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maobadi 2010-12-17 12:18
抗日根拠地の政権問題
          (一九四〇年三月六日)
     これは、毛沢東同志が中国共産党中央のために書いた党内指示である。

 (一)いまはこういう時である。一方では、国民党の反共頑迷《がんめい》派が華北、華中などにおけるわれわれの抗日民主政権樹立に懸命に反対しており、他方では、われわれはこうした政権を樹立しなければならないし、また、すでに主要な各抗日根拠地内でこうした政権が樹立できるようになった、という時である。華北、華中、西北における、われわれと反共頑迷派との政権問題をめぐる闘争は、全国的な統一戦線政権の樹立を推進する性質をもっており、全国の注目のまととなっている。したがって、この問題は慎重に処理しなければならない。
 (二)抗日の時期にわれわれの樹立する政権は、民族統一戦線の性質をもつものである。このような政権は、抗日にも賛成し、民主にも賛成するすべての人びとの政権であり、いくつかの革命的階級が連合して、民族裏切り者と反動派にたいしておこなう民主主義独裁である。それは地主・ブルジョア階級の反革命的独裁とちがったものであり、また土地革命の時期の労農民主主義独裁ともちがったものである。このような政権の性質についてはっきり理解し、まじめに実行することは、全国の民主化を推進するうえで大きなたすけとなるであろう。左よりと右よりの偏向は、どちらも全国人民にきわめてわるい影響をあたえるであろう。
 (三)いまはじまっている河北《ホーペイ》省参議会の招集と河北省行政委員会の選挙は、重大な意義をもっている。同様に、山西《シャンシー》省西北部、山東《シャントン》省、淮河《ホワイホー》以北地区、綏徳《スイトー》県、[鹿+”おおざと”]《フー》県、甘粛《カンスー》省東部などの地区に新しい政権を樹立することも、重大な意義をもっている。さきにのべた原則にしたがってこれをおこない、右よりと左よりの偏向を極力さけなければならない。現在は、中層ブルジョア階級と開明紳士の獲得をおろそかにする「左」翼的偏向の方がいっそう重大である。
 (四)抗日民族統一戦線政権の原則にもとづいて、人員配分では、共産党員が三分の一を占め、党外の左派の進歩的な人びとが三分の一を占め、左でも右でもない中間派が三分の一を占めるようにきめるべきである。
 (五)政権のなかで共産党員が指導的地位を占めるよう保障しなければならず、そのためには、三分の一を占める共産党員が質的にすぐれた条件をもつようにしなければならない。この条件さえあれば、党の指導権は保障されるのであって、それ以上の人数を必要としない。いわゆる指導権とは、それをスローガンとして朝から晩までさけぶことでもなければ、また、いたけだかになって人をわれわれにしたがわせることでもなく、党外の人びとがよろこんでわれわれの提案をうけいれるように党の正しい政策と自分の模範的な活動でかれらを説得し、教育することである。
 (六)党外の進歩的な人びとは、広範な小ブルジョア大衆につながっているので、三分の一を占めさせるようにしなければならない。われわれがそうすることは、小ブルジョア階級をたたかいとるのにきわめて大きな影響をもつであろう。
 (七)中間派に三分の一の椅子《いす》をあたえる目的は、中層ブルジョア階級と開明紳士をたたかいとることにある。これらの階層をたたかいとることは、頑迷派を孤立させる重要な段どりである。われわれはいま、これらの階層の力をどうしても考えにいれておかなければならず、かれらを慎重に取り扱わなければならない。
 (八)共産党以外の人びとにたいしては、かれらが政党に関係があろうとなかろうと、どの政党に属していようと、抗目的で、しかも、共産党との協力をのぞむものでさえあれば、われわれは協力的態度でかれらを取り扱わなければならない。
 (九)上にのべた人員の配分は、党のいつわりのない政策であり、いいかげんにことをすませてはならない。この政策を実行するためには、政権の仕事を担当する党員にたいして、党外の人びととの協力をきらったり、それになじまなかったりする心のせまさを克服するように教育し、また、ことあるごとにまず党外の人びとと相談し、多数の同意をえたうえで仕事にかかるという民主的な作風を提唱するように教育しなければならない。同時に、党外の人びとがいろいろな問題について意見をだすように極力はげまし、また、その人たちの意見に耳をかたむけなければならない。われわれは軍隊をもち政権をにぎっているのだから、すべてが無条件にわれわれの決定どおりにおこなわれなければならないと考え、そのため、党外の人びとがこちらの意見をいれ、心からよろこんで実行するようにその人たちを説得する努力をおこたる、というようなことがけっしてあってはならない。
 (十)上にのべた人員の配分は大体の規定であって、各地では機械的に頭かずをそろえるのではなく、その地方の実際の状況に応じてこれを実施すべきである。末端の政権の構成については、地主、豪紳が政権機関にもぐりこむのをふせぐため、事情に応じて融通性をもたせてよい。はやくから政権の樹立されている山西・察哈爾《チャーハール》・河北辺区、河北省中部地区、太行山《タイハンシャン》地区ならびに河北省南部地区では、この原則にしたがって、自己の方針を再検討すべきである。新しい政権を樹立するさいには、すべてこの原則にしたがうものとする。
 (十一)抗日統一戦線の選挙にかんする政策は、満十八歳以上で抗日と民主に賛成する中国人が、階級、民族、性別、信仰、政党、教育のいかんを問わず、すべて選挙権と被選挙権をもっというものでなければならない。抗日統一戦線の政権は、人民の選挙によってうみだされるべきである。その組織形態は、民主集中制でなくてはならない。
 (十二)抗日統一戦線政権の施政方針は、日本帝国主義とたたかい、抗日の人民をまもり、抗日の諸階層の利益を調整し、労働者、農民の生活を改善し、民族裏切り者、反動派を弾圧することを基本的な出発点とすべきである。
 (十三)われわれの政権に参加する党外の人びとに、共産党員とおなじような生活習慣や言論、行動を要求してはならない。それを要求すれば、かれらに不満と不安を感じさせるであろう。
 (十四)各中央局、各中央分局、各区党委員会および各部隊の指導者は、この指示が政権の仕事のなかで十分貫徹されるよう、党内で明確に説明されたい。


訳注
① 中央委員会は、各地の党活動の指導をつよめるために必要なばあい、数省を指導する中央局または中央分局を設ける。これらはすべて党中央の代表機関である。ふつう、分局の指導する地区は中央局の指導する地区より小さい。
② 区党委員会は、革命根拠地に設けられた党委員会である。それは一つの地区の党委員会であって、その地区とは一つの省の一部分、あるいはいくつかの省のそれぞれの一部分を包括する。区党委員会は、中央局あるいは中央分局の下、地方委員会の上の級の指導機関で、省委員会に相当する。

maobadi 2010-12-17 12:18
当面の抗日統一戦線における戦術の問題
          (一九四〇年三月十一日)
     これは、毛沢東同志が延安における党の高級幹部会議でおこなった報告の要綱である。

 (一)当面の政治情勢はつぎのとおりである。(1)日本帝国主義は、中国の抗日戦争によって重大な打撃をうけ、もうこれ以上、大規模な軍事的進攻をおこなう力がない。したがって、敵味方の形勢はすでに戦略的対峙の段階にある。だが、敵は依然として中国を滅ぼす基本政策をとりつづけており、抗日統一戦線の破壊、敵後方での「掃討」の強化、経済侵略の強化などの方法によって、この政策をおしすすめている。(2)東方におけるイギリス、フランスの地位はヨーロッパの戦争によってよわまり、アメリカはひきつづき「山上に坐して、相うつ虎の倒るるを待つ」という政策をとっている。このため東方のミュンヘン会議はとうぶん開かれるみこみがない。(3)ソ連の対外政策はあらたな勝利をおさめ、中国の抗戦にたいしてこれまでどおり積極的援助の政策をとっている。(4)親日派の大ブルジョア階級は、はやくから完全に日本に投降し、かいらいとして登場する準備をしている。欧米派の大ブルジョア階級は、まだ抗日をつづけることができるが、その妥協的傾向は依然としてひどく存在している。かれらは二面政策をとり、一面では、ひきつづき国民党以外の各派の勢力を結集して日本にあたろうとしているが、他面では、各派の勢力を破壊することに懸命になり、とりわけ共産党と進歩勢力を破壊することに全力をあげている。かれらは抗日統一戦線のなかの頑迷《がんめい》派である。(5)中層ブルジョア階級、開明紳士、地方実力派をふくむ中間勢力は、大地主、大ブルジョア階級という主要な支配勢力とのあいだに矛盾があるし、同時に労農階級とのあいだにも矛盾があるので、とかく進歩勢力と頑迷勢力とのあいだの中間的な立場にたつ。かれらは抗日統一戦線のなかの中間派である。(6)共産党の指導下にあるプロレタリア階級、農民、都市小ブルジョア階級という進歩勢力は、最近大きな発展をとげ、抗日民主政権の根拠地を基本的にきずいた。かれらは、全国の労働者、農民、都市小ブルジョア階級のあいだで非常に影響が大きく、中間勢力のあいだでもかなり影響をもっている。抗日の戦場で共産党がむかえうっている日本侵略者の兵力は、国民党がむかえうっているそれと、ほとんどおなじくらいである。かれらは抗日統一戦線のなかの進歩派である。
 以上が当面の中国の政治情勢である。このような情勢のもとでは、時局の好転をたたかいとり、時局の逆転を克服する可能性がやはり存在しており、二月一日の党中央の決定はまったく正しい。
 (二)抗日戦争の勝利の基本的条件は、抗日統一戦線の拡大と強化である。そしてこの目的をたっするには、進歩勢力を発展させ、中間勢力を獲得し、頑迷勢力に反対するという戦術をとらなければならない。これはきりはなすことのできない三つの環であって、闘争をすべての抗日勢力の団結達成の手段とするのである。抗日統一戦線の時期には、闘争は団結の手段であり、団結は闘争の目的である。闘争によって団結をもとめれば団結はたもたれ、譲歩によって団結をもとめれば団結はうしなわれるというこの真理は、党内の同志たちにしだいに理解されるようになってきた。だが、理解していないものもまだたくさんいて、かれらのなかには、闘争は統一戦線を分裂させると考えたり、闘争は無制限にやってもかまわないと考えるものもおり、中間勢力にたいして正しくない戦術をとったり、頑迷勢力にたいしてあやまった見方をするものもいる。これらはすべて是正しなければならない。
 (三)進歩勢力を発展させるとは、プロレタリア階級、農民階級、都市小ブルジョア階級の勢力を発展させることであり、八路軍、新四軍をおもいきって拡大することであり、抗日民主根拠地を広範に樹立することであり、共産党の組織を全国に拡大することであり、全国の労働者、農民、青年、婦人、児童などの民衆運動を発展させることであり、全国の知識人を獲得することであり、民主主義をかちとる憲政運動を広範な人民のあいだにひろげていくことである。時局の逆転をくいとめ、投降と分裂をくいとめて、抗日の勝利のために確固不動の基礎をうちたてるには、進歩勢力を一歩一歩発展させる以外にない。だが、進歩勢力を発展させるのはきびしい闘争の過程であって、日本帝国主義や民族裏切り者と苛烈《かれつ》な闘争をおこなわなければならないだけでなく、頑迷派とも苛烈な闘争をおこなわなければならない。なぜなら、進歩勢力を発展させることにたいしては、頑迷派が反対し、中間派が疑惑をもっているからである。頑迷派と断固たたかわす、また確実な成果をおさめないなら、頑迷派の圧迫に抵抗することはできず、中間派の疑惑をとくこともできず、進歩勢力は発展のしようがない。
 (四)中間勢力を獲得するとは、中層ブルジョア階級を獲得し、開明紳士を獲得し、地方実力派を獲得することである。これらは三つの異なった部分の人びとであるが、みな当面の時局における中間派である。中層ブルジョア階級とは、買弁階級すなわち大ブルジョア階級をのぞいた民族ブルジョア階級のことである。かれらは、労働者とのあいだに階級矛盾があり、労働者階級が独立性をもつことには賛成しないが、被占領区では日本帝国主義に抑圧されており、国民党の支配下では大地主、大ブルジョア階級に制約されているので、やはり抗日をしようとしており、また自分の政治権力を獲得しようとしている。抗日の問題では、かれらは、団結して抗戦することに賛成している。政治権力獲得の問題では、かれらは、憲政運動に賛成するとともに、その目的達成のために、進歩派と頑迷派との矛盾を利用しようとしている。この階層はわれわれが獲得しなければならない。開明紳士は、地主階級の左翼、つまりブルジョア的色彩をおぴた一部の地主であって、かれらの政治的態度は中層ブルジョア階級とほぼおなじである。かれらは、農民とのあいだに階級矛盾があるが、大地主、大ブルジョア階級とのあいだにも矛盾がある。かれらは頑迷派に賛成しておらず、やはりその政治上の目的達成のために、われわれと頑迷派との矛盾を利用しようとしている。われわれは、この部分の人びとをもけっして無視してはならず、かれらを獲得する政策をとらなければならない。地方実力派には、地盤をもつ実力派と地盤のない雑軍との二つの勢力がふくまれる。かれらは、進歩勢力とのあいだに矛盾があるが、現在の国民党中央政府の、人をそこない、自己の利をはかる政策とのあいだにも矛盾があり、またその政治上の目的達成のために、われわれと頑迷派との矛盾を利用しようとしている。地方実力派の指導層も、多くが大地主、大ブルジョア階級に属しているので、抗日戦争のなかでときには進歩的な態度をしめすこともあるが、しばらくするとやはり反動的になる。だが、またかれらは国民党の中央勢力とのあいだにも矛盾があるので、われわれが正しい政策をとりさえすれば、われわれと頑迷派との闘争にさいして、かれらは中立的態度をとることが可能である。以上にのべた三つの中間勢力にたいするわれわれの政策は、かれらを獲得することである。だがこうした獲得政策には、農民や都市小ブルジョア階級を獲得することとちがいがあるばかりでなく、それぞれの中間勢力にたいしてもちがいがある。農民と都市小ブルジョア階級は基本的同盟者として獲得するが、中間勢力は反帝国主義の同盟者として獲得するのである。中間勢力のうち、中層ブルジョア階級と開明紳士は、われわれと共同して抗日することができるし、いっしょに抗日民主政権をうちたてることもできるが、かれらは土地革命をおそれる。頑迷派との闘争では、そのうちの一部のものは一定の限度内でこれに参加しうるし、一部のものは善意の中立をたもち、一部のものは不本意ながらも中立をしめすことができる。地方実力派は、共同して抗日することをのぞけば、頑迷派との闘争のさいに、せいぜい一時的な中立の立場がとれるだけであって、かれらも大地主、大ブルジョア階級であるから、われわれといっしょに民主政権をうちたてることはのぞまない。中間派の態度は動揺しやすく、しかも不可避的に分化する。われわれは、かれらのこの動揺的な態度にたいしては適当な説得と批判をおこなわなければならない。
 中間勢力を獲得することは、抗日統一戦線の時期におけるわれわれのきわめて重大な任務であるが、この任務をなしとげるには一定の条件がなければならない。その条件とは、(1)われわれが十分な力をもつこと、(2)かれらの利益を尊重すること、(3)われわれが頑迷派と断固たたかい、しかも一歩一歩勝利をかちとることである。これらの条件がなければ、中間勢力は動揺するし、われわれを攻撃する頑迷派の同盟軍にまでなってしまう。なぜなら、頑迷派もわれわれを孤立させるため中間派の獲得に懸命になっているからである。中国ではこうした中間勢力が大きな力をもっており、われわれが頑迷派と闘争するさいに、しばしば勝敗を決する要素となりうるので、かれらにたいしては十分慎重な態度をとらなければならない。
 (五)頑迷勢力とは、現在、大地主、大ブルジョア階級の勢力のことである。これらの階級は、いま投降派と抗日派にわかれているが、今後もしだいに分化していくであろう。現在の大ブルジョア階級の抗日派は、投降派とちがいがある。かれらは二面政策をとり、一面では、まだ団結して抗日することを主張しているが、他面ではまた、将来の投降を準備する段どりとして、進歩勢力を破壊する極端な反動政策をとっている。かれらがまだ団結して抗日することをのぞんでいるので、われわれもかれらを抗日統一戦線のなかにとどめておくよう獲得しうるし、その期間は長ければ長いほどよい。こうした獲得政策を無視し、かれらと協力する政策を無視して、かれらはすでに事実上の投降派であり、すぐにも反共戦争をやろうとしていろ、とみなす見解はあやまりである。しかしまた、かれらは、全国いたるところで進歩勢力を破壊する反動政策をとっているので、革命の三民主義というこの共同綱領を実行しないばかりか、われわれがこの綱領を実行することに強く反対しているので、またかれらのゆるす範囲をわれわれがこえることに強く反対し、いいかえれば、われわれにもかれらとおなじように消極的な抗戦しかやらせないので、しかもわれわれをかれらに同化させるか、でなければ、われわれに思想上、政治上、軍事上の圧迫をくわえようとしているので、われわれもまた、かれらのこうした反動政策に反対する闘争戦術をとり、断固としてかれらと思想上、政治上、軍事上の闘争をおこなわなければならない。これが、頑迷派の二面政策に対処するわれわれの革命的二面政策であり、闘争によって団結をもとめる政策である。もしわれわれが思想の面で正しい革命理論を提起し、かれらの反革命理論に断固とした打撃をあたえることができるならば、もしわれわれが政治の面で時宜に適した戦術的段どりをとり、かれらの反共、反進歩の政策に断固とした打撃をあたえるならば、もしわれわれが適切な軍事的段どりをとり、かれらの軍事的進攻に断固とした打撃をあたえるならば、かれらの反動政策実行の範囲を制限することができ、かれらに進歩勢力の地位を認めざるをえなくさせることができ、また進歩勢力を発展させ、中間勢力を獲得して、かれらを孤立させることができるようになる。同時に、まだ抗日をのぞんでいる頑迷派を抗日統」戦線のなかにとどめておく期間をひきのばすことができ、過去におこなわれたような大きな内戦をさけることもできるようになる。したがって抗日統一戦線の時期における頑迷派との闘争は、たんに、かれらの攻撃をふせいで進歩勢力に損失をこうむらせないようにし、進歩勢力をひきつづき発展させるためだけでなく、同時にまた、かれらの抗日の期間をひきのばし、われわれとかれらとの協力関係をたもち、大きな内戦のおこるのをさげるためでもある。闘争がなければ、進歩勢力は頑迷勢力に滅ぼされ、統一戦線は存在できなくなり、頑迷派の敵への投降をはばむ力はなくなり、内戦もおこることになる。したがって頑迷派との闘争は、すべての抗日勢力の結集、時局好転の実現、大規模な内戦の回避にとって、欠くことのできない手段である。この真理はすでにすべての経験によって立証されている。
 だが、抗日統一戦線の時期に頑迷派と闘争するには、つぎのいくつかの原則に注意しなければならない。第一は自衛の原則である。相手が侵してこなければこちらも侵さないが、相手が侵してくればこちらもかならず侵す。つまり、けっして理由もなく人を攻撃してはならないが、人から攻撃されたときはどうしても反撃しなければならないということである。これが闘争の防御性である。頑迷派の軍事的進攻にたいしては、それを断固として、徹底的に、きれいに、全部消滅しなければならない。第二は勝利の原則である。たたかわなければともかく、たたかう以上はかならず勝たなければならない。計画もなく、準備もなく、勝算もないたたかいをけっしてやってはならない。頑迷派の矛盾を利用することを心得ておくべきであって、けっして多くの頑迷派に同時に打撃をくわえるようなことをしてはならず、そのうちのもっとも反動的なものをえらんで、まずこれに打撃をあたえなければならない。これが闘争の局部性である。第三は休戦の原則である。ある時期に頑迷派の攻撃を撃退したのち、かれらがあらたな攻撃をくわえてくるまでに、われわれはこの闘争に一段落をつけるようたたかいを適当なところでとどめなければならない。それにつづく時期に双方が休戦する。このときわれわれは主動的に頑迷派と団結をはかり、相手方の同意をえてかれらと和平協定をむすぶべきである。けっしてのべつ幕無しにたたかいつづけてはならないし、けっして勝利にのぼせあがってはならない。これが一つ一つの闘争の一時性である。われわれは、かれらがあらたな攻撃をおこなったときにはじめて、あらたな闘争をもってこれに対処する。この三つの原則は、ことばをかえていえば、「道理があり」、「有利であり」、「節度がある」ということである。道理があり、有利であり、節度があるこうした闘争を堅持すれば、進歩勢力を発展させ、中間勢力を獲得し、一頑迷派を孤立させることができ、また頑迷派に今後軽々しくわれわれを攻撃したり、敵と妥協したり、大きな内戦をおこしたりしえないようにさせることができる。このようにすれば時局の好転をたたかいとろくとができるようになる。
 (六)国民党は複雑な構成要素をもつ党であり、そのなかには、頑迷派もおれば、中間派もおり、進歩派もいて、国民党全体が頑迷派だというわけではない。国民党中央が「異党活動制限措置法」などの反革命的摩擦の法令を公布するとともに、かれらのあらゆる力を動員して全国いたるところで思想上、政治上、軍事上の反革命的摩擦をひきおこしているので、一部の人びとは国民党全体が頑迷派であるかのように考えている。こうした見方はあやまりである。現在の国民党では、頑迷派がまだ同党の政策を左右する地位をしめているが、数のうえでは少数にすぎず、大多数の党員(その多くは名ばかりの党員である)は、かならずしも頑迷派ではない。この点をはっきり認識しておかなければ、かれらの矛盾を利用し、それぞれを区別してあつかう政策をとり、大きな力をそそいで国民党内の中間派と進歩派を結集することはできない。
 (七)抗日根拠地内の政権樹立の問題では、この政権が抗日民族統一戦線の政権であることをはっきり規定しなければならない。国民党の支配地域にはまだこうした政権はない。こうした政権は、抗日にも賛成し、民主主義にも賛成するすべての人びとの政権であり、いくつかの革命的階級が連合して、民族裏切り者と反動派にたいしておこなう民主主義独裁である。それは、地主・ブルジョア階級の独裁とはちがうし、厳格な労農民主主義独裁ともいくらかちがいがある。政権の人員配分では、プロレタリア階級と貧農を代表する共産党員が三分の一をしめ、小ブルジョア階級を代表する左派の進歩的な人びとが三分の一をしめ、中層ブルジョア階級と開明紳士を代表する中間的な人びととその他の人びとが三分の一をしめるべきである。こうした政権に参加する資格がないのは、民族裏切り者と反共分子だけである。このような人数をだいたい規定しておくことは必要である。そうしなければ、抗日民族統一戦線政権の原則を保障することはできない。こうした人員配分の政策はわが党のいつわりのない政策であり、まじめに実行すべきであって、お座なりにことをすませてはならない。これはだいたいの規定であって、機械的に頭かずをそろえるのではなく、具体的な状況に応じて適切に実施すべきである。末端の政権では、、豪紳、地主に政権をにぎられないよう、この規定をある程度変更する必要がおこりうるが、その基本精神にそむいてはならない。抗日統一戦線政権では、共産党員以外の人びとにたいして、政党関係の有無、および所属政党のいかんを問題にしてはならない。抗日統一戦線政権の支配している地域では、国民党であれ、別の党であれ、共産党に反対せず、共産党と協力する政党でさえあれば、合法的に存在する権利をあたえるべきである。抗日統一戦線政権の選挙にかんする政策は、満十八歳以上で、抗日と民主に賛成する中国人には.階級、民族、政党、性別、信仰、教育のいかんをとわず、みな選挙権と被選挙権をあたえるものでなければならない。抗日統一戦線政権の成立は、人民の選挙によらなければならず、そのあとで国民政府にその委任方を申請するのである。その組織形態は民主集中制でなければならない。抗日統一戦線政権の施政方針は、日本帝国主義とたたかい、ほんとうの民族裏切り者や反動派とたたかい、抗日の人民をまもり、抗日の諸階層の利益を調整し、労働者、農民の生活を改善することを基本的な出発点とすべきである。こうした抗日統一戦線政権の樹立は、全国に大きな影響をあたえ、全国的な抗日統一戦線政権の雛《ひな》型となるであろう。したがって全党の同志はこれをふかく理解するとともに、断固として実行すべきである。
 (八)進歩勢力を発展させ、中間勢力を獲得し、頑迷勢力を孤立させる闘争では、知識人のはたす役割は無視できないものであり、頑迷派もまた知識人の獲得に懸命になっている。したがってすべての進歩的な知識人をわが党の影響下に獲得することは、必要で重要な政策である。
 (九)宣伝の問題では、つぎの綱領を把握《はあく》すべきである。(1)「総理遺言」を実行して、民衆をよびさまし、一致して抗日する。(2)民族主義を実行して、断固日本帝国主義とたたかい、対外的には中華民族の徹底的な解放をはかり、対内的には国内諸民族の平等をはかる。(3)民権主義を実行して、人民に抗日救国の絶対的自由をあたえ、各級政府を人民が選出し、抗日民族統一戦線の革命的民主主義政権を樹立する。(4)民生主義を実行して、苛酷で雑多な税金を廃止し、小作料と利子を引き下げ、八時間労働制を実施し、農工商業を発展させ、人民の生活を改善する。(5)蒋介石《チァンチェシー》の「土地に南北の別なく、人に老若の別なく、なにびともみな国土をまもって抗戦する責務をもつ」という宣言を実行する。これらはみな、国民党自身が公表した綱領であり、国共両党の共同綱領でもある。だが、抗日という点をのぞいては、現在の自民党はどれ一つ実行することができず、それを実行できるのは共産党と進歩派だけである。これらはすでに人民のあいだに普及しているもっとも簡単な綱領であるが、多くの共産党員はまだ、民衆を動員し頑迷派を孤立させる武器としてそれを利用することを知らない。今後はいつでもこの五ヵ条の綱領を把握して、布告、宣言、ビラ、論文、演説、談話などのかたちでこれをひろめていくべきである。これは国民党の地域ではまだ宣伝の綱領であるが、八路軍、新四軍のいるところでは行動の綱領になっている。これらの綱領にもとづいて活動すればわれわれは合法的であり、われわれのこの綱領の実行に頑迷派が反対するならかれらこそ違法である。ブルジョア民主主義革命の段階では、国民党のこれらの綱領はわれわれの綱領と基本的にはおなじである。だが、国民党の思想体系は共産党の思想体系とまったくちがう。われわれが実行しなければならないのは、この民主主義革命の共同綱領だけであって、けっして国民党の思想体系ではない。


訳注
① 本巻の『投降の策動に反対せよ』注〔2〕、注〔3〕にみられる。
② 開明紳士とは、地主、富農階級のなかで民主的色彩をおびた、ごく一部の人びとのことである。これらの人びとは、官僚資本主義、帝国主義とのあいだに矛盾があったし、封建的な地主、富農とのあいだにもある種の矛盾があった。詳細は、本文の(四)および本選集第四巻の『民族ブルジョア階級と開明紳士の問題について』にみられる。

maobadi 2010-12-17 13:02
おもいきって抗日勢力を発展させ、反共頑迷派の進攻に抵抗せよ
          (一九四○年五月四日)
 これは、毛沢東同志が中国共産党中央のために書いた東南局への指示である。毛沢東同志が党中央のためにこの指示を書いた時期には、中国共産党中央委員で中国共産党中央委員会東南局書記であった項英同志の思想のなかには、重大な右翼的観点があった。項英同志は、党中央の方針を断固として実行することをしなかった。かれは大衆をおもいきって立ちあがらせることができず、日本占領地区内で解放区と人民の軍隊を大胆に拡大することができず、国民党の反動的進攻の重大性を十分に認識しなかったため、その反動的進攻にたいする精神面、組織面での準備に欠けていた。党中央のこの指示がとどくと、中国共産党中央東南局委員で新四軍第一支隊①長であった陳毅同志は、ただちにこれを実行したが、項英同志は依然としてこれを実行しようとしなかった。かれは、予想される国民党の反動的進攻にたいして、依然として準備をおこなわなかったため、一九四一年一月、蒋介石が安徽省南部事変をおこしたときには、手も足もでない状態におちいり、安徽省南部にあった軍隊九千人に壊滅的な損害をこうむらせた。そして頃英同志も反動分子に殺されてしまった。

 (一)敵の後方地区と戦争地域では、すべて、特殊性を強調すべきではなくて、同一性を強調すべきである。さもなければ、非常に大きなあやまりをおかすことになる。華北、華中、華南をとわず、長江以北、長江《チャンチァン》以南をとわず、平原地区、山岳地区、湖沼地区をとわず、また八路軍、新四軍、華南遊撃隊〔1〕をとわず、それぞれ特殊性をもってはいるが、いずれも、敵をもち、抗戦しているという同一性をもっている。したがって、われわれはみな発展することができるし、みな発展しなければならない。こうした発展の方針を、党中央はいくどとなく諸君にしめしてきた。発展とは、国民党の制限をうけず、国民党のゆるしうる範囲をこえ、他人からの任命をまたず、上級からの軍費支給にたよらず、独立自主的に、おもいきって軍隊を拡大し、断固として根拠地をつくり、その根拠地で独立自主的に大衆を立ちあがらせ、共産党の指導する抗日統一戦線の政権を樹立し、こうして敵のすべての占領地域に発展していくことである。たとえば江蘇《チァンスー》省内では、顧祝同《クーチュートン》、冷欣《ロンシン》、韓徳勤《ハントーチン》〔2〕らの反共分子の批判、制限、圧迫を問題にせず、西は南京《ナンチン》から、東は海岸、南は杭州《ハンチョウ》、北は徐州《シュイチョウ》までのあいだで、支配できるあらゆる地域をできるだけはやく、段どりをおって計画的にわれわれの手中におさめるとともに、独立自主的に、軍隊を拡大し、政権を樹立し、財政機関をもうけて抗日のための税金を徴収し、経済機関をもうけて農業、工業、商業を発展させ、各種の学校をつくっておおぜいの幹部を養成すべきである。党中央は、さきに諸君にたいし、江蘇、淅江《チョーチァン》両省の敵の後方地区で、今年じゅうに抗日武装組織を十万の兵力と銃をもっところまで拡大し、すみやかに政権を樹立することなどを要求したが、諸君はどのように具体的に手配しただろうか。これまでにもすでに時機をうしなったが、今年も時機をうしなうなら、将来はいっそう困難になる。
 (二)国民党の反共頑迷《がんめい》派が防共、限共、反共の政策をあくまで実行し、それによって日本への投降を準備しているとき、われわれは統一を強調すべきではなくて、闘争を強調すべきである。さもなければ、非常に大きなあやまりをおかすことになる。したがって、反共頑迷派の防共、限共、反共のためのすべての法律、命令、宣伝、批判にたいしては、理論面、政治面、軍事面のものをとわず、原則的にはいずれも断固反抗すべきであり、断固闘争する態度をとるべきである。こうした闘争は、道理があり、有利であり、節度があるという原則から出発すべきである。それは、つまり自衛の原則、勝利の原則、休戦の原則のことであり、当面の一つ一つの具体的な闘争における防御性、局部性、一時性のことでもある。反共頑迷派のすべての反動的な法律、命令、宣伝、批判にたいしては、われわれはこれとまっこうから対決する措置を提起して、かれらと断固闘争すべきである。たとえば、かれらが第四、第五支隊〔3〕の南下を要求すれば、われわれはどうしても南下できないという態度でこれに対処する。かれらが葉飛《イエフェイ》、張雲逸《チャンユィンイー》両部隊〔4〕の南下を要求すれば、われわれは一部の部隊の北上申請でこれに対処する。かれらがわれわれを兵役制度を破壊するものといえば、われわれはかれらに新四軍の募兵地域を拡大するよう申しこむ。かれらがわれわれの宣伝をまちがっているといえば、われわれはかれらにすべての反共宣伝をやめ、摩擦をおこすすべての法令を撤廃するよう申しこむ。また、かれらがわれわれに軍事的進攻をくわえてくれば、われわれは軍事的反攻によってそれをうちやぶる。このようなまっこうから対決する政策をとるについては、われわれに道理がある。すべて道理のあることは、わが党中央が提起しなければならないだけでなく、わが軍のいかなる部隊もみな提起しなければならない。たとえば、張雲逸が李品仙《リーピンシェン》にたいし、李先念《リーシェンニェン》が李宗仁《リーフォンレン》にたいし〔5〕、いずれも下級から上級に強硬な抗議をおこなったのはそのよい例である。頑迷派にたいしてこうした強硬な態度をとるとともに、闘争のさい、道理があり、有利であり、節度があるという方針をとることによってのみ、頑迷派におそれをいだかせてわれわれを圧迫できないようにさせ、頑迷派の防共、限共、反共の範囲をせばめ、頑迷派にわれわれの合法的地位を認めざるをえなくさせ、また頑迷派に軽々しく分裂をひきおこさせないようにすることができる。したがって、闘争は投降の危険にうちかち、時局の好転をたたかいとり、国共合作をつよめるもっとも主要な方法である。わが党とわが軍の内部で、元気をふるいたたせ、士気をたかめ、幹部を結集し、力を拡大し、軍隊を強化し、党を強化するには、頑迷派にたいする闘争を堅持する以外にない。中間派との関係でも、動揺している中間派を獲得し、共鳴している中間派を支持するには、頑迷派にたいする闘争を堅持する以外になく、さもなければ、すべてが不可能である。予想される全国的な突発事変に対処する問題でも、全党と全軍に精神の面で準備をさせ、活動の面で手配をさせるには、闘争の方針をとる以外にない。さもなければ、また一九二七年のあやまり〔6〕をおかすことになる。
 (三)当面の時局を評価するばあい、一方では投降の危険が大いにつよまっているが、他方ではこの危険を克服する可能性がまだうしなわれていないことを知っていなければならない。当面の軍事的衝突は、局部的なものであって、まだ全国的なものではない。それは、向こう側の戦略的な偵察《ていさつ》行動であって、まだ、いますぐ大がかりな「共産党討伐」をおこすという行動ではなく、向こう側の投降準備の段どりであって、まだ、いますぐ投降するという段どりではない。われわれの任務は、「進歩勢力を発展させ」、「中間勢力を獲得し」、「頑迷勢力を孤立させる」という三項目にわたる党中央の唯一の正しい方針をねばりづよく強力に実行し、これによって、投降の危険を克服し、時局の好転をたたかいとる目的をたっすることである。時局の評価と任務の提起について、左より、または右よりの意見があらわれたばあい、それを指摘し克服しなければ、やはりひじょうに大きな危険である。
 (四)韓徳勤、李宗仁の安徽《アンホイ》省東部への進攻と戦った第四、第五支隊の自衛戦争、頑迷派の湖北《フーペイ》省中部、湖北省東部への進攻と戦った李先念縦隊の自衛戦争、淮河《ホワイホー》以北地区における彭雪楓《ポンシュエフォン》支隊の断固たる闘争、長江以北における葉飛部隊の発展、そして淮河以北地区、安徽省東部、江蘇省北部への八路軍二万余人の南下〔7〕などは、みな絶対に必要な、絶対に正しいものであるばかりでなく、安徽省南部、江蘇省南部で、顧祝同が軽々しく諸君を進攻できないようにするための必要な段どりでもある。つまり、われわれが長江以北で勝利し、発展すればするほど、顧視同は長江以南でますます軽々しくは動けなくなるのであり、諸君は安徽省南部、江蘇省南部でますます腕をふるえるのである。同様に、八路軍、新四軍および華南遊撃隊が西北、華北、華中へ華南で発展すればするほど、また共産党が全国的な範囲で発展すればするほど、投降の危険を克服し時局の好転をたたかいとる可能性はますます増大し、わが党は全国でますます腕をふるうことができるのである。もし、反対の評価と戦術をとって、われわれが発展すればするほどかれらがますます投降し、われわれが譲歩すればするほどかれらがますます抗日すると考えたり、いまはすでに全国的分裂の時期であるから国共合作はもはや不可能であると考えたりするなら、それこそあやまりである。
 (五)抗日戦争のあいだ、われわれの全国的な方針は、抗日民族統一戦線である。敵の後方につくる民主的な抗日根拠地も、抗日民族統一戦線的なものである。諸君は政権の問題についての党中央の決定を断固として実行しなければならない。
 (六)国民党の支配地域での方針は、戦争地域および敵の後方地域とはちがう。そこでは、隠蔽《いんぺい》と精鋭化をはかり、長期にわたってひそみ、力をたくわえ、時機を待つのであって、あせったり、自己を暴露したりすることに反対しなければならない。そこでの頑迷派との闘争の戦術は、道理があり、有利であり、節度があるという原則のもとで、国民党の法律、命令および社会慣習のゆるす範囲の利用できるすべてのものを利用し、着実に闘争をすすめ、力をたくわえることである。党員が国民党から入党を強要されたばあいには、これに加入する。地方の保甲団体、教育団体、経済団体、軍事団体には、広範にはいりこんでいくべきである。中央軍や雑軍〔8〕のなかでは、統一戦線の活動、すなわち友だちづきあいの活動を広範に展開すべきである。すべての国民見地域における党の基本方針は、同様に、進歩勢力を発展させ(党の組織と民衆運動を発展させる)、中間勢力(民族ブルジョア階級、開明紳士、雑軍、国民党内の中間派〔9〕、中央軍内の中間派〔10〕、小ブルジョア階級の上層、さまざまな小政党、あわせて七種のもの)を獲得し、頑迷勢力を孤立させ、それによって、投降の危険を克服し、時局の好転をたたかいとることである。同時に、予想されるいかなる地方的、全国的な突発事変にも対処できるよう、十分準備をすることである。国民党地域では、党の機関を極度に秘密にすべきである。東南局〔11〕ならびに各省委員会、各特別委員会、各県委員会、各区委員会の機関要員(書記から炊事員にいたるまで)にたいしては、一人ひとり、厳格で綿密な審査をおこなうべきであり、すこしでも疑わしいものは絶対に各級の指導機関にのこしてはならない。幹部を保護することに十分注意をはらい、公然化、またはなかば公然化した幹部で国民党から逮捕、殺害される危険のあるものは、他の地区へうつして隠蔽するか、軍隊に転任させるべきである。日本占領地区(上海《シャンハイ》、南京、蕪湖《ウーフー》、無錫《ウーシー》などのような大都市、中小都市、および農村)での方針は、国民党地域と基本的におなじである。
 (七)以上の戦術についての指示は、今回の党中央委員会政治局会議で決定したものである。東南局ならびに中国共産党中央革命軍事委員会分会の諸同志はこれを討議し、党と軍のすべての幹部に伝達するとともに、断固としてこれを実行してもらいたい。
 (八)この指示は、安徽省南部では項英《シァンイン》同志が伝達し、江蘇省南部では陳毅《チェニー》同志が伝達すること。また、電報をうけとってから一ヵ月以内に討議し、伝達を終わること。全地区の党と軍の仕事の手配については、項英同志が党中央の方針にしたがって統一的に処理し、その結果を党中央に報告すること。



〔1〕 華南遊撃隊は、中国共産党が指導していた中国南部のいくつかの抗日遊撃隊の総統である。
〔2〕 顧祝同、冷欣、韓徳勤は、当時、国民党政府が江蘇省、淅江省、安徽省南部、江西省などに派遣していた反動的な将領である。
〔3〕 第四、第五支隊とは、新四軍の第四、第五両支隊のことで、当時、江蘇省、安徽省の淮河地区に抗日根拠地をつくっていた。
〔4〕 葉飛、張雲逸両部隊とは、葉飛、張雲逸両同志が率いていた新四軍の一部である。当時、かれらは、長江以北の江蘇省中部と安徽省東部地区で抗日遊撃戦争をくりひろげ、抗日根拠地をつくった。
〔5〕 一九四〇年の三、四月に、国民党の安徽省政府主席李品仙、第五戦区司令長官李宗仁(ともに広西派の軍閥)は、安徽省、湖北省にいた新四軍にむかって大規模な攻撃をおこした。当時、新四軍長江以北の指揮員張雲逸同志と湖北・河南挺進縦隊の司令員李先念同志は、抗日を破壊するかれらの犯罪行為に強く抗議するとともに、かれらの攻撃に抵抗した。
〔6〕 陳独秀の右翼日和見主義のあやまりをさす。
〔7〕 一九四○年一月、中国共産党中央は、淮河以北地区、安徽省東部、江蘇省北部での新四軍の抗日闘争を増援するために、華北から八路軍二万余人を南下させた。この部隊は江蘇省北部に到着した。
〔8〕 蒋介石派はかれら自身の直系部隊を「中央軍」とよび、その他の各派の国民党軍を「雑軍」とよんだ。「雑軍」は蒋介石集団から差別され、「中央軍」とはちがった待遇をうけていた。
〔9〕 「国民党内の中間派」とは、国民党内で、ある時期、反共にさほど積極的でなかったり、中立的態度をとったりした各派や一部の人びとをさす。
〔10〕 国民党の「中央軍」は蒋介石の直系部隊であるが、そのなかでも、一部の将校や一、二の部隊は、抗日のあいだ、反共にさほど積極的でなかったり、中立的な態度をとったりした。「中央軍内の中間派」とはこうした人びとをさす。
〔11〕 東南局とは、一九三八年から一九四一年にかけて、中国東南地区での活動を指導した中国共産党中央の代表機関であった。この地区には江蘇、淅江、安徽、江西、湖北、湖南などの省がふくまれていた。
訳注
① 支隊とは、八路軍、新四軍の編制単位の一つである。正規軍にくらべると、比較的融通性があり、時期と地区によって支隊編制の大きさもちがってくる。ここでいう支隊は、正規軍の一コ師団にあたる。
② 保甲団体とは、国民党が地方でファッショ支配をおこなうための末端の権力機構である。詳細は、本選集第三巻の『連合政府について』の[保甲制度」の注にみられる。

maobadi 2010-12-17 13:02
あくまで団結しよう
          (一九四〇年七月)
 抗日戦争の三周年は、ちょうど中国共産党の一九周年にあたる。われわれ共産党員は、きょう抗戦を記念するにあたって、自分の責任をいっそう痛感する。中華民族の興亡については、すべての抗日諸政党に責任があり、全国人民に責任があるが、われわれ共産党員からみれば、われわれにいっそう大きな責任がある。わが党中央はすでに時局についての宣言を発表した。この宣言の中心は、あくまで抗戦し、あくまで団結しようとよびかけたことにある。われわれは、友党、友軍ならびに全国人民がこの宣言に賛同することをのぞむものであるが、すべての共産党員は、とくにこの宣言でしめされた方針をまじめに実行しなければならない。
 すべての共産党員は、あくまで団結するにはあくまで抗戦するほかはなく、あくまで抗戦するにはあくまで団結するほかはないということを知らなければならない。したがって、共産党員は抗戦の模範とならなければならないし、また団結の模範とならなければならない。われわれが反対するのは、敵および徹底した投降分子、反共分子だけであって、その他のすべての人びととはまじめに団結しなければならない。ところが、徹底した投降分子、反共分子なるものは、どこでも少数を占めるにすぎない。わたしは、ある地方政府の構成員をしるべてみたが、そこで仕事をしている千三百人のうち、徹底した反共分子はわずか四十人ないし五十人、つまり四パーセントたらすで、あとはみな団結と抗戦をのぞんでいる。われわれは、徹底した投降分子と反共分子にたいしては、もちろん大目にみるわけにはいかない。大目にみるなら、かれらが抗戦を破壊し、団結を破壊するのをゆるすことになる。したがって、投降派とは断固たたかわなければならず、反共分子の攻撃にたいしては自衛の立場から断固これを撃退しなければならない。もしわれわれがそうしないなら、それは右翼日和見主義であり、団結と抗戦に不利である。だが、投降分子でも反共分子でも、徹底したものでないかぎり、これと団結する政策をとらなければならない。そういうもののうち、一部は二面派であり、一部は強要されたものであり、また一部は一時のあやまりをおかしたものである。これらの人びとにたいしては、ひきつづき団結し抗戦するために、「かれらを獲得するようにしなければなるない。もしわれわれがそうしないなら、それは「左」翼日和見主義であり、やはり団結と抗戦に不利である。すべての共産党員は、われわれが抗日民族統一戦線を提唱した以上この統一戦線を堅持すべきである、ということを知らなければならない。いま、国難が日ましに深まっており、世界の情勢が大きく変わっているとき、中華民族の興亡について、われわれはきわめて大きな責任をになわなければならない。われわれは、かならず日本帝国主義にうち勝たなければならないし、かならず中国を独立・自由・民主の共和国につくりあげなければならない。この目的をはたすには、政党に属していると属していないとにかかわらず全国の最大多数を結集しなければならない。共産党員は他のものと無原則的な統一戦線を結成することはゆるされない。したがって、溶共、限共、防共、制共といったやり方に反対しなければならず、党内の右翼日和見主義に反対しなければならない。だが、同時に、共産党員はすべて党の統一戦線政策を無視することはゆるされない。したがって、すべての共産党員は、抗日の原則のもとで、まだ抗日のやれるすべての人びとを結集しなければならず、党内の「左」翼日和見主義に反対しなければならない。
 このため、政権の問題では、われわれは統一戦線の政権を主張する。われわれは他の政党の一党独裁に賛成するのでもなければ、共産党の一党独裁を主張するのでもなく、各党、各派、各界、各軍の連合独裁を主張するのである。これがつまり統一戦線の政権である。共産党員が敵の後方で敵のかいらい政権を消滅して抗日政権を樹立するときには、政府構成員のなかでも民意代表機関のなかでも、共産党員は三分の一を占めるだけで、三分の二は抗日と民主を主張する他の政党および無党派の人びとに占めさせるという、わが党中央の決定した「三三制」をとるべきである。どんな人でも、投降、反共さえしなければ、すべて、政府の仕事につくことができる。どんな政党でも、投降、反共さえしなければ、抗日政権のもとで存在し活動する権利があたえられるべきである。
 軍隊の問題では、わが党は、宣言のなかで、「一切の友軍のなかに党組織をつくらない」という決定をひきつづき実行すると表明している。一部の地方の党組織はこの決定をまだ厳格に実行していないが、ただちにあらためるべきである。八路軍、新四軍にたいして軍事的摩擦をおこさない軍隊にたいしては、一律に友好的な態度をとるべきである。たとえ摩擦をおこしたことのある一部の軍隊でも、摩擦をやめたばあいには、それとの友好関係を回復すべきである。これが軍隊の問題で統一戦線の政策を実行するということである。
 そのほか、財政、経済、文化、教育、奸徒粛清の各分野の政策においても、すべて、抗日の必要のために、各階級の利益の調整から出発して統一戦線の政策を実行しなければならず、一方では右翼日和見主義に反対し他方では「左」翼日和見主義に反対しなければならない。
 当面の国際情勢についていうと、帝国主義戦争が世界的な範囲に拡大しつつあり、帝国主義戦争のもたらすきわめて重大な政治的危機と経済的危機によって、多くの国ぐにで革命が勃発《ぼっぱつ》するのは必至である。われわれは戦争と革命の新しい時代におかれている。帝国主義戦争のうずにまきこまれていないソ運は、全世界のすべての被抑圧人民と被抑圧民族の援助者である。これらはすべて中国の抗戦にとって有利である。だが、同時に、日本帝国主義はいま東南アジアへの侵略を準備し、中国への進攻を強化しつつあり、いきおい中国の一部の動揺分子を投降にさそいこむであろうから、投降の危険はいままでになく重大化している。抗戦の四年目はもっとも困難な年になるであろう。われわれの任務は、すべての抗日勢力を結集し、投降分子に反対し、あらゆる困難を克服し、全国的な抗戦を堅持するということである。すべての共産党員は、友党、友軍と一致団結して、この任務を達成しなければならない。わが党の全党員が友党、友軍および全人民とともに努力するなら、投降をくいとめ、困難にうちかち、日本侵略者をおいはらい、わが山河をとりもどすという目的は達成できるとわれわれは確信する。抗戦の前途は光明にみちたものである。

maobadi 2010-12-17 13:03
政策について
          (一九四〇年十二月二十五日)
     これは、毛沢東同志が中国共産党中央のために書いた党内指示である。

