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maobadi
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 毛沢東選集(Japanese edition. 5 volumes)

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毛沢東選集 第一巻
北京 外文出版社
(1968年 初版を電子化)

     本選集の出版について

 本題集には、中国革命の各時糊における毛沢東同志の重要な著作がおさめられている。数年前、各地方ではいくつかのちがった版の『毛沢東選集』を出版したか、いずれも著者の検閲をうけていず、体裁もかなりまちまちで、字句にもあやまりがあり、さらに一部の重要な著作もおさめられていなかった。現在のこの選集は、中国共産党成立ののち経過したそれぞれの歴史的時期にしたがい、また、著作の年月順にしたがって編集されたものである。この選集には、各地方でこれまでに出版された選集にはふくまれていなかった重要著作をできるだけあつめた。この選集におさめた著作は、すべて著者の校閲をへており、そのうち、一部のところには著者が字句のうえで多少の修正をくわえ、また、いくつかの文章については内容上多少の補足と改正をくわえている。
 つぎに、出版実務上のいくつかの点についてのべる。
 第一に、こんど出版されるこの選集は、まだ完全なものとはいえない。国民党反動派が革命文献をいん滅したために、また長いあいだの戦争のなかで革命文献が散逸したために、毛沢東同志の全著作、とくに毛沢東同志が書いた多くの書簡や電報(これらは毛沢東同志の著作のなかで大きな部分をしめている)は、いまでもまださがしだせないでいる。
 第二に、これまでずいぶん読まれた一部の著作、たとえば『農村調査』は、著者の意見にしたがって、ここにはおさめていないし、また、『経済問題と財政問題』も、著者の意見にしたがって、そのなかの第一章(すなわち「過去の活動についての基本的総括」)をおさめただけである。
 第三に、この選集には多少の注釈をくわえた。その一部分は解題的なもので、本文の標題のあとにおいた。他の部分は、政治的性質のものと技術的性質のもので、これは本文の末尾においた。
 第四に、この選集には二種類の装丁本がある。その一つは、各時期の著作を合冊にした一巻本であり、他は四巻本である。四巻本の第一巻には第一次国内革命戦争の時期と第二次国内革命戦争の時期の著作がおさめられ、第二巻と第三巻には抗日戦争の時期の著作がおさめられ、第四巻には第三次国内革命戦争の時期の著作がおさめちれている。

中国共産党中央委員会毛沢東選集出版委員会  
一九五一年八月二十五日

     電子版凡例(原版の凡例相当部分を適宜変更)

一 本訳書は北京人民出版社一九六四年九月出版の『毛沢東選集』第一巻から第四巻までの完訳である。各論文の解題と注釈もこの版から訳出したものである。
一 注釈は底注と訳注にわかれ、原注は漢数字を〔 〕でかこみ(電子版は漢数字ではなく、半角数字を〔 〕で囲んでいる)、各論文の末尾においた。訳注は訳者がくわえたもので、算用数字を○(電子版では機種依存文字である①などで表現)でかこみ、原注のあとにおいた。
一 度量衡、通貨、行政区画については、一部をのぞいてすべて原文のままの単位を用い、訳注を付した。
一 読み仮名は、《 》で囲まれた範囲で示される。
一 第二水準で表現できない漢字は、基本的に[片+旁]で表現した。それ以外の表現も、適宜[ ]内で記した。
一 本電子版はMS IMEを用いて作成された。
一 傍点のある部分は斜字とし、電子版でも太字の部分は太字で示した。
一 原文では旧字体などで表現されていても、電子版で表現できないなどの理由により新字体で表現しているところがある。例えば、蒋介石は原文では旧字体だが、電子版では新字体である。


目次
  
  
  

 
 
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顶端 Posted: 2010-12-01 11:39 | [楼 主]
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第一次国内革命戦争の時期



中国社会各階級の分析
          (一九二六年三月)
     毛沢東同志のこの論文は、当時、党内にあった三つの偏向に反対するために書かれたものである。当時、党内にあった第一の偏向は、陳独秀に代表されるもので、国民党との協力にだけ目をむけ、農民のことを忘れていた。これは右翼日和見主義である。第二の偏向は、張国燾に代表されるもので、労働運動にだけ目をむけ、やはり農民のことを忘れていた。これは「左」翼日和見主義である。この二つの日和見主義は、どちらも自分の力の不足を感じていながら、どこにその力をさがし求めるのか、どこで広範な同盟軍をかちとるのかがわかっていなかった。毛沢東同志は、中国のプロレタリア階級のもっとも広範な、もっとも忠実な同盟軍は農民であると指摘し、それによって、中国革命におけるもっとも主要な同盟軍の問題を解決した。毛沢東同志は、また、当時の民族ブルジョア階級が動揺する階級であること、革命の高揚期にはかれらが分化し、その右翼は帝国主義の側にはしるであろうことを予見した。一九二七年におこった事変は、このことを立証している。

 だれがわれわれの敵か。だれがわれわれの友か。この問題は革命のいちばん重要な問題である。中国のこれまでの革命闘争はすべて成果が非常にすくなかったが、その根本原因は、真の友と団結して真の敵を攻撃することができなかったことにある。革命の党は大衆の道案内であり、革命のなかで革命の党が道案内をあやまったばあい革命が失敗しなかったためしはない。われわれの革命が道案内をあやまらず、きっと成功するという確信をもつためには、われわれの真の友と団結して真の敵を攻撃することに心をそそがなければならない。真の敵と真の友を見わけるためには、中国社会各階級の経済的地位とその革命にたいする態度について、おおよその分析をしなければならない。
 中国社会の各階級はどのような状態にあるだろうか。
 地主階級と買弁階級。経済的におくれている半植民地の中国では、地主階級と買弁階級は完全に国際ブルジョア階級の従属物であり、その生存と発展は帝国主義に依存している。これらの階級は、中国のもっともおくれた、もっとも反動的な生産関係を代表しており、中国の生産力の発展をさまたげている。かれらは中国革命の目的とはまったくあいいれない。とりわけ、大地主階級と大買弁階級は、一貫して帝国主義の側にたっており、極端な反革命派である。その政治的代表は国家主義派〔1〕と国民党右派である。
 中産階級。この階級は、中国の都市と農村における資本主義的生産関係を代表している。中産階級とは主として民族ブルジョア階級のことであり、かれらは中国革命にたいして矛盾した態度をとっている。つまり、外国資本の打撃と軍閥の圧迫をうけて苦痛を感じるときには、革命を必要とし、帝国主義反対、軍閥反対の革命運動に賛成する。ところが、その革命に、国内では自国のプロレタリア階級がはげしい勢いで参加し、国外では国際プロレタリア階級が積極的な援助をあたえて、そのため、大ブルジョア階級の地位にのしあがろうとするかれらの階級的な発展が脅威を感じるようになると、こんどは革命に疑いをもつのである。かれらの政治的主張は、民族ブルジョア階級一階級の支配する国家を実現することである。戴季陶《タイチータオ》〔2〕の「真の信奉者」と自称するある男が、北京《ペイチン》の『晨報』〔3〕紙上で、「左手をふりあげて帝国主義をうちたおし、右手をふりあげて共産党をうちたおせ」ととなえている。このことばは、この階級の矛盾と狼狽《ろうばい》ぶりをうきぼりにしたものである。かれらは、国民党の民生主義を階級闘争の学説で解釈することに反対し、国民党がソ連と連合し共産党や左派の人びとをうけいれる〔4〕ことに反対している。しかし、この階級のくわだて――民族ブルジョア階級の支配する国家を実現することは、まったく不可能である。なぜなら、現在の世界は革命と反革命の二大勢力が最後の闘争をおこなっている局面にあるからである。この二大勢力は二つの大きな旗をかかげている。一つは革命の赤い大きな顔であり、第三インターナショナルがそれを高くかかげて、全世界のあらゆる被抑圧階級に、その旗のもとに集まるよう呼びかけている。もう一つは反革命の白い大きな旗であり、国際連盟がそれを高くかかげて、全世界のあらゆる反革命分子に、その旗のもとに集まるよう呼びかけている。中間的な諸階級は、かならず急速に分化して、あるいは左へはしって革命派につき、あるいは右へはしって反革命派につくのであり、かれらには「独立」の余地はない。したがって、中国の中産階級が自分の階級を主体として、「独立」して革命をやるという思想は、たんなる幻想にすぎない。
 小ブルジョア階級。たとえば自作農〔5〕、手工業主、下層の知識層(学生、小中学校教員、下級官公吏、下級事務員、下層の弁護士)、小商人などはみなこの部類にふくまれる。この階級は、数のうえでも、階級性のうえでも、大いに注目する必要がある。自作農と手工業主がいとなんでいるのはいずれも小生産的経済である。この小ブルジョア階級のなかのそれぞれの階層は、ともに小ブルジョア階級の経済的地位におかれてはいるが、三つのちがった部分にわかれている。第一の部分は、金にも食糧にも余裕があるもの、つまり、その肉体労働または頭脳労働による収入で自分の生活をまかなえるだけでなく、毎年、余剰が出るものである。こういう人びとは、金もうけの考えが非常につよく、趙公さま〔6〕をたいへん熱心におがみ、大もうけをしようとまでは妄想しなくても、なんとかして中産階級の地位にのしあがろうとする。かれらは羽振りのよい小金持ちをみると、いつもよだれが出るほどうらやましくてたまらない。こういう人びとは、きもっ玉が小さくて、役人をおそれ、革命をもいくらかおそれる。かれらは経済的地位がかなり中産階級に近いので、中産階級の宣伝をかなり信じており、革命にたいして懐疑的な態度をとる。この部分の人びとは、小ブルジョア階級のなかでは少数であり、小ブルジョア階級の右翼である。第二の部分は、経済的にはだいたい自分の生活をまかなえる人びとである。この部分の人びとは、第一の部分の人びととは大いにちがう。かれらも金もうけはしたいが、趙公さまがどうしてももうけさせてくれない。そればかりか、近年らい、帝国主義、軍閥、封建地主、買弁大ブルジョア階級の抑圧と搾取によって、かれらはいまの世の中がもはや昔の世の中ではないと感じている。そして、いまでは、これまでどおりに働いていただけでは、生活が維持できなくなると感じている。生活を維持するためには、働く時間をのばして、まいにちはやくおき、おそくまで働き、仕事にいっそう心をそそがなければならない。かれらも、いくらか人をののしるようになり、外国人を「洋鬼《ヤンクイ》」とののしり、軍閥を「強盗司令官」とののしり、土豪劣紳を「血も涙もない業突張りしとののしる。帝国主義反対、軍閥反対の運動にたいしては、ただ成功するとはかぎらないという疑いから(外国人や軍閥の勢力がとても大きいという理由で)、おいそれとは参加せず、中立的な態度をとる。だが、けっして革命に反対はしない。この部分の人びとは数が非常に多く、だいたい、小ブルジョア階級の半数をしめる。第三の部分は、暮らしが落ちめになっていく人びとである。この部分の人びとの多くは、だいたいにおいて、もとはいわゆる裕福な家であったが、だんだんもちこたえるのがやっとになり、しだいに暮らしが落ちめになってきた。かれらは年の暮れの決算ごとに、「ああ、また赤字だ」とおどろく。こうした人びとは、以前はよい暮らしをしていたのが、その後、年ごとに落ちめになり、借金がしだいにかさみ、だんだんみじめな暮らしになってくるので、「行く末を考えると、ぞっとする」のである。こうした人びとが精神的に感ずる苦痛は大きい。というのは、昔といまの相反した対比があるからである。こうした人びとは革命運動のなかではかなり重要であって、数もすくなくない大衆であり、小ブルジョア階級の左翼である。以上にのべた小ブルジョア階級の三つの部分は、その革命にたいする態度が、平時にはそれぞれちがう。だが、戦時になると、つまり、革命の波が高まって勝利のきざしがみえてくると、小ブルジョア階級の左派が革命に参加するばかりでなく、中間派も革命に参加するだろうし、右派の人びとまでがプロレタリア階級と小ブルジョア階級左派の革命の大波にまきこまれて、革命についていくほかなくなる。一九二五年の五・三〇運動〔7〕や各地の農民運動の経験からみて、この断定はまちがっていない。
 半プロレタリア階級。ここでいう半プロレタリア階級には、(一)半自作農の圧倒的多数〔8〕、(ニ)貧農、(三)小手工業者、(四)店員〔9〕、(五)行商人の五種類がふくまれる。半自作農の圧倒的多数と貧農は、農村できわめて数の多い大衆である。農民問題とは、主としてかれらの問題である。半自作農、貧農および小手工業者がいとなんでいるのは、いずれもいっそう零細な小生産的経済である。半自作農の圧倒的多数と貧農は、ともに、半プロレタリア階級にふくまれるが、その経済状態はやはり上、中、下の三つに細分される。半自作農は、その生活が自作農よりも苦しい。毎年、食糧のほぼ半分がたりなくなるので、それをおぎなうために、人の土地を小作するか、労働力の一部を売るか、小商売をやるかしなければならない。春から夏にかけての端境《はざかい》期には、高い利息で人から金を借りたり、高い値段で人から食糧を買ったりするため、人にたよらなくてすむ自作農にくらべて、境遇はもちろん苦しいにはちがいないが、貧農よりはましである。なぜなら、貧農は土地をもたないので、毎年耕作しても、収穫の半分か、それ以下しか自分のものにならないが、半自作農なら、人から借りている土地では収穫の半分か、それ以下しか自分のものにならなくても、自分の所有する土地では、全部を自分のものにすることができるからである。したがって、半自作農の革命性は自作農にまさっているが、貧農にはおよばない。貧農は農村の小作農であり、地主の搾取をうけている。その経済的地位は、さらに二つの部分にわかれる。一つの部分の貧農は、わりあい十分な農具といくらかの資金をもっている。こうした農民は、毎年の労働の結果として、収穫の半分を自分のものにすることができる。たりない部分は、雑穀を植え、魚やえびをとり、鶏や豚を飼い、あるいは労働力の一部を売って、なんとか生活を維持していき、苦労と貧乏のなかでも、どうにか年だけは越していこうとおもっている。したがって、その生活は半自作農よりも苦しいが、もう一つの部分の貧農よりはましである。その革命性は半自作農にまさっているが、もう一つの部分の貧農にはおよばない。もう一つの部分の貧農は、十分な農具もなければ、資金もなく、肥料もたりず、土地の収穫もすくなくて、小作料をおさめてしまえば、いくらも残らないから労働力の一部を売ることがいっそう必要である。凶作にみまわれたときには、親戚や友人に泣きついて助けをもとめ、同斗何升かの穀物を借りて、やっと三日、四日と食いつなぐが、借金がかさんで、重荷を負った牛のようにあえいでいる。かれらは農民のなかではもっとも苦しんでおり、革命の宣伝をもっともよくうけいれる。小手工業者が半プロレタリア階級とよばれるのは、自分が簡単な生産手段をもっていて、しかも自由職業ではあるが、かれらもつねに労働力の一部を売ることを余儀なくされており、その経済的地位がほぼ農村の貧農にあたるからである。家庭の負担が重くて、収入と生活費がつりあわないため、しばしば貧困の圧迫と失業の脅威にさらされており、その点でもだいたい貧農とおなじである。店員は商店のやとい人で、わずかな給料を家庭の費用にあてているが、物価は年々あがるのに、とかく給料は数年に一回しかあがらない。たまたま、こうした人たちとうちとけて話しあってみると、しきりにその苦しさを訴える。その地位は貧農や小手工業者と似たりよったりで、革命の宣伝をもっともよくうけいれる。行商人は、かつぎ売りにしても、露天あきないにしても、ともかく、元手がすくなく、もうけもわずかで、衣食にこと欠いている。その地位は貧農と似たりよったりで、現状をあらためる革命を必要としている点でも貧農とおなじである。
 プロレタリア階級。近代工業プロレタリア階級はほぼ二百万人である。中国は経済的におくれているので、近代工業プロレタリア階級の数は多くない。二百万前後の産業労働者のうち、おもなものは鉄道、鉱山、海運、紡績、造船の五つの産業の労働者であり、そのうち非常に多くのものが外国資本の産業で奴隷のようにつかわれている。工業プロレタリア階級は、数こそ多くないが、中国の新しい生産力の代表者であり、近代中国のもっとも進歩的な階級であって、革命運動の指導勢力となっている。ここ四年らいのストライキ運動、たとえば海員スト〔10〕、鉄道スト〔11〕、開[シ+欒]《カイロワン》炭鉱のストと焦作《チァオツォ》炭鉱のスト〔12〕、沙面《シャーミェン》のスト〔13〕ならびに「五・三〇」以後の上海《シャンハイ》、香港《シャンカン》両地の大ストライキ〔14〕がしめした力をみれば、工業プロレタリア階級が中国革命でしめている地位の重要性がわかる。かれらがそうなりうる第一の原因は、集中していることである。他のどの部分の人びともかれらのようには集中していない。第二の原因は、経済的地位の低いことである。かれらは生産手段をうしない、二本の手が残るだけで、金もうけの望みをたたれ、そのうえ帝国主義、軍閥、ブルジョア階級からきわめて残酷なあつかいをうけているので、とくに戦闘的である。都市の苦力《クーリー》労働者の力も大いに注目すべきである。波戸場の荷役人夫と人力車夫がその多数をしめ、汲みとり人夫、道路掃除夫などもこの部類にふくまれる。かれらは二本の手のほかには、なに一つもたず、その経済的地位は産業労働者に似ているが、ただ産業労働者ほどの集中性も、生産上の重要性もない。中国には、新しい資本主義的農業はまだすくない。農村プロレタリア階級とは、年ぎめ、月ぎめ、日やといなどの雇農をさす。これらの雇農は、土地も農具もないばかりか、びた一文の資金さえなく、ただ労働力を売ってその日その日を送るほかはない。労働時間の長いこと、貸金のすくないこと、待遇のわるいこと、職業の不安定なことでは、他の労働者よりもひどい。こうした人びとは農村でもっとも困難を感じており、農民運動では貧農とおなじように重要な地位にある。
 このほかにもなお、数のすくなくないルンペン・プロレタリアがいる。土地をうしなった農民や仕事にありつけない手工業労働者がそれである。かれらは、世の中でいちばん不安定な生活をしている。かれらは各地に秘密組織をもっており、たとえば、福建《フーチェン》、広東《コワントン》両省の「三合会」、湖南《フーナン》、湖北《フーペイ》、貴州《コイチョウ》、四川《スーチョワン》の諸省の「哥老《コーラオ》会」、安徽《アンホイ》、河南《ホーナン》、山東《シャントン》などの諸省の「大刀会」、直隷《チーリー》省および東北三省の「在理会」、上海などの「青幇《チンパン》〔15〕は、みなかれらの政治的経済的闘争の相互援助団体であった。これらの人びとをどうあつかうかは、中国のむずかしい問題の一つである。これらの人びとは非常に勇敢にたたかえるが、破壊性をもっている。うまくみちびけば、革命の力になりうる。
 以上にのべたことをまとめてみると、つぎのことがわかる。帝国主義と結託したすべての軍閥、官僚、買弁階級、大地主階級およびかれらに従属する反動的な一部の知識人は、われわれの敵である。工業プロレタリア階級はわれわれの革命の指導勢力である。すべての半プロレタリア階級、小ブルジョア階級は、われわれにもっとも近い友である。たえず動揺している中産階級は、その右翼がわれわれの敵になりうるだろうし、その左翼がわれわれの友になりうるだろう。だが、われわれは、かれらにわれわれの陣営をかきみださせないよう、つねに警戒する必要がある。



〔1〕  国家主義派とは、当時「中国国家主義青年団」を組織し、のちに「中国青年党」と名をあらためた、ひとにぎりのファッショ的な恥しらずな政客をさす。かれらは、政権の座にあるいろいろな反動派および帝国主義から手当をうけて、反ソ、反共をおこなうことを反革命的な職業としていた。
〔2〕 戴季陶は、若いころから国民党に参加し、蒋介石といっしょに証券取引所の投機商売を経営したことがある。一九二五年、孫中山が逝去したのち、反共の扇動活動に従事し、蒋介石が一九二七年に反革命クーデターをおこすための精神的準備をした。かれは長いあいだ蒋介石の反革命の忠実な手先をつとめた。一九四九年三月、かれは蒋介石の支配が崩壊にひんし、前途がもはや絶望となったのをみて自殺した。
〔3〕 北京『晨報』は、当時政治的に北洋軍閥の支配を支持していた政治団体の一つ――研究系の機関紙であった。
〔4〕 一九二三年、孫中山は、中国共産党の援助のもとに、国民党を改組し、国共合作をおこない、共産党員の国民党への参加をうけいれることをきめた。また、一九二四年一月、広州で国民党第一回全国代表大会をひらき、連ソ、連共、農労援助という三大政策を確立した。当時、毛沢東同志は李大釗、林伯渠、瞿秋白らの諸同志とともにこの大会に参加し、国民党を革命の道へすすませるよう援助するうえで重要な役割をはたした。これらの同志は、それぞれ当時の国民党中央執行委員会の委員または委員候補にえらばれた。
〔5〕 毛沢東同志は、ここでは中農をさしている。
〔6〕 趙公さまは、中国の民間に語りつたえられている金もうけの神さまで、名は趙公明という。
〔7〕 一九二五年五月三十日、上海のイギリス警官の中国人民殺害事件に全国人民が抗議した反帝国主義運動をさす。一九二五年五月、青島、上海などの日本の紡績工場で、あいついで大規模なストライキ闘争がおこったが、日本帝国主義とその手先北洋軍閥の弾圧にあった。五月十五日、上海の日本の紡績工場の資本家は労働者顧正紅を射殺し、労働者十余人を傷つけた。二十八日、青島の労働者八人が反動政府に殺害された。三十日、上海の学生二千余人が租界内で労働者声援を宣伝し、租界の接収をよびかけ、ついで大衆一万余人を集めて、イギリス租界警察署の門前で「帝国主義を打倒せよ」、「全中国人民は団結せよ」などのスローガンを叫んだ。イギリス帝国主義の警官は、ただちに発砲、虐殺の挙に出、多くの学生を殺傷した。これが有名な「五・三〇虐殺事件」である。この大虐殺事件は、ただちに全国人民の憤激をまきおこし、いたるところでデモ行進やストライキ、授業スト、開店ストがわこなわれ、きわめて大規模な反帝国主義運動となった。
〔8〕 毛沢東同志は、ここでは半自作、半小作の貧しい農民をさしている。
〔9〕 中国の店員にはいろいろな層があった。毛沢東同志がここでさしているのは、店員のうち比較的多数をしめる人びとのことで、このほかに、一部の下層店員はプロレタリア階級の生活をしていた。
〔10〕 一九二二年はじめの香港の海員ストと長江の船員ストをさす。香港の海員は、八週間にわたってストライキを堅持し、はげしい流血の闘争をへて、最後に、香港のイギリス帝国主義当局に、賃金の増額、もとの労働組合の復活、逮捕された労働者の釈放、殺害された労働者の慰謝を承諾させた。つづいて長江船員労働者もストライキにはいり、二週間堅持して、これも勝利をおさめた。
〔11〕 中国共産党は、一九二一年に創立されると、すぐ鉄道労働者のあいだで組織活動をおこなった。一九二二年と一九二三年には、各主要鉄道で、共産党の指導のもとにストライキ闘争がおこなわれた。もっとも有名なのは、一九二三年二月四日、京漢鉄道(すなわち北京から漢□までの鉄道)の労働者が総工会を組織する自由をかちとるためおこなったゼネストである。イギリス帝国主義に支持された北洋軍閥の呉佩孚、蕭輝南は、二月七日、ストライキ労働者にたいして残酷な虐殺をおこなった。これが歴史上有名な「二・七虐殺事件」である。
〔12〕 開[シ+欒]炭鉱は開平・[シ+欒]洲両炭鉱区の総称で、中国の河北省にある。互いにつらなっている大炭鉱区で、五万余人の炭鉱労働者がいた。一九〇〇年の義和団運動のとき、イギリス帝国主義が開平炭鉱を略奪したので、中国人は別に[シ+欒]州炭鉱公司を設立した。だが、のちにこれも開[シ+欒]鉱務総局に合併され、両鉱区はついにイギリス帝国主義に独占されてしまった。開[シ+欒]ストとは一九二二年十月のストライキをさす。焦作炭鉱は、河南省の北部にある中国の有名な炭鉱区である。焦作ストは、一九二五年七月一日から八月九日までのストライキをさす。
〔13〕 沙面は当時広州にあったイギリス帝国主義の租界である。一九二四年七月、沙面を支配していたイギリス帝国主義者は沙面の中国人が租界に出入するには本人の写真をはった通行証を携帯しなければならないこと、ただし、外国人の出入は自由であることを規定した新しい警察官職務執行規則を公布した。沙面の労働者はこの不法な措置に抗議して、七月十五日にストライキを宣言した。その結果、イギリス帝国主義者はこの新しい警察官職務執行規則の廃止をよぎなくされた。
〔14〕 一九二五年五月三十日の上海事件ののち、六月一日に上海のゼネストがはじまり、六月十九日に香港のゼネストがはじまった。ストライキに参加した労働者は、前者が二十余万、後者が二十五万であった。香港の大ストライキは全国人民の支援のもとに、一年四ヵ月も堅持され、世界の労働運動史上もっとも長いストライキとなった。
〔15〕 三合会、哥老会、大刀会、在理会、青幇は、民間にあった原始的な形の秘密結社で、そ
の参加者はおもに破産した農民、失業した手工業者およびルンペン・プロレタリアであった。中国の封建時代には、これらの人びとは、たいてい宗教、迷信をその結束の道具とし、家父長制の組織形態をとって、さまざまの名目の結社をつくり、なかには武装組織をもっているものもあった。 かれらは、このような組織によって社会生活のなかで相互援助をはかり、また、ある時期には闘争をおこしてかれらを抑圧する官僚や地主に反抗したこともあった。だが、農民や手工業者がこのようなおくれた組織から活路をみいだせないことはきわめてあきらかであった。このようなおくれた組織は、また、とかく地主や顔役にあやつられ、利用されやすく、そのうえ、盲目的な破壊性をおびていたので、なかには反動勢力に変わってしまったものもある。一九二七年、蒋介石が反革命クーテターをおこした時には、かれはこうしたれくれた組織を勤労人民の団結を破壊し、革命を破壊する道具として利用した。近代工業プロレタリア階級の力が大きくもり上がってからは、農民は労働者階級の指導をうけて、まったく新しい組織をしだいにうちたてていったので、このような原始的なおくれた組織はその存在価値をうしなってしまった。
訳注
① ふるい中国では、外国の資本家は、一部の中国人をやとって、経済侵略をやるための代理人にしていた。これらの代理人は「買弁」とよばれていた。買弁階級は、直接帝国主義に奉仕し、それに養われているブルジョア階級であり、かれらは、封建勢力とありとあらゆる線でつながりをもっていた。
② 民族ブルジョア階級は、主として中層ブルジョア階級のことをいう。かれらは、帝国主義とつながりをもっていないか、あるいは、つながりのわりあいすくない一部のブルジョア階級のことで、帝国主義につよく依存していた一部の買弁的なブルジョア階級と区別される。この階級は二面性をもっていて、一方では革命に参加する可能性があるが、また一方では革命の敵にたいして妥協性をもっている。
③ 民生主義は、孫中山(名は文、字《あざな》は逸仙)が中国ブルジョア民主主義革命の時期に提起した三民主義(民族主義、民権主義、民生主義)の構成部分の一つである。一九二四年、孫中山は中国共産党の提案をうけいれて、三民主義についてあらたな解釈をくだし、民生主義で提起した「地権の平均、資本の節制」というスローガンをつぎのように解釈した。つまり、私的資本が国家の経済と人民の生活を左右することに反対し、少数の人が土地を独占することに反対し、耕すものがその土地をもつことを主張することである。これちの主張は、依然としてブルジョア民主主義革命のわく内にぞくするものである。蒋介石が革命を裏切ったのち、これらの主張は国民党によって完全に放棄されてしまった。
④ 土豪劣紳は、地方での地主階級の政治的代表者で(富農のなかにも、しばしば比較的小さい土豪がいる)、権力機構をあやつり、裁判権を一手ににぎり、腐敗しきって、汚職や悪事のかぎりをつくし、人民をしいたげていた。
⑤ 中国の一升は、日本の約五合(〇・五五三升)に相当し、中国の一斗は日本の約五升にあたる。十升が一斗で、十斗が一石である。
⑥ 直隷省は、清朝と中華民国初年の一つの省名で、一九二八年に河北省と改称された。
  
  
  

 
 
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湖南省農民運動の視察報告
          (一九二七年三月)
 毛沢東同志のこの論文は、当時、党内外にあった農民の革命闘争にたいする非難にこたえるために書かれたものである。これらの非難にこたえるために、毛沢東同志は湖南省にいって、三十二日間の視察活動をおこない、この報告を書いた。当時、党内では陳独秀をはじめとする右翼日和見主義者が、毛沢東同志の意見をうけいれようとせず、自分たちのあやまった見解を固持していた。かれらのあやまりは、主として国民党の反動的潮流にきもをつぶし、すでにおこり、またおこりつつあった偉大な農民の革命闘争を支持しようとしなかったことにある。国民党に迎合するために、かれらは、農民というもっとも主要な同盟軍をすてまでして、労働者階級および共産党を孤立無援の状態におとしいれた。一九二七年の夏、国民党が革命を裏切り、「清党運動」や反人民的な戦争をひきおこすことまでしたのは、主として、共産党のこの弱点に乗じたからである。

     農民問題の重大性

 わたしは、こんど湖南《フーナン》省〔1〕にいって、湘潭《シァンタン》、湘郷《シァンシァン》、衡山《ホンシャン》、醴陵《リーリン》、長沙《チャンシャー》の五県の状況を実地に視察した。一月四日から二月五日までの三十二日間に、農村でも県都でも、経験のある農民や農民運動にたずさわっている同志をあつめて調査会をひらき、かれらからくわしく報告をきいて、資料をたくさんあつめた。農民運動についての多くのいい分は、漢□《ハンコウ》や長沙で顔役衆の層からきいたいい分と、まったく逆なものであった。これまでに見たことも聞いたこともないようなめずらしいことがたくさんあった。こうした事情は多くの地方でも見られるとおもう。農民運動に反対するさまざまな論議は、みなすみやかにただされなければならない。農民運動にたいする革命当局のさまざまなあやまった措置は、すみやかにあらためなければならない。こうしてこそ革命の将来に役立つのである。というのは、当面の農民運動のもりあがりは、きわめて大きな問題だからである。ごく短期間に、何億という農民が中国の中部、南部および北部の各省から立ちあがろうとしており、その勢いはあらしのようにはやくて、猛烈で、どんな大きな力も、それをおさえつけることはできないであろう。かれらは、自分たちをがんじがらめにしているすべての網をつきやぶり、解放への道をまっしぐらにつきすすむであろう。すべての帝国主義、軍閥、汚職官吏、土豪劣紳どもは、みなかれらによって墓場にほうむりさられるであろう。すべての革命的な政党、革命的な同志は、みなかれらの前で、その審査をうけ、取捨がきめられるであろう。かれらの先頭に立ってかれらを指導するか。それとも、かれらのうしろに立ってかれらをあれこれと批判するか。それとも、かれらの向かい側に立ってかれらに反対するか。すべての中国人には、この三つの点について選択の自由はあるが、ただ、情勢はすみやかな選択をせまるであろう。

 組織せよ

 湖南省の農民運動は、運動がすすんでいる湖南省中部と南部の各県についていうと、だいたい二つの時期にわけられる。昨年一月から九月までが第一の時期、すなわち組織化の時期であった。この時期のうち、一月から六月までは秘密活動の時期であり、七月から九月までは革命軍が趙恒[小+易]《チャオホンティー》〔2〕を追いはらい、公然と活動した時期であった。この時期には、農会の会員数は、総計三、四十万にすぎず、直接指導できる大衆も百万人あまりしかなく、農村にはまだなんの闘争もおきていなかったため、各界からは農会にたいしてこれといった批判もおきなかった。農会の会員は、道案内をしたり、偵察をしたり、運搬人夫になったりするので、北伐軍の将校のなかには、まだこれをほめたりするものもいた。十月からことしの一月までが第二の時期、すなわち革命の時期である。農会の会員は二百万に激増し、直接指導できる大衆は一千万人に増加した。農民が農会にはいるばあい、大部分は、一家で一人の名まえしか書かないので、会員が二百万なら、大衆はだいたい一千万人いることになる。湖南省の全農民のうち、ほとんど半分が組織された。たとえば、湘潭、湘郷、瀏陽《リウヤン》、長沙、醴陵、寧郷《ニンシァン》、平江《ピンチァン》、湘陰《シァンイン》、衡山、衡陽《ホンヤン》、耒陽《レイヤン》、[林+おおざと]《チェン》県、安化《アンホワ》などの各県では、ほとんど全部の農民が農会の組織に結集しており、農会の指導のもとにある。農民は、広大な組織をもっと、ただちに行動をはじめた。そこで、四ヵ月のあいだに、かつて見たこともないような農村の大革命がまきおこされたのである。

  土豪劣紳を打倒し、すべての権力を農会へ

 農民の主要な攻撃目標は、土豪劣紳と不法地主であるが、さらにさまざまな同族支配体系の思想と制度、都市の汚職官吏、農村の悪い習慣にまでおよんでいる。その攻撃の勢いは、まったくあらしのようで、したがうものは生き、さからうものは滅びるというふうだ。その結果、封建地主の何千年来の特権は、こっぱみじんに打ちくだかれた。地主の体面と威光は、すっかり地をはらった。地主の権力がたおれると、農会は唯一の権力機関となり、「すべての権力を農会へ」ということがほんとうに実現した。夫婦げんかのようなささいなことまで、農民協会にもちこんで解決してもらう。どんなことも、農会の人が立ちあわなければ解決できない。農会は、農村でまったくすべてを独裁し、ほんとうに「なんでも言い、なんでもやりとげた」のであった。外部の人は、農会をほめることはできても、悪口はいえなかった。土豪劣紳や不法地主は、まったく発言権をうばわれ、だれひとりとして不服のフの字もいえない。農会の威力におされて、土豪劣紳どもの一流どころは上海《シャンハイ》に逃げ、三流どころは漢□に逃げ、三流どころは長沙に逃げ、四流どころは県都に逃げ、五流以下の小物は郷で農会に降参した。
 「十元だすから、どうかみなさん、わたしを農民協会にいれてください」と小劣紳はいう。
 「ふん! そんなけがらわしい銭などいるもんか!」農民はこう答える。
 多くの中小地主や富農、それに中農まで、以前には農会に反対していたものが、いまでは農会にはいりたくてもはいれないでいる。わたしは、いくさきざきで、よくこのような人に出会って、「省からおいでの委員さま、どうか保証人になってください」と、泣きつかれた。
 清朝時代には、地方の役所が戸籍簿をつくるのに、正冊と別冊の二種類にわけ、良民は正冊に書きこみ、盗賊などの悪人は別冊に書きこんだ。いま、農民がこれにならって、「あいつらを別冊に書きこめ!」と、これまで農会に反対していた人たちをおどしつけているところもある。
 別冊に書きこまれるのをこわがる人たちは、自分たちの名まえを農会の名簿にのせてもらって安心したいばかりに、なんとかして農会にはいろうとしている。ところが、かれらは、農会から手きびしくことわられることがよくあるので、いつもびくびくしながら日をすごしている。農会からしめだされ、まるで宿なしといった格好だが、田舎のことばではこれを「打零《ターリン》」という。要するに、四ヵ月まえまでは、一般の人からみくびられていた「農民会」なるものが、いまでは、もっとも羽振りのよいものに変わったのである。まえには顔役衆の権力のもとにひれふしていたものが、いまでは農民の権力のもとにひれふしている。どんな人でも、昨年十月以前と十月以後とがまったくちがった世の中であることをみとめている。

「むちゃくちゃだ」と「すばらしい」

 農民が農村でむほんをおこして、顔役衆の甘い夢をうちやぶった。農村のできごとが町につたわると、町の顔役衆は、たちまち大さわぎをはじめた。わたしは、長沙についたばかりのとき、各方面の人に会い、いろいろな取りざたをきいた。中流社会以上の人から国民党右派までのものは、だれもかも、「むちゃくちゃだ」という一言できめつけていた。たとえ非常に革命的な人でも、「むちゃくちゃだ」という連中のてんやわんやの論議に圧倒され、目をとじて農村のありさまを思いうかべろと、つい弱気になって、この「むちゃ」ということばを否定できないでいた。非常に進歩的な人でも、「これは革命の過程にはとうぜんあることだ、むちゃにはむちゃだが」というだけであった。要するに、だれも、この「むちゃ」ということばを完全には否定できなかったのである。だが、実際はどうだろうか。まえにものべたように、これは、広範な農民大衆がかれらの歴史的使命の達成に立ちあがったのであり、農村の民主勢力が農村の封建勢力の打倒に立ちあがったのである。同族支配体系の封建的な土豪劣紳と不法地主階級は、何千年来の専制政治の基礎であり、帝国主義、軍閥、汚職官吏の足場である。この封建勢力をくつがえすことこそ、国民革命の真の目標である。孫中山《スンチョンシャン》先生が、四十年も国民革命に力をつくして、やろうとしてやれなかったことを、農民は数ヵ月のうちにやりとげた。これは四十年はおろか、何千年ものあいだ、かつてなしとげることのできなかった大きな功績である。これはすばらしいことだ。「むちゃ」なことは少しもなく、「むちゃくちゃだ」などとはとんでもない。「むちゃくちゃだ」、これは、あきらかに、地主の利益の側に立って農民の立ちあがりに打撃をくわえる理論であり、あきらかに、封建的なふるい秩序を維持し、民主的な新しい秩序の確立を妨害しようとする地主階級の理論であり、あきらかに、反革命的な理論である。革命的な同志なら、だれひとりこんなでたらめを口まねすべきではない。もし、革命的観点がしっかりしており、しかも一度でも農村にいって見てきた人であるならば、きっとこれまでになかった痛快さを感ずるにちがいない。そこでは、何万何十万の数かぎりない奴隷の群れ――農民が自分たちの生き血をすする敵をうちたおしつつある。農民のやっていることは完全に正しく、かれらのやっていることはまったくすばらしい! 「すばらしい」、これは、農民やその他の革命派の理論である。革命の同志はすべて、国民革命には農村の大きな変動が必要であることを知らなければならない。辛亥《シンハイ》革命〔3〕は、こうした変動がなかったから失敗したのである。いまこうした変動があることは、革命の達成にとっての重要な要素である。革命の同志はすべて、この変動を支持しなければならない。さもなければ、反革命の立場に立つことになる。

