍、新四軍の解消という反動的主張をもちださせたり、トロツキスト葉青《イエチン》らをやといいれて、共産党を罵倒する文章を書かせたりしている。これらはすべて、抗日の局面を破壊して、全国人民を亡国の民にしようとするものにほかならない〔10〕
 このように、汪精衛派と国民党内の反共頑迷派との両者は、内外から呼応して、時局を毒気のみなぎる暗黒なものにしてしまった。
 多くの人は、このありさまをみて大いに憤慨し、抗日には希望がなくなった、国民党は悪人ばかりだ、そのすべてに反対すべきである、と考えている。われわれはつぎのことを指摘しなければならない。憤慨するのはもっとも至極だ、こうした重大事態を目にして、憤慨しないものがどこにあるだろうか。だが、抗日にはやはり希望があり、国民党内部も、みながみな悪人というわけではない。異なった部類の国民党員にたいしては、異なった政策をとるべきである。良心のひとかけらさえない悪党どもにたいし、あえて八路軍や新四軍の陣地の背後から発砲する連中にたいし、あえて平江虐殺事件や確山虐殺事件をひきおこす連中にたいし、あえて辺区を破壊する連中にたいし、あえて進歩的な軍隊、進歩的な団体、進歩的な人びとを攻撃する連中にたいしては、かならず反撃をくわえなければならず、けっして黙過したり、譲歩したりすることはできない。なぜなら、これらの悪党どもは、すでに良心のひとかけらさえなく、民族の敵が国土ふかく侵入しているときにも、なお、摩擦をおこし、虐殺事件をおこし、分裂をおこそうとしているからである。かれらが心のなかでどう考えようと、実際には日本と汪精衛をたすけているのであり、あるものははじめから潜伏していた民族裏切り者なのである。こうした連中に懲罰をくわえないとすれば、われわれはあやまりをおかすことになり、民族裏切り者と国賊を放任することになり、民族的抗戦に不忠実となり、祖国に不忠実となり、悪党どもの統一戦線破壊を放任することになり、党の政策に違反することになる。だが、投降派や反共頑迷派に打撃をくわえるこのような政策は、ひとえに抗日を堅持し抗日統一戦線をまもるためである。したがって、国民党員のなかの抗日に忠実な人びとや、投降派でも反共頑迷派でもないすべての人にたいしては、われわれは好意をしめすのであり、かれらと団結するのであり、かれらを尊重するのであり、また、国をよくするために、かれらと長期にわたって協力したいとねがうのである。そうしないものは、やはり、党の政策に違反することになる。
 つぎが、わが党の二つの政策である。一方では、すべての進歩勢力を結集し、抗日に忠実なすべての人びとを結集すること、これが一つの政策であり、他方では、良心のひとかけらさえないすべての悪党どもに反対し、投降派や反共頑迷派に反対すること、これがもう一つの政策である。わが党のこれらの政策は、時局の好転をたたかいとり、日本にうち勝つという目的をたっするためのものである。われわれ共産党と全国人民の任務は、抗目的、進歩的なすべての勢力を結集して、投降的、後退的なすべての勢力に抵抗し、時局を逆転から救い、その好転をたたかいとることにある。これがわれわれの根本方針である。われわれはけっして悲観も失望もしない。われわれは楽観している。われわれは投降派や反共頑迷派のどんな攻撃もおそれない。われわれはかならずかれらを粉砕しなければならないし、またかならず粉砕することができる。中華民族の解放は必至であり、中国はけっして滅亡しない。中国の進歩は必至であり、後退は一時的な現象にすぎない。
 われわれは、また、きょうの集会で全国人民に一つの態度を表明したい。つまり、抗日のためには全国人民の団結と進歩が必要だということである。一部の人は、抗日だけを強調して団結と進歩を強調したがらず、はなはだしいばあいには団結と進歩を全然とりあげないが、これはまちがいである。真の強固な団結がなく、急速で着実な進歩がなくて、どうして抗日を堅持することができよう。国民党の反共頑迷派は統一を強調しているが、かれらのいわゆる「統一」とは、にせの統一であって真の統一ではなく、不合理な統一であって合理的な統一ではなく、形式主義な統一であって実際的な統一ではない。かれらは、統一をわめきたてているが、その実、共産党、八路軍、新四軍、辺区が存在していると中国は統一できないといって、共産党、八路軍、新四重、陝西・甘粛・寧夏辺区を解消しようとしているのであり、全国のすべてを国民党化しようとしているのである。かれらはまた、その一党独裁をつづけているだけでなく、一党独裁を拡大しようとしている。こんなことで、統一などあるだろうか。ほんとうのところ、もしこれまで共産党、八路軍、新四重、陝西・甘粛・寧夏辺区が誠意をもって内戦停止と一致抗日を主張しなかったなら、抗日民族統一戦線を発起するものもなく、西安《シーアン》事変を平和的解決にみちびくものもなく、抗日も実行のしようがなかったであろう。こんにち、もし共産党、八路軍、新四軍、陝西・甘粛・寧夏辺区および各抗日民主根拠地が誠意をもって抗日の大局を維持し、投降、分裂、後退の危険な傾向に反対しなかったなら、収拾がつかなくなっていたであろう。八路軍、新四軍の数十万人は、敵の五分の二をくいとめ、日本の四十コ師団のうちの十七コ師団と戦っている〔11〕のに、なぜこれを解消しようとするのか。陝西・甘粛・寧夏辺区は全国でもっとも進歩した地方で、ここは民主的な抗日根拠地である。ここには、第一に汚職官吏がいず、第二に土豪劣紳がいず、第三に賭博《とばく》がなく、第四に娼婦《しょうふ》がいず、第五に妾《めかけ》がいず、第六にこじきがいず、第七に徒党をくんで私利をはかるものがいず、第八に意気消沈した気分がなく、第九に摩擦で飯を食うもの〔12〕がいず、第十に国難成金がいないのに、なぜ、これを解消しようとするのか。恥知らずなことがいえるのは、恥知らずな人間だけである。頑迷派にはわれわれのまえで一言でも口をきく資格があろうか。同志諸君、もちろん、そんなことがあってはならない。辺区を解消するのではなくて、全国が辺区に学ぶべきである。八路軍、新四軍を解消するのではなくて、全国が八路軍、新四軍に学ぶべきである。共産党を解消するのではなくて、全国が共産党に学ぶべきである。進歩した人びとがおくれた人びとに見ならうのではなくて、おくれた人びとが進歩した人びとに見ならうべきである。統一をもっとも主張しているのがわれわれ共産党であり、われわれが統一戦線を発起し、統一戦線を堅持し、統一した民主共和国のスローガンを提起したのである。だれにこうしたことが提起できるだろうか。だれにこうしたことが実行できるだろうか。だれに一ヵ月五元の給料〔13〕しかもらわないでいることができるだろうか。だれにこのような廉潔な政治をうみだすことができるだろうか。統一、統一といっても、投降派の統一論は、われわれに投降への統一をもとめるものであり、反共頑迷派の統一論は、われわれに分裂への統一、後退への統一をもとめるものである。われわれに、そんな理屈が信じられるだろうか。抗戦、団結、進歩の三つを基礎としない統一を、真の統一といえるだろうか。合理的な統一といえるだろうか。実際的な統一といえるだろうか。それこそ、寝言である! われわれがきょう大会をひらいたのは、われわれの統一論を提起するためである。われわれの統一論とは、全国人民の統一論であり、すべての良心的な人びとの統一論である。この統一論は、抗戦、団結、進歩の三つを基礎としている。進歩があって、はじめて団結することができ、団結があって、はじめて抗日することができ、進歩と団結と抗日があって、はじめて統一することができる。これがわれわれの統一論であり、真の統一論であり、合理的な統一論であり、実際的な統一論である。あのにせの統一論、不合理な統一論、形式主義的な統一論は、亡国の統一論であり、良心のひとかけらさえないものの統一論である。かれらは共産党、八路軍、新四軍、民主的抗日根拠地を消滅し、すべての地方の抗日勢力を消滅して、国民党に統一しようとしている。これは陰謀である。これは、統一に名をかりて専制の実をおこなうものであり、統一という羊頭をかかげて、かれらの一党専制という狗肉《くにく》を売るものであり、ずうずうしくでたらめをならべたてて、まったくこの世に恥というもののあることを知らないものである。われわれのきょうの大会は、かれらのハリコの虎をつきやぶるものである。われわれは反共頑迷派に断固反対しなければならない。