 反共の高まりという当面の情勢のもとでは、われわれの政策が決定的な意義をもっている。だが、党の当面の時期の政策は、土地革命の時期の政策とは重大な区別がなければならないことを理解していないものが、われわれの幹部のなかにまだ数多くいる。抗日戦争の時期全体をつうじて、いかなる状況のもとでも、わが党の抗日民族統一戦線の政策はけっして変わらないこと、過去十年にわたった土地革命の時期の多くの政策は、現在、安易にとり入れるべきではないことを理解しなければならない。わけても、土地革命の後期に、中国革命が半植民地のブルジョア民主主義革命であり、長期的なものであるという二つの基本的特徴を認識しないことからうまれた多くの極左的な政策は、みなこんにちの抗日の時期にとり入れてはならないばかりでなく、過去においてもあやまりであった。たとえば五回目の「包囲討伐」と五回目の反「包囲討伐」との闘争を、いわゆる革命と反革命の二つの道の決戦であるとする考え、経済面でのブルジョア階級の消滅(極左的な労働政策と徴税政策)と富農の消滅(わるい土地を分配する)、肉体面での地主の消滅(土地を分配しない)、知識人にたいする打撃、反革命粛清における「左」翼的な偏向、共産党員による政権の仕事の完全な独占、共産主義的な国民教育の方針、極左的な軍事政策(大都市の攻撃と遊撃戦争の否定)、白色地区の活動での盲動政策、党内の組織の面での打撃政策などがそれであった。こうした極左的な政策は、第一次大革命の後期における陳独秀《チェントウシウ》の右翼日和見主義とは正反対に、「左」翼日和見主義のあやまりとなってあらわれた。第一次大革命の後期には、すべてのものと連合し、闘争を否定したが、土地革命の後期には、すべてのものと闘争し、連合を否定した(農民の基本層をのぞいて)。これは二つの極端な政策を代表するきわめてあきらかな例証にほかならない。この二つの極端な政策は、いずれも党と革命に非常に大きな損失をこうむらせた。
 現在の抗日民族統一戦線政策は、すべてのものと連合し、闘争を否定することでもなければ、すべてのものと闘争し、連合を否定することでもなく、連合と闘争の両側面を総合した政策である。具体的にいえばつぎのとおりである。
 (一)すべての抗日の人民が連合して(あるいは、すべての抗日の労働者、農民、兵士、知識層、商工業者が連合して)、抗日民族統一戦線を結成する。
 (二)統一戦線のもとでの独立自主の政策である。統一も必要であるし、独立も必要である。
 (三)軍事戦略の面では、統一した戦略のもとでの独立自主の遊撃戦争である。基本的には遊撃戦であるが、有利な条件のもとでの運動戦もゆるがせにしない。
 (四)反共頑迷派と闘争するときには、矛盾を利用し、多数を獲得し、少数に反対し、各個に撃破する。道理があり、有利であり、節度があるようにする。
 (五)敵占領区と国民党支配区での政策としては、できるだけ統一戦線の活動を発展させる一方、隠蔽《いんぺい》と精鋭化をはかる政策をとる。また組織形態と闘争形態のうえでは、隠蔽と精鋭化をはかり、長期にわたってひそみ、力をたくわえ、時機を待つ政策をとるのである。
 (六)国内の各階級の相互関係にたいする基本政策は、進歩勢力を発展させ、中間勢力を獲得し、反共頑迷勢力を孤立させることである。
 (七)反共頑迷派にたいしては、革命的二面政策をとる。すなわち、まだ抗日できる側面にたいしては、連合する政策をとり、あくまで反共をする側面にたいしては、孤立させる政策をとる。抗日の側面で、頑迷派はまた二面性をもっているので、われわれは、そのまだ抗日できる側面にたいしては、連合する政策をとり、その動揺する側面(たとえば、日本侵略者とひそかに結託したり、汪精衛《ワンチンウェイ》や民族裏切り者反対に積極的でない)にたいしては、闘争し、孤立させる政策をとる。頑迷派は、反共の側面でも二面性をもっているので、われわれの政策にも二面性がある。すなわち、かれらが国共合作の根本的な分裂をまだのぞんでいない側面については、連合する政策をとり、かれらがわが党と人民にたいして高圧政策や軍事進攻をおこなう側面については、闘争し、孤立させる政策をとる。こうした二面派分子を民族裏切り者、親日派と区別する。
 (八)民族裏切り者や親日派のなかにも二面分子がいるので、われわれも革命的二面政策でこれに対処すべきである。すなわち、親日的な側面にたいしては、打撃をくわえ、孤立させる政策をとり、一動揺する側面にたいしては、これを籠絶し、獲得する政策をとる。こうした二面分子を、徹底した民族裏切り者、たとえば汪精衛、王揖唐《ワンイータン》〔1〕、石友三《ショーヨウサン》〔2〕などと区別する。
 (九)抗日に反対する親日派の大地主・大ブルジョア階級を、抗日を主張する英米派の大地主・大ブルジョア階級と区別しなければならないし、また抗日を主張しながらも動揺し、団結を主張しながらも反共的である二面派の大地主・大ブルジョア階級を、二面性の比較的すくない民族ブルジョア階級、中小地主、開明紳士と区別しなければならない。われわれの政策はこれらの区別のうえにたてられる。上述のそれぞれ異なった政策は、これらの階級関係の区別からきている。
 (十)帝国主義に対処するばあいも同様である。共産党は、いかなる帝国主義にも反対するものではあるが、中国を侵略している日本帝国主義を、現在侵略をおこなっていない他の帝国主義と区別しなければならない。また、日本と同盟を結び、「満州国」を承認しているドイツ、イタリアの帝国主義を、日本と対立の立場にあるイギリス、アメリカの帝国主義と区別しなければならない。さらに、かつて極東ミュンヘン政策をとって中国の抗日に危害をくわえていたときのイギリス、アメリカを、いまはこの政策を放棄して中国の抗日支持にあらためているイギリス、アメリカと区別しなければならない。われわれの戦術の原則は、やはり、矛盾を利用し、多数を獲得し、少数に反対し、各個に撃破することである。われわれは、外交政策の面で、国民党とは区別がある。国民党は、「敵はただ一つで、そのほかはみな友である」などといっており、表面では日本以外の国をみな平等にみているが、、実際には親英、親米である。われわれは、第一にソ連と資本主義諸国との区別、第二にイギリス、アメリカと、ドイツ、イタリアとの区別、第三にイギリス、アメリ力の人民とイギリス、アメリカの帝国主義政府との区別、第四に極東ミュンヘンの時期のイギリス、アメリカの政策と当面の時期のそれとの区別、といった区別をすべきである。われわれの政策はこれらの区別のうえにたてられる。われわれの根本方針は、国民党とは反対に、独立した戦争と自力更生を堅持する原則のもとで、可能なかぎり外国の援助を利用するのであり、国民党のように、独立した戦争と自力更生を放棄して、外国の援助にたよったり、いずれかの帝国主義集団に身をよせたりするのではない。
 党内の多くの幹部には、戦術問題にたいする一面的な観点とそこから生じる左より、右よりの動揺があり、歴史上および当面の党の政策の変化と発展の面から、かれらに全面的、統一的な理解をもたせなければ、それを克服できるものではない。当面、党内の主要な危険な偏向は、やはり、極左的な観点がわざわいしていることである。国民党支配区では、多くの人が国民党の反共政策の重大さをみてとっていないため、隠蔽と精鋭化をはかり、長期にわたってひそみ、力をたくわえ、時機を待つという政策を、真剣に実行できないでいる。同時にまた、多くの人が、単純に国民党を黒一色とみなし、手のつけようがないとして、統一戦線の活動を発展させる政策を美行できないでいる。似たような状態は、日本占領区でもみられる。
 国民党支配区と各抗日根拠地では、連合を知っているだけで、闘争を知らす、また国民党の抗日性を過大に評価したために、国共両党の原則的なちがいをあいまいにし、統一戦線のもとでの独立自主の政策を否定し、大地主・大ブルジョア階級に迎合し、国民党に迎合し、自分で自分の手足をしばり、思いきって抗日革命勢力を発展させようとはせず、国民党の共産党反対、共産党制限の政策と断固たたかおうとしないこうした右翼的な観点が、過去にはひどかったが、現在では基本的に克服された。だが、一九三九年の冬以来、国民党の反共の摩擦とわれわれの自衛闘争によってひきおこされた極左的な偏向が、いたるところにあらわれた。それは、いくらかは是正されたが、まだ完全には是正されておらず、まだ多くの地方の多くの具体的政策にみられる。したがって、当面、それぞれの具体的政策を検討し、解決することが、きわめて必要である。
 それぞれの具体的政策については、党中央はこれまでつぎつぎと指示をだしているので、ここでは、ただいくつかの点を総合的に指摘しておく。
 政権の組織について。「三三制」を断固実行しなければならないい共産党員は政権機関のなかで三分の一をしめるにとどめ、広範な非党員を政権に参加させるようにする。江蘇《チァンスー》省北部など、抗日民主政権を樹立しはじめたところでは、三分の一より少なくてもよい。政府機関、民意機関をとわず、反共に積極的でない小プルジョア階級、民族ブルジョア階級、開明紳士の代表を参加させるべきであり、反共をしない国民党員の参加をゆるさなければならない。民意機関では、少数の右派分子の参加をゆるしてもよい。わが党の一手請負はぜひともさげるべきである。われわれは、買弁大ブルジョア階級と大地主階級の独裁をうちこわすだけであって、共産党の一党独裁でそれにとってかえるのではない。
 労働政策について。労働者の抗日への積極性を発揮させるには、労働者の生活を改善しなければならない。だが、極左はぜひともさげるべきで、賃金の引き上げも労働時間の短縮も度をすぎてはならない。中国の当面の状況では、まだ八時間労働制の普遍的実施はむずかしく、一部の生産部門では十時間労働制の実施をゆるさなければならない。他の生産部門は、状況に応じて時間をきめるべきである。労資間の契約成立後は、労働者は労働規律をまもらなければならず、資本家にも利益を保証してやらなければならない。そうでないと、工場が閉鎖されて抗日に不利となり、労働者自身も損をする。農村労働者の生活や待遇の改善は、なおさら、度をすぎるべきではなく、そうでないと、農民の反対、労働者の失業、生産の縮小をまねくことになる。
 土地政策について。当面は徹底した土地革命をおこなう時期ではなく、過去の土地革命の時期の一連のやり方は現在に適用できないことを、党員や農民に説明しなければならない。現在の政策として、一方では、基本的な農民大衆の抗日への積極性を発揮させるため、地主の小作料、利子の引き下げを規定すべきである。だが、引き下げすぎてもいけない。小作料は、ふつう二割五分の引き下げを原則とする。大衆の要求が高まれば、農民六割、地主四割、あるいは農民七割、地主三割にしてもよいが、この限度をこえてはならない。利子は、社会経済の貸借関係でゆるされる限度をこえて、引き下げてはならない。他方では、農民が小作料と利子を支払うこと、土地所有権と財産所有権が依然として地主に属することを規定する必要がある。利子の引き下げによって、農民の借金するところがなくなったり、旧債の清算によって、農民が抵当にいれた土地を無償で回収したりすることがあってはならない。
 徴税政策について。収入額におうじて納税額をきめなければならない。免税を規定される極貧者をのぞいて、収入のあるすべての人民、すなわち八〇パーセント以上の住民は、労働者、農民をとわず、すべて国家の税金を負担しなければなちず、地主、資本家に全部を負担させるべきではない。軍隊の給養を解決するために人を逮捕して罰金をかけるやり方は、禁止すべきである。徴税の方法は、われわれがより適切な新しい方法をきめるまで、国民党のふるい方法を適宜に改めて利用してさしつかえない。
 奸徒粛清の政策について。徹底した民族裏切り者と徹底した反共分子は断固として弾圧すべきであり、そうしなければ、抗日の革命勢力をまもることはできない。だが、けっして、人を多く殺してはならないし、罪のないものをひとりでも巻きぞえにしてはならない。反動派のなかの動揺分子と、強迫されてしたがっているものは、寛大に処置すべきである。どのような犯人にたいしても、体刑は断固廃止し、供述を軽々しく信じないで、証拠を重んずるべきである。日本侵略軍、かいらい軍、反共軍の捕虜にたいしては、大衆からひどく憎悪されていて、どうしても殺す必要があり、しかも上級の許可をえているもの以外は、一律に釈放する政策をとるべきである。そのうち、強制的に入隊させられ、いくらか革命性をもっているものは、大量に獲得してわが軍のために働かせ、その他は一律に釈放すべきである。もし、ふたたびくれは、ふたたび捕え、ふたたび釈放する。侮辱をくわえたり、金品をとりあげたり、転向を強要したりせず、一律に、心のこもったおだやかな態度で接する。かれらがいかに反動的でも、こうした政策をとる。これは、反動陣営を孤立させるうえで非常に効果的である。裏切り者にたいしては、罪がとくに大きなもの以外、反共をつづけないことを条件に、更生の道をあたえる。もしも改心して革命をやるならば、うけいれてよいが、再入党はゆるさない。国民党の一般の情報要員を日本のスパイや民族裏切り者と混同してはならず、両者の性質をはっきり区別して、処置すべきである。どのような機関や団体でも人を逮捕できるという、混乱した現象をなくさなければならない。抗日の革命的秩序を樹立するために、犯人逮捕の権限は、戦闘中の軍隊をのぞけば、政府の司法機関と治安機関にかぎることを規定すべきである。
 人民の権利について。抗日に反対しないすべての地主や資本家は、労働者、農民とおなじ人権、財産権、選挙権および言論、集会、結社、思想、信教の自由の権利をもつことを規定すべきである。政府は、わが根拠地内で破壊活動を組織したり、暴動をおこしたりするものに干渉するだけで、その他のものには干渉せず、一律に保護する。
 経済政策について。工業、農業と商品の流通を積極的に発展させなければならない。地区外の資本家でわが抗日根拠地にきて事業をおこす意思のあるものは、ひきよせるべきである。政府の経営する国営企業はたんに企業全体の一部分とみなし、民営企業を奨励すべきである。すべてこれらは自給自足の目的を達成するためである。有益な企業はすべて破壊をさけるべきである。関税政策と貨幣政策は、農業、工業、商業を発展させる基本方針にそむかず、これに適応したものでなければならない。各根拠地の経済を、大ざっぱにではなく、真剣かつ綿密に組織して、自給自足の目的を達成することは、根拠地を長期にささえる基本的な環である。
 文化教育政策について。人民大衆の抗日についての知識、技能および民族の自尊心の向上と普及を中心とすべきである。ブルジョア自由主義的な教育家、文化人、記者、学者、技術者が根拠地にきて、われわれと協力して学校をおこし、新聞をだし、仕事をするのをゆるすべきである。抗日の積極性を比較的もっているすべての知識人をわれわれの学校にいれ、短期間の訓練をほどこしたうえで、軍隊、政府、社会の仕事に参加させるべきであり、かれらを大胆に吸収し、大胆に任用し、大胆に抜擢《ばってき》すべきである。反動分子がまぎれこむのをおそれて、あれこれと用心しすぎるのはよくない。そうした連中が多少まぎれこむのはさげられないが、学習と仕事をつうじてそれを排除してもおそくはない。どの根拠地でも、印刷工場をたて、新聞、書籍を刊行し、その発行と配付の機構をつくるべきである。どの根拠地でも、大規模な幹部学校をできるだけ開設する必要があり、それは大きいほどよく、多いほどよい。
 軍事政策について。八路軍と新四軍は、中国人民が民族の抗戦を堅持するうえでもっともたよりになる武装力であるから、できるかぎり拡大すべきである。国民党軍にたいしては、相手が侵してこなければ、こちらも侵さないという政策をつづけ、できるかぎり友だちづきあいの活動を発展させるべきである。われわれに共鳴する国民党の将校と無党派の将校を、可能なかぎり八路軍と新四軍に参加させ、わが軍の軍事建設を強めるべきである。わが軍のなかで共産党員が数のうえですべてを独占している状態も、いまでは、あらためるべき点がある。もちろん、われわれの主力軍のなかで「三三制」を実行すべきではないが、軍隊の指導権をわが党の手ににぎっているかぎり(これはぜひとも必要で、ゆるがしえないことである)、大量の共鳴者を軍事部門や技術部門の建設に参加させても、おそれることはない。わが党、わが軍の思想的基礎と組織的基礎の堅固な建設に成功している現在の時期には、共鳴者(もちろん破壊分子ではない)を大量に吸収しても危険でないばかりか、そうしなければ、全国的な共鳴をかちとることも、革命勢力を拡大することもできない。したがってこれは必要な政策である。
 以上のべた統一戦線のなかでのそれぞれの戦術的原則と、これらの原則にもとづいて規定された多くの具体的政策は、全党が断固として実行しなければならない。日本侵略者が中国にたいする侵略を強め、国内の大地主・大ブルジョア階級が反共、反人民の高圧政策と軍事進攻をおこなっているときに、上述のそれぞれの戦術的原則と具体的政策を実行しなければ、抗日を堅持し、統一戦線を発展させ、全国人民の共鳴をえて、時局の好転をかちとることはできない。だが、あやまりをただすときは、段どりをおってやるべきで、ことを急ぐあまりに、幹部の不満、大衆の疑惑、地主の反撃などのこのましくない現象をひきおこすようなことがあってはならない。



〔1〕 王揖唐は北洋軍閥時代の大官僚であり、親日派の民族裏切り者である。一九三五年、華北事変ののち、蒋介石に起用された。一九三八年、華北で日本侵略者のかいらいになり、かいらい「華北政務委員会」の委員長になった。
〔2〕 石友三は向背つねなき国民党軍閥のひとりである。抗日戦争勃発後、国民党第十軍団総司令官になり、河北省南部で、もっぱら日本軍と連合して、八路軍を攻撃し、抗日民主政権を破壊し、共産党員や進歩的な人びとを虐殺した。
訳注
① 中国語の「清算」とは、敵にたいする闘争の面でつかわれるばあいには、人民大衆が党の指導のもとで、民族裏切り者、地主、悪質ボス、およびその他の悪質分子の、政治や経済の面での犯罪行為を暴露し、その罪状にもとづいて処置することである。ここでいう「旧債を清算する」とは、一抗日戦争の時期、これまで地主から借金して搾取された利子のうち、規定をこえた高すぎる分を人民政府の政策にもとづいて、農民がとりもどすことをさす。

maobadi 2010-12-17 13:05
安徽省南部事変について発表した命令と談話
(一九四一年一月)
 中国共産党中央革命軍事委員会命令(一九四一年一月二十日、延安にて)

 国民革命軍新編第四軍は抗戦に功労があり、内外にその名を知られている。軍長葉挺《イエティン》は敵とのたたかいを指導して、すぐれた勳功をたてたが、このたび、命令をうけて北方に移動中、突如、親日派の陰謀による襲撃にあい、力つきて負傷し、とらわれの身となった。われわれは、いくたびか同軍第一支隊長陳毅《チェンイー》、参謀長張雲逸《チャンユィンイー》らから安徽《アンホイ》省南部事変の経過をつたえる電報をうけて、憤激を禁じえず、憂慮にたえないものがある。抗日を破壊し、人民の軍隊を襲撃して、内戦をひきおこした親日派の極悪非道の犯罪行為にたいしては、あらためて処置することとし、ここに、陳毅を国民革命軍新編第四軍軍長代理、張雲逸を副軍長、賴伝珠《ライチョワンチュー》を参謀長、鄧子恢《トンツーホイ》を政治部主任に任命する。陳軍長代理以下は、ひたすら、同軍を整頓し、内部を団結させ、軍民を親密にし、三民主義を実行し、「総理遺言」を遵守し、抗日民族統一戦線を強化拡大して、民族と国家を防衛し、抗戦を最後まで堅持し、親日派の襲撃を防止するために奮闘されたい。

maobadi 2010-12-17 13:07
中国共産党中央革命軍事委員会スポークスマンの新華社記者にたいする談話(一九四一年一月二十二日)

 安徽省南部における今回の反共事変は、早くからたくらまれてきたものである。当面の事態は、全国的な突発事変の発端にすぎない。日本侵略者は、ドイツ、イタリアと三国同盟〔1〕を結んだのち、中日戦争を急速に解決するため、やっきになって、中国の内部に変化をおこさせる策動につとめてきた。その目的は、中国人の手をかりて中国の抗日運動を弾圧し、日本南進の後方をかためることにある。それによって、思いのままに南進してヒトラーのイギリス進攻の行動に呼応しようというのである。中国親日派の主要分子で、早くから国民党の党、政府、軍隊などの各機関にもぐりこんでいるものはかなり多く、かれらは日夜、扇動と誘惑をこととしている。昨年末、その全計画は準備を完了した。安徽省南部の新四軍部隊にたいする襲撃と一月十七日の反動的命令〔2〕の公布は、この計画の表面化の発端にすぎない。もっとも重大な事変が今後しだいに演じられていくだろう。日本侵略者と親日派の計画の全貌《ぜんぼう》はどのようなものだろうか。それはつぎのとおりである。
 (一)何応欽《ホーインチン》、白崇禧《パイチョンシー》の名で朱《チュー》、彭《ポン》、葉、項《シァン》にあてた、「十月十九日」と「十二月八日」の二つの電報〔3〕を公表して、世論を動かす。
 (二)内戦をおこす準備として、新聞で軍紀、軍令の重要性を宣伝する。
 (三)安徽省南部の新四軍を消滅する。
 (四)新四軍が「反乱した」と宣告し、同軍の名称を編制から抹消する。以上の各項はいずれもすでに実現した。
 (五)湯恩伯《タンエンポー》、李品仙《リーピンシェン》、王仲廉《ワンチョンリェン》、韓徳勤《ハントーチン》らを華中各路の「共産党討伐」軍司令官に任命し、李宗仁《リーツォンシン》を最高総司令官として、新四軍の彭雪楓《ポンシュエフォン》、張雲逸、李先念《リーシェンニェン》らの部隊を攻撃し、それがうまくいけば、さらに山東《シャントン》省と江蘇《チァンスー》省北部の八路軍、新四軍をも攻撃する。日本軍はこれに緊密に呼応する。この段どりは、すでに実行されはじめている。
 (六)口実をみつけて、八路軍が「反乱した」と宣告し、八路軍の名称を編制から抹消し、朱、彰の逮捕命令をだす。この段どりは目下準備中である。
 (七)重慶《チョンチン》、西安《シーアン》、桂林《コイリン》などの八路軍事務所を閉鎖し、周恩来《チョウエンライ》、葉剣英《イエチェンイン》、菫必武《トンピーウー》、鄧穎超《トンインチャオ》らを逮捕する。この段どりも実施されはじめており、桂林事務所はすでに閉鎖された。
 (八)『新華日報』を閉鎖する。
 (九)陝西《シャンシー》・甘粛《カンスー》・寧夏《ニンシァ》辺区に進攻し、延安《イェンアン》を奪取する。
 (十)重慶および各省で抗日の人びとを大量に逮捕し、抗日運動を弾圧する。
 (十一)各省の共産党組織を破壊し、共産党員を大量に逮捕する。
 (十二)日本軍は華中、華南から撤退し、国民党政府は、いわゆる「失地回復」を宣言するとともに、いわゆる「名誉ある講和」をおこなう必要性を宣伝する。
 (十三)日本軍は、これまで華中、華南に駐屯していた兵力を華北に増派して、八路軍にもっとも残酷な攻撃をくわえ、国民党軍と協力して、八路軍、新四軍をのこらず消滅する。
 (十四)八路軍、新四軍への攻撃を一刻もゆるめないと同時に、各戦場の国民党軍は日本軍と昨年の休戦状態をつづけ、完全な停戦講和の局面に移れるようにする。
 (十五)国民党政府は日本と講和条約を締結し、三国同盟に加入する。以上のそれぞれの段どりは、積極的に準備にとりかかろうとしている。
 以上が、日本と親日派の全陰謀計画の大綱である。中国共産党中央は、一昨年七月七日の宣言で、「投降は時局最大の危険であり、反共は投降準備の段どりである」と指摘した。また昨年七月七日の宣言では、「かつてない投降の危険と、かつてない抗戦の困難がやってきた」とのべている。朱、彭、葉、項は、昨年の「十一月九日の電報」〔3〕のなかで、もっと具体的に、つぎのとおり指摘した。「国内の一部のものは、いま、あらたな反共の高まりなるものを策動して、投降への道をはき清めようと企図している。……中日連合の『共産党討伐』なるものによって、抗戦の局面を終わらせようとしている。内戦をもって抗戦にかえ、投降をもって独立にかえ、分裂をもって団結にかえ、暗黒をもって光明にかえようとしている。事態はきわめて険悪であり、計略はきわめて悪らつである。道ゆく人もたがいに取りざたして、大いにおどろいている。時局の危機がこんにちほど重大であったことはかつてない。」したがって、安徽省南部事変と重慶軍事委員会の一月十七日の命令は、一連の事変の発端にすぎない。とくに、一月十七日の命令には、重大な政治的意義がふくまれている。なぜなら、発令者が天下の大悪をおかしても、公然とこの反革命的な命令をだしたうちには、きっと全面的な決裂と徹底的な投降の決意があったはずだからである。中国の軟弱な大地主、大ブルジョア階級の政治的代表者たちは、うしろだてがなければどんな小さいこともやれはしないのに、まして、このような驚天動地の大きなことがどうしてやれようか。いまの時機に、発令者のこの決意を変えさせることは、もはや非常にむずかしいようであり、全国人民の緊急の努力と国際外交面からの大きな圧力がないかぎり、この決意を変えさせることはおそらく不可能であろう。したがって、全国人民の当面の緊急任務は、最大の警戒心をもって事変の発展をみまもり、どのような暗黒な反動的局面にも対処できる準備をしておくことであり、絶対に油断してはならない。中国の将来はどうかといえば、それはきわめてはっきりしている。日本侵略者と親日派の計画が実現したとしても、われわれ中国共産党と中国人民は、身を挺して時局を収拾する責任があるだけでなく、その力もあると確信しており、日本侵略者と親日派がいつまでも横行するのをけっしてゆるすものではない。時局がどのように暗愚でも、将来なおどのような苦難の道を経なければならないとしても、また、その途上でどのような代価(安徽省南部の新四軍部隊がこの代価の一部である)を払わなければならないとしても、結局、日本侵略者と親日派は失敗するものである。その理由はつぎのとおりである。
 (一)中国共産党は、もはや一九二七年のときのようにたやすく欺かれたり、つぶされたりすることはない。中国共産党は、すでに、ゆるぎない独立の大政党となっている。
 (二)中国のその他の政党(国民党をふくめて)の党員には、民族滅亡の大禍を懸念して、投降と内戦をのぞまない人がきっと多いにちがいない。一部のものは、一時ごまかされてはいるが、時機がくれば、やはり目ざめる可能性がある。
 (三)中国の軍隊も同様である。かれらの反共は、その大多数が強制されたものである。
 (四)全国人民の大多数は、亡国の民となることをのぞんでいない。
 (五)帝国主義戦争は、いまや大きな変化の前夜にある。帝国主義にたよって生きているすべての寄生虫が一時どのようにうごめこうと、結局、かれらのうしろだてはたよりになるものではない。いったん大樹が倒れて、猿どもがちりちりになれば、全局面の様相はかわるであろう。
 (六)多くの国ぐにで革命が勃発するのは、時間の問題にすぎず、それらの国の革命と中国の革命とが必然的に呼応しあい、ともに勝利をかちとることになる。
 (七)ソ連は、世界のもっとも大きな勢力であり、中国が最後まで抗戦するのを決然と援助するだろう。
 以上のさまざまな理由から、われわれはやはり、火遊びをしている連中があまりのぼせあがらないよう希望する。われわれはかれらに正式に警告する。少しはつつしんだ方がよかろう、このような火は面白半分に遊べるものではない、自分の首に用心したまえ、と。もし冷静にものを考えることができるなら、この連中は、おとなしく、急いでつぎのことをやるべきである。
 第一、崖《がけ》っぷちで手綱をひきしめ、挑発《ちょうはつ》をやめること。
 第二、一月十七日の反動的命令を撤回し、また、自分がまったくまちがっていたと声明すること。
 第三、安徽省南部事変の張本人である何応欽、顧祝同《クーチュートン》、上官雲相《シャンコヮンユィンシァン》の三名を懲罰すること。
 第四、葉挺の自由を回復し、ひきつづき新四軍の軍長をつとめさせること。
 第五、安徽省南部の新四軍の兵員と武器を全部送りかえすこと。
 第六、安徽省南部の新四軍の全死傷者にたいする弔慰と慰謝をおこなうこと。
 第七、華中の「共産党討伐」軍を撤退させること。
 第八、西北の封鎖線〔4〕をとりはらうこと。
 第九、逮捕されている全国のすべての愛国的政治犯を釈放すること。
 第十、一党独裁を廃止し、民主政治を実行すること。
 第十一、三民主義を実行し、「総理遺言」にしたがうこと。
 第十二、親日派の頭目どもを逮捕し、国法による裁判にかけること。
 もし以上の十二ヵ条が実行されれば、事態はおのずから平常に復し、われわれ共産党と全国人民は、それほど度をすぎたことはしない。そうでなければ. 「われは恐る、季孫の憂え、[”山”の下に”而”+頁]臾《せんゆ》にあらずして、蕭牆《しょうしょう》のうちにあらんことを」〔5〕ということになり、反動派は、かならずもちあげた石で自分の足をうつ羽目になる。そうなると、われわれは助けたくても助けられなくなってしまう。われわれは国共合作を大事にするが、しかしかれらも合作を大事にしなければならない。卒直にいって、われわれの譲歩には限度があり、われわれの譲歩の段階はすでに終わりをつげた。かれらはすでに最初の一太刀をあびせてきたのだし、その傷は非常に深いのである。もし、まだ将来のことを考えているなら、かれらは自分からのりだして、この傷の治療にあたるべきである。「羊を失ってからおりをつくろっても、まだおそくはない。」これはかれら自身の生死にかかわる大間題であり、われわれとしては最後の忠告をしないわけにはいかない。もしもかれらが悪事を悔いあらためず無法なことをつづけるなら、全国人民は堪忍ぷくろの緒がきれて、かれらを肥だめになげこんでしまうだろう。そうなれば後悔してもおよばない。新四軍については、中国共産党中央革命軍事委員会が一月二十日に命令をだして、陳毅を軍長代理、張雲逸を副軍長、賴伝珠を参謀長、鄧子恢を政治部主任に任命した。同軍は、華中と江蘇省南部一帯になお九万余名をもっており、日本侵略軍と反共軍からはさみうちにされてはいるが、かならず、苦難にめげず奮闘し、あくまで民族と国家のため忠誠をつくすであろう。同時に、その兄弟部隊である八路軍の各部隊も、新四軍がはさみうちにされているのを傍観するようなことはけっしてなく、かならず適切な措置をとって、必要な援助をあたえるであろう。これは、わたしが卒直にいえることである。重慶軍事委員会のスポークスマンがおこなった例の談話にたいしては、「自己矛盾」の四字をもって批判するほかはない。重慶軍事委員会の命令では、新四軍が「反乱した」といっているかと思うと、そのスポークスマンの談話では、新四軍の目的が、南京、上海、杭州の三角地帯に進出して根拠地をつくることにあったともいっている。かれのいうとおりであったとしても、南京、上海、杭州の三角地帯に進出することがはたして「反乱」することになるだろうか。いったいそこへいってだれにたいして反乱するのかを、おろかな重慶のスポークスマンは考えてみなかったのだろうか。そこは、日本が占領している地帯ではないか。君たちは、なぜ、新四軍をそこにいかせず、安徽省南部にいるうちに消滅しようとしたのか。なるほど、日本帝国主義に忠勤をはげむものは、もともと、そうするのが当然なのである。それで、七コ師団を動員した集中殲滅《せんめつ》の計画がうまれ、一月十七日の命令がだされ、葉挺が裁判にかけられたのだ。しかし、わたしは、それでも、重慶のスポークスマンは間抜けだといわなくてはならない。かれは、問わず語りに、日本帝国主義の計画を全国人民にもらしてしまったのである。


〔1〕 一九四〇年九月二十七日に、ベルリンで結ばれたドイツ、イタリア、日本の三国軍事同盟のことである。
〔2〕 一九四一年一月十七日に、蒋介石が国民政府軍事委員会の名で公布した、新四軍を解散することについての反革命的命令のことである。
〔3〕 悪名高い「十月十九日の電報」と「十二月八日の電報」とは、一九四〇年の冬、蒋介石が二回目の反共の高まりをおこしたときに、国民党政府の参謀総長何応欽と副参謀総長白崇禧の名でうった二通の電報のことである。「十月十九日の電報」では、敵後方での抗戦を堅持している八路軍と新四軍をほしいままに中傷し、黄河以南の抗日部隊にたいする命令として期限つきで黄河以北に撤退することを強制した。十一月九日、朱徳、彭徳懐、葉挺、項英の四同志は、大局を考え、何応欽、白崇禧への返電のなかで、「十月十九日の電報」のデマを事実をあげて反駁するとともに、安徽省南部の部隊を北に移動させることを承諾した。何応欽、白崇禧の「十二月八日の電報」は、反共の「世論」をさらにまきおこすため、朱、彭、葉、項の「十一月九日の電報」にほこ先をむけてうたれたものである。
〔4〕 西北の封鎖線とは、国民党反動派が陝西・甘粛・寧夏辺区を包囲した封鎖線をさす。一九三九年以後、国民党は民衆をかりたてて、辺区の周囲に壕や防壁やトーチカをふくむ五本の封鎖線をつくった。この封鎖線は、西は寧夏にはじまり、南は涇水にそい、東は黄河にたっするもので、延延数省にまたがっていた。安徽省南部事変の直前には、辺区を包囲する国民党の軍隊は二十余万に増強された。
〔5〕 これは、『論語』のなかの孔子のことばから引用したものである。季孫は魯国の大夫、[”山”の下に”而”+頁]臾は春秋時代の小国で、蕭牆は古代の宮廷の門内にある目かくし用の小さな塀である。季孫は[”山”の下に”而”+頁]を討とうとしたが、華孫の憂いは外にあるのではなくて内にあるのだと孔子は考えたのである。
訳注
① 葉挺(一八九六~一九四六年)は広東省恵陽県の出身で、中国共産党員である。一九二二年、孫中山の護衛連隊の大隊長となった。北伐戦争のとき、国民革命軍第四車独立連隊の連隊長となった。一九二七年に第一次大革命が失敗したのち、南昌蜂起の指導にくわわり、第十一軍の軍長となった。同年十二月、また広州蜂起の指導にくわわり、総指揮となった。抗日戦争勃発後は、新四軍の軍長となり、華中の敵後方で抗戦を堅持した。一九四一年、安徽省南部事変で捕えられたが、獄中では断固として節をまげなかった。一九四六年三月に出獄したが、四月八日、重慶から延安に帰る途中、飛行機事故で遭難した。
② 一九四〇年、蒋介石は二回目の反共の高まりをおこしたとき、黄河以南で敵後方での抗戦を堅持していた八路軍、新四軍にたいし、一ヵ月以内に全部黄河以北に移動することを強制する命令をだした。中国共産党は、このでたらめな要求を反駁するとともに、時をうつさず国民党の反共・投降の陰謀を暴露した。しかし、大局を考え、抗日民族統一戦線の分裂をさげるために、安徽省南部にいた新四軍の部隊を長江以北に移動させることに同意した。一九四一年一月七日、蒋介石の指定したコースにしたがって北に移動していた新四軍の司令部とその所属部隊九千余は、安徽省南部の南澤県茂林地区で、侍らぶせていた国民党部隊八万余の攻撃をうけた。新四軍は七昼夜も勇敢に奮戦したが、弾薬も食糧も尽きはて、千余人が包囲を突破したほかは、大部分が壮烈な最期をとげ、軍長葉挺は捕われ、副軍長項英は戦死した。これが国内外をおどろかせた「安徽省南部事変」である。新四軍がこの事変で重大な損失をこうむったのは、項英の重大な右翼的指導ときりはなすことができない。本巻の『おもいきって抗日勢力を発展させ、反共頑迷派の進攻に抵抗せよ』の解題を参照。

maobadi 2010-12-17 13:08
二回目の反共の高まりを撃退した後の時局
          (一九四一年三月十八日)
     これは、毛沢東同志が中国共産党中央のために書いた党内指示である。

 (一)何応欽《ホーインチン》、白崇禧《パイチョンシー》の「十月十九日の電報」(昨年)にはじまった二回目の反共の高まり〔1〕は、安徽《アンホイ》省南部事変と蒋介石の一月十七日の命令で最高潮にたっしたが、三月六日の蒋介石《チァンチェシー》の反共演説と参政会の反共決議〔2〕は、この反共の高まりから兵をひくさいの一戦であった。これから時局は一時的に、ある程度の緩和にむかうであろう。世界の二大帝国主義集団の決定的な意義をもつ闘争がおこなわれる前夜にあって、依然として日本侵略者と対立している中国の英米派の大ブルジョア階級は、現在の緊迫した国共関係の、一時的な、わずかばかりの緩和をはからざるをえなくなっている。同時に、国民党内部の状況(中央と地方、CC系と政学系、CC系と復興系、頑迷派と中間派とのあいだにはいずれも矛盾があり、CC系内部と復興系内部にもそれぞれ矛盾がある)、国内の状況(広範な人民が国民党の横暴に反対し、共産党に共鳴している)、わが党の政策(抗議運動をつづけている)も、国民党に、過去五ヵ月間のような国共間の緊迫した関係をつづけさせることをゆるさない。したがって、いま一時的な、わずかばかりの緩和をはかることが、蒋介石にとって必要となっている。
 (二)こんどの闘争は、国民党の地位の低下と共産党の地位の上昇をしめし、国共の力関係にある種の変化をおこさせる鍵《かぎ》となった。このような状況は、蒋介石にその地位と態度の再検討をよぎなくさせている。かれがいま国防を強調し、党派観念はすでにふるくさくなったと宣伝しているのは、大地主、大ブルジョア階級と国民党の支配を維持するために、「民族の指導者」の資格で、国内のさまざまな矛盾のうえにのって、表面的には、一階級や一政党にかたよらないことをしめそうとたくらんでいるのである。しかし、それが形式上の欺瞞《ぎまん》にすぎず、政策上の変化がないとすれば、このたくらみはかならずむだ骨に終わるであろう。
 (三)わが党は、こんどの反共の高まりがはじまったとき、大局を考え、意を曲げても折り合っていくという譲歩政策(昨年十一月九日の電報)をとって、広範な人民の共鳴をえたし、安徽省南部事変ののちに、はげしい反攻(二つの十二ヵ条〔3〕、参政会への出席拒否、全国的な抗議運動)に転じて、これも全国人民に支持された。道理があり、有利であり、節度があるというこのわれわれの政策は、こんどの反共の高まりを撃退するのにぜひとも必要であったし、またすでに効果をあげている。国共間の主要な各争点が合理的に解決されるまでは、われわれは、国民党内の親日派、反共派のつくりだした安徽省南部事変やさまざまな政治的、軍事的圧迫にたいして、やはり厳正な抗議運動をつづけ、最初の十二ヵ条についての宣伝をひろげるべきであり、それをゆるめてはならない。
 (四)国民党はその支配地域内で、わが党や進歩派にたいする抑圧政策と反共宣伝をゆるめることはけっしてありえず、わが党は警戒心を高めなければならない。淮河《ホヮイホー》以北地区、安徽省東部、湖北《フーペイ》省中部にたいする国民党の進攻はまだつづくにちがいないので、わが軍は断固としてこれを撃退しなければならない。各抗日民主根拠地を長期にわたって断固堅持するために、各根拠地は、昨年十二月二十五日の党中央の指示〔4〕を断固実行して、党内での戦術教育を強化し、極左的な思想を是正しなければならない。全国でも、各根拠地でも、国共が最終的に決裂したとか、すぐにも決裂するであろうといった、時局にたいするあやまった評価と、それから生ずる多くの正しくない意見に反対しなければならない。



〔1〕 本選集第三巻の『国民党中央執行委員会第十一回全体会議と第三期国民参政会第二回会議を評す』のなかの、今回の反共の高まりについての叙述を参照。
〔2〕 一九四一年三月六日、蒋介石は国民参政会で反共演説をおこない、敵後方の抗日民主政権の存在はゆるされないとか、中国共産党の指導する人民の武装力はかれの「命令と計画にしたがって指定地域に集結」しなければならないなどといい、「軍令」、「政令」は「統一」されなければならないとわめきたてた。同日、国民党反動派のあやつる「国民参政会」は、蒋介石の反共、反人民的犯罪行為を弁護し、共産党の参政員が安徽省南部事変に抗議して、参政会への出席を拒否したことを大いに攻撃する決議を採択した。
〔3〕 最初の「十二ヵ条」は、一九四一年二月十五日、中国共産党の参政員が国民参政会にだしたもので、その内容は、『安徽省南部事変について発表した命令と談話』のなかの「談話」の部分にあげられている十二ヵ条とおなじである。二回目の「十二ヵ条」は、一九四一年三月二日、共産党の参政員が国民参政会に出席する条件として蒋介石にだした臨時的な措置のことで、その原文はつぎのとおりである。「一、全国における共産党への軍事進攻を即時停止すること。二、全国における政治的抑圧を即時停止し、中国共産党および民主諸党派の合法的地位を認め、西安、重慶、貴陽および各地の被逮捕者を釈放すること。三、閉鎖された各地の書店の封印を解き、各地へ郵送する抗戦的な書籍および新聞のさし押さえ命令を解除すること。四、『新華日報』にたいするすべての抑圧を即時停止すること。五、陝西・甘粛・寧夏辺区の合法的地位を認めること。六、敵後方の抗日民主政権を認めること。七、華中、華北、西北の守備地域はいずれも現状を維持すること。八、中国共産党の指導する軍隊としては、十八集団軍のほかに、もう一つ集団軍を編成し、合計六コ軍を統轄すべきであること。九、安徽省南部で逮捕されたすべての幹部を釈放し、犠牲者の家族に弔慰金を支給すること。十、安徽省南部で逮捕されたすべての兵士を釈放し、すべての兵器を返還すること。十一、各政党の連合委員会を組織し、各政党はそれぞれこれに代表一名をおくり、国民党の代表を議長にし、中国共産党の代表を副議長にすること。十二、国民参政会議長団に中国共産党代表をくわえること。」
〔4〕 本巻所載の『政策について』のことをさす。
訳注
① CC系、復興系については、本巻の『上海・太原陥落後の抗日戦争の情勢と任務』注〔10〕を参照。政学系については、本巻の『戦争と戦略の問題』注〔13〕を参照。

maobadi 2010-12-17 13:08
二回目の反共の高まりの撃退についての総括

          (一九四一年五月八日)


 これは、毛沢東同志が中国共産党中央のために書いた党内指示である。


 今回の反共の高まりは、三月十八日の党中央の指示でのべられているように、すでにすぎさった。つづいてあらわれたのは、あたらしい国際的、国内的環境のもとでひきつづき抗戦するという局面である。このあたらしい環境のなかでふえた要素は、帝国主義戦争の拡大、世界の革命運動の高揚、ソ連と日本の中立条約〔1〕、国民党の二回目の反共の高まりの撃退、それによって生じた国民党の政治的地位の低下と共産党の政治的地位の上昇、さらに、日本の中国にたいする最近のあらたな大挙進攻の準備である。全国人民を結集して抗日を堅持し、大地主・大ブルジョア階級の投降の危険と反共の逆流をひきつづき効果的に克服するためには、今回の反共の高まりにたいする英雄的な勝利のたたかいのなかでわが党がおさめた教訓を検討し、学習することが、ぜひとも必要である。
 (一)中国の二大矛盾のうち、中日両民族間の矛盾は依然として主なものであり、国内における階級間の矛盾は依然として従属的な地位にある。民族の敵が国土にふかくはいりこんでいるというこの事実が、すべてを決定する役割をはたしている。中日の矛盾がひきつづきするどく存在するかぎり、たとえ大地主・大ブルジョア階級がのこらず裏切り、投降したとしても、けっして一九二七年の情勢がつくりだされ、四・一二事変〔2〕や馬日事変〔3〕がくりかえされるようなことはない。前回の反共の高まり〔4〕は 一部の同志から馬日華変とみなされ、今回の反共の高まりも四・一二事変や馬日事変とみなされたが、客観的事実はこのような評価が正しくなかったことを立証している。これらの同志のあやまりは、民族矛盾が主なものであることを忘れている点にある。
 (二)こうした状況のもとでは、国民党政府の全政策をうごかしている英米派の大地主・大ブルジョア階級は、依然として二面性をもった階級である。かれらは、一面では日本と対立し、他面では共産党やそれに代表される広範な人民と対立している。また、かれらの抗日と反共にもそれぞれ二面性がある。抗日の面では、かれらは、日本と対立しながらも、積極的に戦わず、汪精衛《ワンチンウェイ》、民族裏切り者に積極的に反対せず、ときには、日本の講和の使者と気脈をつうじてさえいる。反共の面では、かれらは、安徽《アンホイ》省南部事変をおこしたり、一月十七日の命令をだしたりするほど共産党に反対しているが、しかし、最後的な決裂はのぞんでおらず、依然として、たたいたり抱きこんだりする政策をとっている。これらの事実も、今回の反共の高まりのなかでふたたび立証された。きわめて複雑な中国の政治は、われわれの同志がこれにふかい注意をはらうことを要求している。英米派の大地主・大ブルジョア階級が、いまなお抗日しており、わが党にたいして、いまなお、たたいたり抱きこんだりしている以上、わが党の方針も「その人の道をもって、その人にむくい」〔5〕、たたくことにはたたくことをもって、抱きこみには抱きこみをもってすることであり、これが革命的二面政策である。大地主・大ブルジョア階級が完全に裏切らないかぎり、われわれのこの政策は変わることはない。
 (三)国民党の反共政策とたたかうには、系統だった戦術が必要であり、けっしていい加減であってはならない。蒋介石《チァンチェシー》に代表される大地主・大ブルジョア階級の人民革命勢力にたいする憎悪と残忍さは、過去十年の反共戦争で立証されているばかりでなく、さらに抗日戦争中の二回におよぶ反共の高まり、とくに二回目の反共の高まりのなかでの安徽省南部事変によって完全に立証されている。いかなる人民革命勢力も、もし蒋介石によって消滅されるのをさけ、蒋介石にその存在を認めざるをえなくさせようとするならば、かれの反革命政策とまっこうから対決する闘争をおこなう以外にとるべき道はない。全党は、今回の反共の高まりのなかで項英《シァンイン》同志のおかした日和見主義〔6〕の失敗をふかい戒めとすべきである。しかし闘争は、道理があり、有利であり、節度があるというものでなければならず、この三つのうちどれが欠けても、損失をこうむるのである。
 (四)国民党頑迷派にたいする闘争において、買弁的な大ブルジョア階級と、買弁性がないか、買弁性の比較的すくない民族ブルジョア階級とを区別し、もっとも反動的な大地主と開明紳士や一般の地主とを区別することは、わが党が中間派を獲得し、政権の「三三制」①を実行するうえでの理論的根拠であり、昨年三月以来、党中央がしばしば指摘してきたところである。今回の反共の高まりは、このことの正しさをもう一度実証した。われわれが安徽省南部事変のまえにとった「十一月九日の電報」〔7〕の立場は、事変のあと、われわれが政治的反攻に転ずるのにぜひとも必要であった。これなしには、中間派を獲得することはできなかったのである。というのは、何回も経験をくりかえさなければ、わが党がなぜ国民党頑迷派と断固闘争しなければならないのか、なぜ闘争をつうじて団結をもとめるよりほかはなく、闘争を放棄すればいかなる団結もありえないのかということを、中間派は理解できないからである。地方実力派の指導層も、大地主・大ブルジョア階級ではあるが、中央政権をにぎっている大地主・大ブルジョア分子とのあいだに矛盾があるので、一般的には、これも中間派としてあつかうべきである。前回の反共の高まりのなかでもっとも反共に力をいれた閻錫山《イェンシーシャン》は、今回は中間的立場にたった。そして、前回は中間的立場にあった広西《コヮンシー》派が、今回は反共の側に転じたが、かれらと蒋介石派とのあいだには依然として矛盾があるので、おなじものとみなしてはならない。まして、その他の地方実力派については、いうまでもない。ところが、われわれの同志のなかの多くのものは、安徽省南部事変ののち、地主階級、ブルジョア階級が全部裏切ったかのようにみて、いまなお地主階級の各派、ブルジョア階級の各派を混同している。これは、複雑な中国の政治を単純化したものである。もしわれわれがこのような見方をとり、すべての地主階級、ブルジョア階級を国民党頑迷派とおなじにみるなら、われわれ自身を孤立させる結果になるであろう。中国の社会は、両端が小さく、中間が大きい社会である〔8〕から、もし共産党が中間階級の大衆を獲得して、それぞれの状況に応じてところをえさせることができなければ、中国問題は解決できないということを知らなければならない。
 (五)一部の同志は、中日の矛盾が主なものだという点について動揺をしめし、そのため国内の階級関係についてまちがった評価をしているので、党の政策にたいしても時おり動揺をしめすことがある。これらの同志は、安徽省南部事変ののち、それは「四・一二」や馬日事変だとするかれらの評価から出発して、昨年十二月二十五日の中央の原則的指示は、もう適用できなくなったか、あまり適用できなくなったとおもっているようである。かれらは、いま必要なのは、もはや抗日と民主を主張するすべての人びとをふくめた政権ではなくて、いわゆる労働者、農民、都市小ブルジョア階級だけの政権であり、もはや抗日の時期の統一戦線の政策ではなくて、過去十年間の内戦の時期のような土地革命の政策であると考えている。これらの同志の頭のなかでは、党の正しい政策はすくなくとも一時的にはあいまいになっている。
 (六)これらの同志は、わが党中央が国民党のひきおこす可能性のある決裂や、時局発展の最悪の可能性にたいして準備せよと指令したとき、他の可能性を忘れてしまった。最悪の可能性にそなえることはぜひとも必要であるが、これはよい方の可能性を放棄することではなくて、まさに、よい方の可能性をたたかいとり、それを現実性に変えるための条件であることを、かれらは理解していない。こんどのばあいは、われわれが国民党のひきおこす決裂にそなえて十分な準備をしていたので、国民党は軽々しく決裂できなかったのである。
 (七)また、いっそう多くの同志は、民族闘争と階級闘争との一致性を理解せず、統一戦線政策と階級政策を理解せず、したがって、統一戦線教育と階級教育との一致性を理解していない。かれらは、安徽省南部事変ののちは統一戦線教育とは別の階級教育なるものをとくに強調する必要があると考えている。かれらは、わが党が抗日の時期全体をつうじて、国内の上層、中層のいまなお抗日している人びとにたいしてとる政策は、それらの人が大地主・大ブルジョア階級であろうと、中間階級であろうと、連合と闘争という二つの面をもった(二面的な)完全な民族統一戦線政策以外にはないということを、いまなお理解していない。たとえかいらい軍、民族裏切り者、親日派分子であっても、そのうちのあくまでも絶対に悔悟しようとしないものにたいしては断固打倒する政策をとるが、その他のものにたいしては、やはりこのような二面的な政策をとるのである。わが党が党内と人民にたいしておこなう教育も、この二つの面をもった教育である。すなわち、どのようにしてブルジョア階級、地主階級のそれぞれ異なった階層と、それぞれ異なった形で連合して抗日するか、また、程度の異なるさまざまなかれるの妥協性、動揺性、反共性と、程度の異なるさまざまな闘争をするのかを、プロレタリア階級、農民階級およびその他の小ブルジョア階級に教えるのである。統一戦線政策とは階級政策であり、この二つは切りはなせないものである。この点がはっきりわからなければ、多くの問題もわからなくなる。
 (八)また、一部の同志は、陝西《シャンシー》・甘粛《カンスー》・寧夏《ニンシァ》辺区や華北、華中の各抗日根拠地の社会の性質がすでに新民主主義的なものであることを理解していない。ある地方の社会の性質が新民主主義的なものであるかどうかを判断するには、主として人民大衆の代表がそこの政権に参加しているかどうか、共産党がそれを指導しているかどうかを原則とする。したがって、共産党の指導する統一戦線政権が新民主主義社会のおもな指標となる。ある人たちは、十年の内戦の時期のような土地革命がおこなわれなければ、新民主主義が実現したとはいえないと考えているが、これはまちがいである。いま、各根拠地の政治は抗日と民主に賛成するすべての人民の統一戦線の政治であり、その経済は半植民地的要素と半封建的要素を基本的に排除した経済であり、その文化は人民大衆の反帝・反封建の文化である。したがって、政治からみても、経済からみても、文化からみても、小作料・利子の引き下げを実行しただけの各抗日根拠地と、徹底的な土地革命を実行した欧西・甘粛・寧夏辺区とは、どちらも新民主主義の社会である。根拠地という雛型《ひながた》が全国的なものになったときには、全国は新民主主義の共和国となるのである。



〔注〕
〔1〕 一九四一年四月十三日にソ連と日本が調印した中立条約をさす。この条約によって、当時のソ連東部辺境の平和は確保され、ドイツ、イタリア、日本三国の対ソ連合進攻の陰謀はうちやぶられた。この条約はソ連の平和外交政策の大きな勝利の一つであった。
〔2〕 四・一二事変とは、一九二七年四月十二日に蒋介石が上海でおこした反革命事変のことである。蒋介石は、この事変で共産党員と革命的労働者、農民、知識人を大量に虐殺した。本選集第一巻の『湖南省農民運動の視察報告』注〔5〕を参照。
〔3〕 本選集第一巻の『井岡山の闘争』注〔16〕にみられる。
〔4〕 一九三九年の冬から一九四〇年の春にかけて蒋介石がおこした一回目の反共の高まりをさす。本巻の『すべての抗日勢力を結集して反共頑迷派に反対しよう』注〔10〕を参照。
〔5〕 これは朱熹が『中庸』第十三章の注のなかでのべたことばである。
〔6〕 本巻の『おもいきって抗日勢力を発展させ、反共頑迷派の進攻に抵抗せよ』の解題を参照。
〔7〕 「十一月九日の電報」とは、一九四〇年十一月九日、第十八集団軍の朱総司令、彭副総司令と新四軍の葉軍長、項副軍長が、何応歓、白崇禧の「十月十九日の電報」に回答したものである。この電報は、国民党反動派の反共、投降の陰謀を暴露し、黄河以南の新四軍、八路軍を期限つきで北に移動させるという何応欽、白崇禧のでたらめな命令を反ばくした。しかし、団結抗日の大局を考え、不本意ながらも、新四軍の長江以南の部隊を長江以北へ移動させることに同意し、さらに国共間のいくつかの重要な懸案を解決することを一歩すすんで要求した。この電報は、当時の中間派の共鳴をえて、蒋介石を孤立させた。
〔8〕 毛沢東同志のこのことばは、革命を指導する中国の産業プロレタリア階級と反動的な中国の大地主・大ブルジョア階級が、人口からいうと、ともに少数しかしめていないことをさしている。本選集第三巻の『陝西・甘粛・寧夏辺区参議会における演説』を参照。
〔訳注〕
① 「三三制」の政策は、抗日戦争の時期における統一戦線政権についての中国共産党の政策である。この政策によれば、抗日民主政権の構成員は、共産党員がだいたい三分の一、進歩的な人びとがだいたい三分の一、中間的な人びとやその他の人びとがだいたい三分の一をしめることになっている。

maobadi 2011-01-14 20:47
 
毛沢東選集 第三巻
北京 外文出版社
(1968年 初版を電子化)

     電子版凡例(原版の凡例相当部分を適宜変更)

一 本訳書は北京人民出版社一九六四年九月出版の『毛沢東選集』第一巻から第四巻までの完訳である。各論文の解題と注釈もこの版から訳出したものである。
一 注釈は底注と訳注にわかれ、原注は漢数字を〔 〕でかこみ(電子版は漢数字ではなく、半角数字を〔 〕で囲んでいる)、各論文の末尾においた。訳注は訳者がくわえたもので、算用数字を○(電子版では機種依存文字である①などで表現)でかこみ、原注のあとにおいた。
一 度量衡、通貨、行政区画については、一部をのぞいてすべて原文のままの単位を用い、訳注を付した。
一 読み仮名は、《 》で囲まれた範囲で示される。
一 第二水準で表現できない漢字は、基本的に[片+旁]で表現した。それ以外の表現も、適宜[ ]内で記した。
一 本電子版はMS IMEを用いて作成された。
一 傍点のある部分はhtml版では斜字、太字の部分はそのまま太字である。。
一 原文では旧字体などで表現されていても、電子版で表現できないなどの理由により新字体で表現しているところがある。例えば、蒋介石は原文では旧字体だが、電子版では新字体である。


     目次


  抗日戦争の時期(下)

『農村調査』のはしがきとあとがき(一九四一年三月、四月)
  はしがき
  あとがき
われわれの学習を改革しよう(一九四一年五月)
極東ミュンヘンの陰謀を暴露せよ(一九四一年五月二十五日)
反ファシズム国際統一戦線について(一九四一年六月二十三日)
陝西・甘粛・寧夏辺区参議会における演説(一九四一年十一月二十一日)
党の作風を整えよう(一九四二年二月一日)
党八股に反対しよう(一九四二年二月八日)
延安の文学・芸術座談会における講話(一九四二年五月)
  まえおき
  結論
きわめて重要な政策(一九四二年九月七日)
第二次世界大戦の転換点(一九四二年十月十二日)
十月革命二十五周年を祝う(一九四二年十一月六日)
抗日時期の経済問題と財政問題(一九四二年十二月)
指導方法のいくつかの問題について(一九四三年六月一日)
国民党にただす(一九四三年七月十二日)
根拠地での小作料引き下げ運動、生産運動および擁政愛民運動をくりひろげよう(一九四三年十月一日)
国民党中央執行委員会第十一回全体会議と第三期国民参政会第二回会議を評す(一九四三年十月五日)
組織せよ(一九四三年十一月二十九日)
学習と時局(一九四四年四月十二日)
人民に奉仕する(一九四四年九月八日)
蒋介石の双十節演説を評す(一九四四年十月十一日)
文化活動における統一戦線(一九四四年十月三十日)
経済活動に習熟しなければならない(一九四五年一月十日)
遊撃区でも生産をおこなうことができる(一九四五年一月三十一日)
中国の二つの運命(一九四五年四月二十三日)
連合政府について(一九四五年四月二十四日)
  一 中国人民の基本的要求
  
二 国際情勢と国内情勢
  三 抗日戦争における二つの路線
     
中国問題の鍵
     
曲折した道をたどってきた歴史
     
人民戦争
     
二つの戦場
     
中国解放区
     
国民党支配区
     
対比
     
「抗戦を破壊し、国家を危うくする」ものはだれか
     
いわゆる「政令、軍令に服従しない」こと
     
内戦の危機
     
交渉
     
二つの前途
  
四 中国共産党の政策
     
われわれの一般綱領
     
われわれの具体的綱領
     
中国国民党支配区での任務
     
中国被占領区での任務
     
中国解放区での任務
  
五 全党は団結して党の任務の実現のためにたたかおう
愚公、山を移す(一九四五年六月十一日)
軍隊の生産自給、あわせて整風、生産の二大運動の重要性について(一九四五年四月二十七日)
ハーレーと蒋介石の猿芝居はすでに破産した(一九四五年七月十日)
ハーレーの政策の危険性について(一九四五年七月十二日)
フォスター同志への電報(一九四五年七月二十九日)
日本侵略者にたいする最後の一戦(一九四五年八月九日)

maobadi 2011-01-14 20:49
 抗日戦争の時期(下)


『農村調査』のはしがきとあとがき
          (一九四一年三月、四月)
      はしがき (一九四一年三月十七日)

 現在の党の農村政策は、十年の内戦の時期におけるような土地革命の政策ではなく、抗日民族統一戦線の政策である。全党は、一九四〇年七月七日と十二月二十五日の党中央の指示〔1〕を実行しなければならず、きたるべき第七回党大会の指示を実行しなければならない。この資料は、同志たちが問題研究の方法をみいだすための一助として印刷されたものである。現在、多くの同志たちは、おおざっぱでふかく理解しようとしない作風をまだもっており、ひどいばあいには下部の事情が全然わからないままに指導にあたっているが、これはたいへん危険な現象である。中国社会各階級の実際の状況について、真に具体的な理解がなければ、真によい指導はありえない。
 状況を知る唯一の方法は、社会について調査をおこなうこと、社会の各階級のいきいきとした状況を調査することである。指導にあたっている人にとっては、計画的にいくつかの都市、いくつかの農村をえらんで、マルクス主義の基本的観点、すなわち階級分析の方法をもちい、何回か綿密な調査をおこなうことが、状況を知るもっとも基本的な方法である。このようにしてこそ、われわれは中国社会の問題についてのもっとも基礎的な知識をもつことができるのである。
 それには、第一に、仰向いて空ばかりながめるのではなく、目を下にむけることである。目を下にむける興味と決意がなければ、一生かかっても中国の事情をほんとうに理解することはできない。
 第二は、調査会をひらくことである。あっちをみたりこっちをみたり、通りすがりに聞きかじるようなことでは、けっして完全な知識などえられはしない。わたしが調査会をひらく方法で手にいれた資料のうち、湖南《フーナン》省のいくつかのもの、井岡山《チンカンシャン》のいくつかのものは、みなうしなってしまった。ここに印刷したのは主として、『興国《シンクォ》県の調査』、『長岡《チャンカン》郷の調査』,『才渓《ツァイシー》郷の調査』である。調査会をひらくのは、いちばん手軽なうえに、いちばん信頼のおける方法であって、わたしはこの方法でひじょうに得るところがあったし、これはどんな大学よりもすぐれた学校であった。調査会には、ほんとうに経験をつんだ中級や下級の幹部か、あるいは一般大衆を出席させるべきである。湖南省の五つの県の調査と井岡山の二つの県の調査で、わたしがえらんだのは各県の中級の責任者であった。尋[鳥+”おおざと”]《シュインウー》の調査でえらんだのは一部の中級幹部と一部の下級幹部、貧乏秀才ひとりと破産した商業会議所会頭ひとり、それにもと県役所税務係でいまは職をうしなっている下級官吏ひとりであった。かれらはわたしに、いままで聞いたこともないたくさんの知識をあたえてくれた。わたしがはじめて中国の監獄の腐敗ぶりの一部始終を知ったのは、湖南省衡山《ホンシャン》県で調査したときのその県の下級獄吏からであった。興国県の調査と長岡、才渓両郷の調査でえらんだのは、郷で活動している同志とふつうの農民であった。これらの幹部、農民、秀才、獄吏、商人、税務係はわたしの敬愛すべき先生であって、わたしがかれらの生徒になるには、礼儀正しく、勤勉で、同志的な態度をとる必要があった。そうでなければ、かれらはわたしを相手にせず、知っていても話そうとせず、話してもすっかり話してはくれなかったであろう。調査会をひらくには、人数は毎回多くなくてもよく、三、四人、あるいは七、八人でけっこうである。十分に時間をとり、調査項目を用意し、さらに自分が直接質問し記録をとるとともに、参会者と議論をたたかわせなければならない。したがって、あふれるばかりの熱意がなく、目を下にむける決意がなく、知識をえようとする意欲がなく、えらそうな態度をすててよろこんで小学生になるという心がけがなければ、どうしてもやれるものではなく、やってもうまくはいかない。大衆こそ真の英雄であって、われわれ自身のほうがとかくこっけいなほど幼稚である、これがわからなければ最低の知識もえられない、ということを知らなければならない。
 わたしは、この参考資料を出版するおもな目的が、これらの具体的資料やその結論を同志たちにおぼえてもらうためではなくて、下部の事情をどのようにして知るかという方法を指摘する点にあることをかさねてことわっておく。一般的にいえば、中国の幼いブルジョア階級は、欧米や日本のブルジョア階級とちがって、社会状況にかんする比較的ととのった資料、あるいは最低限の資料さえ、まだわれわれのために用意しておらず、またそうすることは永久に不可能でもあるから、どうしてもわれわれ自身が資料をあつめる仕事をしなければならない。特殊的にいえば、実際活動家は、いつでも、変化する状況をつかむべきであって、どの国の共産党も他人の手にたよることはできない。したがって、すべての実際活動家は下部について調査をしなければならない。理論だけで、実際の状況を知らないものにとっては、こうした調査活動がとりわけ必要であり、そうでなければ理論を実際と結びつけることはできない。「調査なくして、発言権なし」というこのことばは、かつては「せまい経験論」だとそしられたが、わたしはいまでもそれを後悔していない。後悔していないどころか、わたしはあいかわらず、調査がなければ発言権はありえないという考えを堅持するものである。「お着きになるやさっそく」、なんだかんだと論議をし、意見をだし、これも批判しあれも非難するといった人がたくさんいるが、実はこういう人は十人が十人までみな失敗する。なぜなら、こうした論議や批判は綿密な調査をへておらず、無知なでまかせをいっているにすぎないからである。わが党はいわゆる「勅使」のためにかぞえきれないほど苦い目にあっている。ところが、このような「勅使」は、いたるところとびまわり、ほとんどどこにもいる。スターリンが「理論は、革命の実践と結びつかなければ、対象のない理論となる」といっているのは正しい。もちろん、かれが「実践は、革命の理論を指針としなければ、盲目的な実践となる」〔2〕といっているのも正しい。盲目的な、展望をもたない、見通しのきかない実務家をのぞいては、「せまい経験論」などとはいえないのである。
 わたしはいまでも、中国事情と国際事情の綿密な研究の必要を痛感しているが、それはわたし自身が中国事情と国際事情について、やはりまだ、なまはんかな知識しかもっていないという事実と関連している。自分はなにもかもわかっていて、他人がわかっていないだけだなどというのではけっしてない。全党の同志たちといっしょに、ひきつづき小学生になって大衆に学ぶ、これがわたしの念願である。

maobadi 2011-01-14 20:50
あとがき (一九四一年四月十九日)