     いわゆる「ゆきすぎ」の問題

 このほかに、「農会はつくるべきだが、いまの農会のやっていることは、あまりにもゆきすぎのようだ」という人もいる。これは中間派の論議である。実際はどうか。たしかに、農民は農村でいささか「はめをはずし」ているところがある。農会の権力は至上のもので、地主にはくちばしをいれさせず、地主の威光を一掃してしまった。このことは、地主を地べたにたたきつけて、そのうえ足でふみつけたようなものだ。「おまえを別冊に書きこむぞ!」といっては、土豪劣紳に罰金や寄付金をださせ、その駕籠《かご》をおそう。農会に反対した土豪劣紳の家には、おおぜいのものがおしかけ、豚をつぶさせ、米をださせる。土豪劣紳のお嬢さんや若奥さまの豪華な寝台にさえ、土足のまま上がって、寝ころがってみることもできる。なにかというと土豪劣紳をつかまえてきて、三角帽子をかぶせて村をひきまわし、「劣紳め! きょうこそ思い知ったか!」といって、したいほうだいのことをやり、なにもかも常軌をはずし、農村に一種の恐怖現象さえつくりだしている。これが一部の人たちのいう「ゆきすぎ」であり、「あやまりをただすのに、度をこした」ことであり、「まったくなっていない」ことである。この連中のいいぐさにも一理あるようだが、じつは、やはりまちがっている。第一に、さきにのべたようなことは、いずれも土豪劣紳や不法地主自身がそのようにおいつめたのである。土豪劣紳や不法地主が、いままでその勢力をたのみにしてのさばり、農民をふみつけてきたからこそ、農民は、このように大きな反抗をするのである。反抗がもっともはげしく、騒ぎがもっとも大きかったところは、みな土豪劣紳や不法地主の悪事がもっともひどかったところである。農民の目には、少しのくるいもない。だれが悪らつで、だれが悪らつでないか、だれがもっともひどく、だれがそれほどでもないか、だれはきびしく処罰し、だれは軽くてよいか、それを農民は非常にはっきり計算しており、不当な処罰をするようなことはめったにない。第二に、革命は、客をごちそうに招くことでもなければ、文章をねったり、絵をかいたり、刺しゅうをしたりすることでもない。そんなにお上品で、おっとりした、みやびやかな、そんなにおだやかでおとなしく、うやうやしく、つつましく、ひかえめのものではない。革命は暴動であり、一つの階級が他の階級をうちたおす激烈な行動である。農村革命は、農民階級が封建地主階級の権力をうちたおす革命である。農民が最大の力をそそがなければ、何千年ものあいだ深く根をはってきた地主の権力はけっしてくつがえせない。何千何万の大衆をふるいたたせて、これを大きな力にしていくには、農村に大きな革命の激流がなければならない。さきにのべたような、いわゆる「ゆきすぎ」の行動は、すべて農村で大きな革命の激流によってふるいたった農民の力がうみだしたものである。こうした行動は、農民運動の第二の時期(革命の時期)には、大いに必要なことである。第二の時期には、農民の絶対的な権力がうちたてられなければならない。農会にたいする悪意をもった批判を、けっしてゆるしてはならない。すべての顔役衆の権力をうちたおし、顔役衆を地べたにたたきつけ、そのうえ足でふみつけることまでしなければならない。すべてのいわゆる「ゆきすぎ」の行動も、第二の時期には、革命的意義をもっている。率直にいえば、どの農村でも、短期間の恐怖現象をつくりださなければならない。そうしなければ、けっして、農村での反革命分子の活動を弾圧することはできないし、顔役衆の権力をうちたおすこともできない。あやまりをただすには、度をこさなければならず、度をこさなければ、あやまりはただせないのである〔4〕。中間派の論議は、さきの一派の論議とは表面上ちがっているが、実質的には、さきの一派とおなじ観点に立っているのであって、やはり特権階級の利益をまもる地主の理論である。このような理論は、農民運動のもり上がりをさまたげ、結局は、革命を破壊するものであって、われわれはこれに断固として反対しないではいられない。

 いわゆる「ごろつきの運動」

 国民党の右派は、「農民運動は、ごろつきの運動であり、なまけ百姓の運動だ」といっている。このような論議が、長沙ではかなりさかんであった。わたしが農村にいったとき、顔役衆が、「農民協会をつくるのはよいが、現在の役員連中はだめだ。人を換えなければいけない」といっているのをきいた。このような論議は、右派のいっているのとおなじ意味であり、どちらも、農民運動はやってもよい(農民運動はすでにおこっているので、それをやってはいけないとはだれもいえない)が、いま農民運動をやっている人がだめだ、というのである。とくに、農民協会の末端組織の役員をひどくうらみ、かれらはみな「ごろつき」だというのである。要するに、いままで、顔役衆から見くだされていたもの、顔役衆によってどぶのなかにぶちこまれ、社会的にはものの数にもはいらず、発言権もなかったものが、いまや、なんとみんな頭をもたげてきたのである。頭をもたげただけでなく、権力までにぎったのである。かれらは郷農民協会(農民協会の末端組織)の王さまとなり、郷農民協会は、かれらの手によって、おそろしいものに変わったのである。かれらは、そのふしくれだった手で、顔役衆の頭をおさえつけた。かれらは、なわで劣紳をしばりあげ、その頭に三角帽子をかぶせ、村をひきまわした(湘潭県、湘郷県ではそれを遊団《ヨウトワン》といい、醴陵県では遊[土+龍]《ヨウロン》といった)。かれらのあらっぽい情け容赦のないどなり声は、毎日のように顔役衆の耳にはいってくる。かれらは、命令をくだし、すべてを指揮している。かれらはあらゆる人の上に立っている。――以前にはあらゆる人の下にいたのに。だから、常軌をはずしたというのである。

   革命の前衛

 あることがら、あるいはある人間について、正反対の二つの見方があれば、正反対の二つの論議がうまれる。「むちゃくちゃだ」と「すばらしい」、「ごろつき」と「革命の前衛」、これらがそのよい例である。
 農民が、長いあいだやりとげろことのできなかった革命事業をやりとげ、国民革命にとって重要な仕事をしたことについてはさきにのべた。だが、このような革命の大事業、革命の重要な仕事を、農民の全部がやったのだろうか。そうではない。農民には、富農、中農、貧農の三種類がある。かれらの状態はそれぞれちがっており、革命にたいするうけとめ方もそれぞれちがっている。第一の時期に、富農の耳にはいったものは、つぎのようなことであった。すなわち、江西《チァンシー》省では革命が惨敗し、蒋介石《チァンチェシー》は足に負傷して〔5〕、飛行機で広東《コワントン》省〔6〕にかえってしまった。呉佩孚《ウーペイフー》〔7〕はふたたび岳州《ユエチョウ》を占領した。農民協会はけっして長つづきしないだろう、三民主義〔8〕もはやるまい、なぜなら、そんなものはいままでなかったから、ということであった。郷農民協会の役員(多くは、いわゆる「ごろつき」の部類)が、農会の名簿をもって富農の玄関にやってきて、富農に、「どうか農民協会にはいってくれませんか」というと、富農はどう答えただろうか。
 「農民協会だって? わしはここに何十年も住んでいて、何十年も百姓をしているが、農民協会なんてお目にかかったこともない、それでも、けっこう飯は食っている。おまえさんたち、そんなものはやめたほうがいい。」これが富農のなかの態度の少しましなもののいい方であった。「なにが農民協会だ、首をはねられる会じゃないか。人をまきぞえにするな!」これが、富農のなかの態度のわるいもののいい方であった。ところが、まったく不思議なことに、なんと農民協会は何ヵ月もつづいており、しかも顔役衆にさえ反対している。近隣の顔役が、アヘンのきせるを差しださなかったので、農民協会につかまえられて、村をひきまわきれた。また、県都では、大顔役たち、たとえは湘潭の晏容秋《イェンロンチウ》とか、寧郷の楊致沢《ヤンチーツオ》とかが殺された。十月革命の記念大会や反英大会や北伐勝利大祝賀会には、どの村でも、万をこえる農民が天秤棒やくわまでまじえ、大小の顔をおしたてて、威風堂々と隊伍をくんでデモ行進をした。こうなると、富農はうろたえはじめた。北伐勝利大祝賀会でかれらがきいたことは、九江《チゥチァン》も占領された、蒋介石は足に負傷しなかった、呉佩孚は結局負けたのだ、ということであった。しかも「三民主義万歳」「農民協会万歳」「農民万歳」などといったことが、はっきりと、「赤や青の告示」(ビラ)に書かれている。「農民万歳だって? この連中も陛下といえるのか。」富農はひどいうろたえぶりをしめした。そこで、農会はすっかり鼻いきがあらくなった。農会の人は富農にむかって、「おまえたちを別冊に書きこむぞ!」とか、「これから一ヵ月して入会するものは、一人あたり入会金十元だぞ!」とかいった。このような情勢のもとで、富農はぼつぼつ農会にはいるようになった〔9〕。あるものは五角、あるいは一元を入会費としておさめた(もともとはただの百文)。またあるものは、人に口をきいてもらって、やっと農会への入会がゆるされた。だが、いまでもまだ農会にはいっていない頑迷派もかなりいる。富農が入会するときは、たいていその家族のなかの六、七十歳のじいさんを農会にやって、その名まえを登録させた。それは、かれらがいつも「壮丁としてとられる」ことをおそれているからである。かれらは、入会しても、農会の仕事には熱心でない。かれらの態度はいつも消極的である。
 中農はどうか。かれらの態度はぐらついている。かれらは、革命が自分にとって大して利益にならないとおもっている。かれらの米びつには米があるし、夜中に借金とりにたたきおこされるようなこともない。そこでかれらはいままでにそういうことがあったかどうかということを理屈でおしていって、「農民協会ははたしてなり立っていくだろうか」「三民主義ははたしてはやるだろうか」とひとり眉をひそめて考える。「そうはいくまい!」というのがかれらの結論である。かれらは、こうしたこともすべて天意によってきまるものなので、「農民会をつくることが、天意にかなっているかどうか」と考えていた。第一の時期に、農会のものが名簿をもって中農の家にいき、「どうか農民協会にはいってください」というと、中農は、「そうせかしなさるな」と答えていた。中農が農会にはいるようになったのは第二の時期になり、農会の力が強大になってからである。農会でのかれらの態度は、富農よりはましであるが、いまのところあまり積極的ではなく、もう少しようすを見ようとしている。農会は、中農に入会するようはたらきかけ、かれらにいろいろ説明してやることがぜひとも必要である。
 村のなかで、ずっと悪戦苦闘してきた主要な勢力は貧農である。秘密の時期から公然化した時期まで、貧農は積極的にたたかってきた。かれらは共産党の指導をもっともよくうけいれる。かれらは、土豪劣紳とは食うか食われるかのあいだがらなので、なんのためらいもなく土豪劣紳の陣営に進撃する。かれらは富農にむかっていう、「おれたちはとっくに農会にはいっているのに、おまえたちは、なんだってまだぐずぐずしているのか。」富農はこばかにした口調でこういう、「きみたちには雨露をしのぐ小屋さえなく、猫のひたいほどの土地もないのだから、農会にはいるのはあたりまえさ。」たしかに、貧農にはなにもうしなう心配はない。かれらのうちの多くのものは、たしかに「雨露をしのぐ小屋さえなく、猫のひたいほどの土地もない」のだから、農会にはいるのはあたりまえである。長沙での調査によれば、農村人口のうち、貧農は七〇パーセントをしめ、中農は二〇パーセント、地主と富農は一〇パーセントをしめている。七〇パーセントをしめる貧農はまた、赤貧と次貧との二種類にわかれる。完全に無資産のもの、すなわち土地もなければ、資金もなく、完全に生活のよりどころをうしない、よそへいって兵隊になるか、人にやとわれてはたらくか、あるいはこじきになってさまよう以外にはどうにもしようがないものは、みな「赤貧」〔10〕であり、それは二〇パーセントをしめている。半無資産のもの、すなわちほんのすこしばかりの土地か、またはほんのすこしばかりの資金をもってはいるが、養う人数のわりには収入がすくなく、一年じゅう苦労と心配にあけくれているもの、たとえば、手工業労働者、小作農(富裕な小作農をのぞく)、半自作農などは、みな「次貧」〔11〕であり、それは五〇パーセントをしめている。このような貧農大衆は、あわせて農村人口の七〇パーセントをしめていて、農民協会の中堅であり、封建勢力打倒の前衛であり、長い年月なしとげられなかった革命の大事業をなしとげた大功労者である。貧農階級がなければ(顔役衆のことばでいうと「ごろつき」がなければ)、現在のような農村の革命情勢はけっしてつくりだせないし、土豪劣紳を打倒して、民主主義革命をなしとげることもけっしてできはしない。貧農がもっとも革命的であるからこそ、農会の指導権をかちとったのである。すべての末端の農民協会の委員長や委員は、第一、第二の時期とも、ほとんど全部が貧農であった(衡山県の郷農民協会の役員についてみると、赤貧層が五〇パーセント、次貧層が四〇パーセント、貧しい知識分子が一〇パーセントをしめている)。こうした貧農の指導は、非常に必要なものである。貧農がなければ、革命はない。かれらを否定することは、革命を否定することになる。かれらに打撃をあたえることは、革命に打撃をあたえることになる。かれらの革命の大きな方向は、終始一貫まちがっていない。かれらは土豪劣紳の体面を傷つけた。かれらは大小の土豪劣紳を地べたにたたきふせ、そのうえ足でふみつけた。かれらが革命の時期にやった多くの「ゆきすぎ」といわれる行動こそは、本当に革命が必要としていることなのである。湖南省のいくつかの県の県政府や国民党県党部〔12〕、県農会は、すでにいくつかのあやまりをおかした。かれらは地主の要請のままに、兵隊をさしむけて下級の農会の役員を逮捕することさえした。衡山、湘郷二県の監獄には、郷農民協会の委員長や委員がたくさんぶちこまれている。このあやまりは非常に大きなものであり、反動派の鼻息をあらくさせた。農民協会の委員長や委員がつかまると、その土地の不法地主たちが大いによろこび、反動的空気が非常につよまっているのを見ただけでも、それがあやまりかどうかを知ることができる。われわれは、「ごろつきの運動」とか、「なまけ百姓の運動」とかいう反革命のそしりに反対しなければならない。とくに、土豪劣紳をたすけて貧農階級に打撃をくわえるようなまちがった行動をとらないように注意しなければならない。事実、貧農の指導者のなかには、以前はたしかに欠点をもったものもいたが、現在では大部分がよくなっている。かれらは、みずからばくちの禁止や盗賊の一掃に努力している。農会が強くなったので、ばくちは跡をたち、盗賊は影をひそめている。ところによっては、それこそ、拾いものも着服せず、夜も戸じまりしない、というようになった。衡山県の調査によると、貧農の指導者百人のうち八十五人は、非常にりっぱになり、仕事がよくでき、非常に努力している。ただ一五パーセントのものだけに、まだいくらかよくない習慣がのこっている。これは「少数のよくない分子」とはいえても、けっして土豪劣紳の口まねをして、全部を見さかいなく「ごろつき」とののしってはならない。この「少数のよくない分子」の問題を解決するにも、規律をひきしめようという農会のスローガンのもとで、大衆にたいしては宣伝し、本人にたいしては訓練をほどこして、農会の規律をひきしめるよりほかはない。勝手に兵隊をさしむけて人をとらえ、貧農階級の威信を傷つけ、土豪劣紳の気勢を助長するようなことをけっしてしてはならない。この点には、よくよく注意しなければならない。

     十四の大きなことがら

 一般に農会を非難するものは、農会がたくさん悪いことをしたといっている。わたしがさきに指摘したように、農民が土豪劣紳をやっつけることは、完全に革命的な行為であって、非難されるようなことはなにもない。しかし、農民がやったことはたくさんあるので、人びとの非難に答えるために、われわれは、農民のやったすべての行動についてこまかく点検し、かれらがいったいどういうことをやったのかを一つ一つ見ていかなければならない。わたしは、この数ヵ月来の農民の行動を分類し、まとめてみたが、農民は、農民協会の指導のもとで、あわせて十四の大きなことがらをやっている。それはつぎのとおりである。


   第一 農民を農会に組織したこと

 これは農民のやった第一の大きなことがらである。湘潭、湘郷、衡山のような県では、ほとんどすべての農民が組織され、どんな「片すみ」にいる農民でも、立ちあがらないものはほとんどいない、これが第一級。いくつかの県では、農民の大部分は組織されているが、まだ一部分が組織されていない。益陽《イーヤン》、華容《ホワロン》などの県、これが第二級。いくつかの県では、農民の小部分が組織されていて、大部分はまだ組織されていない。城歩《チョンプー》、零陵《リンリン》などの県、これが第三級。湖南省西部一帯は、袁祖銘《ユァンツーミン》〔13〕の勢力下にあり、農会の宣伝がまだはいっていないので、多くの県の農民はまだぜんぜん組織されていない、これが第四級。だいたい、長沙を中心とする湖南省中部の各県がもっとも発展しており、湖南省南部の各県がそれにつぎ、湖南省西部では組織しはじめたばかりである。昨年十一月の省農民協会の統計によると、全省七十五県のうち、三十七県には組織があり、会員数は百三十六万七千七百二十七人である。この数字のうち、約百万人は、農会の勢力が非常にさかんになった昨年十、十一月の二ヵ月間に組織されたものであって、九月以前にはまだ三、四十万人にすぎなかった。いまはまた、十二月、一月の二ヵ月をへており、農民運動は大きく発展しつつある。一月末までに、会員数は、すくなくとも二百万にはたっしたであろう。入会するとき、たいてい一戸で一人しか登録しないから、一戸あたり五人家族とみても、大衆はおよそ一千万人いる。このようなおどろくばかりの加速度的発展が、すべての土豪劣紳、汚職官吏を孤立させ、以前といまとではまるで別の世界だと世間をおどろかせ、農村で大革命をつくりだした原因になっている。これは、農民が農民協会の指導のもとでおこなった第一の大きなことがらである。


   第二 政治的に地主に打撃をあたえたこと

 農民が組織をもつようになってからとった最初の行動は、政治的に、地主階級、とくに土豪劣紳の威光をたたきおとすこと、すなわち、農村の社会的地位から地主の権力をたたきおとし、農民の権力をおしあげることであった。これは、きわめて重大な、重要な闘争である。この闘争は、第二の時期、すなわち革命の時期の中心的な闘争である。この闘争に勝利しなければ、小作料や利子の引きさげ、土地やその他の生産手段の要求などのいっさいの経済闘争も、けっして勝利するみこみはない。湖南省の多くの地方、たとえば湘郷、衡山、湘潭などの県では、地主の権力が完全にくつがえされ、農民による唯一の権力が形成されているから、もちろん問題はない。ところが、醴陵などの県の、まだ一部の地区(たとえば醴陵の西部と南部の二区)では、表面的には地主の権力が農民の権力よりもよわいが、実際には、政治闘争がはげしくないために、地主の権力がまだひそかに農民の権力に対抗している。こうしたところでは、まだ農民が政治的勝利をおさめたとはいえず、地主の権力が農民によって完全にうちたおされてしまうまで、政治闘争にもっと力をそそがなければならない。農民が政治的に地主に打撃をくわえる方法をまとめてみると、つぎのようないくつかのものがある。
 清算――土豪劣紳は地方の公金をとりあつかっていたが、たいていのものがそれを横領し、帳簿はでたらめである。こんど農民は、清算という問題をもちだして、多くの土豪劣紳をたたきふせた。多くの地方は清算委員会をつくり、もっぱら土豪劣紳にたいして勘定のかたをつけさせた。土豪劣紳は、このような機構をみるとふるえあがった。このような清算運動は、農民運動のおこっている県では、いたるところでやられているが、その意義は、金をとりかえすことよりも、土豪劣紳の罪状を公表して、土豪劣紳の政治的地位と社会的地位をたたきおとすことにある。
 罰金――清算の結果、不正行為とか、かつて農民を食いものにした悪行があったとか、げんに農会を破壊する行為があるとか、ばくちの禁止にそむいているとか、アヘンのきせるを差しださないとかいうようなことが摘発された。こうした罪名のもとで、農民は、土豪のだれには罰金いくら、劣紳のだれには罰金いくら、というぐあいに、数十元から数千元までの罰金を課することを決議する。農民から罰せられたものは、もちろん面目まるつぶれである。
 寄付金――金のためには血も涙もない地主から寄付金をとって、貧民の救済、協同組合の設立、農民資金貸付所の設立、その他の費用にあてる。寄付金も一種の懲罰であって、罰金より軽いだけである。地主のなかには、難をのがれるために、自分の方から農会に寄付金を出すものもすくなくない。
 軽い詰問――農会を破壊するような言動があったもので、その罪状がわりに軽いものにたいしては、おおぜいの人をあつめてその家におしかけ、あまりきつくない詰問をする。さいごは、多くのばあい、「始末書」を書かせ、こんご農会の名誉を傷つけるような言動はしない、とはっきり書かせて、ことをすませる。
 大デモ――大衆をひきつれて、農会をかたきにしている土豪劣紳にデモをかけ、かならず豚をつぶさせ、米をださせ、その家で飯を食う。このようなことはすくなくない。最近、湘潭県馬家河《マーチァホー》では、一万五千の大衆をひきつれて、六人の劣紳を糾弾し、それが四日間もつづき、豚百三十余頭をつぶさせたことがあった。デモのあとでは、たいてい罰金をとる。
 三角帽子をかぶせて村をひきまわす――このようなことは、各地でさかんにやられている。土豪劣紳に紙でつくった三角帽子をかぶせる。その帽子には、土豪なにがし、あるいは劣紳なにがし、というように書きつけてある。なわでひっぱりながら、前後をおおぜいの人がとりまいていく。なかにはドラを鳴らしたり、のぼりをおし立てたりして、人目をひくようにするのもある。このような処罰は、土豪劣紳をいちばんふるえあがらせる。いちど三角帽子をかぶせられると、体面はまるつぶれになり、人まえに出られなくなる。だから、金持ちの多くは三角帽子をかぶるより罰金のほうをのぞむ。しかし、農民がききいれないときは、やはりかぶらなければならない。ある郷農会のやり方はなかなかうまかった。ひとりの劣紳をつかまえてきて、きょう三角帽子をかぶせるといいわたす。すると劣紳はすっかりおびえて青くなる。ところが、農会では、きょうは三角帽子をかぶせないと決議する。きょう帽子をかぶせてしまうと、その劣紳は観念して、処罰をおそれなくなるので、むしろ後日かぶせることにして、釈放したほうがよいからである。すると、その劣紳は、いつ三角帽子をかぶせられるかわからないので、まいにち家にいても気が気でなく、いても立ってもいられなくなる。
 県の監獄にいれる――これは三角帽子をかぶせるのよりもっと重い処罰である。土豪劣紳をつかまえ、県庁の監獄につれていって拘留し、知事に処罰させる。いま監獄に拘留しているものはまえとちがう。まえには顔役が農民をつれていって拘留したが、いまでは農民が顔役をつれていって拘留している。
 追放――土豪劣紳のうち罪悪のめだっているものにたいしては、農民はかれらを追放するどころか、つかまえたり、殺したりしようとする。かれらは、つかまえられたり、殺されたりするのをおそれて逃げだす。おもだった土豪劣紳は、農民運動のすすんでいる県では、ほとんどみな逃げてしまったので、追放されたのとおなじ結果になっている。かれらのうち、一流どころは上海に逃げ、二流どころは漢□に逃げ、三流どころは長沙に逃げ、四流どころは県都に逃げた。これらの逃げた土豪劣紳のうちでも、上海に逃げたものがいちばん安全である。漢□に逃げたものは、華容県の三人の劣紳のように、結局、つかまってつれもどされる。長沙に逃げたものは、なおさら、各県からここに勉強にきている学生たちにいつつかまえられるかわからない。げんに、わたしは長沙で二人つかまったのをこの目で見た。県都に逃げたものは、格からいっても四流であり、農民には目や耳がたくさんあるからみつかりやすい。湖南省政府は財政難をきたしたが、財政当局は、それを農民が金持ちを追放したため、金あつめがむずかしくなったことのせいにしている。このことからも、土豪劣紳がどれほど郷里にいられなくなっているかの一端がわかる。
 銃殺――これはかならず大土豪劣紳にかぎられ、農民が各界の民衆と共同してやるものである。たとえば、寧郷県の楊致沢、岳陽《ユエヤン》県の周嘉淦《チョウチアカン》、華容県の傳道南《フータオナン》、孫伯助《スンポーチュー》らは、農民と各界の人民が政府を督促して銃殺させた。湘潭県の晏容秋については、農民と各界の人民が、監獄からだすことをむりやりに県長に同意させ、農民自身の手で銃殺にした。寧郷県の劉昭《リウチャオ》は、農民が直接に殺した。醴陵県の彭志蕃《ポンチーファン》、益陽県の周天爵《チョウティエンチュエ》、曹雲《ツァオユイン》は、いま「土豪劣紳裁判特別法廷」の判決と死刑執行をまつばかりとなっている。このような大劣紳、大土豪は、そのひとりを銃殺するだけで、全県を震かんさせ、封建制の余毒を一掃するうえできわめてききめがある。このような大土豪劣紳は、各県に多いところで数十人、すくないところでも数人はいる。各県ですくなくとも何人かの、罪のもっとも重い、極悪のものを死刑にすることこそ、反動派を弾圧する効果的な方法である。土豪劣紳は勢いがさかんなときには、農民を殺すことなどまったくなんともおもっていなかった。長沙県新康《シンカン》鎮の団防局長何邁泉《ホーマイチュアン》は、団の仕事を十年やっているあいだに、「匪賊《ひぞく》処決」という美名のもとで貧しい農民を千人ちかく殺した。わたしの郷里、湘潭県銀田《インティエン》鎮の団防局長湯峻岩《タンチュインイェン》、羅叔林《ルオチューリン》の二人は、一九一三年いらい十四年間に五十余人を殺し、四人を生きうめにした。殺された五十余人のうち、最初に殺された二人はなんの罪もないこじきであった。湯峻岩は、「こじき二人を殺して店びらきにしよう!」といった。この二人のこじきは、こうして一命をたたれた。これまで、土豪劣紳の残忍さや、かれらが農村でやった白色テロはこのようであったのに、いま農民が立ちあがって土豪劣紳の何人かを銃殺し、反革命分子を弾圧するほんのわずかな恐怖現象をつくりだしたからといって、これを不当だという理由がどこにあろうか。


   第三 経済的に地主に打撃をあたえたこと

 米穀の県外持ちだし禁止、米価のつりあげ禁止、買いだめ投機の禁止  これはここ数ヵ月来湖南省の農民がやった経済闘争での大きなことの一つであった。昨年十月から現在まで、貧農は、地主や富農が米穀を県外に持ちだすのを阻止するとともに、米価のつりあげや米の買いだめ投機を禁じている。その結果、貧農の目的は完全にたっせられ、米の持ちだしは、水ももらさぬほどきびしく阻止され、米価は大幅にさがり、買いだめ投機はあとを絶った。
 小作料と小作保証金の増額禁止、小作料と小作保証金引きさげの宣伝――昨年七、八月ごろ、農会の勢力がまだよわかった時期には、地主たちは、依然としてしぼれるだけしぼるという昔からのしきたりにしたがって、小作料と小作保証金をどうしても増額すると、どれもこれも小作人に通知してきた。ところが、十月になると、農会の勢力が大きくなり、小作料と小作保証金の増額にこぞって反対するようになったので、地主は、もう小作料と小作保証金の増額についてはなにもいいだせなくなった。十一月以後になると、農民の勢力が地主の勢力を圧倒するようになったので、農民は、さらにすすんで、小作料と小作保証金の引きさげを宣伝しだした。農民は、昨年の秋、小作料をおさめるころには残念ながら農会がまだよわかった、でなかったら、昨年の秋にはもう小作料引きさげができたのに、といっている。ことしの秋の小作料引きさげについて、農民はいまさかんに宣伝しており、地主たちもまた、小作料引きさげの方法についてききにきている。小作保証金の引きさげの方は、いま衡山などの県ですでにおこなわれている。
 土地取りあげの禁止――昨年の七、八月ごろにはまだ、地主は小作人いれかえのための土地取りあげをさかんにやった。十月以後になると、もう土地取りあげをやれるものはいなくなった。いまでは、小作人いれかえのための土地取りあげは、ぜんぜん問題にならなくなったが、すこし問題になるのは、自作のための土地取りあげだけである。ところによっては、地主が自作のために土地を取りあげようとしても、農民はゆるさない。またところによっては、地主が自作するばあいは、土地の取りあげをゆるしているが、しかし、同時に小作人の失業の問題がおきている。この問題には、まだ一致した解決策がない。
 利子の引きさげ――利子引きさげは安化県では全県にわたっておこなわれているが、ほかの県でも利子引きさげがみられる。ところが、農会の勢力がさかんなところでは、地主が「共産」をおそれて、完全に、「貸借ごめん」をやっているので、農村には、ほとんど貸しつけがなくなっている。このばあい、利子の引きさげというのは、旧債にかぎられている。旧債については、利子を引きさげるばかりでなく、元金でさえ、貸し主のむりなとりたてをゆるさない。貧農はこういっている。「まあそういうな、不作だから、来年にしてくれ。」


   第四 土嚢劣紳の封建的支配をくつがえした
       ――都、団〔14〕をうちたおしたこと

 ふるい型の都、団(すなわち区、郷)の政権機関は、とくに都、すなわち県にちかい段階では、ほとんど完全に土豪劣紳ににぎられていた。「都」が管轄している人口は一万から五、六万で、団防局のような独立した武装組織をもち、土地付加税〔15〕などのような独立した財政徴収権や、勝手に農民を逮捕、監禁、訊問、処罰する独立した司法権をもっていた。このような機関にいる劣紳は、まったく村の王さまであった。農民は、政府、たとえば総統や督軍〔16〕や県長らにたいしては、わりに無関心であったが、こうした村の王さま連中こそ、ほんとうにかれらの「目上」であり、かれらが鼻先でふんといっただけでも、これはよほど気をつけなければならないことだと知っていた。こんど農村でむほんがおこった結果、地主階級の威光はいたるところでたたきおとされ、土豪劣紳の牛耳っていた郷の政権機関は、それにつれて自然につぶれてしまった。都や団の長官はひっこんで表面には出なくなり、地方のことの処理はすべて農民協会の方へおしやった。かれらの逃げ口上はこうである。
 「よけいなことには手をださない!」
 農民たちはいろいろと取りざたしていて、はなしが都や団の長官のことになると腹をたてていう。
 「あんなものは、無用の長物だ!」
 「無用の長物だ」ということばは、革命の波に洗われた地方のふるい型の郷の政権機関を的確に描きだしている。


   第五 地主の武装組織をくつがえし、最民の武装組織をうちたてたこと

 湖南省の地主階級の武装組織は、中部にはわりあいすくなく、西部と南部にはわりあい多かった。一県平均六百ちょうの銃をもっているとすれば、七十五県で合計四万五千ちょうの銃をもっていることになるが、実際にはそれより多いかもしれない。農民運動の発展している中部と南部の地域では、農民の立ちあがりかたが非常にはげしかったので、地主階級は、たちうちできなくなり、その武装勢力は、大部分が農会に降伏して、農民の利益の側に立っている。たとえば、寧郷、平江、瀏陽、長沙、醴陵、湘潭、湘郷、安化、衡山、衡陽などの県がそうである。小部分は中立的な立場に立っているが、それも降伏に傾いている。たとえば宝慶《パオチン》県などがそれである。他の小部分は農会と敵対する立場にたっている。たとえば宜章《イーチャン》、臨武《リンウー》、嘉禾《チアホー》などの県がそうである。しかし、農民がいまそれに打撃をくわえているので、まもなく、その勢力を一掃することができるであろう。このようにして反動的な地主の手からうばいとった武装組織は、すべて「挨戸団《アイホートワン》常備隊」〔17〕にあらためられ、新しい農村自治機関――農民政権としての農村自治機関の管理のもとにおかれる。このようなふるい武装組織をうばいとることは、農民の武装組織を建設する一つの面である。農民の武装組織を建設するには、もう一つの新しい面がある。すなわち農会のほこ隊がそれである。ほこ――これは長い柄のさきにもろ刃の剣をつけたもので、湘郷一県だけで十万本もある。その他の各県、たとえば湘潭、衡山、醴陵、長沙などでも、それぞれ七、八万本、五、六万本、三、四万本はもっている。農民運動がおこっている各県では、どこでもほこ隊が急速に発展している。このようなほこをもっている農民は、「挨戸団非常備隊」となる。こうした広範なほこ隊の勢力は、さきにのべたふるい武装勢力よりも大きく、すべての土豪劣紳を一目でふるえあがらせる新興の武装力である。湖南省の革命当局は、七十五県二千余万の農民のあいだにこのような武装力を、いたるところで確実にうちたて、青壮年の農民一人びとりに一本ずつほこをもたせるべきで、人がこわがるからといって、制限するようなことがあってはならない。もし、このほこ隊にきもをつぶすものがあれば、それこそ腰ぬけというものだ。それを見てこわがるのは土豪劣紳だけで、革命派はけっしてこわがるべきではない。


   第六 県のお偉方から木端役人までの政権をくつがえしたこと

 県の政治は、農民が立ちあがることによってはじめて浄化されることが、すでに広東省海豊《ハイフォン》県で証明された。こんどは湖南省で、とくに十分に証明されている。土豪劣紳が権力をにぎっている県では、だれが知事になっても、ほとんどが汚職官吏になる。農民がすでに立ちあがった県では、だれがなろうと、みな廉潔な政府になる。わたしがいったいくつかの県では、知事はことあるごとに、まず農民協会の意見をきく。農民の勢力が非常にさかんな県では、農民協会のいうことは、じつに「霊験あらたか」である。農民協会が土豪劣紳を朝のうちにつかまえるといえば、知事はそれを正午までひきのばしきれないし、正午につかまえるといえば、午後までのばしきれない。農民の権力が村でもりあがりはじめたころは、知事は土豪劣紳とぐるになって、いっしょに農民に立ちむかった。農民の権力がもりあがって地主の権力と肩をならべるようになると、知事は、地主と農民のどちらにたいしても、ばつをあわせるような態度をとり、農民協会のいうことも、一部はこばみ、一部はうけいれるようになった。さきに、農会のいうことが霊験あらたかだとのべたが、それは地主の権力が農民の権力によって完全にうちたおされてからのことである。現在、湘郷、湘潭、醴陵、衡山などの県の政治状況はつぎのとおりである。
 (一) すべてのことが県長と革命的な民衆団体との合同会議できまる。このような会議は、県長が招集し、県庁でひらかれる。いくつかの県ではそれを「官民団体合同会議」とよび、県によってはそれを「県務会議」とよんでいる。出席する人は、県長のほかに県農民協会、県労働組合連合、県商業協会、県婦人連合会、県教職員連合会、県学生連合会および国民党県党部〔18〕の代表たちである。このような会議では、各民衆団体の意見が県長を左右し、県長は万事いわれたとおりにするだけである。だから、湖南省で民主的な委員制の県政治組織を採用しても、問題はないはずだ。現在の県政府は、形式も実質も、すでに相当民主的になっている。このような情勢になったのは、最近二、三ヵ月のことで、つまり、農民が四方の村から立ちあがって、土豪劣紳の権力をうちたおしてからのことである。知事は、これまでのうしろだてがたおれたのを見て、官職を保つために別のうしろだてをさがさなければならなくなり、そこで、民衆団体のご機嫌をうかがいはじめ、さきにのべたような局面に変わったのである。
 (二) 担当判事のあつかう事件がなくなった。湖南省の司法制度では、まだ知事が司法を兼掌し、担当判事が知事をたすけて事件を審理している。知事とその補佐役がふところをこやすのは、もっぱら、公租のとりたてや公課の割りあて、軍隊のための壮丁や糧秣《りょうまつ》のかりあつめ、それに民・刑事訴訟のうえで日を黒としてのゆすりなどのやり方によっている。とくにあとのものは、恒常的な確実な財源である。ここ数ヵ月らい、土豪劣紳がたおれたので、三百代言もなくなった。また、農民のことは、大小にかかわりなく、すべて、各段階の農会で処理される。だから、県庁の担当判事は、まったくやることがなくなった。湘郷県の担当判事はわたしにいった。「農民協会がなかったころ、県庁は一日平均六十件の民・刑事訴状を受けつけていたが、農会ができてからは、一日平均四、五件しかない」これでは、知事とその補佐役どものさいふも、からっぽになるほかはない。
 (三)警備隊、警察、下役人はみんななりをひそめ、村にいってゆすりやたかりをやれなくなった。以前は田舎の人が町の人をこわがっていたが、いまは町の人が田舎の人をこわがっている。とくに、県政府が飼っていた警察、警備隊、下役人などの犬どもは、村にいくのをこわがり、村にいっても、もうゆすりやたかりをやれなくなった。かれらは農民のほこを見るとふるえあがる。