〔1〕 本巻の『反動派を制裁せよ』注〔1〕にみられる。
〔2〕 一九三九年十一月十一日、河南省確山県の国民党の特務と軍隊千八百余人が、確山県竹溝鎮の新四軍留守本部を包囲攻撃し、抗日戦争で負傷した新四軍の幹部、兵士とその家族あわせて二百余人を虐殺した。
〔3〕 旧軍とは、国民党の山西省軍閥閻錫山の軍隊をさす。新軍とは、抗日戦争の初期、共産党の指導と影響のもとで新しく発展した山西省人民の抗日武装組織のことで、抗日決死隊ともよばれた。一九三九年十二月、蒋介石と閻錫山は、新軍を消滅しようとして、山西省西部に六コ軍の兵力を集結し、新軍を攻撃したが、新軍の反撃にあって粉砕された。同時に、閻錫山の軍隊は、山西省東南部で、陽城、晉城一帯の県の抗日民主政府と人民団体を破壊して、共産党員と進歩的な人びとを大量に殺害した。
〔4〕 張蔭梧は国民党匪賊一味の河北省保安司令官で、一九三九年以来、蒋介石の指令によって、たえず八路軍を攻撃した。この年の六月には、さらに部隊をひきいて、河北省深県にあった八路軍の後方機関を襲撃し、八路軍の幹部と兵士四百余人を虐殺した。
〔5〕 一九三九年四月、秦啓栄匪賊部隊は、国民党の山東省主席沈鴻烈のさしずをうけ、博山県で八路車山東縦隊第三遊撃支隊を襲撃して、八路軍の連隊長級の幹部以下四百余人を虐殺した。
〔6〕 一九三九年九月、湖北省東部の国民党反動派程汝懐は匪職部隊を集結して、新四軍の後方機関を包囲攻撃し、共産党員五、六百人を虐殺した。
〔7〕 陝西・甘粛・寧夏辺区における国民党の特務とスパイの活動は、辺区の町を拠点とし、さらにこれらの拠点をむすびつけて幾本かの線とし、かれらの反革命活動を配置した。かれらはこうした活動を「点線工作」と称した。
〔8〕 一九三九年の冬から一九四〇年の春にかけて、国民党軍は陝西・甘粛・寧夏辺区の淳化、[木+旬」邑、正寧、寧県、鎮原など五つの県都を占領した。
〔9〕 抗日戦争の期間、国民党反動派はドイツ、イタリアのファシストのやり方をまねて、中国西北部の蘭州、西安から東南部の [章+”ふゆがまえ”の下に”貢”]州、上饒にいたるまで多くの強制収容所をもうけて、大量の共産党員、愛国者、進歩的な青年を監禁した。
〔10〕 一九三八年十月、武漢が占領されたのち、国民党の反共活動はしだいにはげしくなった。一九三九年二月、蒋介石は「共産党問題処理規定」、「被占領区における共産党活動防止措置法」などの反動文書を秘密裏に配布し、国民党支配地区と華中、華北の各地での共産党にたいする政治的圧迫と軍事的攻撃を日ましに強めてきた。こうした圧迫と攻撃は、一九三九年十二月から一九四〇年三月にかけて高まった。これは一回目の反共の高まりとよばれた。毛沢東同志がここであげている、国民党反動軍隊の陝西、甘粛両省での陝西・甘粛・寧夏辺区にたいする攻撃、および共産党の指導する抗日決死隊にたいする山西省西部での攻撃とは、一回目の反共の高まりのなかで、国民党が二度にわたっておこした大きな軍事的攻撃のことである。このあと、一九四〇年の二、三月ごろ、蒋介石はまた国民党反動派朱懐冰に命じて、[”まだれ”の中に龍]炳勲、張蔭梧、侯如[土+庸]などの匪賊部隊をかり集め、三路にわけて、太行地域の八路軍を攻撃させた。このたびの攻撃は、八路軍に徹底的に撃破され、国民党軍の三コ師団が消滅された。蒋介石がおこした一回目の反共の高まりは、これで完全に撃退された。
〔11〕 中国共産党の指導する軍隊がむかえうった日本侵略者の軍隊の数には、そのご、変化があった。一九四三年になると、八路軍と新四軍は中国侵略の日本軍総数の六四パーセントと全かいらい軍の九五パーセントをむかえうって戦った。本選集第三巻の『連合政府について』の「二つの戦場」の節を参照。
〔12〕 「摩擦で飯を食う」とは、一部の国民党員が反共を専門の職業としていたことをいう。
〔13〕 当時、共産党の指導下にあった抗日軍隊と抗日政府の要員の一人あたり一ヵ月の食費と手当は、平均して銀貨五元であった。
訳注
① 本題集第一巻の『蒋介石の声明についての声明』注〔1〕を参照。
  
  
  

 
 
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国民党にたいする十項目の要求
          (一九四〇年二月一日)
     これは、毛沢東同志が延安の汪精衛糾弾民衆大会のために起草した通告電である。