 十年の内戦の時期の経験は、現在の抗日の時期にとって、もっともよい、またもっとも身近な参考となる。しかし、これは、敵とたたかうのにどのようにして大衆と結びつき、大衆を動員するかという面についていうのであって、戦術路線の面についていうのではない。党の戦術路線は、現在と過去では原則的なちがいがある。過去においては、地主や反革命的なブルジョア階級とたたかうことであったが、現在においては、抗日に反対しないすべての地主やブルジョア階級と連合することである。十年の内戦の後期には、われわれに武力で攻撃をくわえる反動的な政府や政党にたいするばあいと、わが政権の管轄下にある資本主義的性質をもつすべての社会階層にたいするばあいとで、異なった政策をとらなかったし、反動的な政府や政党のなかのそれぞれの異なった派閥にたいしても異なった政策をとらなかったが、こうしたことはそのときでも正しくはなかった。当時、農民と都市の下層小ブルジョア階級をのぞいた社会のあらゆる構成要素にたいして、「すべてのものと闘争する」政策をとったが、この政策は疑いもなくあやまっていた。土地政策の面では、十年の内戦の前期と中期にとった政策、すなわち地主が流浪の生活をしたり、山にはいって匪賊《ひぞく》となり社会秩序をみだすことのないよう、かれらにも農民とおなじだけの土地を分配して耕作させる、という正しい政策を否定したのもあやまりであった〔3〕。現在の党の政策はこれとは異なるものでなければならない。それは「すべてのものと闘争し、連合を否定する」のではなく、また「すべてのものと連合し、闘争を否定する」(一九二七年の陳独秀《チェントウシウ》主義のような)のでもなくて、日本帝国主義に反対するすべての社会階層と連合し、かれらと統一戦線をうちたてるのであるが、しかしかれらのあいだに存在する敵への投降、反共、反人民という動揺性と反動性の面にたいしては、その程度におうじてさまざまな異なった形式での闘争をおこなうべきである。現在の政策は、「連合」と「闘争」を総合した二重性をもった政策である。労働政策の面では、労働者の生活を適当に改善することと、資本主義経済の正当な発展をさまたげないことという二重性をもった政策である。土地政策の面では、地主にたいしては小作料と利子の引き下げを要求する一方、農民も部分的に小作料と利子をおさめるよう規定するという二重性をもった政策である。政治的権利の面では、抗日するすべての地主、資本家に、労働者、農民とおなじような人権、政治的権利、財産権をあたえるが、またかれらがおこす可能性のある反革命行動は防止するという二重性をもった政策である。国営経済と協同組合経済は発展させるべきであるが、現在の農村根拠地における主要な経済要素は、まだ国営ではなくて、私営であり、日本帝国主義と半封建制度反対に役立てるよう、非独占資本主義経済に発展の機会があたえられる。これは現在、中国にとってもっとも革命的な政策であり、この政策の実施に反対し、これを妨害することは、疑いもなくあやまりである。共産党員の共産主義的純潔性を厳粛に断固として保持すること、また社会経済における有益な資本主義的要素を保護するとともに、それを適当に発展させることは、抗日および民主共和国建設の時期において、どちらも欠くことのできないわれわれの任務である。この時期には、一部の共産党員がブルジョア階級に堕落させられ、党員のなかに資本主義的思想が発生する可能性があるし、われわれはこのような党内の堕落思想と闘争しなければならない。しかし、党内の資本主義的思想に反対する闘争を社会経済の面に移して、資本主義的経済要素に反対するようなあやまりをおかしてはならない。われわれはこのけじめをはっきりつけなければならない。中国共産党は複雑な環境のなかで活動しており、党員の一人ひとり、とりわけ幹部は、マルクス主義の戦術を身につけた戦士として自分をきたえあげるべきであって、問題を一面的に単純にみては、革命を勝利させることはできない。



〔1〕 一九四〇年七月七日の党中央の指示とは、当時だされていた「当面の情勢と党の政策についての中国共産党中央の決定」をさす。一九四〇年十二月二十五日の党中央の指示とは、本選集第二巻におさめられている『政策について』のことである。
〔2〕 スターリンの『レーニン主義の基礎について』の第三部分から引用。
〔3〕 ここにいわれている十年の内戦の前期とは、一九二七年末から一九二八年末までの時期をさし、通常、井岡山の時期ともいわれている。中期とは、一九二九年のはじめから一九三一年の秋までの時期、すなわち中央赤色根拠地の樹立から三回目の反「包囲討伐」の戦いが勝利をもって終わったときまでの時期をさす。後期とは、一九三一年末から一九三四年末までの時期、すなわち三回目の反「包囲討伐」の戦いが勝利をもって終わったときから、党中央が貴州省の遵義で政治局拡大会議をひらいたときまでの時期をさす。一九三五年一月の遵義会議では、一九三一年から一九三四年までの、「左」翼日和見主義路線の党内における支配に終止符をうち、党を正しい路線にたちもどらせた。
訳注
① 十年の内戦の時期とは、第二次国内革命戦争の時期のことで、土地革命の時期ともよばれている。それは、一九二七年、大草命が失敗したのちにはじまり、一九三六年の末に基本的に終わりをつげた。本選集第一巻の『日本帝国主義に反対する戦術について』訳注⑤を参照。
② 本選集第一巻の『中国革命戦争の戦略問題』注〔4〕を参照。

maobadi 2011-01-14 20:50
われわれの学習を改革しよう
          (一九四一年五月)
     これは、毛沢東同志が延安の幹部会議でおこなった報告である。この報告と『党の作風を整えよう三『党八股に反対しよう』という二つの論文は、整風運動についての毛沢東同志の基本的な著作である。毛沢東同志は、これらの論文で、一歩すすんで思想問題の面から過去の党内における路線の相違を総括し、党内に広範に存在していたマルクス・レーニン主義をよそおう小ブルジョア的な思想作風、主として主観主義的偏向、セクト主義的偏向およびこの二つの偏向の表現形態である党八股について分析した。毛沢東同志は、全党的な範囲でのマルクス・レーニン主義の教育運動、すなわち、マルクス・レーニン主義の思想原則にしたがって作風を整える運動をくりひろげるようよびかけた。毛沢東同志のこのよびかけは、たちまち、党内外でプロレタリア思想と小ブルジョア思想との大論争をひきおこし、党内外におけるプロレタリア思想の陣地をうちかため、広範な幹部を思想的に大きく一歩前進させ、党をかつてみないほど団結させた。

 わたしは全党の学習方法と学習制度の改革を主張する。その理由はつぎのとおりである。

      

 中国共産党の二十年は、マルクス・レーニン主義の普遍的真理が中国革命の具体的実践と日ましに結合してきた二十年であった。わが党の幼年時代に、われわれのマルクス・レーニン主義にたいする認識と中国革命にたいする認識がいかに浅く、いかに乏しかったかをふりかえってみれば、いま、これらにたいするわれわれの認識は、はるかに深く、はるかに豊かになっていることがわかる。かぎりない苦難をおった中華民族、そのすぐれた人たちは、百年らい、身をなげうってたたかい、しかばねをのりこえて進み、国を救い民を救う真理をさがしもとめてきた。それはまことに深い感動をよびおこすものである。だが、マルクス・レーニン主義というもっともすぐれた真理をさがしあててわが民族解放のもっともすぐれた武器としたのは、第一次世界大戦とロシア十月革命ののちになってからであり、そしてこの武器をにぎることを提唱し、宣伝し、組織したのは、中国共産党であった。マルクス・レーニン主義の普遍的真理がひとたび中国革命の具体的実践と結合すると、中国革命は面目を一新した。抗日戦争いらい、わが党では、マルクス・レーニン主義の普遍的真理にもとづく、抗日戦争の具体的実践についての研究と、こんにちの中国および世界についての研究が一歩前進し、中国の歴史についての研究もある程度はじまるようになった。これらはすべて、非常によいことである。

      

 しかし、われわれにはまだ欠点があり、しかも大きな欠点がある。わたしのみるところ、こうした欠点をあらためなければ、われわれの活動をさらに一歩前進させることはできず、マルクス・レーニン主義の普遍的真理と中国革命の具体的実践とを結合する偉大な事業のなかで、われわれをさらに一歩前進させることはできない。
 まず、現状の研究についてのべよう。国内、国際の現状についての研究では、ある程度の成果をあげているが、わが党のような大政党にしては、国内、国際の各方面、つまり国内、国際の政治、軍事、経済、文化のどの面でも、われわれのあつめた資料はまだ断片的であり、われわれの研究活動はまだ系統的でない。一般的にいえば、二十年らい、われわれは、上にのべた各方面について、系統的に綿密に資料を収集して研究したことがなく、客観的な実際の状況を調査研究する空気が濃厚でなかった。「目をつぶってすずめをつかまえ」、「めくらが魚を手さぐり」するような、おおざっばで、長広舌を振るい、なまはんかな知識に満足するというこうした非常に悪い作風、マルクス・レーニン主義の基本精神にまったくそむいたこうした作風は、わが党の多くの同志のあいだに、なおひきつづき存在している。マルクス、エンゲルス、レーニン、スターリンは、主観的な願望からではなく、客観的な真実の状況から出発して状況をまじめに研究せよと、われわれに教えているが、われわれの多くの同志は、直接この真理にそむいている。
 つぎに、歴史の研究についてのべよう。この仕事は、少数の党員や少数の党支持者が手がけたことはあるが、組織的にやられたことはなかった。ここ百年の中国史についても、古代の中国史についても、多くの党員の頭のなかは、まだくらやみ同然である。多くのマルクス・レーニン主義の学者も、口をひらけばギリシアをもちだすが、自分の祖先のこととなると、申しわけないことに忘れてしまっている。まじめに現状を研究する空気も濃厚でないし、まじめに歴史を研究する空気も濃厚でない。
 そのつぎに、国際的な革命の経験の学習、マルクス・レーニン主義の普遍的真理の学習についてのべよう。多くの同志のマルクス・レーニン主義の学習は、革命の実践の必要のためではなく、たんなる学習のためのようにみえる。したがって、読むには読んでも、消化できない。ただマルクス、エンゲルス、レーニン、スターリンの個々の字句を一面的に引用することができるだけで、その立場、観点、方法を運用して、具体的に中国の現状と中国の歴史を研究し、具体的に中国革命の問題を分析し、解決することはできない。マルクス・レーニン主義にたいするこうした態度は非常に有害で、とくに中級以上の幹部にとっては、その害がいっそう大きい。
 以上で、わたしは三つの面の状況、つまり現状の研究を重視せず、歴史の研究を重視せず、マルクス・レーニン主義の運用を重視しないことについてのべたが、これらは非常に悪い作風である。こうした作風がひろまって、われわれの多くの同志に害をおよぼしている。
 たしかに、いま、われわれの隊列内には、こうした悪い作風にそまった同志がたくさんいる。国の内外、省の内外、県の内外、区の内外の具体的な状況について、系統的で綿密な調査と研究をしようとはせず、なまはんかな知識や「しかじかであるにちがいない」ということだけをよりどころにして命令をだす、こうした主観主義の作風は、まだ多くの同志のあいだに存在しているのではないか。
 自分たちの歴史について、なにも知らなかったり、少ししか知らないことを恥ともおもわず、逆に誇りとしているものがいる。とくに重大なのは、中国共産党の歴史とアヘン戦争以後のここ百年の中国史をほんとうに知っているものが非常にすくないことである。ここ百年の経済史、政治史、軍事史、文化史については、その研究にまじめに手をつけているものがまったくいない。一部の人は、自分たちのことについての知識がないのだから、あとに残るものといえばギリシアや外国の物語だけで、それも、外国の反古のなかから断片的にひろいだしてきたあわれなものにすぎない。
 数十年らい、多くの留学生にはこうした欠陥があった。かれらは欧米や日本から帰ってくると、外国のものを受け売りすることしか知らなかった。かれらは蓄音機の役割をはたしたが、新しい事物を認識し創造するという自分の責任は忘れていた。こうした欠陥は共産党にも伝染した。
 われわれが学んでいるのはマルクス主義であるが、われわれのうちの多くのものがマルクス主義を学ぶ方法は、直接マルクス主義にそむいている。つまり、かれらはマルクス、エンゲルス、レーニン、スターリンがくりかえしさとしている、理論と実際の統一という基本原則にそむいているのである。かれらはこの原則にそむいているのだから、理論と実際の分離というこれと反対の原則を自分でつくりだしているのである。学校での教育でも、現職幹部の教育でも、哲学を教えるものは、中国革命の論理を研究するよう学生をみちびかず、経済学を教えるものは、中国経済の特徴を研究するよう学生をみちびかず、政治学を教えるものは、中国革命の戦術を研究するよう学生をみちびかず、軍事学を教えるものは、中国の特徴に通した戦略と戦術を研究するよう学生をみちびかない、といったぐあいである。その結果、あやまりの種がばらまかれ、はなはだしく人をあやまらせている。延安《イェンアン》で学んだことは、[鹿+”おおざと”]《フー》県〔1〕にいけば、もう応用できない。経済学の教授は辺幣や法幣〔2〕について説明することができない。もちろん、学生もそれを説明できはしない。こうして、多くの学生のあいだに、先生のところから学んできた永久不変だといわれている教条にひたすら心をよせ、逆に中国問題には興味をもたず、党の指示は重視しないという異常な心理がうまれている。
 もちろん、以上のべたのは、わが党内にあるきわめて悪い典型であって、どこででもこうだというのではない。だが、こうした典型はたしかに存在するうえ、その数もかなり多く、その害もかなり大きいので、なおざりにしてはならない。

      

 この見方についてくりかえし説明するために、たがいに対立する二つの態度を対照させながらのべてみよう。
 第一、主観主義的態度。
 この態度のもとでは、周囲の環境を系統的に綿密に研究せず、ただ主観的な熱情だけで活動し、中国の今日の姿についてはわかったようでわかっていない。この態度のもとでは、歴史をたちきり、ギリシアを知るだけで中国を知らず、昨日や一昨日の中国の姿についてはくらやみ同然である。この態度のもとでは、抽象的に、目的もなく、マルクス・レーニン主義の理論を研究する。中国革命の理論問題、戦術問題を解決するためにマルクス、エンゲルス、レーニン、スターリンのところから立場、観点、方法をさがしだすのではなく、たんに理論のために理論を学ぶのである。的があって矢をはなつのではなく、的がなくて矢をはなつのである。マルクス、エンゲルス、レーニン、スターリンは、われわれに、客観的に存在する実際の事物から出発して、そのなかから、われわれの行動の導きとなる法則をひきだすべきであると教えている。このためには、マルクスがのべているように、詳細な資料を掌握し、それを科学的に分析し総合するという研究をおこなわなければならない〔3〕。ところが、それとは反対にわれわれのうちの多くのものは、そのようにはしない。そのうち、多くのものは研究活動にたずさわっているが、しかし、かれらは今日の中国と昨日の中国の研究にはいっさい興味がなく、実際からかけはなれたからっぽの「理論」の研究にしか興味をしめさない。多くのものは実際活動にたずさわっているが、かれらも客観的な状況の研究には心をそそがず、とかく熱情だけにたより、自分の感じを政策としている。このふたとおりの人びとは、どちらも主観にたより、客観的な実際の事物の存在を無視する。講演をすれば、甲、乙、丙、丁、一、二、三、四などとならべたてるし、文章をかけば、長広舌を振るう大論文をつくりあげる。派手に立ちまわって人気をえようとする気持ちはあっても、事実にもとづいて法則性をもとめる考えはない。見ばえだけで中味がなく、もろくて芯《しん》がない。ひとりよがりで、われこそは天下第一とうぬぼれ、「勅使」然としていたるところをとびまわる。これがわれわれの隊列内の一部の同志の作風である。このような作風でわが身を律すればわが身をそこない、他のものを教育すれば他のものをそこない、革命を指導すれば革命をそこなう。要するに、この反科学的、反マルクス・レーニン主義的な主観主義の方法は、共産党の大敵であり、労働者階級の大敵であり、人民の大敵であり、民族の大敵であり、党性が不純なことのあらわれである。大敵をまえにして、われわれはそれをうちたおす必要がある。主観主義がうちたおされないかぎり、マルクス・レーニン主義の真理は勢いをえず、党性は強固にならす、革命は勝利しない。科学的な態度がなければ、すなわち理論と実践の統一したマルクス・レーニン主義の態度がなければ、党性がないか、党性が不完全であるということを、われわれは指摘すべきである。
 ここに、こうした連中の姿をえがいた対句がある。それはこうである。

    土塀の上にはえた蘆《あし》、頭がおもく、足かるく、根っ子はあさい
    山の谷間の竹の子は、口がとんがり、皮あつく、腹はからっぼ

 この対句は、科学的な態度をもたないもの、マルクス、エンゲルス、レーニン、スターリンの著作のいくらかの字句を棒暗記することしか知らないもの、名ばかりでほんとうの学問がないものにふさわしくはないだろうか。もしほんとうに自分の病気をなおしたいのなら、この対句を書きとめておくか、あるいは、もっと勇気をだして、自分の部屋の壁にはっておくようにすすめる。マルクス・レーニン主義は科学である。科学は正直な学問であって、どのようなごまかしもゆるされない。われわれはやはり正直にやろう。
 第二、マルクス・レーニン主義の態度。
 この態度のもとでは、マルクス・レーニン主義の理論と方法を運用して、周囲の環境を系統的に綿密に調査、研究する。ただ熱情だけで活動するのではなく、スターリンがのべているように、革命的な気概を実際的な精神と結合させるのである〔4〕。この態度のもとでは、歴史をたちきってはならない。たんにギリシアのことだけを知ればよいのではなく、中国のことも知らなければならず、たんに外国の革命史だけではなく、中国の革命史も知らなければならない。また、中国の今日のことだけではなく、中国の昨日や一昨日のことも知らなければならない。この態度のもとでは、目的をもってマルクス・レーニン主義の理論を研究し、マルクス・レーニン主義の理論を中国革命の実際運動と結合させなければならないのであり、中国革命の理論問題や戦術問題を解決するために、そこから立場、観点、方法をさがしだすのである。このような態度が、的があって矢をはなつ態度である。「的」とは中国革命のことで、「矢」とはマルクス・レーニン主義のことである。われわれ中国共産党員がこの「矢」をさがしもとめるのは、中国革命と東方の革命というこの「的」を射るためである。このような態度が実事求是の態度である。「実事」とは客観的に存在するすべての事物のことであり、「是」とは客観的な事物の内部的なつながり、すなわち法則性のことであり、「求」とはわれわれがこれを研究することである。われわれは、国の内外、省の内外、県の内外、区の内外の実際の状況から出発し、そのなかから、われわれの行動の導きとして、憶測でない固有の法則性をひきだす、すなわち周囲のできごとの内部的なつながりをさがしだすのである。そして、このようにするためには、主観的な想像、一時的な熱情、死んだ書物にたよってはならず、客観的に存在する事実にたよって、詳細な資料を掌握し、マルクス・レーニン主義の一般的原理の導きのもとに、これらの資料のなかから正しい結論をひきださなければならない。こうした結論は、甲、乙、丙、丁というような現象の羅列《られつ》でもなければ、長広舌を振るったありきたりの文章でもなくて、科学的な結論である。このような態度には、派手に立ちまわって人気をえようとする気持ちはなく、事実にもとづいて法則性をもとめる考えがある。このような態度こそ、党性のあらわれであり、理論と実際の統一したマルクス・レーニン主義の作風である。これは共産党員であるかぎり、少なくとももたなければならない態度である。こうした態度をもてば、「頭がおもく、足かるく、根っ子はあさい」ということもなければ、「口がとんがり、皮あつく、腹はからっぽ」ということもなくなる。

      四

 以上のべた意見にもとづいて、わたしはつぎのことを提案する。
 (一)全党にたいし、周囲の環境を系統的に綿密に研究する任務を提起する。マルクス・レーニン主義の理論と方法にもとづいて、経済、財政、政治、軍事、文化、党務の各方面にわたる、敵、友、わが方の三者の動向をくわしく調査、研究し、そのうえで、当然の、また必要な結論をひきださなければならない。このためには、こうした実際の事物の調査と研究に同志たちが目をむけるようみちびかなければならない。共産党の指導機関の基本的任務は、状況の了解と政策の把握《はあく》というこの二つのたいせつな仕事にあり、前者は世界を認識することで、後者は世界を改造することであるということを同志たちにわからせなければならない。また、調査なくして発言権なしということ、長広舌を振るって一席ぶったり、一、二、三、四と現象をならべたてたりするのは、なんの役にもたたないということを同志たちにわからせなければならない。たとえば、宣伝活動のばあい、敵、友、わが方の三者の宣伝状況を知らなければ、われわれの宣伝政策を正しく決定することはできない。どの部門の仕事にしても、まず状況を了解することが必要であり、そののちにはじめて、うまく処理できるのである。全党で調査「研究の計画を実行することは、党の作風を変える根本的な一環である。
 (二)ここ百年の中国史については、人材をあつめ、分業と協力によって研究をおこない、無組織の状態を克服すべきである。まず、はじめに経済史、政治史、軍事史、文化史など、いくつかの分野の分析的な研究をおこなうべきであり、そのうえで、はじめて、総合的な研究が可能となるのである。
 (三)現職幹部の教育と幹部学校での教育については、マルクス・レーニン主義を静止的、孤立的に研究するやり方をやめて、中国革命の実際問題の研究を中心とし、マルクス・レーニン主義の基本原則を指針とする方針を確立すべきである。マルクス・レーニン主義の研究には、また、『ソ連共産党(ボリシェビキ)歴史小教程』を中心的な文献とすべきである。『ソ連共産党(ボリシェビキ)歴史小教程』は、ここ百年らいの全世界の共産主義運動の最高の総合と総括であり、理論と実際の結合の典型であって、いまのところ全世界で完全な典型はこの一つしかない。レーニン、スターリンが、どのようにマルクス主義の普遍的真理をソ連の革命の具体的実践と結合させたか、また、それによって、どのようにマルクス主義を発展させたかをみれば、われわれは、中国でどのように活動すべきかを知ることができる。
 われわれは多くのまわり道をしてきた。だが、あやまりはしばしば正しいものの先達となる。このように生気にあふれた多彩な中国革命と世界革命の環境にあって、学習の問題でのわれわれのこの改革はかならずよい結果をもたらすものと、わたしは確信している。



〔1〕 [鹿+”おおざと”]県は延安の南方約七十キロのところにある。
〔2〕 「辺幣」は陝西・甘粛・寧夏辺区政府銀行が発行した流通紙幣である。「法幣」は、一九三五年以後、国民党官僚資本の四大銀行がイギリス・アメリカ帝国主義の支持をうけて発行した紙幣である。毛沢東同志が本文でのべているのは、当時、辺幣と法幣とのあいだに生じた交換比率の変化の問題である。
〔3〕 マルクスの『資本論』第一巻「第二版へのあとがき」にみられる。マルクスはそこでつぎのようにのべている。「研究には、詳細な資料をわがものとし、その種々な発展形態を分析し、それらの形態の内的な結びつきをさぐりださなければならない。この仕事がなしとげられなければ、現実の運動を適切に叙述することはできない。」
〔4〕 スターリンの『レーニン主義の基礎について』の第九部分「活動の様式」にみられる。

maobadi 2011-01-14 20:51
極東ミュンヘンの陰謀を暴露せよ
          (一九四一年五月二十五日)

     これは、毛沢東同志が中国共産党中央のために書いた党内指示である。

 (一)日本とアメリカが妥協し、中国を犠牲にして、反共、反ソの局面をつくりだす東方ミュンヘンの新しい陰謀が、いま、日本、アメリカ、蒋介石《チァンチェシー》のあいだでたくらまれている。われわれは、これを暴露し、これに反対しなければならない。
 (二)蒋介石に投降をせまることを目的とした日本帝国主義の軍事的進攻は、すでに一段落をつげたが、必然的にこれにつづくのは投降への誘いこみの策動である。これは、たたいたり、だきこんだり、あるいはたたきもし、だきこみもするという、敵のいつもの政策のくりかえしである。われわれは、これを暴露し、これに反対しなければならない。
 (三)日本は、軍事的進攻と同時に、デマ攻勢をおこしている。たとえば、「八路軍は国民党中央軍に呼応して戦うことをのぞまない」、「八路軍は機に乗じて地盤を拡大する」、「国際ルートをきりひらく」、「別個に中央政府をつくる」などがそれである。これは、国民党と共産党の関係を挑発《ちょうはつ》して、投降への誘いこみに役立てようとする日本の謀略である。国民党の「中央通信社」と国民党の新聞は、それをひき写しにして流し、臆面もなく日本の反共宣伝に呼応しているが、その意図には、はなはだあやしいものがある。われわれは、これも暴露し反対すべきである。
 (四)新四軍は「反乱した」と宣告されたにもかかわらず、また八路軍は一発の弾丸、一銭の軍費も受けとっていないにもかかわらず、ともに敵軍との戦いを片時もやめたことはない。今回の山西《シャンシー》省南部戦役〔1〕でも、八路軍は、すすんで国民党軍と呼応して戦い、この二週間らい、華北の各戦線で全面的に出撃し、いまも激戦のさなかにある。共産党の指導する武装力と民衆は、すでに抗日戦争での柱石となっている。共産党にたいするすべての中傷は、抗戦を失敗させ、投降するのに都合のよいようにするのが目的である。われわれは、八路軍、新四軍の戦争の成果をのばし、すべての敗北主義者、投降主義者に反対すべきである。



〔1〕 山西省南部戦役とは、中条山戦役のことである。一九四一年五月、日本侵略者は五万余の兵力をもって、山西省南部の黄河北岸にある中条山地区を攻撃した。その地区に集結していた国民党軍は計七コ軍で、そのほか東北部の高平地区にいた四コ軍をあわせると、合計三十五万人にのぼった。だが、黄河以北にいた国民党部隊は、もともと、反共が主要な任務で、日本侵略者とたたかうつもりはなく、日本侵略者の攻撃をうけると、その大部分は戦闘をさける方針をとった。そのため、この戦役では八路軍が国民党軍に積極的に呼応して、日本侵略者に打撃をあたえたにもかかわらず、国民党軍はやはり総くずれとなって、三週間のうちに五万余の兵力をうしない、残りの部隊も黄河をわたって逃走した。
訳注
① 本選集第二巻の『投降の策動に反対せよ』注〔2〕〔3〕を参照。

maobadi 2011-01-14 20:51
反ファシズム国際統一戦線について
          (一九四一年六月二十三日)

     これは、毛沢東同志が中国共産党中央のために書いた党内指示である。

 ドイツのファシスト支配者は、六月二十二日、ソ連に進攻した。この背信的な侵略的犯罪行為は、ソ連に反対するだけではなく、すべての民族の自由と独立にも反対するものである。ファシストの侵略に抵抗するソ連の神聖な戦争は、ソ連をまもるだけではなく、ファッショ的奴隷化に反対して解放闘争をすすめているすべての民族をもまもるものである。
 当面、共産党員の全世界における任務は、各国人民を動員して国際統一戦線を組織し、ファシズム反対のためにたたかうことであり、ソ連をまもり、中国をまもり、すべての民族の自由と独立をまもるためにたたかうことである。当面の時期には、あらゆる力はファッショ的奴隷化反対に集中されなければならない。
 中国共産党の全中国における任務はつぎのとおりである。
 (一)抗日民族統一戦線を堅持し、国共合作を堅持して、日本帝国主義を中国から追いだすこと、これによってソ連を援助することである。
 (二)大ブルジョア階級のなかの反動分子のどのような反ソ、反共活動にも、断固反抗しなければならない。
 (三)外交上では、ドイツ、イタリア、日本のファシスト支配者に反対するイギリス、アメリカおよびその他の国ぐにのすべての人びとと連合して、共同の敵に反対することである。

maobadi 2011-01-14 20:53
陝西・甘粛・寧夏辺区参議会における演説
          (一九四一年十一月二十一日)
 参議員の諸先生、同志諸君。きょう、辺区参議会がひらかれたことは大きな意義をもっている。参議会の目的はただ一つ、日本帝国主義を打倒して、新民主主義の中国、すなわち革命の三民主義の中国を建設することにある。いまの中国にはこの目的以外に、他の目的はありえない。なぜなら、いまのわれわれの主要な敵は、国内の敵ではなくて、日本とドイツ、イタリアのファシズムだからである。いま、ソ連赤軍はソ連と全人類の運命のために奮闘しており、われわれは日本帝国主義とたたかっている。日本帝国主義はなお侵略をつづけているが、その目的は中国を滅ぼすことにある。全国のすべての抗日勢力を結集して日本帝国主義を打倒すること、全国の抗日するすべての政党、階級、民族と協力し、民族裏切り者でないかぎり、みなが一致連合してともに奮闘すること、これが中国共産党の主張である。共産党のこの主張は終始一貫したものである。中国人民はすでに四年あまりも勇敢な抗戦をつづけており、この抗戦は国共両党の協力および各階級、各政党、各民族の協力によってささえられている。しかしまだ勝利していない。勝利するためには、なおひきつづき奮闘し、革命の三民主義を実行にうつさなければならない。
 なぜ、われわれは革命の三民主義を実行するのか。それは孫中山先生《スンチョンシャン》の革命の三民主義が、いまでもまだ全中国で実現していないからである。なぜ、われわれはいま社会主義の実行を要求しないのか。社会主義はもちろんよりよい制度であり、ソ連では早くからこの制度が実行されているが、こんにちの中国ではまだそれを実行する条件がそなわっていないのである。陝西・甘粛・寧夏《ニンシァ》辺区が実行しているのは革命の三民主義である。われわれはどのような実際問題の解決についても、革命の三民主義の範囲をこえていない。現在についていえば、革命の三民主義のうちの民族主義とは日本帝国主義を打倒することであり、その民権主義、民生主義とは一部の人だけの利益をはかるのではなく、全国の抗日するすべての人民の利益をはかることである。全国人民はすべて、人身の自由の権利、政治参与の権利、財産保障の権利があたえられなければならない。全国人民はすべて、ものをいう機会があたえられ、着るものや食べるもの、仕事や勉学が保障されなければならない。要するに、おのおのその適所があたえられなければならない。中国の社会は両端が小さく、中間が大きい社会であって、プロレタリア階級と地主・大ブルジョア階級はともに少数をしめるにすぎず、人民の大多数は農民、都市小ブルジョア階級およびその他の中間階級である。どの政党の政策でも、もしこれらの階級の利益を無視するなら、もしこれらの階級の人びとにその適所をあたえないなる、もしこれらの階級の人びとにものをいう権利をあたえないなら、国の政治をりっぱにやろうとしてもそれは不可能である。中国共産党の提起している諸政策は、抗日するすべての人民を結集するためのものであり、抗日するすべての階級、とりわけ、農民、都市小ブルジョア階級およびその他の中間階級のことを配慮したものである。各界人民のすべてにものをいう機会をあたえ、仕事をあたえ、食べてゆけるようにするという共産党の提起している政策は、真の革命の三民主義の政策である。土地関係では、われわれは一方で、農民が食べてゆけるよう小作料と利子の引き下げを実行し、他方ではまた、地主も暮らしてゆけるよう小作料と利子の部分的な納入を実行している。労資関係では、われわれは一方で、労働者が仕事をもち食べてゆけるよう労働者を援助し、他方ではまた、資本家も利益かえられるよう実業を発展させる政策を実行している。これらはすべて、全国人民を結集し、力をあわせて抗日するためである。このような政策を、われわれは新民主主義の政策とよんでいる。これは中国のいまの国情にほんとうに合った政策である。われわれは、たんに陝西・甘粛・寧夏辺区だけでなく、また、たんに敵後方の各抗日根拠地だけでなく、全国でもこれが実行されることをのぞんでいる。
 われわれはこのような政策を実行して、成果をあげ、全国人民の賛同をえている。しかし、欠点もある。一部の共産党員はまだ、党外の人びとと民主的に協力することに習熟しておらず、せまい閉鎖主義またはセクト主義の作風をもっている。かれらはまだ、共産党員には党外の抗日する人びとと協力する義務があり、これらの党外の人びとを排斥する権利はない、という道理がわかっていない。つまり、人民大衆からはなれてはならず、人民大衆の意見に耳をかたむけ、人民大衆と結びつかなければならない、という道理がわかっていない。『陝西・甘粛・寧夏辺区施政綱領』に、共産党員は独断専行、一手請負であってはならず、党外の人びとと民主的に協力すべきであると規定した条項があるのは、まだ党の政策がわかっていないそうした同志たちのことをさしたものにほかならない。共産党員は、党外の人びとの意見に耳をかたむけ、人にものをいう機会をあたえなければならない。人のいうことが正しければ、われわれはそれを歓迎すべきであり、また、人の長所を学ばなければならない。人のいうことがまちがっていても、しまいまで話させてから、ゆっくり説明すべきである。共産党員は、けっして、なにごとにつけても自分は申し分なく、人はよくないと考えて、ひとりよがりであったり、いたけだかであってはならない。また、けっして、自分を小さなからにとじこめて、自画自賛をし、暴君ぶりを発揮してはならない。日本侵略者、民族裏切り者と結託し、抗戦と団結を破壊する反動的な頑迷《がんめい》派などの連中には、ものをいう資格がないのは当然であるが、そのほかの人はだれにも、ものをいう自由があるのであって、たとえまちがったことをいってもさしつかえない。国の政治は、一党一派の私事ではなく、国家の公事である。したがって、共産党員には、党外の人びとと民主的に協力する義務があっても、人を排斥し、すべてを独占する権利はない。共産党は、民族のため、人民のために利益をはかる政党であって、それ自身はけっして私利をはかるものではない。共産党は、人民の監督をうけるべきで、けっして人民の意志にそむいてはならない。その党員は、民衆のなかに身をおくべきで、けっして民衆のうえにたってはならない。代表の諸先生、同志諸君。党外の人びとと民主的に協力するという共産党のこの原則は、確固不動のものであり、永遠に不変のものである。社会に党が存在するかぎり、なんといっても入党するものは少数で、党外の人が多数である。したがって党員はどうしても党外の人びとと協力しなければならず、いま、参議会でこのことをよく実行すべきである。わが共産党の参議員はわれわれのこのような政策のもとに、参議会でよくきたえられ、自分たちの閉鎖主義とセクト主義を克服することができるとおもう。われわれは、ひとりよがりの小さな派閥ではなく、かならず、門戸をひらいて党外の人びとと民主的に協力する方法を身につけ、ほかの人と相談することに習熟しなければならない。人と協力するのなら、自分たちは辞める、という共産党員が、こんにちでもまだいるかもしれない。しかし、このような人びとはきわめて少ないと、わたしは信じる。わたしは、わが党の圧倒的多数の党員がかならずわが党中央の路線を実行できることを、みなさんに保証する。同時にまた、党外の同志のみなさんもわれわれの主張を理解し、共産党は私利だけをはかるような小さな派閥や小さな団体ではないことを理解していただきたい。共産党はそういうものではなくて、誠心誠意、国の政治をりっぱにやっていきたいと考えている。しかし、われわれにはまだ多くの欠点がある。われわれは自分の欠点をみとめることを恐れないし、かならず自分の欠点をあらためる。われわれは、党内教育をつよめてこれらの欠点を一掃し、さらに、党外の人びととの民主的協力をつうじてこれらの欠点を一掃する。このような内外からのはさみうちによってこそ、われわれは自分たちの欠点をなおすことができ、ほんとうに国の政治をりっぱにやっていくことができるのである。
 参議員の諸先生は労苦をいとわず、この会議に参加された。わたしは、心からこの盛会を祝い、その成功をのぞんでやまない。


訳注
① 本選集第二巻の『新民主主義論』第十節にみられる。
② 本選集第二巻の『陝西・甘粛・寧夏辺区政府、第八路軍後方留守本部布告』注〔1〕を参照。

maobadi 2011-01-14 20:53
党の作風を整えよう
          (一九四二年二月一日)
     これは、毛沢東同志が中国共産党中央党学校の始業式でおこなった演説である。

 きょう、党学校の始業にあたり、わたしはこの学校が成果をあげることをのぞんでやまない。
 きょうは、わが党の作風の問題について、すこし話してみたい。
 なぜ革命の党が必要なのか。世界に人民を抑圧する敵がおり、人民が敵の抑圧をくつがえそうとするので、革命の党が必要なのである。資本主義と帝国主義の時代についていえば、共産党のような革命の党が必要なのである。共産党のような革命の党がなければ、人民が敵の抑圧をくつがえそうとしても、それはとうてい不可能である。われわれは共産党であり、人民を指導して敵をうちたおすには、われわれの隊列が整然とし、足なみが一致し、兵士がすぐれ、武器がよくなければならない。これらの条件がそなわらないなら、われわれは敵をうちたおすことはできない。
 いま、わが党には、まだどんな問題があるだろうか。党の総路線は正しく、問題がないし、党の活動も成果があがっている。党には数十万の党員がいて、人民を指導し、敵にたいしてこのうえない苦難にみちた闘争をおこなっている。このことはだれの目にもあきらかで、疑問の余地はない。
 では、いったい、わが党にはもう問題はないのだろうか。わたしにいわせれば、問題はやはりある。しかもある意味からいえば、それはかなり重大なものである。
 どんな問題なのか。それは、一部の同志の頭のなかに、まだあまり正しくなく、あまりまともでないとおもわれるものがいくつか存在していることである。
 つまり、われわれの学風にまだいくらか正しくないところがあり、われわれの党風にまだいくらか正しくないところがあり、またわれわれの文風にいくらか正しくないところがあるということである。学風がいくらか正しくないというのは、主観主義の欠陥があるということである。党風がいくらか正しくないというのは、セクト主義の欠陥があるということである。文風がいくらか正しくないというのは、党八股《はっこ》〔1〕の欠陥があるということである。これらの作風が正しくないといっても、冬の北風のように、空いっぱい吹きまくっているというわけではない。主観主義、セクト主義、党八股は、いまはもはや支配的地位をしめる作風ではなく、一陣の逆風であり、一陣の邪風であって、防空壕からとびだしてきたものにすぎない(笑声)。しかし、わが党内にまだこの種の風があるのは、好ましくないことである。われわれは、このような邪風をうむ穴をふさいでしまわなければならない。わが党はこぞってこの穴ふさぎの仕事をしなければならず、わが党学校もこの仕事をしなければならない。主観主義、セクト主義、党八股という三つの邪風には、その歴史的根源があり、いまは全党で支配的地位をしめていなくても、やはり、つねにわざわいしており、われわれをおそっている。したがって、これを排斥する必要があり、これを研究し、分析し、解明する必要がある。
 主観主義に反対して学風を整え、セクト主義に反対して党風を整え、党八股に反対して文風を整えること、これがわれわれの任務である。
 われわれが敵をうちたおす任務を達成するには、この党内の作風を整えるという任務を達成しなければならない。学風も文風も党の作風であり、いずれも党風である。わが党の作風が完全にまともなものになりさえすれば、全国人民はわれわれに見ならうようになる。党外にそうしたよくない気風をもつ人がいても、善良な人であるかぎり、われわれに見ならって、あやまりをあらためるようになるし、そうなれば、全民族に影響をあたえるようになる。わが共産党の隊列が整然としており、足なみが一致しており、兵士がすぐれた兵士であり、武器がよい武器でありさえすれば、われわれはどんな強大な敵をもうちたおすことができる。
 それでは、主観主義についてのべよう。
 主観主義はまともでない学風であり、それはマルクス・レーニン主義に反するもので、共産党とは共存できないものである。われわれが必要とするのはマルクス・レーニン主義の学風である。いわゆる学風とは、学校の学風であるだけでなく、全党の学風でもある。学風の問題は指導機関、全幹部、全党員の思想方法の問題であり、マルクス・レーニン主義にたいするわれわれの態度の問題であり、全党の同志の活動態度の問題である。そうである以上、学風の問題はひじょうに重要な問題であり、第一に重要な問題である。
 いま、いくつかのあいまいな考えが多くの人のあいだにひろがっている。たとえば、理論家とはなにか、知識人とはなにか、理論と実際の結びつきとはなにか、などの問題についてのあいまいな考えである。
 われわれは、まず、わが党の理論水準がはたして高いのか低いのかを問いたい。ちかごろ、マルクス・レーニン主義の書籍の翻訳が多くなり、読む人も多くなった。これは結構なことである。だからといって、すでにわが党の理論水準がおおいにたかまったといえるだろうか。たしかに、われわれの理論水準はこれまでよりいくらかたかまっている。しかし、中国の革命運動のゆたかな内容からいえば、理論戦線はまことにふつりあいで、両者をくらべると、理論面のひじょうなたちおくれがはっきりする。一般的にいって、われわれの理論はまだ、革命の実践と並行していくことができず、理論が実践の先をいくべきだなどとはなおさらいえたものではない。 われわれはまだ、ゆたかな実際を当然あるべき理論の水準にまではたかめていない。われわれはまだ、革命の実践のすべての問題、または重大な問題について考察し、これを理論の段階にまでひきあげてはいない。みたまえ、中国の経済、政治、軍事、文化について、理論といえるような理論、科学的形態といえるような、綿密な、おおざっばでない理論を創造したものがいったいわれわれのなかにどれだけいるだろうか。とくに経済理論の面では、アヘン戦争から現在まで、中国の資本主義の発展がすでに百年もたっているのに、中国の経済発展の実際に合致した、真に科学的な理論書は、まだ一冊も出ていない。たとえば中国経済問題について、理論水準がすでに高いといえるだろうか。わが党には、すでにひとかどの経済理論家がいるといえるだろうか。まったくそうはいえない。われわれがマルクス・レーニン王義の本をたくさん読んだからといって、理論家がいることになるだろうか。そうはいえない。なぜなら、マルクス・レーニン主義は、マルクス、エンゲルス、レーニン、スターリンが実際にもとづいて創造した理論であり、かれらが歴史の実際と革命の実際のなかからひきだした全般的結論だからである。 われわれが、もし、たんにかれらの著作を読むにとどまり、さらにすすんで、かれらの理論にもとづいて中国の歴史の実際と革命の実際を研究せず、中国の革命の実践を理論的に考えようとしないなら、われわれはマルクス主義の理論家だなどと自称してはならないのである。われわれが中国共産党員でありながら、中国問題は目にはいらず、マルクス主義の書物にある個々の結論や個々の原理を暗唱することしかできないとしたら、理論戦線でのわれわれの成果はひどく悪いものになってしまう。もし、マルクス主義の経済学または哲学を暗唱することしか知らず、第三章から第十章まですらすら暗唱できても、まったく応用できないとしたら、そのような人をマルクス主義の理論家といえるだろうか。それではやはり理論家とはいえない。われわれが必要とする理論家はどのような人なのか。それは、マルクス・レーニン主義の立場、観点、方法にもとづいて、歴史のなか、革命のなかでおきた実際問題を正しく解釈することができ、中国の経済、政治、軍事、文化のさまざまな問題を科学的に解釈し、理論的に説明することのできる、そういう理論家である。われわれが必要とするのはこのような理論家なのである。このような理論家になるには、マルクス・レーニン主義の実質を真に会得し、マルクス・レーニン主義の立場、観点、方法を真に会得し、植民地革命と中国革命にかんするレーニン、スターリンの学説を真に会得し、しかもそれらを応用して、中国の実際問題をふかく科学的に分析し、その発展法則をさがしだせるようにしなければならない。そのような人こそ、われわれが真に必要とする理論家なのである。
 現在、わが党の中央は、われわれの同志たちにたいし、マルクス・レーニン主義の立場、観点、方法を応用して、しんけんに中国の歴史を研究し、中国の経済、政治、軍事、文化を研究し、その一つ一つの問題について詳細な資料にもとづく具体的な分析をしたうえで、理論的な結論をひきだすことを学びとるようよびかける決定をおこなった。この責任はわれわれの肩にかかっている。
 わが党学校の同志は、マルクス主義の理論を死んだ教条としてはならない。マルクス主義の理論については、それに精通し、それを応用できなければならないのであって、精通の目的はまったく応用にある。もしマルクス・レーニン主義の観点を応用して、実際の問題を一つでもニつでも説明できたなら、それは称賛されるべきであり、いくらかの成果をえたことになる。説明できたものが多ければ多いほど、広ければ広いほど、深ければ深いほど、その成果はますます大きいことになる。いま、わが党学校でも、学生がマルクス・レーニン主義を学んだのち、中国問題をどのようにみるかによって、つまり、はっきりつかんでいるか、つかんでいないか、よくつかめるか、つかめないかによって、優劣、よしあしをわけるというさまりを定める必要がある。
 つぎに、いわゆる「知識人」の問題についてのべよう。わが中国は半植民地・半封建の国であり、文化が発達していないので、知識人はとりわけたいせつにされている。党中央は、二年あまりまえ、革命的で抗日に参加することをのぞむものでありさえすれば、すべてこれを歓迎する態度をとり広範な知識人を獲得すべきであるという、知識人の問題についての決定〔2〕をおこなった。われわれが知識人を尊重するのはまったく当然なことであり、革命的知識人がいなければ、革命は勝利できない。しかし、われわれが知っているように、多くの知識人は、自分にはたいへん知識があるとおもいこんで、さかんにその知識をひけらかすが、こうした態度はよくないし、害があり、自分の進歩をさまたげるものであることがわかっていない。その実、多くのいわゆる知識人は、どちらかといえば、もっとも知識がなく、ときには労働者、農民のほうがむしろ知識が多いという真理を、かれらは知るべきである。こういえば、「おや、それはあべこべだ、でまかせをいっている」(笑声)という人がいるだろう。ところが、同志、あわててはいけない。わたしのいうことにはいくらか道理がある。
 知識とはなにか。階級社会があらわれてから、世界には二種類の知識しかない。一つは生産闘争の知識、もう一つは階級闘争の知識とよばれるものである。自然科学と社会科学がこの二種類の知識の結晶であり、哲学は自然の知識と社会の知識についての概括であり、総括である。このほかにどんな知識があるだろうか。ほかにはない。われわれはここで、一部の学生たち、つまり社会の実際活動から完全に遊離している学校をでた学生たちがどんな状態にあるかをみてみよう。このような小学校からこのような大学まで勉強して、そこを卒業すると、一応知識があるということになる。しかし、かれらは書物のうえの知識しかなく、まだ、どのような実際活動にも参加していないし、自分の学んだ知識を生活のどの分野にも応用していない。このような人が完全な知識人だといえるだろうか。わたしははなはだ無理だとおもう。というのは、その知識がまだ不完全だからである。比較的完全な知識とはどんなものだろうか。比較的完全な知識はすべて二つの段階からなりたっている。第一の段階は感性的知識、第二の段階は理性的知識であって、理性的知識は感性的知識のより高い発展段階である。学生たちのもっている書物のうえの知識はどんな知識だろうか。かれらの知識がかりにみな真理であったとしても、それはやはりかれらの先人たちが生産闘争と階級闘争の経験を総括して書きあげた理論であって、かれらがみずから体得した知識ではない。かれらがこれらの知識をうけいれることはぜひとも必要なことである。しかし、一定の状況からいえば、これらの知識はかれらにとってまだ一面的なものであること、それは他人が証明したものであって、かれらとしてはまだ証明していないものだということを知らなければならない。もっとも重要なことは、これらの知識を生活と実際のなかにうまく応用することである。したがって、わたしは、書物のうえの知識しかなくまだ実際と接していない人、あるいはまだ実際の経験が少ない人にたいして、自分の欠点をさとり、その態度をもうすこし謙虚にするようすすめる。
 こうした書物のうえの知識しかもたない人を、名実ともにそなわった知識人に変えるには、どんな方法があるだろうか。唯一の方法は、かれらを実際活動に参加させて実際の活動家にすること、理論活動にたずさわっている人びとを重要な実際問題の研究に従事させることである。このようにすれば目的を達成することができる。
 わたしがこんなふうにいうと、おそらく腹をたてる人もいるだろう。かれらは、「あなたのそうした説明によると、マルクスも知識人だとはいえないことになる」というだろう。わたしは、それはちがうと答える。マルクスは革命の実際運動に参加したばかりでなく、革命理論の創造もおこなった。かれは資本主義のもっとも単純な要素――商品からはじめて、資本主義社会の経済構造を綿密に研究した。商品というものは、何百何千万の人びとが、毎日それを見、それをつかっているが、ぜんぜん目にはいらない。それを科学的に研究したのはマルクスだけである。マルクスは商品の実際の発展について、膨大な研究活動をおこない、普遍的に存在するもののなかから完全に科学的な理論をさがしだしたのである。マルクスは、自然を研究し、歴史を研究し、プロレタリア革命を研究して、弁証法的唯物論、史的唯物論およびプロレタリア革命の理論を創造した。こうして、マルクスは、人類の最高の英知を代表するもっとも完全な知識人となったのであって、書物のうえの知識しかもたない人とは根本的にちがうのである。マルクスは、実際闘争のなかで、くわしい調査研究をおこない、いろいろなものを概括し、そうしてえた結論をさらに実際闘争のなかにもちこんで証明した。こうした活動を理論活動とよぶのである。わが党内でも、多くの同志がこうした活動をするのを学ぶ必要がある。いまわが党内には、こうした理論研究の活動にたずさわるのを学ぶことのできる同志がたくさんおり、かれらの大部分は、聡明《そうめい》、有為であって、われわれはかれらをたいせつにしなければならない。しかし、かれらの方針は正しくなければならないし、過去におかしたあやまりを、かれらはふたたびくりかえしてはならない。かれらは教条主義をすてさるべきであり、できあいの書物の字句のうえで足ぶみしていてはならない。
 真の理論は世界にただ一つしかない。それは、客観的実際からひきだされ、さらに客観的実際のなかで証明された理論であって、これ以外には、われわれのいう理論にあたいするものは何もない。スターリンは、実際から遊離した理論は対象のない理論である〔3〕といったことがある。対象のない理論は、役にたたず、正しくなく、すてさるべきである。このような対象のない理論を好んで口にするものにたいしては、あかんべいでもしてやるがよい。マルクス・レーニン主義は、客観的実際からうまれ、さらに客観的実際のなかで証明された、もっとも正しい、もっとも科学的な、もっとも革命的な真理である。ところが、マルクス・レーニン主義を学ぶ多くの人は、それを死んだ教条とみなし、そのために、理論の発展をさまたげ、自分をそこない、同志をもそこなっている。
 他方、実際活動にたずさわっているわれわれの同志も、もしその経験をまちがって用いるなら、やはり弊害をうむことになる。たしかに、こうした人びとはしばしば多くの経験をもっており、それはひじょうに貴重なものである。しかし、かれらがそれで自分の経験に満足しているなら、これもまたひじょうに危険である。かれらは、自分の知識が感性的なものかまたは局部的なものにかたよっていること、理性的な知識と普遍的な知識に欠けている、つまり理論に欠けていること、かれらの知識も比較的不完全であることを知らなければならない。革命の事業をりっぱにおこなうには、比較的完全な知識がなければだめである。
 こうみてくると、不完全な知識には二種類ある。一つはできあいの書物のうえの知識、もう一つは感性的な局部的なものにかたよった知識であって、両者はどちらも一面的である。この両者を結びつけなければ、りっぱな比較的完全な知識はうまれない。
 しかし、われわれの労働者、農民出身の幹部が理論を学ぶには、まずはじめに基礎教育を身につけなければならない。基礎教育なしには、マルクス・レーニン主義の理論を学びとることはできない。基礎教育を身につければ、いつでもマルクス・レーニン主義を学ぶことができる。わたしは幼年時代にはマルケス・レーニン主義の学校にはいったことがなく、学んだのは、「子曰く、学んで時にこれを習う、またよろこばしからずや」〔4〕といったようなものであった。このような学習の内容はふるくさいものではあったが、ここから字をおぼえたので、わたしにとってはためになるところもあった。まして、いま学んでいるのは、孔子さまではなく、新しい国語、歴史、地理、理科であって、これらの基礎教育の課目をよく学べば、どこででも役にたつのである。わが党中央は、現在、労働者、農民出身の幹部の基礎教育をとくに要求している。基礎教育を身につけておけば、政治、軍事、経済のどれをも学ぶことができるが、そうしなければ、労働者、農民出身の幹部は、たとえゆたかな経験をもっていても、理論を学ぶことができないからである。
 このことからわかるように、主観主義に反対するには、上述の二種類の人びとに、それぞれ自分のたりない面を充実させるとともに、これらの二種類の人びとを結合させなければならない。書物のうえの知識をもっている人は、実際の面へのびることによって、書物のうえにとどまらずにすみ、教条主義のあやまりをおかさずにすむのである。活動の経験をもっている人は、理論の面へ学習をすすめ、まじめに本を読むことによって、経験に系統性、総合性をもたせ、これを理論にまでひきあげることができ、こうしてはじめて局部的な経験を普遍的な真理だと誤認せずにすみ、経験主義のあやまりをおかざずにすむのである。教条主義と経験主義のこの二つはともに主観主義であり、異なった両極から生じたものである。
 したがって、わが党内の主観主義には二種類あって、一つは教条主義、もう一つは経験主義である。それらはともに、一面をみるだけで全面をみない。このような一面性の欠点に注意せず、またそのことを理解せず、そのうえ、それをあらためる努力をしなければ、あやまった道にふみこみやすい。
 しかし、この二種類の主観主義のうち、いまわが党内でいっそう危険なのは、やはり教条主義である。なぜなら、教条主義はよくマルクス主義の姿をよそおって、労働者、農民出身の幹部をおどかし、その召使としてかれらをとりこにするが、労働者、農民出身の幹部は、それがなかなか見やぶれないからである。また、教条主義は天真らんまんな青年をおどかし、かれらをとりこにすることもできるからである。われわれが教条主義を克服すれば、書物のうえの知識をもつ幹部は、経験のある幹部との結合や実際の事物の研究をのぞむようになり、理論と経験を結合したよい活動家が数多くうまれ、真の理論家がいくらかうまれるようになる。われわれが教条主義を克服すれば、経験のある同志は、よい教師をえて、自分の経験を理論にまでたかめ、経験主義のあやまりをおかさずにすむようになる。
 「理論家」と「知識人」についてあいまいな考えがあるほかに、毎日口にしている「理論と実際の結びつき」ということについても、多くの同志の考えはあいまいである。かれらは、毎日「結びつき」をとなえているが、実際には「ひきはなし」をとなえている。なぜなら結びつけようとはしていないからである。マルクス・レーニン主義の理論と中国革命の実際をどのようにして結びつけるのか。わかりやすいことばでいえば、「的があって矢をはなつ」ことである。「矢」とは弓矢の矢であり、「的」とは標的であって、矢をはなつには標的をねらわなければならない。マルクス・レーニン主義と中国革命との関係は、つまり矢と的との関係である。ところが、一部の同志は「的がなくて矢をはなち」、乱射している。このような人はともすると革命をぶちこわす。また、一部の同志は、矢を手にしてなでたりさすったりし、しきりに「よい矢だ、よい矢だ」とほめそやすばかりで、いつになってもその矢をはなとうとしない。このような人は骨董《こっとう》鑑賞家であって、革命とはおよそ関係がない。マルクス・レーニン主義の矢は、中国革命の的を射るためにつかわなければならない。この問題をはっきりさせないなら、わが党の理論水準は永久にたかまらず、中国革命も永久に勝利することはできない。
 われわれがマルクス・レーニン主義を学ぶのは、見てくれをよくするためでもなければ、それがなにか神秘的なものをもっているからでもなく、ただそれがプロレタリア階級の革命事業を勝利にみちびく科学だからだということを、われわれの同志たちは理解しなければならない。いまでもまだ、マルクス・レーニン主義の書物にある個々の字句をできあいの妙薬とみなし、これを手にいれさえすれば、骨もおらずに、まちがいなく万病をなおせるかのように思っているものが少なくない。これは幼稚な人びとの蒙昧さをしめすものであって、われわれはこれらの人びとにたいして啓蒙運動をおこなわなければならない。マルクス・レーニン主義を宗教的教条とみなしているものこそ、こうした無知蒙昧の人びとである。こうした人びとにたいしては、卒直に、きみの教条はなんの役にもたたない、といってやるべきである。マルクス、エンゲルス、レーニン、スターリンは、われわれの学説は教条ではなくて行動の指針である、とくりかえし説いている。さきにのべた人びとは、よりによってこの重要なうえにも重要なことばを忘れている。中国共産党員として、理論と実際を結びつけたといえるのは、マルクス・レーニン主義の立場、観点、方法をうまく応用し、レーニン、スターリンの中国革命にかんする学説をうまく応用し、さらにすすんで、中国の歴史の実際と革命の実際についてのしんけんな研究のなかから、中国の必要にかなった理論的な創造を各方面でおこなったばあいだけである。口先で結びつきをとなえるだけで、行動では結びつけないなら、百年となえようとも、やはりむだである。主観的、一面的に問題をみることに反対するには、教条主義の主観性と一面性をぜひうちやぶらなければならない。
 主観主義に反対して全党の学風を整えるという問題について、きょう話したいのはこれだけである。
 ではつぎに、セクト主義の問題についてのべよう。
 二十年の鍛練をへたので、いまわが党内には支配的な地位をしめるセクト主義はなくなっている。しかし、セクト主義の残りかすはまだ存在しており、党内にたいするセクト主義の残りかすもあれば、党外にたいするセクト主義の残りかすもある。党内にたいするセクト主義の傾向は、対内的な排他性をうみだして、党の統一と団結をさまたげ、党外にたいするセクト主義の傾向は、対外的な排他性をうみだして、党の全国人民を結集する事業をさまたげる。この二つの面の禍根をのぞかなければ、党は、全党の同志を結集し、全国の人民を結集するという偉大な事業のなかで、順調に前進することができないのである。
 党内のセクト主義の残りかすとはなにか。主要なものにつぎのいくつかがある。
 まずはじめに、独自性を主張してたてつくことである。一部の同志は、局部の利益だけをみて、全体の利益をみず、いつも、自分のうけもっている局部の仕事を不当にもとくに強調し、いつも、全体の利益を自分たちの局部の利益にしたがわせようとする。かれらは、党の民主集中制がわからないし、共産党には民主が必要であるだけでなく、とりわけ集中が必要であることを知らない。かれらは、少数は多数にしたがい、下級は上級にしたがい、局部は全体にしたがい、全党は中央にしたがうという民主集中制を忘れている。張国燾《チャンクォタオ》は、党中央に独自性を主張してたてついたが、その結果、党を裏切り、特務になりさがった。いまのべているのは、これほど極端にひどいセクト主義ではないが、しかし、このような印象はあるかじめふせがなければならず、さまざまな不統一な現象を完全にとりのぞかなければならない。われわれは、大局に心をくばることを提唱しなければならない。一人ひとりの党員、それぞれの局部の仕事、一つ一つの言論または行動は、いずれも全党の利益を出発点とすべきであり、この原則にそむくことは絶対にゆるされない。
 こうした独自性を主張してたてつくものは、いつもその個人第一主義とはきりはなせず、個人と党の関係の問題ではつねに正しくない。かれらも口先では党を尊重するといっているが、実際には、個人を第一位におき、党を第二位においている。こういった人びとはなんのためにたてついているのか。名誉をつかみ、地位をつかみ、顔を売ろうというのである。かれらがある部分の仕事を担当するようになると、すぐ独自性を主張してたてつく。そのために一部の人をまるめこみ、一部の人をおしのけ、同志のあいだでほらをふいたり、おだてたり、ひっぱったり、だきこんだりして、ブルジョア政党の俗悪な作風をも共産党のなかにもちこんでくるのである。こうした人びとが失敗のうき目をみるのは誠実でないからである。われわれは誠実に仕事をすべきであり、世の中で、なにか仕事をやりとげるには、誠実な態度がなければとうていだめである、とわたしはおもう。誠実な人とはどんな人か。マルクス、エンゲルス、レーニン、スターリンが誠実な人であり、科学者が誠実な人である。誠実でない人とはどんな人か。トロツキー、ブハーリン、陳独秀、張国燾がもっとも誠実でない人であり、個人の利益のため、局部の利益のために独自性を主張してたてつく人も誠実でない人である。悪がしこい人、科学的態度でものごとを処理しない人はすべて、自分ではうまくいったとおもい、自分はとても聡明だとおもいこんでいるが、じつは、もっとも愚かであり、なんのよい結果もえられないのである。わが党学校の学生は、かならずこの問題に注意をはらわなければならない。われわれは、かならず集中し統一した党を建設しなければならす、無原則的な派閥闘争はすべて、きれいに一掃しなければならない。われわれ全党が整然と足なみをそろえ、一つの共同目標をめざして奮闘しようとすれば、われわれは、かならず個人主義とセクト主義に反対しなければならない。
 外来の幹部と地元の幹部は団結しなければならず、セクト主義の傾向に反対しなければならない。多くの抗日根拠地は八路軍、新四軍がきてから創設されたものであり、地方活動の多くは外来の幹部がきてから発展したものであるから、外来の幹部と地元の幹部の関係には十分に注意をはらわなければならない。このような条件のもとでは、外来の幹部と地元の幹部が完全に一致団結し、また地元の幹部が大量に成長し、抜てきされてはじめて、根拠地が強固になり、わが党がそこに根をおろすことができるのであって、さもなければ、それは不可能だということを、わが同志たちは理解すべきである。外来の幹部と地元の幹部には、それぞれ長所もあれば短所もあって、たがいに長所をとりいれ、短所をおぎなわなければ、進歩はありえない。状況にくわしいという点と大衆に結びついているという点では、外来の幹部は、地元の幹部にくらべてどうしてもいくらかおとっている。わたしにしてもそうである。わたしは陝西《シャンシー》省北部にきてからもう五、六年になるが、陝西省北部の状況にたいする理解にしても、陝西省北部の人民との結びつきにしても、陝西省北部の一部の同志にくらべて、はるかにおとっている。山西《シャンシー》省、河北《ホーペイ》省、山東《シャントン》省またはその他の抗日根拠地にいくわれわれの同志たちは、かならずこの問題に注意しなければならない。そればかりでなく、たとえ一つの根拠地のなかでも、地域によって発展にあとさきのちがいがあるため、幹部のあいだにはやはり外来と地元のちがいがある。よりすすんだ地域の幹部がよりおくれた地域にいけば、そこではやはり外来の幹部であり、地元の幹部をたすけるという問題にはやはり十分に注意しなければならない。一般の状況のもとでは、外来の幹部が指導の責務を負っているところで、もし地元の幹部との関係がうまくいかないとすれば、その責任は主として外来の幹部が負うべきである。主要な指導の責務を負う同志はよりいっそう責任が大きい。いま各地では、この問題にたいする注意がまだひじょうに不十分であり、一部の人びとは地元の幹部をみくびったり、あざけったりして、「地元のものになにがわかるものか、田舎っぺが」といっている。こうした人たちには、地元の幹部の重要性がまったくわからない。かれらは、地元の幹部の長所も知らなければ、自分の短所も知らないで、正しくないセクト主義的な態度をとっているのである。すべての外来の幹部はかならず地元の幹部を大事にし、つねにかれらをたすけるべきであって、かれらを嘲笑したり、打撃をあたえたりしてはならない。もちろん、地元の幹部も外来の幹部の長所を学び、あの不適当なせまい観点をすてきって、外来の幹部とすこしもわけへだてなく一つにとけあうようにし、セクト主義の傾向をさけなければならない。
 軍隊で活動している幹部と地方で活動している幹部の関係もまたそうである。両者は完全に一致団結しなければならず、セクト主義の傾向に反対しなければならない。軍隊の幹部は地方の幹部をたすけ、地方の幹部もまた軍隊の幹部をたすげなければならない。もしいざこざがおきたときには、双方がゆるしあい、それぞれが自分について正しい自己批判をおこなうべきである。軍隊の幹部が事実上指導的地位にあるところで、もし地方の幹部との関係がうまくいかないとすれば、一般の状況のもとでは、そのおもな責任は軍隊の幹部が負うべきである。軍隊の幹部に、まず自分の責任を理解させ、謙虚な態度で地方の幹部と接するようにさせないかぎり、根拠地における戦争と建設の仕事を順調にすすめる条件はえられないのである。
 いくつかの軍隊のあいだ、いくつかの地方のあいだ、いくつかの活動部門のあいだの関係もまたそうである。自分のほうのことばかり考えていて、他のもののことを考えない本位主義の傾向に反対しなければならない。他のものの困難には目もくれず、よそから自分のところの幹部をもとめられても、それを手ばなさなかったり、わるい幹部をまわしたりして、「隣《りん》を以《も》って壑《がく》となし」、他の部門、他の地方、他の人のことをすこしも考えないような、こうした人びとを本位主義者とよぶのであり、これはまったく共産主義の精神をうしなったものである。大局をかえりみず、他の部門、他の地方、他の人にはなんら関心をよせないこと、これが本位主義者の特徴である。こうした人にたいしては、それがセクト主義の傾向であって、発展していくとひじょうに危険だということをわからせるため教育を強めなければならない。
 もう一つの問題は、ふるい幹部とあたらしい幹部の関係の問題である。抗戦いらい、わが党は大きく発展し、あたらしい幹部が大量にうまれたが、これはよい現象である。スターリン同志は、ソ連共産党第十八回大会での報告のなかで、「ふるい幹部はいつも少なく、必要な数より少ないものである。しかも、かれらは宇宙の自然法則によって、すでに一部は戦列からはなれはじめている」といっている。スターリンは、ここで幹部の状態について語り、また自然科学についても語っている。わが党に、もし数多くのあたらしい幹部とふるい幹部の一致協力がなければ、われわれの事業は中断してしまう。したがって、すべてのふるい幹部は、最大の熱情をもってあたらしい幹部を歓迎し、あたらしい幹部に関心をよせるべきである。なるほど、あたらしい幹部には欠点がある。かれらは、革命に参加してからまだ日があさく、経験もとぼしく、かれらのうちのあるものは、どうしてもまだ旧社会のよくない思想のしっぽ、すなわち小ブルジョア階級の個人主義思想の残りかすを身につけてくる。しかし、これらの欠点は、教育をつうじ、革命できたえられるなかで、しだいにとりさることができる。かれらの長所は、かつてスターリンがのべたように、新鮮な事物にたいして鋭敏な感覚をもっていること、したがって、高度の熱情と積極性をもっていることであり、しかもこの点こそ、一部のふるい幹部に欠けているものである〔5〕。新旧幹部は一致団結して共同の事業をおしすすめるため、たがいに尊重しあい、学びあい、長所をとりいれ短所をおぎなって、セクト主義の傾向をふせぐべきである。ふるい幹部が主要な指導の責務を負っているところで、もし、ふるい幹部とあたらしい幹部の関係がうまくいかないとすれば、一般の状況のもとでは、ふるい幹部がおもな責任を負うべきである。
 以上にのべたような、局部と全体の関係、個人と党の関係、外来の幹部と地元の幹部の関係、軍隊の幹部と地方の幹部の関係、軍隊と軍隊、地方と地方、ある活動部門と他の活動部門の関係、ふるい幹部とあたらしい幹部の関係、これらはすべて党内での相互関係である。わが党の隊列を整然とさせ、足なみを一致させる目的を達成して、戦闘を有利にするためには、これらのいろいろの面で、共産主義の精神をたかめ、セクト主義の傾向をふせぐべきである。これはひじょうに重要な問題であり、党の作風を整えるには、この問題を徹底的に解決しなければならない。セクト主義は主観主義が組織関係にあらわれたものである。われわれが主観主義をすて、事実にもとづいて法則性をもとめるマルクス・レーニン主義の精神を発揚しようとすれば、党内のセクト主義の残りかすを一掃し、党の利益が個人や局部の利益に優先するという点から出発して、党を完全な団結と統一の状態にまでたかめていかなければならない。
 セクト主義の残りかすは、党内関係において消滅すべきものであるが、覚外関係においても消滅すべきものである。その理由は、全党の同志を結集しただけではまだ敵にうち勝つことができず、敵にうち勝つには全国人民を結集しなければならないということにある。中国共産党は、このご十年らい、全国人民を結集する事業のなかでは、苦難にみちた偉人な活動をしており、抗戦いらい、この活動の成果はいっそう偉大なものとなっている。しかし、これはなにも、われわれの同志がみな人民大衆にたいして正しい作風をもつようになり、だれにもセクト主義の傾向がなくなったというのではない。そうではなく、一部の同志のあいだには、たしかにまだセクト主義の傾向があり、なかには相当ひどいものもいる。われわれの多くの同志は、党外の人びとにたいして尊大にふるまいたがり、人を軽視し蔑視《べっし》して、人を尊敬しようとせず、人の長所を理解しようとしない。これがセクト主義の傾向である。これらの同志は、マルクス主義の書物を何冊か読むと、いっそう謙虚になるのではなくて、いっそう傲慢《ごうまん》になり、きまって人のことはだめだというが、実際には自分こそなまはんかの知識しかもっていないということを知らないのである。われわれの同志は、一つの真理、つまり共産党員は党外の人びとにくるべて、いつでも少数だということを理解しなければならない。かりに、百人のうちにひとりの共産党員がいるとすると、全中国四億五千万人のなかには四百五十万の共産党員がいることになる。たとえこんなに大きな数にたっしたとしても、共産党員はやはり一パーセントをしめるにすぎず、九九パーセントは非党員である。われわれに非党員と協力しないどんな理由があろうか。われわれと協力することをのぞみ、また、協力することのできるすべての人びとにたいしては、これらの人びとと協力する義務こそあれ、排斥する権利は絶対にない。ところが、一部の党員はこの道理がわからず、われわれとの協力をのぞむ人びとを軽視し、さらには排斥さえする。これはなんら根拠のないことである。マルクス、エンゲルス、レーニン、スターリンは、われわれにこのような根拠をあたえただろうか。あたえてはいない。反対に、かれらは、いつもわれわれに、大衆からはなれることなく、大衆と緊密に結びつかなければならない、とくりかえしさとしている。中国共産党中央は、われわれにこのような根拠をあたえているだろうか。あたえてはいない。中央のすべての決議のなかには、われわれが大衆からはなれ、自分を孤立させてもよいといっている決議は一つもない。反対に、中央は、いつもわれわれに、大衆からはなれることなく、大衆と緊密に結びつかなければならないと教えている。したがって、大衆からはなれる行為はすべて、なんらの根拠もなく、それはわれわれの一部の同志が自分でつくりだしたセクト主義の思想がわざわいしているにすぎない。このようなセクト主義は一部の同志のあいだでは、いまでもかなりひどく、いまでも党の路線の実行をさまたげているので、われわれは、真正面からこの問題をとりあげて党内で広範な教育をすすめなければならない。なによりもまず、われわれの幹部に、この問題の重大さをほんとうに理解させなければならず、もし共産党員が党外の幹部および党外の人びとと連合しなければ、敵はけっしてうちたおせないし、革命の目的はけっしてたっせられないことを、理解させなければならない。
 セクト主義の思想はすべて、主観主義的なもので、革命の実際の要求に合致しない。したがって、セクト主義に反対する闘争と主観主義に反対する闘争は同時におこなうべきである。
 党八股の問題については、きょうは話せないので、別の会議でのべたいとおもう。党八股は、ちりあくたをつつみかくすものであり、主観主義とセクト主義の一つの表現形態である。それは人をそこない、革命を不利にするものであり、われわれはそれを一掃しなければならない。
 主観主義に反対するには、唯物論を宣伝し、弁証法を宣伝しなければならない。だが、わが党内には、唯物論の宣伝も重視せず、弁証法の宣伝も重視しない同志がまだたくさんいる。一部の同志は、他のものが主観主義を宣伝するのを放任し、平然として意に介しない。これらの同志は、自分ではマルクス主義を信じているつもりだが、唯物論の宣伝につとめず、主観主義的なものを見たり聞いたりしても、べつに考えもしなければ、意見もださない。このような態度は共産党員の態度ではない。このため、われわれの多くの同志は主観主義思想に毒され、無感覚になっている。したがって、主観主義、教条主義に迷わされているわれわれの同志を精神的に解放するため、われわれは党内で啓蒙運動をおこし、主観主義、セクト主義、党八股を排斥するよう、同志たちによびかけなければならない。これらのものはちょうど日本商品のようなもので、われわれがこのような悪いものを保存し、ひきつづきこれに迷わされることをのぞんでいるのは、われわれの敵だけである。だから、われわれは日本商品の排斥〔6〕と同様に、これらのものの排斥を提唱すべきである。われわれは、主観主義、セクト主義、党八股というあらゆるしろものを排斥して、それらが市場で売りさばかれるのを困難にし、党内の理論水準の低さに乗じて売りだされるのをゆるさないようにしなければならない。このためには、同志諸君が嗅覚をするどくする必要があり、どんなものでも鼻でかいでみて、そのよしあしをかぎわけてから、これを歓迎するか、排斥するかをきめる必要がある。共産党員は、どんなことがらについても、なぜかという問いを発してみる必要があり、なんでも自分の頭で綿密に考え、それが実際と合致するかどうか、ほんとうに道理があるかどうかを考える必要があり、絶対に盲従すべきではなく、絶対に奴隷主義をとなえるべきではない。
 最後に、われわれが主観主義、セクト主義、党八股に反対するにあたって、注意すべき二つのたてまえがある。第一に、「前のあやまりを後のいましめとする」こと、第二に、「病をなおして人を救う」ことである。後の活動をもっと慎重に、もっとりっぱなものにするため、前のあやまりにたいしては、情実にとらわれず、かならずこれを指摘し、科学的な態度で、過去のわるいものを分析し批判しなければならない。これが、「前のあやまりを後のいましめとする」という意味である。しかし、われわれが、あやまりを指摘し、欠点を批判する目的は、医者が病気をなおすのと同様、まったく人を救うためであって、死においこむためではない。だれかが盲腸炎をわすらったとしても、医者が盲腸をきればその人はたすかるのである。あやまりをおかした人はだれであろうと、病気をかくし、医者をきらい、あやまりを固執して、どうにも救えない状態にまでたちいたるのではなく、すなおに、ほんとうになおそうとし、あらためようとするのでありさえすれば、われわれはその人を歓迎し、よい同志になれるように、その病をなおすものである。この仕事は、けっして、一時の腹いせから、むちゃくちゃにやっつけることで効果のあがるものではない。思想上の病や政治上の病にたいしては、けっして、向こうみずな態度をとってはならず、「病をなおして人を救う」態度をとるべきであり、これこそが正しい効果的な方法である。
 きょう、見学校の始業の機会をかりて、いろいろと話したが、同志諸君がよく考えるよう希望する。(熱烈な拍手)