   第七 祖先廟・族長の族権、県と村の守り神の神権および夫の男権をくつがえしたこと

 中国の男子は、ふつう三つの体系的な権力の支配をうけている。それは(一)国から省、県、郷にいたるまでの国家の体系(政権)、(二)本家の祖先廟、分家の祖先廟《びょう》から家長にいたるまでの同族の体系(族権)、(三)閻魔《えんま》大王、県の守り神から村の守り神にいたるまでの冥界《めいかい》の体系および玉皇上帝からよろずの神と精霊にいたるまでの神仙の体系――これを総称した神冥《しんみょう》の体系(神権)である。婦人となると、以上のべた三つの権力の支配のほかに、なお男子からの支配(夫権)をうけている。この四種類の権力――政権、族権、神権、夫権は、封建的同族支配体系の思想と制度のすべてを代表しており、中国人民、とくに農民をしばりつけているふとい四本の綱である。農民が農村でどのように地主の政権をくつがえしたかについては、まえにのべたとおりである。地主の政権はすべての権力の根幹である。地主の政権がうちたおされたので、族権、神権、夫権もみなそれにつれてぐらつきだした。農会の勢いがさかんなところでは、族長や祖先廟の公金の管理人は、もう二度と同族の末流のものを圧迫したり、祖先廟の公金を横領したりしなくなった。悪質な族長や管理人は、すでに土豪劣紳としてたたきのめされた。以前祖先廟のなかでやられた「しりたたき」「溺殺《できさつ》」「生きうめ」といった残酷な体刑や死刑は、もう二度とやれなくなった。婦人や貧乏人は祖先廟の祭りの酒盛りにでられないという昔からのしきたりも、うちやぶられた。衡山県の白果《パイクオ》というところの婦人たちは、隊をくんで祖先廟におしいり、どっかりとすわりこんで酒盛りをしたが、一族の長老たちも、かの女たちのするままにさせておくほかなかった。またあるところでは、貧農は祖先廟の酒盛りにくわわることを禁止されたので、一群の貧農たちがおしかけていって、さかんに飲んだり食ったりした。土豪劣紳やお羽織の先生方はびっくりして逃げてしまった。神権の動揺も、農民運動がすすむにつれてひろがっていった。多くのところでは、農民協会が神をまつる廟をとりあげて事務所にしている。どこの農民協会も、「迷信公金」という名目で廟の財産を引きだして農民学校をつくったり、農会の費用にあてたりすることを主張している。醴陵県では、迷信を禁止し、神仏の像をたたきこわすことがさかんにやられている。醴陵県北部各区の農民は、家の守り神(厄病はらいの神)をかついでねりあるくことを禁止した。[シ+碌のつくり]口《ルーコウ》の伏波嶺《フーポーリン》の廟内には神仏の像がたくさんあった。国民党の区党部をつくるのに部屋がたりないので、大小の神仏の像を片すみに積みあげたが、農民からはなんの苦情もでなかった。それからのちは、人が死んでも、神さまにおそなえをしたり、法事をしたり、灯明をあげたりするものは、ほとんどいなくなった。これは、農会の委員長孫小山《スンシャオシャン》がさきだちでやったので、その土地の道教の法師たちは孫小山をひどくうらんでいる。北三区の竜鳳庵《ロンフォンアン》の農民と小学校の教員は、神仏の木像をたたきわりそれで肉を煮てたべた。南区の東富寺《トンフースー》の三十何体かの神仏の像は、学生と農民がいっしょになって、みんな焼きすててしまった。ただ、そのうち「包公《パオコン》さま」という二つの小さな像だけは、ひとりの年とった農民にうばいさられた。「ばちあたりのことをするものではない!」とかれはいった。農民の勢力が支配的な地位をしめているところでは、神を信じるものは年とった農民と婦人だけで、青年や壮年の農民はだれも信じなくなった。農民協会は、青年と壮年の農民が権力をにぎっているので、神権の打倒や迷信の打破が、いたるところですすめられている。夫権というものは、もともと貧農のあいだでは、わりあいよわかった。貧農の婦人は、経済的な必要から裕福な階級の婦人よりもよけい労働に参加しなければならないので、家庭についての発言権ないし決定権をもつものがわりあいに多かった。近年になって、農村経済がますます破産するにつれて、男子が女子を支配する基本的な条件はくずれた。最近では、農民運動がおこると、それにともなって多くのところで、婦人たちが農村婦人連合会を組織し、婦人たちが頭をもたげる機会がやってきたので、夫権は日一日とぐらつきだした。要するに、ありとあらゆる封建的同族支配体系の思想と制度は、農民の権力がつよまるにつれてぐらついている。しかし、いまの時期では、農民は地主の政治権力をうちこわすという一点にその精根をうちこんでいる。地主の政治権力がすっかりうちこわされてしまったところになると、農民は、同族、神仏、男女関係というこの三つにたいする攻撃をはじめる。だが、このような攻撃は、いまのところは、なんといっても「序の口」で、この三つを完全にくつがえすには、農民の経済闘争がすべて勝利するのをまたなければならない。したがって、いまのところ、われわれは農民が地主の権力を徹底的にくつがえすために、全力をあげて政治闘争をやり、それにつづいて、貧農の土地およびその他の経済問題を根本的に解決するために、ただちに経済闘争をはじめるよう指導しなければならない。同族主義、迷信的な考え、不平等な男女関係の破壊は、政治闘争と経済闘争が勝利したのちにおのずからえられる結果である。もしあまり大きな力を入れて、強引に、むりにこうしたものを破壊すると、土豪劣紳はかならずそれを口実にして、「農民協会は祖先をうやまわない」とか、「農民協会は神仏をふみにじっている」とか、「農民協会は共妻を主張している」とか、といった反革命的な宣伝スローガンをもちだして、農民運動を破壊するにちがいない。湖南省の湘郷県や湖北《フーペイ》省の陽新《ヤンシン》県で、最近、神仏の像のうちこわしにたいする農民の反対を地主が利用するということがおきたのは、そのあきらかな証拠である。神仏の像は農民がまつったものだから、その時期がくれば、農民は自分たちの手で神仏の像をとりはらうだろう。はたのものがかわって、せっかちにとりはらう必要はない。こうしたことにたいする共産党の宣伝政策は、「引いて発せず、躍如たり」〔19〕でなければならない。神仏の像は農民自身にとりのぞかせるべきであり、烈女や貞女をまつった祠《ほこら》や碑も農民自身にうちこわさせるべきである。はたのものがかわってやるのは、まちがいである。
 わたしも村で農民に迷信を打破するように宣伝したことがある。わたしはこんなふうに話した。
 「生まれた時の干支《えと》による運勢を信じて好運がやってくるのをねがい、地相を信じて墓地に瑞気《ずいき》のたちこめるのをねがうというが、ことしの数ヵ月のあいだに、土豪劣紳や汚職官吏がいっせいにたおれてしまった。まさか数ヵ月まえまでは、土豪劣紳や汚職官吏はみんな好運で、墓地にも瑞気がたちこめていたのに、この数ヵ月のあいだに、突然全部が悪運にみまわれ、墓地からもいっせいに瑞気が消えたというわけでもあるまい。土豪劣紳は諸君の農会のことをこういうようにいっている。『よくしたもんだ。いまは委員の世の中だよ。どうだい、便所にいっても委員にぶつかる』たしかにそのとおり。町でも村でも、労働組合でも農会でも、国民党でも共産党でも、一つとして執行委員のいないところはない。たしかに委員の世の中である。だが、これも干支や地相のおかげだろうか。よくしたもんだ! 村のすかんぴんの干支が、いっぺんにみんなよくなった! 墓地にもいっぺんに端気がたちこめた! 神さまだって? それはありがたいものだろう。だが、農民会がなくて、ただ関帝さまや、観音さまだけで、土豪劣紳をたおすことができるだろうか。あの関帝さまや観音さまたちもあわれなもので、何百年もおがまれてきながら、諸君のために一人の土豪劣紳だってたおしてくれなかった。いま諸君は小作料の引きさげをのぞんでいるが、諸君はどんな方法でやるのかきかせてもらいたい。神さまを信じるか、それとも農民会を信じるか。」
 わたしがこういう話をしたら、農民はみな笑いだした。


   第八 政治宣伝の普及

 一万の政治法律学校をつくったからといって、現在農会がやっている政治教育のように、こうも短期間に貧しい片田舎の老若男女にまで、政治教育を普及させることができるだろうか。わたしはできないとおもう。帝国主義をうちたおせ、軍閥をうちたおせ、汚職官吏をうちたおせ、土豪劣紳をうちたおせ、こうしたいくつかの政治的スローガンが、ほんとうに羽根がはえたように、数かぎりない農村の青年、壮年、老人、子ども、婦人たちのところにとんでいき、そのまま頭のなかにはいりこみ、そして、頭から口にながれでる。たとえば、一群の子どもたちがそこらであそんでいるとする。そのなかの一人の子どもが他の子どもにむかって、目をむき、足をふんばり、おこってこぶしをふりあげたとき、こういう鋭い叫び声をきくであろう。「帝国主義をうちたおせ!」
 湘潭一帯の子どもたちが牛の番をしていて、戦争ごっこをはじめると、一人は唐生智《タンションチー》になり、一人は葉開[金を森のように三つ並べる]《イエカイシン》になる〔20〕。しばらくすると、一人が負け、もう一人が追いかける。追っているのが唐生智で、追われているのが葉開[金を森のように三つ並べる]である。「列強をうちたおせ……」という歌は、町の子どもならもちろんほとんどのものがうたえるが、村の子どもでもうたえるものが多くなった。
 孫中山先生のあの遺言は、村の農民にも暗唱できるものがいる。かれらは、あの遺言のなかから「自由」「平等」「三民主義」「不平等条約」といったことばをとりだし、それを日常生活のなかで生のままつかっている。農民が顔役ふうの男に道で出会い、その男が身分をかさにきて道をゆずろうとしないと、農民はおこっていう。「土豪劣紳め! 三民主義を知らないのか。」長沙の近郊で野菜つくりをしている農民が、町に野菜を売りにいくと、いつも巡査にいじめられていた。いまでは、農民はやっつける手を知った。その手とは三民主義である。巡査が野菜売りの農民をなぐったり、どなりつけたりすると、農民はすぐに三民主義をもちだしてやりかえすので、巡査もだまってしまう。湘潭県のある区の農民協会は、あることで、ある郷の農民協会と仲たがいした。すると、その郷の農民協会の委員長は宣言した。「区の農民協会の不平等条約に反対だ!」
 政治宣伝が農村に普及したのは、まったく共産党と農民協会の功績である。ごく簡単なビラやポスターや講演でも、農民の一人びとりを政治学校にいれたとおなじような、非常に広い、また速い効果をもたらした。農村で活動している同志の報告によると、政治宣伝は、反英デモ、十月革命記念、それに北伐勝利大祝賀会という三回の大衆的な大集会のときにひろくおこなわれた。これらの集会にさいしては、農会のあるところではどこでも政治宣伝がおこなわれて、全農村をゆりうごかし、効果が大きかった。こんご注意しなければならないことは、いろいろな機会を利用して、さきにのべたような簡単なスローガンの内容をしだいに充実させ、その意義をしだいにはっきりさせていくことである。


   第九 農民のいろいろな禁止事項

 共産党の指導によって農会が農村で権威を確立すると、農民は、自分らにとってこのましくないことを禁止したり、制限しだした。いちばんきびしく禁止したのは、牌《パイ》あそび、ばくち、アヘンの三つである。
 牌あそび――農会の勢いがさかんなところでは、マージャン、かるた、花札などはすべてあとを絶った。
 湘郷県の第十四区の区農会は、ひとかつぎほどのマージャン牌を焼きすてた。
 村にいってみると、どんな種類の牌あそびもやられていない。禁をおかしたものは、すぐに処罰され、すこしも容赦されない。
 ばくち――以前の「ばくち打ち」が、いまでは自分からばくちを禁止している。農会の勢いがさかんなところでは、牌あそびとおなじように、この悪弊はあとを絶ち、風気が一新した。
 アヘン――非常にきびしく禁止している。農会がアヘンのきせるを差しだすよう命令すると、これに少しでもさからって差しださないものはいなかった。醴陵県ではひとりの劣紳がアヘンのきせるを差しださなかったので、つかまえられて村中をひきまわされた。
 農民のこの「きせる取りあげ運動」のすさまじさは、北伐軍が呉佩孚、孫伝芳《スンチョワンファン》〔21〕の軍隊にたいしておこなった鉄砲取りあげにもおとらなかった。革命軍の将校たちの家庭には、ひどいアヘン中毒にかかっていて、一本の「きせる」で命をつないでいるご隠居さまがたくさんいたが、それもみな「陛下」 (劣紳が農民をこほかにした呼びかた)たちに取りあげられてしまった。「陛下」たちは、アヘンの栽培、吸引を禁止したばかりでなく、そのもち運びも禁止した。貴州省から宝慶県、湘郷県、[イ+|+攵]《ヨウ》県、醴陵県をへて江西省にはこばれるアヘンは、途中で押さえられて、焼きすてられるものが多かった。こうなると、政府の財政と衝突することになった。その結果、ついに省の農会は、北伐軍の軍費の都合を考えて、下級の農会にたいし、「もち運び禁止の一時延期」を命令した。だが、農民たちは不平満々であった。
 この三つのもののほかにも、農民が禁止あるいは制限したものは、まだたくさんある。いくつかの例をあげればつぎのとおりである。
 花鼓《ホワクー》――田舎芝居のひとつで、多くのところでその上演を禁止している。
 駕籠――多くの県で駕籠をおそうことがおき、湘郷県がとくにはげしかった。農民は駕籠にのるものをもっともにくみ、どうしてもおそおうとしたが、農会がそれを禁止した。農会の役員は農民にむかってこういった。「駕籠をおそうと、かえって金持ちに金を節約させることになる。駕籠かきも失業するし、自分たちの損ではないか。」農民たちは納得すると新しい手を考えだした。それは、金持ちをこらしめるために駕籠代をうんとつりあげることであった。
 酒の醸造と飴《あめ》の製造――米で酒をつくったり、飴をつくったりするのをどこでも禁止したので、酒屋や飴屋は悲鳴をあげている。衡山県の福田舖《フーティエンプー》というところでは、酒をつくることは禁止しないが、酒の値段を非常に低く釘づけしたために、酒屋はもうからなくなり、つくるのをやめるほかなかった。
 豚――豚も穀物をたべるので、一軒で飼育する数を制限した。
 鶏、あひる――湘郷県では鶏とあひるを飼うことを禁止したが、婦人たちが反対した。衡山県の洋塘《ヤンタン》というところでは、一軒に三羽というふうに制限し、福田舖というところでは五羽に制限している。あひるは鶏よりもたちがわるく、穀物を食うばかりでなく、稲をつつきあらすので、多くのところでは飼うのを完全に禁止した。
 宴会――ごちそうの多い宴会はどこでも禁止されている。湘潭県の韶山《シャオシャン》というところでは、客があっても三通りの肉類、つまり鶏と魚と豚しか食わないことを決議している。たけのこ、昆布、はるさめもたべることを禁じている。衡山県では、料理八品で、それ以上は一品もゆるさないと決議した。醴陵県の東三区では、料理五品までとし、北二区では、肉類三品と野菜類三品しかゆるさないし、西三区では、正月のふるまいを禁止した。湘郷県では「たまご菓子づき一卓料理」というそれほどごちそうでもない会席まで禁止した。湘郷県の二区では、ある家で嫁とりのとき、たまご菓子づきの一卓料理をだしたので、農民は禁令にしたがわないといって、おおぜいでおしかけ、会席をめちゃくちゃにした。湘郷県の嘉謨《チアモー》鎮では、ごちそうを食わないことを実行し、祖先への供物も菓子類ですませている。
 牛――これは農民の宝である。「牛を殺したものは牛に生まれかわる」といって、まったく一種の信仰となっており、したがって、牛は殺してはならないものとされている。農民がまだ権力をにぎっていなかったときには、牛の屠殺《とさつ》にただ宗教的な観念による反対しかできず、それを禁止する実力はもっていなかった。農会ができてから、その権力は牛にまでおよぶようになり、町で牛を屠殺することを禁止した。湘潭県の県都には以前牛肉屋が六軒あったが、いまでは五軒がたおれ、のこった一軒は病牛や廃牛をつぶしている。衡山県では、牛の屠殺を全県にわたって禁止した。ある農民は、足を折った牛を殺すのさえ、農会にうかがいをたてなければならなかった。株州《チューチョウ》商業会議所が軽率に牛一頭を殺したので、農民が町にやってきて罪をなじり、罰金をださせたうえ、謝罪のしるしに爆竹をあげさせた。
 ならず者の生活――醴陵県では正月のご祝儀たかり、土地神を讃《たた》えての銭もらい、流し芸人などを禁止する決議をした。県によっては、禁止しているところもあれば、自然にあとを絶って、そんなことをする人がなくなったところもある。「ゆすりこじき」または「流民」といわれているものは、これまでは非常に凶暴であったが、いまでは農会に屈服するほかなくなっている。湘潭県の韶山というところには雨神廟があって、ふだん流民があつまり、こわいもの知らすであったが、農会ができると、みなこそこそ逃げてしまった。同地の湖堤《フーティー》郷の農会は、三人の流民をつかまえて、れんが焼きをさせている。年始まわりの悪いしきたりも、禁止することを決議した。
 このほかにも、各地の小さな禁令はたくさんある。たとえば、醴陵県では、厄病よけの神をかつぎまわることを禁止し、ぜいたくな食品や供物の贈答、お盆の精霊《しょうりょう》流し、正月のお飾りなどを禁止した。湘郷県の殻水《クーショイ》というところでは、水ぎせるも禁止した。二区では爆竹や花火を禁止し、爆竹をならしたものには罰金一元二角、花火をあげたものには罰金二元四角をかけた。七区と二十区では法事をすることを禁止し、十八区では香典を贈ることを禁止した。こうしたものをいちいち数えあげるときりがないが、すべてこれらを農民のいろいろな禁止事項という。
 これらの禁令には、二つの重要な意義がふくまれている。第一は社会の悪習にたいする反抗であって、牌あそび、ばくち、アヘンなどの禁止がそれである。これらのものは地主階級の悪い政治的環境からうまれたものであり、地主の権力がたおれてしまえば、それといっしょに一掃されるものである。第二は都市商人の搾取にたいする自衛であって、宴会の禁止、ぜいたくな食品や供物の贈答の禁止などがそれである。工業製品は途方もなく高く、農産物は途方もなく安く、農民は非常に貧乏で、商人からひどい搾取をうけているので、自衛のために節約を提唱せずにはおれないのである。さきにのべたように、農民が米穀の県外持ちだしを禁止したのは、貧農が自分の飯米にも不足していて、買いいれなければならないので、米価の値上がりをゆるさないようにするためである。これらはいずれも、農民の貧困および都市と農村との矛盾によるものであって、なにも農民が工業製品や都市と農村との取りひきを拒絶して、いわゆる東方文化主義〔22〕を実行しようというのではない。農民は経済上の自衛のために、共同購入して消費する協同組合を組織しなければならない。また、政府は農民協会が信用(貸付)協同組合を組織できるように援助しなければならない。そうすれば、当然農民は米価をおさえる方法として、米穀の持ちだし禁止をしなくてもよくなり、経済上自衛の方法として、一部の工業製品が農村にはいってくるのを拒絶することもなくなる。


   第十 盗賊の一掃

 禹、湯、文王、武王の昔から、ずっと清朝の皇帝、民国の総統にいたるまで、どの時代の支配者も、現在の農民協会のように、盗賊を一掃する威力をもったものはひとりもなかった、とわたしはおもう。農会の勢いがさかんなところでは、盗賊など影さえ見せなくなった。よくしたもので、多くの地方では、野菜をぬすむコソ泥さえいなくなった。一部には、まだコソ泥のいるところもあるが、匪賊になると、わたしのまわってきた各県では、たとえ以前匪賊のたくさんいたところでさえ、まったくあとを絶っている。その原因はつぎのとおりである。一つは、農会の会員がどこにでもいて、ひと声かけると、ほこや棍棒をもって、わっとあつまり、匪賊はかくれようもない。二つは、農民運動がおこってから、もみの値段がさがり、昨年の春は一担六元であったものが、昨年の冬はわずか二元になり、人民の食糧問題は以前のように深刻なものではなくなった。三つは、会党〔23〕のものが農会にはいり、農会で公然と合法的に豪傑ぶりを発揮し、うらみをはらすことができるので、「山、堂、香、水」〔24〕といった秘密結社は、存在の必要がなくなった。かれらを抑圧していた土豪劣紳階級にたいし、豚や羊をつぶさせ、重税をおわせ、重罰に処したりして、うっぷんも晴らしたいだけはらした。四つは、各地の軍隊が大量に兵隊を募集したので、「不逞《ふてい》の輩《やから》」がおおぜいいってしまった。こうしたことから、農民運動がおこると、盗賊の害はあとを絶ってしまった。この点については、顔役や金持ちの側でも農会に賛意をしめしている。かれらのいい方はこうである。「農民協会かね。ほんとうのことをいえば、少しはよいところもある。」
 牌あそび、ばくち、アヘンの禁止と盗賊の一掃について、農民協会は一般の人の賛意を得ている。


   第十一 苛酷な税金の廃止

 全国がまだ統一されず、帝国主義と軍閥の勢力がまだくつがえされていないので、政府に税金を納める農民の重い負担、率直にいえば、革命軍の車費の負担であるが、これはまだとりのぞくてだてがつかない。しかし、土豪劣紳が村政を牛耳っていたとき農民にかけていた苛酷な税金、たとえば地租付加税などは、農民運動がおきて土豪劣紳がたおれたので、廃止されたか、すくなくとも軽減された。これもまた、農民協会の功績の一つといえよう。


   第十二 文化運動

 中国ではこれまで、地主だけが文化をもち、農民には文化がなかった。しかし、地主の文化は農民がつくりあげたものである。なぜなら、地主の文化は、ほかでもなく、農民からしぼりとった血と汗でつくりあげられたものだからである。中国では文化教育をうけたことのない人民が九〇パーセントをしめているが、そのうちの大多数は農民である。農村で地主の勢力がたおれると、農民の文化運動がはじまった。どうだろう、農民はいままで学校をひどく憎んでいたのに、いまでは夜学校の開設に力をいれている。「洋式学校」は、これまで農民の気にくわぬものであった。わたしは以前、学生のころ郷里にかえり、農民が「洋式学校」に反対するのを見ると、やはり一般の「洋式学生」や「洋式教師」に同調して、洋式学校の利益の側にたち、どうも農民のほうが少しまちがっているような気がしていた。一九二五年に、わたしは農村で半年ばかりくらしたが、このときには共産党員であり、マルクス主義の観点をもっていたので、わたしのほうがまちがっていて、農民のほうがすじのとおっていることがはじめてわかった。村の小学校の教材は、町のことばかりとりあげ、農村の役にはたたない。小学校教師の農民にたいする態度も、非常にわるい。かれらは、農民のたすけにならないばかりか、逆に農民のきらわれものになっていた。だから、農民は学校(かれらは「洋学」といった)よりも寺小屋(かれらは「漢学」といった)の方を歓迎し、小学校の教員よりも寺小屋の先生を歓迎した。ところが、いま、かれらはさかんに農民学校とよばれる夜学校をつくっている。もうすでに開設されたところもあり、いま準備中のところもあるが、平均して一郷ごとに一校ある。かれらは、このような学校の開設に非常に熱心で、このような学校こそ自分たちのものだと考えている。夜学校の経費は、迷信公金、祖先廟の公金、その他あそばせている公共の財産からとっている。これらの公金を、県の教育局は、国民学校、つまり農民には役にたたないあの「洋式学校」の開設につかおうとし、農民はそれを農民学校の開設につかおうとして、もんだあげく、いくらかずつわけあったが、農民が全部獲得したところもある。農民運動が発展した結果、農民の文化水準は急速にたかまった。ほどなく、何万という学校が全省の農村にぞくぞくあらわれてくるだろう。これは、知識階級やいわゆる「教育家」の連中が、口先で「教育の普及」をとなえ、騒ぎまわってみたが、結局口先だけに終わってしまったのとはわけがちがう。


   第十三 協同組合運動

 協同組合、とくに消費、販売、信用の三種類の協同組合は、たしかに農民にとって必要なものである。かれらは、物を買えば商人に搾取され、農産物を売れば商人に買いたたかれ、金や米を借りると高利貸しに搾取される。かれらは、この三つの問題の解決をさしせまって求めている。 昨年の冬、長江《チャンチァン》で戦争がおこり、商人の行き来がとだえ、湖南省では塩がたかくなったので、多くの農民は塩を手にいれるために協同組合をつくった。地主が「貸借ごめん」をしたので、金を借りるために「資金貸付所」をつくろうとしている農民もいたるところにいる。大きな問題は、詳細な正規の組織法がないことである。各地の農民が自発的に組織したもののなかには、とかく協同組合の原則にそぐわないものがあるので、農民活動にたずさわっている同志は、「規約」の問題について、いつも熱心に問いあわせてくる。適切な指導があれば、協同組合運動は農会の発展にともなって、各地に発展させていくことができる。


   第十四 道つくり、堤つくり

 これもまた農会の功績の一つである。農会がなかったころは、農村の道路は非常に悪かった。道をなおすには金がいるが、金をもっているものは金をだそうとしないので、こわれたままにしておくよりほかなかった。多少なおしたとしても、それは、一部の「陰徳を積もうとする」人から報徳事業としていくらかの金をつのって、狭くて粗末な道をつくるだけであった。農会が立ちあがると、命令をくだし、道路のつかいみちに応じて三尺、五尺、七尺、一丈といったぐあいに、道幅の等級をわけ、沿道の地主に命じて、それぞれひとくぎりずつつくらせた。命令が出たからには、だれがさからえよう。まもなく、たくさんのよい道ができあがった。これは、報徳事業ではなく、強制によるものであるが、これくらいの強制は本当に結構なことといえる。堤もまた同様である。強欲な地主は、いつも小作人からものをとりたてるだけで、堤をなおすのには、はした金もだし惜しみ、たとえため池がひあがろうと、小作人が飢え死にしようと、かれらは小作料をとりたてることしか知らなかった。農会ができてからは、地主に堤をなおすよう強制する命令を遠慮なくだせるようになった。地主がなおさないと、農会はおだやかな口調で地主にこういうのである。「よろしい。おまえさんたちがなおさないなら、もみをだしなさい。一人の日当は一斗だ!」地主は、一人の日当がもみ一斗ではとてもひきあわないので、自分でいそいでなおす。こうして、たくさんのこわれた堤がみんなよくなった。
 以上の十四のことがらは、いずれも農民が農会の指導のもとでなしとげたものである。その基本的な精神からいって、またその革命的意義からいって、読者諸君、考えてもみたまえ、どれ一つ悪いものがあるだろうか。こういうことを悪いというものは、土裏劣紳だけだと、わたしはおもう。まことに不思議なことに、南昌《ナンチャン》方面〔25〕からの消息によると、蒋介石、張静江《チャンチンチァン》〔26〕などの諸先生は、湖南省の農民のやったことにはどうも承服できないという。湖南省の劉嶽峙《リウユエチー》〔27〕といったたぐいの右派指導者は、蒋、張などの諸公とおなじ意見で、かれらはみな「これはまったく赤化だ!」といっている。これくらいの赤化もなくて、どうして国民革命といえようか。口先では、毎日「民衆をよびおこす」といっていながら、いざ民衆が立ちあがると、すっかりたまげてしまう。これでは、葉公《ショーコン》が竜をこのんだ物語〔28〕とどれほどの違いがあろう!



〔1〕 湖南省は、当時全国の農民運動の中心であった。
〔2〕 趙恒[小+易]は、当時湖南省を支配していた北洋軍閥の代理人である。一九二六年、北伐軍はかれの支配をくつがえした。
〔3〕 辛亥革命とは、一九一一年、専制的な清の王朝をくつがえした革命のことである。この年の十月十日、一部の新式軍隊が、当時のブルジョア階級と小ブルジョア階級の革命団体にうごかされて武昌で蜂起した。これにつづいて各省でもあいついで蜂起したので、清朝の支配はまたたくまにくずれさった。一九一二年一月一日、南京に中華民国臨時政府がつくちれ、孫中山が臨時大総統に選出された。この革命は、ブルジョア階級が農民、労働者および都市小ブルジョア階級との同盟によって勝利をかちとったものである。ところが、この革命はまた、革命の指導者集団がもっていた妥協性によって、農民にほんとうの利益をあたえず、さらに、帝国主義と封建勢力の圧力をうけ、このため政権が北洋軍閥の袁世凱の手におちてしまい、革命はついに失敗した。
〔4〕 「あやまりをただすのに、度をこした」というのは熟語で、本来、あやまりをなおすのに、まもるべき限度をこえたという意味である。しかし、昔は人の行動を束縛し、ふるい秩序を改良する範囲内で行動することだけをゆろして、ふるい秩序を完全に破壊するのをゆるさないために一部の人がよくこのことばをつかった。ふるい秩序を改良する範囲内で行動することが「度」にかなったもので、ふるい秩序を完全に破壊するのは「度をこした」というのである。これはほかでもなく、改良主義者や革命陣営内の日和見主義者の理論でもある。毛沢東同志は、ここでこうした改良主義者の理論を論駁している。「あやまりをただすには、度をこさなければならず、度をこさなければ、あやまりはただせない」とは、ふるい封建的秩序を終結させるには、修正的な――改良的な方法ではなく、大衆の革命的な方法によらなければならない、という意味である。
〔4〕 一九二六年冬から一九二七年の春にかけて北伐軍が長江流域まで進撃したころは、まだ蒋介石の反革命的な正体が十分に暴露されていなかったので、農民大衆はまだかれが革命的だとおもっていた。地主と富農は、蒋介石をきらい、北伐軍は負けた、蒋介石は足に負傷した、というデマをとばした。一九二七年四月十二日、蒋介石は上海などの各地で反革命のクーデターをおこし、労働者を虐殺し、農民を弾圧し、共産党に打撃をくわえ、ここにその反革命的な正体は完全に暴露された。そのときから、地主や富農はかれを支持する態度に変わった。
〔6〕 広東省は、第一次国内革命戦争の時期の最初の革命根拠地であった。
〔7〕 呉佩孚は、北洋軍閥の有名な代表の一人である。かれは有名な買収選挙によって一九二三年に総統になった曹[金+昆]とおなじく、北洋軍閥の直系(つまり直隷省派)であると同時に、曹[金+昆]を首領としていたので、世間ではこれをいっしょにして「曹呉」といっていた。一九二〇年、安徽系軍閥の段祺端をうちやぶってから、かれは北洋軍閥政府の政局を左右するようになり、英米帝国主義の代理人になり、一九二三年二月七日には、京漢鉄道のストライキ労働者を大虐殺した。一九二四年、張作霖との戦争(一般には「直奉戦争」とよばれている)で失敗すると、呉佩孚は北京政権から失脚した。だが、一九二六年、日英帝国主義の策動で、かれはまた張作霖と提携することによって再起した。一九二六年、広東省を出発した北伐軍が最初にうちたおした敵はこの呉佩孚である。
〔8〕 三民主義というのは、孫中山が中国のブルジョア民主主義革命について提起した民族、民権、民生の三つの問題の原則と綱領である。一九三四年、孫中山は「国民党第一回全国代表大会の宣言」のなかで、三民主義にあらたな解釈をくだし、民族主義を帝国主義反対と解釈するとともに労働者・農民の運動にたいして積極的な支持の意をしめし、それによって旧三民主義を連ソ、連共、農労援助の三大政策を内容とする新三民主義に発展させた。この三大政策を内容とする新三民主義は、第一次国内革命戦争の時期における中国共産党と国民党との合作の政治的基礎となった。本選集第二巻の『新民主主義論』の第十節を参照。
〔9〕 富農か農民協会へ加入するのをゆるすべきではなかったが、一九二七年当時、農民大衆はまだこのことを知らなかった。
〔10〕 毛沢東同志がここでいっている「赤貧」には、作男(農村プロレタリア)および農村のルンペン・プロレタリアがふくまれる。
〔11〕 農村の半プロレタリア階級をさす。
〔12〕 当時の国民党県党部をさす。
〔13〕 袁祖銘は、当時、湖南省西部一帯に根をはっていた貴州省の軍閥である。
〔14〕 湖南省の都と団は区と郷にあたる。旧式の都と団の郷政機関は、地主が農民を支配する道具であった。都、団の首長を「都総」「団総」といった。
〔15〕 土地付加税とは、当時の豪紳政権が、もとからとりたてていた地租のほかに、田畑の面積に応じて農民にわりあてた苛酷な税金である。
〔16〕 督軍とは、北洋軍閥の支配権力が各省においた軍事首脳の称号である。督軍は実際上、全省の軍事、政治の大権を一手ににぎり、その省内の独裁者であった。かれらは帝国主義者と結託し、地方で封建的、軍事的割拠をおこなった。
〔17〕 挨戸団常備隊とは、当時の農村の武装組織の一種である。「挨戸」とは、ほとんど各戸ごとに人をだすという意味である。一九二七年、革命が失敗したあと、多くの地方の「挨戸団」は地主にのっとられ、反革命の武装組織に変わった。
〔18〕 当時、武漢の国民党中央執行委員会の指導下にあった各地の国民党県党部の多くは、連ソ、連共、農労援助という孫中山の三大赦策を実行する組織であり、共産党員、国民党左派およびその他の革命的な人びとの革命的同盟体であった。
〔19〕 このことばは『孟子』から引用したもので、だいたいの意味は、人に弓をおしえることの上手な人は、弓をいっぱいにひきしぼりながら、矢をはなたず、いまにもはなとうとする姿勢をとるということである。ここでは、共産党が、農民にたいして迷信その他のよくない風俗習慣をとりのぞくよう命令したり、農民にかわってそれをとりのぞいたりするのではなく、政治的自覚を十分にもつように農民を導いてから、農民の自発的意志でみずからそのようにするのを待たなければならないということをたとえているのである。
〔20〕 唐生智は、当時革命の側にたって北伐戦争にくわわった将軍である。葉開[金を森のように三つ並べる]は、当時北洋軍閥の側にたって革命に反対した将軍である。
〔21〕 孫伝芳は、当時長江以南の五省を支配していた軍閥であり、上海労働者の蜂起を弾圧した下手人である。かれの軍隊の主力は、一九二六年の冬、江西省の南昌、九江一帯で北伐軍に撃破された。
〔22〕 東方文化主義とは、東方のたちおくれた農業生産と封建的文化を保存することに満足して、近代的な科学文明を排斥する一種の反動的思想である。
〔23〕 『中国社会各階級の分析』の注〔15〕を参照。
〔24〕 山、堂、香、水とは、原始的秘密結社の派の名称である。
〔25〕 北伐軍は、一九二六年十一月に南昌を占領すると、蒋介石は機に乗じて、かれの総司令部をここにもうけた。かれは当時の革命的な武漢に対抗するため、国民党右派や北洋軍閥系の一部の政客をよびあつめ、帝国主義と結託して、反革命の陰謀をすすめた。一九二七年四月十二日、蒋介石はついに上海で革命を裏切る大虐殺のクーデターをおこした。
〔26〕 張静江は、当時の国民党右派の頭目のひとりで、蒋介石のためにあれこれ画策した人物である。
〔27〕 劉嶽峙は、当時、湖南省の重要な反共団体「左社」の獺目である。
〔28〕 葉公竜をこのむとは、漠代の劉向があらわした書物『新序』のなかのつぎの故事にもとづく。
 「葉公子高は竜をこのんだ。かれは鉤《かぎ》(武器)にも竜をほりつけ、鑿《のみ》(用具)にも竜をほりつけ、居室の飾り模様にも竜をほりつけた。天の竜がこれを聞いて降りてきて、窓から頭をのぞかせ、母屋に尾をのはした。葉公はそれをみるや、魂も消しとび、いろをうしない、一目散ににげだした。葉公は竜をこのんだのではなく、竜に似て竜でないものをこのんだのである。」毛沢東同志はここでは、蒋介石のやからが口では革命をとなえなから、実際には革命をおそれ、革命に反対したことにたとえたのである。
訳注
① 農民協会(略称は農会)とは、第一次国内革命戦争の時期に、広範な農民が中国共産党の指導のもとに、地主・豪紳階級と闘争するためにつくった大衆的な組織である。
② 一九二五年七月、中国共産党の指導と支持によって、広州の革命政府は国民政府に改組され、つづいて黄埔軍官学校の学生を中核とする国民革命軍が創設された。当時、この部隊の政治工作は、大部分、共産党員がうけもっていた。一九二六年七月、北京を中心とする全国的な反動支配をくつがえすために、国民政府は「北伐宣言」を発表し、国民革命軍が三路にわかれて北伐の征途についた。この軍隊を一般に北伐軍とよぶ。
③ 中国古代の貴族支配を維持する一種の制度。父系家長制から転化したもので、周代にしだいに完全なものとなり、何千年もつづいた。この制度では長男が家父長の地位、財産、爵位をうけつぐことになっており、そこから一定の同族関係が構成された。その後、同族支配体系の制度は、さらに、封建的な身分制度、「天命」の思想、鬼神をうやまう宗教や迷信と結びついて、封建的同族支配体系の思想、制度全体を構成していた。
④ 省、県、郷は、いずれも中国の行政区画の単位である。省と県のあいだに専署が設けられているところもあり、県と郷のあいだに区が設けられているところもある。郷とはいくつかの自然村をあわせたもの、村とは一般に農家の集落をさす。一九五八年、政社合一の人民公社ができてから、それが郷にとってかわった。
⑤ 元は貨幣の単位で、一元は十角、一角は十分にあたる。一分は、銅貨若干文に相当する。一元の銀貨はふつう純銀約二四グラムをふくんでいた。
⑥ 団防局とは、当時の湖南省の「都」(すなわち区)の行政機関がもっていた、独立した反動的な武装組織のことである。本文の「第四、土豪劣紳の封建的支配をくつがえした――都、団をうちたおしたこと」を参照。
⑦ 知事と県長はどちらも県行政の最高責任者である。北洋軍閥の支配した時期には知事とよんだが、のちに北伐軍が到達して、県の行政組織を改組したところでは県長とよんだ。毛沢東同志がこの論文を書いたころ、湖南省では北伐軍の勢力と北洋軍閥の勢力が同時に存在していたため、一部のところではすでに県長と改称したが、一部ではまだ知事とよんでいた。
⑧ 玉皇上帝とは、道教があがめる神のなかで、地位のもっとも高く、職権のもっとも大きい神である。
⑨ 包公(包拯)は、北宋(西紀九六〇~一二一七年)の都、開封府の府知事であった。旧社会では、封建的支配階級の欺瞞的な宣伝によって、「廉直な」役人で、「正しい」裁きをした、と信じられていた。
⑩ 担とは重量の単位で、旧制では一担は百斤、一斤は十六両で、普通一担は六十キログラムであるが、地方によって重さがまちまちで六十キロをこえたところもめった。いまの新しい制度では一坦は百斤、一斤は十両で、一担は五十キログラムである。
⑪ 中国の三尺は一メートルに相当する。なお、一丈は十尺、一尺は十寸にあたる。