 二月一日、延安《イェンアン》で汪精衛糾弾大会がひらかれた。満場は正義のいきどおりにもえ、汪精衛の売国と投降の糾弾、徹底的抗戦の支持を一致して決議した。時局の危機を救い、抗戦の勝利をたたかいとるため、ここに救国の大計十項目をもうしのべる。国民政府、各党各派、抗戦の将兵および全国の同胞におかれては、これを採択し実行されんことをのぞむ。
 第一は、国をあげて汪精衛を糾弾すること。逆賊汪精衛は一味のものをかりあつめ、国にそむいて敵につき、売国の密約を結び、侵略者の手先になって悪事をはたらいており、国民のすべてがこれを殺すべきだというのが当然である。しかし、それは公然たる汪精衛のことであって、かくれた汪精衛についてはまだふれられていない。かくれた汪精衛にいたっては、政府の要職をぬすみとって、大手をふってのしあるき、あるいは社会にふかくもぐりこんで、影をひそませている。汚職官吏はまさにその一味であり、摩擦専門家はみなその部下である。都市から農村まで、上級から下級まで、政党、政府、軍隊、民衆、新聞、知識層の各界をこぞって汪精衛糾弾に立ちあがらせる全国的な汪精衛糾弾運動がなければ、汪一味は根絶できず、汪の災いはいつまでもつづき、外からは敵をひきいれ、内からは破壊をおこない、その害は想像を絶したものとなるであろう。政府は、汪精衛を糾弾するよう全国人民の喚起をうながす命令をくだすべきである。それを執行しないならば、その官吏を罪に問うべきである。汪一味は虎狼の餌食《えじき》にしてもあきたらず、ぜひとも根絶しなければならない。これが採択し実行してもらいたいことの第一である。
 第二は、団結を強めること。いまある人は、団結については□をとざし、統一について語っているが、それは、共産党を解消し、八路軍、新四軍を解消し、陝西《シャンシー》・甘粛《カンスー》・寧夏《ニンシァ》辺区を解消し、各地方の抗日勢力を解消してはじめて統一といえるという意味にほかならない。かれらには共産党、八路軍、新四軍、陝西・甘粛・寧夏辺区こそ、全国でも、統一をもっとも強く主張しているのだということがわかっていない。西安《シーアン》事変の平和的解決を主張したのは共産党、八路軍、新四軍および辺区ではなかったか。抗日民族統一戦線を提唱し、統一的民主共和国の樹立を主張し、しかも身をもってその実行につとめているのは共産党、八路軍、新四軍および辺区ではないか。国防の最前線に立って、敵軍十七コ師団に抗して戦い、中原および西北地方の防壁となり、華北および江南地方を防衛し、三民主義と『抗戦建国綱領』を断固として実行しているのは、共産党、八路軍、新四軍および辺区ではないか。汪精衛が反共親日をとなえていらい、張君[萬+力]《チャンチュィンマイ》、葉青《イエチン》らの化け物どもは筆をもってそれに呼応し、反共派、頑迷派は摩擦をもってそれに呼応している。かれらは統一に名をかりて独裁の実をおこない、団結の大義をすてて、分裂のいとぐちをつくっている。司馬昭の心は、もとより世間の人がみな知るところである。共産党、八路軍、新四軍および辺区は、断固として、にせの統一に反対して真の統一を提唱し、不合理な統一に反対して合理的な統一を提唱し、形式的な統一に反対して実際的な統一を提唱する。投降に統一するのではなくて、抗戦に統一するのであり、分裂に統一するのではなくて、団結に統一するのであり、後退に統一するのではなくて、進歩に統一するのである。抗戦、団結、進歩の三つを基礎とする統一こそ、真の統一であり、合理的統一であり、実際的統一である。これをおいて統一をもとめることは、たとえどのような手口をもてあそぼうと、どのようなからくりをこらそうと、すべて、南へいこうとして車を北に走らせるようなもので、軽々しく同意できるものではない。各地方の抗日勢力については、一様に愛護すべきであって、一方を優遇し、他方を冷遇することがあってはならず、それを信頼し、補給し、育成し、激励すべきである。人に接するには、いつわりをすてて真心をもち、狭い心をすてて寛大な心をもつべきである。ほんとうにそれがやれれば、下心をもつやからでないかぎり、一致団結して国家を統一するという軌道にのらないものはない。統一はかならず団結を基礎とし、団結はかならず進歩を基礎としなければならない。進歩してこそ団結でき、団結してこそ統一できるということは、真に不変の定説である。これが採択し実行してもらいたいことの第二である。
 第三は、憲政を断行すること。「訓政」は多年におよんでいるが、なんらの結果ももたらしていない。物きわまれば、かならず逆転する。いまは憲政をしくことが先決である。しかしながら、言論は自由でなく、政党禁止はまだ解除されていず、すべてがなお憲政に反した行為である。このままで憲法を制定すれば、お役所式のきまり文句となんの変わりがあろうか。このままで憲政を実施すれば、一党専制となんのちがいがあろうか。この国難重大なときに、なお、いまの政策を変えようとしないなら、日本と汪精衛は外部から攪乱《かくらん》をほしいままにし、奸徒は内部から破壊をおこない、国家と人民の運命は、危険きわまりないものとなる。政府は憲政を推進する誠意の表明として、ただちに政党禁止を解除し、世論をもりたてるべきである。大きな信義を国民のまえにあきらかにし、新しい国の気運をひらくことほど急を要するものはない。これが採択し実行してもらいたいことの第三である。
 第四は、摩擦を制止すること。昨年三月、いわゆる「異党活動制限措置法」がとなえられてから、限共、溶共、反共の声は全国にひろがり、虐殺事件があいついでおこり、いたるところで血がながされた。だが、それでもあきたらす、昨年十月には、また「異党問題処理規程」なるものがだされた。西北、華北、華中地域では、さらに「異党問題処理実施方案」なるものがだされた。人びとは、すでに「政治面での共産党制限」から「軍事面での共産党制限」の時期にはいったといっているが、これは証拠のあることで、そうでないところがどこにあろうか。いわゆる限共とは反共のことである。反共は日本と汪精衛の謀略であり、中国を滅亡させようとする悪計である。そこで、人びとは驚惑し、十年まえの惨劇がふたたびくりかえされるのではないかと、あわただしくとりざたしている。事態は極点にたっし、ついに湖南《フーナン》省では平江《ピンチァン》虐殺事件、河南《ホーナン》省では確山《チュエシャン》虐殺事件がおこり、河北《ホーペイ》省では張蔭梧《チャンインウー》による八路軍攻撃がおこり、山東省では秦啓栄《チンチーロン》による遊撃隊せんめつ、湖北《フーペイ》省東部では程汝懐《チョンルーホヮイ》による五、六百人にのぼる共産党員虐殺、甘粛省東部では中央軍による八路軍駐屯軍にたいする大挙進攻という事件がおこり、最近、山西《シャンシー》省内ではさらに旧軍による新軍攻撃と同時に、八路軍陣地への侵犯といった惨劇が演じられた。これらの現象をすみやかに制止しなければ、いきおい双方がともだおれになり、抗戦の勝利どころではなくなるであろう。政府は団結抗戦を有利にするため、虐殺事件をひきおこしたすべてのものを処罰するよう命令するとともに、ふたたび同様の事件がおこるのを禁ずるよう全国にはっきり指示すべきである。これが採択し実行してもらいたいことの第四である。
 第五は、青年を保護すること。最近、西安付近に強制収容所がもうけられ、西北、中原の各省の進歩的青年七百余人が一ヵ所に拘禁され、あたかも囚人のように精神的、肉体的な虐待がくわえられ、その惨状は聞くにたえないものがある。青年たちはなんの罪があって、このような迫害をうけなければならないのか。青年こそ国の精華であり、わけても進歩的青年は抗戦にとっての至宝である。信条は人びとの自由であり、思想はけっして武力によって圧制できるものではない。過去十年におよんだ「文化的包囲討伐」の罪過はきわめて明らかなのに、なぜこんにちふたたびそれをくりかえそうとするのか。政府は、青年を保護し、西安付近の強制収容所を廃止し、各地での青年侮辱の暴挙を厳禁するようすみやかに全国に命令すべきである。これが採択し実行してもらいたいことの第五である。
 第六は、前線を支援すること。最前線にあって、抗日に功労のある軍隊、たとえば八路軍、新四軍およびその他の軍隊は、待遇がもっともわるく、衣食に事欠き、弾薬はつづかず、医療もゆきとどいていない。それにもかかわらず、奸徒は、なにはばかるところなく、ほしいままに中傷をくわえている。その無責任な、まったく常識を欠いた無数のたわごとは、耳を聾するばかりである。かれらは論功行賞をおこなわず、いよいよ血眼になって人をおとしいれ、ますますほしいままに悪らつな策略をめぐらしている。このような、将兵の心を寒からしめ、敵が手をうってよろこぶすべての奇怪な現象は、だんじてゆるすことのできないものである。政府は将兵の士気をはげまし戦いを有利にするため、一方において、前線の功労ある軍隊に十分補給するとともに、他方では、奸徒の中傷、奸計を厳禁すべきである。これが採択し実行してもらいたいことの第六である。
 第七は、特務機関をとりしまること。特務機関の横行については、世間の人はこれを唐代の周興、来俊臣〔1〕、明代の魏忠賢、劉瑾〔2〕になぞらえている。かれらは敵に注意をはらわないで、国民に立ちむかうことだけにあけくれ、草でもなぐように人を殺し、あくことなく賄賂《わいろ》をとり、じつにデマの大元締、邪悪の製造所である。これらの極悪非道の特務ほど、全国の人びとの足をすくませ、目をそばめざせるものはない。政府の威信を保つ見地から、人心をとりもどし国の基礎をかためるため、すみやかに特務機関をとりしまり、改組し、その任務をもっぱら敵と民族裏切り者に対処するものであると確定すべきである。これが採択し実行してもらいたいことの第七である。
 第八は、汚職官吏をとりしまること。抗戦以来、国難に乗じて一億元もの金もうけをしたものもおり、八、九人もの妾をかこっているものもいる〔3〕。兵役といい、公債といい、経済統制といい、被災者、難民の救済といい、一つとして汚職官吏の金もうけの機会にならないものはない。国にこの一群のけだものどもがいるかぎり、国事が収拾できないのもあやしむにたりない。人民の憤懣《ふんまん》は、すでに極点にたっしているが、その凶悪さをあばく勇気のあるものはいない。国家崩壊の危機を救うためには、すみやかに、断固として有効な措置を講じ、すべての汚職官吏を徹底的にとりしまるべきである。これが採択し実行してもらいたいことの第八である。
 第九は、「総理遺言」を実行すること。「総理遺言」には、「余は国民革命に力を致すことおよそ四十年、その目的は中国の自由、平等をもとめるにあった。四十年の経験を積んで、この目的を達成するためには、民衆をよびさまさなければならぬことを深く知るにいたった」といわれている。まことにりっぱな言葉である。わが四億五千万の人民はよくそれを知っていろ。ところがこの遺言を唱えるものは多いが、それにしたがうものはすくない。遺言にそむくものは賞され、それを実行するものは罰せちれる。これほど奇怪なことがあろうか。遺言にそむいて、民衆をよびさますことにつとめず、逆に民衆をふみにじるものがあれば、孫総理にそむく罪をもって処罰するよう政府は命令をくだすべきである。これが採択し実行してもらいたいことの第九である。
 第十は、三民主義を実行すること。三民主義は国民党が信奉している主義である。しかし反共を第一の任務とする多くの人が、抗戦の活動を放棄し、人民が抗日に立ちあがると、あらゆる方法でこれを抑圧し阻止しているのは、民族主義をすてたものである。官吏が人民にいささかの民主的権利もあたえていないのは、民権主義をすてたものである。人民の苦痛をみてもそしらぬ顔をしているのは、民主主義をすてたものである。この連中からみれば、三民主義はお題目にすぎず、それをほんとうに実行するものがあれば、余計なことをすると嘲笑するか、さもなければ重刑に処している。このため、奇怪な現象が続出し、三民主義にたいする信頼は地をはらっている。すみやかにふたたびはっきりした命令をだし、三民主義の実行を全国にきびしく督促すべきである。命令に違反するものは重罪に処し、それをまもるものは大いに奨励しなければならない。そうすれば、三民主義の実行される日も近く、抗日事業も勝利の基礎をすえることができる。これが採択し実行してもらいたいことの第十である。
 以上の十項目は、みな救国の大計であり、抗日にとっての根本的な方略である。敵のわが方にたいする侵略がますますはげしく、逆賊汪精衛が凶暴をきわめているこのとき、われわれは心に感じる危険を告げずにはおられない。もし以上が採択され実行されれば、それは抗戦にとってもはなはだ幸いであり、中華民族の解放事業にとってもはなはだ幸いである。やむにやまれぬ気持ちで以上のことをもうしのべて、ご教示を乞うしだいである。