〔1〕 本選集第一巻の『中国革命戦争の戦略問題』注〔37〕を参照。八股文とはまったく内容のない、もっぱら形式にとらわれて文字をもてあそぶものである。このような文章は、どの段落にも固定した格式がなければならす、宇数にも一定の制限があって、人びとはただ題目の字づらの意味にしたがって、それをひきのはして文章をつくるだけである。「党八股」とは革命陣営内の一部の人びとの書いた文章のことで、そのような文章は、事物について分析せず、ただ、でたらめにいくらかの革命的な名詞や術語をもちこむだけで、いささかも中味がなく、空論をならべたてるものであり、やはり上述の八股文とおなじものである。
〔2〕 一九三九年十二月の、知識人を吸収することについての中国共産党中央の決定をさす。本題集第二巻の『知識人を大量に吸収せよ』という論文がそれである。
〔3〕 スターリンの『レーニン主義の基礎について』の第三部分にみられる。
〔4〕 これは孔子とその弟子たちの語録である『論語』の冒頭の一句である。
〔5〕 スターリンの『第十八回党大会におけるソ連共産党(ボリシェビキ)中央委員会の活動にかんする総括報告』の第三部分の第二節にみられる。
〔6〕 日本商品の排斥とは、中国人民が二〇世紀の前半、日本帝国主義の侵略に反抗するためによくつかった闘争方式の一つであった。たとえば、一九一九年の五・四愛国運動の時期、一九三一年の九・一八事変ののち、および抗日戦争の期間に、中国人民は日本商品排斥の運動をおこなったことがある。
訳注
① 本選集第二巻の『持久戦について』注〔6〕を参照。
② 本選集第一巻の『日本帝国主義に反対する戦術について』注〔21〕〔22〕を参照。
③ 「隣を以って壑となす」は『孟子』―「告子章句下」にみられることばで、原文は「禹《う》は四海を以って壑となす。いま吾子《ごし》は隣国を以って壑となす」となっている。つまり隣国を大きなため池とみなし、自国の洪水の水をそこに流しこむという意味である。このことばは、のちに、自分の利益をはかるため人に損害をあたえ、災いを人に転嫁する意味につかわれている。

maobadi 2011-01-14 20:54
党八股に反対しよう
          (一九四二年二月八日)
     これは、毛沢東同志が延安の幹部大会でおこなった講演である。

 ただいま凱豊《カイフォン》同志がきょうの大会の趣旨をのべた。こんどはわたしから、主観主義とセクト主義がどのように党八股《はっこ》をその宣伝の道具または表現の形態としているかについてのべたいとおもう。われわれが主観主義とセクト主義に反対するにあたって、もし党八股もいっしょに清算してしまわなかったら、この二つはまだかくれ家があり、まだ身をひそめることができる。もしわれわれが党八股もいっしょに打倒したなら、主観主義、セクト主義にたいして最後の「王手をかける」ことになり、そのためこの二つの怪物は正体をあらわし、まるで「通りにでた鼠が袋だたきにあう」ようにたやすく退治される。
 党八股を書いても、自分だけで読むなら、まだたいしたことはない。もしそれをだれかに読ませることになると、人数は倍になって、もはや害は少なくない。さらに壁にはったり、謄写版ですったり、新聞にのせたり、本にしたりすれば、それこそ問題は大きくなり、多くの人に影響をおよぼすことになる。ところが、党八股を書く人びとは、きまって多くの人に見せたがるものである。だからどうしてもそれを摘発し、打倒しなければならない。
 党八股はつまり一種の洋八股でもある。乙の洋八股は魯迅《ルーシュイン》がはやくから反対していたものである〔1〕。それなら、なぜわれわれは党八股とよぶのか。それはバタ臭いところがあるほかに、どろ臭いところもあるからである。これも一つの創作といえるだろう。われわれのあいだに創作がすこしもないなどとだれがいえるだろうか。これがその一つである! (爆笑)
 党八股はわが党内ではもう長い歴史をもっており、とくに土地革命の時期には、ずいぶんひどくなったこともある。
 歴史的にみれば、党八股は五・四運動にたいする一つの反動である。
 五・四運動の時期には、一群の新しい人物が文語文に反対して口語文を提唱し、ふるい教条に反対して科学と民主主義を提唱した。これらはみな正しかった。当時、この運動は生気はつらつとした、前進的、革命的なものであった。当時の支配階級はみな孔子さまの道理を学生に教え、孔子さまのお説教を宗教の教条とおなじにみなしてその信奉を人民に強制し、文章を書く人はだれでも文語文をつかったのである。要するに、当時の支配階級とそのたいこもち連中の文章や教育は、その内容にしろ形式にしろ、いずれも八股式、教条式であった。これが旧八股、旧教条である。このような旧八股、旧教条のみにくい姿を人民のまえにあばきだし、旧八股・旧教条反対に立ちあがるよう人民によびかけたこと、これが五・四運動の時期のきわめて大きな功績の一つであった。五・四運動には、このほかにこれと結びついた帝国主義反対という大きな功績があったが、この旧八股・旧教条反対の闘争もやはりその大きな功績の一つであった。しかしあとになって、洋八股、洋教条がうまれた。わが党内のマルクス主義にそむいた一部の人は、この洋八股、洋教条を発展させて、主観主義、セクト主義、党八股というものにしてしまった。それらが新八股、新教条である。こうした新八股、新教条はわれわれの多くの同志の頭のなかに深く根をおろしていて、こんにちそれを改造するにはまだまだ大きな力をついやさなければならない。こうみてくると、封建主義的な旧八股、旧教条に反対した、「五・四」の時期の生気はつらつとした、前進的、革命的な運動が、のちに一部の人によってその反対の側に発展させられ、新八股、新教条がうまれたのである。それは、生気はつらつとしたものではなくて硬直したものであり、前進するものではなくて後退するものであり、革命的なものではなくて革命をさまたげるものである。つまり洋八股または党八股は五・四運動の本来の性質にたいする反動である。しかし五・四運動そのものにも欠点があった。当時の多くの指導的人物は、まだマルクス主義の批判精神をもたず、かれらの用いた方法は、一般的にはまだブルジョア的な方法すなわち形式主義の方法であった。かれらが旧八股、旧教条に反対し、科学と民主主義を主張したことは、たいへん正しかった。しかしかれらは、現状について、歴史について、外国の事物について、史的唯物論の批判精神をもたず、わるいとなると絶対にわるくて、なにもかもわるいし、よいとなると絶対によくて、なにもかもよいというふうであった。このように問題を形式主義的にみる方法は、この運動のその後の発展に影響をおよぼした。五・四運動は発展して、二つの流れにわかれた。一部の人は、五・四運動の科学的、民主主義的精神をうけつぎ、さらにマルクス主義を基礎にしてこれを改造した。これは共産党員と党外の若干のマルクス主義者のなしとげた仕事である。他の一部の人はブルジョア階級の道をあゆんだ。これは形式主義の石への発展である。だが、共産党内でも一致していたわけではなく、一部の人には、マルクス主義をしっかりとつかめず、形式王義のあやまりをおかすという偏向がうまれた。これは、主観主義、セクト主義、党八股であり、形式主義の「左」への発展である。こうみてくると、党八股というものは、なにも偶然のものではなく、一方では五・四運動の積極的な要素にたいする反動であり、他方ではまた五・四運動の消極的な要素の継承、継続または発展なのである。われわれがこの点を理解するのは有益なことである。「五・四」の時期に、旧八股、旧教条主義に反対することが革命的であり、必要であったように、こんにち、われわれがマルクス主義によって新八股、新教条主義を批判することもまた革命的であり、必要である。「五・四」の時期に、旧八股、旧教条主義に反対せずにいたら、中国人民の思想は、旧八股、旧教条主義の束縛から解放されず、中国には、自由独立の希望もありえなかったであろう。この仕事は、五・四運動の時期には、まだ発端にすぎなかった。全国人民を旧八股、旧教条主義の支配から完全にぬけださせるには、まだまだ大きな力をついやすことが必要で、それはやはり今後の革命的改造の途上における一大工事である。こんにち、われわれが新八股、新教条主義に反対せずにいたら、中国人民の思想はまた別の形式主義の束縛をうけるであろう。わが党内の一部(もちろん一部にすぎない)の同志があてられている党八股の毒、かれらがおかしている教条主義のあやまりとなると、もしそれをとりのぞかずにいたら、生気はつらつとした革命的精神を喚起することはできず、マルクス主義にたいして正しくない態度をとる悪風を一掃することはできず、真のマルクス主義をひろく伝え、発展させることはできない。また、全国人民のあいだにおける旧八股、旧教条の影響にたいし、全国の多くの人びとのあいだにおける洋八股、洋教条の影響にたいして、力づよい闘争をおこなうこともできず、これを粉砕し粛清する目的を達成することもできない。
 主観主義、セクト主義、党八股、この三つはすべて反マルクス主義的なものであって、搾取階級には必要であるが、プロレタリア階級には必要でない。こういうものがわが党内にあるのは、小ブルジョア思想の反映である。中国はきわめて広範な小ブルジョア階級をもつ国で、わが党はこの広範な階級に包囲されている。しかもわが党のひじょうに多くの党員がこの階級の出身であって、かれらが長いにせよ短いにせよ、小ブルジョアのしっぽをひきずって党にはいってくるのはさけがたい。小ブルジョア階級の革命者の熱狂性と一面性は、もしそれを抑制し改造しなければ、主観主義、セクト主義をうみだしやすい。その表現形態の一つが洋八股または党八股なのである。
 このようなものをとりのぞき、掃きすてるのは容易なことではない。それをおこなうには当をえなければならない。つまりよく道理を説くことである。もし道理の説きかたがじょうずで当をえたものなら、きっと効果があがる。道理を説く手はじめの方法は、患者にむかって大喝《だいかつ》一声、「きみは病気だぞ!」といっておどろかせ、汗びっしょりにさせるというように強烈な刺激をあたえることである。そのあとでじっくりと治療させるのである。
 では、党八股のわるい点はどこにあるのかを分析してみよう。われわれも、毒をもって毒を制し、八股文の筆法〔2〕にならってひとつ「八股」でいき、それを八大罪状とよぶことにしよう。
 党八股の第一の罪状は、全編これ空論、いささかも中味なし、である。われわれの同志のなかには長い文章を書きたがるものがいるが、内容はなんにもなく、それこそ「ものぐさ女の纏足《てんそく》の布、長くてくさい」。どうして、そんなに長くてからっぽなものを書かなければならないのか。それは大衆に読ませまいと決心しているのだとしか解釈できない。長たらしくてからっぽときては、大衆はひと目みただけで首を横にふる。どうして読みとおす気になどなれようか。だから幼稚な人びとをなめてかかって、かれらのあいだにわるい影響をふりまき、わるい習慣をつくりだすぐらいがおちである。昨年の六月二十二日にソ連はあのような大規模な反侵略戦争にはいり、七月三日にスターリンが演説したが、それでさえわれわれの『解放日報』の社説ほどの長さしかなかった。もしわれわれの旦那がたが書いたとすれば、それこそたいへんで、最小限、数万字にはのぼったであろう。いまは戦争の時期であり、われわれはどのようにして文章を短く書き、ねれたものにするかを研究すべきである。延安《イェンアン》ではまだ戦闘はおこなわれていないが、前線ではまいにち軍隊が戦っており、後方でも仕事のいそがしさが叫ばれているのに、文章が長すぎたらだれが読むだろうか。一部の同志は、前線でもこのんで長い報告を書く。かれらは、さんざん苦労して書き、それを送ってくる。その目的はわれわれに読ませることにある。だが、どうして読む気になれようか。長くてからっぽなのがよくないとすれば、短くてからっぽなのはよいだろうか。それもよくない。われわれはあらゆる空論を根だやしにすべきである。だが、主要な、そして第一の任務は、例の長くてくさい、ものぐさ女の纒足の布をさっさとごみ箱になげすてることである。『資本論』は長いではないか、あれはどうするのだ、という人がいるかもしれない。それは問題ない、読んでいけばよい。ことわざにも「あの山に登ればあの歌、この山に登ればこの歌」といい、「おかずにあわせて飯を食い、からだにあわせて服を裁つ」という。なにごとをするにも、その状況におうじて処置する必要があり、文章や演説もそうである。われわれが反対するのは、全編これ空論、いささかも中味なし、という八股調であって、なんでも短いほうがよいというのではない。戦争の時期には、もちろん短い文章が必要だが、とりわけ内容のある文章が必要である。いちばんいけない、いちばん反対しなければならないのは、いささかも中味なし、という文章である。演説もおなじで、全編これ空論、いささかも中味なし、という演説はやめなければならない。
 党八股の第二の罪状は、虚勢をはり、以《も》って人をおどす、である。党八股のなかにはたんに全編これ空論、というだけでなく、もったいぶって故意に人をおどそうとするものもあるが、これにはわるい毒素がふくまれている。全編これ空論、いささかも中味なしは、まだ幼稚だといえるが、虚勢をはり、以って人をおどすとなると、幼稚どころかまるでごろつきである。かつて魯迅はこのような人たちを批判して、「罵倒《ばとう》や威嚇《いかく》はけっして戦闘ではない」〔3〕といった。科学的なものは、いつどんなときでも人の批判をおそれない。なぜなら科学は真理であり、けっして人に反ばくされるのをおそれないからである。それにひきかえ党八股式の文章や演説のなかにあらわれている主観主義的、セクト主義的なものは、人に反ばくされるのをたいへんおそれ、ひじょうに臆病《おくびょう》なので、もったいぶって人をおどす。こうしておどせば、相手は口をつぐんでしまい自分は「勝ちほこって凱旋《がいせん》」できると考えるのである。このような虚勢をはったものは、真理を妨害するものであって、真理を反映することはできない。それが真理であれば、もったいぶって人をおどすのではなく、ただ誠実に語り、実行していけばよい。以前、多くの同志の文章や演説には、一つは「無慈悲な闘争」、もう一つは「容赦ない打撃」という二つのことばがよくつかわれたものである。こうした手段は、敵や敵対的な思想にたいしてはぜひとも必要であるが、自分の同志にたいしてとるのはあやまりである。『ソ連共産党(ボリシェビキ)歴史小教程』の結語の第四項にのべられているように、党内にもしばしは敵や敵対的な思想がまぎれこんでくる。これにたいしては、疑いもなく無慈悲な闘争または容赦ない打撃の手段をとるべきである。なぜなら、それらの悪人が党にたいしてこうした手段をとっているのに、それでもわれわれがかれらにたいして寛容であれば、悪人の悪だくみにかかることになるからである。しかし、偶然にあやまりをおかした同志にたいしては、それとおなじ手段をとってはならない。これらの同志にたいしては、批判と自己批判の方法、つまり『ソ連共産党(ボリシェビキ)歴史小教程』の結語の第五項にのべられている方法をとらなければならない。以前、われわれの一部の同志がこれらの同志にたいしても、さかんに「無慈悲な闘争」や「容赦ない打撃」をふりまわしたのは、一方では対象を分析しなかったからであり、他方では虚勢をはり、以って人をおどすためであった。どんな人にたいしても、虚勢をはり、以っておどすという方法はとるべきでない。なぜなら、このようなおどし戦術は、敵にたいしてはなんの役にもたたず、同志にたいしては害があるだけだからである。このようなおどし戦術は搾取階級やルンペン・プロレタリアの常套《じょうとう》手段であって、プロレタリア階級はこうした手段を必要としない。プロレタリア階級にとって、もっとも鋭利な、もっとも効果的な武器はただ一つ、それは厳粛な戦闘的な科学的態度である。共産党は、人をおどすことによって飯をくうのではなく、マルクス・レーニン主義の真理によって飯をくい、事実にもとづいて正しく活動することによって飯をくい、科学によって飯をくうのである。虚勢をはって、名誉や地位をえようとするにいたっては、もっと下劣な考えであることはいうまでもない。要するに、どの機関が決定をおこない、指示をだすにしても、どの同志が文章を書き、演説をするにしても、すべてマルクス・レーニン主義の真理にたよらなければならないし、実際に役立つということにたよらなければならない。革命の勝利をたたかいとるにはこれにたよるほかはなく、その他のものはすべて無益である。
 党八股の第三の罪状は、的なくして矢をはなち、対象を見ず、である。何年かまえに、延安の城壁に、「工人、農民は団結して抗日の勝利をたたかいとろう」というスローガンを見かけたことがある。このスローガンの意味はべつにわるくはないが、その工人の工の字は、第二画をまっすぐに書かないで、二度もまげてあった。人という字はどうか。右の方に三つのハネをつけてあった(電子版注:電子版では文章を若干変更)。これをお書きになった同志が昔の文人や大学者の門下であることは疑いないが、抗日の時期にこの延安というところの城壁にお書きになったとなるとちょっとわけがわからない。たぶんその人も民衆に見せまいと誓いをたてたのであろう。そうでないとしたら、どうにも解釈のしようがない。共産党員がほんとうに宣伝しようとおもうなる、対象を見なければならず、自分の文章、演説、談話、文字をどういう人に見せ、どういう人に聞かせるかを考えなければならない。そうしなければ、人に見せまい、聞かせまいと決心したのとおなじである。多くの人はしばしば、自分の書くこと話すことはだれが見てもよくわかりだれが聞いてもよくわかるものとおもいこんでいるが、実はまったくそうではない。その人の書くこと、話すことが党八股なのだから、人にわかるはずがない。「牛を相手に琴をひく」ということばには、相手を嘲笑する意味がふくまれている。もしその意味をとりさって、相手を尊重する意味をもりこめば、琴のひき手を嘲笑する意味しかのこらなくなる。なぜ相手を見ないでやたらに琴をひくのか。まして、これが党八股で、それこそからすの鳴き声なのに、わざわざ人民大衆にむかってがあがあとわめきたてようとする。矢をはなつには的を見さだめ、琴をひくには聴衆を見なければならないのに、文章を書き演説をするときは読者や聴衆を見なくてもよいのだろうか。われわれがどんな人と友だちになるにせよ、おたがいの気持ちがわからず、おたがいに心のなかでどんなことを考えているかを知らないとしたら、心の通う友になれるだろうか。宣伝活動をするものが、自分の宣伝対象について調査も、研究も、分析もせずに、やたらにしゃべるのは断じてよろしくない。
 党八股の第四の罪状は、ことばに味なく、[”やまいだれ”の中に縦に”自”+”]三〔4〕《ビエサン》のごとし、である。上海人が小[”やまいだれ”の中に縦に”自”+”]三とよんでいるあの連中は、われわれの党八股にじつによく似ており、やせこけていて、たいへんみにくい格好をしている。もし、ある文章、ある演説が、どうひねくりまわしても、いつもおなじような用語、おきまりの「学生口調」ばかりで、すこしもいきいきとしたことばがないとしたら、それこそことばに味がなく、顔つきはにくにくしく、[”やまいだれ”の中に縦に”自”+”]三そっくりではないだろうか。七歳で小学校にはいり、十何歳かで中学にはいり、二十何歳かで大学を卒業し、ずっと人民大衆と接触したことがない人なら、ことばが豊富でなく、きわめて単純なのもやむをえない。しかし、われわれは革命党で、大衆のために仕事をしているのだから、もし大衆のことばを学ばなかったら、仕事がうまくいくはずはない。いまわれわれのあいだには、宣伝活動をしていながらことばを学ばない同志がたくさんいる。かれらの宣伝は味もそっけもなく、その文章をよろこんで読む人はいくらもいないし、その演説をよろこんで聞く人もいくらもいない。なぜ、ことばを学ぶ必要があるのか、それも、ひじょうな努力をはらって学ぶ必要があるのか。それは、ことばというものはいいかげんで身につけるれるものではなく、苦労をかさねなければ身につけられないからである。第一に、人民大衆からことばを学ぶことである。人民のことばは実際の生活をあらわしていて、ひじょうにゆたかでいきいきとしている。われわれのあいだの多くの人はことばをよく身につけていないので、文章を書くにも演説をするにも、いきいきとした、力づよくてぴったりとしたことばはいくらもなく、ひからびたすじばかりで、[”やまいだれ”の中に縦に”自”+”]三みたいにやせこけてみすぼらしく、見るからに健康な人ではない。第二に、外国のことばのなかからわれわれに必要なものを吸収することである。われわれは外国のことばをむりにとりいれたり、やたらにつかうのではなく、外国のことばのなかのよいもの、われわれに適するものを吸収しなければならない。それは、中国にもとからある語彙ではたりないからである。現在、われわれの語彙のなかには外国からたくさんのものが吸収されている。たとえば、きょうひらいている幹部大会の「幹部」という二字は、外国から学んだものである。われわれはもっともっと外国の新しいものを吸収する必要があり、かれらの進歩した理論を吸収するだけでなく、かれるの新鮮な用語も吸収しなければならない。第三に、われわれはさらに古人のことばのうち生命のあるものを学ぶことである。われわれは、ことばを学ぶことに努力していないために、古人のことばのうちまだ生気のあるたくさんのものを十分に合理的に利用してはいない。もちろん、われわれがすでに死んだ語彙や故事をつかうことにつよく反対するということ、これはきまりきっているが、よいもの、まだ役にたつものはやはりうけつぐべきである。現在、ひどく党八股の毒にあてられている人たちは、民間や外国や古人のことばのなかの役にたつものを苦労をかさねて学びとろうとしない。そのため、大衆はかれらの無味乾燥な宣伝を歓迎しないし、われわれもまたこのようなへたくそな、役にたたない宣伝家を必要としないのである。宣伝家とはなにか。教員が宣伝家であり、新聞記者が宣伝家であり、文学・芸術活動家が宣伝家であるというばかりでなく、われわれのすべての幹部も宣伝家である。たとえば軍事指揮員のばあい、かれらは、なにも外にたいして宣言を発表したりはしないが、兵士たちと話をし、人民と相談するのである。これが宣伝でなくてなんであろうか。だれでも人と話をしさえすれば、それは宣伝活動をしているのである。その人がおしでないかぎり、きっとなにかは話すものである。したがって、われわれの同志たちはみなぜひともことばを学ばなければならない。
 党八股の第五の罪状は、甲乙丙丁と、漢方薬の店をひらく、である。諸君、漢方薬の店にいってみるとよい。そこの薬の戸だなには一つ一つ薬の名まえをはったたくきんのひきだしがあって、当帰《とうき》、熟地《じゅくち》、大黄《だいおう》、芒硝《ぼうしょう》など、なんでもそろっている。この方法をわれわれの同志たちも学びとっている。文章を書くにも、演説をするにも、書物をあらわすにも、報告書を書くにも、第一には、むずかしい壱、弐、参、[長+聿]《し》、第二には、ふつうの一、二、三、四、第三には、甲、乙、丙、丁、第四には、子《ね》、丑《うし》、寅《とら》、卯《う》、とならべたて、さらに大文字のA、B、C、D、小文字のa、b、c、d、それにアラビア数字と、いくらでもある。古人や外国人がわれわれのためにこんなにたくさん符号をつくっておいてくれたおかげで、われわれは漢方薬の店をひらくのに、すこしも骨をおらないですむ。こうした符号でうずまっていて、問題を提起もせず、分析もせず、解決もせず、なにに賛成してなにに反対するかを表明もしない文章は、いくら書きまくってみても結局漢方薬の店で、ほんとうの内容などなにもない。わたしは、甲、乙、丙、丁などの文字をつかってはならないといっているのではなくて、問題をあつかうそうした方法がまちがっているというのである。現在、多くの同志はこの漢方薬の店をひらく方法に興味津《しん》々であるが、まったく低級、幼稚、卑俗きわまる方法である。こうした方法こそ形式主義の方法であって、事物の内部的なつながりによって分類するのではなく、外部的な目じるしによって分類するものである。たんに事物の外部的な目じるしにしたがい、内部的なつながりのない概念をたくさんならべたてて、文章とか演説とか報告とかにしあげるというやり方では、その人目身が概念の遊戯をしているばかりでなくも他人をもこうした遊戯にひきいれ、頭をはたらかせて問題を考えることもせず、事物の本質を考えることもしないで、甲乙丙丁といった現象の羅列《られつ》に満足するようにしてしまう。問題とはなにか。問題とは事物の矛盾である。解決されていない矛盾があればそこに問題がある。問題がある以上、どうしても一方に賛成し他方に反対しなければならず、問題を提起しなければならない。問題を提起するには、まず、問題すなわち矛盾の二つの基本的側面についておおよその調査と研究をおこなう必要があり、そうしてこそ矛盾の性質がなんであるかがわかるのである。これが問題を発見する過程である。おおよその調査と研究によって問題を発見し、問題を提起することはできるが、まだ問題を解決することはできない。問題を解決するには、さらに系統的な綿密な調査活動と研究活動とをおこなわなければならない。これが分析の過程である。問題を提起するにも分析が必要である。そうしなければ、雑然、模糊《もこ》とした、山ほどある現象をまえにして、問題すなわち矛盾がどこにあるかを知ることはできない。ここでいう分析の過程とは、系統的な綿密な分析過程のことである。問題は提起されたものの、まだ解決できないということがよくあるが、それは事物の内部的なつながりがまだ暴露されていないためであり、また、このような系統的な綿密な分析過程をへていないためである。だから問題の全貌《ぜんぼう》がまだあきらかでなく、まだ総合の仕事ができず、したがって問題をうまく解決することもできないのである。ある文章または演説が重要な指導的性質をもつものであれば、それはどうしても、なにか問題を提起し、ついで分析をくわえ、そのうえでそれを総合して問題の性質をはっきりしめし、解決の方法をあたえなければならない。それをやるには、形式主義の方法ではかたづかない。幼稚、低級、卑俗で、頭をはたらかさない、こうした形式主義の方法がわが党内でたいへんはやっているので、どうしてもこれを暴露しなければ、マルクス主義の方法による問題の観察、提起、分析、解決をみんなに会得させることはできず、われわれの仕事をうまくはこぶことはできず、われわれの革命事業を勝利させることはできない。
 党八股の第六の罪状は、無責任にして、いたるところ害をおよぼす、である。上にのべたような罪状は、一万では幼稚さからきているが、他方では責任感の不足からもきている。顔を洗うことにたとえると、われわれは毎日顔を洗うのだが、それもかなりの人は一回どころではなく、洗い終わってからも鏡にうつして、どこかおかしなところがありはしないかと、ひとしきり調査研究してみる(爆笑)。見たまえ、なんと責任感のつよいことか。われわれが文章を書き、演説をするばあいにも、顔を洗うときのように責任感がありさえすれば、まずまちがいがない。人まえにだせないものはださないほうがよい。文章や演説は、他人の思想や行動に影響をあたえるものだということを知らなくてはならない。たまたま一日か二日、顔を洗わないのももちろんよくないし、洗ってもまだ一つ二つ汚れがのこっているのももちろん体裁のいいものではないが、これはさして大きな危険があるわけではない。文章を書き演説をするとなるとちがってくる。これはもっぱら人に影響をあたえるためのものなのに、われわれの同志たちは、かえってそれをおざなりにやっている。これこそ事の軽重をとりちがえたものである。多くの人は文章を書き演説をするのに、あらかじめ研究も準備もしなければ、文章を書きあげたのちも、顔を洗ったあと鏡にうつしてみるように何べんも読みかえすこともしないで、いいかげんに発表してしまう。その結果はとかく「筆をくだすこと千言、題をはなれること万里」となり、いかにも才子のようだが、実際はいたるところ害をおよぼすのである。責任感の弱い、このようなわるい習慣はぜひあらためたほうがよい。
 第七の罪状は、全党を毒し、革命を害す、である。第八の罪状は、伝わり広まって、国と民とにわざわいをなす、である。このニヵ条は意味がおのずからあきらかであり、多くをのべる必要はない。つまり党八股を改革せず、はびこるままにまかせると、重大な結果をまねき、ひじょうにわるい事態をひきおこすにいたるであろう。党八股のなかにかくれているのは主観主義、セクト主義の毒物であり、この毒物が伝わり広まると、党を害し国を害することになる。
 以上のべた八ヵ条が、党八股を糾弾するわれわれの檄《げき》である。
 党八股という形式は、革命精神を表現するのに適さないばかりでなく、革命精神をひじょうに窒息させやすい。革命精神を発展させるには、党八股をすてて、生気はつらつとした、新鮮で力づよいマルクス・レーニン主義の文風を採用しなければならない。このような文風ははやくからあるが、まだ充実しておらず、まだ普遍的に発展するところまでいっていない。われわれが洋八股と党八股をうちこわしたあかつきには、新しい文風は充実され、普遍的に発展し、党の革命事業も推進されるであろう。
 文章や演説のなかに党八股があるばかりでなく、会議にもそれがある。「一、開会、二、報告、三、討論、四、結論、五、散会」というのがそれである。どこの、どの会議も、大小にかかわりなくみなこの型にはまった順序でやるとすれば、これまた党八股ではないだろうか。会議で「報告」をするとなると、いつも「一、国際、二、国内、三、辺区、四、当部門」といったぐあいで、会議はいつも朝から晩までつづき、なにもいうことのない人までがなにか話さなくては義理がわるいかのように一席しゃべる。要するに、実際の状況をみないで、型どおりのふるい形式、ふるい習慣にしがみつくこうした現象も改革すべきではないだろうか。
 現在、多くの人が民族化、科学化、大衆化を提唱しているが、これはけっこうなことである。しかし、「化」とは、徹頭徹尾、徹内徹外をいうのである。ところが、一部の人は「ほんのすこし」さえ実行していないのに「化」を提唱している。だから、わたしがこれらの同志にすすめたいのは、まず「ほんのすこし」でもやって、それから「化」をやることである。そうでないと、あいかわらず教条主義と党八股からぬけだせない。これが目は高きをのぞめど腕ともなわず、志大にして才うとしということで、それではなんの結果もえられるものではない。口で大衆化をとなえながら、実際には小衆化をやっているような人たちは、おおいに用心すべきである。そうした人がもしある日、道で大衆のだれかにであい、「先生、ひとつ『化』をやってみせてください」といわれたら、それで王手をかけられたことになるだろう。たんに口先で提唱するだけでなく、大衆化をほんとうに実行しようとする人なら、実地に民衆から学ばなければならない。そうでないと、依然として「化」をやることはできない。毎日大衆化をさけんでいながら、二言三言の民衆のことばさえ話せないのは、その人たちが民衆から学ぶ決意をしたことのない証拠で、実際に考えているのはやはり小衆化なのである。
 きょう、会場で「宣伝の手引き」というパンフレットをくばったが、それには四つの文章がのせてある。わたしは、同志諸君がこれを何べんも読むようにすすめたい。
 第一の文章は、『ソ連共産党(ボリシェビキ)歴史小教程』から抜粋したもので、レーニンがどのように宣伝をおこなったかということが書いてある。そこには、レーニンがビラを書いたときの模様がつぎのようにのべられている。「レーニンの指導のもとに、ペテルブルグの『労働者階級解放闘争同盟』は、ロシアではじめて社会主義と労働運動との結合を実現した。どこかの工場でストライキがおこると、自分たちのサークル員をつうじて企業の事情をよくつかんでいた『闘争同盟』は、すぐさまピラをだし、社会主義的な檄をだしてこれにこたえた。これらのビラでは、工場主の労働者にたいする虐待の事実が暴露され、労働者は自分の利益のためにどのようにたたかわなければならないかということが説明され、労働者の要求が掲げられていた。これらのビラは、資本主義の潰瘍《かいよう》、労働者の窮乏した生活、十二時間ないし十四時間という過度の労働、かれらの無権利状態などの真相をあますところなく暴露した。それにはまた適切な政治的要求も提起されていた。」
 見たまえ、「よくつかんでいた」のだ。「あますところなく暴露した」のだ。
 「一八九四年末に、レーニンは労働者バブシュキンの協力をえて、はじめてこのような扇動ビラを書き、またストライキ中のペテルブルグのセミヤンニコフ工場の労働者にあてたメッセージを書いた。」
 ビラ一枚書くにも状況をよくつかんでいる同志と相談しなければならない。レーニンはこのような調査と研究をもとにして文章を書き、活動をしたのである。
 「こうしたビラは、どれもこれも労働者を大いに元気づけた。労働者は、社会主義者がかれらを援助し、かれらを擁護していることを知った。」〔5〕
 われわれは、レーニンに賛成か。もし賛成なら、レーニンの精神にもとづいて活動しなければならない。全編これ空論、いささかも中味なし、ではなく、的なくして矢をはなち、対象を見ず、でもなく、また、ひとりよがりにして、長広舌を振るう、でもなくて、レーニンのとおりにすることである。
 第二の文章は、ディミトロフがコミンテルン第七回大会でおこなった報告からの抜粋である。ディミトロフはなんといっているだろうか。かれはつぎのようにいっている。「書物の上の公式のことばではなくて、大衆の事業のために闘争している戦士のことばで大衆と話をすることを身につけなければならない。このような戦士のことばの一つ一つ、思想の一つ一つは、みな、何百何千万の大衆の思想や気分を反映したものである。」
 「われわれが、大衆に理解できることばで話すことを身につけなければ、広範な大衆はわれわれの決議を理解することができない。われわれはいつでも、大衆になじまれているわかりやすい形で、簡単に、具体的に話をすることにまだまだ習熟していない。われわれはまだ、棒暗記した抽象的な公式をすてることができないでいる。実際、もし諸君がわれわれのビラ、新聞、決議、またはテーゼを点検してみるなら、一般労働者はもちろんのこと、わが党の活動家でさえ理解しにくいほどのむずかしいことばで書かれていることがよくある。」
 どうだろう、われわれの欠陥をずばりとついているではないか。たしかに、党八股は中国にもあれば外国にもある。だから共通した病気だということがわかる(笑声)。だが、われわれはなんとしてもディミトロフ同志の指示にしたがって、われわれ自身の欠陥をはやくなおさなければならない。
 「われわれはみなつぎの最低限の規則を定律として、ボリシェビキの定律として、しっかり身につけなければならない。すなわち書いたり話したりするときには、いつも一般の労働者の一人ひとりが諸君のいうことを理解し、諸君のよびかけを信じ、諸君について進むようになることを念頭におかなくてはならない。諸君はいったいだれのために書き、だれにむかって話をしているかを念頭におかなくてはならない。」〔6〕
 これがつまり、コミンテルンがわれわれの病をなおすためにくれた処方であり、かならず遵守しなければならないものである。これは「規則」なのだ。
 第三の文章は、『魯迅全集』からえらんだものである。これはどのように文章を書くかを論じたもので、魯迅が「北斗雑誌社」〔7〕におくった返信である。かれはどういっているか。魯迅は文章を書くばあいの規則として八ヵ条をあげているが、わたしは、ここでそのうちのいくつかをぬきだして話してみよう。
 第一条「いろいろなことがらに気をくばり、よく見ること。ちょっと見ただけで筆をとってはならない。」
 ここでいっているのは、一つや二つのことがらではなしに、「いろいろなことがらに気をくばる」ことである。ひと目やふた目だけ見るのではなしに、「よく見る」ことである。われわれはどうか。かれとはまったく反対に、ちょっと見ただけで筆をとっているのではないだろうか。第二条「書けないときにはむりに書かないこと。」
 われわれはどうか。頭のなかになんにもないことがはっきりしているのに、むりに書きまくろうとしているのではないだろうか。調査もせず研究もせずに筆をとって「むりに書く」。これは無責任な態度である。
 第四条「書き終わってから少なくとも二へんは読みかえし、あってもなくてもよい字句や段落は、惜しげもなくできるだけけずること。むしろ小説にできるほどの材料をスケッチにちぢめるとしても、けっしてスケッチの材料を小説にひきのばしてはならない。」
 孔子は「再思」〔8〕を提唱し、韓愈《かんゆ》も「行は思に成る」〔9〕とのべているが、それは昔のことである。こんにちのことがらはきわめて複雑な問題をふくんでおり、なかには三、四回考えてもまだたりないことさえある。魯迅は「少なくとも二へんは読みかえす」といっているが、では多いときは何べんか。かれはそれにはふれていないが、わたしの考えでは、重要な文章なら十回以上読みかえしてもさしつかえなく、しんけんに添削をくわえたうえで発表したほうがよい。文章は客観的事物の反映であり、事物は曲折した複雑なものであって、それを適切に反映するにはくりかえし研究しなければならない。この点をおろそかにするのでは、文章を書く最低限の知識もわきまえないということになる。
 第六条「自分以外にはだれにもわからないような形容詞のたぐいをむりにこしらえないこと。」
 われわれが「むりにこしらえた」ものはあまりにも多く、要するに「だれにもわからない」。一句が四、五十字にものぼる長いものがあり、そのなかには、「だれにもわからないような形容詞のたぐい」がいっぱいつめこまれていろ。口をひらけば魯迅を支持するといっている多くの人が、じつは魯迅にそむいているのだ。
 最後の文章は、中国共産党第六期中央委員会第六回総会で宣伝の民族化についてのべたものである。この総会は一九三八年にひらかれたが、そのときわれわれは、「中国の特徴をはなれてマルクス主義を論じるとすれば、それは抽象的な空虚なマルクス主義にすぎない」とのべた。それは、つまりマルクス主義について空論することに反対しなければならす、中国で生活している共産党員は、中国の革命の実際に結びつけてマルクス主義を研究しなければならないということである。
 「洋八股は廃止すべきであり、空虚で抽象的な調子で歌うことは少なくすべきであり、教条主義は休みにすべきであって、新鮮でいきいきとした、中国の民衆によろこばれる中国的な作風や中国的な気風をもってそれに変えなければならない。国際主義的内容を民族的形式から切りはなすのは、国際主義をすこしも理解していないもののやり方であって、われわれはこの両者をしっかりと結びつけなくてはならない。この問題についてわれわれの隊列内に存在している一部の重大なあやまりは、しんけんに克服しなければならない。」
 ここでは、洋八股を廃止するようにといっているのに、実際にはまだそれを提唱している同志がいる。ここでは、空虚で抽象的な調子で歌うことを少なくしようといっているのに、それをどうしても多く歌おうとする同志がいる。ここでは、教条主義はお休みにしようといっているのに、それを起こそうとする同志がいる。要するに、第六期中央委員会第六回総会で採択された報告を聞き流し、わざとこれにさからっているかのような人がたくさんいるのである。
 中央がこんど、党八股や教条主義のたぐいを徹底的になげすてなければならないと決定したので、わたしはたくさんのことを話した。同志諸君がわたしの話したことについて考え、それを分析してみると同時に、それぞれ自分のことについても分析するよう希望する。一人ひとりが自分についてじっくり考え、自分で考えてはっきりしたことを心の通う友と話しあい、まわりの同志と話しあって、自分の欠陥を着実にあらためるべきである。