  
  
  

 
 
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  第二次国内革命戦争の時期



中国の赤色政権はなぜ存在することができるのか
(一九二八年十月五日)
     これは、毛沢東同志が党の湖南・江西辺区第二回代表大会のために書いた決議の一部分で、もとの題名は「政治問題と省境地区の党の任務」であった。

     一 国内の政治情勢

 現在の国民党新軍閥の支配は、依然として都市の買弁階級と農村の豪紳階級の支配であって、対外的には帝国主義に投降し、対内的には新車閥が旧軍閥にとってかわり、労農階級にたいする経済的搾取と政治的抑圧は、まえよりもいっそうひどくなっている。広東省からはじまったブルジョア民主主義革命は、中途で買弁・一家紬階級に指導権をさらわれて、たちまち反革命の方向にむけられてしまい、全国の労・農・平民からブルジョア階級〔1〕までが、依然として反革命の支配下におかれており、政治的にも経済的にも、少しも解放されていない。
 国民党新軍閥の蒋《チァン》、桂《コイ》、馮《フォン》、閻《イェン》の四派〔2〕は、北京《ペイチン》、天津《ティエンチン》を攻めおとすまでは、張作霖〔3〕に対抗して一時的に結束していた。北京、天津を攻めおとしてしまうと、この結束はたちまちくずれて、局面は四派の内部のはげしい闘争に変わり、しかも蒋派と桂派とのあいだには戦争がはらまれている。中国内部の軍閥各派の矛盾と闘争は、帝国主義諸国の矛盾と闘争を反映している。したがって、帝国主義諸国が中国を分割している状態が存在するかぎり、軍閥各派はどうしても妥協できるものではなく、どのような妥協も一時的なものである。今日の一時的な妥協は、明日のもっと大きな戦争をはらんでいる。
 中国はブルジョア民主主義革命をさしせまって必要としているが、この革命をなしとげるにはプロレタリア階級が指導しなければならない。広東省からはじまり、長江にむかって発展した一九二六年から一九二七年にかけての革命は、プロレタリア階級が自己の指導権を断固として行使しなかったために、指導権を買弁・豪紳階級にうばいとちれ、反革命が革命にとってかわった。ブルジョア民主主義革命はこうして一時的失敗をなめた。中国のプロレタリア階級と農民は、この失敗で、大きな打撃をうけ、中国のブルジョア階級(買弁・豪紳階級でない)もまた打撃をうけた。だが、最近数ヵ月のあいだに、共産党に指導された労農階級による組織的な都市のストライキと農村の暴動は、南北各地で発展している。軍閥の軍隊の内部では兵士たちのあいだに、飢えと寒さから大きな不安がうまれている。他方、ブルジョア階級も汪精衛《ワンチンウェイ》、陳公博《チェンコンポー》一派にあおられて、沿海および長江流域の各地にかなり大きな改良主義運動〔4〕を発展させている。この運動の発展は新しい事実である。
 中国の民主主義革命の内容は、コミンテルンおよび党中央の指示によると、帝国主義およびその手先である軍閥の中国での支配をくつがえし、民族革命を達成することと、土地革命を実行し、農民にたいする豪紳階級の封建的搾取をなくすことである。このような革命の実際の運動は、一九二八年五月の済南《チーナン》虐殺事件〔5〕以後、日一日と発展している。

  二 中国赤色政権〔6〕の発生と存在の原因

 一国のなかで、一つの小さな、あるいはいくつかの小さな赤色政権の地域が、周囲を白色政権にとりかこまれながら、長期にわたって存在することは、いままで世界のどの国にもなかったことである。このような不思議なことがおこるには、それなりの特有の原因がある。またその存在と発展にも、かならずそれに相応した条件がある。第一に、こうしたことは、どの帝国主義国にも、また帝国主義が直接に支配しているどの植民地にもおこりえない〔7〕が、帝国主義が間接に支配している、経済的におくれた半植民地の中国では、必然的におこるのである。なぜなら、このような不思議な現象は、かならず白色政権のあいだの戦争というもう一つの不思議な現象とむすびついているからである。帝国主義と国内の買弁・豪紳階級の支持している新旧軍閥の各派は、民国元年いらい、たがいにたえまのない戦争をつづけている。これが半植民地中国の特徴の一つである。全世界の帝国主義国のどの国にも、このような現象がないばかりでなく、帝国主義が直接に支配している植民地のどこにも、このような現象はない。このような現象があるのは、帝国主義が間接に支配している中国のような国だけである。このような現象のうまれた原因は二つある。すなわち、地方的な農業経済(統一された資本主義経済ではない)および勢力範囲を分割する帝国主義の分裂と搾取の政策である。白色政権のあいだに長期にわたる分裂と戦争があるので、共産党の指導する一つの小さな、あるいはいくつかの小さな赤色地域が、周囲を白色政権にとりかこまれながら発生し、もちこたえていける一つの条件がうまれている。湖南《フーナン》・江西《チァンシー》省境地区での割拠も、こうしたたくさんの小さな地域のうちの一つである。一部の同志は、困難なとき、危険がせまっているときには、とかくこのような赤色政権の存在に疑いをもち、悲観的な気持ちをおこす。それは、このような赤色政権が発生し存在する理由について、正しい解釈をみいだしていないからである。われわれは、中国における白色政権の分裂と戦争がたえまなくつづくということを知りさえすれば、赤色政権が発生し、存在し、しかもそれが日ましに発展していくことには、疑いをもたなくなる。第二に、中国で赤色政権がさいしょに発生し、長期にわたって存在することのできる地方は、四川《スーチョワン》省や貴州《コイチョウ》省や雲南《ユインナン》省および北方各省のような、民主主義革命の影響をうけたことのない地方ではなく、湖南、広東、湖北《フーペイ》、江西の各省のように、一九二六年と一九二七年の二年にわたるブルジョア民主主義革命の過程で、労農兵大衆が、かつて大きく立ちあがったことのある地方である。これらの省の多くの地方では、かつて労働組合と農民協会がひじょうに広範に組織されたことがあり、地主・豪紳階級とブルジョア階級にたいして労農階級が多くの経済的、政治的闘争をおこなったことがある。だから、広州《コワンチョウ》では、三日にわたる都市の民衆政権がつくられたことがあり、海豊《ハイフォン》・陸豊《ルーフォン》県、湖南省東部、湖南省南部、湖南・江西省境地区、湖北省の黄安《ホワンアン》県などでは、農民による割拠がおこなわれたことがある〔8〕。いまの赤軍についていえば、やはり民主的な政治訓練をうけ、労農大衆の影響をうけた国民革命軍のなかから分化してきたものである。民主的な政治訓練を少しも受けたことがなく、労働者、農民の影響を少しも受けたことのない軍隊、たとえば閻錫山《イェンシーシャン》や張作霖の軍隊から赤軍を構成できる部分が分化してくることは、いまのところけっしてありえない。第三に、小地域の民衆政権が長期にわたって存在することができるかどうかは、全国の革命情勢が発展するかどうかという条件によってきまる。全国の革命情勢が発展していくのであれば、小さな赤色地域が長期にわたって存在することは疑う余地がないばかりでなく、またそれは必然的に、全国的な政権をかちとるための多くの力のなかの一つとなる。もし全国の革命情勢がひきつづき発展するのではなく、比較的長期にわたる停滞がおこるとすれば、小さな赤色地域が長期にわたって存在することは不可能である。現在の中国の革命情勢は、国内の買弁・豪紳階級および国際ブルジョア階級のたえまない分裂と戦争にともない、ひきつづき発展している。したがって、小さな赤色地域が長期にわたって存在することには疑う余地がないはかりでなく、これらの赤色地域は発展をつづけ、しだいに全国的な政権の獲得にちかづいていくであろう。第四に、相当の力をもつ正規の赤軍の存在は、赤色政権の存在にとって欠くことのできない条件である。もし地方的性格の赤衛隊〔9〕だけで、正規の赤軍がないとすれば、挨戸団《アイホートワン》にはたちむかうことができても、正規の白色軍隊にたちむかうことはできない。だから、優秀な労農大衆がいても、相当の力をもつ正規の武装組織がなければ、けっして割拠の局面をつくりだすことはできないし、まして、長期にわたって日ましに発展していく割拠の局面をつくりだすことなどはできない。だから、「労農武装割拠」という思想は、共産党や割拠地区の労農大衆が十分にのみこんでおかなければならない重要な思想である。第五に、赤色政権が長期にわたって存在し、しかも発展するには、以上にのべた条件のほかに、もう一つ重要な条件がなければならない。それは、共産党の組織が強力であること、その政策にあやまりがないことである。

  三 湖南・江西省境地区での割拠と八月の失敗

 軍閥のあいだの分裂と戦争は、白色政権の支配力をよわめた。だから、小地域の赤色政権がその機に乗じてうまれることができたのである。だが、軍閥のあいだの戦争は、毎日つづいているわけではない。一つの省あるいはいくつかの省の白色政権が、一時的な安定をたもっているばあいには、その一つの省の支配階級またはいくつかの省の支配階級は、かならず連合し、全力をあげてこの赤色政権を消滅しようとする。赤色政権を樹立しもちこたえていくのに必要な各種の条件がまだ十分にそなわっていないところでは、敵にうちたおされる危険性がある。ことしの四月以前に、機に乗じてつくられた多くの赤色政権、たとえば広州、海豊・陸豊県、湖南・江西省境地区、湖南省南部、醴陵《リーリン》県、黄安県の各地の赤色政権が、前後して白色政権によって破壊されたのも、こうした理由からである。四月以降の湖南・江西省境地区での割拠は、ちょうど中国南部の支配勢力が一時的に安定したときであったので、湖南、江西両省から「討伐」に派遣された軍隊はいつも八、九コ連隊以上の兵力をもち、多いときには十八コ連隊にもたっした。ところが、われわれは、四コ連隊たらずの兵力で四ヵ月ものあいだ敵とたたかい、割拠地区を日一日とひろげ、土地革命を日一日とふかめ、民衆政権の組織を日一日とおしひろげ、赤軍と赤衛隊を日一日とつよめたが、その原因は、湖南・江西省境地区の共産党(地方の党組織と軍隊の党組織)の政策が正しかったことにある。当時、党の省境地区特別委員会と軍事委員会のとった政策は、逃走主義に反対し、だんこ敵とたたかって、羅霄《ルオシァオ》山脈〔10〕の中部地域に政権を樹立すること、割拠地区の土地革命をふかめること、軍隊の党組織は地方の党組織の発展をたすけ、正規の軍隊は地方の武装組織の発展をたすけること、敵から各個撃破されないように兵力の分散に反対し、赤軍を集中し機会をとらえて当面の敵にたちむかうこと、割拠地区の拡大は暴進政策に反対し、波状的におしすすめる政策をとることであった。これらの戦術が適切であったうえに、地形が闘争にとって有利であり、進撃してきた湖南、江西両省の軍隊の足並みが完全にはそろっていなかったため、四月から七月までの四ヵ月間に、何回も勝利をおさめたのである。敵はわれわれに数倍する軍隊をもちながら、この割拠をうちやぶることができなかったばかりでなく、この割拠がますます拡大していくのを阻止することもできなかった。しかも、この割拠が湖南、江西両省にあたえている影響は、ますます拡大するいきおいにある。八月の失敗は、まったく、一部の同志が、そのころちょうど支配階級が一時的な安定の時期にあったことを理解せず、逆に、支配階級が政治的に分裂している時期にとる戦略をとり、兵力をわけて暴進したためであり、それで、省境地区と湖南省南部はどちらも失敗したのである。湖南省委員会代表の杜修経《トウシウチン》同志は、当時の情勢をみきわめず、省境地区特別委員会、軍事委員会および永新《ヨンシン》県委員会の合同会議の決議を無視し、湖南省委員会の命令を形式的に執行することしか知らす、闘争からのがれて郷里にかえりたがっている赤軍第三十九連隊の意見に追随した。そのあやまりは実に大きかった。このような失敗の情勢は、九月以後になって、省境地区特別委員会と軍事委員会があやまりをただす措置をとったので、もちなおされたのである。

四 湖南・江西省境地区での割拠の局面が湖南、湖北、江西三省ではたす役割

 寧岡《ニンカン》県を中心とする湖南・江西省境地区での労農武装割拠の意義は、けっして省境地区の数県にかぎられるものではない。このような割拠は、湖南、湖北、江西三省の労働者、農民が暴動によって三省の政権をうばいとる過程で、大きな意義をもっている。省境地区での土地革命と民衆政権の影響を、とおく湖南、江西両省の湘江《シァンチァン》と[章+”ふゆがまえ”の下に”貢”]江《カンチァン》の下流地帯、さらには湖北省にまでおよぼすこと、赤軍が闘争のなかでますますその数をふやし、質をたかめ、将来、三省における全面的な暴動のさいに、そのはたすべき使命をはたすくとができるようにすること、各県の地方武装組織、すなわち赤衛隊や労農暴動隊の数をふやし、質をたかめて、当面は挨戸団や少数の軍隊とたたかい、将来は省境地区の政権をまもることのできるものにすること、赤軍からの派遣にたよることをだんだんすくなくして、地方の要員が完全に自立できるようにし、省境地区の活動にはその地区の要員をあて、さらにすすんで赤軍にも、拡大された割拠地域にも要員をおくりこむことができるようにすること――これらは、いずれも、省境地区の党が湖南、湖北、江西三省の暴動の発展のなかでになう、きわめて重要な任務である。


五 経済問題

 周囲を白色勢力にとりかこまれているので、軍隊や人民の日用必需品や現金の欠乏は、きわめて大きな問題になっている。この一年来、省境地区政権が割拠している地区では、敵のきびしい封鎖によって、食塩、綿布、薬品などの日用必需品がいつもひどく欠乏しており、価格もひどくたかいので、労働者、農民、小ブルジョア階級〔11〕の大衆や赤軍兵士大衆の生活は困難をきたし、ときには、まったく極点にたっした。赤軍は戦争をしながら、給養をまかなわなければならない。毎日、主食をのぞいた五分の副食費にさえこと欠き、栄養は不足し、病人は続出し、入院中の負傷兵の状態はいっそう苦しい。このような困難は、全国的な政権をかちとるまでは、もちろんさけられないことではあるが、このような困難をいくらかでも解決し、生活をいくらかでもよくすること、とくに赤軍の給養をいくらかでも充実させることが、さしせまって必要となっている。省境地区の党が経済問題にたいする適切な措置をとることができなければ、敵の勢力がなおも比較的長期間にわたって安定するであろう条件のもとでは、割拠は大きな困難にぶつかるであろう。この経済問題をある程度解決することは、たしかに、一人ひとりの党員が心がけなければならないことである。

 六 軍事根拠地の問題

 省境地区の党には、もう一つの任務がある。すなわち大・小の五井〔12〕と九隴との二つの軍事根拠地をかためることである。水新、[”雨”の下に”口”三つ+”おおざと”]《リン》県、寧岡、遂川《スイチョワン》の四県の境にある大・小の五井山区と、水新、寧岡、茶陵《チャーリン》、蓮花《リェンホワ》の四児の境にある九隴川区のこの地形の有利な一つの他方、とりわけ民衆からの支持もあり、地形もきわめて険要な大・小の五川は、現在、省境地区での重要な軍事根拠地であるばかりでなく、湖南、湘北、江西三省で暴動が発展する将来においても、やはり重要な軍事根拠地になる。この根拠地をかためる方法は、第一に、完備した陣地をきずくこと、第二に、十分な食糧をたくわえること、第三に、比較的よい赤軍病院をつくることである。この三つのことを着実になしとげることが、省境地区の党の努力しなければならない点である。



〔1〕 毛沢東同志かここでさしているのは、民族ブルジョア階級のことである。毛沢東同志は、一九三五年十二月に書いた『日本帝国主義に反対する戦術について』および、一九三九年十一月に書いた『中国革命と中国共産党』という論文のなかで、買弁ブルジョア階級と民族ブルジョア階級の区別についてくわしく説明している。
〔2〕 蒋派とは蒋介石派をさす。桂派とは広西省軍閥の李宗仁、白崇禧派をさす。馮派とは馮玉祥派をさす。閻派とは山西省軍閥の閻錫山脈をさす。かれらは連合して張作霖と戦い、一九二八年六月、北京と大和を占領した。
〔3〕 張作霖は奉天系軍閥の首領である。一九二四年、呉佩孚が第二次直奉戦争でやぶれてからは、張作霖が中国北部でもっとも勢力のある軍閥になった。一九二八年、かれは呉佩孚と連合して北京を占拠した。一九二八年六月、北京から東北地方に退去する途中、これまでかれを道具として利用してきた日本帝国主義者によって爆死させられた。
〔4〕 一九二八年五月三日、日本侵略者が済南を占領し、蒋介石が恥しらずにもおおっぴらに日本と妥協すると、かつて一九二七年の反革命クーデターに追随した民族ブルジョア階級の一部は、自分たちの利益のため、したいに蒋介石政権にたいする在野反対派を形成するようになった。当時、汪精衛、陳公博らの投機的な反革命の政派は、この運動のなかでうごきまわり、国民党内のいわゆる「改組派」を形成した。
〔5〕 一九二八年、蒋介石は日本帝国主義の支持のもとに、北上して張作霖を攻撃した。日本帝国主義は、英米勢力の北部にのびるのをはばむため出兵して、山東省の省都済南を占領し、津浦鉄道(天津―浦口)をたちきった。五月三日、日本侵略軍は済南で数多くの中国人を虐殺した。これを「済南虐殺事件」という。
〔6〕 中国赤色政権の組織形態は、ソビエト政権に似ている。ソビエトとは代表者会議のことで、ロシアの労働者階級が一九〇五年の革命のときにつくりだした一種の政治制度である。レーニンとスターリンはマルクス主義の理論から出発して、ソビエトの共和国が、資本主義から社会主義への過渡期におけるもっとも適切な社会政治組織形態だという結論をひきだした。一九一七年、ロシアの十月社会主義革命は、レーニンとスターリンのボリシェビキ党の指導のもとに、世界ではじめてプロレタリア独裁の社会主義のソビエト共和国をうちたてた。中国では、一九二七年に革命が失敗したのち、中国共産党が毛沢東同志を先頭として指導した各地の人民大衆の革命蜂起は、代表者会議をもって民衆政権の形態とした。しかし、中国のこの革命段階では、こうした政権の性質は、プロレタリア階級の指導する反帝、反封建の新民主主義革命の人民民主主義独裁であり、ソ連のプロレタリア独裁の政治権力とは区別される。
〔7〕 第二次世界大戦中、もとイギリス、アメリカ、フランス、オランダなどの帝国主義の支配下にあった東方の多くの植民地は、日本帝国主義者に占領された。それらの植民地の労働者、農民、都市小ブルジョア階級の大衆と民族ブルジョア分子は、共産党の指導のもとに、イギリス、アメリカ、フランス、オランダなどの帝国主義と日本帝国主義との矛盾を利用して、ファシストの侵略に反対する広範な統一戦線を結成し、抗日根拠地をうちたて、苦難にみちた抗日遊撃戦争をすすめて、第二次世界大戦前の政治情勢を転換させはじめていた。第二次世界大戦が終わって、日本帝国主義が追いだされると、アメリカ、イギリス、フランス、オランダなどの帝国主義は、もとの植民地支配をつづけようとしたが、各植民地の人民は、すでに抗日戦争のなかで、相当な力をもつ武装勢力をきたえあげていて、これまでのような状態には甘んじなくなった。しかも、ソ連が強大になっていたこと、アメリカをのぞくすべての帝国主義国が、戦争中あるものはうちたおされ、あるものはよわめられていたこと、さらに中国革命の勝利が中国における帝国主義の戦線をつきやぶったこと、こうしたことによって、帝国主義制度全体はすでに世界的に大きくゆらいでいた。こうして、アジア、アフリカ、ラテン・アメリカの各植民地、および半植民地の人民も、だいたい中国とおなじように、大小さまざまの革命根拠地と革命政権をもちこたえることができ、農村をもって都市を包囲する革命戦争を長期にわたって堅持することができ、さらにそこから一歩一歩おしすすめて、都市をうばい、その植民地と半植民地で全国的な範囲での勝利をかちとることができるようになった。こうした新しい情勢にもとづいて、帝国主義の直接支配する植民地の条件のもとでという、この問題についての毛沢東同志の一九二八年の観察は、すでにあらためられている。
〔8〕 これは、一九二七年、蒋介石、汪精衛があいついで革命を裏切ったのち、各地の人民が共産党の指導のもとで最初におこした反革命勢力にたいする反撃行動をさす。広州では、一九二七年十二月十一日、労働者と革命的な兵士が連合して蜂起し、人民の政権をうちたてて、帝国主義の直接援助のもとにあった反革命軍隊にたいして、はげしい戦闘をおこなったが、力の差があまりに大きかったため、この人民の蜂起は失敗した。広東省東部沿海の海豊・陸豊県などの農民は、一九二三年から一九二五年にかけて、共産党員彭湃同志の指導のもとで、強大な運動をおこし、反革命派陳炯明にたいする広州国民革命軍の二回にわたる東征の勝利に、大きな援助をあたえた。一九二七年四月十二日、蒋介石が革命を裏切ると、この地方の農民は、四月、九月、十月の前後三回にわたって蜂起し、海豊、陸豊一帯に革命政権をうちたて、一九二八年四月までもちこたえていた。湖南省東部では、一九二七年九月、蜂起した農民が瀏陽、平江、醴陵、株州の各県一帯を占拠したことがある。それとおなじときに、湖北省東北部の孝感、麻城、黄安などの県でも、数万の農民が武装蜂起し、三十数日間黄安県の県郡を占領した。湖南省南部では、一九二八年一月、宣章、[林+”おおざと”]州、耒陽、永興、資興などの諸県で蜂起した農民が、三ヵ月ものあいだ、革命政権をうちたてたことがある。
〔9〕 赤衛隊とは革命根拠地の大衆の武装組織のことである。赤衛隊の隊員は平常、生産に従事している。
〔10〕 羅霄山脈は、江西省と湖南省の省境にある大きな山脈で、井岡山はその中部にある。
〔11〕 毛沢東同志がここでいっている小ブルジョア階級は、農民以外の手工業者、小商人、さまざまな自由職業者および小ブルジョア階級出身の知識層のことである。中国では、これらの社会構成要素はおもに町にあるが、農村でもかなりの数をしめている。『中国社会各階級の分析』を参照。
〔12〕 大・小の五井山区というのは、江西省西部の永新、寧岡、遂川、湖南省東部の[”雨”の下に”口”三つ+”おおざと”]県の四県にまたがる井岡山のことをさす。井岡山には、大井、小井、上井、中井、下井というところがあるからである。
訳注
① 湖南・江西省境地区とは、一九二七年十月、毛沢東同志が秋収蜂起の部隊をひきいて井岡山についてからうちたてた、中国最初の農村革命根拠地である。こうした革命根拠地は、プロレタリア階級の指導のもとに、労農同盟に依拠し、革命武装組織によってうちたてられたため、「労農武装割拠」ともよばれた。これらの革命根拠地は、最初はいずれも、いくつかの省の境界地区につくられたので、「省境地区」とよばれ、のちには「辺区」とよばれた。抗日戦争の時期には、共産党の指導する軍隊がうちたてたこのような革命根拠地は、「抗日根拠地」とよばれ、「辺区」ともよばれ、「解放区」ともよはれた。第三次国内革命戦争の時期になると、こうした革命根拠地は、一般に「解放区」とよばれた。
② 省境地区特別委員会とは、中国共産党湖南・江西省境地区特別委員会をさし、当時、省委員会と県委員会の中間段階にある党機関であった。軍事委員会とは、湖南・江西省境地区労農赤軍第四軍の党の軍事委員会のことで、軍隊内の党の最高指導機関であり、同時に、省境地図軍事委員会として、省境地区赤軍および地方武装組織を指揮した。
③ 本巻の『湖南省農民運動の視察報告』訳注⑤を参照。

  
  
  

 
 
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井岡山の闘争

          (一九二八年十一月二十五日)


 これは、毛沢東同志が中国共産党中央に送った報告である。


   湖南・江西省境地区での割拠と八月の失敗


 一国のなかに、周囲を白色政権にとりかこまれながら、一つの小さなあるいはいくつかの小さな赤色政権地域かうまれるのは、いまの世界では、ただ中国だけにみられることである。それがうまれた原因を分析してみると、その一つは、中国では買弁・豪紳階級の内部にたえず分裂と戦争があることである。買弁・豪紳階級の内部の分裂と戦争がつづくかぎり、労働者・農民の武装割拠もまたひきつづき存在し、発展することができるであろう。そのほかに、労働者・農民の武装割拠が存在し、発展するためには、なおつぎの条件がそなわっていなければならない。(1)優秀な大衆がいること、(2)優秀な党があること、(3)相当の力をもつ赤軍があること、(4)作戦に有利な地形があること、(5)給養をまかなえるだけの経済力があること、である。
 支配階級の政権が一時的に安定している時期と分裂している時期とでは、割拠地区は、周囲の支配階級にたいしてちがった戦略をとらなければならない。支配階級の内部に分裂がおきた時期、たとえば湖南《フーナン》、湖北《フーペイ》両省でいうと李宗仁《リーツォンレン》、唐生智《タンションチー》が戦争をした時期〔1〕、広東《コワントン》でいうと張発奎《チャンファーコイ》、李済深《リーチーシェン》が戦争をした時期〔2〕には、われわれの戦略は、やや暴進してもよく、軍事力によって割拠を発展させる地方はやや広くしてもよい。だが、白色テロがおそってきたときに、びくともしないそなえをしておくためには、やはり中心区域にしっかりした基礎をつくることに心をそそぐ必要がある。支配階級の政権が比較的安定している時期、たとえば今年四月以後の南方各省のばあいには、われわれの戦略は逐次前進するというものでなければならない。この時期に、軍事の面でもっとも禁物とすることは、兵力をわけて暴進することであり、地方活動の面(土地の分配、政権の樹立、党の拡大、地方の武装組織の建設)でもっとも禁物とすることは、中心区域にしっかりした基礎をつくることに心をそそがないで、人力をばらばらに分散することである。各地で多くの小さな赤色地域が失敗したのは、客観的に条件がそなわっていなかったからか、あるいは主観的に戦術があやまっていたからである。戦術にあやまりがあったのは、もっぱら、支配階級の政権が一時的に安定している時期と分裂している時期というこの二つの異なった時期をはっきり区別しなかったためである。支配階級の政権が一時的に安定しているときでも、一部の同志は、敵の側から挨戸団《アイホートワン》のほかに、集中的に正規の軍隊が攻撃してくるということをまったく知らないかのように、兵力をわけて暴進することを主張し、赤衛隊だけでひろい地方を防衛することさえ主張した。地方活動の面では、中心区域にしっかりした基礎をつくることにまったく心をそそがず、主体的な力の可能性を考えないで、ただ無制限に拡大しようとするだけである。もしだれかが、自己を不敗の地におこうとして、軍事の面で一歩一歩拡大する政策をとることを主張し、地方活動の面で力を集中して中心区域にしっかりした基礎をつくることを主張するならば、それに「保守主義」というレッテルをはった。かれらのこのようなあやまった意見こそ、ことしの八月に湖南・江西《チァンシー》省境地区でなめた失敗と、そのころ赤軍第四軍が湖南省南部でなめた失敗の根本原因である。
 湖南・江西省境地区での活動は、昨年の十月からはじまった。最初は、各県ともぜんぜん党の組織がなくなっていて、地方の武装組織としても、ただ袁文才《ユァンウェンツァイ》、王佐《ワンツォ》がそれぞれ六十ちょうのぼろ銃をもって井岡山《チンカンシャン》付近にいただけで、永新《ヨンシン》、蓮花《リェンホワ》、茶陵《チャーリン》、[”雨”の下に”口”三つ+”おおざと”]《リン》県の四県の農民自衛軍の武装は全部豪紳階級に解除されてしまい、大衆の革命的な情熱はすでにおしひしがれていた。ことしの二月になると寧岡《ニンカン》、永新、茶陵、遂川《スイチョワン》にはいずれも党の県委員会ができ、[”雨”の下に”口”三つ+”おおざと”]県には特別区委員会ができ、蓮花にも党の組織ができはじめ、万安《ワンアン》県委員会とも連絡がついた。地方の武装組織は、[”雨”の下に”口”三つ+”おおざと”]県をのぞいて、各県にみな少しずつできた。寧岡、茶陵、遂川、永新、とくに遂川、永新の二県では、何回となく豪紳打倒、大衆動員のための遊撃的暴動をおこし、成果はみなよい方であった。この時期には、土地革命はふかまっていなかった。政権機関は労農兵政府とよばれた。軍隊内には兵士委員会〔3〕が組織された。部隊が分散して行動するときには、行動委員会が組織されて指揮にあたった。この時の党の高級指導機関は、秋収蜂起のさいに湖南省委員会が任命した前敵委員会①(書記は毛沢東《マオツォートン》)であった。三月上旬、前敵委員会は湖南省南部特別委員会の要求によって解消され、師団委員会(何挺穎《ホーティンイン》が書記)に組織がえされ、軍隊内の党だけを統轄する機関にかわり、地方の党にたいしては口出しできなくなった。同時に、毛沢東の部隊もまた、湖南省南部特別委員会の要求によって湖南省南部に移動させられ、そのため、この省境地区は一ヵ月余にわたって敵に占領された。三月末、湖南省南部で失敗し、四月に朱徳《チュートー》、毛沢東の両部隊と湖南省南部の農民軍は寧岡まで撤退してふたたび省境地区の割拠をはじめた。
 四月以後の湖南・江西省境地区での割拠は、ちょうど中国南部の支配勢力が一時的に安定したときであったので、湖南、江西両省から「討伐」に派遣された反動軍隊は、少ないときでも八、九コ連隊、多いときには十八コ連隊にたっした。ところが、われわれは、四コ連隊たらすの兵力で、四ヵ月ものあいだ敵とたたかい、割拠地区を日一日とひろげ、土地革命を日一日とふかめ、民衆の政権を日一日とおしひろげ、赤軍と赤衛隊を日一日と拡大した。その原因は省境地区の党(地方の党組織と軍隊の党組織)の政策が正しかったことにある。当時、省境地区特別委員会(毛沢東が書記)と軍事委員会(陳毅《チェンイー》が書記)の政策はつぎのとおりである。すなわち、逃走主義に反対し、だんこ敵とたたかって、羅霄《ルオシァオ》山脈の中部地域に政権をつくること、割拠地区の土地革命をふかめること、軍隊の党組織は地方の党組織の発展をたすけ、軍隊の武装組織は地方の武装組織の発展をたすけること、敵の支配勢力の比較的つよい湖南省にたいしては守勢をとり、支配勢力の比較的よわい江西省にたいしては攻勢をとること、氷新県の発展に大きな力をそそぎ、大衆的割拠をつくりだし、長期闘争の体勢をととのえること、敵から各個撃破されないように兵力の分散に反対し、赤軍を集中し機会をとらえて当面の敵を迎えうつこと、割拠地区の拡大については、暴進政策に反対し、波状的におしすすめる政策をとることである。これらの戦術が適切であったうえに、省境地区の地形が闘争にとって有利であり、進撃してきた湖南、江西両省の軍隊の足並みが完全にはそろっていなかったために、四月から七月までの四ヵ月間の何回もの軍事的勝利と大衆的割拠の発展がえられた。敵はわが軍に数倍しながら、この割拠をうちやぶることができなかったばかりでなく、割拠の発展を阻止することもできなかった。この割拠が湖南、江西両省にあたえる影響は、ますます拡大するいきおいにある。八月の失敗は、まったく、一部の同志がそのころちょうど支配階級が一時的な安定の時期にあったことを理解しないで、逆に支配階級が分裂している時期にとる政策をとり、兵力をわけて湖南省南部に暴進したためであり、それで省境地区と湖南省南部はどちらも失敗してしまった。湖南省委員会代表杜修経《トウシウチン》と省委員会から省境地区特別委員会書記として派遣されてきた楊開明《ヤンカイミン》は、反対意見を堅持していた毛沢東、宛希先《ワンシーシェン》らが遠く氷新にいっているすきに、当時の環境をみきわめず、湖南省委員会の主張には同意しないという軍事委員会、省境地区特別委員会、永新県委員会の合同会議の決議を無視し、ただ湖南省南部にいけという湖南省委員会の命令を形式的に執行することしか知らず、赤軍第二十九連隊(その成員は宜章《イーチャン》県の農民)が闘争から逃避して郷里に帰りたがっている気分に追随したので、省境地区と湖南省南部の両方面での失敗をまねいた。
 もともと、七月中旬には、湖南省の敵第八軍呉尚《ウーシャン》部隊が寧岡県に侵入し、さらに永新県に進出してきたが、戦いにならず(わが軍は間道から出撃したが遭遇せず)、わが方の大衆をおそれ、あわただしく蓮花県をとおって茶陵県にひきかえしていった。このとき、赤軍の大部隊はちょうど寧岡県から卸県、茶陵県にむかって進撃し、[”雨”の下に”口”三つ+”おおざと”]県で計画を変更して湖南省南部の方に向きをかえた。一万、江西省の敵の第三軍王均《ワンチュイン》・金漢鼎《チンハイティン》部隊の五コ連隊、第六軍胡文斗《ホーウェントウ》の六コ連隊が、協力してまた氷新県を攻撃してきた。このとき永新県にいたわが軍は一コ連隊にすぎなかったが、広範な大衆にまもられて、四方八方から遊撃するやりかたで、この十一コ連隊の敵軍を永新県の県都付近三十華里②のなかに、二十五日ものあいだ封じこめた。最後に敵の猛攻撃で、永新県をうしない、ついでまた蓮花県、寧岡県をうしなった。このとき、江西省の敵に突然内部紛争がおこり、胡文斗の第六軍はあたふたと退却し、そしてすぐに樟樹《チャンシュー》鎮で王均の第三軍と戦争になった。残りの江西省部隊の五コ連隊も、またあたふたと永新に退却していった。もし、わが大部隊が湖南省南部にいかずにいたら、この敵を撃破して、割拠地区を吉安《チーアン》、安福《アンフー》、萍郷《ピンシァン》の各県にまでおしひろめ、平江《ピンチァン》県、瀏陽《リウヤン》県と一つにつなぐこともまったく可能であった。大部隊はすでにおらず、わが一コ連隊の兵士も疲れはてていたので、一部の部隊を残して袁・王両部隊とともに井岡山を守らせ、わたしが一部の兵をひきいて桂東《コイトン》の方向にすすみ、大部隊の帰りをむかえることにきめた。このとき、大部隊はすでに湖南省南部から桂東にむけて撤退しており、八月二十三日にわれわれは桂東で合流することができた。
 赤軍の大部隊が七月中旬、[”雨”の下に”口”三つ+”おおざと”]県についたばかりのとき、第二十九連隊の将兵たちは、政治的に動揺して、湖南省南部の郷里に帰りたがり、いうことをきかなくなっていた。第二十八連隊は湖南省南部にいくことに反対し、江西省南部にいきたがっていたが、といって永新県に帰ることはのぞまなかった。杜修経が第二十九連隊のまちがった意見を助長し、軍事委員会もこれを阻止することができなかったので、大部隊はついに七月十七日に都県を出発して[林+”おおざと”]県にむかい、七月二十四日には敵の范石生《ファンシーション》と[林+”おおざと”]県で戦って、はじめは勝ったがのちには敗れ、戦闘から兵をひいた。そこで、第二十九連隊はすぐ勝手な行動をとり、郷里の宜章県へむかって逃亡した。その結果は、一部は楽昌《ローチャン》県で匪賊《ひぞく》胡鳳章《ホーフォンチャン》に消滅され、他の一部は[林+”おおざと”]県、宜章県の各地にちらばって、ゆくえがわからず、その日に収容したものは百人たらずであった。さいわいに、主力の第二十八連隊は損失がすくなく、八月十八日に桂東を占領した。二十三日、井岡山からきた部隊と合流し、崇義《チョンイー》県、上猶《シャンヨウ》県をへて、ふたたび井岡山に帰ることを決議した。崇義県についたとき、大隊長袁祟全《ユァンチョンチュアン》が歩兵一コ中隊と砲兵一コ中隊をひきつれて裏切った。この二コ中隊は追いかけてつれもどしはしたが、連隊長王爾琢《ワンアルチュオ》はその犠牲になった。八月三十日、敵の湖南、江西両軍のそれぞれの一部隊は、わが軍が帰る途中にあるとき、井岡山に攻撃をくわえてきた。わが守備部隊は一コ大隊にもたちなかったが、要害によって抵抗し、敵を撃破して、この根拠地を保持した。
 このたびの失敗の原因はつぎの点にある。(1)一部の将兵が動揺し、郷里に帰りたがって、戦闘力をうしなったこと。また一部の将兵が湖南省南部にいきたがらず、積極性を欠いていたこと。(2)真夏の遠征で兵が疲れきっていたこと。(3)[”雨”の下に”口”三つ+”おおざと”]県から数百華里も暴進して、省境地区との連絡をうしない、孤立におちいったこと。(4)湖南省南部の大衆がまだ立ちあがっておらず、単純な軍事的冒険となったこと。(5)敵情が不明であったこと。(6)準備がわるくて、将兵が作戦の意義を理解していなかったこと。