〔1〕 周興、来俊臣は、七世紀末、唐の則天武后のころの苛酷な官吏である。かれらは広範な秘密調査をおこない、勝手に罪名をでっちあげて、自分たちにとって好ましくない人びとを逮捕し、さまざまの残酷な刑をもちいて虐殺した。
〔2〕 劉瑾は、一六世紀、明の武宗のころの宦官《かんがん》であり、魏忠賢は、一七世紀、明の真宗のころの宦官である。かれらは大きな権力を握り、廠衛と名づけられる大規模な特務組織を動かして、人民の言論や行動を統制した。かれらに反対するものはみな迫害され、虐殺された。
〔3〕 当時西安にいた国民党の反動的軍事頭目蒋鼎文をさす。
訳注
① 司馬昭は、魏の宰相である。かれは帝位を奪おうとひそかにたくらんでいた。このため、皇帝は腹心の官吏をよびあつめ対策をねったとき、「司馬昭の心は、もとより世間の人のよく知るところである」といった。
② 本巻の『新民主主義論』訳注③にみられる。
③ 国民党の特務機関とは、蒋介石集団が革命運動を弾圧し、共産党員、愛国的な人びと、進歩的な青年を迫害するための道具である。解放前、おもな特務組織には、「軍銃」、「中銃」、「中米合作所」などがあった。「軍統」は「国民政府軍事委員会調査統計局」の略称で、一九三八年につくられ、その前身は、「復興社」の中核組織「力行社」の特務課である。「中統」は、「中国国民党中央執行委員会調査統計局」の略称で、一九三八年につくられ、CC系の頭目陳果夫、陳立夫の手ににぎられていた。「中米合作所」の全称は「中米特殊技術合作所」で、一九四三年、重慶につくられ、アメリカ帝国主義が蒋介石集団とぐるになって中国人民の革命運動を弾圧した特務組織である。
  
  
  

 
 