〔1〕 洋八股は五・四運動以後、一部の浅薄なブルジョア知識人および小ブルジョア知識人が発展させたものであり、またかれらを通じてひろめられ、長いあいだ革命の文化隊列内に存在しつづけた。魯迅は、その多くの著作のなかで、革命の文化隊列内の洋八股に反対し、こうした洋八股を批判してつぎのようにいっている。「八股文は新旧をとわず掃討すべきだが、……たとえば『罵倒』、『威嚇』、はては『判決』を下すだけで、科学でえられた公式を具体的に適切に応用して、日々の新しい事実、新しい現象を解釈しようとせず、ただ公式を敷き写しにして、それを一切の事実にやたらにあてはめる、これも一種の八股である。」(「祝秀[イ+夾]への返信」)
〔2〕 本選集第一巻の『中国革命戦争の戦略問題』注〔37〕を参照。
〔3〕 魯迅の『南腔北調集』中の文章の題名。一九三二年に書かれたもので、『魯迅全集』第五巻にある。
〔4〕 解放前、正当な職業をもたず、こじきや盗みをはたらいてくらしていた都市のルンペンを、上海の人は[”やまいだれ”の中に縦に”自”+”]三とよんでいた。かれらはたいていひじょうにやせていた。
〔5〕 『ソ連共産党(ボリシェビキ)歴史小教程』第一章第三節にみられる。
〔6〕 ディミトロフがコミンテルン第七回大会でのべた結語『ファシズムに反対する労働者階級の統一のために』の第六の部分「正しい路線だけではまだ不十分である」にみられる。
〔7〕 『北斗雑誌』は、中国左翼作家連盟が一九三一年から一九三二年にかけて発行していた月刊誌である。「北斗雑誌社の問いに答う」は『魯迅全集』第四巻の『二心集』におさめられている。
〔8〕 『論語』の「公冶長第五」にみられる。
〔9〕 韓愈は八世紀から九世紀にかけての人で、中国唐代の著名な大著述家である。かれは「進学解」という文章のなかで、「行は思に成り、随に毀《やぶ》る」といっている。それは、思が成功するのは思考したことにより、失敗するのは思考しなかったことによる、という意味である。

maobadi 2011-01-14 20:55
延安の文学・芸術座談会における講話
          (一九四二年五月)

     まえおき (一九四二年五月二日)

 同志諸君。きょう、みなさんにおあつまりねがい、座談会をひらいた目的は、文学・芸術活動と革命活動一般との関係について、みなさんと意見を交換し、検討することにある。それは、革命的文学・芸術の正しい発展をはかり、他の革命活動にたいする革命的文学・芸術のよりよい協力をはかって、わが民族の敵を打倒し、民族解放の任務を完遂するためである。
 中国人民解放のためのわれわれの闘争にはいろいろの戦線があるが、そのなかには文と武の二つの戦線、すなわち文化戦線と軍事戦線があるといってもよい。われわれが敵にうち勝つには、まず銃を手にした軍隊にたよらなければならない。しかし、この軍隊だけでは十分でなく、われわれにはさらに文化の軍隊が必要であって、これは、味方を団結させ、敵にうち勝つために欠くことのできない軍隊である。この文化の軍隊は「五・四」のときから中国で形づくられ、中国革命をたすけて、中国の封建文化および帝国主義の侵略に適応する買弁文化の地盤をしだいに縮小させ、その勢力をしだいに弱化させてきた。いまでは、中国の反動派は、新しい文化に対抗するのに「量によって質にあたる」という方法しかもちだせなくなっている。つまり反動派には金がいくらでもあるから、たとえよいものは出せなくても、必死になってたくさん出すことはできるというわけである。「五・四」いらいの文化戦線では、文学と芸術は重要な、成果のあがった部門である。革命的文学・芸術運動は十年の内戦の時期に大きな発展をとげた。この運動と当時の革命戦争とは、全般的な方向では一致していたが、実際活動では、たがいに結びついていなかった。それは、当時の反動派がこの二つの兄弟の軍隊のあいだをたちきっていたからである。抗日戦争がおこってから、延安《イェンアン》や各抗日根拠地にやってくる革命的な文学・芸術活動家が多くなってきたが、これはけっこうなことである。しかし、根拠地にきたからといって、もう根拠地の人民大衆と完全に結びついたというわけではない。革命活動を前進させるには、この両者を完全に結びつけなければならない。われわれがきょう座談会をひらいたのは、人民を団結させ、人民を教育し、敵に打撃をあたえ、敵を消滅する有力な武器として、文学・芸術を革命という機械全体の一構成部分にふさわしいものにするためであり、これによって、人民が一心同体になって敵とたたかえるようたすけるのである。この目的のためには、どういう問題を解決すべきであろうか。つぎのような問題、すなわち文学・芸術活動家の立場の問題、態度の問題、活動対象の問題、活動の問題、学習の問題があるとおもう。
 立場の問題。われわれはプロレタリア階級の立場、人民大衆の立場に立つものである。共産党員についていえば、とりもなおさず、党の立場に立つのであり、党性および党の政策の立場に立つのである。この問題で、わが文学・芸術活動家のあいだに、認識の正しくないか、はっきりしていないものがまだいるのではないだろうか。わたしはいるとおもう。多くの同志はしばしば自分の正しい立場をうしなっている。
 態度の問題。立場におうじて、われわれがさまざまな具体的な事物にたいしてとる具体的な態度がうまれてくる。たとえば、賛美するか、それとも暴露するか、これが態度の問題である。いったい、どちらの態度がわれわれには必要なのか。わたしにいわせれば二つとも必要で、問題はどういう人びとにたいしてかということである。三種類の人びとがいて、一つは敵、一つは統一戦線内の同盟者、一つは味方であるが、この三番目の人びとが人民大衆とその前衛である。この三種類の人びとにたいしては三種類の態度が必要である。敵にたいし、すなわち日本帝国主義とすべての人民の敵にたいしては、革命的文学・芸術活動家の任務は、敵の残虐さと欺瞞《ぎまん》を暴露するとともに、敵の失敗が必至であることを指摘し、抗日の軍隊と人民が一心同体になって、断固として敵を打倒するよう、はげますことである。統一戦線内のさまざまな異なった同盟者にたいしては、われわれの態度は、連合もすれば、批判もする、さまざまな異なった連合もすれば、さまざまな異なった批判もする、ということでなければならない。かれらの抗戦には、われわれは賛成である。もし成果があれば、われわれはやはり称賛する。しかし、かれらが抗戦に積極的でなければ、われわれはかれらを批判すべきである。もし反共、反人民にはしり、日一日と反動への道をすすむものがあれば、われわれは断固として反対する。人民大衆にたいし、人民の労働と闘争にたいし、人民の軍隊、人民の政党にたいしては、われわれは当然称賛すべきである。人民にも欠点はある。プロレタリア階級のなかではまだ多くのものが小ブルジョア思想をもっており、農民と都市小ブルジョア階級はおくれた思想をもっていて、それらがかれらの闘争のなかでの負担になっている。われわれは、かれらが大きく前進できるように、長期にわたって辛抱づよく教育し、かれらが肩の重荷をなげすて、自分の欠点やあやまりとたたかうのをたすけるべきである。かれらは闘争のなかで、すでに自己を改造したか、あるいは改造しつつある。われわれの文学・芸術はかれらのこの改造の過程をえがくべきである。あやまりを固執するものでないかぎり、われわれは、その一面だけをみて、かれらを嘲笑し、ひいては敵視するというあやまった態度をとるべきではない。われわれの書くものは、かれらが団結し、かれらが進歩し、かれらが一心同体になって、ひたむきに奮闘し、おくれたものをすてて革命的なものをのはすようにしむけるべきであって、けっしてその反対であってはならない。
 活動対象の問題、すなわち文学・芸術作品をだれにみせるかという問題。陝西《シャンシー》・甘粛《カンスー》・寧夏《ニンシァ》辺区や華北、華中の各抗日根拠地では、この問題は、国民党支配区とは異なり、抗戦以前の上海《シャンハイ》とはなおさら異なっている。上海の時期には、革命的な文学・芸術作品のうけとり手は、主として一部の学生、職員、店員であった。抗戦以後の国民党支配区では、その範囲はいくらかひろがったこともあるが、基本的にはやはりこれらの人びとが主となっている。なぜなら、そこの政府が労働者、農民、兵士を革命的な文学・芸術から切りはなしているからである。 われわれの根拠地では、まったくこれと異なっている。根拠地では文学・芸術作品のうけとり手は労働者、農民、兵士および革命幹部である。根拠地には学生もいるが、これらの学生は、また旧式の学生とは異なっていて、以前から幹部であったものか、将来幹部になるものである。さまざまな幹部、部隊の戦士、工場の労働者、農村の農民は、文字をおぼえれば本や新聞を読もうとするし、文字を知らないものでも、芝居を見、絵を見、歌をうたい、音楽をきこうとするのであって、かれらこそわれわれの文学・芸術作品のうけとり手である。幹部についていっても、その数を少ないと考えるべきでなく、その数は国民党支配区で一冊の本が出版されたばあいの読者よりもはるかに多いのである。国民党支配区では、ふつう一冊の本は一版がせいぜい二千部で、三版出してもやっと六千部である。だが、根拠地の幹部で本が読めるものは延安だけでも、一万人以上はいる。しかも、これらの幹部の多くは長いあいだきたえられてきた革命家で、かれらは全国各地からきており、また各地へ活動しにいくのであるから、これらの人びとにたいする教育活動は大きな意義をもっている。わが文学・芸術活動家はこれらの人びとにたいする活動をよくおこなうべきである。
 文学・芸術活動の対象が労働者、農民、兵士およびその幹部である以上、かれらを理解し、かれらを熟知するという問題がうまれてくる。そして、かれらを理解し、かれらを熟知するためには、また党・政府機関、農村、工場、八路軍・新四軍のなかでさまざまな人を理解し、さまざまな人を熟知し、さまざまなことがらを理解し、さまざまなことがらを熟知するためには、多くの活動をする必要がある。わが文学・芸術活動家は自分の文学・芸術活動をおこなう必要があるが、人を理解し、人を熟知するというこの活動のほうが第一の仕事である。わが文学・芸術活動家は、これらについて、いままでどのような状態にあっただろうか。わたしにいわせると、いままでは、知らず、わからず、英雄も腕をふるう場所なし、というものであった。知らず、とはどういうことか。人を知らないということである。文学・芸術活動家が、自分のえがく対象や作品のうけとり手を知らないか、あるいは、まったくうといということである。わが文学・芸術活動家は労働者を熟知せず、農民を熟知せず、兵士を熟知せず、またかれらの幹部を熟知していない。わからず、とはどういうことか。ことばがわかっていないということ、すなわち人民大衆のゆたかないきいきとしたことばについて十分な知識に欠けていることである。多くの文学・芸術活動家は、自分が大衆から遊離し、生活が空虚なことから、当然、人民のことばも熟知していない。したがって、かれらの作品は、ことばに味がないばかりでなく、そこにはしばしば、無理にこしらえた、人民のことばとは対立する、わけのわからない語句がまじっている。多くの同志はよく「大衆化」を口にするが、大衆化とはなんだろうか。それは、わが文学・芸術活動家の思想・感情が労働者、農民、兵士大衆の思想・感情と一つにとけあうことである。一つにとけあうためには、大衆のことばをしんけんに学ぶべきである。大衆のことばにさえわからないところがたくさんあるとすれば、文学・芸術の創造など話にもなるまい。英雄も腕をふるう場所なしとは、ひとそろいの大理屈をならべたてても、大衆は感心しないということである。大衆のまえで、先輩風をふかせばふかすほど、「英雄」ぶればぶるほど、そのひとそろいのものを押し売りしようとすればするほど、大衆はますます買わなくなるであろう。大衆から理解してもらい、大衆と一つにとけあおうとするなら、長いあいだの、苦痛でさえある試練をへる決心をしなければならない。ここで、わたし自身の感情の変化についての経験を話してみよう。わたしは学生出身であり、学校で学生気質が身についてしまったため、物を肩でかつぐことも手にさげることもできないおおぜいの学生のまえでは、自分の荷物をかつぐような、ちょっとした力仕事をすることさえ格好がわるいと感じていた。そのころ、わたしは、世の中できれいな人間は知識人だけで、労働者、農民は、なんといってもそれよりきたない、とおもっていた。わたしは、知識人の着物ならきれいだと考え、他人のものでも着られるのに、労働者、農民の着物はきたないと考えて、着る気になれなかった。革命をやり、労働者、農民や革命軍の戦士たちといっしょになってから、わたしはしだいにかれらを熟知するようになり、かれらもまたしだいにわたしを熟知するようになった。そのとき、まさにそのときから、わたしは、ブルジョア学校で教えられた、あのブルジョア的、小ブルジョア的な感情を根本的にあらためたのである。そのときになって、まだ改造されていない知識人を労働者、農民とくるべてみると、知識人はきれいでなく、もっともきれいなのはやはり労働者、農民であり、たとえ、かれらの手がまっ黒で、足に牛の糞《ふん》がついていても、やはりブルジョア階級や小ブルジョア階級の知識人よりきれいだとおもうようになった。感情に変化がおこり、ある階級から他の階級に変わったというのはこのことである。わが知識人出身の文学・芸術活動家が自分の作品を大衆から歓迎されるものにするには、自分の思想・感情に変化をおこさせ、その改造をおこなわなければならない。この変化、この改造なしには、なにごともうまくいかず、なにもかもしっくりしないものである。
 最後の問題は学習で、それはマルクス・レーニン主義の学習と社会の学習のことである。マルクス主義の革命作家を自任するもの、わけても党員作家は、マルクス・レーニン主義の知識をもたなければならない。しかし、現在、一部の同志たちには、マルクス主義の基本的観点が欠けている。たとえば、存在が意識を決定すること、階級闘争と民族闘争の客観的現実がわれわれの思想・感情を決定することは、マルクス主義の基本的観点の一つである。ところが、わが一部の同志たちは、この問題を転倒させてしまい、すべては「愛」から出発すべきだなどといっている。愛についていうなら、階級社会では、階級的な愛しかないのに、これらの同志たちは、なにか超階級的な愛とか、抽象的な愛とか、また抽象的な自由、抽象的な真理、抽象的な人間性とかいったものを追求しようとしている。このことは、これらの同志たちがブルジョア階級の影響を深くうけていることをしめしている。このような影響を徹底的に一掃し、虚心にマルクス・レーニン主義を学習すべきである。文学・芸術活動家が文学・芸術創作を学習すべきであること、これは正しい。だが、マルクス・レーニン主義はすべての革命家が学習すべき科学であり、文学・芸術活動家も例外ではありえない。文学・芸術活動家は社会を学習しなければならない。つまり社会の各階級を研究し、それらの相互関係およびそれぞれの状態を研究し、それらの相貌や心理を研究しなければならないのである。われわれの文学・芸術がゆたかな内容と正しい方向をもつには、これらの点をあきらかにする以外にない。
 きょうは話のきっかけとして、これらのいくつかの問題を提起したにすぎない。みなさんがこれらの問題や他の関連ある問題について意見をのべられるよう希望する。

maobadi 2011-01-14 20:56
  結論  (一九四二年五月二十三日)

 同志諸君。われわれのこの座談会は、一ヵ月のあいだに三回ひらかれた。みんなが真理探求のために活発な論争をくりひろげ、党内、党外の同志たちが何十人か発言して、問題を展開し、具体化した。これは文学・芸術運動全体を益するところが大きいとおもう。
 われわれが問題を討議するには、定義から出発するのではなくて、実際から出発すべきである。もし、われわれが教科書にしたがって、文学とはなにか、芸術とはなにかという定義をさがしだし、そのあと、それにしたがって、こんにちの文学・芸術運動の方針を規定し、こんにち発生しているさまざまな見解や論争を評価するならば、そういう方法は正しくない。 われわれはマルクス主義者であり、マルクス主義は、われわれが問題をみるばあい、抽象的な定義から出発するのではなく、客観的に存在する事実から出発し、これらの事実の分析のなかから方針、政策、方法をさがしださなければならないと教えている。いま文学・芸術活動について討議するのにも、われわれはこのようにすべきである。
 現在の事実とはなにか。その事実とはつぎのとおりである。すでに五年間つづけられた中国の抗日戦争、全世界の反ファシズム戦争、中国の大地主・大ブルジョア階級の抗日戦争における動揺と人民にたいする高圧政策、「五・四」いらいの革命的文学・芸術運動――この運動の二十三年らいの革命にたいする偉大な貢献とそのいくたの欠陥、八路軍・新四軍の抗日民主根拠地ならびにこれらの根拠地における数多くの文学・芸術活動家と八路軍・新四軍および労働者・農民との結合、根拠地の文学・芸術活動家と国民党支配区の文学・芸術活動家との環境および任務のうえでのちがい、いま延安や各抗日根拠地の文学・芸術活動で発生している論争問題。――これらが実際に存在する否定できない事実であり、われわれは、これらの事実を基礎にして、われわれの問題を考える必要がある。
 では、われわれの問題の中心はなにか。われわれの問題は、基本的には、大衆のためという問題、および大衆のためにどのようにするかという問題だとおもう。この二つの問題を解決しなかったり、解決が当を得なかったりすれば、わが文学・芸術活動家は、自己の環境、任務に適応できず、外部的にも内部的にも一連の問題につきあたるであろう。 わたしの結論は、この二つの問題を中心とするが、同時にこれとかかわりのある他のいくつかの問題にもふれることにする。

     

 第一の問題は、われわれの文学・芸術はだれのためのものかということである。
 この問題は、もともと、マルクス主義者によって、とくにレーニンによって、はやくから解決されている。レーニンは、すでに一九〇五年、われわれの文学・芸術は「幾千万の勤労者に奉仕」〔1〕すべきであるとつよく指摘している。わが各抗日根拠地で文学・芸術活動に従事する同志たちのあいだでは、この問題はすでに解決されていて、いまさら話す必要はないかのようにみえる。実はそうではない。多くの同志にとって、この問題は明確には解決されていない。したがって、かれらの気分、かれらの作品、かれらの行動、かれらの文学・芸術の方針問題についての意見のなかには、大衆の要求にも合致しないし、また実際の闘争の必要にも合致しない状態が、多かれ少なかれ生じるのをまぬかれない。現在、共産党、八路軍、新四軍とともに、偉大な解放闘争に従事している数多くの文化人、文学者、芸術家ないしは一般文学・芸術活動家のなかには、もちろん、一時的な投機分子がいくらかいるかもしれないが、圧倒的多数は共同の事業のため活動にはげんでいる。これらの同志に依拠して、われわれの文学活動、演劇活動、音楽活動、美術活動全体は大きな成果をあげてきた。これらの文学・芸術活動家のなかには、抗戦以後に活動をはじめた人がたくさんいるが、抗戦以前から長いあいだ革命活動をおこない、かずかずの苦労をかさね、その活動や作品によって広範な大衆に影響をあたえてきた人もたくさんいる。だが、これらの同志のあいだにさえ、文学・芸術はだれのためのものかという問題を明確には解決していない人がいるというのはなぜだろうか。かれらのなかには、革命的な文学・芸術は人民大衆のためのものではなく、搾取者、抑圧者のためのものだなどと主張している人がまだいるとでもいうのであろうか。
 たしかに、搾取者、抑圧者のための文学・芸術はある。文学・芸術が地主階級のためのものであれば、それは封建主義の文学・芸術である。中国の封建時代の支配階級の文学・芸術はこのようなものであった。こんにちでも、このような文学・芸術は中国でまだかなり大きな勢力をもっている。文学・芸術がブルジョア階級のためのものであれば、それはブルジョア階級の文学・芸術である。魯迅《ルーシュイン》が批判した梁実秋《リァンシーチウ》〔2〕のような人間は、口先では、文学・芸術は超階級的なものだなどといっているが、実際には、プロレタリア階級の文学・芸術に反対して、ブルジョア階級の文学・芸術を主張している。文学・芸術が帝国主義者のためのものであれば、周作人《チョウツォレン》、張資平《チャンツーピン》〔3〕らがそうだが、それは民族裏切り者の文学・芸術とよばれる。われわれにあっては、文学・芸術は上述のさまざまな人びとのためのものではなく、人民のためのものである。かつてわれわれは、現段階の中国の新文化を、プロレタリア階級の指導する、人民大衆の、反帝・反封建の文化であるといった。真に人民大衆のものは、現在ではかならずプロレタリア階級が指導するものである。ブルジョア階級の指導するものは、人民大衆のものにはなりえない。新文化のうちの新文学、新芸術も、当然そのとおりである。過去の時代から残されてきた、中国や外国の文学・芸術のゆたかな遺産とすぐれた伝統については、われわれはこれをうけつぐものであるが、その目的はやはり人民大衆のためである。過去の時代の文学・芸術の形式についても、われわれは利用をこばむものではないが、これらのふるい形式も、われわれの手にうつって改造され、新しい内容がもりこまれれば、人民に奉仕する革命的なものに変わるのである。
 では、人民大衆とはなにか。もっとも広範な人民、全人口の九〇パーセント以上をしめる人民は、労働者、農民、兵士および都市小ブルジョア階級である。したがって、われわれの文学・芸術は、第一には、革命を指導する階級としての労働者のためのものである。第二には、革命におけるもっとも数の多い、もっとも確固とした同盟軍としての農民のためのものである。第三には、革命戦争の主力としての武装した労働者、農民、すなわち八路軍、新四軍その他の人民武装組織のためのものである。第四には、長期にわたってわれわれと協力できる、やはり革命の同盟者である都市小ブルジョア勤労大衆および知識人のためのものである。この四種類の人びとが、中華民族の最大の部分であり、もっとも広範な人民大衆である。
 われわれの文学・芸術は、上にのべた四種類の人びとのためのものでなければならない。われわれがこの四種類の人びとに奉仕するには、プロレタリア階級の立場に立つべきで、小ブルジョア階級の立場に立ってはならない。こんにち、個人主義的な小ブルジョア的立場を固執している作家は、真に革命的な労働者、農民、兵士大衆のために奉仕することができず、その興味は主として少数の小ブルジョア知識人にそそがれている。われわれのなかの一部の同志が、いま、文学・芸術はだれのためのものかという問題を正しく解決できない中心点は、まさにここにある。わたしがこういうのは、理論上のことをさしているのではない。理論上、あるいは口先では、労働者、農民、兵士大衆を小ブルジョア知識人より重要でないとみなす人は、われわれの隊列のなかにひとりもいない。わたしがいうのは、実際上、行動上のことである。実際上、行動上、かれらは小ブルジョア知識人のほうを労働者、農民、兵士よりももっと重要だとみなしているのではないだろうか。わたしはそうだとおもう。多くの同志は、小ブルジョア知識人が自分たちといっしょに、労働者、農民、兵士大衆に接近し、労働者、農民、兵士大衆の実際闘争にQ加し、労働者、農民、兵士大衆を描写し、労働者、農民、兵士大衆を教育するようこれらの知識人をみちびくのではなくて、小ブルジョア知識人の研究とその心理の分析により力を入れ、かれらを描写することにより重きをおき、かれらの欠点を容認しそれを弁護している。多くの同志は、自分が小ブルジョア出身であり、知識人であるところから、知識人の隊列にだけ友人をもとめ、知識人の研究や描写の面にその注意力をそそいでいる。こうした研究や描写がプロレタリア階級の立場からなされるなら、それは正しい。しかし、かれらは、そうでないか、完全にはそうでない。かれらは小ブルジョア階級の立場に立っており、自分の作品を小ブルジョア階級の自己表現として創作しているのであって、かなり多くの文学・芸術作品にそうしたものがみられる。かれらは多くのばあい、小ブルジョア出身の知識人に心からの共感をよせ、かれらの欠点にさえも共感をよせたり、はてはそれを鼓吹したりする。労働者、農民、兵士大衆にたいしては、接近すること、理解すること、研究することに欠け、心のかよう友に欠け、かれらを描写することに長じていない。たとえ描写したとしても、着物ははたらく人民だが、顔つきは小ブルジョア知識人である。かれらも、ある面ではやはり労働者、農民、兵士を愛するし、労働者、農民、兵士出身の幹部を愛するが、しかし、愛さない時もあれば、愛さない点もあり、かれらの感情、かれらの形象、かれらの芽ばえつつある文学・芸術(壁新聞、壁画、民謡、民話など)を愛さない。かれらは、ときには、こうしたものを愛することもあるが、それは奇をもとめるため、自分の作品をかざるため、さらにはそのなかのおくれたものを追求するために愛するのである。またときには、公然とそうしたものをさげすみ、小ブルジョア知識人のもの、ないしはブルジョア階級のものを偏愛する。これらの同志の立脚点はまだ小ブルジョア知識人の側にある。あるいはもっと上品なことばにいいかえれば、かれらの魂の奥底はまだ小ブルジョア知識人の王国なのである。だから、かれらはだれのためのものかという問題をまだ解決していないか、明確には解決していない。これは、たんに、延安にきてまもない人びとのことだけをいっているのではない。前線にいったことのある人びとや、根拠地、八路軍・新四軍のなかで何年も活動したことのある人びとのなかにも、この問題を徹底的には解決していない人がたくさんいる。この問題を徹底的に解決するには、どうしても九年、十年という長い時間をかけなければならない。だが、どんなに時間が長くかかっても、われわれはそれを解決しなければならず、明確に、徹底的に、それを解決しなければならない。わが文学・芸術活動家は、かならずこの任務をなしとげ、立脚点をうつしかえねばならず、また、労働者、農民、兵士大衆のなかに深くはいり実際闘争に深くはいる過程で、マルクス主義を学習し社会を学習する過程で、労働者、農民、兵士の側、プロレタリア階級の側にしだいに立脚点をうつしかえなければならない。このようにしてこそ、われわれは真の労働者、農民、兵士のための文学・芸術、真のプロレタリア階級の文学・芸術をもつことができるのである。
 だれのためのものかという問題は、根本的な問題であり、原則的な問題である。これまで、一部の同志のあいだの論争、意見の相違、対立および不団結は、この根本的、原則的な問題についてのものではなくて、比較的第二義的な、さらには無原則的でさえある問題についてのものであった。ところが、この原則問題については、むしろ論争している双方に意見の相違などはなく、ほとんど一致しており、ともに労働者、農民、兵士の軽視、大衆からの遊離の傾向をある程度もっていた。わたしがある程度というのは、一般的にいって、これらの同志の労働者、農民、兵士の軽視、大衆からの遊離は、国民党の労働者、農民、兵士の軽視、大衆からの遊離とはちがっているからである。しかし、いずれにしてもこの傾向はある。この根本問題を解決しなければ、他の多くの問題も解決しにくい。たとえば文学・芸術界のセクト主義についていうと、これも原則問題であるが、セクト主義をとりのぞくには、やはり、労働者、農民のために、八路軍、新四軍のために、大衆のなかへ、というスローガンをかかげ、これを着実に実行してのみ、その目的を達成できるのであり、さもなければ、セクト主義の問題はだんじて解決することができない。かつて魯迅は、「連合戦線は、共通の目的をもつことが必要条件である。……われわれの戦線が統一できないのは、われわれの目的が、ただ小グループのためのものか、実際にはただ個人のためのものかになっていて、一致していないことを証明している。目的がすべて労働者、農民大衆にあるなら、当然、戦線も統一される」〔4〕といった。この問題は、当時の上海にもあったし、いまの重慶《チョンチン》にもある。それらの地方では、支配者が革命的な文学者・芸術家を圧迫して、労働者、農民、兵士大衆のなかにはいっていく自由をあたえていないので、この問題の徹底的解決はむずかしい。われわれのところでは,事情がまったくちがう。われわれは革命的な文学者・芸術家が積極的に労働者、農民、兵士にちかづくよう激励し、かれらに大衆のなかへはいる完全な自由をあたえ、かれらに真の革命的な文学・芸術を創造する完全な自由をあたえている。だからこの問題は、われわれのところでは解決にちかづいている。解決にちかづいているということは、完全に徹底的に解決したということではない。マルクス主義を学習し、社会を学習する必要があるというのは、この問題を完全に徹底的に解決するためである。われわれのいうマルクス主義とは、口先のマルクス主義ではなく、大衆の生活、大衆の闘争のなかで実際に役立つ、生きたマルクス主義のことである。口先のマルクス主義を実際の生活でのマルクス主義に変えれば、セクト主義はうまれるはずがない。たんにセクト主義の問題が解決されるばかりでなく、他の多くの問題も解決されるであろう。

     

 だれのために奉仕するかという問題が解決されると、それにつづく問題は、どのように奉仕するかということである。同志たちのことばをかりていえば、向上につとめるか、それとも普及につとめるかということである。
 これまで一部の同志たちは、普及をかなり軽視あるいは無視するか、ひどく軽視あるいは無視し、向上を不適当に強調しすぎた。向上は強調すべきであるが、これを一面的、孤立的に強調し、不適当な程度にまで強調するなら、それはあやまりである。だれのためのものかという問題が明確には解決されていないという、わたしがさきにあげた事実は、この点にもあらわれている。そのうえ、だれのためのものかということがはっきりしていないため、かれらのいう普及と向上には正しい基準がなく、まして両者の正しい関係を見いだすことができないのは当然である。われわれの文学・芸術が、基本的には、労働者、農民、兵士のためのものである以上、普及というのも労働者、農民、兵士への普及であり、向上というのも労働者、農民、兵士からの向上である。どのようなものをかれらのあいだに普及させるのか。封建地主階級に必要な、うけいれやすいものであろうか。ブルジョア階級に必要な、うけいれやすいものであろうか。小ブルジョア知識人に必要な、うけいれやすいものであろうか。いずれもだめであって、ただ、労働者、農民、兵士自身に必要な、うけいれやすいものにかぎられる。したがって、労働者、農民、兵士を教育するという任務よりさきに、まず労働者、農民、兵士に学ぶという任務がある。向上の問題ではなおさらそうである。向上には基礎がなければならない。たとえば桶の水にしても、地上からもち上げないで、空中からもち上げるというものではあるまい。では、文学・芸術の向上というのは、どのような基礎からの向上であろうか。封建階級の基礎からであろうか。ブルジョア階級の基礎からであろうか。小ブルジョア知識人の基礎からであろうか。そのいずれでもなく、労働者、農民、兵士大衆の基礎からの向上でしかありえない。それはまた、労働者、農民、兵士を、封建階級、ブルジョア階級、小ブルジョア知識人の「高さ」にまで向上させるのではなく、労働者、農民、兵士自身のすすむ方向、プロレタリア階級のすすむ方向にそって向上させるのである。このことは、労働者、農民、兵士に学ぶという任務を提起している。われわれが普及と向上について正しい理解をもち、普及と向上の正しい関係を見いだすには、労働者、農民、兵士から出発する以外にない。
 あらゆる種類の文学・芸術の源はいったいどこにあるのか。イデオロギーとしての文学・芸術作品は、すべて一定の社会生活の人間の頭脳における反映の産物である。革命的な文学・芸術は、人民の生活の革命的作家の頭脳における反映の産物である。人民の生活のなかには、もともと、文学・芸術の素材の鉱脈があって、これは自然のままの形をした、荒削りのものではあるが、もっとも生気にみちた、もっとも豊富な、もっとも基本的なものである。この点からいえば、これらのものはすべての文学・芸術を見おとりさせるのであって、すべての文学・芸術の使えどもつきず、汲《く》めどもかれぬ唯一の源である。これが唯一の源だというのは、ただこの源があるだけで、このほかに第二の源はありえないからである。ある人は、書物のうえの文学・芸術作品、過去の時代や外国の文学・芸術作品も源ではないかという。実際には、過去の文学・芸術作品は源ではなくて流れであり、むかしの人や外国の人がその時その地でえた人民の生活のなかの文学・芸術の素材をもとにして創造したものである。われわれは、この時この地の人民の生活のなかの文学・芸術の素材から作品を創造するさいの参考として、すべてのすぐれた文学・芸術の遺産を継承し、そのなかのすべての有益なものを批判的に吸収しなければならない。こうした参考があるのとないのとではおなじでなく、そこには、優雅と素朴、洗練と粗野、高いものと低いもの、早いものと遅いもののちがいがある。だから、たとえ封建階級やブルジョア階級のものであっても、われわれは、むかしの人や外国の人のものを継承し、参考にすることをけっしてこばむべきではない。しかし、継承し、参考にするといっても、けっして自己の創造にとって代えるべきではなく、これはけっしてとって代わることのできないものである。文学・芸術において、むかしの人や外国の人のものの無批判なひきうつしやものまねこそ、もっとも見どころのない、もっとも有害な文学教条主義、芸術教条主義である。中国の革命的な文学者・芸術家、見どころのある文学者・芸術家は、大衆のなかにはいらなければならず、長期にわたって、無条件に、誠心誠意、労働者、農民、兵士大衆のなかにはいり、たたかいのるつぼのなかにはいり、もっとも広くもっともゆたかな唯一の源のなかにはいって、すべての人、すべての階級、すべての大衆、すべてのいきいきとした生活形態と闘争形態、すべての文学と芸術の素材を観察し、体験し、研究し、分析しなければならず、そのうえではじめて、創造の過程にはいることができるのである。さもなければ、諸君の労働は対象のないものとなり、諸君は、魯迅がその遺言のなかで自分の子どもにけっしてそうなってはならないとくりかえしさとした、あの名ばかりの文学者、あるいは名ばかりの芸術家〔5〕にしかなれないであろう。
 人間の社会生活は、文学・芸術の唯一の源であり、後者とはくらべものにならないほどいきいきとしたゆたかな内容をもっているが、人民はやはり前者に満足せずに、後者を要求する。なぜだろうか。それは、この両者がともに美しくはあるが、文学・芸術作品に反映されている生活のほうが普通の実際生活にくらべて、より高度で、より強烈で、より集中的で、より典型的で、より理想的で、したがって、より普遍性をもつことができ、また、そうあるべきだからである。革命的な文学・芸術は、実際生活にもとづいてさまざまな人物を創造し、大衆が歴史を前進させるのをたすけるべきである。たとえば一方では人びとが飢え、こごえ、抑圧されているのに、他方では人が人を搾取し、人が人を抑圧しているという事実は、いたるところに存在しており、人びともそれをごくあたりまえのこととみなしている。文学・芸術は、こうした日常的な現象を集中して、そのなかの矛盾と闘争を典型化し、それを文学作品または芸術作品にしあげるのであり、そうすれば人民大衆を目ざめさせ、ふるいたたせ、自己の環境改造のために団結と闘争の方向へむかわせることができる。このような文学・芸術がなければ、この任務は達成されないか、強力かつ急速には達成されないであろう。
 文学・芸術活動における普及と向上とはなにか。この二つの任務の関係はどのようなものか。普及のためのものは比較的に単純平明であり、したがってまた、現在の広範な人民大衆からすぐうけいれられやすい。高級な作品は比較的に精緻《せいち》で、したがってまた、比較的にうまれにくく、そのうえ、多くのばあい、現在の広範な人民大衆のあいだにすぐひろまることも比較的むずかしい。いま労働者、農民、兵士の直面している問題は、かれらが敵と苛烈《かれつ》な流血の闘争をおこなっており、しかも、長期にわたる封建階級とブルジョア階級の支配のために、文字も知らず、基礎教育も身につけていないこと、したがって、かれらは自分たちが闘争意欲と勝利の確信をたかめ、団結をつよめ、心を一つにして敵とたたかえるよう、普遍的な啓蒙運動を切実にもとめており、さしせまって必要な、うけいれやすい基礎知識と文学・芸術作品を切実にもとめているということである。かれらにとってまっさきに必要なくとは、まだ「錦上に花をそえる」ことではなく、「雪中に炭をおくる」ことである。だから、現在の条件のもとでは、普及活動の任務がいっそうさしせまっている。普及活動を軽視したり無視したりする態度はあやまっている。
 しかし、普及の活動と向上の活動は、はっきりとは切りはなせないものである。一部のすぐれた作品はいまでも普及の可能性があるし、そのうえ広範な大衆の文化水準もたえず向上している。もしも、普及の活動がいつまでもおなじ水準にとどまっていて、一ヵ月、ニヵ月、三ヵ月、あるいは一年、二年、三年たっても、いつもおなじ品物、おなじ「牛飼いの子ども」〔6〕、おなじ「人、手、口、刀、牛、羊」〔7〕であるなら、教育するものも教育されるものも、どんぐりのせいくらべではないか。こんな普及の活動に、どんな意義があるだろうか。人民は普及をもとめるが、それにつづいて向上をももとめ、月を重ね年を追って向上することをもとめる。このばあい、普及は人民への普及であり、向上も人民からの向上である。そして、このような向上は、空中からの向上でもなく、家にとじこもっての向上でもなくて、普及を基礎とした向上である。このような向上は、普及によって決定されるが、同時にまた普及をみちびいていく。中国の範囲でいえば、革命や革命的文化は均等に発展するのではなく、しだいにひろまっていくのである。あるところでは、普及もしているし、普及を基礎として向上もしているが、他のところでは、まだ普及さえはじまっていない。したがって、あるところでの普及から向上へのよい経験は、他のところに応用して、他のところの普及の活動や向上の活動をあまり回り道しないですむようみちびくことができる。国際的な範囲でいえば、外国のよい経験、とりわけソ連の経験は、これまたわれわれをみちびく役割をはたしている。したがって、われわれの向上は普及を基礎とした向上であり、われわれの普及は向上によってみちびかれた普及である。だからこそ、われわれのいう普及の活動は、向上をさまたげないばかりか、現在のかぎられた範囲での向上の活動にも基礎をあたえ、また将来のはるかに広大な範囲での向上の活動にも必要な条件を準備するのである。
 大衆の直接に必要とする向上のほかに、もう一つ、大衆の間接に必要とする向上がある。それは幹部の必要とする向上である。幹部は大衆のなかの先進的な部分であり、かれらのうけた教育は一般に大衆のうけた教育よりもやや多い。かれらにとっては比較的に高級な文学・芸術がぜひとも必要で、この点を無視するのはあやまりである。大衆を教育し大衆をみちびくには、幹部をつうじる以外にないから、幹部のためというのも売全に大衆のためということである。もしこの目的にそむくなら、もし幹部にあたえるものが、大衆を教育し大衆をみちびくうえで幹部に役立たないなら、われわれの向上の活動は、的がなくて矢をはなつことになり、人民大衆のためという根本原則からはなれることになる。
 要するに、人民の生活のなかの文学・芸術の素材は、革命的作家の創造的な労働をつうじて、イデオロギーのうえでの人民大衆のための文学・芸術に形成されるわけである。そのなかには、すでに向上した大衆の必要とする、あるいはまず大衆のなかの幹部の必要とする、初級の文学・芸術の基礎から発展した高級な文学・芸術もあれば、逆に、このような高級な文学・芸術によってみちびかれた、往々にしてこんにちのもっとも広範な大衆がまっさきに必要とする初級の文学・芸術もある。高級のものであれ、初級のものであれ、われわれの文学・芸術はいずれも人民大衆のためのもの、なによりもまず、労働者、農民、兵士のためのものであり、労働者、農民、兵士のために創作され、労働者、農民、兵士によって利用されるものである。
 向上と普及の関係の問題を解決した以上は、つづいて、専門家と普及活動にたずさわるものとの関係の問題も解決できることになる。われわれの専門家は、たんに幹部のためのものではなく、主としては、やはり大衆のためのものである。われわれの文学専門家は大衆の壁新聞に目をむけ、軍隊や農村における報告文学に目をむけるべきである。われわれの演劇専門家は軍隊や農村における小劇団に目をむけるべきである。われわれの音楽専門家は大衆の歌に目をむけるべきである。われわれの美術専門家は大衆の美術に目をむけるべきである。これらすべての同志は、大衆のなかで文学・芸術の普及活動をおこなっている同志たちと緊密に結びつき、一方ではかれらをたすけ、かれらをみちびくとともに、他方ではかれらに学び、かれらをつうじて、大衆からの養分を吸収し、自己を充実させ、豊富にし、自己の専門が、大衆からも実際からも遊離した、すこしも内容や生気のない空中楼閣にならないようにすべきである。専門家はわれわれの事業にとってひじょうに貴重であり、われわれは専門家を尊重すべきである。だが、われわれはかれらにたいして、すべての革命的文学者・芸術家がその活動を意義あるものとするためには、大衆と結びつき、大衆をえがき、自己を大衆の忠実な代弁者にする以外にないことをつげなければならない。大衆を教育するには大衆を代表する以外になく、大衆の教師となるには大衆の生徒となる以外にない。自己を大衆の主人とみなし、「下等な人間」のうえにあぐらをかく貴族とみなすなら、たとえどれほど才能をもっているとしても、そうした人は大衆から必要とされなくなり、その活動には将来性がなくなるのである。
 われわれのこのような態度は功利主義的なものであろうか。唯物論者は一概に功利主義に反対するわけではないが、封建階級、ブルジョア階級、小ブルジョア階級の功利主義には反対し、口先だけで功利主義反対をとなえながら、実際にはもっとも利己的、近視眼的な功利主義をいだいている偽善者には反対する。世の中には超功利主義などというものはない。階級社会には、この階級の功利主義か、さもなければあの階級の功利主義があるだけである。われわれは、プロレタリア階級の革命的な功利主義者であり、全人口の九〇パーセント以上をしめるもっとも広範な大衆の当面の利益と将来の利益との統一を出発点とするものであり、したがって、われわれはもっとも広大な、もっとも遠大な目標をもった革命的な功利主義者であって、局部や目先だけしかみえない狭隘《きょうあい》な功利主義者ではない。たとえば、ある種の作品が、少数の人から偏愛されるだけで多数の人からは必要とされず、また多数の人に有害でさえあるのに、個人やせまい集団の功利をはかろうとして、これを無理に市場にもちこみ、大衆に宣伝し、そのうえ大衆を功利主義だと非難するなら、それは大衆を侮辱するばかりでなく、あまりにも身のほど知らずである。どんなものでも、人民大衆に真の利益をもたらさないかぎり、よいものとはいえない。かりに諸君のものが「陽春白雪」であるとしよう、いまのところそれが少数の人から楽しまれるだけで、大衆はあいかわらず「下里巴人《シァリーバーレン》」をうたっている〔8〕のに、諸君がこれを向上させずに文句ばかりつけているとしたら、どんなに文句をつけたところでむだである。現在の問題は、「陽春白雪」と「下里巴人」を統一することであり、向上と普及を統一することである。統一がなければ、どのような専門家の最高級の芸術も、もっとも狭隣な功利主義となるほかはない。これを高潔だといっても、自分で高潔ときめこむだけで、大衆はそれを承認しないだろう。
 労働者、農民、兵士のために奉仕するという基本方針と、労働者、農民、兵士のためにどのように奉仕するかという基本方針の問題が解決されれば、その他の問題、たとえば、光明をえがくか暗黒をえがくかという問題や団結の問題なども同時に解決される。諸君がこの基本方針に同意するなら、わが文学・芸術活動家、わが文学・芸術学校、文学・芸術出版物、文学・芸術団体およびすべての文学・芸術活動は、この方針にしたがっておこなうべきである。この方針をはなれることはあやまりであり、この方針になにか合致しない点があれば、適切にあらためなければならない。

     

 われわれの文学・芸術が人民大衆のためのものである以上、われわれはさらにすすんで、一つは党内関係の問題、すなわち党の文学・芸術活動と党の活動全体との関係の問題、もう一つは党外関係の問題、すなわち党の文学・芸術活動と党外の文学・芸術活動との関係の問題――文学・芸術界の統一戦線の問題について討議することができる。
 まず、第一の問題についてのべよう。現在の世界では、文化あるいは文学・芸術はすべて、一定の階級、一定の政治路線にぞくしている。芸術のための芸術、超階級的な芸術、政治と並行するか政治から独立した芸術というものは、実際には存在しない。プロレタリア階級の文学・芸術は、プロレタリア階級の革命事業全体の一部であり、レーニンがのべているように、革命という機械全体のなかの「歯車とねじくぎ」〔9〕である。したがって、党の文学・芸術活動は、党の革命活動全体においてその地位を確定され、位置づけられており、党が一定の革命時期にさだめた革命の任務に従うものである。このような位置づけに反対すれば、かならず二元論または多元論にはしり、本質的には、トロツキーのように、「政治――マルクス主義的、芸術――ブルジョア的」となってしまう。われわれは、文学・芸術の重要性をあやまった程度にまで過度に強調することには賛成しないが、文学・芸術の重要性を過小に評価することにも賛成しない。文学・芸術は政治に従属するが、逆にまた政治に偉大な影響をおよぼす。革命的文学・芸術は革命事業全体の一部であり、歯車とねじくぎであって、他のいっそう重要な部分にくらべれは、もちろん、軽重、緩急の別、第一義的、第二義的の別はあるが、しかし、機械全体にとって欠くことのできない歯車とねじくぎであり、革命事業全体にとって欠くことのできない一部である。もっとも広い意味での、もっともありふれた文学・芸術さえもないとすれば、革命運動をすすめることも勝利させることもできない。この点を認識しないのはまちがいである。なお、われわれが文学・芸術は政治に従うというばあい、この政治とは、少数のいわゆる政治家の政治ではなくて、階級の政治、大衆の政治のことである。政治は革命的であれ反革命的であれ、すべて少数の個人の行為ではなく、階級対階級の闘争である。階級や大衆の要求は政治をつうじてのみ集中的に表現されるものであるから、革命的な思想闘争と芸術闘争は政治の闘争に従わなければならない。革命的な政治家たち、革命的な政治科学もしくは政治芸術をこころえている政治の専門家たちは、何千万もの大衆という政治家の指導者であるにすぎない。かれらの任務は、大衆という政治家の意見を集中して、ねりあげ、これをふたたび大衆のなかへもちこんで、大衆にうけいれられ、実践されるようにすることにあるのであって、家にとじこもったまま世間にあわないものをこねまわし、自分こそりこうだとうぬぼれ、本家本元はここだけだというあの貴族的な、いわゆる「政治家」となることではない――これがプロレタリア政治家と腐敗したブルジョア政治家との原則的なちがいである。だからこそ、われわれの文学・芸術の政治性と真実性とは完全に一致しうるのである。この点を認識せず、プロレタリア階級の政治と政治家を俗流化することはまちがいである。
 つぎに、文学・芸術界の統一戦線の問題についてのべよう。文学・芸術は政治に従うもので、こんにちの中国の政治の第一の根本問題は抗日であるから、党の文学・芸術活動家は、まず第一に抗日の点で党外のすべての文学者・芸術家(党の支持者、小ブルジョアの文学者・芸術家からブルジョア・地主階級のすべての抗日に賛成する文学者・芸術家にいたるまで)と団結すべきである。第二には、民主主義の点で団結すべきである。この点では抗日の文学者・芸術家の一部が賛成しないので、団結の範囲はややせまくならざるをえない。第三には、文学・芸術界の特殊問題――芸術の方法と芸術の作風の点で団結すべきである。われわれは社会主義リアリズムを主張するが、これにはさらに一部の人びとが賛成しないので、この団結の範囲はもっとせまくなろう。ある問題では団結があっても、他の問題では闘争もあり批判もある。それぞれの問題は、たがいに切りはなされてもいるし結びついてもいるので、たとえば抗日の問題のように団結をもたらす問題でも、同時に闘争もあり批判もある。一つの統一戦線のなかで、団結があるだけで闘争がなかったり、闘争があるだけで団結がなかったりすること、たとえば過去に一部の同志がとったような右翼的な投降主義や追随主義、あるいは「左」翼的な排他主義やセクト主義をとること、これはすべてあやまった政策である。政治のうえでもそうであるし、芸術のうえでもそうである。
 中国では、小ブルジョアの文学者・芸術家が、文学・芸術界の統一戦線における各種の勢力のなかの重要な勢力である。かれらの思想や作品には多くの欠点があるが、かれらは比較的に革命にかたむいており、比較的に勤労人民にちかい。したがって、かれらが欠点を克服するのをたすけ、かれらを勤労人民に奉仕する戦線に獲得することは、とくに重要な任務である。

     