割拠地区の現勢

 ことしの四月いらい、赤色地域はしだいにひろげられた。六月二十三日の竜源口《ロンユァンコウ》(永新県と寧岡県との県境)の一戦で、四回目に江西省の敵軍を撃破したのち、われわれの地区は、寧岡、永新、蓮花の三つの県全体、吉安、安福の各県の一小部分、遂川県の北部、[”雨”の下に”口”三つ+”おおざと”]県の東南部をもつようになり、省境地区の全盛期をつくった。赤色地域では、土地の大部分が分配され、一部分がいま分配中である。区や郷にはみな政権がうちたてられた。寧岡、永新、蓮花、遂川にはみな県政府ができ、また省境地区政府もつくられた。郷や村にはいたるところに労農暴動隊が組織され、区と県には赤衛隊がつくられた。七月には江西省の敵が攻めてき、八月には湖南、江西両省の敵軍が共同して井岡山を攻めてきて、省境地区の各県の県都、および平原地帯はすっかり敵軍に占拠された。敵の手先である保安隊、挨戸団はなにはばかるところなく横行し、白色テロが町でも村でもあれくるった。党の組織と政権の組織は大部分崩壊した。富農や党内の投機分子がぞくぞく裏切った。八月三十日の井岡山の一戦で、湖南省の敵軍はやっと[”雨”の下に”口”三つ+”おおざと”]県に退却したが、江西省の敵軍はなおも各県の県都および大部分の農村にのさばっていた。しかし山岳地帯はどうしても敵の奪取することのできないものであった。そのようなところとして、寧岡県には西と北の二つの地区があり、永新県には北の天竜《ティエンロン》区、西の小西江《シァオシーチァン》区、南の万年山《ワンニェンシャン》区があり、蓮花県には上西《シァンシー》区があり、遂川県には井岡山区があり、[”雨”の下に”口”三つ+”おおざと”]県には青石岡《チンシーカン》と大院区《ターユァン》があった。七、八の二ヵ月間に、赤軍の一コ連隊は各県の赤衛隊と協力して大小数十回の戦闘をまじえたが、銃三十ちょうをうしなっただけで、最後に山岳地帯に退いた。
 わが軍が崇義県、上猶県をへて井岡山にもどるとき、江西省南部の敵軍独立第七師団劉士毅《リゥシーイー》部隊が遂川まで追撃してきた。九月十三日、わが軍は劉士毅をうちやぶって、銃数百ちょうをぶんどり、遂川を占領した。九月二十六日に井岡山にかえった。十月一日には、敵の熊式輝《シゥンシーホイ》部隊の周渾元《チョウホンユァン》旅団と寧岡で戦って勝ち、寧岡全県をとりかえした。このとき、桂東県に駐屯していた湖南省の敵軍閻仲儒《イェンチョンルー》部隊の百二十六名がわが軍に帰順して、車本部付大隊に編成され、畢占雲《ピーチャンユィン》が大隊長になった。十一月九日、わが軍はまた周旅団の一コ連隊を寧岡と竜源口とで撃破した。翌日は氷新に進撃してこれを占領し、すぐに寧岡にもどった。いまのところわが地区は、南は遂川県の井岡山の南麓《なんろく》から、北は蓮花県の県境まで、寧岡県の全部、遂川、[”雨”の下に”口”三つ+”おおざと”]県、永新の各県の一部分をふくみ、南北に細長い一つにまとまった地区になっている。蓮花県の上西区、永新県の天竜区、万年山区は、このまとまった地区とよくつながってはいない。敵は軍事的進攻と経済的封鎖によってわれわれの根拠地を消滅しようとしているが、われわれはいま敵の進攻をうちやぶる用意をしている。


軍事問題

 省境地区の闘争は、まったく軍事的な闘争であり、党も大衆も軍事化しないわけにはいかない。どのように敵にたちむかい、どのように戦うかが、日常生活の中心問題となっている。割拠というものは武装されたものでなければならない。武装されていなかったり、武装が十分でなかったり、あるいは敵にたちむかう戦術にあやまりがあったりしたところは、すぐ敵に占領されてしまう。このような闘争は、日一日とはげしくなり、問題もまた非常に複雑できびしい。
 省境地区の赤軍はつぎのところからきている。(一)潮州《チャオチョウ》、汕頭《シャントウ》の葉挺《イエティン》、賀竜《ホーロン》の旧部隊〔4〕、(二)もとの武昌《ウーチャン》国民政府警備連隊〔5〕、(三)平江県、瀏陽県の農民〔6〕、(四)湖南省南部の農民〔7〕と水口山《ショイコウシャン》の労働者〔8〕、(五)許克祥《シュイコーシァン》、唐生智、白崇禧《パイチョンシー》、朱培徳《チュペイトー》、呉尚、熊式輝らの部隊から捕虜にした兵士、(六)省境地区各県の農民。しかし、葉挺・賀竜の旧部隊、警備連隊および平江県、瀏陽県の農民は、一年あまりの戦闘をへて、三分の一しか残っていない。湖南省南部の農民も多くの死傷者をだしている。したがって、まえの四つの部分はいまなお赤軍第四軍の中核ではあるが、数のうえであとの二つの部分にははるかにおよばない。あとの二つの部分でも敵軍の捕虜の方が多いが、もしこの方面からの補充がなければ、兵員の問題は重大なことになるであろう。それにしても、銃はめったに失わないが、兵士は負傷、死亡、疾病《しっぺい》、逃亡があってずっと損失しやすいので、兵士の増加と銃の増加とはやはりつりあいがとれない。湖南省委員会は、安源《アンユァン》の労働者〔9〕をこちらに送ると約束されたが、すみやかに実行していただきたい。
 赤軍の構成要素は、一部分が労働者、農民で、一部分がルンペン・プロレタリアである。ルンペンの要素が多すぎることは、もちろんこのましくない。しかし、ルンペン分子には戦闘力がある。毎日戦闘がおこなわれ、死傷者も多いなかで、そのルンペンをみつけてきて補充することもすでに容易ではなくなっている。このような状況のもとでは、政治的訓練を強化する以外に方法はない。
 赤軍兵士の大部分はやとい兵部隊からきているが、赤軍にはいるとすぐに質が変わる。まず第一に、赤軍がやとい兵制度を廃止したことは、兵士に、他人のために戦争するのではなくて自分のため人民のために戦争するのだと感じさせている。赤軍にはいまでも正規の給与制というものはなく、食糧と食油、食塩、たきぎ、野菜などの費用、それにわずかばかりのこづかい銭を支給するだけである。赤軍将兵のうち、他の地方の出身者にまで土地を分配することはかなり困難であるが、この省境地区の出身者にはそれぞれ土地が分配されている。
 政治教育をつうじて、赤軍兵士はみな階級的自覚をもち、みな土地の分配、政権の樹立、および労働者・農民の武装化などの常識を身につけるようになり、自分のため、また労農階級のために戦うのだということを知るようになった。だから、かれらは苦しい闘争のなかでも不平をいわない。中隊、大隊、連隊には兵士委員会ができて、兵士の利益を代表し、また政治工作③や民衆工作をやっている。
 党代表制度〔10〕は、経験が証明しているように、廃止してはならない。党細胞が中隊に組織されているので、とくに中隊段階では、党代表はいっそう重要になる。党代表は、兵士委員会が政治訓練をおこなうよう督促し、民衆運動工作を指導すると同時に、党細胞の書記をも担当しなければならない。事実が証明しているように、中隊の党代表がわりあいしっかりしていれば、その中隊はわりあい健全なものになるが、中隊長では政治的にそのような大きな役割をはたすことはむずかしい。なぜなら、下級幹部の死傷があまりに多いので、敵軍の捕虜の兵士で編入されてまもないのに、すぐ中隊長や小隊長になることがよくあるからである。ことしの二、三月ころの捕虜の兵士で、いま大隊長になっているものもいる。表面的にみれば、赤軍といわれる以上、党代表はなくてもよいようであるが、それは実に大きなまちがいである。第二十八連隊は湖南省南部にいたときに、党代表を廃したことがあったが、のちにまたこれを復活した。指導員と改称すれば、国民党の指導員と混同されて、捕虜出身の兵士はこれをいやがる。それに、名称を変えることは、制度の本質にかかわることではない。だから、われわれは変えないことにさめた。党代表には死傷者が非常に多いので、訓練班を自分でもうけて訓練し、補充はするが、そのほかに、党中央および両省委員会から党代表になれる同志をすくなくとも三十名は派遣してもらいたい。
 一般の兵士は半年か一年訓練しなければ戦争をやれないが、われわれの兵士は、きのう入隊すれば、きょうはもう戦争をしなければならないので、まったく訓練というものがない。軍事技術はあまりに劣っていて、戦いは勇敢さだけにたよっている。長期間の休息と訓練は不可能なので、なんとかして一部の戦闘をさけ、時間をつくって訓練するほかはない。それができるかどうかやってみることにする。下級将校を訓練するため、現在、百五十人からなる教導隊を設けており、これを恒常的にやっていくつもりでいる。党中央および両省委員会は、中隊長、小隊長以上の将校を多く送ってもらいたい。
 湖南省委員会は、兵士の物質生活をすくなくとも一般の労働者、農民の生活よりはいくらかよくすることに気をくばるよう、われわれにいってきている。だが、現在はその反対で、主食のほかは、食油、食塩、たきぎ、野菜などの費用として毎日一人あたりただの五分《フェン》しかあてておらず、それさえ続けることは困難である。食油、食塩、たきぎ、野菜などの費用を支給するだけでも、毎月一万元以上の銀貨が必要であり、それはすべて土豪からの徴発で支給している〔11〕。現在、全軍五千人の冬服についていうと、綿はあるが、綿布がない。こんなに寒いのに、多くの兵士はまだ夏服を二枚重ね着しているだけである。さいわいに苦しい生活にはなれている。しかも、その苦しさは誰もがおなじで、軍長から炊事兵にいたるまで、主食以外は一触に五分ぶんの食事しかとっていない。こづかい銭を支給するにも二角なら一律に二角にし、四角なら一律に四角にしている〔12〕。だから、兵士はだれにも不平をいわない。
 戦闘のあるたびに負傷兵がでる。栄養不足や寒さやその他の原因で、病気する将兵が多い。病院は山に設けられており、漢方と洋式の二つの方法で治療しているが、医者も薬も欠乏している。現在、入院中のものは八百余人である。湖南省委員会は薬を買ってくれるといったが、いまになってもまだとどいていない。何人かの医師といくらかのヨード剤を送られるよう、あらためて党中央および両省委員会にお願いする。
 赤軍の物質生活がこのように粗末であり、戦闘がこのように頻繁《ひんぱん》にやられているにもかかわらず、赤軍が依然としてくずれず維持できているのは、党のはたしている役割のほかに、軍隊内で民主主義が実行されているからである。上官は兵士をなぐちず、将兵は平等に待遇されており、兵士には会議をひらき意見をのべる自由があり、わずらわしい儀礼は廃止され、会計は公開されている。兵士はまかないを管理し、鯨日五分の食油、食塩、たきぎ、野菜などの費用のなかから少しばかり節約してこづかい銭にあてている。これを「食費の余り」とよんで、一人あたり毎日六、七十文《ウェン》もらっている。こうしたやり方に、兵士は満足している。とくに、新しくはいってきた捕虜の兵士は、国民党の部隊とわれわれの軍隊とではまったくちがった世界であることを感じている。かれらは、赤軍の物質生活が白軍より劣ってはいても、精神的には解放されたと感じている。おなじ兵士で、きのうは敵軍内で勇敢でなかったものが、きょうは赤軍内で非常に勇敢になるのは、民主主義の影響である。赤軍はるつぼのようなもので、捕虜の兵士がはいってくると、たちまちとかしてしまう。中国では人民が民主主義を必要としているばかりでなく、軍隊もまた民主主義を必要としている。軍隊内の民主主義制度は、封建的なやとい兵部隊をうちこわす重要な武器となるであろう〔13〕
 党の組織は、現在、中隊細胞、大隊委員会、連隊委員会、軍委員会の四段階にわかれている。中隊には細胞があり、分隊には細胞班がある。赤軍が苦難のなかで奮戦しながらも崩壊しない重要な原因の一つは、「細胞が中隊に組織されている」ことにある。二年前には、国民党軍隊内のわが党の組織は、葉挺の部隊〔14〕でさえ、まだ各連隊ごとに一つの細胞しかなかったように、まったく兵士をつかんでおらず、そのためにきびしい試練にたえきれなかったのである。いまでは、赤軍内の党員と非党員の比率は、だいたい一対三、すなわち平均して四人のうちに一人の党員がいる。最近、党員と非党員を半々にするという目標を達成するため、戦闘員兵士のあいだに、党員数をふやすことにきめた〔15〕。現在、中隊細胞にはすぐれた書記がすくないので、各地でそこにおれなくなった活動家のなかから多数のものを送られるよう、党中央にお願いする。湖南省南部からきた活動家は、そのほとんどが軍隊内で党の仕事をしている。だが、八月に湖南省南部で一部のものがちりぢりになったので、いまのところ人をだすことはできない。
 地方の武装組織には赤衛隊と労農暴動隊がある。暴動隊はほこや先込め銃を武器にしており、郷を単位にし、各郷に一隊ずつあり、人数は郷の大小に比例している。その任務は反革命を弾圧し、郷の政権をまもり、敵がくれば、赤軍あるいは赤衛隊の戦闘に協力することである。暴動隊はさいしょ永新にでき、もとは秘密のものであったが、県全体を奪取してから公然化した。こうした制度はいま省境地区の各県にひろがっているが、名まえはそのままである。赤衛隊の武器は主として五発銃であるが、九発銃も単発銃もある。各県の銃の数は、寧岡に百四十、永新に二百二十、蓮花に四十三、茶陵に五十、[”雨”の下に”口”三つ+”おおざと”]県に九十、遂川に百三十、万安に十、合計六百八十三ちょうである。大部分は赤軍が支給したものであるが、一部分は自分で敵から奪いとったものである。各県の赤衛隊はほとんどすべてが、たえず豪紳の保安隊、挨戸団と戦っており、戦闘力は日ましに増大している。馬日事変〔16〕のまえには、各県に農民自衛軍があった。 その銃の数は、[イ+|+攵]《ヨウ》県に三百、茶陵に三百、[”雨”の下に”口”三つ+”おおざと”]県に六十、遂川に五十、永新に八十、蓮花に六十、寧岡(袁文才部隊)に六十、井岡山(王佐部隊)に六十、合計九百七十ちょうであった。馬日事変以後、袁、王両部隊は損失をうけなかったが、そのほかわずかに遂川県で六ちょう、蓮花県で一ちょう保存されただけで、あとはすっかり豪紳にとられてしまった。農民自衛軍にこれほど銃を確保する能力がなかったのは、日和見主義路線のせいである。現在も各県の赤衛隊の銃はまだまだ不足しており、豪紳ほど多くはもっていない。赤軍は、武器の点で赤衛隊にひきつづき援助をあたえなければならない。赤軍の戦闘力を低下させないことを条件にして、人民が武装するのをできるかぎり援助しなければならない。われわれはすでに、赤軍の各大隊を四コ中隊編成とし、各中隊の歩兵銃を七十五ちょうにして、これに連隊本部付中隊、機関銃中隊、追撃砲中隊、連隊本部および三つの大隊本部をくわえて、各連隊は歩兵銃千七十五ちょうをもつことにきめている。戦闘でぶんどった銃は、できるだけ地方の武装にあてる。赤衛隊の指揮官には、各県から赤軍の教導隊に送られて訓練をうけたものをあてる。赤軍からその地方の出身でないものを派遣して地元の隊長の職につかせることは、しだいに少なくしていかなければならない。朱培徳もかれの保安隊や挨戸団の武装をつよめ、省境地区各県の豪紳の武装組織の数や戦闘力は相当のものである。だからこそ、われわれ赤色地方武装組織の拡大は、一刻もゆるがせにできない。
 赤軍は集中を原則とし、赤衛隊は分散を原則とする。反動政権が一時的に安定しているこの時期には、敵は大量の軍事力を集中して赤軍を攻撃することができるので、赤軍が分散することは不利である。われわれの経験では、兵力を分散させたときに失敗しなかったことはほとんどないが、兵力を集中して、わが兵力よりも小さいか、わが兵力に等しいか、または、わが兵力よりもいくらか大きい数を攻撃したときには、よく勝利をおさめている。党中央がわれわれに指示している遊撃地域の拡大は、たてよこ数千華里におよび、広すぎるきらいがある。これはおそらく、われわれの力を過大に評価しているためであろう。赤衛隊は分散したほうが有利なので、現在各県の赤衛隊はみな分散して戦う方法をとっている。
 敵軍にたいする宣伝で、もっとも効果的な方法は、捕虜を釈放したり負傷兵を治療してやったりすることである。敵軍の兵士や大隊長、中隊長、小隊長がわが軍の捕虜になれば、すぐかれらに宣伝をおこない、残りたいものと、帰りたいものとにわけ、帰りたいものには旅費をあたえて釈放する。このようにすれば、「共産匪は手あたりしだいに人を殺す」といった敵の欺瞞《ぎまん》は、たちどころにうちやぶられてしまう。楊池生《ヤンテーション》の「九師団旬刊』は、われわれのこのようなやり方について「悪辣《あくらつ》なるかな」と驚嘆している。赤軍兵士たちは、とらえてきた捕虜にたいして非常に親切にいたわったりあたたかく見送ったりするので、「新しい兄弟の歓送集会」があるたびに、捕虜たちはその演説で、われわれに心からの感謝をもってこたえている。敵の負傷兵を治療してやることも、大きな効果がある。李文彬《リーウェンピン》のようなりこうな敵は、ちかごろ、われわれのやり方を見ならい、捕虜を殺さず、捕虜となった負傷兵を治療している。それでも、われわれの兵士には、つぎの戦いのときに銃をさげて帰ってくるものがある。このようなことがすでに二回もあった。このほかに、文字による宣伝、たとえば、標語を書くことなども、できるだけやっている。いく先ざきで、スローガンを壁いっぱいにかいている。ただ絵のかけるものがいないので、党中央および両省委員会から何人か送ってもらいたい。
 軍事根拠地――第一の根拠地は井岡山であり、寧岡、[”雨”の下に”口”三つ+”おおざと”]県、遂川、永新の四県の県境にまたがっている。北麓は鰹岡県の茅坪《マオピン》、南麓は遂川県の黄[土+凹]《ホワンアオ》で、両地のあいだは九十華里ある。東麓は永新県の拿山《ナーシャン》、西麓は[”雨”の下に”口”三つ+”おおざと”]県の水口《ショイコウ》で、両地のあいだは八十華里ある。周囲は拿山からはじまり、竜源口(以上は永新県)、新城《シンチョン》、茅坪、大竜《ターロン》(以上は寧岡県)、十都《シートウ》、水口、下村《シァツン》(以上は[”雨”の下に”口”三つ+”おおざと”]県)、営盤[土+于]《インパンユイ》、戴家埔《タイチァプー》、大汾《ターフェン》、堆子前《トイツーチェン》、黄[土+凹]、五斗江《ウートウチァン》、車[土+凹]《チョーアオ》(以上は遂川県)をへて拿山まで、合計五百五十華里である。山上の大井《ターチン》、小井《シァオチン》、上井《シャンチン》、中井《チョンチン》、下井《シァチン》、茨坪《ツーピン》、下荘《シァチョワン》、行州《ハンチョウ》、草坪《ツァオピン》、白泥湖《パイニーフー》、羅浮《ルオフー》の各地には、みな水田と村落があり、もともと匪賊や敗残兵の巣窟となっていたところであるが、いまでは、われわれの根拠地となっている。しかし、人口は二千にも満たず、もみの生産は一万担たらずで、軍の糧秣《りょうまつ》はすべて寧岡、永新、遂川の三県からの輸送に依存している。山の要所要所には防御工事がほどこされている。病院、被服廠《ひふくしょう》、兵器部、各連隊の留守本部はみなここにある。いま寧岡から食糧を山に運搬中である。もし十分の給養さえあれば、敵は攻めこめない。第二の根拠地は寧岡、永新、蓮花、茶陵の四県の県境にある九隴山《チウロンシャン》で、その重要性は井岡山ほどではないが、四つの県の地方武装組織の最後の根拠地であって、ここにも防御工事がほどこされている。周囲を白色政権にとりかこまれている赤色割拠地では、山の険要を利用することが必要である。

 土地問題

 省境地区の土地状況――大まかにいえば、土地の六〇パーセント以上が地主ににぎられ、農民の手にあるものは四〇パーセント以下である。江西省方面では、土地がもっとも集中しているのは遂川県で、約八〇パーセントが地主のものである。永新県がそれにつぎ、約七〇パーセントが地主のものである。万安県、寧岡県、蓮花県では自作農が比較的多いが、やはり地主の土地が多くて、約六〇パーセントをしめ、農民の土地は四〇パーセントしかない。湖南省方面では、茶陵、[”雨”の下に”口”三つ+”おおざと”]県の両県とも約七〇パーセントの土地が地主の手中にある。
 中間階級の問題――さきにのべたような土地状況のもとでは、すべての土地を没収して再分配する〔17〕ことが、大多数の人びとの支持をうける。しかし、農村のなかは大体三つの階級、すなわち大・中地主階級、小地主・富農の中間階級、中農・貧農階級にわかれている。富農はたいてい小地主と利害が結びついている。富農の土地は、総土地面積のうちではすくない方であるが、小地主の土地とあわせると、かなり多いものになる。このような状態は、おそらく全国的にみても大差ないであろう。省境地区では、土地を全部没収し、徹底的に分配する政策をとっている。したがって、赤色地域では、豪紳階級も中間階級も、おなじように打撃をこうむる。政策はそうであるが、実際にそれを実施したら、中間階級からひどく妨害をうけた。革命の初期には、中間階級は表面的には貧農階級に屈服するが、実際には、以前からの社会的地位や同族主義を利用して、貧農をおどし、土地分配の時期をひきのばす。どうしてもひきのばせなくなると、土地の実際の面積をごまかしたり、自分が肥えた土地をとって、人にはやせた土地をやる。貧農は長いあいだうちひしがれてきたし、また革命の勝利もたしかでないような気がして、この時期には、しばしば中間階級の意見をいれ、積極的な行動にふみきれない。県全体、さらには数県にわたって政権を手に入れ、反動軍隊を何回かうちやぶり、赤軍が何回か威力を発揮するような革命の高まりがこなければ、農村で中間階級にたいする積極的な行動はおこらない。たとえば、永新県の南部は、中間階級のもっとも多い地方で、土地分配のひきのばしや土地のごまかしがもっともひどかった。ここでは、六月二十三日に竜源口で赤軍が大勝利をおさめたのち、さらに区政府が土地分配のひきのばしをやった人を何人か処分したので、やっと実際に分配がおこなわれるようになった。しかし、どこの県でも、封建的な同族組織が非常に普遍的で、一村一姓、あるいは数村一姓のところが多く、比較的長い期間をかけなければ、村内の階級分化は完成されないし、同族主義も克服されない。
 白色テロ下の中間階級の寝がえり――中間階級は革命の高揚期に打撃をうけたので、白色テロがひとたびやってくると、たちまち寝がえりをうつ。反動軍隊を手びきして永新県、寧岡県の革命的な農民の家をさかんに焼きはらったのは、この両県の小地主と富農であった。かれらは反動派の指示にしたがって、家を焼きはらい、人をつかまえたりして、なかなか勇ましかった。赤軍が二度目に寧岡、新城、古城《クーチョン》、[”龍”の下に”石”]市《ロンシー》一帯にやってきたとき、数千の農民は、共産党がかれらを殺すという反動派の宣伝を真にうけて、反動派について永新に逃げていった。われわれが「寝がえりをうった農民を殺さない」、「寝がえりをうった農民が刈り入れに帰ってくるのを歓迎する」と宣伝したので、やっと一部の農民がそろそろ帰ってきた。
 革命の全国的退潮期に、割拠地区のもっとも困難な問題は、中間階級をつかめないことである。中間階級が裏切るのは、革命によってあまりにもひどい打撃をうけたことがおもな原因である。しかし、革命が全国的に高揚していれば、貧農階級はよりどころができて勇気づけられ、中間階級もまたおそれをなして、勝手なふるまいができなくなる。李宗仁と唐生智との戦争が湖南省へ発展してくると、茶陵県の小地主は農民に和解をもとめ、お歳暮に豚肉を贈ったものもいた(このとき赤軍はすでに茶陵県から撤退して遂川県にむかっていた)。李・唐間の戦争が終わると、もうそんなことは見られなくなった。現在、全国的に反革命が高まっている時期なので、打撃をうけた中間階級は、白色地域内ではほとんど完全に豪紳階級についてしまい、貧農階級は孤立してしまった。この問題はきわめて重大である〔18〕
 日常生活の圧迫による中間階級の寝がえり――赤色地区と白色地区とが敵対し、二つの敵対国ができている。敵の厳重な封鎖と、小ブルジョア階級にたいするわれわれの扱いかたの不手ぎわという、この二つの原因によって、二つの地区の貿易はほとんど完全にとだえ、食塩、綿布、くすりなどの日用必需品は欠乏し、値段が高くなり、木材、茶、油類などの農産物は輸出できず、農民には現金収入の道が絶たれて、その影響は一般人民にまでおよんでいる。貧農階級はそれでもまだ、この苦しみにたえることができるが、中間階級はたえられなくなると、豪紳階級に屈服する。もし、中国で豪紳・軍閥の分裂と戦争がつづけられていず、また全国的革命情勢が発展していないとすれば、小地区での赤色割拠は、経済的にきわめて大きな圧迫をうけ、割拠の長期的な存在は問題になってくるであろう。なぜなら、このような経済的圧迫には、中間階級がたえられないばかりでなく、労働者、貧農および赤軍もたえられなくなるときがくるかもしれないからである。永新、寧岡両県では塩がなくなり、綿布、くすりは完全にこなくなり、その他のものはいうまでもない。現在、塩は買えるようになったが、値段はひどく高い。綿布、くすりは依然としてない。寧岡県、永新県の西部、遂川県の北部(以上はいずれもいまの割拠地)の最大の産物である木材や茶や油類は、依然として運びだせないでいる〔19〕
 土地分配の基準――郷を土地分配の単位としている。山が多く、農地が少ない地方、たとえば永新県の小江《シァオチァン》区では、三つか四つの郷を一つの単位として分配したところもあるが、そういうところはきわめて少ない。農村では老若男女の別なくすべてに、均等に分配された。現在は党中央の規定にしたがい、労働力を基準とすることにあらため、労働できるものには労働できないものの二倍分を分配するようにした〔20〕
 自作農に譲歩する問題――これはまだ詳細には討議されていない。自作農中の富農は、生産力を基準にしてもらいたい、つまり働き手と資本(農具など)の多いものには、多く土地を分配してもらいたい、という要求をだしてきている。富農は、均等分配の方法も、労働力に応じた分配の方法も、どちらも自分たちに不利だと考えている。かれらとしては、働き手の面では、いっそう努力するつもりがあり、それに資本の力がくわわると、自分たちはより多くの収穫をあげることができる、と考えている。もし一般の人とおなじように分配されるならば、かれらの特別の努力と余分の資本とが無視される(なおざりにされる)ことになるので、かれらはそれをのぞまない。ここでは、やはり党中央の規定にしたがって実施している。しかし、この問題はなお討議する必要があり、結論をえてからあらためて報告する。
 土地税――寧岡県では二〇パーセント徴収しており、党中央の規定より五パーセント多いが、いま徴収中なので変更するわけにもいかず、明年あらためて引きさげることにする。このほか、遂川、[”雨”の下に”口”三つ+”おおざと”]県、永新各県の一部は割拠地域内にあるが、いずれも山地で農民はあまりにも貧しいので、徴税するわけにはいかない。政府や赤衛隊の経費は、白色地域の土豪からの徴発に依存している。赤軍の給養については、米はいまのところ、寧岡県の土地税のうちからとっているが、現金はやはり全部土豪からの徴発に依存している。十月には遂川県を遊撃して、一万余元を調達した。これで一時はまにあうので、つかってしまったときにまた方法を考えよう。

 政権の問題

 県、区、郷の各級の民衆政権はどこにも組織されているが、名実あいともなっていない。多くの地方には労農兵代表者会議といわれるものもない。郷、区ないし県の政府の執行委員会は、いずれも大衆集会の形式で選出されたものである。にわか集めの大衆集会では、問題を討議することもできず、大衆に政治的訓練をほどこすこともできず、そのうえ知識分子や投機分子にもっともあやつられやすい。一部の地方には代表者会議がつくられたが、それもまたたんに執行委員会を選出する臨時の機関としか考えられていず、選挙が終われば、実権は委員会ににぎられてしまい、代表者会議はそれ以上口にもされなくなっている。名実ともにそなわった労農兵代表者会議の組織がないわけではないが、ただ非常にすくない。このようになっているのは、代表者会議という新しい政治制度についての宣伝と教育が欠けているからである。封建時代の独断専制の悪い習慣が、大衆から一般党員まで頭のなかにしみこんでいて、すぐにはとりのぞくことができず、ことごとに安易な道をとり、わずらわしい民主主義制度をこのまないのである。民主集中主義の制度は、それがもっとも大衆の力を動員することができ、もっとも闘争に有利なものであることを大衆に理解させるように、革命闘争のなかでその効力を発揮しなければ、普遍的に、実際に、大衆組織に適用されることにはならない。われわれは以前のあやまりをしだいにただしていくように、いま各級代表者会議の詳細な組織法(中央委員会の大綱にもとづいて)をつくっている。赤軍内でも、兵士委員会だけあって兵士代表者会議のなかった従来のあやまりをただしていくように、いま各級兵士代表者会議を恒常的なものとして確立しつつある。
 現在民衆にひろく知られている「労農兵政府」とは、委員会のことである。というのは、かれらはまだ代表者会議の権力について知らず、ほんとうの権力機関は委員会だとおもっているからである。代表者会議をよりどころとしない執行委員会がことがらを処理すると、とかく大衆の意見から遊離しがちで、土地の没収や分配をためらったり、妥協したり、経費を乱用したり、汚職をしたり、また白色勢力をおそれたり、あるいはそれと断固たたかおうとしなかったりすることが、いたるところにあらわれる。委員会もまた、全体会議を開くことはまれで、問題があれば常任委員会で処理する。区や郷の政府になると、常任委員会もあまり開かず、問題があれば、委員会に常勤している議長、秘書、財務委員、または赤衛隊長(暴動隊長)の四人が、それぞれ自分で処理し決定する。だから、民主集中主義は、政府の活動のなかでもまだ板についていない。
 初期の政府委員会では、とくに郷の政府では、小地手、富農がきそって役職につこうとする。かれらは赤い腕章をつけ、さも熱心なふうをよそおい、ごまかしの手をつかって政府委員会にもぐりこみ、すべてを一手ににぎり、貧農の委員をたんなるわき役にしてしまう。闘争のなかでかれらの仮面がはぎとられ、貧農階級が立ちあがったのちでなければ、かれらを追いだすことはできない。このような現象がどこにでもあるわけではないが、かなり多くの地方でみられた。
 党は大衆のあいだできわめて大きな権威をもっているが、政府の権威はそれよりもずっとひくい。これは手間をはぶくために、党が多くのことがらを直接に処理し、政権機関をそっちのけにしておくからである。このような状況はかなり多い。政権機関内の党グループは、地方によってはないところもあり、あっても、うまく運用されていない。今後、党は政府を指導する任務を遂行しなければならす、党の主張と措置は、宣伝を別として、実施のさいは政府の組織を通さなければならない。国民党のように、直接政府に命令するまちがったやり方は避けなければならない。

党の組織問題

 日和見主義との闘争の経過――馬日事変前後には、省境地区の各県の党は、日和見主義に牛耳られていたといえる。反革命がやってきたとき、断固としてたたかうことはまれであった。昨年十月、赤軍(労農革命軍第一軍第一師団第一連隊)が省境地区の各県にきたときには、身をかくし避難していた若干の党員が残っていただけで、党の組織はぜんぶ敵に破壊されていた。十一月からことしの四月までは、党を再建した時期であり、五月以後は党を大いに拡大した時期である。この一年来、党内の日和見主義的現象は依然としていたるところにみられ、一部の党員には闘争する決意がなく、敵がやってくると山奥にかくれて、それを「伏兵」と称した。一部の党員は積極性にとんではいたが、盲目的な暴動にながれた。これらはみな小ブルジョア思想のあらわれである。このような状況は、長期の闘争による鍛練と党内の教育によって、しだいに減少してきた。同時に赤軍内にもこのような小ブルジョア的な思想が存在していた。敵がやってくると、向こうみずにぶつかることを主張するか、さもなければ逃げようとする。この二つの考えが、作戦討議のさいにおなじ人の口からでることがよくある。長期にわたる党内の闘争と客観的な事実による教訓をつうじて、たとえば向こうみずにぶつかって損害をこうむったり、逃げだして失敗したりしたすえ、しだいにあらためられた。
 地方主義――省境地区の経済は農業経済であり、一部の地方はまだ、きね・うすの時代に停滞している(山地ではほとんど、きねとうすとで米をつき、ふみうすは、平地でなければ多くはみられない)。社会組織はどこでも一つの姓を単位とした同族組織である。村落内の党組織は、居住の関係から、多くは一つの姓の党員で一つの細胞をつくっており、細胞会議は同時に同族会議のようなものである。このような状態では、「戦闘的ボリシェビキ党」を建設することは、非常にむずかしい。共産党は国境や省境を問題にしないといっても、かれらにはよくわからないし、県や区や郷の境を問題にしないといっても、かれらにはやはりよくわからない。各県のあいだには地方主義がひどく、一つの県内の各区ないしは各郷のあいだにも根づよい地方主義がある。このような地方主義をあらためるには、道理をはなしたところでいくぶん効果のあがるのが関の山で、多くのばあいは、白色勢力の非地方主義的な圧迫にまたなければならない。たとえば、二つの省の反革命の「共同討伐」によって、人民が闘争のなかで共通の利害をもつようになったとき、はじめてかれらの地方主義がしだいにうちやぶられていく。地方主義は、多くのこうした教訓をつうじて減少した。
 土着民と移住民との問題――省境地区の各県には、もう一つ特別のことがある。それは土着民と移住民とのあいだにみぞがあることである。ここの土着民と数百年前北方から移住してきた移住民とのあいだには大きなみぞがあり、歴史的にその反日は非常に深く、ときには激しい争いがひきおこされる。このような移住民は、福建と広東との省境から、湖南、江西両省の省境にそって、湖北省南部にいたるまでのあいだに、およそ数百万人はいる。移住民は山地を占有しており、平地を占有している土着民に圧迫され、日ごろ政治的には無権利であった。一昨年と昨年の国民革命にたいして、移圧民はこれを歓迎し、これで日の目をみるときが近づいたと考えた。ところが、革命が失敗したので、移住民はあいかわらず土着民から圧迫をうけている。われわれの地域内の寧岡、遂川、[”雨”の下に”口”三つ+”おおざと”]県、茶陵の各県にはみな土着民と移住民の問題があり、寧岡県での問題がもっとも重大である。一昨年から昨年にかけて、寧岡県の土着民の革命派は移住民と結びつき、共産党の指導をうけて、土着の豪紳の政権をくつがえし、全県をにぎった。昨年六月、江西省の朱培徳政府が反革命化し、九月には、豪紳が朱培徳の軍隊の手びきをして寧岡を「討伐」し、ふたたび土着民と移住民とのあいだの争いに火をつけた。このような土着民と移住民とのみぞは、道理からいえば、搾取されている労農階級の内部にもちこまれるべきではないし、まして共産党内にもちこまれるべきではない。しかし、実際には、多年にわたって残されてきた習慣なので、このようなみぞは依然として存在している。たとえば、省境地区の八月の失敗のとき、土着の豪紳は反動軍隊を手びきして寧岡県に帰り、移住民が土着民を殺すといいふらしたので、土着農民の大部分が寝がえりをうち、白い腕章をつけ、白軍を手びきして家屋を焼きはらったり、山狩りをしたりした。十月、十一月に赤軍が白軍をうちやぶると、土着農民たちは反動派について逃げさり、移圧農民たちはまた、土着農民の財産を没収した。このような事情が党内に反映して、ときどき無意味の争いがおこる。われわれのやり方は、「寝がえりをうった農民を殺さない」、「寝がえりをうった農民も帰ってくれば同じように土地がもらえる」と宣伝して、かれらを豪紳の影響から切りはなし、安心して家に帰るようにさせる一方、県政府からは、移住農民に没収した財産をもとの所有者にかえすよう命令するとともに、土着農民を保護する旨の布告をだすことである。党内では、この二つの部分の党員がかならず一致団結するよう、教育をつよめることである。
 投機分子の寝がえり――革命の高揚期 (六月)に、公然と党員を募集した機会に乗じて多くの投機分子が党内にもぐりこみ、省境地区の党員数は一時一万以上にふえた。細胞や区委員会の責任者の多くが新しい党員なので、よい党内教育のできるはずはなかった。白色テロがやってくると、投機分子は寝がえりをうち、反動派を手びきして同志たちをつかまえ、白色地区の党組織は大半がつぶれた。九月以後、党内の清掃を徹底的におこない、党員の出身階級について厳格な制限をくわえた。永新、寧岡両県の党組織は全部解散し、再登録をおこなった。党員数は大幅に減少したが、戦闘力はかえって増大した。それまで党の組織は全部公然化していたが、九月以後は、秘密の組織をつくり、反動派がやってきても活動できるように準備した。同時に、あらゆる手をつくして白色地区にはいりこみ、敵の陣営内で活動した。しかし、付近の各町にはまだ党の基盤がなかった。その原因は、一つには、町での敵の勢力が比較的大きいこと、二つには、わが軍がこれらの町を占領したときに、ブルジョア階級の利益をひどくそこねたので、党員がそこにおれなくなったことである。現在ではあやまりをあらため、町にわれわれの組織を建設することにつとめているが、成果はまだそれほどみられない。
 党の指導機関――細胞幹事会は委員会と改称した。細胞の上は区委員会で、区委員会の上は県委員会である。区委員会と県委員会とのあいだには、特別の事情によって、永新県の北郷《ペイシァン》特別区および東南特別区のように、特別区委員会を組織しているところもある。省境地区には、寧岡、永新、蓮花、遂川、[”雨”の下に”口”三つ+”おおざと”]県の五つの県委員会がある。茶陵にはまえに県委員会があったが、活動が根をおろせなかったので、昨年の冬からことしの春にかけてつくられた多くの組織が大部分白色勢力のためにこわされてしまい、この半年来は、寧岡、永新に近い一帯の山地でしか活動できなかった。そのため、県委員会を特別区委員会にあらためた。[イ+|+攵]県、安仁県はいずれも茶陵県をとおっていかなければならす、人を派遣してみたが、成果があがらずもどってきた。万安県委員会は一月にわれわれと遂川で合同会議を一回ひらいたが、半年以上も白色勢力のために連絡をたたれ、九月に赤軍が万安県に遊撃していってやっとまた一度連絡がついた。八十名の革命的農民が赤軍について井岡山にやってきて、万安赤衛隊を組織した。安福県には党の組織はない。吉安県は永新県と隣合っているのに、吉安県委員会はわれわれとたった二回連絡をとっただけで、少しも援助をあたえてくれないのは、不思議でならない。桂東県の沙田《シャーティエン》一帯では、三月と八月の二回土地を分配し、党の組織がつくられ、竜渓《ロンシー》県十二洞《シーアルトン》を中心とする湖南省南部特別委員会の管轄下におかれている。各県の県委員会の上は湖南・江西省境地区特別委員会である。五月二十日、党の省境地区第一回代表大会が寧岡県茅坪でひらかれ、第一期特別委員会委員二十三名を選出し、毛沢東を書記とした。七月、湖南省委員会から楊開明が派遣されてきて、書記を代理した。九月、楊が病気になり、譚震林《タンチェンリン》が書記を代理した。八月、赤軍の大部隊が湖南省南部にいき、白色勢力が省境地区に強い圧力をくわえてきたとき、われわれは永新県で緊急会議を一回ひらいた。十月、赤軍が寧岡県にもどり、また茅坪で党の省境地区第二回代表大会を招集した。会議は十月十四日から三日間ひらかれ、「政治問題と省境地区党の任務」などの決議が採択され、譚震林、朱徳、陳毅、竜超清《ロンチャオチン》、朱昌偕《チューチャンシェ》、劉天千《リウティエンチェン》、円盤珠《ユァンパンチュー》、譚思聡《タンスーツォン》、譚兵《タンピン》、李郤非《リーシーフェイ》、宋亦岳《ソンイーユエ》、袁文才、王佐農《ワンツォノン》、陳正人《チェンチョンレン》、毛沢東、宛希先、王佐、楊開明、同挺穎の十九名が第二期特別委員会の委員に選出された。うち五人が常任委員となり、譚震林(労働者)が書記、陳正人(知識人)が副書記になった。十一月十四日、赤軍第六回全軍大会をひらき、ニ十三名を選出して軍事委員会を組織し、うち五人を常任委員とし、朱徳を書記とした。特別委員会と軍事委員会は前敵委員会によって統轄される。前敵委員会は十一月六日に再組織されたものであり、党中央の指名によって、毛沢東、朱徳、地方党組織の書記(譚震林)、労働者の同志一名(宋喬生《ソンチャオソン》)、農民の同志一名(毛料文《マオコーウェン》)の五人で構成され、毛沢東が書記となった。前敵委員会には、暫定的に総務部、宣伝部、組織部および労働運動委員会、軍事委員会を設けた。前敵委員会は地方の党を統轄する。前敵委員会は、時には軍と行動をともにしなければならないので、特別委員会はやはり存在させる必要がある。われわれは、プロレタリア思想による指導の問題は非常に重要な問題であると考える。省境地区各県の党は、ほとんど完全に農民出身者によって構成されている党であり、もし、プロレタリア思想による指導がなければ、その方向をあやまるにちがいない。各県の県都や主要な町の労働運動に積極的に気をくばるとともに、政権機関のなかにも労働者の代表をふやすべきである。党の各段階の指導機関も労働者と貧農の要素をふやすべきである。