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『中国工人』発刊のことば
          (一九四〇年二月七日)
 『中国工人』〔1〕の発刊は必要なことである。中国の労働者階級は、この二十年らい、自分の政党――中国共産党の指導のもとで英雄的な闘争をくりひろげ、全国人民のなかでもっとも意識の高い部分となり、中国革命の指導者となった。中国の労働者階級は、農民およびすべての革命的な人民と連合して、帝国主義と封建主義に反対し、新民主主義の中国をうちたてるためにたたかい、日本帝国主義を駆逐するためにたたかってきており、その功績は非常に大きい。だが、中国革命はまだ成功しておらず、自分の階級を結集し、農民やその他の小ブルジョア階級を結集し、知識層を結集し、すべての革命的な人民を結集するために、さらに大きな力をはらわなければならない。これは、きわめて大きな政治的任務であり、組織的任務である。これは、中国共産党の責務であり、労働者階級の先進的な人びとの責務であり、労働者階級全体の責務である。労働者階級と全人民の最終的な解放は、社会主義の実現した時代にはじめて可能であり、中国の労働者階級は、この最終的な目的のために、奮闘しなければならない。だが、社会主義の段階にすすむには、反帝・反封建の民主主義革命の段階を経なければならない。したがって、自分の階級を結集し、人民を結集して、帝国主義と封建主義に反対し、新民主主義の新中国をうちたてるために奮闘すること、これが中国労働者階級の当面の任務である。『中国工人』の発刊は、この任務のためのものである。
 『中国工人』は、平易なことばで、多くの道理を労働者大衆に説明し、労働者階級の抗日闘争の実際を報道し、その経験を総括して、自分の任務を達成するために努力するものである。
 『中国工人』は、労働者を教育し、労働者幹部を訓練する学校になるべきであり、『中国工人』をよむ者はつまりこの学校の生徒である。労働者のなかから、知識があり、能力をもち、虚名を追うのでなく、じみちに仕事をやれるおおぜいの幹部をそだてあげるべきである。このような幹部がおおぜいいなければ、労働者階級が解放をかちとることは不可能である。
 労働者階級は、革命的知識人が自分たちを援助してくれることを歓迎すべきであり、けっしてかれらの援助をこばんではならない。なぜなら、かれらの援助がなければ、自分たちも進歩しないし、革命も成功しないからである。
 わたしは、この刊行物が、りっぱにつくられ、型にはまった、ありきたりの、わけのわからない、味もそっけもない、張りのない記事をぜひともさけて、いきいきとした記事を多くのせるよう希望する。
 刊行物が発刊された以上、一つの事業としてとりくむべきであり、かならずりっぱなものにしなければならない。これはつくる者の責任であるばかりでなく、よむ者の責任でもある。よむ者が意見をだし、短い手紙や投書をよせ、なにをこのみ、なにをこのまないかを知らせることは、非常に重要であり、こうしてこそ、この刊行物をりっぱなものにすることができるのである。
 以上、わたしの希望をのべて、発刊のことばにかえる。



〔1〕 月刊『中国工人』は、一九四〇年二月、延安で創刊され、中国共産党中央労働運動委員会からだされていた。
  
  
  

 
 
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団結と進歩を強調しなければならない
          (一九四〇年二月十日)
     これは、毛沢東同志が延安の『新中華報』の発刊一周年記念のために書いた文章である。

 抗戦、団結、進歩、これは昨年「七・七」記念にあたって共産党が提起した三大方針である。これは三位一体の方針であり、三つのうち、どれ一つ欠くこともできない。抗戦だけを強調して、団結と進歩を強調しないなら、「抗戦」というものもたよりにならないものになり、持久することができなくなる。団結と進歩の綱領を欠いた抗戦は、結局いつかは投降に変わるか、失敗に終わる。われわれ共産党は、かならずこの三者を一つに結合しなければならないと考える。抗戦のためには、投降に反対し、汪精衛《ワンチンウェイ》の売国協定に反対し、汪精衛のかいらい政府に反対し、抗日陣営内にひそんでいるすべての民族裏切り者や投降派に反対しなければならない。団結のためには、分裂運動に反対し、内部摩擦に反対し、抗日陣営の背後からの、八路軍、新四軍およびすべての進歩勢力にたいする進攻に反対し、敵の後方にある抗日根拠地にたいする破壊に反対し、八路軍の後方である陝西《シャンシー》・甘粛《カンスー》・寧夏《ニンシァ》辺区にたいする破壊に反対し、共産党の合法的地位の不承認に反対し、大量に流される「異党活動制限」の文書に反対しなければならない。進歩のためには、後退に反対し、三民主義と『抗戦建国綱領』のたな上げに反対し、「総理遺言」にある「民衆をよびさます」という指示の不履行に反対し、進歩的な青年の強制収容所へのおくりこみに反対し、抗戦の初期にあったわずかばかりの言論、出版の自由の完全な剥奪に反対し、憲政運動を少数者のうけおう官僚事業に変えることに反対し、山西《シャンシー》省での新軍にたいする攻撃、犠盟のぶちこわし、進歩的な人びとの虐殺〔1〕に反対し、三民主義青年団の咸陽《シェンヤン》・楡林《ユイリン》道路、天水《テイエンスイ》=連雲港《レンユィンカン》鉄道一帯での通行人の拉致《らっち》〔2〕に反対し、九人の妾《めかけ》をかこったり、国難に乗じて一億元も金もうけした恥知らずなしわざに反対し、汚職官吏の横行や土豪劣紳ののさばりに反対しなければならない。そうしなければ、団結も進歩もなく、抗戦というものも空念仏にすぎず、抗日の勝利はのぞめない。『新中華報』第二年度の政治方向とはなにか。それは、抗日事業のいっそうの勝利のために、抗戦を害するすべてのくされきった暗黒の現象に反対して、団結と進歩を強調することである。



〔1〕 「犠盟」とは、「山西省犠牲救国同盟会」の略称で、一九三六年から抗日戦争の初期にかけて山西省にできた地方的な大衆抗日団体であった。この団体は、共産党と緊密に協力し、山西省での抗日戦争で大きな役割をはたした。一九三九年十二月、閻錫山は山西省の西部で公然と犠盟をぶちこわし、多くの共産党員、犠盟の幹部および大衆のなかの進歩的な人びとをむざんに殺害した。
〔2〕 一九三九年から、国民党はその御用団体である三民主義青年団の「招待所」という名義をつかって、特務をおくり、軍隊と呼応させて咸陽・楡林道路および天水=連雲港鉄道に、封鎖のための多くの関所を設け、陝西・甘粛・寧夏辺区に出入する進歩的な青年や知識人を抑留し、かれらを強制収容所におくって監禁、虐殺したり、特務になるよう強迫したりした。
  
  
  

 
 
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新民主主義の憲政
(一九四○年二月二十日)
     これは、毛沢東同志が延安の憲政促進会でおこなった演説である。当時、党内には、蒋介石の憲政実施という欺瞞的な宣伝にまどわされて、国民党はほんとうに憲政を実施するかもしれないと考えた同志がかなりいた。毛沢東同志はこの演説のなかで、蒋介石のこのような欺瞞を暴露し、憲政の宣伝を逆につかって、これを、人民の自覚をうながし、蒋介石に民主と自由を要求する武器にした。このため、蒋介石はすぐに欺瞞の手をひっこめ、抗日の時期全体をつうじて、憲政なるものを二度と宣伝しなくなった。