 文学・芸術界の主要な闘争方法の一つは文芸批評である。文芸批評は発展させるべきであるが、これまでこの面における活動はひじょうに不十分であった。同志諸君がこの点を指摘したのは正しい。文芸批評は複雑な問題で、多くの専門的な研究を必要とする。ここでは、批評の基準という基本的な問題だけに重点をおいてのべよう。そのほか、一部の同志が提起したいくつかの個別の問題やいくつかの正しくない観点についても、わたしの意見を簡単にのべておく。
 文芸批評には、政治的基準と芸術的基準の二つの基準がある。政治的基準からいえば、抗日と団結に有利なもの、大衆が一心同体になるよう鼓舞するもの、後退に反対し進歩を促進するものは、すべてよいものであり、抗日と団結に不利なもの、大衆の不和反目を扇動するもの、進歩に反対し人びとを後退させるものは、すべてわるいものである。ここでいうよい、わるいは、いったい動機(主観的願望)できめるのか、それとも効果(社会的実践)できめるのか。観念論者は動機を強調して効果を否定し、機械的唯物論者は効果を強調して動機を否定するが、われわれはこの両者と反対に、弁証法的唯物論の、動機と効果の統一論者である。大衆のためという動機と大衆から歓迎されるという効果とは切りはなせないものであり、両者を統一させなければならない。個人やせまい集団のためという動機はよくないが、大衆のためという動機があっても、大衆から歓迎され大衆に有益であるという効果がなければやはりよくない。ある作家の主観的願望、すなわちその動機が正しいかどうか、よいかどうかを点検するには、その宣言をみることではなく、その行動(主として作品)が社会の大衆のあいだでうみだす効果をみることである。社会的実践とその効果は、主観的願望または動機を点検する基準である。われわれの文芸批評にはセクト主義は無用であり、われわれは団結抗日の大原則のもとで、さまざまな政治的態度をふくむ文学・芸術作品の存在をゆるすべきである。しかし、われわれの批評はまた原則的な立場を堅持するものであって、反民族的、反科学的、反大衆的、反共的な観点をふくむすべての文学・芸術作品にたいしては、きびしい批判と反論をくわえなければならない。なぜなら、これらのいわゆる文学・芸術は、動機の点でも効果の点でも、団結抗日を破壊するものだからである。芸術的基準からいえば、芸術性が比較的高いものはすべて、よいものか、比較的よいものであり、芸術性が比較的低いものは、わるいものか、比較的わるいものである。こうした区別をするばあいにも、もちろん、社会的効果をみる必要がある。文学者・芸術家で、自分の作品を美しいとおもわないものはほとんどいないのであって、われわれの批評も、さまざまな芸術品の自由競争をゆるすべきである。だが、芸術科学の基準にしたがって正しい批判をくわえ、より低い芸術をしだいにより高い芸術にたかめていき、広範な大衆の闘争の要求に合致しない芸術を広範な大衆の闘争の要求に合致した芸術に変えていくことも、ぜひ必要なことである。
 政治的基準といい、芸術的基準というが、この両者の関係はどのようなものか。政治は芸術そのものではなく、一般的な世界観も、芸術創作や芸術批評の方法そのものではない。われわれは、抽象的な絶対不変の政治的基準を否定するばかりでなく、抽象的な絶対不変の芸術的基準をも否定するのであって、それぞれの階級社会のそれぞれの階級には、いずれも異なった政治的基準と芸術的基準がある。だが、どの階級社会のどの階級も、つねに、政治的基準を第一にし、芸術的基準を第二にする。ブルジョア階級は、プロレタリア階級の文学・芸術作品については、その芸術的達成がどんなに高くても、つねにこれを排斥する。プロレタリア階級も、過去の時代の文学・芸術作品については、なによりもまず、人民にたいする態度がどうであるか、歴史的に進歩的意義があるかどうかを点検して、それぞれ異なった態度をとらなければならない。政治的にはまったく反動的な作品でも、ある種の芸術性をそなえていることはありうる。内容が反動的であればあるほど、しかも芸術性をもてばもつほど、そうした作品は、ますます人民に有害であり、ますます排斥されるべきである。没落期にあるすべての搾取階級の文学・芸術に共通の特徴は、その反動的な政治的内容とその芸術的形式のあいだに存在する矛盾である。われわれが要求するのは、政治と芸術の統一、内容と形式の統一、革命的な政治的内容とできるかぎり完全な芸術的形式との統一である。芸術性のとほしい芸術作品は、政治的にどんなに進歩的でも無力である。したがって、われわれは、政治的観点があやまっている芸術作品にも反対するし、また、正しい政治的観点をもつだけで芸術的な力をもたないいわゆる「スローガン」式の傾向にも反対する。われわれは文学・芸術問題における二つの戦線の闘争をおこなうべきである。
 この二つの傾向は、われわれの多くの同志の思想のなかに存在する。多くの同志には芸術軽視の傾向があり、したがって芸術の向上に心をそそぐべきである。しかし、現在、それ以上に問題になるのはやはり政治の面だとおもう。一部の同志には基本的な政治常識が欠けているために、さまざまのあいまいな考えがうまれている。延安でのいくつかの例をあげよう。
 「人間性論」という。人間性というものはあるだろうか。もちろんある。だが、具体的な人間性があるだけで、抽象的な人間性はない。階級社会においては、階級性をもった人間性があるだけで、超階級的な人間性などというものはない。われわれがプロレタリア階級の人間性、人民大衆の人間性を主張するのにたいし、地主階級やブルジョア階級は地主階級やブルジョア階級の人間性を主張するのであって、ただ、かれらは口先ではそういわずに、唯一の人間性といいくるめているにすぎない。一部の小ブルジョア知識人が鼓吹する人間性も、やはり人民大衆から遊離するか、人民大衆と対立するものであり、かれらのいう人間性なるものは、本質的にはブルジョア個人主義にすぎず、したがって、プロレタリア階級の人間性は、かれらの目からみれば、人間性には合致しない。現在、延安の一部の人びとによって主張されているいわゆる文芸理論の基礎としての「人間性論」はこうしたもので、まったくあやまりである。
 「文学・芸術の基本的な出発点は愛であり、人類愛である」という。愛は出発点となりうるが、まだ基本的な出発点がある。愛は観念的なものであり、客観的実践の産物である。われわれは根本的には観念から出発するのではなく、客観的実践から出発する。われわれの知識人出身の文学・芸術活動家がプロレタリア階級を愛するのは、社会がかれらにプロレタリア階級と共通の運命をもっていると感じさせている結果である。われわれが日本帝国主義を憎むのは、日本帝国主義がわれわれを抑圧している結果である。世の中には、けっしていわれのない愛もなければ、いわれのない憎しみもない。いわゆる「人類愛」についていえば、人類が階級に分化して以後、こうした包括的な愛は存在したことがない。過去のすべての支配階級は、このんでこうした愛をとなえてきたし、いくたのいわゆる聖人賢人も、このんでこうした愛をとなえてきたが、それは階級社会では実行できないため、だれもほんとうに実行したことはない。真の人類愛はありうるが、それは全世界で階級が消滅したのちのことである。階級は社会を多くの対立物に分裂させているのであって、階級が消滅したのちには全体としての人類愛がうまれるが、いまはまだ存在しない。われわれは敵を愛することはできないし、社会のみにくい現象を愛することもできない。われわれの目的はこうしたものを消滅することである。これは常識であって、われわれの文学・芸術活動家のなかにまだわからない人がいるだろうか。
 「従来の文学・芸術作品はいずれも光明と暗黒におなじ比重をおき、半々にえがいてきた」という。これには多くのあいまいな考えがふくまれている。文学・芸術作品は、従来そうしたものではない。多くの小ブルジョア作家は光明を見いだしたことがなく、その作品は暗黒を暴露するだけで、「暴露文学」とよばれており、さらには、もっぱら悲観、厭世《えんせい》だけを宣伝するものもある。これに反して、ソ連の社会主義建設の時期における文学は、光明をえがくことを主としている。かれらも活動における欠陥をえがき、否定的人物をえがくが、このような描写は全体の光明をひきたたせるためであって、けっして「半々」というものではない。反動期のブルジョア文学者・芸術家は、革命大衆を暴徒、かれら自身を神聖なものとしてえがき、いわゆる光明と暗黒をさかさまにしている。賛美と暴露の問題を正しく解決することができるのは、真の革命的文学者・芸術家だけである。人民大衆に危害をおよぼすすべての暗黒勢力は暴露し、人民大衆のすべての革命闘争は賛美しなければならない、これこそ革命的文学者・芸術家の基本的任務である。
 「従来の文学・芸術は暴露を任務としてきた」という。このような論法はまえのばあいとおなじく、歴史科学の知識に欠けた見解である。従来の文学・芸術が暴露だけをしてきたのではないことは、まえにのべた。革命的な文学者・芸術家にとって、暴露の対象となるのは、侵略者、搾取者、抑圧者と、かれらが人民のあいだに残しているわるい影響だけであって、人民大衆であってはならない。人民大衆にも欠点はあるが、それらの欠点は人民の内部における批判と自己批判によって克服すべきであり、こうした批判と自己批判をおこなうことも文学・芸術のもっとも重要な任務の一つである。しかし、これをもって、「人民を暴露する」などというべきではない。人民にたいしては、基本的には、かれらを教育し向上させるという問題である。人民は「うまれながらの愚か者」であるとか、革命大衆は「専制的な暴徒」であるとかいったたぐいの描写をするのは、反革命的な文学者・芸術家以外にない。
 「まだ雑文の時代であり、まだ魯迅の筆法が必要である」という。魯迅は、暗黒勢力の支配のもとにあり、言論の自由をもたなかったから、ひややかな嘲笑やはげしい風刺という雑文の形式を用いてたたかったのであって、魯迅はまったく正しかった。われわれもファシズム、中国の反動派、そしてまた、人民に危害をおよぼすすべての事物をするどく嘲笑する必要があるが、しかし、革命的文学者・芸術家には十分な民主主義と自由があたえられ、ただ反革命分子にだけは民主主義と自由があたえられていない陝西・甘粛・寧夏辺区と敵後方の各抗日根拠地では、雑文の形式も単純に魯迅とおなじものであってはならない。われわれは声を大にしてさけぶことができるのであり、言葉をにごしたり、遠回しにいったりして、人民大衆にわかりにくくする必要はない。人民の敵にたいしてではなく、人民自身にたいしてであれば、「雑文の時代」の魯迅も、革命的人民と革命的政党を嘲笑または攻撃したことがなかったし、その雑文の書き方も敵にたいするばあいとまったくちがっていた。人民の欠点にたいして批判が必要なことは、すでにのべたが、しかし、真に人民の立場に立ち、人民を保護し人民を教育するあふれるばかりの熱情をもって語らなければならない。同志を敵としてあつかうなら、自分を敵の立場に立たせることになる。われわれは風刺をやめるべきか。そうではない、風刺は永遠に必要である。だが、風刺にはいくつかの種類があり、敵にたいするのと、同盟者にたいするのと、自己の陣営にたいするのとでは、その態度にそれぞれ違いがある。われわれは、一概に風刺に反対するというわけではないが、風刺の乱用はやめなければならない。
 「わたしは、功績や得行を賛美しはしない。光明を賛美する者はその作品が偉大とはかぎらないし、暗黒をえがきだす者は、その作品が矮小《わいしょう》とはかぎらない」という。ブルジョア文学者・芸術家なら、プロレタリア階級を賛美せずにブルジョア階級を賛美するであろうし、プロレタリア文学者・芸術家なら、ブルジョア階級を賛美せずにプロレタリア階級と勤労人民を賛美するであろう。この二つのうちのどちらかである。ブルジョア階級の光明を賛美する者はその作品が偉大であるとはかぎらず、ブルジョア階級の暗黒をえがきだす者はその作品が矮小であるとはかぎらない。プロレタリア階級の光明を賛美する者はその作品が矮小でないとはかぎらず、プロレタリア階級のいわゆる「暗黒」をえがきだす者はその作品がかならず矮小なのである。これを文学・芸術史上の事実ではないとでもいうのだろうか。人民、この人類世界の世界の創造者を、なぜ賛美してはならないのか。プロレタリア階級、共産党、新民主主義、社会主義をなぜ賛美してはならないのか。また、ある種の人びとは、人民の事業にたいしては熱意をもたず、プロレタリア階級とその前衛の闘争と勝利にたいしては冷たい目で傍観する態度をとる。かれらが興味を感じ、うむことなく賛美するのは自分自身か、それとも自分の主宰している小グループのいく人かの連中にすぎない。こうした小ブルジョア個人主義者は、もちろん、革命的人民の功績や徳行を賛美して革命的な人民の闘争への勇気や勝利の確信をふるいたたせることをのぞまない。このような人びとは革命の隊列のなかの紙魚《しみ》にすぎず、革命的人民はこのような「うたい手」をまったく必要としない。
 「立場の問題ではない。立場は正しく、意図もよく、理屈もわかっているが、うまく表現できなかったばかりに、わるい役割をはたす結果になったのだ」という。動機と効果についての、弁証法的唯物論の観点についてはすでにのべた。ここでたずねたいのは、効果の問題が立場の問題でないかどうかということである。ものごとをするのに動機だけにたよって、効果をかえりみないなら、医者が処方箋《せん》を書くだけで、病人がそれを飲んでどれだけ死のうと問題にしないのとおなじである。また、政党が宣言を発表するだけで、実行するかどうかを問題にしないようなものでもある。われわれはたずねたい。このような立場でも正しいといえるだろうか。このような意図でもよいといえるだろうか。事前に事後の効果を考えておいても、もちろん、あやまりのおこることはありうるが、効果のわるいことがすでに事実によって立証されているのに、まだこれまでのやり方でいこうとするなら、それでも、この意図をよいといえるだろうか。われわれがある政党、ある医者を判断するには、その実践を見、その効果を見る必要があり、ある作家を判断するばあいも、やはりそうである。真によい意図であれば、その効果を考慮し、経験を総括し、方法、すなわち創作上では表現の手法とよばれるものを研究しなければならない。真によい意図であれば、自己の活動の欠点やあやまりについて誠意のこもった自己批判をおこない、またそれらの欠点やあやまりをあらためる決意をもたなければならない。共産党員の自己批判は、このような方法をとるのである。このような立場だけが正しい立場である。同時にまた、このような厳粛な、責任ある実践の過程においてのみ、正しい立場とはどんなものであるかを一歩一歩理解し、正しい立場を一歩一歩把握することができるのである。実践のなかでこの方向にすすまないなら、ただひとりよがりになって、「わかっている」といっても、実際にはわかっていないのである。
 「マルクス主義の学習を提唱することは、弁証法的唯物論の創作方法のあやまりをくりかえすことであり、それは創作の気分をそこねる」という。マルクス主義を学習するのは、弁証法的唯物論と史的唯物論の観点によって世界を観察し、社会を観察し、文学・芸術を観察するためであって、文学・芸術作品のなかに哲学の講義を書くためではない。マルクス主義は、文学・芸術の創作におけるリアリズムをふくみえても、それにとって代わることはできない。それは、ちょうどマルクス主義が物理学における原子論、電子論をふくみえても、それらにとって代わることができないのとおなじである。中味のない、ひからびた教条的公式は創作の気分をこわすものであるが、それは創作の気分をこわすばかりでなく、なによりもまずマルクス主義をこわす。教条主義的な「マルクス主義」は、マルクス主義ではなくて、マルクス主義にそむくものである。それなら、マルクス主義は創作の気分をこわさないか。こわすのである。あの封建的、ブルジョア的、小ブルジョア的、自由主義的、個人主義的、虚無主義的、芸術のための芸術的、貴族的、退廃的、悲観的な、そしてまた、その他さまざまな非人民大衆的、非プロレタリア的な創作の気分を決定的にうちこわすのである。プロレタリア文学者・芸術家にとって、これらの気分はうちこわすべきかどうか。わたしの考えでは、うちこわすべきであり、徹底的にうちこわすべきであって、うちこわされると同時に、新しいものが建設されるのである。

     

 わが延安の文学・芸術界にはうえにのべたさまざまな問題が存在するが、これはどのような事実を物語っているだろうか。文学・芸術界にはなお正しくない作風がひどく存在しており、同志たちのあいだにはなお観念論、教条主義、空想、空論、実践軽視、大衆からの遊離など多くの欠点が存在していて、着実で厳粛な整風運動を必要としているという事実を物語っている。
 われわれの同志のなかには、プロレタリア階級と小ブルジョア階級との区別がまだはっきりしていない人がたくさんいる。そして党員のなかには、組織的に入党していても、思想的には中途半端《はんぱ》にしか入党していないか、さらには全然入党していない人もたくさんいる。思想的に入党していないこのような人びとの頭には、まだ搾取階級のきたないものがたくさんつめこまれており、プロレタリア思想とはなにか、共産主義とはなにか、党とはなにかがまるきりわかっていない。かれらは考える。なにがプロレタリア思想だ、例のしろものではないか、と。かれらには、このしろものを身につけるのは容易でないことがわかるはずもない。あるものは一生かかっても共産党員のにおいさえ身につけることができないで、最後には党を去っていくだけである。したがって、われわれの党、われわれの隊列は、その大部分が純潔であるとはいえ、革命運動がよりよく発展しよりはやく成功するようこれを指導するためには、思想の面も組織の面も、しんけんに整えなければならない。そして、組織の面を整えるためには、まず思想の面を整える必要があり、プロレタリア階級の非プロレタリア階級にたいする思想闘争をくりひろげる必要がある。延安の文学・芸術界はすでに思想闘争をくりひろげているが、これはひじょうに必要なことである。小ブルジョア出身の人びとは、つねにさまざまの方法をつうじ、文学・芸術の方法をもつうじて、頑強《がんきょう》にかれら自身を表現し、かれら自身の主張を宣伝し、また、人びとに、小ブルジョア知識人の姿におうじて党を改造し世界を改造することを要求する。このような状況のもとでのわれわれの仕事は、かれらにむかって、大喝《だいかつ》一声、こういってやることである。「同志」諸君、諸君のそうしたものではだめだ。プロレタリア階級は諸君に迎合することはできない。諸君のいうとおりになることは、実際には大地主・大ブルジョア階級のいうとおりになることで、党を滅ぼし、国を滅ぼす危険がある、と。では、だれのいうとおりになればよいのか。プロレタリア階級の前衛の姿にそくして党を改造し世界を改造するほかないのである。われわれは、文学・芸術界の同志諸君がこのたびの大論戦の重大性を認識し、積極的にこの闘争に参加して、一人ひとりの同志がすべて健全になり、われわれの隊列全体が思想的にも組織的にも真に統一され、強固になることを希望するものである。
 思想の面に多くの問題があるところから、われわれの同志のなかにはまた、革命根拠地と国民党支配区とをほんとうに区別することがあまりできず、そのために多くのあやまりをおかしている人がたくさんいる。同志諸君の多くは上海の中二階〔10〕からきたのであるが、中二階から革命根拠地につくまでには、二つの種類の地区をとおってきたばかりでなく、二つの歴史的時代をもとおってきた。その一つは大地主・大ブルジョア階級の支配する半封建・半値民地の社会であり、もう一つはプロレタリア階級の指導する革命的な新民主主義の社会である。革命根拠地にきたことは、中国の数千年らいの歴史にかつてみなかった、人民大衆が権力をにぎる時代にきたということである。われわれの周囲の人物、われわれの宣伝の対象は、まったく変わったのである。過去の時代はすぎさり、もう二度とかえってはこない。したがって、われわれは、なんのためらいもなく、新しい大衆と結びつかなければならない。同志諸君が新しい大衆のあいだに身をおきながら、なおわたしがさきにのべたように、「知らず、わからず、英雄も腕をふるう場所なし」という状態であれば、農村にはいったときに困難にであうばかりでなく、農村にはいらずに延安にいても困難にであうであろう。ある同志はこう考えている。自分はやはり「大後方」〔11〕の読者のために書こう、それならよく知っているし、また「全国的な意義」もある、と。 この考え方はまったくまちがっている。「大後方」も変わるものだし、「大後方」の読者は、すでにきき飽きたふるくさい物語を革命根拠地の作家からきく必要はなく、革命根拠地の作家が新しい人物、新しい世界について語ってくれることをのぞんでいる。だから、革命根拠地の大衆のために書く作品であればあるほど、ますます全国的な意義をもつのである。ファジェーエフの『壊滅』〔12〕はある小さな遊撃隊のことを書いただけで、けっして旧世界の読者の好みにあわせようとしたものではないが、世界的な影響をもたらしており、周知のように、少なくとも中国では、ひじょうに大きな影響をもたらしている。中国は後退しているのではなくて、前進しており、中国の前進を指導しているのは、たちおくれ後退しているどの地方でもなくて、革命の根拠地である。同志諸君は、整風のなかで、この根本問題をまず第一に認識しなければならない。
 新しい大衆の時代と結びつかなければならない以上、個人と大衆との関係の問題を徹底的に解決しなければならない。魯迅の詩のつぎの二句、すなわち、「眉をよこたえて、ひややかに千天の指にたいし、こうべをたれて、あまんじて孺子《じゅし》の牛とならん」〔13〕をわれわれの座右の銘としなければならない。ここでは、「千天」とは敵のことをさす。われわれはどんな凶悪な敵にたいしても、けっして屈服するものではない。ここでは、「孺子」とは、プロレタリア階級と人民大衆のことをさす。すべての共産党員、すべての革命家、すべての革命的な文学・芸術活動家は、魯迅を手本にして、プロレタリア階級と人民大衆の「牛」となり、命のあるかぎり献身的につくさなければならない。知識人が大衆と結合し、大衆に奉仕するには、相互認識の過程が必要である。この過程では、多くの苦痛、多くの摩擦が生じるだろうし、また生じるにちがいないが、みんなが決意をもちさえすれば、これらの要求は達成できるのである。
 きょう、わたしが話したのは、たんに、われわれの文学・芸術運動におけるいくつかの根本的な方向の問題にすぎず、今後ひきつづき検討しなければならない具体的な問題はまだたくさんある。わたしは、同志諸君がこの方向にすすむ決意をもっていることと信ずる。同志諸君が、整風の過程において、また今後の長期の学習と活動において、かならず自分自身と自分の作品の姿をあらためることができ、かならず人民大衆に心から歓迎される多くのすぐれた作品をつくることができ、かならず革命根拠地の文学・芸術運動と全中国の文学・芸術運動を輝かしい新段階におしすすめることができるものと、わたしは信じている。


〔1〕 レーニンの『党の組織と党の文学』にみられる。レーニンはこの論文のなかで、プロレタリア文学の特徴をつぎのようにえがいている。「それは自由な文学であろう。なぜなら、私欲と出世ではなく、社会主義の思想と勤労者への共感が、新しい力を文学の隊列につぎつぎと吸収するからである。それは自由な文学であろう。なぜなら、それは、飽食した貴婦人や、肥満のためになやんでいる倦怠《けんたい》した『上層の数万』に奉仕するのではなくて、その国の華《はな》であり、その力であり、その未来である幾百万、幾千万の勤労者に奉仕するからである。それは人類の革命思想の最高の成果を社会主義的プロレタリア階級の経験と生きた活動によって充実させ、過去の経験(原始的・空想的形式の社会主義から発展して科学的社会主義となったもの)と現在の経験(労働者の同志諸君の現在の闘争)とをたえず相互作用させる自由な文学であろう。」
〔2〕 梁実秋は反革命の国家社会党の党員である。かれは長いあいだ、アメリカの反動ブルジョア階級の文学・芸術思想を宣伝して、あくまで革命に反対し、革命的な文学・芸術をののしりつづけた。
〔3〕 周作人、張資平は、一九三七年、日本が北京、上海を占領したのち、あいついで日本侵略者に投降した。
〔4〕 『魯迅全集』第四巻の『二心集』の「左翼作家連盟についての意見」にみられる。
〔5〕 『魯迅全集』第六巻の『且介亭雑文末編』の「付集」の「死」にみられる。
〔6〕 「牛飼いの子ども」はひろく演じられた中国の小歌舞劇である。この劇の登場人物は二人だけで、男役は牧童、女役は村の少女、この二人が対話の形式で劇の内容を表現する。抗日戦争の初期に、ある人がこの歌舞劇の形式を用い、歌詞をかえて抗日を宣伝し、一時、相当ひろく演じられた。
〔7〕 「人、手、口、刀、牛、羊」、これは字画の比較的に簡単な漢字で、旧時代の小学国語教科書はこれらの文字を第一冊の最初の数課にのせていた。
〔8〕 「陽春白雪」、「下里巴人」は、ともに西紀前三世紀のころの楚の国の歌曲である。「陽春白雪」は比較的高級な音楽であり、「下里巴人」は比較的わかりやすい音楽であった。『文選』の「宋玉、楚王の問いに対す」に出てくる物語によると、ある人が楚の都で「陽春白雪」をうたったとき、「国内でそれに和するものは数十人にすぎなかった」が、「下里巴人」をうたったときには、「国内でそれに和するものが数千人にのぼった」という。
〔9〕 レーニンの『党の組織と党の文学』にみられる。かれはつぎのようにのべている。「文学の事業は全プロレタリアの事業の一部、全労働者階級の自覚した前衛全体によって運転される一つの統一された、偉大な社会民主主義的な機械装置の『歯車とねじくぎ』にならなければならない。」
〔10〕 中二階とは、上海の二階建以上の家屋にある小部屋で、家屋の後部にある階段の中間にあたるせまくて暗いところである。このため部屋代は比較的やすかった。まずしい文学者・芸術家、知識人、下級職員は、たいていこうした部屋を借りて住んでいた。
〔11〕 国民党支配区のことである。抗日戦争の時期に、人びとは、日本侵略者に占領されないで国民党の支配下にあった中国の西南部と西北部の広大な地域を「大後方」とよびならわし、これを、共産党の指導する敵後方の抗日根拠地である「小後方」と区別した。
〔12〕 ファジェーエフはソ連の著名な作家である。かれの書いた小説『壊滅』は一九二七年に出版され、その内容は、ソ連の国内戦争の時期にシベリアの労働者、農民、革命的知識人によって組織された遊撃隊の一部隊が反革命の匪賊集団とたたかった闘争をえがいた物語で、魯迅によって中国語に訳された。
〔13〕 『魯迅全集』第七巻『集外集』の「自嘲」にみられる。
訳注
① 「五・四運動」のことである。本選集第二巻の『戦争と戦略の問題』訳注①を参照。
② 買弁文化とは、植民地、半植民地国において、帝国主義に身をよせる買弁ブルジョア階級の宣伝する、あらゆる奴隷化思想をふくむ文化をいう。こうした文化は帝国主義の侵略の罪悪行為を美化し、民族の自尊心をふみにじり、人民大衆の反帝闘争の革命的意志をまひさせて、帝国主義に奉仕するものである。たとえば国民党反動派が極力宣伝した親米、崇米、恐米などの反動思想は、買弁文化思想の典型的なあらわれである。
③ 雑文は、中国の戦国時代からあった一種の散文体である。雑文は、題材かひろく、文体も多様で、短くていきいきとし、するどさをもち、社会のできごとをいちはやく反映するのに適している。「五・四」いらい、魯迅に代表される革命的な作家は、帝国主義、封建軍閥、国民党反動派、およびその御用文化人を論ばくし、暴露する多くの雑文を書いた。これらの雑文は戦闘性が強く、独特の風格があり、雑文の新しい伝統をつくった。

maobadi 2011-01-14 20:56
きわめて重要な政策
          (一九四二年九月七日)
     これは、毛沢東同志が延安の『解放日報』にかわって書いた社説である。

 党中央が軍隊の精鋭化、行政の簡素化という政策をだしていらい、多くの抗日根拠地の党組織はいずれも、党中央の指示にしたがって、これを企画し、遂行している。山西《シャンシー》・河北《ホーペイ》・山東《シャントン》・河南《ホーナン》辺区の指導者たちは、この仕事にしっかりとりくみ、軍隊の精鋭化、行政の簡素化の模範をしめした。しかし、若干の根拠地の同志たちは認識がたりないため、しんけんに遂行していない。それらの地方の同志たちは、まだ、軍隊の精鋭化、行政の簡素化と当面の情勢、党の諸政策との関係を理解しておらず、軍隊の精鋭化、行政の簡素化をきわめて重要な政策とはみていない。これについては、『解放日報』でなんども論じられてきたが、ここで、さらに説明をくわえてみたい。
 党のすべての政策は日本侵略者にうち勝つためのものである。五年目にはいってからのちの抗日戦争の情勢は、まさに勝利をかちとる最後の段階にある。この段階は抗日の一年目二年目と異なるばかりでなく、抗日の三年目四年目とも異なっている。抗日の五年目六年目には、勝利に近づきつつあるが極度の困難もあるという状況がうまれてくる。つまり「夜明けまえの暗やみ」という状況である。こうした状況は、ただ八路軍、新四軍の各根拠地だけに存在するのではなく、すべての反ファシズム諸国の現段階に存在し、また中国全体にも存在しているが、わが軍の各根拠地には、とくにするどくあらわれている。われわれは、二年のうちに日本侵略者をうち負かそうと努力している。この二年は極度に困難な二年で、抗日の最初の二年、中間の二年とは大きなちがいがあるだろう。この特徴を、革命政党と革命軍隊の指導者はあらかじめ見通しておかなければならない。あらかじめ見通すことができなければ、時の移るままに流されるだけで、仕事に努力はしていても、勝利をおさめるどころか、かえって革命事業に損害をあたえるおそれがある。敵の後方の各抗日根拠地の情勢は、こんにちまでのところ、過去に数倍する困難が生じてはいるが、まだ極度の困難というわけではない。もし、いま正しい政策をもたなかったら、これからさき極度の困難にぶつかるだろう。一般の人は過去や現在の状況にまどわされがちで、今後もこの程度のものにすぎないだろうと考えている。かれらは船が暗礁にぶつかるのをあらかじめ察知するだけの力がなく、冷静な頭脳で舵《かじ》をとり暗礁をさけて通るということができない。なにが抗日という船のゆく手によこたわる暗礁なのか。それは、抗戦の最後の段階における、極度にきびしい物質面の困難である。党中央は、この困難を指摘し、この暗礁をさけて通るよう、われわれの注意をうながしている。われわれの多くの同志はすでにこのことを理解しているが、若干の同志はまだ理解しておらず、これがまず最初に克服しなければならない障害である。抗戦するには団結しなければならないが、団結にはさまざまな困難がともなう。この困難は政治上の困難であって、過去にもあったが今後もうまれる可能性がある。この五年らい、わが党は、きわめて大きな力をもって一歩一歩この困難を克服してきた。われわれのスローガンは団結を強化しようということであって、今後も団結を強化していかなければならない。しかし、もう一つの困難、すなわち物質面の困難がある。この困難が今後ますますきびしくなるのは必至である。現在、泰然とかまえてそれほど感じていない同志がまだいくらかいるので、われわれはこれらの同志の注意を喚起する必要がある。各抗日根拠地のすべての同志は、こんご物質的困難が現在よりずっとひどくなるのは必至であり、われわれはこの困難を克服しなければならす、その重要な方法の一つが軍隊の精鋭化、行政の簡素化である、ということを認識すべきである。
 軍隊の精鋭化、行政の簡素化は、なぜ物質的困難を克服する重要な政策なのか。現在の、とくに今後の根拠地での戦争の状況は、われわれが過去の観点にとどまっているのをゆるさないということ、これはきわめてはっきりしている。われわれの膨大な戦争の機構は、過去の状況には適していた。当時の状況では、そうすることがゆるされたし、またそうすべきであった。だが、いまでは事情がちがう。根拠地はすでに縮小したし、今後の一時期にはもっと縮小するかもしれない。したがって、われわれはどうしてもこれまでのように膨大な機構を維持するわけにはいかない。いまでは、戦争の機構と戦争の状況とのあいだにすでに矛盾がうまれており、われわれはこの矛盾を克服しなければならない。敵はわれわれのこの矛盾を拡大させる方針をとっており、これがかれらの「三光」政策〔1〕である。われわれがひきつづき膨大な機構を維持しようとするなら、それはまさに敵のわなにかかることになる。われわれが自分の機構を縮小し、軍隊の精鋭化と行政の簡素化をはかるなら、われわれの戦争の機構はたとえ小さくはなっても、依然として強力であるだろう。そして、水が少ないのに魚が大きいといった矛盾が克服されて、われわれの戦争の機構が戦争の状況にかなったものになるので、われわれは、ますます強力になり、敵からうち負かされることなく、最後には敵にうち勝つだろう。だから、われわれは、党中央がかかげた軍隊の精鋭化、行政の簡素化の政策をきわめて重要な政策だというのである。
 だが、人間の頭脳はとかく現状と習慣にかたくしばられがちであって、たとえ革命家でも、ときにはそれをまぬがれることはできない。膨大な機構は自分自身がつくりだしたものであり、それをまた自分の手で縮小するようになるとはおもわなかったので、縮小するさいに、気がすすまず、困難を感ずる。敵が膨大な機構で圧迫をくわえてくるのに、われわれの方は機構を縮小してよいものだろうか。縮小すれば、兵力が少なくて敵にあたるには不十分だと感ずる。これが、現状と習慣にしばられるということである。時候が変われば着物もそれにおうじて変えなければならない。毎年、春から夏への変わり目、夏から秋への変わり目、秋から冬への変わり目、冬から春への変わり目には、それぞれ衣がえをする必要がある。ところが、人びとはこの「変わり目」に衣がえがうまくできないで病気にかかりがちである。それは習慣の力によるのである。現在の根拠地の状況では、すでに冬服をぬぎすてて夏服にきかえ、身軽になって敵とたたかうことを必要としているのに、われわれは、あいかわらず着ぶくれて、頭でっかちであり、はなはだ戦闘に適さない。敵の膨大な機構にどのようにして対処するのかというなら、それには孫悟空が鉄扇姫にたちむかった例がある。鉄扇姫は手ごわい妖怪《ようかい》ではあったが、孫悟空は小さな虫にばけて鉄扇姫の心臓のなかにもぐりこみ、かの女をうち負かしてしまった〔2〕。柳宗元が書いている「貴州《コイチョウ》の驢馬《ろば》の技《わざ》」〔3〕もひじょうによい教訓である。図体《ずうたい》の大きい驢馬が貴州にかけこみ、貴州の小さい虎がそれをみてひどくおそれた。だが、あとになって、大きい驢馬はやはり小さい虎に食われてしまった。われわれ八路軍、新四軍は孫悟空であり、小さい虎であって、日本という妖怪や日本という驢馬にたちむかう方法はいくらでもある。いまこそ、われわれは姿を変えて、自分のからだをもっと小さく、だが、もっとがっしりしたものにしなければならない。 そうすれば、われわれは無敵となる。



〔1〕 「三光政策」とは、日本帝国主義が中国解放区にたいしてとった焼きつくし、殺しつくし、奪いつくすという政策をさす。
〔2〕 鉄扇姫は羅刹《らせつ》ともよばれる。孫悟空が小さな虫にはけて鉄扇姫をうち負かす話は、中国の神話小説『西遊記』第五十九回にみられる。
〔3〕 柳宗元(西紀七七三~八一九年)は中国の唐代のすぐれた作家の一人である。 かれは三つの寓話からなる「三戒」という文章を書き、そのなかに「貴州の驢馬」と題するつぎのような寓話がある。「貴州には驢馬がいなかったので、ある物好きが驢馬を船にのせて貴州にもちこんだ。ついてから、使い道がなかったので、それを山麓にはなった。虎はこれをみて、図体が大きいので神だとおもい、林間にかくれてこれをうかがった。すこし出て近づき、うやうやしくしていたが、何であるかわからなかった。ある日、鱸馬が鳴くのをきいて、虎はひどくおどろき、遠くに逃げ去った。そして、自分を食おうとしているのだとおもい、ひどくおそれた。しかし、なんども、いったりきたりして見ているうちに、何も特別な能力をもっていないような気がしてき、またその声にもなれてきたので、その前後まで近づいたが、結局、とびかかる勇気はなかった。もっと近づき、もっとなれてくるにつれて、よりかかってみたり、つきあたってみたりした。驢馬はひどく怒って、これをけとばした。そこで、虎はよろこんで、『わざはこれだけか』と考え、吼《ほ》えておどりかかり、その喉《のど》をかみきり、その肉をすっかりたいらげて、去った。」

maobadi 2011-01-14 20:57
第二次世界大戦の転換点
          (一九四二年十月十二日)
     これは、毛沢東同志が延安の『解放日報』にかわって書いた社説である。

 スターリングラードの戦いは、イギリス、アメリカの新聞がそれをベルダンの戦役にたとえており、「赤いベルダン」の名は全世界に知れわたっている。このようなたとえは適切だとはいえない。こんにちのスターリングラードの戦いは、第一次世界大戦のさいのベルダンとは性質上のちがいがある。しかし、多くの人びとがこのときになってもなおドイツの攻勢にまどわされて、ドイツはまだ勝つみこみがあると考えている点ではおなじである。第一次世界大戦は一九一八年の冬に終わったが、一九一六年には、ドイツ軍はフランスの要塞ベルダンを何回か攻撃した。当時ドイツ軍の戦役統帥者はドイツ皇太子であり、戦闘に投入された兵力はドイツ軍のもっとも精鋭な部分であった。当時の戦闘は決戦的性質をおびていた。ドイツ軍が猛攻撃をかけても攻略できなかったため、ドイツ・オーストリア・トルコ・ブルガリア陣営全体はもはや活路をひらくことができなくなり、そのご日ましに困難となって、仲間同士が離反し、全陣営が瓦解《がかい》して、最終的に崩壊することとなった。ところが、当時イギリス・アメリカ・フランス陣営は、まだこのような状況を見ぬくことができず、ドイツ軍はまだひじょうに強大だと考え、自分の勝利がもう目の前にきているのを知らなかった。人類の歴史では、滅亡しようとする反動勢力は、革命勢力にたちむかい最後のあがきをするのがつねであるが、一部の革命的な人びとも、とかく、ある時期にはこうした見かけだおしの現象にまどわされ、敵がまもなく消滅され、自分がまもなく勝利するという実質を見ぬけないものである。ファシスト勢力全体の勃興《ぼっこう》とかれらが数年間にわたっておこなってきた侵略戦争こそ、こうした最後のあがきのあらわれであり、この戦争のなかでは、スターリングラードの攻撃がその最後のあがきのあらわれである。全世界の反ファシズム陣営のなかにも、この歴史の転換点を前にしながら、ファシストの凶悪な外見にまどわされてその本質を見ぬけない人がたくさんいる。八月二十三日にドイツ軍が全部ドン河湾曲部で渡河を終え、全面的にスターリングラード攻撃をはじめてから、九月十五日にドイツ軍の一部が同市西北部の工業地区に突入し、十月九日にいたって、赤軍が同地区のドイツ軍包囲線を突破したとソ連情報局から公表されるまで、この四十八日間というものは、人類史上その類をみない空前の苦戦であった。この戦いはついに勝利した。この四十八日のあいだ、この都市のその日その日の勝敗の消息は、何万何億という人民の心をゆさぶり、かれらを一喜一憂させた。この戦いは、ソ独戦争の転換点、ひいては今次の世界反ファシズム戦争の転換点であるばかりでなく、全人類の歴史の転換点でもある。この四十八日のあいだ、世界の人民はスターリングラードを見まもっていたが、その関心の度合いは、昨年十月に世界の人民がモスクワを見まもったのにまさるとも劣らなかった。
 ヒトラーは、西部戦線で勝利するまでは、慎重を期したようである。ポーランドへの攻撃、ノルウェーへの攻撃、オランダ、ベルギー、フランスへの攻撃、バルカンへの攻撃では、いずれも全力を一ヵ所に集中し、やたらにほかのところへ手をのばそうとはしなかった。西部戦線で勝利してからは、かれはのぼせあがり、三ヵ月以内にソ連をうち負かそうとくわだてた。北はムルマンスクから南はクリミアにかけて、この広大で強力な社会主義国に全面的な進攻をおこない、こうしてその兵力を分散させた。昨年十月のモスクワへの進攻の矢敗によって、ソ独戦争の第一段階は終わり、ヒトラーの最初の戦略計画は破産した。赤軍は昨年のドイツ軍の進攻を阻止するとともに、冬季には、全戦線にわたって反攻をおこなった。これがソ独戦争の第二段階で、ヒトラーは退却と防御の地位に転じたのである。この期間に、ヒトラーは前線総司令官ブラウヒッチを解任し、みずから総司令官となって、全面的な進攻計画の放棄を決定し、ヨーロッパの全勢力をかきあつめて局部的ではあるがソ連の急所をつけると思われる南部戦線への最後の進攻を準備した。この進攻は最終的な性質をおび、ファシストの存亡にかかわるものであったので、ヒトラーはきわめて大きな兵力を集中し、北アフリカで作戦中の一部の飛行機や戦車までもまわしてきた。ことしの五月、ケルチとセバストーポリにたいする進攻をおこなってから、戦争は第三段階にはいった。ヒトラーは百五十万以上の兵力を動かし、それに飛行機、戦車の主力をつけて、スターリングラードとカフカズにたいする空前のはげしい進攻をおこなった。かれは迅速にこの二ヵ所を攻略し、ボルガの切断、バクーの奪取という二つの目的を達成し、つづいて北ではモスクワを攻め、南ではペルシャ湾に出ようとくわだて、それと同時に、日本ファシストには、スターリングラード攻略後のシベリア進攻のために兵力を満州に集中するようにさせた。ヒトラーは、ドイツ軍主力がソ連の戦場からぬけだして、西部戦線に移動してイギリス、アメリカの進攻に対処し、また近東の資源を略奪し、ドイツ、日本間の連係をつけることができるよう、それと同時に、日本軍主力も北方からぬけだして、後顧の憂いなしに西や南に進出してわが国やイギリス、アメリカに対処することができるよう、そうした程度までソ連の力を弱めようとたくらんだ。そうすることによって、ファシズム陣営の勝利をかちとろうとしたのである。しかし、この段階の状況はどうであったか。ヒトラーはかれの死命を制するソ連の戦術にぶつかった。ソ連はまず敵をふかく誘いいれ、それから頑強《がんきょう》に抵抗するという方針をとった。この五ヵ月間の戦争で、ドイツ軍はカフカズの油田に攻めいることもできなければ、スターリングラードを攻めおとすこともできず、ヒトラーはやむなく高山堅城のもとに兵をとどめ、進むにも進めず退くにも退けず、甚大《じんだい》な損害をこうむり、苦境におちいった。いまはもう十月、冬がすぐおとすれようとしており、戦争の第三段階はまもなく終わり、第四段階がまもなく始まろうとしている。ヒトラーのソ連進攻の戦略的企図で失敗しなかったものは一つもない。この期間にヒトラーは、昨年の夏兵力を分散させて失敗したという教訓にまなび、その兵力を南部戦線に集中した。しかし、かれはなおも、東の方ではボルガの切断、南の方ではカフカズの攻略という二つの目的を一挙に達成しようとして、あいかわらずその兵力を分散させた。かれは、まだその実力とその企図とのふつりあいを計算にいれていなかったために、ちょうど「天びん棒の両端をとめなければ、荷物は両方ともぬけおちる」ように、現在の破局におちいってしまった。それとは反対に、ソ連は戦えば戦うほど強くなっている。スターリンのすぐれた戦略的指揮は、完全に主動的な地位にたち、いたるところでヒトラーを滅亡へ追いやっている。ことしの冬にはじまる第四段階は、ヒトラーが死滅へむかう段階となるであろう。
 ヒトラーの第一段階の状況と第三段階のそれとを比較してみれば、ヒトラーは最後の失敗の門口にたっていることがわかる。いまでは、赤軍はスターリングラードとカフカズとの両方面で、実際上すでにドイツ軍の進攻をくいとめている。ヒトラーはもはや精根つきはて、スターリングラードとカフカズの両地点への進攻はすでに失敗した。かれが昨年の十二月からことしの五月までのひと冬かかって整備したわずかの兵力は消耗しつくされた。ソ独戦線では、冬があと一ヵ月たらずにせまっており、かれはすみやかに防御に転じないわけにはいかない。ドン河以西および以南の全地域は、かれにとってもっとも危険な地帯であり、赤軍はこの地帯で反攻に転ずるであろう。ことしの冬、ヒトラーは死滅の脅威にかられて、再度、その軍隊を整備するであろう。東西両戦線の危機に対処するため、かれは、わずかばかりの残った力をかきあつめて、いくつかの新しい師団を編成するかもしれず、そのほか、かれのファシスト仲間であるイタリア、ルーマニア、ハンガリーの三ヵ国に援助をもとめて、いくらかの弾よけをかりあつめるかもしれない。しかし、かれは、東部戦線では冬の戦争の甚大な消耗に対処しなければならず、西部戦線では第二戦線に対処する用意をしなければならない。しかもイタリア、ルーマニア、ハンガリーなどは、ヒトラーの先行きはみえたという悲観的な空気のなかで、日一日とかれから離反していくであろう。要するに、十月九日以後のヒトラーは、死滅の道をたどるほかないのである。
 四十八日間にわたる赤軍のスターリングラード防衛には、昨年のモスクワ市防衛と共通する点がある。それは、つまりヒトラーのことしの計画を、昨年の計画とおなじように、失敗に終わらせたということである。だが、異なる点はつぎのところにある。モスクワ防衛戦ののちには、それにつづいて冬季の反攻をおこなったとはいえ、ことしの夏のドイツ軍の進攻に直面しなければならなかった。これは、一つには、ドイツおよびそのヨーロッパの仲間たちがまだ余力をもっていたためであり、二つには、イギリス、アメリカが第二戦線をもうけるのをひきのばしていたためである。ところが、スターリングラード防衛戦ののちには、形勢が昨年とはまったくちがってくるであろう。一方では、ソ連がきわめて大規模な第二次冬季反攻をおこなおうとしており、イギリス、アメリカも第二戦線をもうけるのをこれ以上ひきのばぼせなくなってきており(具体的な時期についてはまだ予測できない)、またヨーロッパの人民もこれに呼応して蜂起しようとしている。他方では、ドイツおよびそのヨーロッパの仲間たちももはや大規模な攻勢にでる力がなくなっており、ヒトラーは方針全体を戦略的防御に転ずるほかなくなっている。ヒトラーを追いつめて戦略的防御に転じさせさえすれば、ファシストの運命はもうつきたことになる。なぜなら、ヒトラーのようなファシスト国家の政治的生命と軍事的生命は、それがうまれでた日から進攻のうえにきずかれており、ひとたび進攻が終わればその生命も終わるからである。スターリングラードの一戦はファシストの進攻に終止符をうつもので、この一戦は決定的性質をおびている。この決定的性質は世界戦争全体にかかわりがある。
 ヒトラーは、ソ連、英米、それにドイツ占領区の民衆という三つの強大な敵に直面している。東部戦線では、毅然《きぜん》とした赤軍という鉄壁があり、二度目の冬の全期間とそれにつづいておこなわれる赤軍の反攻があり、これは戦争全体および人類の運命を決する力である。西部戦線では、たとえイギリス、アメリカがあいかわらず静観とひきのばしの政策をとっていても、死にかけた虎をうちとれる時がくれば、第二戦線が形成されずにはいないであろう。ヒトラーにとってはこのほか内部の戦線、すなわちドイツ、フランスおよびヨーロッパのその他の部分にはらまれつつある偉大な人民の蜂起があり、いったん、ソ連が全面的な反攻をおこない、また第二戦線の砲声がとどろけば、かれらは第三戦線をもってこれに呼応するであろう。こうして、三つの戦線からヒトラーを挾撃《きょうげき》するということが、スターリングラード戦役以後の偉大な歴史的過程となるであろう。
 ナポレオンの政治的生命はワーテルローで終わったが、その決定点はモスクワにおける失敗であった〔1〕。ヒトラーは、こんにち、まさにナポレオンの道をあゆんでおり、スターリングラード戦役は、かれの滅亡の決定点である。
 この情勢は、直接極東に影響をおよぼすであろう。来年は、日本ファシストにとっても幸先《さいさき》のよい年ではない。かれらは日ましに苦悩をふかめながら、ついには墓場の門をくぐるであろう。
 世界の情勢について悲観的観察をしている人はすべて、その観点をあらためるべきである。



〔1〕 一八一五年六月、ナポレオンはイギリス・プロシャ連合軍とベルギー南部のワーテルローで激戦した。ナポレオンは戦いに敗れ、大西洋南部のセントヘレナ島にながされ、一八二一年にその島で死んだ。ナポレオンは、一生のあいだにヨーロッパの多くの国ぐにを征服したが、ロシアに進攻した一八一二年の戦争のさい、モスクワできわめて大きな敗北をこうむり、その精鋭部隊のほとんど全部が消滅された。この打撃をこうむってからは、ナポレオンはたちなおることができなかった。モスクワにおけるナポレオンの敗北については、本選集第二巻の『持久戦について』注〔24〕を参照。
訳注
① スターリングラードの戦いは、ソ連赤軍が祖国防衛戦争中におこなった決定的な戦役である。一九四二年七月十七日、ドイツ・ファシスト軍隊は、スターリングラードに通ずる要衝地区で大規模な進攻をはじめた。ソ連赤軍は、広範な人民とともに英雄的に奮戦し、積極的な防御をつうじて数多くの敵軍を消滅した。十一月十九日、ソ連赤軍は全面的な反攻に転じて、スターリングラード近郊のドイツ・ファシストの精鋭部隊二十二コ師団、三十余万人を一挙に包囲した。つづいて、多くの敵軍増援部隊を撃破または殲滅した。一九四三年二月二日には、包囲されたドイツ軍が全滅し、スターリングラード戦役はソ連赤軍の勝利をもって終わった。
② ベルダンの戦役は、第一次世界大戦で決戦的性質をおびた戦役であった。一九三八年二月、ドイツ軍はフランス東北部のベルダン要塞とその付近の地区にむかって猛攻を開始し、フランス軍は頑強に抵抗した。戦闘が六月中旬までつづいたとき、双方の損失はあわせて約五十万にのぼり、ドイツ軍は大規模な攻勢を停止した。十月から十二月にかけて、フランス軍は大挙反攻にでて、重要陣地を奪回した。このときまでに、ドイツ軍の死傷者は約六十万人、フランス軍の死傷者は約三十五万人にたっし、戦闘は停頓状態におちいった。一九一七年八月、フランス軍はふたたび反攻をおこし、ドイツ車を進攻以前の地区におしかえした。

maobadi 2011-01-14 20:57
十月革命三十五周年を祝う
          (一九四二年十一月六日)
 われわれは、このうえない楽観的な気持ちでことしの十月革命記念日を祝うものである。ことしの十月革命記念日は、ソ独戦争の転換点であるばかりでなく、全世界の反ファシズム戦線がファシズム戦線にうち勝つ転換点でもあると、わたしはかたく信じている。
 これまでは、赤軍が単独でファシスト・ドイツとそのヨーロッパの仲間たちに抵抗していたために、ヒトラーはまだ進攻をつづけることができたし、まだうちやぶられていなかった。現在、ソ連の力は戦争のなかですでに強大になっており、ヒトラーの第二次夏季攻勢はすでに破産している。今後、世界の反ファシズム戦線の任務は、ファシズム戦線にたいする攻勢をおこして、ファシストを最終的にうちやぶることである。
 スターリングラードの赤軍戦士は、全人類の運命にかかわる英雄的な事業をなしとげた。かれらは十月革命の息子や娘たちである。十月革命の旗じるしは無敵であり、すべてのファシスト勢力はかならず消滅される。
 われわれ中国人民が赤軍の勝利を祝うのは、同時に自分たちの勝利を祝うことでもある。われわれの抗日戦争はすでに五年以上もつづいており、われわれの前途にはまだ苦難はあるが、勝利をつげる暁の光はすでにみえている。日本ファシストにたいする勝利は、確定的であるだけでなく、その日も遠くはない。
 日本ファシストに打撃をくわえることにすべての努力を集中すること、これが中国人民の任務である。

maobadi 2011-01-14 20:59
抗日時期の経済問題と財政問題

          (一九四二年十二月)
     これは、毛沢東同志が陝西・甘粛・寧夏辺区高級幹部会議でおこなった報告『経済問題と財政問題』の第一章で、もとの題目は「過去の活動についての基本的総括」である。一九四一年と一九四二年は、抗日戦争中解放区にとってもっとも困難な時期であった。日本侵略者の野蛮な進攻と国民党の包囲、封鎖のために解放区の財政はきわめて大きな困難に直面した。財政上経済上の困難を克服するために、毛沢東同志は、党が人民を指導して農業生産やその他の生産事業の発展につとめるべきだということを指摘するとともに、解放区の機関、学校、部隊ができるかぎり自給のための生産をおこなうようよびかけた。毛沢東同志の『経済問題と財政問題』という著作および『根拠地での小作料引き下げ運動、生産運動および擁政愛民運動をくりひろげよう』、『組織せよ』などの諸論文は、党が当時解放区の生産運動を指導するうえでの基本綱領であった。『経済問題と財政問題』という著作のなかで、毛沢東同志は、経済を発展させることをはなれてたんに財政収支のうえからだけものごとを考えるあやまった思想、人民が生産を発展させて困難を克服するように人民を立ちあがらせ援助することには心をそそがず、ただ人民に物をもとめることにだけ心をそそぐあやまった作風を重点的に批判し、「経済を発展させ、供給を保障する」という党の正しい方針を提起した。この方針のもとで発展した陝西・甘粛・寧夏辺区と敵後方の各解放区の生産運動は大きな成果をあげ、これによって、解放区の軍隊と民衆は抗日戦争のもっとも困難な時期を成功裏にのりきることができたばかりでなく、党もその後の経済建設を指導するうえで豊富な経験をつんだ。

 経済を発展させ、供給を保障することは、われわれの経済活動および財政活動の全般的方針である。しかし、多くの同志は財政だけを一方的に重視し、経済全体の重要性を理解しない。かれらの頭は一日じゅうただ財政収支のうえを堂々めぐりしていて、考えても考えてもいっこうに問題の解決はつかない。これはこうした同志の頭がふるい保守的な観点にわざわいされているからである。かれらは、財政政策のよしあしはもちろん経済に影響をあたえるが財政を決定するのは経済である、ということを知らない。経済が基礎をもたないで財政の困難を解決できたためしはないし、経済が発展しないで財政をゆたかにできたためしはない。陝西《シャンシー》・甘粛《カンスー》・寧夏《ニンシァ》辺区の財政問題は、何万もの軍隊や公職要員の生活費や事業費をまかなう問題であり、つまり抗日の経費をまかなう問題である。これらの経費は人民の納税および何万もの軍隊や公職要員自身の生産によって解決される。もし人民の経済と公営の経済を発展させなかったら、われわれは手をつかねて死を待つばかりである。財政の困難は、着実で効果的な経済の発展によって解決するほかはない。経済を発展させること、財源を開拓することを忘れ、どうしてもなくてはならない財政支出をきりつめることによって、財政の困難を解決しようとする保守的な観点では、どんな問題も解決することができない。
 五年らい、われわれはいくつかの段階を経過してきた。もっとも困難だったのは一九四〇年と一九四一年で、国民党の反共摩擦は二回ともこの時期におこった。われわれは、いま一歩で、着るものもなく、食用の油もなく、紙もなく、野菜もなく、兵士には靴《くつ》や靴下もなければ、公職要員には冬でもふとんがないという状態になるところであった。国民党はわれわれをしめ殺そうとして、経費支給の停止と経済封鎖をもってのぞんだため、われわれの困難は頂点にたっした。しかし、われわれは困難をのりきった。これは辺区の人民がわれわれに食糧をあたえてくれたからだけでなく、とくにわれわれが自分自身で労働する決意をかため、自分たちの公営経済をうちたてたからでもある。辺区政府は多くの自給工業をおこした。軍隊は大規模な生産運動をおこなって、自給を目標とする農業、工業、商業をおこした。機関や学校の何万という人びともおなじような自給経済をおこした。軍隊および機関、学校によっておこされたこうした自給経済は、現在のような特殊な条件のもとでの特殊な産物である。それは他の歴史的条件のもとでは不合理で理解しにくいものであるが、現在ではまったく合理的であり、またまったく必要である。われわれはこうしたやり方で困難にうちかった。経済を発展させてこそ供給を保障できるという真理は、明々白々な歴史的事実によって証明されたではないか。いまでもわれわれにはまだ多くの困難はあるが、われわれの公営経済の基礎はすでにすえられている。一九四三年にもう一年間やれば、われわれの基礎はもっとかたまってくる。
 経済を発展させるという路線は正しい路線であるが、しかし、その発展は冒険的な、よりどころのないものではない。一部の同志は、その時期その場所の具体的条件を考えないで、重工業を建設せよと要求したり、大塩業計画、大軍車工業計画を提起したりして、発展、発展とからさわぎしているが、それはすべて実情にあわないものであり、採用できないものである。党の路線は正しい発展の路線であって、一方ではふるい保守的な観点に反対し、他方ではからっぽな実情にあわない大計画にも反対する。これが党の財政経済活動における二つの戦線での闘争である。
 われわれは公営経済を発展させなければならないが、人民のわれわれにたいする援助の重要性を忘れてはならない。人民はわれわれに、一九四〇年には九万担、一九四一年には三十万担、一九四二年には十六万担の食糧〔1〕を提供して、軍隊と公職要員の食糧を保障した。一九四一年までは、われわれの公営農業における食糧生産はまだわずかで、われわれは、食糧の面ではまだ民衆にたよっていた。今後は、ぜひとも軍隊による食糧生産を増強しなければならないが、当分のあいだはやはり主として民衆にたよるほかない。陝西・甘粛・寧夏辺区は、直接戦争の破壊をこうむっていない後方という条件にはあるが、土地の広いわりに人口がすくない。わずか百五十万の人口では、それほど大量の食糧を供給することは容易ではない。民衆はわれわれのために公塩の搬出をしたり公塩搬出分担金を納入したりし、そのうえ、一九四一年には五百万元の公債を買った。これも少なからぬ負担である。抗日と建国のためには、人民は当然負担すべきであり、人民もその必要性をよく知っている。政府が極度に困難なときには、人民にすこし多く負担してもらうことは、必要でもあり、人民の了解をうることもできる。だが、われわれは、一方で人民にもとめるからには、他方で人民の経済を成長させ、補充しなければならない。それは、人民の農業、牧畜業、手工業、塩業、商業の発展をたすける適当な段どりと方法をとって、人民に失うところもあれば得るところもあり、しかも失うところよりも得るところが大きいようにしてやることである。こうしてはじめて長期の抗日戦争をささえることができるのである。
 一部の同志は、戦争のための必要を考えないで、政府は「仁政」をほどこすべきだということばかりを強調するが、これはあやまった観点である。なぜなら、抗日戦争が勝利しないかぎり、「仁政」といっても日本帝国主義にほどこすことになるだけで、人民とはなんの関係もないからである。それとは反対に、人民の負担が一時はいくぶん重くなっても、政府と軍隊のぶつかっている難関をのりきり、抗日戦争をささえ、敵をうち負かしたならば、人民もよい暮らしができるようになる。これこそ革命政府の大きな仁政である。
 もう一つのあやまった観点は、人民の困難を考えないで、政府と軍隊の必要だけを考え、まるで池を干して魚でもとるように、際限なく人民から取りたてようとすることである。これは国民党の思想であり、われわれはけっしてそれをうけついではならない。われわれは、一時人民の負担を重くしたが、すぐさま公営経済の建設に着手した。一九四一年と一九四二年の二年間は、軍隊および機関、学校が自分の労働によってその需要の大部分を解決した。これは中国の歴史にかつてなかった奇跡であり、われわれがなにものにも征服されない物質的基礎である。われわれの自給経済が発展すればするほど、人民にたいする課税はますます軽減することができる。一九三七年から一九三九年までの第一段階では、われわれが人民にもとめたものは少なかった。この段階で民力が大いに養われた。一九四〇年から一九四二年までは第二段階で、人民の負担は重くなった。一九四三年以後は第三段階にうつれるだろう。もし、一九四三年と一九四四年の二年間にわれわれの公営経済がひきつづき発展するなら、もしこの二年間に陝西・甘粛・寧夏辺区のわが軍隊の全部もしくは大部分が屯田《とんでん》する機会をもつようになるなら、二年後には人民の負担はふたたび軽くなり、民力はふたたび養われるだろう。これは実現可能な趨勢《すうせい》にあり、われわれはそうするように準備すべきである。
 われわれは、あれやこれやの偏見を論ばくして、わが党の「経済を発展させ、供給を保障する」という正しいスローガンを提起する必要がある。公私関係では「公私双方への配慮」であり、それは「軍民双方への配慮」ともいう。われわれは、このようなスローガンだけが正しいスローガンだと考える。実際にそくして公営および民営の経済を発展させてこそ、財政の供給を保障することができるのである。困難な時期ではあるが、人民が負担は重くてもいためつけられることのないように、われわれはひきつづき課税の限度に注意しなければならない。そして、解決の道がつきしだい、民力を養うために人民の負担を軽くしなければならない。
 国民党の頑迷《がんめい》分子は、辺区の建設はみこみがない、辺区の困難は克服できないと考え、辺区が「崩壊する」のを毎日待っている。われわれはこうした人びととは議論するまでもない。かれらは永久にわれわれの「崩壊する」日をみることはない、われわれは栄える一方である。共産党と辺区革命政府の指導のもとでは、人民大衆はいつでも党と政府を支持するものだ、ということをかれらは知らない。党と政府は、経済と財政の面でも、きっと、どんな大きな困難ものりきれるだけの方策をもっている。われわれの現在の困難のうち、あるものはすでにのりきったし、あるものはまもなくのりきるだろう。われわれは、現在より何倍も困難な時期をへてきたが、そうした困難ものりきってきた。現在の華北、華中の各根拠地の困難は、陝西・甘粛・寧夏辺区よりもずっと大きい。そこでは毎日きびしい戦争がおこなわれている、そこはすでに五年半もささえてきた、そこもやはり勝利の日までひきつづきささえることができるにちがいない。われわれのまえには悲観というものはない。われわれはどんな困難にもうちかつことができる。
 こんどの陝西・甘南・寧夏辺区高級幹部会議ののち、われわれはただちに「軍隊の精鋭化、行政の簡素化」〔2〕を実行することになっている。こんどの軍隊の精鋭化、行政の簡素化は、おざなりに、なまぬるく、局部的にやるのではなく、厳格に、徹底して、普遍的にやらなければならない。こんどの軍隊の精鋭化、行政の簡素化では、精鋭簡素、統一、能率向上、節約および官僚主義反対の五つの目的を達成しなければならない。この五つは、われわれの経済活動および財政活動にとってきわめて大きな関係がある。精鋭化簡素化をおこなったあかつきには、消費的な支出がへり、生産による収入がふえて、直接財政によい影響をあたえるばかりでなく、人民の負担を軽くして、人民の経済にもよい影響をおよぼすことができる。経済・財政機構における不統一、独自性の固執、各自の勝手きままなふるまいなどというわるい現象を克服して、統一的な、自由自在に指揮のできる、政策と制度をあくまで貫徹できる活動の系統を樹立しなければならない。こうした統一的な系統が樹立されれば、仕事の能率をあげることができる。節約にはすべての機関が注意をはらう必要があり、経済・財政機関はとくにそうである。節約がおこなわれれば、不必要でむだな大量の支出をはぶくことができ、その額は数千万元にたっするだろう。経済・財政業務にたすさわる公職要員は、汚職現象、見てくれだけの大機構、無益な「正規化」、文書主義などといった、現に存在しており、ある場合にはきわめて深刻でもある官僚主義を克服しなければならない。もし、われわれがこの五つの要求を党、政府、軍隊のそれぞれの系統で完全に実行するなら、われわれのこんどの軍隊の精鋭化、行政の簡素化の目的は達成されたことになり、われわれの困難はかならず克服され、「崩壊する」だろうとわれわれを笑っている人びとの口も封ぜられてしまうにちがいない。