革命の性質の問題

 われわれはコミンテルンの中国問題にかんする決議に完全に同意する。中国は現在たしかにまだブルジョア民権革命の段階にある。中国の徹底した民権主義革命の綱領は、対外的には、帝国主義を倒して徹底的な民族解放をかちとること、対内的には、都市における買弁階級の勢力を一掃し、土地革命を完成し、農村の封建関係を消滅し、軍閥政府をくつがえすことをふくんでいる。社会主義に移行するほんとうの基礎をつくりだすには、かならずこのような民権主義革命をへなければならない。われわれは、この一年来、各地を転戦してみて、革命の全国的退潮を深く感じている。一方、少数の小地域の赤色政権はあるが、他方、全国の人民はまだ普通の民主的権利さえもたず、労働者、農民から民権派のブルジョア階級までが、すべて言論、集会の権利をもたず、共産党に加入することは最大の犯罪とされている。赤軍のいったところではどこでも、大衆はひっそりとしていて、宣伝がおこなわれたすえに、ようやく立ちあがってくる。敵軍とたたかうばあい、それが第何軍であろうと、敵軍の内部に寝がえりがおこったり反乱がおこったりすることはないので、力ずくのたたかいをしなければならない。馬日事変以後に「暴徒」をもっとも多く募集した第六軍でさえもそうである。われわれは深い寂莫《せきばく》を感じ、このような寂莫の生活が終わることを願わないときはない。わきたつような、全国的に高揚した革命に移っていくために、どうしてもとおらなければならない道は、都市の小ブルジョア階級をもふくめた政治上、経済上の民権主義闘争をひきおこすことである。
 われわれは、小ブルジョア階級にたいする政策を、ことしの二月までは、わりあいによく遂行してきた。三月に湖南省南部特別委員会の代表が寧岡県にやってきて、われわれがあまりにも右よりで、焼きはらったり、殺したりすることが少なすぎる、「小ブルジョアをプロレタリアに変えたうえで、かれらに革命を強制する」政策といったものを実行していない、とわれわれを批判した。そこで前の前敵委員会の指導者がかえられ、政策が一変した。四月に全軍が省境地区にやってきてからも、焼きはらったり、殺したりすることはやはり多くはなかったが、町の中ぐらいの商人にたいする没収や、農村の小地主、富農からの現金調達は、たいへんひどかった。湖南省南部特別委員会の提起した「すべての工場を労働者へ」というスローガンも、ひろく宣伝された。小ブルジョア階級に打撃をあたえるこのような極左的な政策は、小プルジョア階級の大部分を豪紳の側に追いやり、白い腕章をつけてわれわれに反対するようにさせてしまった。近頃になってこのような政策はしだいにあらためられ、事態はしだいに好転してきた。遂川県では、とくによい成果をおさめ、県部や町の商人はわれわれをおそれなくなり、赤軍のことをよくいうものもかなり出てきた。草林[土+于]《ツァオリンユイ》の市の日(三日に一回、日中ひらかれる)には二万人も集まるが、こんなことは今までになかったことである。このことは、われわれの政策の正しかったことを証明している。豪紳の人民にかける税金は非常に重く、遂川県の靖衛団〔21〕は、黄[土+凹]から草林までの七十華里の路上で五回も税金をとり、どんな農産物も課税をまぬがれることはできなかった。われわれは靖衛団をたたきつぶし、これらの税金を廃止して、農民や中小商人全体の支持をかちとった。
 党中央は、われわれに小ブルジョア階級の利益をふくむ政治要綱を公布せよと要求しているが、われわれとしては、党中央が、各地方のしたがうべき基準として、労働者の利益、土地革命および民族解放をふくむ民権革命全般にわたる政治要綱を制定されろよう提案する。
 農業を主要経済とする中国の革命では、軍事によって暴動を発展させるのが特徴である。われわれは党中央が軍事運動に大いに力を入れるよう提案する。

割拠地区の問題

 広東省北部から湖南、江西両省の省境地区にそって湖北省南部にいたるまでは、羅霄山脈地域にはいっている。羅霄山脈の全域をわれわれはくまなく歩きまわった。その各部分を比較してみると、寧岡県を中心とする羅霄山脈の中部地域が、われわれの軍事的割拠にもっとも有利である。北部は、地勢としては攻めるにも守るにも中部ほど有利ではなく、それに大きな政治的中心都市に近づきすぎており、長沙《チャンシャー》あるいは武漢《ウーハン》を急速に奪取する計画がないかぎり、大部分の兵力を瀏陽県、醴陵《リーリン》県、萍郷県、銅鼓《トンクー》県一帯におくことは非常に危険である。南部は、地勢としては北部よりましであるが、大衆の基盤は中部よりおとり、政治的に湖南、江西両省におよぼす影響もいくぶん小さく、中部地域のようにその一挙一動が両省の湘江、[章+”ふゆがまえ”の下に”貢”]江《カンチァン》の下流地帯にすぐ影響をおよぼすといったようなことはない。中部地域の長所はつぎの点にある。(1)一年あまりもかけてきずいた大衆の基盤があること、(2)党の組織が相当の基礎をもっていること、(3)一年あまりの時間をかけて、闘争経験にとむ地方武装組織をつくったこと、これはなかなかえがたいものである。この地方武装組織の力は、それに赤軍第四軍の力をくわえると、どんな敵からも消滅されることはない。(4)すぐれた軍事根拠地――井岡山をもっており、地方武装組織の根拠地も各県にあること、(5)湖南省南部や江西省南部などの地方がたんにそれぞれの省にだけ、しかもその省のなかの上流地帯やへんぴな地方にだけ影響をあたえているのにくらべて、両省、なかでも、両省の下流地帯にも影響をおよぼすことができ、その政治的意義も大いに異なっていることである。中部地域の欠点は、すでに長いあいだ割拠しているために、「包囲討伐」軍が多くなり、経済問題、とくに現金の問題がたいへん困難になっていることである。
 湖南省委員会は、ここでの行動計画について、六月から七月にかけての数週間に、三回もその主張をかえている。一回目には袁徳生《ユァントーション》がきて、羅霄山脈中部地域政権の計画に賛成した。二回目には、杜修経、楊開明がやってきて、赤軍はちゅうちょせずに、湖南省南部にむかって伸展し、あとに銃二百ちょうの兵力だけを残して赤衛隊といっしょに省境地区を防衛せよと主張し、しかもこれが「絶対に正しい」方針であるといった。三回目には、袁徳生がまたやってきて、十日しかたっていないのに、こんどの手紙ではさんざんわれわれをしかりつけたうえ、赤軍は湖南省東部にいけと主張し、またこれが「絶対に正しい」方針だといい、そのうえ、「ちゅうちょしてはならない」といっている。われわれは、このような融通のきかない指示をうけて、したがわなければそむくことになり、したがえば失敗することがわかりきっているので、まことにやりにくい。二回目の手紙がとどいたとき、軍事委員会、特別委員会、永新県委員会は合同会議をひらき、湖南省南部にいくことは危険であると考え、省委員会の意見を実行しないことにきめた。ところが、その数日後には杜修経、楊開明が省委員会の意見を固持してゆずらず、第二十九連隊の郷土観念を利用して赤軍を[林+”おおざと”]県攻撃にひっぱっていったため、省境地区と赤軍を両方とも失敗させた。赤軍は数のうえでは約半分をうしなった。省境地区では、焼かれた家、殺された人はかぞえきれないほどあり、各県はあいついで敵の手におちいり、いまになってもまだ完全に回復できないでいる。湖南省東部への進出も、湖南、湖北、江西三省の豪紳政権が分裂しないうちは、だんじて赤軍の主力をあてるべきではない。もし、七月に湖南省南部への進出ということがなかったならば、省境地区の八月の失敗はまぬがれることができたばかりか、国民党の第六軍と王均とが江西省の樟樹鎮で戦った機会に乗じて、永新県の敵軍を撃破し、吉安県、安福県を攻めとって、その前衛部隊は萍郷県にたっし、北部の赤軍第五軍と連絡をつけることもできたであろう。そのようなばあいでも、寧岡県を大本営とすべきであって、湖南省東部へは遊撃部隊しかおくれない。豪紳のあいだに戦争がおこっていず、湖南省省境の萍郷、茶陵、[イ+|+攵]県の各県にはまだ敵の大部隊がいるので、主力が北にむかえば、かならず、かれらに乗ぜられる。党中央はわれわれに湖南省東部か、あるいは湘南省南部へ進出することを考えるようにといってきているが、これを実行するのは、どちらも非常に危険で、湖南省東部ゆきの案は実現していないが、湖南省南部ゆきはすでに実証ずみである。このような苦い経験は、われわれがつねに銘記しておく必要がある。
 現在は豪紳階級の支配がまだ分裂していない時期であり、省境地区をとりまいて「討伐」をすすめている敵軍は、なお十コ連隊あまりもある。しかし、もし、われわれがひきつづき現金の問題を解決できれば(食糧や衣服はもはや大した問題ではない)、省境地区という基礎に依存して、これぐらいの敵あるいはもっと多くの敵にもあたることができる。省境地区のためを考えると、もし赤軍が立ちさるようなことをすれば、たちどころに、八月のときのようにふたたび踏みあらされるにちがいない。赤衛隊が完全に消滅されることはないにしても、党と大衆の基盤は非常に大きな破壊をうけるであろうし、八、九月のころとおなじように、山地の割拠地が一部保存できるにしても、平地はすべて秘密状態にはいるであろう。赤軍がここを立ちさらなければ、現在の基礎をもとにして、しだいに周囲に拡大していくことができ、前途には大いに希望がもてる。赤軍のためを考えると、その拡大をはかるには、湖南省の敵と江西省の敵の利害が一致せず、四方を守っているので集中できないという状況を利用して、大衆的基盤をもつ井岡山の周囲、すなわち寧岡、永新、[”雨”の下に”口”三つ+”おおざと”]県、遂川の四県で、敵と長期の闘争をおこなう以外にはない。正しい戦術をとって、戦わないならともかく、戦う以上はかならず勝ち、かならず捕虜や戦利品を獲得するというようにすれば、赤軍をしだいに拡大することができる。四月から七月の当時の省境地区の大衆の準備状態からみると、赤軍の大部隊が湖南省南部にいかずにいたら、八月には赤軍は疑いもなく拡大していたであろう。一度はあやまりを犯したが、赤軍はふたたび地の利と人の和のあるこの省境地区に帰ってきており、今後の見通しはそう悪くない。赤軍は、省境地区のこれらの地方で闘争する決意をかため、ねばり強く戦う勇気をもたなければならず、そうでなければ、武器をふやし、兵士をりっぱにきたえることはできない。省境地区の赤旗は、すでに一年ものあいだかかげつづけられた。それは、一方で、湖南、湖北、江西の三省ないし全国の豪紳階級のはげしいにくしみをひきおこしてはいるが、他方では、しだいに付近の各省の労働者、農民、兵士大衆の希望をよびおこしている。兵士についていえば、軍閥どもが省境地区の「匪賊討伐」を大仕事としており、「匪職討伐に年を重ね、出費すること百万元にたっす」(魯滌平《ルーテイピン》)、「赤軍は兵二万、銃五千と号す」(王均)などといっているので、しだいに敵軍の兵士や活路をうしなった下級将校たちの、われわれにたいする注目をひいており、脱出してわれわれの側に帰順するものは日ましに多くなるであろう。赤軍には拡充の道がもう一つふえるわけである。そのうえ、省境地区の赤旗が終始倒れなかったことは、共産党の力をしめしたばかりでなく、また支配階級の破産をもしめしており、政治上、全国的に重大な意義をもっている。だから、われわれは、羅霄山脈中部地域の政権をつくり、これを拡大することは、ぜったいに必要で、まったく正しいことであるとつねに考えている。



〔1〕 この戦争は一九二七年十月におこった。
〔2〕 この戦争は一九二七年十一月から十二月にかけておこった。
〔3〕 赤軍の兵士代表者会議と兵士委員会の制度は、のちに廃止された。一九四七年になって、また幹部の指導する軍人会議と兵士委員会の制度が採用された。
〔4〕 これは、一九二七年八月一日、南員で蜂起した葉挺、賀竜両同志の旧部隊のことである(葉挺部隊については本文の注〔14〕にみられる)。これらの部隊は潮州、汕頭に進軍して失敗したのち、その一部は朱徳、林彪、陳毅らの諸同志にひきいられて広東省から撤退し、江西省をとおって湖南省南部にはいり、遊撃戦争をおこなった。一九二八年四月、井岡山に到着し、毛沢東同志と合流した。
〔5〕 一九二七年の革命の時期の武昌国民政府警備連隊は、幹部に共産党員が多かった。汪精衛らが革命を裏切ったのち、この警備連隊は、七月末、武昌をはなれ、南昌にいって蜂起軍に参加しようとした。その途中、南昌の蜂起軍がすでに南下したと聞いて、修水県にいき、平江県、瀏陽県の農民軍と合流した。
〔6〕 湖南省の平江県、瀏陽県一帯では、一九二七年の春には、相当有力な農民武装組織がつくられていた。五月二十一日、許克祥が長沙で反革命事変(つまり「馬日事変」)をおこし、革命的大衆を虐殺した。五月三十一日、平江県、瀏陽県一帯の農民軍は、長沙にむかってすすみ、反革命勢力に反撃をくわえようとしたが、日和見主義の陳独秀に阻止されて撤退した。そのうちの一部の農民部隊は、ただちに独立連隊をつくり、遊撃戦争をおこなった。八月一日の南昌蜂起ののち、平江県、瀏陽県の農民軍は、修水、銅鼓、平江、瀏陽一帯で、もとの武昌国民政府警備連隊と合流し、萍郷炭鉱労働者の武装組織と協力して、秋収蜂起をおこなった。蜂起部隊は十月、毛沢東同志にひきいられて井岡山にいった。
〔7〕 一九二八年のはじめ、朱徳同志は湖南省南部で革命遊撃戦争をおこなった。もともと農民運動の基盤のあった宜章、[林+”おおざと”]県、耒陽、永興、資興の五つの県では、このとき農民軍が組織された。のちに、これらの農民軍は、朱徳同志にひきいられて井岡山にいき、毛沢東同志と合流した。
〔8〕 湖南省常寧県の水口山は、鉛鉱石の重要な産地である。ここの鉱山労働者は、すでに一九二二年には共産党の指導のもとで労働組合を組織し、毎年のように反革命勢力と闘争してきた。一九二七年の秋収蜂起ののち、多くの労働者が赤軍に参加した。
〔9〕 安源炭鉱は漢冶萍公司の一部で、江西省萍郷県内にある。当時、そこには炭鉱労働者が一万二千人いた。中国共産党湖南省委員会は、一九二一年から安源に人を送って活動させ、党と労働組合の組織をつくった。
〔10〕 赤軍内の党代表は一九二九年から政治委員と改称し、中隊の政治委員は一九三一年から政治指導
員と改称した。
〔11〕 「土豪からの徴発」という方法による軍費の調達は、一時的な、部分的なものでしかない。軍隊が大きくなり、地域がひろくなれば、徴税の方法で軍費を調達しなければならないし、またそれができるようになる。
〔12〕 このやり方は赤軍内で長いあいだ実行され、当時はそれが必要であったが、あとになると、等級に応じて多少差のあるようにあらためられた。
〔13〕 毛沢東同志はここで、革命軍隊の内部では一定の民主主義的生活が必要であることを、とくに強調して指摘している。それは、当時、赤軍かつくられたばかりであったので、民主主義を強調しなければ、新しく入隊した農民や捕虜になって編入された白軍出身の兵士の革命的積極性を十分鼓舞することができなかったし、また幹部のあいだにある、反動軍隊から伝わった軍閥主義の悪習を完全に一掃することができなかったからである。もちろん、部隊内の民主主義的生活は、軍事規律のゆるす範囲内のものでなければならないし、規律をよわめるものではなくて、規律をつよめるためのものでなければならない。したがって、部隊内で必要な民主主義を提唱するばあいには、同時に、極端な民主主義を要求する無規律の現象とたたかわなければならない。ところが、初期の赤軍のなかには一時、このような現象がひどく存在したことがある。毛沢東同志が軍隊内の極端な民主化に反対しておこなった闘争については、本巻の『党内のあやまった思想の是正について』という論文をみられたい。
〔14〕 一九二六年の北伐のさい、葉挺同志の部隊は共産党員を中核とした独立連隊で、北伐における有名な戦闘部隊であった。革命軍が武昌を占領したのち、拡大して第二十四師団になり、南昌蜂起ののち、さちに拡大して第十一軍になった。
〔15〕 実際には、赤軍内の党員の数は全軍の三分の一前後をしめていればよいのであり、その後、赤軍や人民解放軍のなかでは、だいたいそうなっている。
〔16〕 一九二七年五月二十一日、蒋介石、汪精衛らは湖南省の国民党反革命軍の将校許克祥、何鍵らをそそのかして、長沙で湖南の省労働組合、省農民協会およびその他すべての革命的な組織を包囲襲撃させ、共産党員や革命的な労農大衆を逮捕、殺害させた。中国の詩の韻についてのべた本では、「馬」の字および「馬」とおなじ韻の字を上声の第二十一韻にならべ、「馬」をその韻の韻目としているので、以前は二十一日のことを略して「馬日」とよんだ。したがって、五月二十一日におこった湖南事変も略して「馬日事変」とよんだ。この事変は、汪精衛をかしらとする武漢国民党反革命派と蒋介石をかしらとする南京国民党反革命派とが公然と合流する合図であった。
〔17〕 これは、一九二八年、湖南・江西辺区のきめた土地法のなかの一ヵ条である。あとになって、毛沢東同志は、地主の土地だけを没収するのではなくてすべての土地を没収するのはあやまりであり、このあやまりは、当時、土地闘争の経験に欠けていたことからきたものである、と指摘した。一九二九年四月にだされた興国県の土地法では、「すべての土地を没収する」を「公有地と地主階級の土地を没収する」にあらためている。
〔18〕 農村の中間階級を獲得することの重要性にかんがみ、毛沢東同志は、このあと、すぐ、中間階級にゆきすぎた打撃をあたえるあやまった政策を是正した。毛沢東同志の中間階級にたいする政策・主張は、この論文のほか、さらに、一九二八年十一月の赤軍第六回代表大会への提案(そのなかには「盲目的な焼き払い、殺害の禁止」、「中小商人の利益の保護」などの項目がある)、一九二九年一月の赤軍第四軍布告(そのなかには「都市の商人は零細なる利潤をかせぐものゆえ、服従するかぎり、他のことは問題にせず」などのことばがある)、一九二九年四月の興国県の土地法(本文の注〔17〕を参照)などにもみられる。
〔19〕 このような状態は、革命戦争の発展、根拠地の拡大および革命政府の工商業保護政策によってあらためることができるものであり、事実、のちにはあらためられた。そのばあい、断固、民族工商業を保護し、極左的な政策に反対することが鍵である。
〔20〕 労働力を基準にして土地を分配する方法は妥当でない。事実、赤色地域では人口に応じて均等に土地を分配する原則を長期にわたって実行していた。
〔21〕 靖衛団は反革命的な地方武装組織である。
訳注
① 前敵委員会とは、第二次国内革命戦争の時期に、敵にたいする作戦の必要から、一定の期間、前線の部隊と地方の党組織を統一的に指導して、作戦をおこなう党の臨時的な機構であり、その委員は党省委員会または党中央より任命された。ここでいう前敵委員会は一九二七年秋に成立し、一九二八年三月に解消したものである。その後、一九二八年十一月六日、井岡山で前敵委員会があらたに組織された。本文「党の組織問題」の節を参照。
② 一華里は約五百メートル、八華里が日本の約一里にあたる。華里は原文では里であるが、日本の里と混同しないために華里とした。
③ 原文の「工作」は「活動」と訳してもよいが、原文の「政治工作」を「政治活動」と訳すと誤解されやすいので、ここでは中国籍の「政治工作」をそのままつかった。ここでは人民の軍隊における政治工作のことをさしている。毛沢東同志は、中国共産党に指導されるさいしょの労農赤軍を創設するにあたって、人民の軍隊の建設が政治を先行させなければならないことを強調し、政治が統帥であり魂であり、政治が軍事を統率するということを強調した。これによって、労農赤軍のなかには、人民戦争に必要な一連の政治工作が確立された。政治工作の基本的な任務は、マルクス・レーニン主義、毛沢東思想によって軍隊を教育し、全軍のプロレタリア階級としての革命的自覚をたかめ、党の綱領、路線、政策および人民政府の法令を実行、貫徹し、軍隊にたいする党の絶対的指導を強化し、軍隊の高度な統一ときびしい規律をまもり、将兵間の団結、軍民間の団結と友軍間の団結をはかり、敵軍を瓦解させ、戦闘の勝利を保障することである。したがって、政治工作は人民の軍隊の生命線である。げんざい、政治工作の制度は、すでに経済建設、文化教育、科学研究などあらゆる分野と部門におしひろめられ、社会主義革命と社会主義建設を発展させる力づよい保障となっている。
④ 本巻の『湖南省農民運動の視察報告』の訳注⑤を参照。
⑤ 本巻の『湖南省農民運動の視察報告』の訳注⑩を参照。
  
  
  

 
 
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党内のあやまった思想の是正について
          (一九二九年十二月)
     これは、毛沢東同志が赤軍第四軍の覚の第九回代表大会のために書いた決議文である。中国の人民軍隊の建設は、苦難な道をへてきた。中願赤軍(抗日戦争の時期には八路軍、新四軍であり、現在は人民解放軍である)が一九二七年八月一日の南昌蜂起のときに創立されてから、一九二九年十二月までに、二年あまりの時間がたっていた。この期間に、赤軍内の共産党はいろいろのあやまった思想とたたかい、多くのものを学びとり、相当豊富な経験をつんだ。毛沢東同志の書いたこの決議文は、これらの経験の総括である。この決議によって、赤軍はふるい型の軍隊の影響をすべて一掃し、完全にマルクス・レーニン主義を基礎としてうちたてられた。この決議は、赤軍第四軍で実行されたばかりでなく、のちには、赤軍の各部隊でも前後して、そのとおり実行した。こうして中国の全赤軍が完全にほんとうの人民の軍隊になった。二十数年らい、中国の人民軍隊内の党の活動と政治工作には大きな発展と創造があり、現在の姿は過去とは大いにちがっているが、基本的な路線はやはりこの決議の路線である。

 赤軍第四軍の共産党組織内にはざまざまな非プロレタリア思想が存在しており、党の正しい路線を遂行するうえできわめて大きな障害となっている。これを徹底的に是正しなければ、中国の偉大な革命闘争が赤軍第四軍にあたえている任務はになえなくなるにちがいない。第四軍の党内のさまざまな正しくない思想の根源は、もちろん、党の組織的基礎のもっとも大きな部分が農民とその他の小ブルジョア階級の出身者によって構成されていることにある。しかし、党の指導機関がこれらの正しくない思想にたいして、一致した断固たる闘争をおこなわず、党員にたいして正しい路線の教育をおこなわなかったことも、これらの正しくない思想を存在させ、はびこらせている重要な原因である。大会は党中央の九月の書簡の精神にもとづいて、第四軍の党内のさまざまな非プロレタリア思想のあらわれ、その根源およびそれを是正する方法を指摘し、同志諸君がこれを徹底的に一掃するために立ちあがるようよびかける。

  軍事一点ばりの観点について

 軍事一点ばりの観点が赤軍の一部の同志のあいだに、非常にはびこっている。それはつぎのような点にあらわれている。
 (一)軍事と政治は対立するものだと考え、軍事は政治的任務を完遂する道具の一つにすぎないということを認めない。それどころか、「軍事がよければ、政治は自然によくなる、軍事がわるければ、政治もわるいはずだ」というものさえいるが、これはさらに一歩すすんで、軍事が政治を指導すると考えるものである。
 (二)赤軍の任務も白軍のそれと似たようなもので、ただたんに戦争をするだけだとおもっている。中国の赤軍は革命の政治的任務を遂行する武装集団であることを知らない。とくに現在では、赤軍は、けっしてたんに戦争をするだけではなく、戦争で敵の軍事力を消滅するほかに、なお大衆に宣伝し、大衆を組織し、大衆を武装化し、大衆の革命政権の樹立をたすけることから、共産党の組織をうちたてることまでのさまざまの重大な任務をになっている。赤軍が戦争するのは、たんに戦争のために戦争するのではなくて、大衆に宣伝し、大衆を組織し、大衆を武装化し、また大衆の革命政権の樹立をたすけるために戦争するのであり、大衆にたいする宣伝、組織、武装化および革命政権樹立などの目標をはなれては、戦争することの意義がうしなわれ、また赤軍存在の意義もうしなわれるのである。
 (三)したがって、組織のうえでは、赤軍の政治機関を軍事機関に従属させ、「軍外活動も司令部で」というスローガンをもちだしている。このような思想が発展していけば、国民党軍隊が軍閥主義の道をたどっているのとおなじように、大衆からはなれ、軍隊で政権を制御し、プロレタリア階級の指導からはなれる危険な道を歩むことになる。
 (四)同時に、宣伝活動のうえでは、宣伝隊の重要性を無視している。大衆を組織するうえでは、軍隊内の兵士委員会の組織を無視し、また地方の労農大衆を組織することを無視している。その結果、宣伝活動と組織活動が、すべて解消された状態になっている。
 (五)戦いに勝てばいばりかえり、戦いに負ければしょげかえる。
 (六)本位主義、すなわち地方の大衆を武装化することが赤軍の重要な任務の一つであることを知らず、あらゆることを、ただ第四軍のためだけから考える。これは拡大された小集団主義である。
 (七)少数の同志たちは、第四軍の局部的な環境にとらわれ、ここ以外には、ほかに革命勢力はないもののように考えている。そのために、実力を保存し、闘争をさけようとする思想が非常に濃厚である。これは日和見主義の残りかすである。
 (八)主体的、客観的条件を無視し、革命のせっかち病にかかり、労苦にたえて、きめのこまかい、地味な大衆活動をやろうとせず、はでにやることばかり考え、幻想でいっぱいになっている。これは盲動主義の残りかす〔1〕である。
 軍事一点ばりの観点の根源
 (一)政治的水準が低い。したがって、軍隊内の政治指導の役割を知らず、赤軍は白軍と根本的にちがったものであることを知らない。
 (二)やとい兵の思想。たびたびの戦いで捕虜が非常に多く、こうしたものが赤軍にくわわり、濃厚なやとい兵の思想をもちこんできたので、軍事一点ばりの観点は下層において基盤をもつようになった。
 (三)以上の二つの原因によって、第三の原因がうまれている。すなわち軍事力を信じすぎて、人民大衆の力を信じないことである。
 (四)党が軍事活動にたいして積極的に心をそそがず、討議をおこなわなかったことも、一部の同志が軍事一点ばりの観点をもつようになった原因である。
 是正の方法
 (一)教育をつうじて、党内の政治的水準を高め、軍事一点ばりの観点の理論的根源を一掃し、赤軍と白軍との根本的なちがいをはっきり理解させる。同時に、日和見主義と盲動主義の残りかすを一掃し、第四軍の本位主義をうちやぶる。
 (二)将兵の政治的訓練を強化し、とくに捕虜出身者にたいする教育を強化する。同時に、組織の面から、軍事一点ばりの観点の根源をよわめ、とりのぞくために、できるかぎり地方政権機関が闘争経験をもった労働者や農民をえらんで赤軍に参加させるようにする。
 (三)赤軍内の党組織や赤軍将兵に影響をあたえるために、赤軍内の党組織にたいする地方の党組織の批判や、赤軍にたいする大衆政権機関の批判をおこさせていく。
 (四)党は軍事活動にたいして積極的に心をそそぎ、討議をおこなう。すべての活動は、党が討議し、決定したのち、大衆をつうじて実行にうつす。
 (五)赤軍にかんする法規を制定し、赤軍の任務、軍事の系統と政治の系統との関係、赤軍と人民大衆との関係、兵士委員会の権限・機能およびそれと軍事・政治機関との関係をはっきり規定する。

 極端な民主化について

 赤軍第四軍が党中央の指示をうけてから、極端な民主化の現象はだいぶすくなくなった。たとえば、党の決議はわりあいよく実行されるようになった。赤軍内でいわゆる「下から上への民主集権制」とか、「まず下級に討議させ、それから上級で決議せよ」とかいったことの実行を要求するあやまった主張をもちだすものは、もういなくなった。だが、実際には、このような減少も一時的な、表面的な現象にすぎず、極端な民主化の思想が一掃されたのではない。つまり、極端な民主化の根が多くの同志の思想のなかにまだ深く食いこんでいる。たとえば、決議の実行にあたって示されるさまざまなふしょうぶしょうの態度は、その証拠である。
 是正の方法
 (一)理論のうえで極端な民主化の根をとりのぞく。まず第一に、極端な民主化の危険は、党の組織を傷つけ、さらにそれを完全に破壊し、党の戦闘力を弱め、さらにそれを完全に壊滅させて、党が闘争の責任をおえないようにし、それによって革命の失敗をまねく、という点にあることを指摘しなければならない。そのつぎには、極端な民主化の根源が小ブルジョア階級の自由放漫性にあることを指摘しなければならない。このような自由放漫性が党内にもちこまれると、政治上、組織上の極端な民主化の思想になる。このような思想はプロレタリア階級の闘争任務と根本的に相いれないものである。
 (二)組織のうえでは、集中的指導のもとでの民主的生活を厳格におこなう。その路線はつぎのとおりである。
 1 党の指導機関は正しい指導路線をもち、問題があれば解決策をうちだす。こうすることによって、指導の中核を確立していく。
 2 上級機関は下級機関の状況や大衆生活の状況をはっきりつかみ、それを正しい指導の客観的基礎とする。
 3 党の各級機関は、問題を解決するにあたって、軽はずみにやってはならない。いったん決議となった以上は、断固として実行する。
 4 上級機関の決議のうち、すこしでも重要なものは、すみやかに下級機関と党員大衆につたえなければならない。そのやりかたとしては、活動者会議をひらくか、細胞会議ないし縦隊の党員総会をひらくかして(条件がゆるすかどうかを見たうえで)、それに人をおくり、説明させることである。
 5 党の下級機関や党員大衆は、上級機関の指示の意義を徹底的に理解し、その実行方法を決定するために、指示をくわしく討議する。

非組織的な観点について

 第四軍の党内に存在している非組織的な観点は、つぎのような点にあらわれている。
  少数が多数にしたがわない。たとえば、少数者はその提案が否決されると、心をうちこんで党の決議を実行しようとしない。
 是正の方法
 (一)会議では、出席者にできるかぎり意見をのべさせる。論争になった問題については、調停したり、いいかげんにすませたりするのではなく、是非をはっきりさせる。一回で解決できない問題は、はっきりした結論をひきだすよう、もういちど討議する(仕事をさまたげないことを条件として)。
 (二)党の規律の一つは少数が多数にしたがうことである。少数者は自分たちの意見が否決されたばあいには、多数で採択した決議をまもらなければならない。必要があれば、つぎの会議で再討議を提案することはゆるされるが、それ以外に、行動のうえではどのような反対の態度をも示してはならない。
  非組織的な批判
 (一)党内批判は党の組織を強固にし、党の戦闘力をつよめる武器である。だが、赤軍の党内の批判は一部がそうではなく、個人攻撃になっている。その結果は、個人をそこなうだけでなく、党の組織をもこわしている。これは小ブルジョア個人主義のあらわれである。これを是正する方法は、党員に、批判の目的は階級闘争の勝利を達成するために党の戦闘力をつよめることにあるのであって、批判を個人攻撃の道具に利用してはならないということを、はっきり理解させることである。
 (二)多くの党員は党内では批判せずに、党外で批判している。これは、一般党員がまだ党の組織(会議など)の重要性を理解していず、批判は組織の内部でやっても組織の外部でやっても、なんらちがいはないものと考えているからである。これを是正する方法は、党員に、党の組織の重要性を理解させ、党委員会または同志にたいして批判することがあれば、党の会議でだすべきだということを理解させるように教育することである。