 きょう、延安各界の人民の代表的な人びとが、憲政に関心をよせ、ここで憲政促進会の結成大会をひらいていろ。これはたいへん意義のあることである。われわれのこの会はなんのためであるか。それは、民意を発揚し、日本にうち勝ち、新中国を樹立するためである。
 抗日には、みんなが賛成しており、それはすでにおこなわれている。問題はただ、それを堅持することである。もう一つ民主ということがあるが、これは、いままだおこなわれていない。この二つが、いまの中国にとっていちばん大切なことである。中国に欠けているものはもとより多いが、主として二つのものが欠けている。一つは独立であり、一つは民主である。この二つのうちどちらが欠けても、中国の事はうまくはこばれない。一方では、二つのものが欠けているが、他方では、二つのものがよけいである。二つのよけいなものとはなにか。一つは帝国主義の抑圧であり、一つは封建主義の抑圧である。この二つのよけいなものがあるため、中国は植民地・半植民地・半封建の国になったのである。いま、われわれ全国人民が必要としているのは、主として独立と民主である。したがって、われわれは帝国主義を破壊し、封建主義を破壊するのである。これらのものは断固として徹底的に破壊しなければならず、すこしでも容赦してはならない。ある人は、建設だけが必要で、破壊は必要でない、といっている。それならおたずねするが、汪精衛《ワンチンウェイ》は破壊する必要がないのか。日本帝国主義は破壊する必要がないのか。封建制度は破壊する必要がないのか。これらの悪いものを破壊しないかぎり、建設などは考えられない。これらのものを破壊してはじめて、中国は救われ、建設に着手できるのであり、そうしなければ、それは寝言にすぎない。ふるい、くさったものを破壊してはじめて、新しい健全なものが建設されるのである。独立と民主をあわせたものが、民主的抗日であり、また抗日の民主といわれるものである。民主がなければ、抗日は失敗する。民主がなければ、抗日はつづけられない。民主があれば、八年たたかおうと十年たたかおうと、われわれはかならず勝利することができる。
 憲政とはなにか。民主的な政治のことである。さきほど呉玉章《ウーユイチャン》同志〔1〕のいわれたことに、わたしは賛成である。だが、われわれがいま求めているのは、どのような民主政治であろうか。新民主主義の政治であり、新民主主義の憲政である。それは、ふるい、時代おくれの、欧米型の、ブルジョア独裁の、いわゆる民主政治ではなく、同時にまた、ソ連型の、プロレタリア独裁の、民主政治でもない。
 ふるい型の民主は、外国ではおこなわれたが、いまはもう没落して、反動的なものになっている。われわれは、どんなことがあってもこんな反動的なものを求めてはならない。中国の頑迷《がんめい》派のいう憲政とは、外国のふるい型のブルジョア階級の民主政治のことである。かれらは、口先ではこうした憲政を求めているといっているが、ほんとうにこうした憲政を求めているのではなく、これを口実にして人民をだましているのである。かれらが実際に求めているのはファシズムの一党独裁である。中国の民族ブルジョア階級は、たしかにこのような憲政を求めており、中国でブルジョア独裁を実行しようと考えているが、それは実現できないものである。なぜなら、中国人民は、みんなこのようなものを求めていないし、ブルジョア階級の一階級による独裁を歓迎していないからである。中国の事はかならず中国の大多数の人びとがきめるべきであって、ブルジョア階級という一つの階級だけで政治を請け負うことはだんじてゆるされない。では、社会主義の民主はどうか。もちろん、それはよいもので、将来、全世界のどこでも社会主義の民主を実行するようになるであろう。だが、このような民主は、いまの中国ではまだ実行できないので、われわれとしても、しばらくはそれを求めないことにするほかはない。将来、一定の条件がそなわったのちでなければ、社会主義の民主は実行できないのである。いま、わが中国が必要としている民主政治は、ふるい型の民主でもなければ、社会主義の民主でもなく、いまの中国の国情にあった新民主主義である。いま実施しようとする憲政は、新民主主義の憲政でなければならない。
 新民主主義の憲政とはなにか。それは、いくつかの革命的階級が連合して民族裏切り者、反動派にたいしておこなう独裁である。かつて、「飯があれば、みんなでたべよう」といった人がある。新民主主義はこれにたとえることができるとおもう。飯があれば、みんなでたべようというからには、一党、一派、一階級が独裁すべきではない。それをもっともよくいいあらわしたのが、孫中山《スンチョンシャン》先生の『中国国民党第一回全国代表大会の宣言』のなかのことばである。その宣言ではつぎのようにのべている。「近世各国のいわゆる民権制度は、往々にしてブルジョア階級に専有され、まさしく平民を抑圧する道具になっている。国民党の民権主義についていえば、一般平民の共有するものであって、少数のものが私《わたくし》しうるものではない。」同志諸君、われわれは憲政を研究するにあたって、いろいろの書物を読まなくてはならないが、とくに読まなければならないのはこの宣言であり、この宣言のなかのさきのことばをよく読んで、しっかり頭にいれておくべきである。「一般平民の共有するものであって、少数のものが私しうるものではない」というのが、われわれのいう新民主主義憲政の具体的内容であり、いくつかの革命的階級が連合して民族裏切り者、反動派にたいしておこなう民主主義独裁であり、こんにちわれわれが求めている憲政である。このような憲政が抗日統一戦線の憲政である。
 きょう、われわれがひらいているこの集会は、憲政促進会とよばれている。なぜ「促進」しなくてはならないのか。もしみんなが進んでいるなら、促す必要はない。われわれが苦労してこの集会をひらいたのは、なんのためか。それは、一部のものが進まず、横になってうごかず、進歩しようとしないからである。かれらは進むどころか、あともどりさえする。進ませようとしても、頑として進もうとしない、こういう連中のことを頑迷分子という。手におえないほど頑固なので、大会をひらいて、ひとつ「促」してみようというのである。この「促」すという字はどこからきたのか、だれが発明したのか。これは、われわれが発明したものではなく、偉大な人物、つまり、「余は国民革命に力をつくすことおよそ四十年」といったあの老先生、孫中山先生が発明したものである。見たまえ、先生のあの遺言には「さいきん、国民会議をひらくことを主張した……とくに最短期間のうちに、その実現を『促』すべきであり、このことをくれぐれも頼む」と書いてあるではないか。同志諸君、この「頼み」はただの「頼み」ではなくて、「くれぐれもの頼み」である。「くれぐれもの頼み」とは、なみなみならぬ頼みのことである。それをいいかげんにとりあつかったり、放置したりすることがゆるされるだろうか。「最短期間」というからには、第一にもっとも長いことではなく、第二に比較的長いことでもなく、第三に普通の短さでもなくて、「もっとも短い」ということである。国民会議を最短期間に実現させるには、それを「促」さなければならない。孫先生がなくなってから十五年になるのに、かれの主張した国民会議はいまになってもひらかれていない。毎日、訓政だとさわぎたてて、わけもわからずに時間をつぶし、最短期間を最長期間に変えてしまいながら、それでも、口さえひらけば孫先生をもちだしてくる。在天の孫先生の霊は、こうした不肖の子らをどんなに責めていることだろう。いまの事態はきわめてあきらかで、促さなければけっして進むことはない。後退しているものがたくさんいるし、目ざめていないものもたくさんいるから、「促」さなければならないのである。
 進まないから、促さなければならない。進み方がおそいから、促さなければならない。そこで、われわれは大いに促進会をひらくのである。青年憲政促進会とか、婦人憲政促進会とか、労働者憲政促進会とか、各学校、各機関、各部隊の憲政促進会とかがさかんにつくられており、たいへんよいことである。きょう、われわれがさちに総促進会をひらいて、みんなでこれを促すのは、憲政を早急に実施させ、孫先生の遺訓を早急に実行させるためである。
 ある人はいう。あなたたちは延安にいるが、かれらは各地にいる。あなたたちが促しても、かれらが聞かなければ、なんの役にもたたないではないか、と。ところが役にたつのである。事態が発展しているので、かれらも聞かないわけにはいかない。われわれが大いに会議をひらき、たくさん文章を書き、さかんに演説をやり、どしどし電報をうてば、かれらも聞かないわけにはいかなくなる。われわれが延安でやっている多くの促進会には、二つの意義があるとおもう。一つは研究であり、もう一つは推進である。なぜ研究しなければならないのか。かれらが進まないから促すのであるが、もしかれらが、なぜ促すのかとたずねたら、われわれはその質問に答えなければならない。質問に答えるには、憲政の道理をよく研究しておかなければならない。さきほど呉玉章同志がいろいろ話されたが、それらのことが道理である。各学校、各機関、各部隊、そしてまた各界人民は、みな当面の憲政の問題を研究しなければならない。
 われわれが研究しておけば、人を推進することができる。推進とは「促進」のことである。各方面を推進すれば、各方面はしだいに動きだすだろう。こうして、多くの小さな流れをあつめて、大きな川とし、あらゆるくさりきった暗黒なものをきれいにあらい流せば、新民主主義の憲政がうまれてくる。このような推進の役割は、大きなものとなるであろう。延安の動きは、全国に影響しないわけにはいかない。
 同志諸君。諸君は、集会をひらき、電報をうてば、頑迷分子がいたたまれなくなるとおもうのか。かれらが進歩するとおもうのか。かれらがわれわれの命令にしたがうとおもうのか。そんなことはない。かれらはそんなにやすやすということを聞きはしない。頑迷分子の多くは、頑固専門学校の卒業生である。かれらはきょうも頑固、あすも頑固、あさってもやはり頑固である。頑固とはどういうことか。固とはかたいことであり、頑とは、きょうも、あすも、あさっても進歩しないことである。こうした連中を頑迷分子というのである。こうした頑迷分子にわれわれのいうことを聞かせるのは、なまやさしいことではない。