〔1〕 毛沢東同志がここであげている食糧の数字は、一九四〇年から一九四二年までのあいだに、陝西・甘粛・寧夏辺区の農民がおさめた農業税(すなわち公糧)の総量である。
〔2〕 本巻の『きわめて重要な政策』を参照。
訳注
① 国民党のまきおこした二回にわたる反共の高まりのことをいう。詳細は、本巻の『国民党中央執行委員会第十一回全体会議と第三期国民参政会第二回会議を評す』で列挙されている蒋介石のおこした三回にわたる反共の高まりの事実を参照。
② 本選集第一巻の『湖南省農民運動の視察報告』訳注⑩を参照。
③ 陝西・甘粛・寧夏辺区の定辺県、塩池県一帯は、糊から塩が多くとれる。塩は当時の辺区で、貿易の均衡をはかり、金融を安定させ、物価を調整するための主要な物資であった。ほとんどの住民が塩を搬出して辺区外の物資と交換し、また辺区政府も塩を重要な財源の一つとしていた。当時辺区政府の規定により、民衆は塩産地から一定量の塩を政府の指定する地点まで搬出し、政府の財政収入としておさめていたが、これを「公塩の搬出」といった。規定量以上搬出してきた分は、大衆の所有に帰した。塩の産地からかなりはなれている地方は、運搬の便がわるいので、政府のために搬出すべき公塩を貨幣に換算して納入し、搬出を免除されたが、これを「公塩搬出分担金の納入」といった。

maobadi 2011-01-14 21:03
指導方法のいくつかの問題について
          (一九四三年六月一日)
     これは、毛沢東同志が中国共産党中央のために書いた指導方法についての決定である。

 (一)われわれ共産党員は、どのような活動をするにもとらなければならない方法が二つある。一つは一般と個別の結合、もう一つは指導と大衆の結合である。
 (二)どのような活動の任務をおこなうにも、一般的、普遍的なよびかけがなければ、広範な大衆を行動にたちあがらせることはできない。だが、もし一般的なよびかけだけにとどまって、指導要員が自分のよびかけた活動を、具体的、直接的に、いくつかの組織で深くつっこんで実行し、一点を突破し、経験をつかんでから、その経験をいかして他の組織を指導するのでなければ、自分の提起した一般的なよびかけが正しいかどうかを検証するすべがなく、また一般的なよびかけの内容を充実させるすべもなく、その一般的なよびかけはかけ声だけに終わるおそれがある。たとえば、一九四二年に各地でおこなわれた整風では、成果のあがったのは、すべて一般的なよびかけと個別的な指導とを結合する方法をとったところであり、成果のあがらなかったのは、すべてそうした方法をとらなかったところであった。一九四三年の整風では、各中央局、中央分局、区党委員会、地方委員会は、一般的なよびかけ(一年間の整風計画)を提起するほか、自分の機関と付近の機関、学校、部隊のなかから二、三の組織(あまり多くする必要はない)をえらんで、深くつっこんで研究し、それらの組織における整風学習の発展過程をくわしくつかみ、それらの組織のなかのいく人かの(やはりあまり多くする必要はない)典型的な人びとについてその政治的経歴、思想の特徴、学習へのとりくみ、活動のよしあしをくわしくつかむとともに、それぞれの組織の実際問題を具体的に解決するようそれらの組織の責任者を直接指導しなければならない。そうすることによって経験をえるのである。一つの機関、一つの学校、一つの部隊の内部にもいくつかの組織があるから、その機関、その学校、その部隊の指導要員も、このようにしなければならない。これはまた、指導要員が指導と学習を結合する方法でもある。どの指導要員も、下部の個別の組織の個別の人や個別のできごとから具体的な経験をくみとらないかぎり、すべての組織にたいして普遍的な指導をおこなうことはどうしてもできない。各級の指導的幹部がみな運用できるように、この方法をひろく提唱しなければならない。
 (三)一九四二年の整風の経験はまたつぎのことを立証している。すなわち、それぞれの組織が整風でその任務をなしとげるには、整風の過程でその組織の主要な責任者を中核とした少数の活動家からなる指導的骨幹を形成するとともに、この指導的骨幹を、学習に参加する広範な大衆と緊密に結合させなければならない。指導的骨幹の積極性があるだけで、広範な大衆の積極性との結合がなければ、少数のもののから回りになってしまう。だが、広範な大衆の積極性があるだけで、大衆の積極性を適切に組織する有力な指導的骨幹がなければ、大衆の積極性は長つづきしないだけでなく、正しい方向にすすむことも、高度のものにたかまることもできない。大衆のいるところでは、どこでも、だいたいにおいて、比較的に積極的なものと中間状態にあるものと比較的におくれたものとの三種類の人びとがいる。したがって、指導者は、少数の活動家を指導の骨幹として結集し、この骨幹に依拠して中間的な人びとをひきあげ、おくれた人びとを獲得することに習熟しなければならない。ほんとうに一致団結した、大衆と結びついた指導的骨幹は、すべて、大衆闘争のなかでしだいに形成されなければならす、大衆闘争からはなれて形成されうるものではない。多くのばあい、ある偉大な闘争の過程では、最初の段階と中間の段階と最後の段階で、指導的骨幹がまったくおなじであってはならず、また、まったくおなじではありえない。闘争のなかからうまれる活動家をたえず抜てきして、いままでの骨幹のうち見おとりのしてきたものや腐敗したものといれかえなければならない。多くの地方や多くの機関で活動がはかばかしくいかない根本原因の一つは、一致団結した、大衆と結びついた、つねに健全な指導的骨幹を欠いていることにある。百人ぐらいの学校だと、教員、職員、学生のなかから実際の状況にもとづいて形成された(むりによせあつめたのではない)、数人ないし十数人からなる、もっとも積極的な、もっとも公正な、もっとも機敏な指導的骨幹がなければ、その学校はきっとうまくやっていけないだろう。スターリンが党のボリシェビキ化についてのべた十二項目の条件のうち、第九項目であげている指導的中核の確立の問題〔1〕を、われわれは、あらゆる大小の機関、学校、部隊、工場、農村に適用すべきである。このような指導的骨幹の基準は、ディミトロフが幹部政策を論じたさいにあげた四項目の幹部の基準(かぎりない忠誠心、大衆との結びつき、ひとりだちで活動できる能力、規律をまもること)〔2〕でなければならない。戦争、生産、教育(整風をふくむ)などの中心任務を遂行するにしても、活動の点検、幹部の審査、その他の活動を遂行するにしても、一般的なよびかけと個別的な指導とを結合する方法をとるほか、さらに、指導的骨幹と広範な大衆とを結合する方法をとらなければならない。
 (四)わが党のすべての実際活動において、およそ正しい指導は、大衆のなかから大衆のなかへ、でなければならない。それはつまり、大衆の意見(分散した、系統だっていない意見)を集中し(研究をつうじて、集中した、系統だった意見にし)、これをふたたび大衆のなかへもちこんで、宣伝と説明をおこない、これを大衆の意見にし、これを大衆に堅持させ、行動にうつさせ、また大衆の行動のなかでそれらの意見が正しいかどうかを検証する。そのあとで、さらに大衆のなかから意見を集中し、ふたたび大衆のなかへもちこんで堅持させる。このように無限にくりかえして、一回ごとに、より正しい、よりいきいきとした、より豊かなものにしていくのである。これがマルクス主義の認識論である。
 (五)指導的骨幹と広範な大衆が組織のなか、闘争の行動のなかで正しい関係をつくりあげるという思想、大衆のなかから集中し、ふたたび大衆のなかへもちこんで堅持させたものだけが正しい指導の意見であるという思想、指導の意見を実行にうつすばあい一般的なよびかけと個別的な指導とを結合しなければならないという思想は、幹部のあいだにあるこうした問題についてのあやまった観点をただすため、こんどの整風のなかでこれをひろく宣伝しなければならない。多くの同志は、活動家を結集して指導的中核をつくることに力もいれず、習熟してもおらず、また、このような指導的中核を広範な大衆と緊密に結合させることに力もいれず、習熟してもいないため、その指導を大衆から浮きあがった官僚主義的な指導に変えてしまっている。また、多くの同志は、大衆闘争の経験を総括することに力もいれず、習熟してもおらず、主観主義的に、りこうぶって多くの意見を発表したがるため、その意見を実際にそぐわない空論に変えてしまっている。また、多くの同志は、活動任務についての一般的なよびかけに満足して、一般的なよびかけのあと、すぐさま個別的、具体的な指導をおこなうことに力もいれず、習熟してもいないため、そのよびかけを口先か、紙のうえか、会議の席だけのものにしてしまい、官僚主義的な指導に変えてしまっている。こんどの整風では、こうした欠陥をただし、整風の学習、活動の点検、幹部の審査をつうじて、指導と大衆の結合、一般と個別の結合の方法を身につけるとともに、今後、この方法をすべての活動に応用するようにしなければならない。
 (六)大衆のなかから集中し、さらに大衆のなかへもちこんで堅持させることによって、正しい指導の意見を形成すること、これは基本的な指導方法である。集中と堅持の過程では、一般的なよびかけと個別的な指導とを結合する方法をとらなければならないが、これはいまのべた基本的な指導方法の構成部分である。多くの個別的な指導のなかから一般的な意見(一般的なよびかけ)を形成し、また、この一般的な意見を多くの個別的な組織のなかにもちこんで検証し(自分でそうするばかりでなく、また、人にもそうするようにおしえる)、そのうえで、新しい経験を集中し(経験を総括し)、新しい指示をつくりあげて、ひろく大衆を指導するのである。同志諸君は、こんどの整風でそうすべきであり、どのような活動でもそうすべきである。比較的によい指導は、これに比較的に習熟することによって、えられるのである。
 (七)どのような活動任務(革命戦争、生産、教育、あるいは整風の学習、活動の点検、幹部の審査、あるいは宣伝活動、組織活動、奸徒《かんと》粛清活動など)を下部に伝達するばあいにも、上級の指導機関とその個別の部門は、その活動と関係のある下級機関の主要な責任者をつうじるべきであり、これによって、かれらに責任をもたせ、分業しながらも統一するという目的(一元化)をたっするようにする。上級の個別の部門が下級の個別の部門とだけつながって(たとえば、上級の組織部が下級の組織部とだけ、上級の宣伝部が下級の宣伝部とだけ、上級の奸徒粛清部が下級の奸徒粛清部とだけつながる)、下級機関の総責任者(たとえば書記、議長、主任、校長など)に知らせなかったり、責任をもたせなかったりするようなことがあってはならない。総責任者と部門別責任者の双方に知らせ、双方に責任をもたせるべきである。このように分業しながらも統一するという一元化の方法をとれば、ある活動を遂行するばあい総員任者をつうじて多くの幹部を動かし、ときには全員さえ動かしてやらせることになるので、個々の部門における幹部の不足という欠陥を克服し、多くの人びとをその活動に積極的に参加する幹部に変えることができる。これもまた、指導と大衆を結合する一つの形態である。たとえば、幹部の審査にしても、組織部という指導機関の少数の人びとだけで孤立してやればどうしてもうまくいかないが、しかし、ある機関またはある学校の行政責任者をつうじて、その機関やその学校の多くの人びとと多くの学生を動かし、ときにはその全員、全学生までも動かして、審査に参加させ、しかも、上級の組織部の指導要員がこの審査を正しく指導し、指導と大衆を結合するという原則を実行するならば、幹部審査の目的はかならず申し分なく達成することができる。
 (八)どの地区でも、いちどきに中心の活動がたくさんあってはならない。一定の時期には、中心の活動は一つしかありえず、他の活動は第二位、第三位としてこれをおぎなうものである。したがって、地区の総責任者は、その地区の闘争の歴史や闘争の環境を考慮にいれ、それぞれの活動を適切に位置づけなければならす、自分ではまったく計画をもたずに、ただ上部からの指示をうけとりしだい手をつけ、そのため「中心の活動」が多くなったり、混乱した無秩序な状態がうまれたりするようであってはならない。上級機関もまた、ことの緩急、軽重を区別せず、中心もきめずに、いちどきに多くの活動を下級機関に指示し、これによって、下部の活動の段どりに混乱をもたらし、確実な成果がえられないようにさせてはならない。指導要員がそれぞれの具体的地区の歴史的条件や環境にもとづいて、全局面にたいする統一的な計画をたて、それぞれの時期の活動の重点や活動の順序を正しく決定し、この決定をあくまでも貫徹して、かならず一定の成果をあげるようにすること、これは指導の芸術である。これもまた、指導と大衆の結合、一般と個別の結合という原則を運用するにあたって、解決につとめなければならない指導方法の問題である。
 (九)指導方法の問題にかんする個々の細かい問題については、ここで、いちいちふれないが、各地の同志はここにのべた原則と方針にもとづいて、自分でよく考え、自分の創造力を発揮してもらいたい。闘争が困難であればあるほど、共産党員の指導と広範な大衆の要求とを緊密に結合させ、共産党員の一般的なよびかけと個別的な指導とを緊密に結合させることがますます必要となる。これによって主観主義的、官僚主義的な指導方法を徹底的に粉砕するのである。わが党のすべての指導的な同志たちは、いつでも、マルクス主義の科学的な指導方法を主観主義的、官僚主義的な指導方法に対置し、前者によって後者を克服しなければならない。主観主義者や官僚主義者は、指導と大衆の結合、一般と個別の結合という原則を知らす、党の活動の発展を大いにさまたげる。主観主義的、官僚主義的な指導方法に反対するためには、マルクス主義の科学的な指導方法をひろく深く提唱しなければならない。



〔1〕 スターリンの『ドイツ共産党の前途とボリシェビキ化とについて』という論文にみられる。
〔2〕 ディミトロフがコミンテルン第七回大会でのべた結語『ファシズムに反対する労働者階級の統一のために』の第七の部分「幹部問題」にみられる。
訳注
① 中央局、中央分局、区党委員会については、本選集第二巻の『抗日根拠地の政権問題』訳注①②を参照。
② 地方委員会は、中国共産党の省委員会、あるいは区党委員会の下、県委員会の上の段階の党委員会の組織である。

maobadi 2011-01-14 21:03
国民党にただす
          (一九四三年七月十二日)
     これは、毛沢東同志が延安の『解放日報』にかわって書いた社説である。

 この数ヵ月らい、中国の抗日陣営内部には、きわめて異常な、おどろくべき事実がうまれている。それは、中国国民党の指導している党、政府、軍隊の多くの機関が団結と抗戦を破壊する運動をおこしていることである。この運動は、共産党に反対するという形であらわれているが、じつは、中華民族に反対し、中国人民に反対するものである。
 まず国民党の軍隊をみてみよう。国民党の指導している全国の軍隊のうち、西北方面にいる主力には、第三十四、第三十七、第三十八の三つの集団軍があり、いずれも第八戦区副司令官胡宗南《ホーツォンナン》の指揮下にある。そのうち、二つの集団軍は、陝西《シャンシー》・甘粛《カンスー》・寧夏《ニンシァ》辺区の包囲にあてられ、一つの集団軍だけが、日本侵略軍に対処するために宜川《イーチョワン》から潼関《トンコヮン》までの黄河《ホヮンホー》沿岸の守備にあてられていた。このような事実はすでに四年あまりもつづき、軍事的衝突がおこらないかぎりみんなが普通のことのようにおもっていた。はからずも、最近つぎのような変化がおこった。すなわち、黄河の防備にあたっていた第一、第十六、第九十の三コ軍のうち二コ軍が動かされて、第一軍は[分+”おおざと”]州《ピンチョウ》、淳化《チュンホヮ》一帯に、第九十軍は洛川《ルオチョワン》一帯に移るとともに、辺区にたいする進攻をさかんに準備しており、そのため、日本侵略軍に対処する黄河の防備は、大部分が空白状態になってしまった。
 これではだれでも、これら国民党の人びとと日本人との関係はいったいどうなっているのかという疑問をおこさずにはいられない。
 国民党の多くの人びとは、毎日、共産党は「抗戦を破壊している」「団結を破壊している」と、なにはばかることなく宣伝している。では、黄河防備の主力をみな撤退させるのが抗戦の強化だとでもいえるのだろうか。辺区に進攻するのが団結の強化だとでもいえるのだろうか。
 こういうことをする国民党の人びとにうかがいたい。諸君は日本人に背中をみせているが、日本人は諸君のほうに面《おもて》をむけている、もし日本人が諸君の背中にむかって進んできたら、そのとき諸君はどうするつもりなのか。
 諸君が黄河防備線の長い区間を放棄しているのに、日本人は依然として対岸から鳴りをひそめてそれを見まもり、諸君のますます遠ざかっていくうしろ姿を望遠鏡でみつめながら有頂天になっているとしたら、それにはどういうわけがあるのだろうか。日本人が諸君のうしろ姿をこのようによろこんでいるのに、諸君は黄河の防備を放棄して長い区間を空白にしたままで、そんなに安心していられるのはなぜだろうか。
 私有財産制の社会では、夜ねるときにはきまって戸じまりをするものである。周知のように、それは好きこのんでやっているのではなく、どろぼうを防ぐためである。いま、諸君は大戸をあげっぱなしにしている。どろぼうのはいることをおそれないのか。大戸をあけっぱなしにしていてもどろぼうがはいってこないとすれば、それはどういうわけだろうか。
 諸君の論法によれば、中国国内で「抗戦を破壊している」のは共産党だけで、諸君のほうはかくかくの「民族至上」であるという。では、敵に背中をみせているのは何の至上なのだろうか。
 諸君の論法によれば、「団結を破壊している」のも共産党であり、諸君のほうはかくかくの「誠心団結」主義者であるという。では、諸君が、銃剣をかざし軍砲まで装備した三つの集団軍(一コ軍を欠く)の大軍を辺区人民にむけ進撃させているのも、やはり「誠心団結」だといえるのだろうか。
 また、諸君のもう一つの論法によれば、諸君は、団結などは気に入らず、「統一」が大いに気に入っており、そのために辺区を平定し、諸君のいう「封建的割拠」を消滅し、共産党をみな殺しにするのだそうである。それなら、どうして諸君は、日本人が中華民族を自分のほうに「統一」してしまい、しかも、諸君もいっしょくたに「統一」してしまうことをおそれないのか。
 もし、事をおこした結果として、諸君のほうが出陣するやいなや辺区の「統一」に成功し、共産党を根こそぎにしてしまうだけで、日本人のほうは諸君の「眠り薬」とやらでねむらされ、あるいは「金縛りの法」とやらをかけられて身動きできなくなり、これによって、民族および諸君がかれらに「統一」されずにすむというのなら、わが親愛なる国民党の諸先生、諸君のそのような「眠り薬」あるいは「金縛りの法」とやらを一つ二つわれわれにひろうしてはくれまいか。
 もし諸君が、日本人に対処する「眠り薬」「金縛りの法」といったものも持たず、また日本人とは黙約も結んでいないとするならば、われわれは正式に諸君にいおう。諸君は辺区を攻撃すべきではないし、また攻撃してはならない。「シギとハマグリが争えば、漁夫の利となる」「カマキリはセミをとろうとするが、うしろにはスズメがいる」という二つの寓話には、道理がある。諸君は、われわれといっしょになって、日本の占領した地方を統一し、侵略者をおいだすことこそ、理にかなっているのであって、なにをあわててこんな手のひらほどの辺区を「統一」する必要があるのか。すばらしい山河が敵の手におちいっているのに、諸君はあせりもしなければ、いそぎもせず、逆に、辺区にたいする進攻をあせり、共産党の打倒をいそいでいる。これは、なんと悲しむべきことだろう。なんと恥ずべきことだろう。
 つぎに、国民党の党務についてみてみよう。国民党は共産党に反対するために、何百という特務大隊をつくったが、そこには犬畜生のたぐいがかきあつめられている。たとえば、中華民国三十二年つまり西紀一九四三年の七月六日、抗戦六周年記念日の前夜、中国国民党の中央通信社はつぎのようなことを報道した。すなわち陝西省の西安《シーアン》というところで、いくつかの「文化団体」とやらが会合をひらき、毛沢東《マオツォートン》にあてて、コミンテルンの解散を機会に中国共産党も「解散」し、さらに「辺区の割拠を解消」するよう、打電することをきめたというのである。読者はこれをきっと「新聞《ニュース》」とおもうだろうが、じつは旧聞である。
 がんらい、これは何百という特務大隊のなかの一つの大隊がやったことである。その大隊は特務総隊部(すなわち「国民政府軍事委員会調査統計局」および「中国国民党中央執行委員会調査統計局」)の指令をうけて、トロツキストで民族裏切り者の張滌非《チャンテイフェイ》――国民党が資金をだしている民族裏切り者の雑誌『抗戦と文化』に反共論文を書いて有名になり、いま西安強制収容所思想矯正部部長をしている――に命じてそれをやらせた。張滌非は、六月十二日、つまり中央通信社がこのニュースを報道する二十五日もまえに、九人のひとをあつめ、十分間ほどの会合をひらいて、いわゆる電文を「採択」させたのである。
 この電文は、延安《イェンアン》ではいまになっても、まだ受けとっていないが、その内容はすでにわかっており、それには、コミンテルンがすでに解散した以上、中国共産党も「解散」すべきで、さらに「マルクス・レーニン主義はすでに破産した」うんぬんと書かれているそうである。
 これも国民党の人びとの言いぐさなのである。われわれは日ごろから、こうしたたぐい(物は類をもって集まる)の国民党の人びとの口からはどんなことばでもとびだしてくるものだとおもっていた。はたせるかな、今度もまたとんでもないしろものがとびだしてきた。
 現在、中国国内にはたくざんの政党があり、国民党だけでも二つある。そのうちの一つは汪《ワン》屋号の国民党で、南京《ナンチン》や各地に店をだして、やはり青天白日族をかかげ、中央執行委員会なるものももち、多くの特務大隊もかかえている。このほか、日本ファシスト党が被占領区のいたるところにある。
 わが親愛なる国民党の諸先生、諸君は、コミンテルン解散後、共産党の「解散」をはかることにてんてこまいするだけで、いくつかの民族裏切り党や日本党を解散させることについては、わずかばかりの力でさえさこうとはしていない。これはどういうわけだろうか。諸君は張滌非に電文を書かせるさいに、どうして、共産党の解散を要求するということのほかに、民族裏切り党と日本党も解散すべきだという一句をつけくわえさせなかったのか。
 諸君は共産党が多すぎるとでもおもっているのか。全中国に、共産党はただ一つしかないが、国民党は二つもある。いったい、どちらが多いのだろうか。
 国民党の諸先生、諸君はこんなことも考えたことがあるのだろうか。諸君ばかりでなく、日本人や汪精衛《ワンチンウェイ》までが、一致して共産党打倒に狂奔し、口をそろえて、共産党だけが多すぎる、だから打倒しなければならないといっており、国民党についてはすこしも多いとはおもわず、逆に少なすぎると考え、いたるところで汪屋号の国民党をそだて、もりたてている。これはどういうわけなのか。
 国民党の諸先生、われわれはわずらわしさもいとわず、諸君に話しておこう。日本人と汪精衛にとって国民党と三民主義がとくに気に入っているのは、この党とこの主義のなかに、かれらの利用できるところがあるからである。第一次世界大戦後、この党をすべての帝国王義者と民族裏切り者がひどくにくみ、きらい、全力をあげて打倒しようとしたのは、孫中山《シンチョンシャン》先生がこの党を改組し、共産党員の加入をうけいれて、国共合作式の民族同盟を形成した一九二四年から一九二七年にかけての時期だけであった。この主義をすべての帝国主義者と民族裏切り者がひどくにくみ、きらい、全力をあげて打倒しようとしたのも、孫中山先生が、それを「中国国民党第一次全国代表大会の宣言」にしめされているような三民主義、つまり革命的三民主義に改造したおなじ時期だけであった。このとき以外には、この党この主義は、共産党を排斥し孫中山の革命的精神を排斥するという条件のもとで、すべての帝国主義者と民族裏切り者どもから気に入られ、したがって、また、日本ファシストと民族裏切り者汪精衛からも気に入られ、またとない宝のようにそだて、もりたてられてきた。まえには、汪屋号の国民党の旗は左のすみに黄色の標識をつけて区別されていたが、いまは、目ざわりにならないように、あっさりこの区別もなくして、すっかりおなじにあらためられている。なんと気に入られていることだろう。
 被占領区ばかりでなく、大後方にも、汪屋号の国民党が軒をつらぬている。なかには秘密のものがあって、それは敵の第五列である。また公然たるものもあって、それは国民党の飯を食い、特務で飯を食って、すこしも抗日せず、もっぱら反共をやっている連中である。この連中は、表向きは汪屋号の看板をだしていないが、実際は汪屋号である。この連中も敵の第五列であるが、自分を偽装し、人の目をくらますために、前者とは形のうえですこしばかり区別をつけているにすぎない。
 これで問題はまったくはっきりした。諸君が張篠非に電文を書くことを指示したとき、共産党の「解散」を要求するということのほかに、日本党と民族裏切り党も解散すべきだという一句をどうしてもつけくわえようとしなかったのは、思想上でも、政策上でも、組織上でも、諸君とかれらとのあいだにたくさんの共通点があるからであって、そのうち、もっとも基本的な共通の思想は、ほかでもなく反共と反人民である。
 もう一つ、国民党の人びとにただしたい。世界でも、中国国内でも、「破産」したのはマルクス・レーニン主義だけで、ほかはみな結構なしろものなのか。汪精衛の三民主義については、まえにのべたが、ヒトラー、ムソリーニ、東条英機のファシズムはどうなのか。張滌非のトロツキズムはどうなのか、また、中国の国内にあるあれこれの屋号の反革命特務機関の反革命主義はどうなのか。
 わが親愛なる国民党の諸先生、諸君が張滌非に電文を書くことを指示したとき、どうして、こうした疫病《やくびょう》のような、虫けらのような、犬のくそのような、たくさんの「主義」なるものについては、添書ひとつ、但書ひとつつけなかったのか。諸君からみれば、これらの反革命的なものはみな完全無欠な非のうちどころのないものであって、ただマルクス・レーニン主義だけがすっかり「破産」したものなのか。
 卒直にいって、われわれは、諸君があの日本党、民族裏切り党と結託していると疑っている。それはあんなにかれらと呼吸があい、いうこと、なすことが、あんなに敵や民族裏切り者どもとそっくりで、どこにもちがいがなく、まったく区別がつかないからである。敵や民族裏切り者が新四軍を解散させようとすると、諸君もさっそく新四軍を解散させる。敵や民族裏切り者が共産党を解散させようとすると、諸君も共産党を解散させようとする。敵や民族裏切り者が辺区を解消させようとすると、諸君も辺区を解消させようとする。敵や民族裏切り者が諸君の黄河防備をのぞまないと、諸君もさっそく黄河の防備をすてる。敵や民族裏切り者が辺区を攻撃すると(この六年らい、綏徳《スイトー》、米脂《ミーチー》、葭《チァ》県、呉堡《ウーパオ》、清澗《チンチェン》の線の対岸にある敵軍は、八路軍の黄河防備陣地をたえまなく砲撃してきた)、諸君も辺区を攻撃しようとする。敵や民族裏切り者が反共をやると、諸君も反共をやる。敵や民族裏切り者が共産主義や自由主義をはげしくののしると、諸君も共産主義や自由主義をはげしくののしる〔1〕。敵や民族裏切り者が共産党員をつかまえ、新聞紙上に転向声明を発表するよう強要すると、諸君もまた共産党員をつかまえ、新聞紙上に転向声明を発表するよう強要する。敵や民族裏切り者が反革命の特務分子をこっそり共産党、八路軍、新四軍のなかにもぐりこませて破壊活動をやらせると、諸君も反革命の特務分子をこっそり共産党、八路軍、新四軍のなかにもぐりこませて破壊活動をやらせる。どうして、これほどまでにそっくりで、どこにもちがいがなく、まったく区別がつかないのだろうか。諸君のこうした多くの言論や行動が、敵や民族裏切り者のこれらすべての言論や行動とそっくりで、どこにもちがいがなく、まったく区別がつかないからには、どうして、諸君が敵や民族裏切り者と結託しているのではないか、ある種の黙約を結んでいるのではないかと疑わないでいられようか。
 われわれは、正式に中国国民党中央執行委員会に抗議する。黄河防備の大軍を撤退させて、辺区を攻撃し内戦をひきおこす準備をすることは、極度にあやまった行為であり、ゆるすことのできないものである。中央通信社は、七月六日、団結を破壊し共産党を侮辱するニュースを報道したが、これは極度にあやまった言論であり、やはりゆるすことのできないものである。この二つのあやまりは凶悪きわまりない犯罪の性質をもつもので、敵や民族裏切り者のそれとまったく区別がつかない。諸君はこれらのあやまりを是正しなければならない。
 われわれは中国国民党総裁蒋介石《チァンチェシー》先生に、胡宗南の軍隊がひきかえして黄河の防備につくように命令すること、中央通信社をとりしまり、また民族裏切り者張滌非を処罰することを正式に要求する。
 われわれは、黄河の防備をはなれて辺区を攻撃することをのぞまず共産党の解散を要求することをのぞまないほんとうに愛国的なすべての国民党の人びとに、つぎのようによびかける。どうかこの内戦の危機をくいとめる行動に立ちあがってもらいたい。われわれは、共同して民族を滅亡から救うため、諸君と最後まで協力することをのぞんでいる。
 われわれは、これらの要求はまったく正当なものと考える。



〔1〕 毛沢東同志が、ここでさしているのは、蒋介石の発表した『中国の運命』のことである。この本のなかで、蒋介石は公然と共産主義反対と自由主義反対の身勝手きわまる主張をかかげている。
訳注
① 「カマキリはセミをとろうとするが、うしろにはスズメがいる」ということばは、西漢の文学者劉向の書いた『説苑』-「正諫」にみられる。それにはつぎのように書かれている。「庭園のなかに木があって、そこにセミかいた。セミは高いところにいて悲しそうに鳴き、露をすすっていたが、カマキリがそのうしろにいるのを知らなかった。カマキリは体をまげ、こっそり近づいてセミをとろうとしていたが、スズメがそのうしろにいるのを知ちなかった。スズメは首をのばしてカマキリをつつこうとしていたが、その下にはじき弓の玉があるのを知らなかった。」のちに「カマキリはセミをとろうとするが、うしろにはスズメがいる」ということばを、目先の利益にとらわれて後のわざわいを念頭におかないことのたとえとした。
② 本選集第二巻の『国民党にたいする十項目の要求』訳注③を参照。

maobadi 2011-01-14 21:03
根拠地での小作料引き下げ運動、生産運動および擁政愛民運動をくりひろげよう
          (一九四三年十月一日)
     これは、毛沢東同志が中国共産党中央のために書いた党内指示である。

 (一)秋の収穫期になったので、各根拠地の指導機関は、党と政府の各級機関に小作料引き下げ政策の実施状況を点検するよう要求しなければならない。まだ小作料の引き下げをしんけんに実施していないところでは、ことしは一律に小作料を引き下げなければならない。引き下げていても不徹底なところでは、ことしは徹底的に小作料を引き下げなければならない。党委員会は、ただちに中央の土地政策と地元の実情にもとづいて指示をだすとともに、いくつかの村をみずから点検し、模範的な例を見つけだして、他の地方の活動を推進すべきである。また、新聞紙上に、小作料引き下げにかんする社説や、小作料引き下げの模範的な経験についての報道をのせるべきである。小作料引き下げは農民の大衆闘争であり、党の指示と政府の法令は、この大衆闘争を指導し、援助するものであって、大衆におめぐみをほどこすものではない。すべて大衆の積極性を発揮させないおめぐみの小作料引き下げは、正しいものではなく、その成果は強固なものにはならない。小作料引き下げ闘争のなかで、農民団体を結成するか、またはそれを改造すべきである。政府は、小作料引き下げの法令を実施し、地主と小作人の利益を調整する立場にたつべきである。根拠地がすでに縮小している現在、わが党が根拠地のなかで、注意ぶかく、しんけんに、徹底的に大衆をたたかいとり、大衆と生死存亡をともにするという任務は、過去の六年間にくらべて、いっそうさしせまった意義をもっている。ことしの秋に、小作料引き下げ政策の実施の程度を点検し、徹底的な小作料引き下げを実行できれば、農民大衆の積極性を発揮させて、来年の対敵闘争を強化し、来年の生産運動を推進することができる。
 (二)敵の後方にある各根拠地の大多数の幹部は、党・政府機関の要員、軍人、人民大衆(公私、軍民、老若男女、すべて例外なしに)が大規模な生産をおこなうよう推進することにまだ習熟していない。党委員会、政府および軍隊は、ことしの秋と冬のあいだに準備を整えて、来年には全根拠地内で、自分で労働して困難を克服する(陝西《シァンシー》・甘粛《カンスー》・寧夏《ニンシァ》辺区以外は、当分衣食の充足というスローガンはかかげない)大規模な生産運動をおこなえるようにしなければならない。この生産運動は、公営私営の農業、工業、手工業、運輸業、牧畜業、商業などをふくむもので、農業を主体とする。戸別計画と労働互助(陝西省北部では変工隊〔1〕といわれているが、かつての江西《チァンシー》省赤色地域では耕田隊または労働互助社とよばれていた)を実行し、労働英雄を表彰し、生産競争を実施し、大衆に奉仕する協同組合を発展させる。県や区の党と政府の要員は、財政経済問題では、まず九〇パーセントの精力をそそいで農民の生産増大を援助し、そのうえで一〇パーセントの精力をさいて農民から税を徴収するようにすべきである。前者に大きな努力をはらえば、後者はたやすくたっせられる。すべての機関、学校、部隊は、戦争をしている条件のもとで、野菜づくり、豚飼い、たきぎ取り、炭焼き、手工業の発展および一部の食糧の自給にはげむべきである。大小それぞれの部門で一律に集団生産の発展をはかるほか、同時に、すべての人(軍隊をのぞく)が仕事の余暇に農業や手工業のいくらかの個人生産をおこなうことを奨励し(商売は禁ずる)、その収入は個人の所得にする。各地では、七日から十日の期間で、野菜づくりの講習会、豚飼いの講習会、食事改善のための炊事員講習会をひらくべきである。党、政府、軍隊の機関ではすべて、節約を励行し、浪費に反対し、汚職を禁止する。党、政府、軍隊の各級機関および学校の指導者はすべて、大衆の生産を指導する全面的な能力を身につけなければならない。生産の研究に力をそそがないものは、よい指導者とはいえない。軍人であろうと民間人であろうと、生産に心をそそがない食いしんぼうのなまけ者はすべて、よい軍人、よい公民とはいえない。生産からはなれていない農村党員はすべて、生産を発展させることを自分が大衆の模範になる条件の一つとすべきである。生産運動のなかで、経済の発展には力をそそがず、ただ一面的に、支出の面だけでそろばんをはじく保守的な財政一点ばりの観点は、あやまりである。大衆的な生産運動をくりひろげるよう党、政府、軍隊内の大衆と人民大衆の広範な労働力を組織することには力をそそがず、ただ一面的に、少数の政府要員を穀物の徴収、税金の徴収、金銭の工面、食料の調達に奔走させることにだけ心をそそぐ観点は、あやまりである。大衆の生産発展を全力をあげて援助せず、ただ、大衆から穀物、税金を取りたてるだけの観点(国民党の観点)は、あやまりである。大衆的な生産運動を全面的におこすことには心をそそがず、ただ、一面的に少数の経済機関によって少数の人びとを生産に組織することにだけ心をそそぐ観点は、あやまりである。共産党員にとって、家庭の生活をまかない(農村の党員)、自分の生活を改善して(機関、学校の党員)、革命事業に有利となるよう家庭の生産や仕事の余暇の個人生産に従事するのは、不名誉であり不道徳であるとする観点は、あやまりである。根拠地をもっているという条件のもとにありながら、生産の発展を提唱せず、また生産の発展を前提として物質生活の改善のためにたたかうことを提唱せず、ただ一面的に、刻苦奮闘だけを提唱する観点は、あやまりである。協同組合を大衆に奉仕する経済団体とみなさず、これを少数の要員が金もうけをするためのものとみなしたり、政府の経営する商店とみなしたりするような観点は、あやまりである。陝西・甘粛・寧夏辺区の一部の農業労働英雄の模範的な労働方法(労働互助をおこない、犂《すき》おこし、中耕除草、施肥を多くすること)を各地におしひろめず、一部の根拠地にはそうした方法がひろめられないという観点は、あやまりである。生産運動のなかで、指導者が責任をもち、みずから陣頭にたつこと、指導的骨幹と広範な大衆とを結合すること、一般的よびかけと個別的指導とを結合すること、調査研究をすること、事の緩急、軽重を区別すること、老若男女をとわず、ならず者も一律に生産に参加させること、幹部を養成し、大衆を教育すること、これらのことをせず、ただ、生産の任務を建設庁長、供給部長、総務処長におしつける観点は、あやまりである。いまの条件のもとでは、生産発展の鍵《かぎ》は労働力を組織することである。それぞれの根拠地で、数万人にのぼる党、政府、軍隊の労働力と数十万人にのぼる人民の労働力を組織して(戸別計画、変工隊、輸送隊、互助社、協同組合などの形態をとり、自由意志と等価交換の原則にしたがって、一人まえの労働力と半人まえの労働力を組織して)生産に従事させることは、現在のような戦争のもとでも可能なことであり、ぜひとも必要なことである。共産党員は、労働力を組織するすべての方針と方法を学びとらなければならない。ことし、全部の根拠地で一律に徹底的に小作料を引き下げることは、来年の大規模な生産発展の刺激となるであろう。そして来年、党、政府、軍隊、人民をとわず、老若男女すべてが一律に偉大な生産運動をおこなって、食糧や日用品をふやし、災害不作とたたかう準備をすることは、抗日根拠地をひきつづき堅持する物質的基礎となるであろう。そうしなければ、きわめて大きな困難にぶつかるであろう。
 (三)来年の対敵闘争と生産運動を有利にくりひろげるため、党、政府、軍隊が人民と一つにとけあうよう、各根拠地の党委員会と軍隊、政府の指導機関は、来年の旧暦正月に、どこでも例外なく、擁政愛民と擁軍優抗〔2〕の大規模な大衆運動をおこなう準備をすべきである。軍隊の側は、擁政愛民の申し合わせをあらためて発表し、自分たちで反省会をひらき、住民をあつめて交歓会(地元の党、政府が参加する)をひらき、大衆の利益をそこなったことがあれば、弁償し、おわびをする。大衆の側は、地元の党、政府および大衆団体の指導のもとに、擁軍優抗の申し合わせをあらためて発表し、熱烈な軍隊慰問運動をおこなう。擁政愛民、擁軍優抗の運動のなかで、軍隊側と党、政府側はそれぞれ一九四三年の欠陥とあやまりを徹底的に点検し、一九四四年には断固としてそれをあらためる。今後は、毎年正月に一回ずつ、これをいたるところでおこない、擁政愛民の申し合わせと擁軍優抗の申し合わせをくりかえし読みあげ、党、政府、人民にたいする軍隊の横暴なふるまいや軍隊にたいする党、政府、人民の関心の欠如など、各根拠地で発生した欠陥とあやまりについて、くりかえし、公開の大衆的な自己批判(各方面とも自分を批判するだけで、相手方を批判しない)をおこない、徹底的にそれをあらためなければならない。



〔1〕 本巻の『組織せよ』注〔4〕にみられる。
〔2〕 「擁政愛民」とは、根拠地の軍隊のかかげた「政府を擁護し、人民を愛護しよう」というスローガンを略したものである。「擁軍優抗」とは、根拠地の党や政府機関、大衆団体の要員および人民大衆のかかげた「軍隊を擁護し、抗日軍人家族を優遇しよう」というスローガンを略したものである。
訳注
① 本選集第一巻の『われわれの経済政策』注〔2〕を参照。

maobadi 2011-01-14 21:04
国民党中央執行委員会第十一回全体会議と第三期国民参政会第二回会議を評す
          (一九四三年十月五日)
     これは、毛沢東同志が延安の『解放日報』にかわって書いた社説である。

 九月六日から十三日まで、国民党は中央執行委員会第十一回全体会議をひらき、九月十八日から二十七日まで、国民党政府は第三期国民参政会第二回会議をひらいた。二つの会議のすべての資料が手もとにそろったので、総括的な論評をくわえることができる。
 国際情勢はすでに一大変化の前夜にあり、いま、どちらの側もこの変化を感じとっている。ヨーロッパの枢軸国がこの変化を感じとり、ヒトラーは最後のあがきの政策をとっている。この変化は主としてソ連がもたらしたものである。ソ連はいまこの変化を利用しつつある。すなわち赤軍は、すでに破竹の勢いでドニエプル川まで進出しており、もう一度冬季攻勢にでれば、新しい国境までは進出できないにしても、ふるい国境まで進出することはできるだろう。イギリス・アメリカもまたこの変化を利用しつつある。すなわちルーズベルト、チャーチルは、ヒトラーのまさに倒れようとする時をねらってフランスに打ってでようとしている。要するに、ドイツ・ファシストの戦争機構はまもなく瓦解するだろうし、ヨーロッパにおける反ファシズム戦争の問題はすでに全面的解決の前夜にあり、そしてファシズムを消滅する主力軍はソ連なのである。世界の反ファシズム戦争の問題の鍵はヨーロッパにあるから、ヨーロッパ問題が解決すれば世界におけるファシズムと反ファシズムの二大陣営の運命も決定される。日本帝国主義者は、すでに袋小路に追いこまれたことを感じとっており、全力を集中して最後のあがきを準備するという政策をとるほかなくなっている。かれらは中国において、共産党にたいしては「掃討」をおこない、国民党にたいしては投降への誘いをかけているのである。
 国民党もまたこの変化を感じとっている。かれらは、この情勢をまえにして、喜んでもいるし、恐れてもいる。喜んでいるのは、ヨーロッパのほうが解決すれば、イギリス、アメリカは手があいて自分らのために日本をたたいてくれるし、自分は骨をおらずに南京《ナンチン》にもどれるとおもっているからである。恐れているのは、三つのファシスト国家がいっしょに崩壊すれば、世界は人類史上かつてなかった偉大な解放の時代にはいり、国民党の買弁的、封建的、ファッショ的専制政治が、世界の自由と民主主義の洋々たる大海のなかの小さな一孤島になるからである。かれらは自分たちの「一つの党、一つの主義、一人の指導者」というファシズムに覆没《ふくばつ》の災いがふりかかるのをおそれているのである。
 もともと、国民党の腹はこうであった。つまり、ソ連には独力でヒトラーに体あたりさせるとともに、日本侵略者を挑発《ちょうはつ》してソ連を攻撃させ、この社会主義国家がつぶれるか、めちゃめちゃになるようにしむける、一方、イギリス、アメリカには、ヨーロッパで第二、第三戦線とやらを設けずに、全兵力を東方に移し、まず日本をうち倒し、さらに、中国共産党を消滅するようにしむけ、そしてほかのことはあとの話にする、ということであった。国民党は、はじめは「まずアジア、それからヨーロッパ」を、のちには「ヨーロッパ、アジア均等」をさわぎたてたが、それはこのようなやましい目的があったからである。ことし八月のケベック会議の終わりごろに、ルーズベルトとチャーチルが国民党政府の外交部長宋子文《ソンツーウェン》をよびつけて、二言、三言いうと、国民党はまたしても、「ルーズベルトとチャーチルの目は東方に移った。まずヨーロッパ、それからアジアという計画は変わった」とか、「ケベック会議はイギリス、アメリカ、中国の三大国会議であった」といったことをさわぎたて、ひとしきり自画自賛して喜んだ。しかし、これが国民党の喜びおさめであった。このとき以後、かれらの気分にはいくらか変化がおき、「まずアジア、それからヨーロッパ」とか、「ヨーロッパ、アジア均等」とかは歴史博物館入りとなり、かれらはどうやらべつの腹をきめようとしているようである。国民党の十一中全会と国民党のあやつる今回の参政会が、このべつの腹づもりの起点であるらしい。
 国民党十一中全会は、共産党を「抗戦を破壊し、国家を危うくする」ものと中傷すると同時に、また「政治的に解決する」、「憲政を実施するつもりである」と公言した。第三期国民参政会第二回会議は、大多数をしめている国民党員に牛耳られて、十一中全会とほぼ同様の対共産党決議を採択した。十一中全会は、そのほかに、蒋介石《チャンチェシー》を国民党政府の主席として「選挙」し、専制機構を強化した。
 十一中全会ののち、国民党はどのような腹づもりをしているだろうか。それはつぎの三つにほかならない。(一)日本帝国主義に投降すること、(二)いままでどおり、ずるずるひきのばすこと、(三)政治方針をきりかえること。
 国民党内の敗北主義者と投降主義者は、日本帝国主義の「共産党はたたき、国民党はだきこむ」という要求にあわせて、これまでずっと投降を主張してきた。かれらはたえず反共的内戦を画策してきたが、いったん内戦がおこれば、おのずと抗日ができなくなり、投降の道をあゆむほかなくなるのである。国民党は西北地方に四十万から五十万の大軍を集結したが、いまもなお他の戦場からひそかに軍隊を西北地方に集結しつつある。将軍たちはたいした度胸で、「延安を攻めおとすのは問題にならない問題だ」といっているそうである。これは、かれらが国民党十一中全会で、いわゆる共産党問題は「政治問題であり、政治的方法によって解決すべきである」という蒋介石氏の演説をきき、十一中全会が蒋介石のいったのとだいたいおなじことを決議したのちに、口にしていることばである。昨年の国民党十中全会もこれとおなじ決議をしたが、その墨もかわかぬうちに、もう将軍たちは命令をうけて辺区消滅の軍事計画を作成し、ことしの六、七月の二ヵ月間軍隊をうごかして、辺区にたいする電撃作戦をおこなおうとした。この陰謀が一時たなあげされたのは、ただ内外の世論の反対があったからにすぎない。現在、十一中全会決議の墨が白紙のうえにぬりたくられたばかりなのに、またもや、将軍たちの豪語と兵力の移動にお目にかかることになった。「延安を改めおとすのは問題にならない問題だ」、これはなにを意味するか。つまり日本帝国主義への投降を決定したということである。「延安を攻める」ことに賛成する国民党員のすべてが、意識的に投降の腹をきめている投降主義者だとはかぎらない。かれらのなかには、われわれは一方では反共するが、他方ではやはり抗日するのだ、と考えている者もいるかもしれない。黄埔《ホヮンプー》系の軍人〔1〕の多くはおそらくそう考えているだろう。だが、われわれ共産党は、そういう先生方にいくつかの問題をだしたい。諸君はもう十年の内戦の経験を忘れたのか。いったん内戦がおこれば、腹をきめている投降主義者どもが、諸君にこれ以上抗日することを許すだろうか。日本人と汪精衛《ワンチンウェイ》が、諸君にこれ以上抗日することを許すだろうか。諸君自身は、対内対外の両面作戦をやれる腕前を、いったいどれだけもっているのか。諸君は現在三百万の兵力があると称しているが、実際にはすでに、士気が阻喪《そそう》しきっており、ぶつかるとすぐこわれてしまう卵の山にたとえられてもいる。中条山《チョンティァオシャン》戦役といい、太行山《タイハンシャン》戦役といい、浙[章+”ふゆがまえ”の下に”貢”]《チョーカン》戦役といい、湖北《フーペイ》省西部戦役といい、大別山《ターピエシャン》戦役といい③、一つとしてそうでないものはなかった。その理由は、諸君が「反共に積極的」、「抗日に消極的」だという二つの命取りの政策を実行してきたことにある。民族の敵が国土ふかく侵入してきているとき、反共に積極的になり、抗日に消極的になればなるほど、諸君の士気はますます阻喪する。諸君は外敵にたいしてさえそうなのに、共産党にたいし、人民にたいしては急にすごみをきかせられるだろうか。きかせれれはしない。諸君がひとたび内戦をはじめれば、内戦に没頭するほかなく、「他方では抗戦」などはかならず雲散霧消するだろう。その結果は、かならず日本帝国主義者と無条件降伏の条約を結ぶことになり、ただ一つ「降」という方針をとるほかないだろう。国民党内の、ほんとうに投降することをのぞまない人びとも、もし積極的に内戦をひきおこすか、それに参加すれば、みな不可避的に投降主義者に変わってしまうのである。もし、投降派の策動をまにうけ、国民党十一中全会の決議と参政会の決議を世論の動員と反共内戦準備のための道具にするならば、かならずそこまでおちこんでしまう。たとえ、自分ではもともと投降をのぞんでいないとしても、投降派の策動をまにうけ、措置をあやまるならば、その結果は、投降派にしたがって投降するほかないだろう。これが十一中全会後の国民党の第一の可能な方向であり、その危険性はきわめて大きい。投降派からみれば、「政治的に解決する」、「憲政を実施するつもりである」というのは、まさに内戦準備、つまり投降準備の最良の目つぶし法である。すべての共産党員、愛国的な国民党員、抗日諸政党、およびあらゆる抗日同胞は、目をみひらいて、このきわめて重大な時局を注視すべきであり、投降派の目つぶし法によって頭を混乱させられてはならない。まさに国民党十一中全会ののちに内戦の危機が空前につのっているのだ、ということを知らなければならない。
 国民党十一中全会と参政会の決議は、もう一つの方向、すなわち「一時ひきのばして、将来戦う」という方向に発展することもありうる。この方向は投降派の方向と多少のちがいがある。これは、表面的には抗日の局面を維持しながらも、反共と専制をぜったいに放棄しようとしない人たちの方向である。これらの人たちがそうした方向をとる可能性があるのは、かれらが、国際的大変化は不可避であること、日本帝国主義はかならず敗北すること、内戦はすなわち投降であること、国内の人心は抗日を支持し内戦に反対していること、国民党は大衆からはなれ、人心をうしない、これまでにない孤立した地位におかれるという重大な危機にみまわれていること、アメリカ、イギリス、ソ連は一致して中国政府の内戦発動に反対していることなどを見てとっているからである。そのため、やむなく内戦の陰謀をおくらせ、「政治的に解決する」、「憲政を実施するつもりである」といった空談義をひきのばしの道具にしているのである。これらの人たちはかぬてから「だまし」たり「ひきのばし」たりするのがうまい。これらの人たちは、「延安を攻めおとし」、「共産党を消滅し」ようということを夢にも忘れない。この点では、かれらは投降派とすこしもちがわない。ただちがうのは、かれらが、ひきつづき抗日の看板をかかげ、国民党の国際的地位をうしなうまいと考え、ときにはまた国際、国内の世論の指摘に気がねしていること、したがって一時ひきのばし、「政治的に解決する」、「憲政を実施するつもりである」とかをひきのばしのかくれみのにして、将来の有利な条件をまつこともあるという点である。かれらには、真の「政治的に解決し」、「憲政を実施する」誠意はない、すくなくともいまのところそのような誠意などぜったいにない。昨年の国民党十中全会の前後、共産党中央は林彪《リンピァオ》同志を、蒋介石氏と会見させるために重慶《チョンチン》に派遣した。林彪同志は重慶で十ヵ月もまったが、蒋氏と国民党中央は具体的問題を何一つ話しあおうとしなかった。ことしの三月、蒋氏は『中国の運命』という本を公《おおやけ》にして、共産主義反対、自由主義反対を強調し、十年の内戦の責任を共産党におしつけ、共産党、八路軍、新四軍を「新式軍閥」、「新式割拠」と中傷し、二年以内にかならず共産党をかたづけることをほのめかした。ことしの六月二十八日、蒋氏は周恩来《チョウエンライ》、林彪らの同志が延安に帰るのを許したが、まさにこのとき、かれは、黄河《ホヮンホー》防衛の兵力をうごかして、辺区にむけ前進させよという命令をくだし、コミンテルンの解散を機会に「民衆団体」の名で中国共産党の解散を要求するよう全国各地に指令した。このような状況のもとでは、われわれ共産党は、国民党および全国の人民に内戦の阻止をよびかけざるをえないし、抗戦を破壊し国家を危うくする国民党のさまざまな陰謀の内幕を暴露せざるをえない。われわれの忍耐もすでに限界にたっしていることは、歴史の事実が証明するところである。武漢《ウーハン》をうしなっていらい、華北、華中では共産党に反対する大小の戦闘がとだえたことはない。太平洋戦争は勃発してからすでに二年になるが、国民党も華中、華北で共産党攻撃を二年間つづけており、もとからの国民党の軍隊のほか、さらに王仲廉《ワンチョンリェン》、李仙洲《リーシェンチョウ》の二つの集団軍を江蘇《チァンスー》省、山東《シャントン》省に派遣して、共産党を攻撃させている。太行山の[”广”の中に”龍”]炳勲《パンピンシュィン》集団軍は命令をうけてもっぱら反共をおこない、安徽《アンホイ》省、湖北省の国民党軍も命令をうけて反共をおこなっている。これらすべてについて、われわれはこれまで長いあいだ、その事実さえ公表しなかった。国民党の大小のあらゆる新聞雑誌は片時も共産党罵倒《ばとう》をやめたことはなかったが、われわれは長いあいだ、それに一言もことばをかえしていない。国民党は、英雄的に抗日をおこなった新四軍をなんの理由もなしに解散させ、安徽省南部にいた新四軍の部隊九千余人を殲滅《せんめつ》し、葉挺《イエティン》をとらえ、項英《シァンイン》を殺し、新四軍の幹部数百人を牢獄につないだ。これは人民を裏切り民族を裏切る極悪非道の罪悪行為であるが、それでも、われわれは国民党にたいして抗議をおこない善後処理の条件をだしたほかは、これまでどおり国のためにたえしのんだ。陝西《シャンシー》・甘粛《カンスー》・寧夏《ニンシァ》辺区については、一九三七年の六、七月、共産党代表周恩来同志が蒋介石氏と廬山《ルーシャン》で会見したとき、蒋氏は、これを国民政府行政院の直轄行政区域とする命令をだし、そこの官吏を任命するということを承諾したが、蒋氏は、前言をひるがえして恥じないばかりでなく、四、五十万の軍隊を派遣して辺区を包囲し、軍事封鎖と経済封鎖をおこない、是が非でも辺区人民と八路軍の後方留守機関を死地に追いやらなければ気がすまないのである。八路軍にたいする補給をたち、共産党を「奸党《かんとう》」、新四軍を「叛軍《はんぐん》」、八路軍を「奸軍」とよんでいるなどの事実は、なおさらよく知られている。要するに、こんなことをしでかす国民党は、共産党を敵あつかいしているのである。国民党からみれば、共産党は日本帝国主義者より十倍も百倍もにくいのである。国民党は最大の憎しみを共産党に集中しており、日本帝国主義者にたいしては、まだ憎しみがのこっているとしても、ほんのわずかにすぎない。これは、日本ファシストが国民党と共産党にたいしてそれぞれちがった態度をとっていることと一致している。日本ファシストは最大の憎しみを中国共産党に集中しているが、国民党にたいしては日一日と態度がおだやかになってきており、いまでは「共産党反対」、「国民党消滅」という二つのスローガンのうち、「共産党反対」だけをのこしている。日本および汪精衛のすべての新聞雑誌は、もはや「国民党打倒」や「蒋介石覆滅」といったスローガンをもちださなくなった。日本は、在華兵力の五八パーセントをもって共産党にあたっており、国民党の監視には四二パーセントをあてているにすぎない。最近また、投降への誘いをかけやすくするため、漸江省、湖北省から多くの軍隊を撤退させ、監視兵力を減らした。日本帝国主義は共産党にたいしては、一言半句も投降への誘いをかける勇気はないが、国民党にたいしては、あえてながながと書き、くどくどとのべたてて、しきりに帰順をすすめている。国民党は、共産党と人民のまえでは、まだひとかどのすごみをきかせているが、日本のまえでは、みじんもすごむことができなくなった。行動のうえでとっくに抗戦から観戦に変わっているだけでなく、言論のうえでも日本帝国主義の投降への誘いかけやさまざまの侮辱にたいし、多少ともするどい反ばくを一つ二つくわえる勇気さえなくなっている。日本人は、「蒋介石の著わした『中国の運命』がのべている方向にはまちがいはない」といっている。蒋氏やその党員は、このことばにたいしてなにか反ばくをくわえたことがあるだろうか。なかったし、またそうする勇気もない。日本帝国主義は、蒋氏と国民党が共産党にはいわゆる「軍令、政令」や「規律」をもちだしながら、敵に投降した二十人の国民党中央執行委員、敵に投降した五十八人の国民党の将官にたいしては、軍令、政令や規律問題をもちだしたがらず、またもちだす勇気もない、ということを見てとっている。これでは、日本帝国主義が国民党を軽べつしないはずはない。全国の人民および全世界の友邦は、蒋介石氏と国民党が新四軍を解散させ、八路軍を攻撃し、辺区を包囲し、それらを「奸党」「奸軍」「新式軍閥」「新式割拠」とそしり、「抗戦を破壊し」、「国家を危うくする」ものとそしり、たえず、いわゆる「軍令、政令」や「規律」をもちだしてはいるが、敵に投降した二十人の国民党中央執行委員、敵に投降した五十八人の国民党の将官にたいしては、なんらの軍令、政令も執行せず、なんらの規律上の処分もくわえていない、ということを見てとっている。今回の十一中全会および国民参政会にしたところで、依然として共産党に対処する決議はあるが、国にそむき敵にくだった国民党自身の数多くの中央執行委員や国にそむき敵にくだった大量の将官に対処する決議は何一つなかった。これでは、全国人民や全世界の友邦が国民党をどう見るだろうか。十一中全会では、案のじょう、またしても「政治的に解決する」、「憲政を実施するつもりである」という話がでたが、それはたいへん結構なことで、われわれはこうした話を歓迎する。だが、国民党の多年にわたる一貫した政治路線からみれば、それはおびただしい欺瞞《ぎまん》的な空談義にすぎず、実際は内戦を準備し、反人民の専制政治を永遠に放棄しまいとする政治目的のために必要な時間をかせぐものであると、われわれは考える。
 時局の発展には、さらに第三の方向がありうるだろうか。ありうる。それは一部の国民党員、全国人民およびわれわれ共産党員がみな希望しているものである。第三の方向とはなにか。それは公平に、合理的に、政治的方法によって国共関係の問題を解決し、真に民主的な自由な憲政を誠意をもって実行し、「一つの党、一つの主義、一人の指導者」というファッショ的専制政治を廃止し、また、真の民意によって選挙された国民大会を抗戦ちゅうに招集することである。われわれ共産党員は終始この方針を主張してきた。一部の国民党員もこの方針には賛成するだろう。蒋介石氏およびその直系の国民党にたいしてさえ、われわれはこれまで長いあいだずっと、かれらがこの方針を実行するようにのぞんできた。しかし、ここ数年の実際状況からみれば、また現在の事実からみれば、蒋氏をはじめ政権の座にある国民党員の大部分が、こうした方針の実行をのぞんでいることをしめすような事実はまったくない。
 こうした方針を実行するには、国際的、国内的に、多くの条件が必要である。当面の国際的条件(ヨーロッパのファシストの全面的崩壊の前夜)は中国の抗日に有利であるが、投降派は、投降するため、このときとばかりいよいよ内戦の策動に熱中しており、日本人と汪精衛もまた、投降に誘うため、このときとばかりいよいよ内戦の策動に熱中している。汪精衛はこういっている。「もっとも親しい兄弟はなんといっても兄弟であって、重慶は将来かならずわれわれとおなじ道をすすむだろうが、われわれは、その日が一日も早くくることをのぞんでいる。」(十月一日、同盟ニュース)これはまたなんと情愛にあふれ、確信にみち、熱望しきりなことだろう。だから、当面の時局は、せいぜい一時ひきのばされるぐらいのもので、突然悪化する危険はひじょうに大きい。第三の方向に発展する条件はまだそなわっていない。それをかちとるには、各党各派の愛国者および全国人民が各方面から努力する必要がある。
 蒋介石氏は、国民党十一中全会で、つぎのように言明している。「中央は、共産党にたいして、武装割拠の放棄、従来各地で国軍を襲撃し抗戦を破壊したような行為の停止、ともに国難にあたるという民国二十六年の宣言の実行、約束のなかであげている四点の履行を希望するのみで、他のいかなる要求ももっていないことを、はっきり言明すべきである。」
 蒋氏のいう「国軍を襲撃し抗戦を破壊したような行為」とは、国民党についていうべきことであるが、残念なことに、かれは不公平にもまた冷酷にも共産党を中傷している。なぜなら、武漢をうしなっていらい、国民党は三回にわたって反共の高まりをおこしたが、この反共の高まりのなかで三回とも、国民党の軍隊が共産党の軍隊を襲撃したという事実があったからである。一回目は一九三九年の冬から一九四〇年の春にかけてである。そのとき、国民党軍は陝西・甘粛・寧夏辺区の八路軍が守備していた淳化《チュインホヮ》、[木+旬][”口”の下に”巴”]《シュィンイー》、正寧《チョンニン》、寧《ニン》県、鎮原《チェンユァン》の五つの県都を襲撃して占拠し、しかも飛行機をつかった。華北では朱懐冰《チューホヮイピン》を派遣して大行地域の八路軍を襲撃させた。八路軍としてはただ自衛のために戦っただけである。二回目は一九四一年一月である。まず、同応欽《ホーインチン》、白崇禧《パイチョンシー》が「十九日の電報」(一九四〇年十月十九日)で、朱、彭、葉、項に、黄河以南の八路軍、新四軍を一ヵ月の期限をもってすべて黄河以北に移動させるよう強引に命令してきた。われわれは安徽省南部の部隊を北に移動させることを承諾した。またその他の部隊については事実上移動させようもなかったが、それでもやはり抗戦勝利後に指定の地点に移動させることを承諾した。意外なことには、安徽省南部の部隊九干余人が、一月五日、命令にしたがって移動をはじめたとき、蒋氏は早くも「一網打尽」にせよと命令していたのである。はたせるかな、安徽省南部のすべての国民党軍は、六日から十四日までに、新四軍の同部隊を「一網打尽」にする挙にでた。そのうえ、蒋氏は十七日には、新四軍全軍を解散させ、葉挺を裁判にかけるという命令をだした。このとき以後、華中、華北の抗日根拠地で、国民党軍のいるところではどこでも、その襲撃をうけない八路軍、新四軍はなかった。八路軍、新四軍としてはただ自衛したにすぎない。三回目はことしの三月から現在までである。国民党軍が華中、華北でひきつづき八路軍、新四軍を襲撃している一方、蒋氏はさらに、『中国の運命』という反共、反人民の本を公にし、大量の黄河防備部隊をうごかして辺区にたいする電撃作戦を準備し、また全国各地のいわゆる「民衆団体」を動員して共産党の解散を要求させた。また、国民参政会の大多数をしめる国民党員を動員して、八路軍を中傷する何応歓の軍事報告をうけいれさせ、反共決議を採択させ、団結抗日をあらわすべき国民参政会を、反共世論を製造し国内戦争を準備するための国民党の御用機関に変えてしまい、ついに、共産党の参政員菫必武《トンピンウー》同志が、抗議のため退席を声明せざるをえないような事態までまねくにいたった。以上三回の反共の高まりは、すべて国民党が計画的に準備してがこしたものである。これが「抗戦を破壊したような行為」でなくてなんであろうか。
 中国共産党中央は民国二十六年(一九三七年)九月二十二日、ともに国難にあたるという宣言を発表した。その宣言はつぎのようにのべている。「敵の陰謀の口実をなくすために、善意ではあるが疑問をいだいているすべての人びとの誤解をとくために、中国共産党中央委員会は民族解放事業にたいする自己の赤誠を披瀝《ひれき》する必要がある。このために、中国共産党中央は、ふたたび、厳粛に、全国につぎのことを宣言する。一、孫中山《スンチョンシャン》先生の三民主義は中国がこんにち必要とするものであり、わが党はその徹底的実現のために奮闘する。二、国民党政権をくつがえすすべての暴動政策、および暴力をもって地主の土地を没収する政策を停止する。三、現在の赤色政府を特別区民主政府に改組して、全国的な政権の統一をはかる。四、赤軍は名称および部隊番号をあらためて、国民革命車に改編され、国民政府軍事委員会の統轄をうけ、またその命令をまって出動し、抗日前線における責務をはたす。」
 この四ヵ条の約束を、われわれは完全に実行してきたのである。蒋介石氏にせよ、どの国民党員にせよ、われわれが実行しなかった箇条を一つとしてあげることはできない。第一に、陝西・甘粛・寧夏辺区および敵後方の各抗日根拠地内で共産党が実施しているすべての政策は、孫中山の三民主義の政策に合致しており、どの政策にしても孫中山の三民主義にそむいたものは絶対にない。第二に、国民党が民族の敵に投降せず、国共合作を決裂させず、反共の内戦をおこさないという条件のもとでは、われわれは暴力政策をもって国民党政権を打倒したり、地主の土地を没収したりしないという約束を終始まもっている。過去もそうしたし、現在もそうしているし、将来もまたそうする用意がある。つまり、国民党が敵に投降し、合作を決裂させ、内戦を遂行するという条件のもとでのみ、われわれはどうにも自己の約束を実行しつづけることができなくなり、したがって、また、こうした条件のもとでのみ、われわれは自己の約束を実行しつづける可能性をうしなうのである。第三に、もとの赤色政権は、はやくも抗戦の最初の年に改組されているし、「三三制」の民主政治もはやくから実現されている。ただ、国民党が、いまになっても陝西・甘粛・寧夏辺区を承認するというかれらの約束を実行せず、そのうえ、われわれを「封建割拠」とののしっているにすぎない。蒋介石氏および国民党員は、陝西・甘粛・寧夏辺区および各抗日根拠地が国民党政府から承認されないこのような状態、つまり諸君のいう「割拠」なるものは、われわれののぞむところではなく、まったく諸君にしいられたものだ、ということを知らなければならない。諸君は前言をひるがえして恥じず、もともと承認を約束していたこの地域を承認せず、この民主政治を承認しないで、逆に、われわれを「割拠」とののしっている。 これはいったいどういうわけなのか。われわれは毎日のように諸君の承認をもとめているのに、諸君はいっこうに承認しない。その責任はいったいだれが負うべきなのか。蒋介石氏は国民党総裁、国民党政府の責任者という身分にありながら、『中国の運命』という本のなかでも、みだりに「割拠」とののしり、自分では少しも責任を負わない。そこにはどういう道理があるのか。こんど、蒋氏がまたも十一中全会でわれわれに約束の実行を要求したのを機会に、われわれは、蒋氏にたいし、法的手続をとって、はやくから民権主義を実現している陝西・甘粛・寧夏辺区を承認し、敵後方の各抗日民主根拠地を承認するという約束の実行を要求する。諸君が依然として不承認主義をつづけるなら、諸君がひきつづきわれわれを「割拠」させることになり、その責任はこれまでどおり、まったく諸君にあってわれわれにはない。第四に、「赤軍は名称および部隊番号」を早くからあらため、早くから「国民革命軍に改編され」、早くから「国民政府軍事委員会の統轄下におかれ」ており、この約束は早くから実行されている。ただ国民革命軍新編第四軍だけは、現在、共産党中央の直接の統轄下にあって、国民政府軍事委員会の統轄下にはない。それは、国民政府軍事委員会が、一九四一年一月十七日、抗戦を破壊し国家を危うくする反革命命令をだして、この部隊を「叛軍」とよび「解散」させ、毎日国民党軍に襲撃させているからである。しかし、この部隊は、華中で終始抗日しているだけでなく、四ヵ条の約束のうち第一条から第三条までの約束を終始実行しており、しかも、ふたたび「国民政府軍事委員会の統轄」をうけることを希望している。われわれは、第四条の約束実行の可能性がえられるよう、蒋氏に解散命令のとり消し、部隊番号の復活を要求する。
 国民党十一中全会の共産党問題にかんする文書は、上述の諸点以外に、さらに、「本会議は、戦争終了後一ヵ年以内に国民大会を招集し、憲法を制定発布することを決議したので、その他の問題はことごとく国民大会に提出して討議し解決してさしつかえない」とのべている。いわゆる「その他の問題」とは、国民党の軍制政治の廃止、ファッショ的特務機関の廃止、全国的範囲での民主政治の実行、民生をさまたげる経済統制と苛酷《かこく》で雑多な税金の廃止、全国的範囲での小作料・利子引き下げの土地政策の実行、中小工業への援助と労働者の生活改善のための経済政策の実行などである。民国二十六年九月二十二日の、ともに国難にあたるというわが党の宣言は、「民権政治を実現し、国民大会を招集して、憲法を制定し、救国の方針を規定する。中国人民のしあわせな楽しい生活を実現するには、まず適切に、災害と飢きんにたいする救済をおこない、民生を安定させ、国防経済を発展させ、人民の苦痛をとりのぞき、人民の生活を改善しなければならない」とのべている。蒋介石氏は、この宣言の発表された翌日(九月二十三日)に談話を発表してこの宣言の全部を承認したのだから、この宣言のなかの四つの約束の実行を共産党に要求するだけでなく、蒋氏自身および国民党と国民党政府にも上述の各条項の実行を要求すべきである。蒋氏は、現在国民党総裁であるばかりでなく、国民党政府(この政府の表向きの名称は「国民政府」である)の主席にもなったのだから、上述の民主と民生の条項ならびに蒋氏自身がわれわれ共産党および全国人民にあたえた無数の約束のすべてを、まじめに実行すべきであり、あいかわらずどんな約束も雲散霧消させ、ひたすら高圧的にふるまい、いうことなすことが裏腹だというようであってはならない。われわれ共産党と全国人民は、事実をみたいのであって、人をたぶらかす空談義はもうききたくない。事実があれば、われわれは歓迎するが、事実がなくて空談義では、いつまでも人をだますことはできないのである。あくまで抗戦をおこなう、投降の危険をくいとめる、合作をつづける、内戦の危機をくいとめる、辺区および敵後方の各抗日根拠地の民主政治を承認する、新四軍を復活させる、反共運動をやめる、陝西・甘粛・寧夏辺区を包囲している四、五十万の軍隊を撤退させる、国民参政会をこれ以上国民党の反共世論製造の御用機関にしない、言論、集会、結社の自由にたいする制限を解く、国民党の一党独裁を廃止する、小作料、利子を引き下げる、労働者の待遇を改善する、中小工業に援助をあたえる、特務機関を廃止する、特礎教育を廃止する、民主教育を実行する、これが蒋氏と国民党にたいするわれわれの要求である。このなかの大部分は、まさに諸君自身が約束したものである。諸君がこれらの要求と約束を実行するなら、われわれは、諸君に、われわれ自身の約束をひきつづき実行することを保証する。蒋氏と国民党が希望するということを条件として、われわれは、いつでも両党の交渉を再開する用意がある。
 要するに、国民党がとりうる三つの方向のうち、第一の方向、つまり投降と内戦の方向は、蒋介石氏と国民党にとって死滅の道である。第二の方向、つまり空談義で人をだまし時間をひきのばしながら、かげではファッショ的専制と内戦の積極的準備を片時も忘れない方向も、蒋氏と国民党にとって生きる道ではない。ただ第三の方向、つまりファッショ的専制と内戦というあやまった道を根本から放棄し、民主主義と合作という正しい道を実行する方向だけが、蒋氏と国民党の生きる道である。しかし、この方向にすすむことについては、蒋氏と国民党は、こんにちまでのところ、なんら事実をもってしめしておらず、人びとを信用させることはできない。したがって、全国の人民は、依然としてきわめて大きな投降の危険と内戦の危険を警戒しなければならな
い。
 すべての愛国的な国民党員は団結して、国民党当局にたいし、第一の方向にすすむのを許さず、第二の方向をつづけることを許さず、第三の方向にすすむことを要求すべきである。
 すべての愛国的な抗日政党、抗日人民は団結して、国民党当局にたいし、第一の方向にすすむのを許さず、第二の方向をつづけることを許さず、第三の方向にすすむことを要求すべきである。
 いまだかつてなかった世界の大変化という局面がまもなく到来しようとしている。われわれは、蒋介石氏と国民党員がこの偉大な時代の転換点に正しく対処することをのぞみ、すべての愛国的政党および愛国的人民がこの偉大な時代の転換点に正しく対処することをのぞむものである。