 絶対的均等主義について

 赤軍内で絶対的均等主義がひどくはびこった時期がある。たとえば、負傷兵に手当を支給するにも、軽傷か重傷かによって区別をつけることに反対し、均等に支給することを要求する。上官が馬に乗るのは、職務の必要からだとは考えず、不平等な制度だと考える。物を支給するにも極端な均等割りを要求し、特別の事情のあるところにすこし多く支給してやることも喜ばない。米をはこぶにしても、大人も子供も、体が強くても弱くても、均等にもたせようとする。宿営するにも部屋は均等にわりあてるよう要求し、司令部がすこしばかり大きな部屋にはいっても、すぐに文句をいう。勤務のわりあても同等であることを要求し、すこしでもよけいにやることは承知しない。そればかりか、担架が一合で負傷兵が二人いるといったばあい、一人しかはこべないようなら、いっそ二人ともはこばせない。これらはみな赤軍将兵のあいだの絶対的均等主義がなおひどいものであることを証明している。
 絶対的均等主義の根源は、政治上の極端な民主化とおなじように、手工業と小農経済にあり、ただ一方は政治生活の面にあらわれ、一方は物質生活の面にあらわれただけである。
 是正の方法。絶対的均等主義は、資本主義がまだ消滅しない時期には、たんに農民や小所有者の幻想にすぎないばかりでなく、社会主義の時期でも、物資の分配は「各人は能力におうじてはたらき、労働におうじて報酬をうける」という原則と仕事の必要におうじておこなわれるのであって、けっして絶対的な均等といったものではないことを、指摘しなければならない。赤軍内の物資の支給は、将兵の給与を平等にしているように、だいたいにおいて均等にすべきである。というのは、現在の闘争の条件がそう要求しているからである。しかし、すべての理由をぬきにした絶対的均等主義には反対しなければならない。なぜなら、これは闘争に必要なくこではなく、まさにその反対に、闘争をさまたげるものだからである。

主観主義について

 主観主義は、一部の党員のあいだに濃厚に存在しているが、これは政治情勢の分析にとっても活動の指導にとっても、非常に不利である。なぜなら、政治情勢にたいする主観主義的な分析や活動にたいする主観主義的な指導は、必然的に日和見主義か、さもなければ盲動主義の結果をうむからである。党内の主観主義的な批判、根拠のないおしゃべり、あるいはおたがいの邪推は、とかく党内の無原則的な紛糾をかもしだし、党の組織を破壊する。
 党内批判の問題についてもう一つふれなければならない点は、一部の同志の批判が小さなところにだけ目をむけ、大きなところには目をむけないことである。かれらには、批判の主要な任務が政治上のあやまりと組織上のあやまりの指摘にあることがわからない。個人的な欠点については、それが政治的なあやまりや組織的なあやまりとかかわりがなければ、同志たちをどうしてよいかわからなくさせるほど多く指摘する必要はない。そのうえ、このような批判が高じてくると、党内の注意力は完全に小さな欠点に集中され、人びとは小心翼々とした君子に変わってしまい、党の政治的任務を忘れることになる。これは大きな危険である。
 是正の方法。主として、党員の思想や党内の牛沽を政治的にし、科学的にするように党員を教育することである。この目的を達成するためには、つぎのことが必要である。(一)主観主義的な方法によって政治情勢の分析や階級勢力の評価をおこなうのではなくて、マルクス・レーニン主義の方法によって分析や評価をおこなうように党員を教育する。(二)党員に、社会・経済の調査や研究に目をむけさせ、それによって闘争の戦術や活動の方法をきめさせ、同志たちに実際状況の調査をはなれると空想や盲動のどろぬまにはまりこんでしまうことをわからせる。(三)党内批判にあたっては、主観的な独断や批判の卑俗化を防がなければならず、発言するにはよりどころを重んじ、批判するには政治的な面に目をむけなければならない。

個人主義について

 赤軍の党内の個人主義的偏向は、つぎのようないろいろな点にあらわれている。
 (一)報復主義。党内で兵士の同志から批判されると、党外で機会をとらえて報復する。なぐったり、どなりつけたりするのが、報復の一つの手段である。党内でも、この会議でおれを批判したからつぎの会議ではおまえのあらをさがして仕返ししてやるというように、報復をはかる。このような報復主義は、まったく個人的見地からでたもので、階級の利益や全党の利益がぜんぜん念頭にない。その目標は敵階級にあるのではなくて、自分の陣営内の他の個人にある。これは組織を弱め、戦闘力を弱める腐食剤である。
 (二)小集団主義。全体の利益には目をむけず、自分の所属する小集団の利益に目をむけるだけである。表面的には、個人のためということではないが、実際にはきわめてせまい個人主義をふくんでおり、おなじように、大きな腐食作用と遠心作用をもっている。赤軍内には、これまで小集団的な気風がひどかったが、批判がおこなわれて、いまは多少よくなってきた。しかし、その残りかすは依然として存在しており、さらにその克服につとめなければならない。
 (三)やとわれ人的思想。党も赤軍も革命の任務を遂行する道具であり、自分はそのうちの一員であることを理解しない。自分が革命の主体であることを理解せず、ただ上官個人に責任をおうだけで、革命にたいして責任をおうのではないと考える。やとわれて革命をやるという、こうした消極的な思想は、やはり一種の個人主義のあらわれである。やとわれて革命をやるという思想は、無条件に努力する積極的な活動家のあまり多くないことの原因になっている。やとわれ人的思想を一掃しなければ、積極的な活動家をふやすことはできず、革命の重責はいつでも少数のものの肩にかかり、闘争にとってきわめて不利である。
 (四)享楽主義。これは個人主義が享楽面にあらわれたもので、赤軍内にもそういう人がすくなくない。かれらはつねに部隊が大きい都市にいくことを望んでいる。かれらが大きい都市へいきたがるのは活動のためではなく、享楽のためである。かれらがもっとも好まないのは生活の苦しい赤色地域内で活動することである。
 (五)消極的で、なまけること。すこしでも思うようにいかないと、すぐ消極的になり、仕事をしなくなる。その原因はおもに教育の欠けていることにあるが、また、指導者の問題の処理や仕事の配分や規律の執行が妥当でないことにもよる。
 (六)部隊をはなれたがる思想。赤軍のなかには、部隊をはなれて地方の仕事にまわることを要求するものが日ましにふえている。その原因はすべて個人的にあるのではない。そのほか、一、赤軍の物質生活がわるすぎること、二、長いあいだのたたかいで疲れを感じていること、三、指導者の問題の処理や仕事の配分や規律の執行が妥当でないことなども原因になっている。
 是正の方法。主として思想の面から個人主義を是正するよう教育を強化する。つぎに問題の処理、仕事の配分、規律の執行を適切にすることである。そして、赤軍の物質生活を改善するよう方法を講じなければならない。それには、あらゆる可能な機会を利用して休息、整備することによって物的条件を改善することである。個人主義の社会的根源は、小ブルジョア階級およびブルジョア階級の思想が党内に反映していることにあり、教育をおこなうにあたっては、この点を説明しなければならない。

    流賊的思想について

 赤軍内にルンペン出身者が大きな数をしめていることや、全国、とくに南部の各省に広範なルンペン大衆がいることから、赤軍内に流賊主義的な政治思想がうまれている。この思想はつぎの点にあらわれている。一、骨のおれる活動をつうじて根拠地を創設し、人民大衆の政権を樹立し、またそれによって政治的影響を拡大しようとせず、ただ流動的な、遊撃的な方法によって政治的影響を拡大しようと考えるだけである。二、赤軍を拡大するのに、地方赤衛隊や地方赤軍の拡大をつうじて主力赤軍を拡大させるという路線をとろうとせず、「兵馬をつのり」、「寝返り兵、投降兵をかかえこむ」路線を歩もうとする。三、大衆といっしょに困難なたたかいをする辛抱づよさがなく、大きな都市にいって大いに食ったり飲んだりすることばかり考えている。すべてこうした流賊的思想のあらわれは、赤軍の正しい任務の遂行をひどくさまたげており、したがって、流賊的思想を一掃することは、じつに赤軍の党内の思想闘争の重要な目標の一つである。歴史上の黄巣〔2〕、李闖《りちん》〔3〕式の流賊主義は、もはやこんにちの環境ではゆるされないことを知るべきである。
 是正の方法
 (一)教育を強化して、正しくない思想を批判し、流賊主義を一掃する。
 (二)現在の赤軍の基本部隊とあらたに参加した捕虜出身の兵士にたいして、ルンペン意識とたたかうための教育を強化する。
 (三)闘争経験をもった労働者、農民の活動家を赤軍部隊に参加させて、赤軍の階級構成を変える。
 (四)たたかう労農大衆のなかから新しい赤軍部隊をつくりだす。

 盲動主義の残りかすについて

 赤軍の党組織では、これまで盲動主義にたいして闘争がおこなわれてきたが、まだ不十分である。したがって、赤軍内にはまだ盲動主義思想の残りかすがある。それはつぎの点にあらわれている。一、主体的条件および客観的条件を無視して、めくらめっぽうに行動する。二、都市政策が十分に、断固として実行されていない。三、軍紀がゆるんでおり、とくに戦いにやぶれたときがそうである。四、一部の部隊にはまだ家屋を焼き払う行為がある。五、逃亡兵を銃殺する制度や体刑制度も、盲動主義の性質をおびている。盲動主義の社会的根源はルンペン・プロレタリアの思想と小ブルジョア階級の思想との総合にある。
 是正の方法
 (一)思想の面から盲動主義を一掃する。
 (二)制度と政策の面から盲動的な行為を是正する。


〔1〕 一九二七年、革命が失敗したのちの短い期間、共産党内に極左盲動主義の偏向があらわれた。極左盲動主義者たちは、中国革命の性質はいわゆる「連続革命」であり、中国革命の情勢はいわゆる「たえざる高揚」にあると考えているので、秩序のある退却を組織しようとはせずに、少数の党員と少数の大衆に依拠して、全国で、なんら勝つ見込みのない多くの地方的蜂起を、命令主義というあやまった方法で組織しようとした。こうした盲動主義の行動は、一九二七年末にはさかんであったが、一九二八年のはじめになると次第にやんでいった。しかし、一部の党員には、なおそうした気分がのこっていた。盲動主義とは冒険主義のことである。
〔2〕 黄巣は、唐代末年の農民蜂起の首領で、曹州冤句(今の山東省[”くさかんむり”の下に”河”]沢県――訳者)の生まれである。西紀八七五年、すなわち唐の僖宗乾符二年、黄巣は民衆を糾合し、王仙芝の指導する蜂起に呼応した。王仙芝が殺されてから、黄巣は王仙芝の残した部隊をあつめ、「衝天大将軍」と名のった。黄巣のひきいる蜂起部隊は、二回、山東省をでて流動しながら戦った。一回目は山東省から河南省にいき、転じて安徽省と湖北省にはいり、湖北省から山東省にもどった。二回目は、また山東省から河南省にいき、転じて江西省にいき、淅江省東部をへて福建省と広東省にはいり、広西省に転じ、湖南省をへて湖北省にいき、さらに湖北省から東にすすんで安徽、淅江などの省にはいり、それから淮河を渡って河南省にはいり、洛陽をおとしいれ、潼関を攻めおとし、長安を占拠した。黄巣は長安にはいったのち、斉国をたて皇帝と称した。のちに、内部分裂(大将朱温が唐にくだった)がおこりーまた沙陀《さた》族の酋長《しゅうちょう》李克用の軍隊の攻撃にあったため、黄巣は長安を失い、ふたたび河南省にいき、河南省から山東省にかえり、ついに失敗して自殺した。黄巣の戦争は十年間もつづき、中国史上有名な農民戦争の一つである。旧支配階級の史書には、当時「重い収奪に苦しんでいた人民は争ってこれに身を投じた」と書かれている。しかし、かれはただたんに流動的な戦争をするだけで、比較的強固な根拠地をつくったことがなかったので、「流賊」とよばれた。
〔3〕 李闖、すなわち李自成は、明朝末年の農民蜂起の首領で、陝西省米脂県の生まれである。西紀一六二八年、すなわち明の思宗祟[示+貞]元年に、陝西省北部に農民蜂起のあらしがまき起こった。李自成は高迎祥の蜂起部隊にくわわり、陝西省から河南省にはいり、安徽省にいき、陝西省にひきかえした。一六三六年、高迎祥が死に、李自成はおされて闖王になった。李自成が大衆のあいだでかかげたおもなスローガンは「闖王を迎えれば、年貢《ねんぐ》はいらぬ」であった。かれが部隊を拘束する規律のなかには、「人ひとりを殺すは、わが父を殺すに等しく、女ひとりをはずかしむるは、わが母をはずかしむるに等し」というスローガンがあった。このため、かれを支持するものは非常に多く、当時の農民蜂起の主流となった。しかし、かれもまた比較的強固な根拠地をつくったことがなく、たえずほうぼうに流動していた。かれはおされて闖王になったあと、部隊をひきいて四川省にはいり、陝西省南部にひきかえし、湖北省をへてまた河南省にはいり、まもなく湖北省の襄陽を占領し、ふたたび河南省をへて陝西省に攻めいり、西安を占領し、一六四四年、山西省をへて北京に攻めいった。その後まもなく、清の軍隊とそれを手引きした明の将軍呉三桂との連合攻撃にあって失敗した。
訳注
① 縦隊とは、赤軍(その後の八路軍、新四軍、解放軍)の編制単位の一つである。それは正規編制の部隊にくらべて、かなり機動性があり、その兵員数は革命の時期や地区によって異なるが、だいたい正規編制の一コ連隊、一コ師団あるいは一コ軍団に相当する。ここでの赤軍第四軍の縦隊は歩兵一コ連隊に相当する。
② これは、中国の歴史上、一部の蜂起勢力が自分の軍隊を拡充するときにとった方法である。この方法では、さまざまな人びとや投降部隊を無差別に自分の軍隊にかかえこみ、軍隊の質を無視しがちで、量にだけ注意をはらうことになる。
  
  
  

 
 
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maobadi
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小さな火花も広野を焼きつくす
          (一九三〇年一月五日)
     これは、毛沢東同志の通信文であって、当時党内にあった悲観的な思想を批判するために書かれたものである。

 時局にたいする見通しと、それにともなうわれわれの行動の問題について、わが党内の一部の同志にはまだ正しい認識が欠けている。かれらは、革命の高まりが不可避的にやってくることを信じてはいるが、革命の高まりが急速にやってくる可能性については信じていない。したがって、かれらは、江西《チァンシー》省をたたかいとる計画には賛成しないで、ただ福建《フーチェン》省、広東《コヮントン》省、江西省のあいだの三つの省境地城で流動的な遊撃をおこなうことに賛成するだけであり、同時に、遊撃地域で赤色政権を樹立するというふかい考えももっていず、したがってまた、このような赤色政権をかため、拡大することによって、全国的な革命の高まりをうながすというふかい考えももっていない。かれらは、革命の高まりがまだほど遠い時期に政権を樹立するという困難な仕事をするのは、むだぼねおりだと考えているようで、わりあい簡便な流動的遊撃方式で政治的影響を拡大し、そして、全国各地で大衆を獲得する活動をやりおえるか、あるいはそれがある程度までやられてから、そこで全国的武装蜂起をおこし、その時に、赤軍の力をくわえて、全国的範囲の大革命になることを望んでいる。このような、すべての地方をふくむ全国的範囲で、まず大衆を獲得し、そのあとで政権をうちたてようとするかれらの理論は、中国革命の実情にそぐわないものである。かれらのこのような理論は、主として、中国が多くの帝国主義国のたがいに奪いあっている半値民地であるということを、はっきり認識していないところからきている。中国が多くの帝国主義国のたがいに奪いあっている半値民地であるということをはっきり認識するならば、第一に、全世界で、なぜ中国だけに、支配階級内部の長期にわたる相互混戦というこのような不思議なことがおきているのか、しかも、なぜその混戦が日一日と激しくなり、日一日と拡大しているのか、なぜ、いつまでも統一された政権をもつことができないのか、ということがわかるであろう。第二に、農民問題の重大さがわかり、したがって、農村での蜂起が、なぜ現在のように全国的規模で発展しているのかもわかるであろう。第三に、労農民主政権というこのスローガンの正しさがわかるであろう。第四に、全世界で中国だけにしかない支配階級内部の長期の混戦という不思議なことに応じてうまれたもう一つの不思議なこと、すなわち赤軍と遊撃隊の存在と発展、および赤軍と遊撃隊にともなってうまれた、周囲を白色政権にとりかこまれているなかで成長している小さな赤色地域の存在と発展(こんな不思議なことは中国にしかない)がわかるであろう。第五に、赤軍、遊撃隊および赤色地域の創設と発展が、プロレタリア階級の指導のもとでの半植民地中国の農民闘争の最高の形態であり、また半植民地の農民闘争の発展の必然的な結果であること、しかもそれは、疑いもなく、全国的な革命の高まりをうながすもっとも重要な要素であることもわかるであろう。第六に、たんなる流動的遊撃の政策では、全国的な革命の高まりをうながす任務を達成することはできず、朱徳《チュートー》・毛沢東《マオツォートン》式の、方志敏《ファンチーミン》〔1〕式の政策、すなわち根拠地をもつこと、計画的に政権をつくりあげること、土地革命をふかめること、人民の武装組織を拡大する路線として、郷赤衛隊から区赤衛大隊、県赤衛総隊、地方赤軍、正規の赤軍へと発展させるという一連の方法をとること、政権の発展は波状的に拡大する方法をとること、などの政策が、疑いもなく正しいものであることもわかるであろう。こうしなければ、ソ連が全世界で信望をあつめたように、全国の革命的な大衆のあいだで信望をあつめることはできない。こうしなければ、反動支配階級に非常に大きな困難をあたえ、その基礎をゆりうごかして、その内部の分解をうながすことはできない。またこうしなければ、将来の大革命の主要な道具となる赤軍をほんとうにつくりだすこともできない。要するに、こうしなければ、革命の高まりをうながすことはできないのである。
 革命のせっかち病にかかっている同志たちは、革命の主体的な力〔2〕を不当に大きく見、反革命の力を小さく見すぎている。このような評価は、その大半が主観主義からきている。その結果は、疑いもなく盲動主義の道に走ることになる。他方、もし革命の主体的な力を小さく見すぎ、反革命の力を大きく見すぎるならば、これも不当な評価であって、また必然的に別の面の悪い結果をうむことになる。したがって、中国の政治情勢を判断するばあい、つぎのようないくつかの重要な点を認識する必要がある。
 (一)現在、中国革命の主体的な力は弱いものであるが、中国のおくれた弱い社会経済構造を基盤にしている反動支配階級のすべての組織(政権、武装組織、政党など)もやはり弱いものである。だから、つぎのことを説明することができる。現在の西欧諸国の革命の主体的な力は現在の中国革命の主体的な力よりもいくらか強いかもしれないが、それらの国々の反動支配階級の力も中国の反動支配階級の力よりさらに何倍か強大であるため、やはり革命はすぐにはおきない。いまの中国革命の主体的な力は弱いものであるが、反革命の力も相対的に弱いので、中国革命が高まりにむかうのは、かならず西欧よりもはやいにちがいない。
 (二)一九二七年に革命が失敗してのち、革命の主体的な力はたしかに大いに弱まった。残ったわずかな力を、いくつかの現象だけからみると、とうぜん同志たち(このような見方をする同志たち)に悲観的な考えをおこさせるであろう。しかし、実質の面からみれば、けっしてそんなものではない。ここでは中国のふるくからのことば「小さな火花も広野を焼きつくす」というのがよくあてはまる。つまり、いまはほんのわずかな力しかないが、その発展は非常にはやいにちがいない。中国のような環境では、それは、たんに発展の可能性をもっているだけでなく、たしかに発展の必然性をもっている。このことは五・三〇運動およびその後の大革命運動が、すでに十分立証している。われわれがものごとを見るばあいには、その実質を見るべきであって、その現象はただ入門のための手引きとみなし、ひとたび門内にはいったならば、その実質をつかまなければならない。これこそがたしかな科学的な分析方法である。
 (三)反革命の力を評価するにもそうであって、けっしてその現象だけをみてはならず、その実質をみなければならない。湖南《フーナン》・江西省境地区割拠の初期には、一部の同志は、当時の湖南省委員会の正しくない評価をほんとうに信用し、階級の敵をまったくとるに足りないものだと考えた。いまでも笑いぐさになっている「ひどい動揺」とか「極度の狼狽《ろうばい》」といったことばは、その当時(一九二八年五そ六月)湖南省委員会が湖南省の支配者魯[シ+篠]平《ルーテイピン》〔3〕を評価した形容詞であった。このような評価のもとでは、必然的に政治上の盲動主義がうまれる。ところが、同年十一月から昨年二月(蒋桂《チァンコイ》戦争〔4〕がまだはじまらない前)にかけての約四ヵ月間、敵の三回目の「合同討伐」〔5〕が井岡山にまで迫ったとき、一部の同志は、こんどは「赤旗ははたしていつまでかかげるれるであろうか」といった疑問をだしてきた。だが、実際には、当時中国におけるイギリス、アメリカ、日本のあらそいはきわめて露骨なところにまできており、蒋介石《チァンチェシー》派、広西《コヮンシー》派、馮玉祥《フォンユイシァン》派の混戦情勢もすでに形成されていたので、実質上は、反革命の波が退きはじめ、革命の波がふたたび高まりはじめていた時期であった。ところが、そうしたときに、赤軍や地方の党内に悲観的な思想があっただけでなく、党中央さえも、当時、そのような表面的な状況にまどわされて、悲観的な論調のうまれるのをさけられなかった。党中央がよこした二月の書簡〔6〕こそ、当時の党内の悲観的な分析を代表するものとしての証拠である。
 (四)いまの客観的情勢は、やはり、当面している表面的な現象だけをみて、実質をみない同志たちをまどわせやすい。とくに、われわれのように赤軍のなかで活動しているものは、ひとたび負けいくさをしたり、四方から包囲されたり、強敵に追いかけられたりすると、とかくこのような一時的な、特殊な、小さな環境を無意識のうちに一般化し拡大化して、あたかも全国、全世界の情勢がすべて楽観をゆるさず、革命の勝利の見通しも、なんだかきわめて影のうすいもののようにおもえてくる。このように表面だけをとらえ、実質をすてた見方をするのは、かれらが一般情勢の実質について、なんら科学的に分析をおこなっていないからである。中国革命の高まりが近いうちにやってくるかどうかについては、革命の高まりをひきおこすさまざまな矛盾がほんとうに発展しているかどうかを、くわしく調べてみなければきめられない。国際的に、帝国主義相互のあいだの、帝国主義と植民地とのあいだの、また帝国主義と自国のプロレタリア階級とのあいだの矛盾が発展している以上、帝国主義の中国争奪の必要はいっそう切迫してくる。帝国主義の中国争奪が切迫してくると、中国の国内で、帝国主義と全中国とのあいだの矛盾、帝国主義者相互のあいだの矛盾が同時に発展してくるし、したがって、中国の反動支配者各派のあいだの、日ごとに拡大し、日ごとに激化する混戦がうまれ、中国の反動支配者各派のあいだの矛盾もますます発展してくる。反動支配者各派のあいだの矛盾――軍閥の混戦にともなってくるものは租税の加重であり、そうなれば広範な租税負担者と反動支配者とのあいだの矛盾をますます発展させるであろう。帝国主義と中国民族工業とのあいだの矛盾にともなってくるものは、中国民族工業が帝国主義からの譲歩をえられなくなるということであり、それによって、中国のブルジョア階級と中国の労働者階級とのあいだの矛盾も発展し、中国の資本家は必死になって労働者を搾取することによって活路を見いだそうとし、中国の労働者はそれに抵抗する。帝国主義の商品による侵略や、中国商業資本の搾取や政府の税金加重などの事情にともなって、地主階級と農民とのあいだの矛盾もさらに深刻化する。すなわち小作料と高利貸しによる搾取がいっそうひどくなり、農民はいっそう地主を憎むようになる。外国商品による圧迫、広範な労農大衆の購買力の枯渇および政府の租税の加重によって、国産品をとりあつかう商人や独立生産者はますます破産の道においやられる。反動政府が糧秣《りょうまつ》軍費の不足している条件のもとで、軍隊を無制限にふやし、またそれによって戦争をますます頻繁《ひんぱん》にしているので、兵士大衆はいつも苦しい状態におかれる。国家の租税の加重、地主の小作料と利子の加重、戦災の日ごとの拡大によって、凶作と匪賊《ひぞく》の害が全国にひろがり、広範な農民と都市の貧民は生きるにも生きられない道においやられる。経費がなくて学校がはじまらないために、多くの在校生には勉学がつづけられなくなる心配がうまれ、生産がおくれているために、多くの卒業生には就職ののぞみがたたれる。われわれが以上のような矛盾を理解すれば、中国はどんなにあすもわからない不安な状態におかれているか、どんなに混乱した状態におかれているかがわかる。そして帝国主義反対、軍閥反対、地主反対の革命の高まりは、いかにさけることのできないものであり、しかもそれがもうすぐやってくるものであることもわかる。中国はその全土がかわききったたきぎでおおわれており、またたくまに猛火となって燃えあがるであろう。「小さな火花も広野を焼きつくす」ということばは、まさにこうした情勢の発展を適切にいいあらわしたものである。多くの地方での労働者のストライキや、農民の暴動や、兵士の反乱や、学生のストライキなどの発展をみただけでも、疑いもなくこの「小さな火花」が「広野を焼きつくす」時期の遠くないことがわかる。
 以上のべたことの要旨は、昨年四月五日、前敵委員会が党中央へ送った書簡のなかにも書いてある。その書簡ではつぎのようにのべている。

     「党中央のこの書簡(一九二九年二月九日付)は、客観情勢と主体的な力にたいする評価が、あまりにも悲観的である。国民党の三回にわたる井岡山『討伐』は、反革命の最高潮をしめした。ところが、そこまでで、それからは、反革命の波はしだいに退き、革命の波がしだいに高まっている。党の戦闘力、組織力は党中央のいっているほどまで弱まっているが、反革命の波がしだいに退いている情勢のもとでは、かならず急速に回復し、党内の幹部たちの消極的な態度も急速になくなるであろう。大衆はかならずわれわれの側につく。虐殺主義〔7〕はもとより魚を深みに追いこむ②ものであるが、改良主義ももはや大衆にうったえる力をうしなっている。国民党にたいする大衆の幻想も急速に消えさるにちがいない。きたるべき情勢のもとでは、どんな政党も共産党と大衆をうばいあうことはできない。現段階の革命は社会主義ではなくて、民権主義であり、党の(著者圧――ここに「大都市での」という字句をつけくわえるべきだ)当面の任務はすぐに暴動をおこすことではなく、大衆を獲得することである、という党の第六回大会〔8〕がしめした政治路線と組織路線は正しい。だが、革命は急速に発展するであろうから、武装暴動の宣伝と準備には積極的な態度をとちなければならない。ひどく混乱した現在の情勢のもとでは、積極的なスローガンと積極的な態度がないかぎり、大衆を指導することはできない。党の戦闘力もかならずこのような積極的態度をとることによって、はじめて回復できる。……プロレタリア階級の指導は革命を勝利にみちびく唯一の鍵《かぎ》である。党のプロレタリア階級的基礎の確立、中心地域での企業細胞の創設、これか当面の党の組織面における重要な任務である。しかし、それと同時に、農村での闘争を発展させ、小地域の赤色政権をうちたて、赤軍を創設し、拡大することは、とりわけ、都市における闘争をたすけ革命の高まりをうながす主要な条件である。したがって、都市の闘争を放棄するのはあやまりであるか、しかし、農民勢力の発展をこわがり、それが労働者の勢力をしのいで革命に不利となるのではないかという考えが、もし党員のなかにあるとすれば、それもあやまりであるとわれわれはおもう。なぜなら、半植民地中国の革命は、農民闘争が労働者の指導がえられないために失敗することはあっても、農民闘争が発展して労働者の勢力をしのいだがために革命そのものを不利にするようなことはないからである。」

 またこの書簡は、赤軍の行動の戦術の問題についてつぎのように答えている。

     「党中央はわれわれにたいし、赤軍の保存と大衆の動員を目的として、部隊をごく小さくわけて、農村に分散させ、朱億、毛沢東は部隊をはなれ、大きな目標となるものをかくせと要求している。これは実際にそぐわない考え方である。中隊あるいは大隊を単位として、単独行動をとり、農村に分散させ、遊撃戦術によって大衆を動員し、目標となるのをさけることは、われわれが一九二七年の冬から計画したことであり、しかも何回か実行したことであるが、すべて失敗した。なぜなら、(一)主力である赤軍の多くは地元のものではなく、地方の赤衛隊とは来歴がちがっている。(二)小さくわければ指導が不健全となり、悪い環境に対処できず、失敗しやすい。(三)敵に各個撃破されやすい。(四)環境が悪くなればなるほど部隊をますます集中し、指導者はますます断固として奮闘すべきであり、そうしなければ、内部を団結させて、敵に対処することはできない。環境が有利なばあいにだけ、兵力を分散させて遊撃することができ、指導者もまた悪い環境のときのように片時も部隊をはなれてはならないということではない。」

 書簡のこの部分の欠点は、兵力を分散させてはならない理由としてあげたものが、みな消極的なものであったことで、これはまことに不十分である。兵力集中の積極的な理由は、集中することによってはじめて、より大きな敵を消滅することができるし、町を占領することができる点にある。より大きな敵を消滅し、町を占領することによってはじめて、ひろい範囲で大衆を動員し、いくつかの県をつらねた一つの政権を樹立することができる。こうしなければ、遠近の人の耳目をそばだたせる(いわゆる政治的影響を拡大する)ことはできず、革命の高まりをうながすうえで実際的効果をあげることはできない。たとえば、われわれが一昨年、湖南・江西省境地区政権を樹立したのも、昨年福建省西部の政権〔9〕を樹立したのも、すべてこのような兵力集中政策の結果である。これは一般的な原則である。それでは、兵力を分散させるときはないのかといえば、やはりある。前敵委員会が党中央に送った書簡では赤軍の遊撃戦術についてのべたが、そこにはつぎのように、近距離の兵力分散のこともふくまれている。

     「われわれがこの三年らいの闘争のなかでえた戦術は、古今東西の戦術とはまったくちがったものである。われわれの戦術をつかえば、大衆闘争への動員は日一日と拡大し、どんなに強大な敵でもわれわれをどうすることもできなくなる。われわれの戦術とは遊撃の戦術である。かいつまんでいうとつぎのとおりである。『兵力を分散させて大衆を動員し、兵力を集中して敵に対処する。』『敵が進んでくればわれわれは退き、敵がとどまればわれわれはなやませ、敵が疲れればわれわれは襲い、敵が退けばわれわれは追いかける。』『固定した地域の割拠〔10〕を波状的にひろげていく政策をとる。強敵が追いかけてくれば、ぐるぐるまわる政策をとる。』『短い時間に、すぐれた方法で、多くの大衆を立ちあがらせる。』このような戦術はちょうど投げ網をうつようなもので、いつでも網をひろげ、またいつでも網をひきしぼるようにする。ひろげては大衆を獲得し、しぼっては敵に対処する。三年このかた、つかってきた戦術はすべてこれである。」

 ここで「ひろげる」というのは、つまり近距離の兵力分散である。たとえば湖南・江西省境地区で最初に永新《ヨンシン》を攻略したとき、第二十九連隊と第三十一連隊は永新県内に兵力を分散させていた。また三回目に永新を攻略したときは、第二十八連隊が安福《アンフー》県の県境へ、第二十九連隊は蓮花《リェンホワ》県へ、第三十一連隊は吉安《チーアン》県の県境へと兵力を分散させた。また、たとえば、昨年四月から五月にかけての江西省南部の各県における兵力分散や、七月の福建省西部の各県における兵力分散もそれである。遠距離の兵力分散は、環境がいくらかでも有利であり、指導機関がわりあい健全であるという二つの条件がなければできない。なぜなら、兵力を分散させる目的は、大衆の獲得、土地革命の貫徹、政権の樹立、赤軍と地方武装組織の拡大をいっそうよくやれるようにすることにある。もし、こうした目的がたっせられないか、あるいは兵力を分散させたことによってかえって失敗をまねき、赤軍の力が弱められるならば、たとえば、一昨年の八月、湖南・江西省境地区で兵力を分散させて[林+おおざと]州《チェンチョウ》を攻撃したときのようなことであれば、むしろ兵力は分散させない方がよい。もしうえにのべた二つの条件がそなわっておれば、疑いもなく兵力を分散させるべきである。この二つの条件のもとでは、集中するより分散させた方がいっそう有利だからである。
 党中央の二月の書簡の趣旨は正しくない。その書簡は第四軍の党内の一部の同志に悪い影響をあたえた。党中央は当時もう一つの通達で、蒋介石派と広西派の戦争はかならずしもおこるとはかぎらないといった。しかし、その後の党中央の評価と指示は、だいたいにおいていずれも正しかった。不適当な評価をしたあの通達については、党中央からすでに訂正の通達がでている。赤軍への書簡については訂正していないが、その後だされた指示には、もうあのような悲観的な論調は見られなくなり、赤軍の行動についての主張もわれわれの主張と一致するようになった。だが、党中央のあの書簡が一部の同志にあたえた悪い影響は、まだ残っている。したがって、わたしは、いまでもまだ、この問題について説明する必要があるとおもう。
 一年で江西省をたたかいとる計画も、昨年の四月に、前敵委員会が党中央に提出したもので、その後さらに[”あまかんむり”の下に”一”、その下に”号の口のない字”]都《ユイトウ》県で決定がおこなわれている。当時指摘した理由は、党中央にあてた書簡に見られるが、それはつぎのとおりである。

     「蒋介石と広西派の部隊は九江《チウチァン》一帯で接近しており、大きなたたかいのはじまるのは目のまえに迫っている。大衆闘争の回復、それに、反動支配者内部の矛盾の拡大によって、革命の高まりはまもなくやってくる可能性がある。このような局面のもとで活動の手配をするさいに、われわれはつぎのように考える。南部の数省のうちで広東、湖南両省は買弁地主の軍事力があまりにも大きく、そのうえ湖南省では、党の盲動主義のあやまりによって、党内党外の大衆をほとんどうしなっている。福建、江西、淅江《チョーチァン》の三省はこれとちがった情勢にある。第一に、この三省の敵の軍事力はもっとも弱い。淅江省には蒋伯誠《チァンポーチョン》〔11〕のわずかな省防衛軍がいるだけである。福建省の五つの部隊は十四コ連隊あるが、郭鳳鳴《クォフォンミン》旅団はすでに撃破されており、陳国輝《チェンクォホイ》、盧興邦《ルーシンパン》〔12〕の二つの部隊はどちらも匪賊部隊で、戦闘力はきわめて小さい。陸戦隊の二コ旅団は沿海地方にいて、これまで戦闘したこともなく、その戦闘力は大きいはずがない。ただ張貞《チャンチェン》〔13〕の部隊だけが比較的戦えるが、福建省委員会の分析によると、張貞の部隊にしても、戦闘力の比較的強いのは二コ連隊だけである。しかも、福建省は現在完全に混乱状態にあり、統一されていない。江西省の朱塔徳《チューペイトー》〔14〕、熊式輝《シゥシーホイ》〔15〕の両部隊はあわせて十六コ連隊あって、福建省、淅江省の軍事力よりも強いが、湖南省にくらべるとびどく劣っている。第二に、この三省では盲動主義のあやまりがわりにすくない。淅江省の状況だけはわれわれによくわかっていないか、江西、福建両省における党と大衆の基礎は、湖南省よりいくらかよい。江西省についていうならば、北部の徳安《トーアン》、修水《シウショイ》、銅鼓《トンクー》の各県にはまだかなりの基礎かある。江西省西部の寧岡《ニンカン》、永新、蓮花、遂川《スイチョワン》の各県には、党および赤衛隊の勢力が依然として存在している。江西省南部ではいっそうのぞみがあり、吉安、永豊《ヨンフォン》、興
    国《シンクォ》などの県での赤軍第二、第四連隊は日ましに発展する傾向にある。方志敏の赤軍は消滅されてはいない。このようにして南昌《ナンチャン》包囲の形勢がつくりだされている。われわれは党中央につぎのように提案する。国民党軍閥が長期にわたって戦争しているあいだに、蒋介石派と広西派から江西省をたたかいとり、同時に、福建省西部、淅江省西部にも進出する。三省で赤軍の兵力を拡大し、大衆的割拠をつくりあげ、一年を期限としてこの計画を達成する。」


 以上のべた江西省をたたかいとる点で、まちがっていたのは期限を一年ときめたことである。江西省をたたかいとることについては、江西省自体の条件のほかに、さらに全国的な革命の高まりがまもなくやってくるという条件がふくまれる。革命の高まりがまもなくやってくることを信じないならば、一年のうちに江西省をたたかいとるという結論はけっしてだせるものではないからである。あの提案の欠点が一年ときめたことにあったので、その影響をうけて、革命の高まりがまもなくやってくるという、この「まもなく」ということにも、多少のあせりがふくまれていないわけではなかった。江西省の主体的、客観的条件については大いに注意すべきである。党中央への書簡でのべている主体的条件のほかに、客観的条件として現在はっきり指摘できる点が三つある。その一つは、江西省の経済が主として封建的経済であり、商業ブルジョア階級の勢力が比較的小さく、しかも地主の武装組織が南部各省のうち、どの省よりも弱いことである。その二つは、江西省にはこの省自体の軍隊がなく、いままでずっとよその省の軍隊がきて駐屯していたことである。よそからきた軍隊は「共産軍討伐」「匪賊討伐」をやるのに、事情もうとく、そのうえ地元の軍隊にくらべるとその利害関係ははるかにうすいので、とかくそれほど熱心でない。その三つは、広東が香港《シァンカン》に接近し、ほとんどなにごともイギリスの支配をうけているのとはちがって、帝国主義の影響からわりあいへだてられていることである。この三つの点を理解すれば、なぜ江西省の農村蜂起が他のどの省よりも普遍的であり、また赤軍の遊撃隊がどの省よりも多いかということを説明できる。
 革命の高まりがまもなくやってくるというこの「まもなく」ということばをどう解釈するか、この点は多くの同志の共通の問題である。マルクス主義者は易者ではない。将来の発展と変化については、ただ大きな方向だけを示すべきであり、またそれしかいえないのであって、機械的に期日をきめるべきでなく、またきめられるものでもない。だが、わたしのいう中国革命の高まりがまもなくやってくるというのは、けっして一部の人びとがいっている「やってくる可能性がある」というような、まったく行動的意義のない、ながめることはできても近づくことのできない、といったからっぽなものではない。それは海辺からはるかかなたにのぞまれる、帆柱の先端をあらわした船であり、それは高い山のいただきからはるか東にのぞまれる、光を四方に放ちながらうすもやをついてでようとしている朝日であり、それは母親の胎内でうごめきながらまもなくうまれでようとしている嬰児《えいじ》である。