 世界の従来の憲政をみると、イギリスでも、フランスでも、アメリカでも、あるいはソ連でも、みな革命が成功し、民主が事実となってから、根本法を公布してそれを承認する。これが憲法である。ところが、中国はそうでない。中国の革命はまだ成功していず、国内では、われわれの辺区などをのぞくと、まだ民主政治という事実はない。中国の現在の事実は半植民地・半封建の政治であるから、たとえりっぱな憲法が公布されても、かならず封建勢力にはばまれ、頑迷分子にさまたげられることになり、順調に実施しようとしても不可能である。したがって、いまの憲政運動は、すでに民主化している事実を確認することではなくて、まだかちとっていない民主をたたかいとることである。これは大きな闘争であり、けっして手軽にやれることではない。
 これまで憲政に反対してきた一部のもの〔2〕も、いまでは憲政を口にしている。かれらはなぜ憲政を口にするのだろうか。抗日の人民にせまられて、やむなく調子をあわせているのである。しかも、かれらは声をはりあげ、「われわれは一貫して憲政を主張してきたのだ!」と、鳴り物入りで吹きまくっている。なんとにぎやかなことだろう。何年もまえに、われわれは憲政ということばを聞いたことがあるが、いまになっても憲政の影すら見えない。かれらのいうこととやることとは、うらはらである。これが憲政の二面派というものである。こうした二面派が、「一貫して主張」してきたというものの正体である。現在の頑迷分子が、こうした二面派である。かれらの憲政はまやかしである。諸君はちかい将来、憲法があらわれ、さらには大統領まであらわれるのを見るかもしれない。だが、民主と自由はどうか。それは、いつの日になったらあたえられるのかわからない。憲法は中国にもあったことがある。曹[金+昆]《ツァオクン》が憲法を発布したではないか〔3〕。だが、民主と自由はどこにあっただろうか。大統領なら、もっと多い。ざいしょの大統領は孫中山で、かれはよかったが、袁世凱《ユァンシーカイ》に廃されてしまった。二番目は袁世凱、三番目は黎元洪《リーユァンホン》〔4〕、四番目は馮国璋《フォンクォチャン》〔5〕、五番目は徐世昌《シュイシーチャン》〔6〕、なんと多かったことか。だが、かれらは専制皇帝とどんなちがいがあっただろうか。かれらのものは、憲法にしても、大統領にしても、みんなにせものであった。いまのイギリス、フランス、アメリカなどのような国では、いわゆる憲政とか、いわゆる民主政治とかといっても、実際には、みな人食い政治である。このような状況は中米、南米にもみられ、多くの国は共和国の看板をかかげているが、実際には民主のひとかけらもない。中国のいまの頑迷派も、まったくこのとおりである。かれらの口にする憲政は、「羊頭《ようとう》をかかげて狗肉《くにく》を売る」ものにすぎない。かれらは憲政という羊頭をかかげて、一党独裁の狗肉を売っているのである。わたしはけっして出まかせにかれらの悪口をいっているのではない。わたしのいうことには根拠がある。その根拠とは、かれらが憲政を口にしながら、人民にはすこしの自由もあたえていないことである。
 同志諸君。ほんとうの憲政はけっしてたやすく手にはいるものではなく、困難な闘争をつうじてはじめてかちとられるものである。したがって、諸君は、われわれが集会をひらき、電報をうち、文章を書けば、それで憲政がえられるなどと、けっしておもってはならない。また諸君は、国民参政会〔7〕が決議案をとおし、国民政府が命令をだし、十一月十二日に国民大会〔8〕が招集され、憲法が発布され、さらに大統領まで選挙されると、それで、万事大吉、天下太平だとけっしておもってはならない。それはありえないことであり、そんなことで頭を混乱させてはならない。こうしたことは、民衆がまどわされないように、はっきりと説明しておかなければならない。ことがらはけっしてそんなになまやさしいものではないのである。
 このようにのべてくると、ことがらはこうも困難で、憲政には望みがなく、「万事休す」ということになるのではないか。そうでもない。憲政にはやはり望みがあるし、しかも大いに望みがある。中国はかならず新民主主義の国家になるにちがいない。なぜだろうか。憲政が困難なのは、頑迷分子がじゃまをしているからである。だが、頑迷分子はいつまでも頑固をとおすことはできない。だから、われわれにはまだ大いに望みがある。天下の頑迷分子はきょうも頑固、あすも頑固、あさっても頑固であるが、いつまでも頑固をとおすことはできず、ゆくゆくは変わるものである。たとえば、汪精衛は長いあいだ頑固であったが、抗日という地盤のうえでは、それ以上頑固をはることができなくなり、日本のふところにとびこんでいくほかなかった。また、張国燾《チャンクォタオ》にしても、長いあいだ頑固であったが、われわれがいくども闘争会をひらき、闘争をかさねるうちに、かれも逃げだしてしまった。頑迷分子は、実際には頑であっても固ではない。頑の果ては変わっていき、だれもふりむかない犬の糞のようなものに変わってしまう。なかにはよい方に変わったものもいるが、それも何回となく闘争されて、あやまりを認め、よい方に変わったのである。要するに、頑迷派は変化するものである。頑迷派はいつも、どのようにして人をそこない自己の利をはかるか、どのようにして二面派の行動をとるかといった一連の計画をもっているものである。だが、これまでの頑迷派がえた結果は、いつもかれらの願いとは反対のものであった。かれらはいつも、人をそこなうことからはじめ、自分を傷つけることに終わる。われわれはかつてチェンバレンを評して「もちあげた石で自分の足をうつ」ものだといったが、いまでは、すでにそのとおりになった。チェンバレンは、以前、ヒトラーという石をもちあげてソ連人民の足をうとうと一心に考えていたが、昨年の九月、ドイツとイギリス、フランスとのあいだに戦争がおこったその日から、チェンバレンのもちあげた石はかえってチェンバレン自身の足をうつことになった。それからずっと現在まで、この石はまだチェンバレンをうちつづけている。中国にも、こうした物語はたくさんある。袁世凱は民衆の足をうとうとしたが、結果はかれ自身をうつことになり、数ヵ月のあいだ皇帝になっただけで死んでしまった〔9〕。段祺瑞《トヮンチーロイ》、徐世昌、曹[金+昆]、呉佩孚《ウーペイフー》なども人民を弾圧しようとしたが、結果はみな人民にくつがえされてしまった。人をそこなって自己の利をはかろうとするものは、みなかんばしくない結末に終わるのである。
 いまの反共頑迷派も、もしかれらが進歩しなければ、やはりこの通則からのがれることはできないだろう。かれらは統一という美名にかくれて、進歩的な陝西《シャンシー》・甘粛《カンスー》・寧夏《ニンシァ》辺区を解消し、進歩的な八路軍、新四軍を解消し、進歩的な共産党を解消し、進歩的な人民団体を解消しようとしている。この一連の大がかりな計画はみなそろっている。だが、わたしのみるところ、きたるべき結果は、けっして頑固が進歩を解消するのではなく、逆に、進歩が頑固を解消することになるだろう。頑迷分子が解消されまいとするなら、かれら自身が進歩する以外にない。したがって、われわれはいつもそれらの頑迷分子に、八路軍を攻撃するな、共産党や辺区に反対するなと勧告しているのである。もしかれらがどうしてもやるというのなら、かれらはまず決議案をつくって、その第一条に、「われわれ頑迷分子は、自身を消滅し、共産党に大きな発展の機会をあたえる決意をもって、共産党と辺区に反対する任務をになう」と、書くべきである。頑迷分子の「共産党討伐」の経験はかなり豊富である。もしかれらがいままた「共産党討伐」をやろうとするのなら、それもかれらの自由である。かれらが、自分の飯を食ったし眠りも十分とったから、「討伐」をやろうというのなら、それも勝手にやらせるほかはない。ただ、かれらはさきのような決議を実行する用意をしておかなければならない。これは動かしがたいことである。過去十年間の「共産党討伐」は、すべてこの決議どおりにおこなわれてきた。今後、さらに「討伐」をやろうとするなら、またこの決議をくりかえさなければならない。だから、やはり「討伐」はやらない方が上策だと、わたしはかれるにすすめる。なぜなら、全国人民が求めているのは、抗日であり、団結であり、進歩であって、「共産党討伐」ではないからである。したがって、「共産党討伐」をするものは、かならず失敗する。
 要するに、後退的な行為はすべて、それをやる者のはじめの願いとは反対の結果になるのである。古今東西に、その例外はない。
 いまの憲政もそうである。頑迷派があいかわらず憲政に反対するなら、きっとかれらの願いとは反対の結果になるだろう。この憲政運動の方向は、けっして頑迷派の規定した路線にそってすすむことはなく、きっと、かれらの願いとは反対の方向、つまり人民の規定する路線にそってすすむにちがいない。全国人民がそうすることを求めており、中国の歴史の発展がそうすることを求めており、全世界の趨勢《すうせい》がわれわれにそうすることを求めているから、そうなるのは確実である。だれかこの方向にさからえよう。歴史の巨輪はひきもどせるものではない。ただ、それをなしとげるには時間が必要であり、一朝一夕に成功するものではない。また、努力が必要であり、いい加減なことではできるものではない。人民大衆を立ちあがらせることも必要であり、一人や二人の力で効果のあがるものではない。きょう、われわれがこの集会をひらいたのは、よいことである。このあと、さらに文章を書き、通告電をうち、また五台山《ウータイシャン》、大行山《タイハンシャン》、華北、華中で、全国のいたるところで、このような集会をひらく必要がある。こうして数年間もつづければ、目鼻がつくであろう。われわれは、かならずこれをりっぱにやらなければならず、かならず民主と自由をたたかいとらなければならず、またかならず新民主主義の憲政を実行しなければならない。もしそうしないで、頑迷派のやり方にしたがうなら、国は滅びてしまう。国が滅びるのをさけるには、どうしてもそうしなければならない。この目的のためには、みんなが努力しなければならない。努力しさえすれば、われわれの事業は大いに望みがある。また、頑迷派はなんといっても少数であること、大多数の人は頑迷派ではなく、進歩できるものだということを知らなければならない。多数をもって少数に対抗し、さらに努力をかさねたなら、これはいっそう望みのあるものとなる。したがって、わたしはことがらは困難であるが、大いに望みがあるというのである。