〔1〕 方志敏同志は、江西省弋陽県の出身で中国共産党第六回大会で選出された中央委員であり、江西省東北部の赤色地域および赤軍第十軍の創立者である。一九三四年、かれは赤軍の抗日先遣隊をひきいて北上した。一九三五年一月、国民党の反革命軍隊との戦闘中捕えられ、同年七月、南昌で英雄的な最期をとげた。
〔2〕 毛沢東同志がここでいっている「革命の主体的な力」とは、組織された革命の力をさす。
〔3〕 魯[シ+篠]平は、国民党の軍閥で、一九二八年当時、国民党の湖南省主席であった。
〔4〕 蒋桂戦争とは、一九二九年の三月から四月にかけての国民党の南京軍閥蒋介石と広西省軍閥李宗仁、白崇禧とのあいだの戦争をいう。
〔5〕 一九二八年末から一九二九年はじめにかけて湖南、江西両省の国民党軍閥が赤軍の根拠地井岡山にたいしておこなった第三回目の侵犯をさす。
〔6〕 「党中央がよこした二月の書簡」とは、中国共産党中央が一九二九年二月九日、前敵委員会にあてた書簡のことである。本文に引用されている一九二九年四月五日に前敵委員会が党中央にあてた書簡には、党中央の二月の書簡の内容が要約されている。それは主として当時の情勢の評価と赤軍の行動の戦術の問題にかんするものである。党中央がこの書簡のなかで提起した見解は、妥当なものではなかったので、前敵委員会は、党中央への書簡のなかで、それとちがった見解を提起したのである。
〔7〕 反革命勢力が、人民の革命勢力にたいしてとった血なまぐさい虐殺の手段をさす。
〔8〕 「党の第六回大会」とは、一九二八年七月の中国共産党第六回全国代表大会のことである。この大会では、一九二七年の革命が失敗したのちも、中国革命の性質は依然として反帝・反封建のブルジョア民主主義革命であること、また新しい革命の高まりはさけられないものであるが、その高まりはまだやってきておらず、したがって、当時の革命の総路線は、大衆を獲得することであることが指摘された。第六回大会では、一九二七年の陳独秀の右翼投降主義が清算され、また一九二七年に革命が失敗したあと、一九二七年の末から一九二八年のはじめにかけて党内に発生した極左盲動主義も批判された。
〔9〕 一九二九年、赤軍は井岡山から東にむかって福建省に進撃し、新しい革命根拠地をきりひらき、福建省西部の竜岩、永定、上杭などの県に人民革命の政権を樹立した。
〔10〕 「固定した地域の割拠」とは、労農赤軍が比較的強固な革命根拠地をうちたてることをさす。
〔11〕 蒋伯誠は、当時国民党の淅江省保安司令官であった。
〔12〕 陳国輝、盧興邦は、福建省の有名な匪賊の首領で、その部隊は国民党軍に編入された。
〔13〕 張貞は、国民党軍の師団長であった。
〔14〕 朱培徳は、国民党の軍閥で、当時国民党の江西省政府主席であった。
〔15〕 熊式輝は、当時江西省に駐屯していた国民党車の師団長であった。
訳注
① 本巻の『中国社会各階級の分析』の注〔7〕を参照。
② 「魚を深みに追いこむ」というのは、『孟子』―「離婁章句上」に出てくることばで、原文
はつぎのとおり。「魚を深みに追いこむのは獺《かわうそ》であり、すずめを茂みに追いこむのは隼《はやぶさ》であり、民衆を湯王、武王の側においやったのは桀王、紂王である。」つまり、魚をとってたべる獺が魚を深みに追いこみ、すずめをとってたべる隼がすすめを茂みに追いこむのとおなじように、暴君桀王と紂王は民心をうしなって、人民をみな仁君の湯王、武王の側においやってしまった、という意味である。ここでは、国民党の虐殺主義が人民を革命の側へおいやったことにたとえている。
  
  
  

 
 
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maobadi
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経済活動に心をそそげ
          (一九三三年八月二十日)
     これは、毛沢東同志が一九三三年八月、江西省南部十七県の経済建設活動会議でおこなった演説である。

 革命戦争の激烈化によって、われわれは、大衆を動員して、ただちに経済戦線での運動をくりひろげ、各種の必要にして可能な経済建設事業をおしすすめることを要求されている。どうしてか。いまのわれわれのすべての活動は、革命戦争の勝利、まず数の五回目の「包囲討伐」〔1〕を粉砕する戦争での徹底的な勝利をかちとること、赤軍の給養と供給を保障する物質的な条件をかちとること、人民大衆の生活を改善して、人民大衆の革命戦争に参加する積極性をいっそうふるいたたせること、経済戦線で広範な人民大衆を組織し教育して、戦争に新しい大衆の力をくわえること、経済建設をつうじて労働者と農民の同盟をかため、労農民主主義独裁をかため、プロレタリア階級の指導をつよめること、こうしたことのためでなければならない。こうしたすべてのことのためには、経済面での建設活動をすすめることが必要である。これは、革命の活動家の一人びとりが、はっきりと認識しておかなければならないことである。これまで、一部の同志は、革命戦争だけでもいそがしくてやりきれないのに、経済建設活動をやるひまなどどこにあろうかと考え、そのため経済建設の話でも耳にしようものなら、すぐに「右翼的偏向だ」ときめつけた。かれらは、革命戦争という環境では経済建設をやる可能性はなく、経済建設をやるには戦争が最終的に勝利して、平和な落ちついた環境になるのをまたなければならないと考えている。同志諸君、このような考えはまちがいである。このような考えをもっている同志は、経済建設をやらなければ、革命戦争の物質的条件は保障されず、人民は長期の戦争でつかれを感じることが、わからない。見たまえ、敵は経済封鎖をおこない、悪質商人や反動派はわれわれの金融、商業を破壊しており、わが赤色地域の対外貿易は、非常に大きな妨害をうけている。もし、われわれがこれらの困難を克服しなかったら、革命戦争は大きな影響をうけはしないだろうか。塩は非常にたかいし、ときには買えないこともある。米も、秋冬は安いが、春夏になると途方もなくたかい。このような状況は、すぐ労働者、農民の生活にひびき、その生活改善を不可能にしている。これでは労農同盟という基本路線に影響しはしないだろうか。もし労農大衆が自分の生活に不満をいだくようになったら、赤軍の拡大、革命戦争への大衆の動員というわれわれの活動に影響しはしないだろうか。だから、革命戦争という環境のもとでは経済建設をやるべきでないという考えは、極端なあやまりである。このような考えをもっている人も、いっさいを戦争に従属させるべきだとつねにいっている。だが、経済建設をとりやめたら、戦争に従属させるのではなくて、戦争をよわめることになるのをかれらは知らない。経済戦線の面での活動をくりひろげ、赤色地域の経済を発展させること。そうしなければ、革命戦争にかなりの物質的基礎をあたえることができず、われわれの軍事的な進攻を順調にくりひろげて、敵の「包囲討伐」に力づよい打撃をあたえることができない。また、そうしなければわれわれが赤軍を拡大して、われわれの戦線を数千華里のところにまでのばせるような力をもつことができず、われわれの赤軍がなんの心配もなく、将来有利な条件のもとで、南昌《ナンチャン》、九江《チウチァン》を攻撃することができず、われわれの赤軍が自分で給養を解決するという仕事をへらして、ひたすら、敵とたたかうことができない。また、そうしなければわれわれの広範な大衆が生活上かなりの満足をえて、いっそうよろこんで赤軍にはいり、各種の革命活動をやることができない。このようにしなければ、戦争に従属させたとはいえないのである。現在、各地の革命活動家のなかには、革命戦争のなかでの経済建設活動の重要性をはっきり理解していない人がまだたくさんおり、地方政府のなかにも経済建設の問題の討論に力をいれていないところがまだたくさんある。各地の政府の国民経済部の組織はまだ健全でなく、ところによってはまだ部長さえ見つけていないか、あるいは、仕事の能力のわりにおとるもので間にあわせているにすぎない。協同組合の発展はまだはじまったばかりの段階であり、食糧調整の仕事も、一部の地方ではじめられただけである。各地ではまだ経済建設という任務を、広範な大衆のあいだに宣伝(これはたいへん重要なことである)しておらず、まだ経済建設のためにたたかう熱烈なふんいきを大衆のなかにつくりだしていない。このような状態は、いずれも経済建設重要性を無視したことからきている。われわれはどうしても、同志諸君のこの会議での討論と、会議がすんで各地に帰ってからの伝達をつうじて、政府の全職員のあいだに、また広範な労働者、農民大衆のあいだに、熱烈な経済建設のふんいきをつくりださなければならない。みんなに、革命戦争のなかでの経済建設の重要性を理解させて、経済建設公債の売りさばき、協同組合運動の発展、穀物倉庫と備荒倉庫の普遍的な設立に努力するようにさせなければならない。県ごとに食糧調整分局をもうけ、重要な区、重要な[土+于]場《ユイチャン》〔2〕には食糧調整支局をもうけなければならない。一方では、われわれの食糧を赤色地域内のあまったところから不足しているところに運んで、あるところでは山積みしてあるのに、別なところでは買うこともできず、あるところでは値段が安すぎるのに、別のところでは高すぎるような状態をなくさなければならない。他方では、われわれの地域内のあまった食糧を計画的に(無制限にではなく)輸出し、悪質商人の中間搾取をうけずに、白色区から必需品を買い入れなければならない。みんなで農業生産と手工業生産の発展につとめ、多くの農具を作り、多くの石灰を生産して、来年の収穫をふやし、タングステン鉱、木材、樟脳、紙、葉たばこ、麻布、しいたけ、薄荷油などの特産物を、過去の生産量にまで回復するとともに、それらを大量に白色区に輸出しなければならない。
 輸出入貿易の量から見ると、われわれのいちばん大口の輸出品は食糧である。毎年、おおよそ三百万担《タン》のもみが輸出されているが、これは三百万の大衆が一人平均一担のもみを輸出して必需品と交換してくるわけで、おそらくそれ以下ということはないだろう。この取り引きはどんな人がやっているか。全部商人がやっており、商人は中間でひどい搾取をしている。昨年、万安《ワンアン》、泰和《タイホー》両県の農民はもみ一担を五角で商人に売りわたしたが、商人はそれを[章+”ふゆがまえ”の下に”貢”]州《カンチョウ》にもっていって、一担四元で売り、七倍ももうけた。つぎに、三百万の大衆が一年間に、おおよそ九百万元の塩と、おおよそ六百万元の綿布を買っているのをとりあげてみよう。この千五百万元の塩と綿布の輸入は、いうまでもなく、いままではすべて商人がやってきたもので、われわれはそれに手をつけていなかった。商人の中間搾取は、まったくひどいものであった。たとえば、商人が梅《メイ》県にいって塩を仕入れると、七斤一元であるが、われわれの地域内にもちこまれると、十二両が一元で売られる。まったく驚くべき搾取ではないか。われわれは、このようなことをこれ以上放置しておくわけにはいかない。今後はどうしてもこれに手をつけていかなければならない。われわれの対外貿易局は、この面で大きな努力をはらう必要がある。
 三百万元の経済建設公債を発行して、どのようにつかうのか。われわれはつぎのようにつかおうとおもっている。すなわち、百万元を赤軍の戦費にあて、二百万元を協同組合、食糧調整局、対外貿易局に資金として貸しつける。そのうち、一小部分を生産の発展につかい、大部分を輸出入貿易の発展につかう。われわれの目的は、生産を発展させることにあるだけでなく、生産されたものを輸出して適当な価格で売り、また白色区から安い価格で塩や綿布を買い入れて、人民大衆に供給し、それによって敵の封鎖をやぶり、商人の搾取をおさえることにある。われわれは、人民の経済を日ごとに発展させ、大衆の生活を大いに改善し、われわれの財政収入を大いに増加させて、革命戦争と経済建設の物質的基礎をしっかりとうちたてなければならない。
 これは偉大な任務であり、偉大な階級闘争である。だが、どうだろう。この任務は、激しい戦争という環境のもとで達成できるだろうか。わたしは達成できるとおもう。われわれは、なにも竜岩《ロンイェン》まで鉄道をしこうというのではないし、当分のあいだは[章+”ふゆがまえ”の下に”貢”]州まで自動車道路をつくろうというのでもない。食糧を完全な専売制にうつそうというのでもなければ、千五百万元の塩と綿布の取り引きを全部政府の手にうつし、商人には手をふれさせないというのでもない。われわれは、そのようなことはいわないし、そのようなこともしていない。われわれがいっていること、していることは、農業と手工業の生産を発展させ、食糧とタングステン鉱を輸出し、食塩と綿布を輸入することであって、さしあたり二百万元の資金に大衆の株金をくわえてそれをやりはじめるというのである。こうしたことはやるべきではなく、やることもできず、またやりおおせないことだろうか。われわれはすでにこうした仕事をはじめており、しかもすでに成果をあげている。ことしの秋の収穫は、昨年の秋の収穫より二〇パーセントないし二五パーセントふえ、秋季収穫二割増の見込みをうわまわっている。手工業の面では、農具と石灰の生産が回復の道をたどっており、タングステン鉱の生産も回復しはじめている。たばこ、紙、木材の生産もいくらか活気をしめしはじめている。食糧の調整もことしは多くの成果をあげている。食塩輸入の仕事も部分的にはじまっている。こうした成果は、将来発展できるというわれわれの確信の基礎となっている。経済建設は戦争が終わってはじめてやれるもので、いまはできないといわれているが、それはあきらかにあやまった見方ではないだろうか。
 したがって、現在の段階では、経済建設は革命戦争という中心任務をめぐっておこなわれなければならないことがわかる。革命戦争が当面の中心任務であって、経済建設の事業はそのためのものであり、それをめぐり、それに従属するものである。経済建設がすでに当面のすべての任務の中心になっていると考えて、革命戦争を無視し、革命戦争からはなれて経済建設をやろうというのも、おなじようにあやまった観点である。経済建設をすべての任務の中心にするということは、国内戦争が終わったときにはじめていえるのであり、またいわなければならないのである。将来は当然おこなわれても現在おこなってはならないような、また将来の環境ではゆるされても現在の環境ではゆるされないような、平和的な経済建設活動を、国内戦争の最中にやろうとする試みは、たんなる妄想《もうそう》にすぎない。当面の活動は戦争がさしせまって必要としている諸活動である。これらの活動は、戦争からはなれた平和な事業ではなくて、その一つ一つが戦争のためのものである。もし同志たちのあいだに、戦争をはなれて経済建設をやろうという考え方があるとすれば、すぐにあらためなければならない。
 正しい指導方式と活動方法がなければ、経済戦線での運動を急速にくりひろげることは、不可能である。これもまた、今回の会議で解決しなければならない重要な問題である。なぜなら、同志たちは帰るとすぐに、たくさんの仕事にとりかからなければならないばかりでなく、たくさんの活動家を指導して、いっしょに仕事をしなければならないからである。とくに郷段階および市段階の同志や、協同組合、食糧局、貿易局、買付所などの機関にいる同志は、直接大衆を動員して協同組合を組織し、食糧を調整、運搬し、輸出入貿易を管理する実務にたずさわる活動家であるから、もしその指導方式がまちがっていて、正しくて効果のあるさまざまな活動方法をとることができなければ、たちまち活動の成果に影響して、われわれの各種の活動は、広範な大衆の支持をえられなくなり、中央政府の経済建設上の全計画を、今年の秋冬および来年の春夏に完遂することができなくなる。したがって、わたしは同志たちにつぎのようないくつかの点を指摘しておきたい。
 第一は、組織をつうじて大衆を動員すること。まず、各級政府の議長団、国民経済部および財政部の同志は、公債の発行、協同組合の発展、食糧の調整、生産の発展、貿易の発展などの活動をつねに議事日程にのぼせて、討議し、督促し、点検しなければならない。そのつぎは、大衆団体、おもに労働組合と貧農団をうごかすことである。労働組合に組合員全員を経済戦線に動員させなければならない。貧農団は、協同組合を発展させ公債を買わせるうえでの大衆動員の有力な基礎であり、区政府と郷政府は貧農団の指導に大いに力をいれなければならない。そのつぎには、村ごとあるいは家ごとの大衆集会をひらいて、経済建設の宣伝をおこない、そのなかで、革命戦争と経済建設との関係をよくわかるように説明し、大衆の生活を改善して、闘争の力をつよめるということを、実際にそくしてよく説明しなければならない。大衆に公債の買い入れ、協同組合の発展、食糧の調整、金融の強化、貿易の発展をよびかけ、かれらにこれらのスローガンのためたたかうようよびかけて、大衆の情熱をたかめなければならない。もしこのように組織をつうじて大衆を動員せず、大衆に宣伝しないならば、すなわち、各級政府の議長団、国民経済部および財政部が、経済建設活動をとりあげて討議、点検することに力をいれず、大衆団体にはたらきかけることに心をそそがず、大衆集会をひらいて宣伝することに心をそそがないならば、目的達成は不可能である。
 第二は、大衆を動員する方式が、官僚主義的であってはならないこと。官僚主義的な指導方式は、どんな革命活動にもあってはならないが、経済建設活動でもおなじように官僚主義的であってはなるない。官僚主義的方式というこの極悪のしろものは、肥だめになげすてなければならない。こんなものをよろこぶ同志はひとりもいないからである。すべての同志のよろこぶものは、とうぜん大衆的な方式、すなわち、労働者、農民のだれもがよろこんでうけいれる方式である。官僚主義のあらわれの一つは、知らぬ顔をしたり、おざなりですませる怠慢現象である。われわれは、このような現象にたいしてきびしい闘争をおこなわなければならない。もう一つは命令主義である。命令主義者は、うわべは怠慢でなく、一生懸命やっているようにみえる。だが、実際には、命令主義で協同組合を発展させようとしても成功するものではなく、一時的に形のうえでは発展しても、それをかためることはできず、結果は、信用をうしない、協同組合の発展をさまたげてしまう。命令主義で公債を売りさばき、大衆が理解しようがしまいが、そんなに多く買えようが買えまいが、一向におかまいなく、ただ自分できめた数字どおりにむりやりわりあてようとするならば、その結果は、大衆にきらわれ、公債もうまく売りさばけなくなる。われわれには絶対に命令主義があってはならない。われわれに必要なのは、宣伝につとめ、大衆を説得し、具体的な環境と具体的にあらわれている大衆の気持ちにもとづいて、協同組合を発展させ、公債を売りさばき、あらゆる経済動員の活動をおこなうことである。
 第三は、経済建設運動を展開するには、大量の幹部が必要だということ。これは何十人「何百人というものではなくて、何千人、何万人を必要とするのであり、かれらを組織し、訓練して、経済建設の戦線におくりこまなければなるない。かれらは経済戦線での指揮員であり、広範な大衆は戦闘員である。幹部がいないといってよくこぼす人がいる。同志諸君、ほんとうに幹部がいないのだろうか。土地闘争、経済闘争、革命戦争のなかできたえられた大衆のなかから、数かぎりない幹部がうまれているのに、どうして幹部がいないなどといえるだろうか。あやまった見方をすてさえすれば幹部は目のまえにいるのである。
 第四に、経済建設は、こんにち、戦争の全般的な任務と切りはなしえないはかりでなく、その他の任務とも切りはなしえないものであること。封建的・半封建的な土地所有制を徹底的になくし、農民の生産意欲をたかめて、広範な農民を急速に経済建設の戦線にひきいれるには、土地点検運動〔3〕を徹底させるよりほかはない。労働者大衆の生活を改善し、労働者大衆を急速に、積極的に、経済建設の事業に参加させて、かれらの農民にたいする指導的役割をつよめるには、労働法を断固として実施するよりほかはない。われわれの政府機関を健全にして、われわれの政府が、いっそう強力に革命戦争を指導し、各方面の活動を指導し、経済活動を指導できるようにするには、選挙運動と、土地点検運動の展開にともなってくりひろげられる摘発運動〔4〕とを正しく指導するよりほかはない。文化教育活動によって大衆の政治的、文化的水準をたかめること、これも国民経済の発展にとって同様にきわめて大きな重要性をもっている。赤軍を拡大する活動を一日でもゆるがせにできないことは、なおさらいうまでもない。だれでも知っているように、赤軍の勝利がなければ、経済封鎖はいっそうはげしくなるであろう。他方、国民経済が発展し、大衆の生活が改善されれば、疑いもなく、赤軍拡大の活動にとってきわめて大きな助けになり、広範な大衆は、よろこびいさんで前線におもむくようになるのである。まとめていえば、もし、われわれが経済建設というきわめて重要な新しい条件をふくむ、さきにのべたすべての条件をたたかいとり、しかもこうしたすべての条件を革命戦争に奉仕させるならば、革命戦争の勝利は、疑いもなくわれわれのものとなる。



〔1〕 一九三〇年から一九三四年にかけて、蒋介石の軍隊は、江西省の瑞金を中心とする赤色地域にたいして、五回にわたる大規模な軍事進攻をおこなった。これを五回の「包囲討伐」という。五回目の「包囲討伐」が正式にはじまったのは一九三三年の十月であるが、一九三三年の夏から、蒋介石は積極的にこの進攻の手はずをととのえていた。
〔2〕 [土+于]場とは、江西省の農村で定期的にたつ市《いち》のことである。
〔3〕 土地点検運動とは、当時、赤色地域で土地を分配したのち、土地の分配がほんとうに適切であるかどうかを点検するためおこなわれた運動である。
〔4〕 摘発運動とは、民主政府の職員の悪行を広範な人民が下から上へと摘発する民主的運動であった。
訳注
① 本巻の『湖南省農民運動の視察報告』の訳注⑩を参照。
  
  
  

 
 
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農村の階級をいかに分析するか
          (一九三三年十月)
     この文書は、毛沢東同志が一九二ー年十月、土地改革活動のなかにうまれた偏向をだたし、土地問題を正しく解決するために書いたもので、農村の階級構成要素を区分する基準として当時の中央労農民主政府によって採択された。

     一 地主

 土地を所有し、自分では労働をしないか、あるいはただ補助的な労働をするだけで、農民を搾取することによって生活するものを地主という。地主の搾取方式は、主として小作料の取りたてであるが、そのほかに、金貸しか、作男の雇用か、商工業の経営かを兼ねたりしている。しかし、農民にたいする小作料の搾取が、地主の主要な搾取方式である。共有の財産の管理と学田の地代徴収〔1〕も小作料搾取の一種である。
 地主のうち一部の、すでに破産してはいるが、破産後もあいかわらず労働せず、詐欺、略奪、あるいは親戚友人からの援助などの方法にたよって生活し、その生活状態が普通の中農以上であるものは、やはり地主のなかにいれる。
 軍閥、官僚、土豪、劣紳は、地主階級の政治的代表であり、地主のなかでもとくに悪らつなものである。わりあいに小さな土豪、劣紳は富農のなかにもよくいる。
 地主をたすけて小作料を取りたてたり、家の差配をしたりし、地主の農民にたいする搾取に依存して、それを生活の主要な源泉にしており、その生活状態が普通の中農以上である一部のものは、地主とおなじとりあつかいをすべきである。
 高利貸しによる搾取を生活の主要な源泉にしており、その生活状態が普通の中農以上であるものは、高利貸しとよび、地主とおなじとりあつかいをすべきである。


     二 富農

 富農は一般に土地を所有している。しかし、なかには、自分でも一部の土地を所有しているが、別に一部の土地を借りいれているものもいる。また、自分ではぜんぜん土地を所有せず、全部の土地を借りいれているものもいる。富農は、一般に、わりあい多くの生産用具と流動資本をもち、自分でも労働するが、恒常的に搾取にたより、それを生活の一部または大部分の源泉にしている。富農の搾取方式は、主として雇用労働(年季作男のやといいれ)の搾取である。そのほかに、一部の土地の貸しつけによる小作料の搾取か、金貸しか、商工業の経営かを兼ねたりしている。富農の大半はまた共有の財産を管理している。あるものは、かなり多くのよい土地を所有し、作男をやといいれないで自分で労働するが、小作料や金利などの、別の方式で農民を搾取している。このような状態にあるものも富農としてとりあつかうべきである。富農の搾取は恒常的なものであり、しかも多くの富農の搾取による収入は、その全収入のうちでも主要な部分をしめている。


     三 中農

 中農の多くは土地を所有している。中農の一部は、土地を一部所有するだけで、ほかの一部の土地は借りいれている。中農の一部は、土地を所有せず、土地は全部借りいれている。中農はみな自分でかなりの生産用具をもっている。中農の生活の源泉は、全部が自分の労働によるか、あるいは主として自分の労働による。一般に中農は他人を搾取せず「多くの中農は、わずかながら他人から小作料、金利などによる搾取をうけている。しかし、一般に中農は労働力を売らない。他の一部の中農(富裕中農)は、わずかながら他人を搾取しているが、それは恒常的なものでも、主要なものでもない。


     四 貧農

 貧農のなかの一部は、土地の一部と不完全な生産用具をもっており、一部は土地がぜんぜんなく、わずかばかりの不完全な生産用具しかもっていない。一般には、土地を借りいれて耕作しなければならす、他人から小作料、金利および小部分の雇用労働による搾取をうけている。
 中農は一般に労働力を売る必要はないが、貧農は一般に小部分ながら労働力を売らなければならない。これが、中農と貧農とを区別する主要な基準である。


     五 労働者

 労働者(雇農をふくむ)は一般に土地も生産用具もぜんぜんもっていない。労働者のなかにはごくわずかな土地と生産用具をもっているものもいる。労働者は、完全にか、あるいは主として、労働力を売ることによって生活している。



〔1〕 中国の農村にはたくさんの共有地があった。あるものは政治的な性質をもっていた。たとえば区や郷の政府がもっていた土地がそれである。あるものは同族的な性質をもっていた。たとえはそれぞれの同族の祖先廟がもっていた土地がそれである。あるものは宗教的な性質をもっていた。たとえば仏教、道教、カトリック教、回教などの寺院がもっていた土地がそれである。あるものは社会救済あるいは社会公益的性質をもっていた。たとえば備荒倉、橋梁・道路修築の費用にあてるための土地がそれである。あるものは教育的な性質をもっていた。たとえば学田がそれである。こうした土地の大部分は地主、富農の手ににぎられ、農民が関与する権利をもつ土地はごく一部にすぎなかった。
  
  
  

 
 
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われわれの経済政策

          (一九三四年一月二十三日)


 これは、毛沢東同志が一九三四年一月、江西省瑞金でひらかれた第二回全国労働者農民代表大会でおこなった報告である。


 もっとも恥知らずな国民党軍閥でなければ、自分の支配する地域では人民と国家を破産の瀬戸ぎわに追いやりながら、赤色地域がどんなにひどく荒廃しているかといったデマをまいにちのようにふりまくことはできるものではない。帝国主義と国民党の目的は、赤色地域を破壊し、前進しつつある赤色地域の経済建設活動を破壊し、すでに解放された何百何千万の労農民衆の福利を破壊することにある。そのため、かれらは武装力を組織して軍事上の「包囲討伐」をおこなっているばかりでなく、経済上でも残酷な封鎖政策をおこなっている。しかし、われわれは広範な大衆と赤軍を指導して、敵の「包囲討伐」を何回も撃破したばかりでなく、経済封鎖という敵の悪らつな計略をうちやぶるため、あらゆる可能な、また必要な経済建設をおこなっている。われわれのこの段どりも、いま、ちゃくちゃくと勝利をおさめている。
 われわれの経済政策の原則は、経済面でのあらゆる可能な、また必要な建設をすすめ、経済力を集中して戦争の需要をまかない、同時に民衆の生活の改善に力をつくし、経済面での労働者、農民の同盟を強化し、農民にたいするプロレタリア階級の指導を保障し、私営経済にたいする国営経済の指導をかちとり、将来、社会主義に発展するための前提をつくることにある。
 われわれの経済建設の中心は、農業生産の発展、工業生産の発展、対外貿易の発展、協同組合の発展をはかることにある。
 赤色地域での農業は、いま、あきらかに発展しつつある。一九三三年の農業生産は、一九三二年にくらべて、江西《チァンシー》省南部・福建《フーチェン》省西部地域では一五パーセント(一割五分)増加し、福建・淅江《チョーチァン》・江西辺区では二〇パーセント増加した。四川《スーチョワン》・陝西《シャンシー》辺区の農業もよい収穫をあげている。赤色地域がうちたてられた最初の一、二年、農業生産はとかく低下しがちであった〔1〕。ところが、土地分配によって土地所有権が確立し、そのうえに、われわれが生産を提唱したため、農民大衆の労働意欲は高まり、生産は回復の情勢にある。現在、一部の地方では、革命前の生産量を回復したばかりでなく、それを上回っている。また一部の地方では、革命の蜂起の過程で荒廃した土地を復旧させたばかりでなく、新しい土地を開拓した。多くの地方では、農村の労働力を調整するために労働互助社や耕田隊〔2〕を組織し、役牛不足の問題を解決するために役牛協同組合を組織している。同時に広範な婦人大衆も生産に参加するようになった。このようなことは、国民党の時代には、けっしてやりえないことであった。国民党の時代には、土地は地主のもので、農民は自分の力で土地を改良することをのぞまなかったし、またそうすることもできなかった。われわれが土地を農民に分配し、農民に生産を提唱し、奨励したことによって、はじめて農民大衆の労働意欲がわきあがり、生産面での偉大な勝利がかちとれたのである。ここで指摘しなければならないことは、当面の条件のもとでは、農業生産がわれわれの経済建設活動の第一位をしめており、それは、もっとも重要な食糧問題の解決に必要であるばかりでなく、衣類・砂糖・紙などの日用品の原料、すなわち綿花、麻、甘蔗《かんしょ》、竹などの供給の問題の解決にも必要である、ということである。森林の育成、家畜の増殖もまた農業の重要な部分である。小農経済の基礎のうえに、いくつかの重要な農作物についての一定の生産計画をたて、この計画のために努力するよう農民を動員することは、ゆるされることだし、また、やらなければならないことでもある。われわれは、この面でいっそうの注意と努力をはらわなければならない。農業生産に必要な条件での困難な問題、たとえば労働力、役牛、肥料、種子、水利などの問題については、それを解決できるよう、われわれは農民の指導に力をいれなければならない。ここでは、労働力を組織的に調整することと、婦人が生産に参加するようはたらきかけることが、農業生産の面でのわれわれのもっとも基本的な任務である。そして、労働互助社や耕田隊を組織すること、春の耕作や夏の耕作などの重要な季節に、農村の全民衆を動員し、うながすことは、労働力の問題を解決するための必要な方法である。農民のうちのかなりの部分(だいたい二五パーセント)が役牛に不足していることも大きな問題である。役牛協同組合を組織して、役牛をもたないすべての農家に、自発的に金をだしあって役牛を買い共同で使うようはたらきかけることは、われわれが心をそそがなければならないことである。水利は農業の命の綱である。われわれはこれにも、大いに心をそそがなければならない。もちろん、いまはまだ、国営農業や集団農業の問題は提起できないが、農業の発展をうながすために、各地に小規模な農事試験場をつくったり、農業研究学校や農産物展示所をもうけたりすることは、さしせまって必要なことである。
 敵の封鎖によって、われわれの物産の輸出が困難になった。赤色地域の多くの手工業生産はおとろえ、たばこ、紙などはそのもっともはなはだしいものである。だが、このような輸出の困難も、まったく克服できないものではない。広範な大衆の需要があるので、われわれ自身にも広範な市場がある。ます第一に自給のために、つぎには輸出のためにも、手工業と一部の工業を計画的に回復させ、発展させなければならない。この二年らい、とくに一九三三年の上半期いらい、われわれが心をそそぎはじめたために、また大衆の生産協同組合がだんだん発展してきたために、多くの手工業といくつかの工業が現在回復にむかいはじめている。そのうちでも重要なものは、たばこ、紙、タングステン鉱、樟脳《しょうのう》、農具、肥料(石灰など)である。また自分で綿布を織ったり、薬をつくったり、砂糖をつくったりすることも、いまの環境ではおろそかにできないことである。福建・淅江・江西辺区では、従来この地方に欠けていた一部の工業、たとえば製紙、織物、製糖などがいまではちゃんと発展しており、しかも成果をあげている。人びとは食塩の欠乏を解決するために、硝土から塩をとっている。工業を経営するには適切な計画が必要である。分散的な手工業の基礎のうえに、全般的な綿密な計画をたてることは、もちろん不可能である。だが、若干の主要な事業、まず国家経営と協同組合経営の事業については、かなり綿密な生産計画をたてることが、ぜひとも必要である。的確に原料の生産を算定し、敵地区とわが地区での販路を算定することは、われわれのあらゆる国営工業と協同組合工業が最初から心をそそぐべきことである。
 われわれが計画的に人民の対外貿易を組織し、しかも、向種類かの必要な商品の流通、たとえば食塩と綿布の輸入、食糧とタングステン鉱の輸出、および内部での食糧の調整などを国家の手で直接に経営することは、いま非常に必要となっている。この仕事は、福建・淅江・江西辺区では、わりあいはやくからおこなわれたが、中央地区ではじめられたのは一九三三年の春からである。対外貿易局などの機関が設立されたことによって、すでに一応の成果がみられる。
 現在、われわれの国民経済は国営事業、協同組合事業および私営事業の三つからなりたっている。
 国家が経営している経済事業は、いまのところ、可能な、また必要な部分にかぎられている。国営の工業や商業は、すでに発展しはじめており、その前途にははかりしれないものがある。私営経済にたいしては、政府の法律のわくをこえないかぎり、われわれは阻止しないばかりか、それを提唱し、奨励している。なぜなら、いまのところ、私営経済の発展は国家の利益と人民の利益にとって必要だからである。私営経済は、いうまでもなく、いま絶対的に優勢をしめているし、今後もかなり長期にわたって優勢を保つにちがいない。いまのところ、赤色地域の私営経済は小規模経営の形をとっている。
 協同組合事業は、いまきわめて急速に発展している。江西、福建両省十七県の一九三三年九月の統計によると、各種の協同組合は計千四百二十三、株金は計三十余万元となっている。もっともよく発展しているのは消費協同組合と食糧協同組合で、そのつぎが生産協同組合である。信用協同組合の活動は、やっとはじまったばかりである。協同組合経済と国営経済とが呼応して、長いあいだ発展をつづければ、経済面での大きな力となり、私営経済にたいしてしだいに優位をしめ、指導的な地位をしめるようになるであろう。したがって、できるかぎり国営経済を発展させ、大規模に協同組合経済を発展させることは、私営経済の発展を奨励することと並行させていかなければならない。
 国営経済を発展させ、協同組合経済を援助するために、われわれは大衆の支持をうけて、三百万元の経済建設公債を発行した。このように、大衆の力にたよって経済建設の資金問題を解決することは、当面の唯一の、また可能な方法である。
 国民経済を発展させることによってわれわれの財政収入をふやすことは、われわれの財政政策の基本方針である。その効果はすでにはっきりと福建・淅江・江西辺区にあらわれ、中央地区にもあらわれはじめている。この方針の実行に力をいれることは、われわれの財政機関と経済機関の責務である。ここで十分注意しなければならないことは、国立銀行の紙幣発行は、基本的には国民経済の発展上の必要にもとづくべきであって、たんなる財政上からの必要は、第二義的な地位にしかおけないということである。
 財政の支出は、節約の方針にもとづかなければならない。汚職と浪費は重大な犯罪であることを、すべての政府職員に、はっきり理解させなければならない。汚職と浪費に反対する闘争は、これまでにいくらかの成果をあげたが、今後も力をいれなければならない。戦争と革命事業のため、われわれの経済建設のために、銅貨一枚でも節約するのがわれわれの会計制度の原則である。われわれの国家収入の使途は、国民党のそれとは厳格なちがいがなければならない。
 全中国が経済的大災難にまきこまれ、数億の民衆が飢えと寒さに苦しむ困難な状態におちいっているとき、われわれ人民の政府は、どんな困難にもひるまず、革命戦争のため、民族の利益のために、しんけんに経済建設活動をすすめている。われわれが帝国主義と国民党にうち勝たなければ、また、われわれが計画的、組織的に経済建設活動をすすめなければ、全国人民を空前の大災難から救いだすことができないのは、きわめてあきらかである。



〔注〕
〔1〕 赤色地域かつくられた最初の一、二年、農業生産がとかく低下しがちだったのは、主として、土地分配の期間に、土地所有権が確立せず、新しい経済秩序がまだ軌道にのらなかったため、農民の生産意欲にまだむらがあったからである。
〔2〕 労働互助社と耕田隊は、当時、赤色地域の農民が労働力を調整して生産をすすめるために、小私有経済の基礎のうえにつくった労働の相互援助組織である。このような労働相互援助組織への加入は各人の自由意志によるもので、またたがいに利益のあるものでなければならなかった。決算は労働日を相殺し、すくなく仕事をした方が多く仕事をした方に差額を支払うのである。労働互助社は社員の相互援助だけでなく、赤軍の家族にたいする特別奉仕や、身よりのない老人にたいする援助(身よりのない老人のために働くばあいは、食事をするだけで、日当はとらない)をもおこなった。このような労働の相互援助組織は、生産面の役割も大きく、やり方も合理的であったので、大衆に心から支持された。毛沢東同志の『長岡郷の調査』や『才渓郷の調査』には、これについて記載されている。
  
  
  

 
 
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