〔1〕 呉玉章同志は、当時、延安各界憲政促進会の会長であった。
〔2〕 蒋介石をかしらとする国民党反動派をさす。
〔3〕 一九二三年、北洋軍閥の曹[金+昆]は、一票につき銀貨五千元の賄賂で国会議員五百九十名を買収して「大統領」にえらばれ、つづいて、これらの議員の制定した憲法を公布した。当時、この憲法は、「曹[金+昆]憲法」または「賄選憲法」とよばれた。
〔4〕 黎元洪は、もと清朝の新軍第二十一混成協の協統(のちの旅団長にあたる)であった。一九一一年、武昌蜂起のときは、やむなく革命の側に立ち、革命軍の湖北省都督となった。北洋軍閥が支配していた時期には副大統領、大統領などを歴任した。
〔5〕 馮国璋は袁世凱の部下で、袁世凱の死後、北洋軍閥直隷系(河北省系)の頭目となった。一九一七年、かれは黎元洪を追いはらって北京政府の大統領となった。
〔6〕 徐世昌は北洋軍閥の政治屋で、一九一八年、段祺瑞の御用国会で大統領にえらばれた。
〔7〕 「国民参政会」は、抗日戦争が始まってから、国民党政府がやむをえずにつくった、諮問的性質しかもたない機構である。参政員は、みな国民党政府が「招聘」したもので、形のうえでは、抗日的な諸政党の代表をふくめていたが、国民党員が大多数をしめていた。この国民参政会は国民党政府の政策や措置にたいして、なんら拘束する権限をもっていなかった。蒋介石の国民党が日ましに反動化して、参政員のなかで国民党反動派と他の反動分子のしめる割合がいっそう増加し、民主的な人びとがいっそう減少し、しかも、その言論がいっそう束縛されるようになったことから、国民参政会が国民党反動派のたんなる御用機関にすぎないことは、日ましにあきらかになった。中国共産党の参政員は、一九四一年の安徽省南部事変ののち、国民党の反動的措置に抗議して、いくどか参政会への出席を拒否した。
〔8〕 一九三九年九月、国民参政会第四回会議では、中国共産党と他の諸政党の民主的な人びとの提案にもとづき、国民大会を期日をきめて招集し、憲政を実施するという命令を正式にだすことを国民党政府に要求する決議が採択された。同年十一月、国民党中央執行委員会第六回全体会議は、一九四〇年十一月十二日に国民大会を招集すると公表した。国民党は、これを機会に、欺瞞的宣伝をさかんにおこなった。その後、これらの決議はなに一つ実行されなかった。
〔9〕 袁世凱は、一九一五年十二月十二日、みずから皇帝と称したが、一九一六年三月二十二日には、やむなく皇帝の称号をとり消した。
  
  
  

 
 
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