〔1〕黄補系の軍人とは、かつて黄浦軍官学校で教官や学生であった国民党の将軍や将校をさす。黄埔系は国民党軍隊内の蒋介石の直系である。
訳注
① 本選集第二巻の『新民主主義の憲政』注〔7〕を参照。
② この五つの戦役は、いずれも日本侵略車が国民党軍を攻撃した戦役である。中条山戦役、すなわち山西省南部戦役は、本巻の『極東「ミュンヘンの陰謀を暴露せよ』の注〔1〕を参照。浙[章+”ふゆがまえ”の下に”貢”]戦役は、一九四二年の五月から七月にかけて、杭州=株州鉄道の沿線地区でおこなわれた。大別山戦役は、一九四二年十二月から一九四三年一月にかけて、湖北、河南、安徽の三省省境の大別山地区でおこなわれた。湖北省西部戦役は、一九四三年の二月から五月にかけて、湖北省西部の武漢から宜昌のあいだの長江両岸地区でおこなわれた。大行山戦役は、一九四三年の四、五月に、大行山南部の陵川、林県地区でおこなわれた。これら五つの戦役で、日本軍のもちいた兵力は二十余万人にすぎなかったが、国民覚のもちいた兵力は約百二十余万人であった。国民党軍は敵に数倍したにもかかわらず、どの作戦においても、接触するとすぐにくずれさった。不完全な統計によれば、中条山、太行山、湖北省西部の三つの戦役で国民党のうしなった兵力は二十万人近くにのぼり、浙[章+”ふゆがまえ”の下に”貢”]戦役でうしなった県部は四十八であった。
③ 葉挺は新四軍の軍長で、詳細は、本選集第二巻の『安徽省南部事変について発表した命令と談話』訳注①を参照。項英は新四軍の副軍長で、詳細は、本題集第二巻の『おもいきって抗日勢力を発展させ、反共頑迷派の進攻に抵抗せよ』の解題を参照。

maobadi 2011-01-14 21:05
組織せよ
          (一九四三年十一月二十九日)
     これは、毛沢東同志が陝西・甘粛・寧夏辺区の労働英雄招待大会でおこなった演説である。

 きょう、共産党中央は、陝西《シャンシー》・甘粛《カンスー》・寧夏《ニンシァ》辺区の農民大衆と工場、部隊、機関、学校から選ばれた男女の労働英雄、および生産面での模範活動家を招待しているが、わたしは党中央を代表して少しばかり話したい。わたしが話そうとおもっていることを一口にいえば、「組織せよ」ということである。辺区の農民大衆および部隊、機関、学校、工場の大衆は、中国共産党中央西北局が昨年の冬に招集した高級幹部会議の決議にもとづいて、この一年間生産運動をおこなってきた。この一年間の生産は、あらゆる面で大きな成果をあげ、大きな進歩をとげ、辺区の面目はこのため一新した。高級幹部会議の方針が正しかったことは、すでに事実によって完全に立証されている。高級幹部会議の方針の主眼は、大衆を組織すること、あらゆる民衆の力、あらゆる部隊、機関、学校の力、あらゆる老若男女の一人まえまたは半人まえの労働力を、可能なかぎりもれなく動員し、組織して、一大労働部隊をつくりあげることにある。われわれには戦争をする軍隊もあれば、労働をする軍隊もある。戦争をする軍隊としては、八路軍、新四軍があるが、この軍隊がまた、一面では戦争、他面では生産という二つの役目を果たすのである。われわれにこの二つの軍隊があれば、またわれわれの軍隊にこのふたとおりの能力があるうえ、さらに大衆活動をおこなう能力が加われば、われわれは困難にうちかち、日本帝国主義をうちたおすことができる。辺区の昨年までの生産運動はまだ成果がそれほど大きくなく、それほどいちじるしくなく、上述の点を完全に立証するには十分でなかったとすれば、ことしの成果はこの点を完全に立証している。これはみんながその目でみているとおりである。
 ことし、辺区の軍隊は、土地のあるところでは、兵士一人あたり十八華畝の土地を耕作し、食べるものでは野菜や肉や油、着るものでは綿入れやジャケツ、靴《くつ》や靴下、住むためには洞窟《どうくつ》や家、会議するためには大小の講堂、日常つかうものでは机や椅子や腰かけ、紙や筆や墨、たくものではたきぎや木炭や石炭など、ほとんどすべてを自分でつくり、自分でまかなえるようになった。われわれは、自分で労働するという方法で、衣食の充足という目的をたっしたのである。一人ひとりの兵士は、一年のうち三ヵ月間生産に従事すればよく、あとの九ヵ月の時間は訓練と戦闘に従事することができる。われわれの軍隊は、その給与を国民党政府からも受けず、辺区政府からも、民衆からも受けずに、完全に軍隊自身でまかなえるようになった。この創造は、われわれの民族解放事実にとって、どんなに大きな意義をもっていることか。抗日戦争六年半のあいだ、敵は各抗日根拠地で、焼きつくし、殺しつくし、奪いつくすという「三光」政策を実行しているし、陝西・甘粛・寧夏辺区は国民党からいくえにも封鎖され、財政的にも経済的にも非常に困難な地位におかれているのだから、われわれの軍隊がもし戦うことしかできないとすれば、問題は解決のしようがない。いまでは、われわれの辺区の軍隊はすでに生産を習いおぼえており、前線の軍隊も、一部はすでに習いおぼえ、他の部分はいま習いはじめている。勇敢でよく戦うわが八路軍、新四軍の全部隊の一人ひとりが、戦争をすることもでき、大衆活動をすることもできるばかりでなく、さらに生産もできるようになりさえすれば、われわれはどんな困難をもおそれることはなくなり、孟子がいったように「天下無敵」〔1〕となるであろう。われわれの機関、学校も、ことしは大きく前進し、政府からは経費のごく一部を支給してもらうだけで、大部分を自分たちの生産で解決している。昨年はまだ野菜を五〇パーセントしか自給できなかったのが、ことしは一〇〇パーセント自給できるようになり、豚、羊の飼育によって食肉が大幅にふえ、また日用品を生産する作業場もたくさんつくられた。部隊、機関、学校が物質上の問題を全部あるいは大部分自分で解決したので、民衆から税金として徴収する分がすくなくなり、民衆にとっては、生産したもののうちで自分の需要にあてる分が多くなった。軍隊と民衆はともに生産を発展させ、衣食の充足ができるようになって、みんながよろこんでいる。さらに、われわれの工場では、生産が発展し、持藤が摘発され、生産の能率も大いにあがった。全辺区にわたって、数多くの農業労働英雄、工業労働英雄、機関、学校の労働英雄がうまれ、軍隊のなかにも数多くの労働英雄がうまれ、辺区の生産は軌道にのったといえる。これらはすべて大衆の力を組織した結果である。
 大衆の力を組織すること、これが一つの方針である。ほかにこれと反対の方針はないだろうか。ある。それは、大衆観点に欠け、大衆にたよらず、大衆を組織せず、農村、部隊、機関、学校、工場の広範な大衆を組織することに心をそそがないで、ただ財政機関、供給機関、商業機関の小部分の人を組織することにだけ心をそそぐこと、経済活動を広範な運動、広範な戦線とみなさないで、ただ財政の不足をおぎなうための臨時的手段とだけみなすことである。これがもう一つの方針であり、あやまった方針である。陝西・甘粛・寧夏辺区には、過去にこのような方針があったが、何年かにわたって正してきたので、とくに、昨年の高級幹部会議とくとしの大衆運動をへてきたので、いまではもうそのようなあやまった考え方をしている人はあまりいないだろう。華北、華中の各根拠地では、戦争がはげしくおこなわれていることや指導機関の注意不足もあって、大衆的な生産運動はまだ広く展開されていない。しかし、党中央の今年十月一日の指示〔2〕が出てからは、各地方とも、来年の生産運動をおこす準備をしている。前線の条件は、陝西・甘粛・寧夏辺区よりももっと困難であり、きびしい戦争がおこなわれているばかりでなく、一部の地方ではきびしい災害にみまわれている。しかし、戦争を支援し、敵の「三光」政策に対処し、災害の救済をするためには、一方で敵に打撃をくわえ、他方で生産をおこなうよう、党、政府、軍隊、人民を全部動員しなければならない。前線での生産については、これまでの数年間にすでにいくらか経験をつんでおり、それにことしの冬の思想的準備、組織的準備および物質的準備が加われば、来年は広範な運動がまきおこされるであろうし、また、広範な運動をまきおこさなければならない。前線は戦争という環境におかれているので、まだ「衣食の充足」とまではいかないが、「自分で労働して、困難を克服する」ことは、完全にできることだし、またぜひそうしなければならない。
 いま、われわれが経済面で大衆を組織するもっとも重要な形態は協同組合である。われわれの部隊、機関、学校の大衆的な生産に、協同組合という名まえをむりにつける必要はないが、集中的指導のもとで相互援助と共同労働の方法によって、各部門、各組織、各個人の物質的需要をまかなうこのような大衆的な生産活動は、協同組合の性質をもっている。これは一種の協同組合である。
 農民大衆についていえば、かれらのあいだで何千年らいつづいてきたのは、一家族一世帯を一つの生産単位とする小私有経済であった。このような分散的な小生産こそ封建支配の経済的基礎であって、農民を永遠の貧困におとしいれてきたのである。このような状態を克服する唯一の方法は、しだいに集団化することであり、集団化を達成する唯一の道は、レーニンがいっているように、協同組合〔3〕の道をへることである。辺区では、われわれはすでに数多くの農民協同組合を組織しているが、それらはいまのところまだ初級形態の協同組合であって、将来、ソ連式のコルホーズとよばれる協同組合に発展するには、なおいくつかの発展段階をへなければならない。われわれの経済は新民主主義的なものであり、われわれの協同組合はいまのところまだ小私有経済を基礎として(私有財産を基礎として)つくられた集団的労働組織である。これにもまたいくつかの型がある。その一つは「変工隊」「扎工隊」のような農業労働の相互援助組織〔4〕であって、以前、江西《チァンシー》省赤色区域で労働互助社、または耕田隊〔5〕とよばれ、現在も、前線の一部の地方で互助社とよばれている。その名称がなんであるかをとわず、一単位の人数が何人、何十人、何百人であるかをとわず、一人まえの労働力だけからなるものか、半人まえの労働力も参加するものであるかをとわず、相互援助が、労力、役畜、用具によるものか、農繁期に食事や宿泊まで集団的にするものであるかをとわず、またそれが臨時的なものか、永久的なものであるかをとわず、要するに、大衆が自由意志で参加する(けっして強制してはならない)集団的相互援助組織でさえあれば、それはよいものである。このような集団的相互援助のやり方は、大衆が自分で発明したものである。まえに、われわれは江西省で大衆の経験をまとめたが、こんどはまた陝西省北部でこのような経験をまとめた。昨年の高級幹部会議の提唱とことし一ヵ年の実践によって、辺区での労働の相互援助は大いに系統化され、いっそう発展してきた。ことし、辺区では数多くの変工隊が集団的な耕作、除草、収穫をおこない、収穫高は昨年の二倍にふえた。大衆がこのような大きな実績をみたので、来年はもっと多くの人びとがこのやり方を実行するにちがいない。われわれはいまのところ、全辺区の何十万という一人まえおよび半人まえの労働力が、来年一ヵ年のうちにみな協同組合に組織されるとは期待していないが、ここ何年かのあいだにはその目的をたっすることはできるであろう。婦人大衆も一定量の生産に参加するよう全部動員しなければならない。のちくら者はすべて生産に参加させ、まじめな人間になれるよう改造しなければならない。華北、華中の各抗日根拠地では、大衆の自由意志を基礎として、このような集団的相互援助の生産協同組合をひろく組織すべきである。
 このような集団的相互援助の農業生産協同組合のほかに、なお三つの形態の協同組合がある。それは、延安《イェンアン》南区協同組合のような、生産、消費、輸送(塩の搬出)、信用の協同化を包括した、総合的な協同組合と、輸送協同組合(塩の輸送隊)および手工業協同組合である。
 人民大衆のこの四種類の協同組合、および部隊、機関、学校の集団労働の協同組合があるので、われわれは大衆の力を一大労働部隊として組織することができる。これは、人民大衆が解放をかちとるのにかならずへなければならない道であり、貧困から富裕に変わるためにかならずへなければならない道であり、また抗戦勝利のためにかならずへなければならない道である。共産党員はだれでも、大衆の労働を組織することを習得しなければならない。知識層出身の党員もそれを習得しなければならず、決意さえあれば半年か一年で習得することができる。かれらは大衆が生産を組織し、大衆が経験をしめくくるのをたすけることができる。われわれの同志が大衆の労働を組織することを習得し、農民をたすけて戸別生産計画をつくり、変工隊、塩の輸送隊、総合的な協同組合を組織すること、軍隊の生産、機関、学校の生産、工場の生産を組織すること、生産競争を組織し、労働英雄を表彰し、生産展覧会を組織し、大衆の創造力と積極性を発揮させることを習得するなら、それに、ほかのさまざまの能力も加わって、われわれはかならず日本帝国主義をおいだすことができ、かならず全国の人民と力をあわせて、新しい国家をうちたてることができる。
 われわれ共産党員は、どんな問題においても、大衆と結びつくことができなければならない。もし、わが党員が、一生涯、家のなかにとじこもって外に出ず、風雨にもさらされず、世間を知らないとしたら、そうした党員は中国人民にとっていったいなんの役にたつだろうか。なんの役にもたたないし、われわれはそのような人間を党員にしておく必要はない。われわれ共産党員は風雨にさらされ、世間を知るべきである。この風雨とは大衆闘争という大風雨、この世間とは大衆闘争という大世間である。「靴なおしも三人よれば諸葛孔明の知恵」というのは、つまり大衆には偉大な創造力があるということである。中国人民のあいだには、じっさいに何千何万という「諸葛孔明」がおり、どの村、どの町にも、それぞれ「諸葛孔明」がいる。われわれは大衆のなかにはいり、大衆から学び、かれらの経験をまとめ、これをよりよい系統だった道理と方策にして、ふたたび大衆に知らせる(宣伝する)とともに、大衆がそれを実行して、かれら自身の問題を解決し、解放と幸福をかちとるようよびかけるべきである。もし、地方活動にあたっているわれわれの同志が、大衆から浮きあがり、大衆の気持ちを理解せず、大衆が生産を組織し生活を改善するのを援助できないなら、また、かれらに救国公糧を要求することだけを知っていて、まず九○パーセントの精力をさいて大衆の「数民私糧」の問題の解決を援助してやれば、あとは一〇パーセントの精力をさくだけで救国公糧の問題は解決できるということを知らないなら、それこそ国民党の作風にそまり、官僚主義のほこりにまみれているのである。国民党は民衆から物をとりたてるだけで、民衆になに一つあたえはしない。わが共産党員もそうであるなら、そうした党員の作風は国民党の作風であって、その顔には官僚主義のほこりがたまっており、お湯でもつかってきれいに洗いおときなくてはならない。どの抗日根拠地の地方活動にも、このような官僚主義の作風があり、大衆観点に欠けているために大衆から浮きあがっている同志が一部いるとおもう。大衆と親密に結びつくには、このような作風を断固として克服しなければならない。
 このほかに、われわれの軍隊活動には、軍閥主義の作風があるが、これもやはり国民党の作風である。なぜなら、国民党の軍隊は大衆から遊離しているからである。われわれの軍隊は、軍隊と人民の関係でも、軍隊と政府の関係でも、軍隊と党の関係でも、将校と兵士の関係でも、軍事活動と政治工作との関係でも、幹部相互の関係でも、正しい原則をまもるべきであり、けっして軍閥主義の欠陥におちいってはならない。上官は兵士を愛護すべきであり、かれらに無関心であってはならないし、体刑をくわえてはならない。軍隊は人民を愛護すべきであり、人民の利益をそこなってはならない。軍隊は政府を尊重し党を尊重すべきであり、独自性を主張してたてついてはならない。わが八路軍、新四軍は人民の軍隊であって、従来もりっぱであったし、現在もりっぱであり、全国の軍隊のなかでもっともりっぱな軍隊である。ところが、近年らい、たしかに一種の軍閥主義的な欠陥がうまれており、軍隊活動をしている一部の同志は傲慢《ごうまん》さが身につき、兵士にたいし、人民にたいし、政府にたいし、党にたいして横柄にふるまい、地方活動をしている同志をせめるだけで自分をせめようとせず、成績をみるだけで欠点はみようとせず、お世辞をききたがるだけで批判はききたがらない。たとえば陝西・甘粛・寧夏辺区には、このような現象があった。昨年の高級幹部会議と軍政幹部会議をつうじ、またことしの旧正月の擁政愛民運動と擁軍運動をつうじて、このような傾向は基本的には克服されたものの、まだいくらかのこっており、ひきつづき克服しなければならない。華北、華中の各根拠地にもこのような欠陥があり、そこの党および軍隊はこうした欠陥を克服するよう注意しなければならない。
 地方活動における官僚主義の傾向にしても、軍隊活動における軍閥主義の傾向にしても、その欠陥の性質はおなじで、大衆から浮きあがっていることである。われわれの同志の圧倒的多数はよい同志である。欠陥のある同志であっても、批判をくわえ、あやまりを指摘しさえすれば、あらためさせることができる。だが、かならず自己批判をおこない、あやまった傾向にまともに目をむけ、それをまじめにあらためなければならない。地方活動において官僚主義の傾向を批判せず、軍隊活動において軍閥主義の傾向を批判しないならば、それは国民党の作風をのこしておこうとするものであり、官僚主義のほこりや軍閥主義のほこりを自分のきれいな顔にのこしておこうとするものであって、よい党員とはいえない。われわれが地方活動において官僚主義の傾向をすてさり、軍隊活動において軍閥主義の傾向をすてさるなら、すべての活動は順調にすすむであろう。生産運動ももちろんそうである。
 わが辺区での生産は、農民大衆、機関、学校、軍隊、工場のいずれの面をとわず、大きな成果をあげ、軍隊と人民の関係においても、大きな進歩をとげており、辺区の面目は以前とは大いにちがってきた。これらすべてのことは、われわれの同志の大衆観点がつよまり、大衆との結びつきが大きく前進したあらわれである。しかし、われわれは自己満足すべきではなく、今後ひきつづき自己批判をし、ひきつづき進歩をはからなければならない。われわれの生産もひきつづき進歩をはからなければならない。われわれの顔にほこりがついていれば、毎日顔を洗わなければならないし、ゆかにほこりがあれば、毎日掃除しなければならない。われわれの地方活動における官僚主義の傾向、軍隊活動における軍閥主義の傾向は、すでに基本的に克服されたとはいえ、こうした悪い傾向はふたたびうまれてくる。われわれは、日本帝国主義と中国の反動勢力にいくえにも包囲され、散漫な小ブルジョア階級に包囲されているので、ひどくよごれた官僚主義のほこりと軍閥主義のほこりが毎日われわれの顔にたくさんふりかかってくる。したがって、われわれは、けっして成果があがるとすぐに自己満足するようなことがあってはならない。清潔をたもち、ほこりをとりさるために、毎日顔を洗い、毎日掃除しなければならないのとおなじように、自己満足をおさえ、つねに自分の欠点を批判すべきである。
 労働英雄、生産模範の諸君。諸君は人民の指導者であり、諸君の活動は非常に成果をあげているが、わたしは諸君も自己満足しないよう希望する。わたしは、諸君が関中、隴東、三辺、綏徳にかえり、延属の各県にかえり、機関、学校、部隊、工場にかえってから、人民を指導し、大衆を指導して、いっそうりっぱに活動し、なによりもまず、自由意志の原則にもとづいて、大衆をより多く、よりよく協同組合に組織するよう希望する。諸君がかえってから、これを実行し、これを宣伝して、来年ふたたび労働英雄大会がひらかれるころには、われわれがもっと大きな成果をあげられるよう希望する。



〔1〕 『孟子』巻三「公孫丑上」から引用。
〔2〕 本巻の『根拠地での小作料引き下げ運動、生産運動および擁政愛民運動をくりひろげよう』をいう。
〔3〕 レーニンの『協同組合について』にみられる。
〔4〕 「変工隊」「扎工隊」はいずれも陝西・甘粛・寧夏辺区の農業生産における集団的相互援助の労働組織である。「変工」とは労働力を交換することであり、農民相互のあいだで労働力を調整する方法である。そのなかには、労働力と労働力との交換、畜力と畜力との交換、労働力と畜力との交換などがある。変工隊に参加する農民は、それぞれ自分の労働力または畜力をもって、順番に、集団的に、その隊員の土地を耕作してまわり、決算のときには、一労働日は一労働日で相殺され、人力または畜力を多くだしたものには、すくなくだした人から手間賃が支払われる。「扎工隊」は一般に土地の不足している農民によって組織され、扎工隊に参加している農民は、おたがいに労働力を交換して助けあうほか、おもには労働力を必要としている家に集団的にやとわれていく。
〔5〕 本選集第一巻の『われわれの経済政策』注〔2〕にみられる。
訳注
① 華畝の原語は畝で、耕地面積を計算する中国の単位である。十五華畝が一ヘクタールにあたり、また、一華畝は日本の六・七一畝にあたる。
② 関中、隴東、三辺、綏徳、延属は、欧西・甘粛・寧夏辺区における五つの分区である。

maobadi 2011-01-14 21:08
学習と時局

          (一九四四年四月十二日)


 一九四二年から一九四四年にかけて、中国共産党の中央指導機関と高級幹部が、党の歴史、とくに一九三一年はじめから一九三四年末までの時期の党の歴史についておこなった討論は、マルクス・レーニン主義を基礎に党内の思想を統一するうえで大いに役立った。一九三五年一月、党中央が貴州省の遵義で招集した政治局拡大会議は、一九三一年はじめから一九三四年末までのあやまった「左」翼的路線をただし、党の中央指導機関の構成をあらため、毛沢東同志を先頭とする指導を確立し、党の路線をマルクス・レーニン主義の正しい軌道にのせたが、党の多くの幹部のあいだでは、過去のあやまった路線の性質について、まだ徹底した清算がなされていなかった。党中央政治局は、党幹部のマルクス・レーニン主義思想を一段と高めるため、一九四二年から一九四三年にかけて、いくどか党の歴史についての討論をおこない、その後さらに、一九四三年から一九四四年にかけて、全党の高級幹部を指導して同様の討論をおこなった。この討論は、一九四五年に招集された党の第七回全国代表大会のための重要な準備となり、中国共産党はこの大会で、かつてない思想的、政治的一致をみるにいたった。『学習と時局』は、毛沢東同志が延安の高級幹部会議で、この討論についておこなった講演である。



     一

 わが党の高級幹部は、昨年の冬から、党の歴史における二つの路線の問題について学習してきた。こんどの学習によって、広範な高級幹部の政治的水準は大いに高まった。こんどの学習では、同志諸君から多くの問題がだされたが、党中央政治局はそのうちのいくつかの重要な問題について結論をくだした。結論は、つぎのとおりである。
 (一)歴史的経験の研究には、どのような態度をとるべきかという問題について。党中央は、党内の歴史上の問題にたいする幹部の見方を思想の面から完全にはっきりさせると同時に、以前あやまりを芯かした同志に結論をくだすばあい寛大な方針をとらなければならないと考える。それは、一方では幹部にわが党の歴史的経験を徹底的に理解させて、二度とあやまりをおかさせないようにし、また他方ではすべての同志を結集して、ともに活動できるようにするためである。わが党の歴史には、かつて陳独秀《チェントウシウ》のあやまった路線①と李立三《リーリーサン》のあやまった路線②に反対する大きな闘争があったが、これらの闘争はぜひとも必要なものであった。だが、その方法には欠点があった。すなわち一方では、幹部に当時のあやまりの原因と環境、それらのあやまりをあらためる詳細な方法を、思想の面から徹底的に理解させなかったため、のちにまたおなじような性質のあやまりをくりかえす可能性を残したこと、他方では、個人の責任にあまり重きをおきすぎたため、より多くの人を結集してともに活動することができなかったことである。われわれはこの二つの欠点をいましめとしなければならない。こんど、歴史上の問題を処理するにあたっては、思想の面からもはっきりさせ、また同志も結集するという二つの目的をたっするため、一部の個々の同志の責任の面に重きをおくのではなくて、当時の環境の分析、当時のあやまりの内容、当時のあやまりの社会的根源、歴史的根源および思想的根源に重きをおき、前のあやまりを後のいましめとし、病をなおして人を救うという方針を実行すべきである。人を処置する問題では慎重な態度をとるべきで、おざなりにもしなければ、同志を傷つけることもしない、これこそわが党の隆盛と発展をしめす指標のひとつである。
 (二)どのような問題にたいしても分析する態度をとるべきで、すべてを否定してはならない。たとえば、第四回中央委員会総会〔1〕から遵義《ツンイー》会議③にいたる時期の党中央の指導路線の問題については、二つの面から分析すべきである。一方では、あの時期の中央指導機関のとった政治上、軍事上の戦術および幹部政策が主要な面でいずれもまちがっていたことを指摘すべきであり、他方では、蒋介石《チァンチェシー》に反対し、土地革命と赤軍の闘争を主張するという基本問題で、当時あやまりをおかした同志とわれわれとのあいだには意見のくいちがいがなかったことを指摘すべきである。戦術の面でも、やはり分析をおこなう必要がある。たとえば土地問題において、当時のあやまりは、地主に土地を分配せず、富農にわるい土地を分配するという極左的な政策を実行したことにあるが、地主の土地を没収して、土地をもたない農民、または土地のすくない農民にこれを分配するという点では、われわれと一致していた。レーニンは、具体的な状況を具体的に分析することが、「マルクス主義のもっとも本質的なもの、マルクス主義の生きた魂である」〔2〕といっている。われわれの同志のなかには、分析的な頭脳に欠け、複雑な事物にたいし、くりかえし掘りさげて分析と研究をしようとしないで、絶対的肯定または絶対的否定の簡単な結論をくだしたがるものが多い。われわれの新聞に分析的な論文が乏しく、党内に分析する習慣がまだ十分にやしなわれていないのは、こうした欠陥があることをしめすものである。今後はこうした状態を改善しなければならない。
 (三)党の第六回全国代表大会の文献の討議について。第六回全国代表大会の路線は基本的には正しかったことを指摘しなければならない。なぜなら、この大会が、当面の革命のブルジョア民主主義的性質を規定したこと、当時の情勢が二つの革命の高まりの中間にあることを確認したこと、日和見主義と盲動主義を批判したこと、十大綱領〔3〕を発表したことなどは、みな正しかったからである。第六回全国代表大会には欠点もあった。たとえば、中国革命の極度の長期性と中国革命における農村根拠地の極度の重要性を指摘しなかったし、そのほかにも若干の欠点やあやまりがあったことである。だが、たとえどうあろうと、第六回全国代表大会はわが党の歴史において前進的な役割をはたした。
 (四)一九三一年の上海の臨時中央と、その後この臨時中央が招集した第五回中央委員会総会〔4〕は、合法的であったかどうかという問題について。党中央は、これは合法的であったと考える。だが、その選挙の手続には不備な点があったことを指摘し、これを歴史的教訓とすべきである。
 (五)党の歴史におけるセクトの問題について。わが党の歴史にかつて存在し、しかもよくない役割を演じたセクトは、遵義会議いらいいくたびかの変化をへて、いまはすでに存在しなくなったことを指摘しなければならない。こんどの党内の二つの路線についての学習では、この種のセクトが、歴史上かつて存在し、しかもよくない役割を演じたことを指摘することが、ぜひとも必要である。だが、一九三五年一月の遵義会議、一九三八年十月の第六期中央委員会第六回総会、一九四一年九月の政治局拡大会議〔5〕、一九四二年の全党的な整風、一九四三年の冬からはじまった党の歴史における二つの路線の闘争についての学習というこうしたたびたびの党内闘争による変化をへたのちにも、もとのままのあやまった政治綱領と組織形態をもつセクトがまだ存在すると考えるなら、それはまちがいである。かつてのセクトはいまではなくなっている。いま残っているのは、教条主義的および経験主義的イデオロギーの残りかすだけであって、われわれがひきつづき整風の学習をふかめていけば克服できるものである。いまわが党内に深刻に存在し、ほとんどいたるところに存在しているのは、盲目性をおぴた山頭主義的偏向〔6〕である。たとえば闘争の経歴が異なり、活動の地域が異なり(この根拠地と他の根拠地とのちがい、敵占領区、国民党支配区、革命根拠地のちがい)、活動の部門が異なる(この部分の軍隊と他の部分の軍隊とのちがい、この活動と他の活動とのちがい)ことからうまれる、それぞれの部分の同志たちがたがいに理解せず、尊重せず、団結しないという現象は、一見なんでもないようであるが、じつは、党の統一と党の戦闘力の強化をひどくさまたげている。山頭主義の社会的歴史的根源は、中国の小ブルジョア階級がとくに広範であることと、農村根拠地が長期にわたって敵に分割されていることであり、その主体的な原因は党内教育が不足していることである。これらの原因を指摘し、同志たちにその盲目性をすてて自覚をつよめるよう説得し、同志間の思想の疎通をはかり、同志間の相互の理解と尊重を提唱して、全党の大団結を実現することは、われわれの当面する重要な任務である。
 以上にのべた問題が全党にはっきりと理解されれば、こんどの党内学習はかならず成功することが保障されるばかりでなく、中国革命はかならず勝利することが保障されるであろう。

     二

 当面の時局には二つの特徴がある。一つは反ファシズム戦線が強まり、ファシズム戦線が衰えたことであり、もう一つは反ファシズム戦線内部における人民勢力が強まり、反人民勢力が衰えたことである。まえのほうの特徴は、ひじょうにはっきりしていて、だれがみてもすぐわかる。ヒトラーはまもなくうち倒されるだろうし、日本侵略者も敗退の過程にある。あとのほうの特徴はまだそれほどはっきりしておらず、一般の人びとにはまだわかりにくいが、ヨーロッパでも、イギリス、アメリカでも、中国でも、それは日一日とはっきりしてきている。
 中国の人民勢力が強まったことについては、わが党を中心として説明しなければならない。抗日の時期におけるわが党の発展は三つの段階にわけられる。一九三七年から一九四〇年までが第一の段階である。この段階の最初の二年間、つまり一九三七年と一九三八年には、日本軍閥は、国民党を重視し、共産党を軽視した。そのため、国民党の戦線への進攻にその主要な力をつかい、国民党にたいしては、軍事的な打撃を主とし政治的な投降勧誘を従とする政策をとったが、共産党の指導する抗日根拠地にたいしては、ただ少数の共産党員がそこで少しばかり遊撃戦争をやっているにすぎないと考えて、これを重視しなかった。ところが、一九三八年十月に、武漢《ウーハン》を占領してから、日本帝国主義者はその政策をあらためはじめて、共産党を重視し、国民党を軽視するようになった。国民党にたいしては、政治的な投降勧誘を主とし軍事的な打撃を従とする政策をとる一方、その主力をしだいに共産党にむけてくるようになった。なぜなら、日本帝国主義者は、このときになって、国民党はもはやおそるるにたらず、共産党こそおそるべきものであることに気づいてきたからである。国民党は、一九三七年と一九三八年には、比較的抗戦に力をいれたし、わが党との関係も比較的よく、人民の抗日運動にたいしても、多くの制限はもうけたが、比較的多くの自由をみとめていた。武漢をうしなってからは、戦争に敗北したことと共産党敵視の気分が強まったことから、国民党はしだいに反動化して、反共活動にはしだいに積極的になり、対日抗戦にはしだいに消極的になってきた。共産党は、内戦の時期に挫折《ざせつ》をこうむった結果、一九三七年には、組織された党員四万前後と軍隊三万余をもつだけとなり、そのため日本軍閥から軽視されていた。ところが、一九四〇年になると、党員は八十万、軍隊は五十万ちかくにまで拡大し、根拠地の人口も、一方だけに税を納めるものと両方に税を納めるもの〔7〕とをあわせると、ほぼ一億にたっした。この数年間に、わが党は広大な解放区の戦場をきりひらいたので、国民党の戦場にたいする日本侵略軍主力の戦略的進攻を五年半も阻止することができるようになり、日本軍の主力を自分の周囲にひきつけて、国民党の戦場の危機を救い、長期の抗戦をささえたのである。だが、この段階で、わが党の一部の同志は、日本帝国主義を軽視し(そのため、戦争の長期性と残酷性に目をむけず、大兵団による運動戦を主とするよう主張し、遊撃戦争を軽視した)、国民党に依存し、冷静な考えと独立自主の政策を欠く(そのため、国民党にたいする投降主義がうまれ、大衆をおもいきり立ちあがらせて敵の後方に抗日民主根拠地を樹立するとか、わが党の指導する軍隊を大いに拡大するなどといった政策にたいして動揺がうまれた)というあやまりをおかした。同時に、わが党は膨大な数にのぼる新党員を吸収したが、かれらにはまだ経験がなかった。また、敵の後方にある根拠地もすべて新しくつくられたもので、まだ強固になっていなかった。この段階では、情勢の進展と党および軍隊の拡大によって、またしても党内に一種の慢心がうまれ、多くの人びとが自分は大したものだとおもいこむようになった。この段階で、われわれは党内の右翼的偏向を克服し、独立自主の政策を遂行したので、日本帝国主義に打撃をあたえ、根拠地を創設し、八路軍、新四軍を拡大したばかりでなく、国民党の一回目の反共の高まりをも撃退した。
 一九四一年と一九四二年が第二段階である。日本帝国主義者は、英米にたいする戦争を準備し遂行するために、武漢陥落後すでにあらためていた方針、すなわち打撃の重点を国民党から共産党にうつす方針をいっそう強力にだしすすめ、共産党の指導するすべての根拠地の周囲にその主力をいっそう集中して、連続的な「掃討」戦と残忍な「三光」政策④をすすめ、主としてわが党に打撃をくわえた。そのため、わが党は一九四一年と一九四二年の二年間、極度に困難な状態におかれた。この段階で、わが党の根拠地はせばまって、人口は五千万以下に減り、八路軍も三十余万に減り、幹部の損失は多く、財政経済は極度の困難におちいった。同時に国民党も、自分の手があいてきたと考え、あらゆる手段をつくしてわが党に反対し、二回目の反共の高まりをおこし、日本帝国主義と呼応して、われわれを攻撃してきた。だが、このような困難な状態は、共産党員を教育し、われわれに多くのことを学ばせた。われわれは、敵の「掃討」戦、「蚕食」政策〔8〕、「治安強化」運動〔9〕、「三光」政策、転向強要政策とどのようにたたかうかを学びとった。われわれは、統一戦線政権の「三三制」政策⑤、土地政策、三風整頓⑥、精兵簡政⑦、指導の統一、擁政愛民⑧、生産発展などの活動をすでに学びとったか、あるいは学びとりつつあり、また、多くの欠陥を克服した。さらに第一段階で自分を大したものだとおもいこんでいた多くの人びとの慢心をも克服した。この段階で、損害を大きくこうむりはしたが、われわれはしっかりと地歩をかためることができ、一方では日本侵略者の攻撃を撃退し、他方では国民党の二回目の反共の高まりを撃退した。国民党が反共をすすめ、われわれは国民党の反共政策にたいして自衛の闘争をおこなわざるをえなかったという事情によって、党内にまた一種の極左的な傾向がうまれた。たとえば、国共合作がすぐにも決裂すると考えて、地主にいきすぎた打撃をくわえたり、党外の人びととの団結に注意をはらわなかったりしたことなどがそれである。だが、これらの極左的な傾向もわれわれは克服した。われわれは、摩擦に反対する闘争では、道理があり、有利であり、節度があるという原則を指摘し、統一戦線では、団結もすれば闘争もする、闘争をつうじて団結を求めるということの必要性を指摘し、全国でも根拠地でも抗日民族統一戦線をまもりぬいた。
 一九四三年から現在までが第三段階である。われわれの諸政策はいっそう効果をあらわしたが、とくに三風整頓と生産発展という二つの活動は根本的な効果をおさめ、それによって、わが党は思想的基礎と物質的基礎の両面で不敗の地に立つようになった。このほか、われわれはまた、昨年らい、幹部を審査し特務とたたかう政策を身につけたか、または身につけはじめた。このような状況のもとで、われわれの根拠地の面積はふたたび拡大し、根拠地の人口は、一方だけに税を納めるものと両方に税を納めるものとをあわせると、ふたたび八千余方に増加し、また軍隊は四十七万、民兵は二百二十七万となり、党員は九十余万に拡大した。一九四三年には、日本軍閥の中国にたいする政策はなんの変化もなく、やはり共産党への打撃を主としていた。一九四一年から現在まで三年あまりのあいだ、中国を侵略している日本軍の六〇パーセント以上がわが党の指導する各抗日根拠地にのしかかっている。ここ三年あまりのあいだ、敵の後方に残った数十万の国民党軍隊は、日本帝国主義の打撃にたえきれず、ほぼ半数が敵に投降し、ほぼ半数が敵に殲滅《せんめつ》されて、残存、撤退したものはごくわずかである。敵に投降したこれらの国民党軍隊は、ほこ先を変えてわが党を攻撃してきているので、わが党はさらにかいらい軍の九〇パーセント以上をむかえ打たなければならなくなった。国民党がむかえ打っているのは、わずかに日本軍の四〇パーセントたらずとかいらい軍の一〇パーセントたらすである。一九三八年十月の武漢陥落後まる五年半のあいだ、日本軍閥は国民党の戦場にたいする戦略的進攻をおこなったことがなく、ただいくどか比較的大きな戦役行動(浙[章+”ふゆがまえ”の下に”貢”]《チョーカン》、長沙《チャンシャー》、湘北《フーペイ》省西部、河南《ホーナン》省南部、常徳《チャントー》)をとっただけであるが、それさえ日帰り程度のもので、おもな注意力をわが党の指導する抗日根拠地にむけていた。このような状況のもとで、国民党は山へ逃げこむ政策と観戦政策をとり、敵がやってくれば形ばかり手向かったが、敵が退けば手をこまねいて傍観した。一九四三年には、国民党はいっそう反動的な国内政策をとり、三回目の反共の高まりをおこしたが、これもわれわれに撃退された。
 一九四三年からことしの春にかけて、日本侵略者は太平洋戦線でしだいに敗退し、アメリカは反攻をつよめており、西方のヒトラーはソビエト赤軍から手痛い打撃をうけて、いまにも崩壊しそうな状態にある。日本帝国主義は、滅亡をまぬがれるために、北平《ペイピン》=漢□《ハンコウ》鉄道、広州《コヮンチョウ》=漢口鉄道の両線を打通させようとはかり、また、重慶の国民党にたいする投降勧誘政策がまだ成果をあげていないので、それにもう一度打撃をくわえる必要があるとして、ことしは国民党戦線に大挙進攻する計画をたてている。河南戦役〔10〕はすでに一ヵ月以上もつづいている。敵はわずか数コ師団にすぎないのに、国民党の数十万の軍隊は戦わないで潰走《かいそう》してしまい、いくらか戦えるのは、雑軍⑨だけである。湯恩伯《タンエンポー》の部隊は、将校が兵士から浮きあがり、軍隊が人民から浮きあがって、混乱をきわめ、三分の二以上もの損失をこうむった。胡宗南《ホーツォンナン》が河南省に派遣した数コ師団もひとたまりもなく崩壊してしまった。こうした状況は、まったく、国民党が数年らい強行してきた反動政策の結果である。武漢陥落後五年半のあいだ、共産党の指導する解放区の戦場は日本軍とかいらい軍の主力をむかえ打つ重任をになってきた。今後この点でいくらかの変化はあるかもしれないが、そうした変化も一時的なものにすぎないだろう。なぜなら、国民党は、抗日には消極的、反共には積極的というここ五年半の反動政策のもとで極度に腐敗した状態にあるため、今後かならず重大な失敗をなめるだろうし、そのときがくれば、日本軍とかいらい軍をむかえ打つわが党の任務は、いっそう重くなるからである。国民党は五年半のあいだ手をこまねいて傍観してきた結果、戦闘力をうしなってしまった。共産党は五年半のあいだ悪戦苦闘した結果、戦闘力がつよまった。こうした状況は今後の中国の運命を決定するだろう。
 同志諸君もみられるように、一九三七年七月から現在までの七年間、わが党の指導下にある人民民主主義勢力は、上昇、下降、再上昇という三つの状態をへてきた。わが党は、日本侵略者の残酷な進攻をむかえ打ち、広大な革命根拠地を樹立し、党と軍隊を大きく拡大し、国民党の三回にわたる大規模な反共の高まり⑩を撃退し、党内にうまれた右と「左」のあやまった思想を克服し、全党的にたくさんの貴重な経験を学びとった。これがわれわれの七年にわたる活動の総括である。
 現在の任務は、以前よりもさらに重大な青務をになう準備をすることである。われわれは、どのような状況のもとでも日本侵略軍を中国からたたきだすよう準備しなければならない。わが党がこのような責務をになえるようになるためには、わが党、わが軍、わが根拠地をいっそう発展させ、いっそう強固にしなければならず、大都市と主要な交通線での活動に注意をはらわなければならず、都市での活動を根拠地での活動とおなじように重要な地位にひきあげなければならない。
 根拠地建設は、第一段階で大いに発展したが強固ではなく、そのため第二段階でひとたび敵から大きな打撃をうけると、縮小してしまった。第二段階では、わが党の指導する抗日根拠地は、すべてきびしい試練をうけ、第一段階にくらべるとずっとよくなった。幹部と党員の思想と政策の水準は大いに高まり、これまで身につけていなかったことをより多く身につけた。だが、思想をはっきりさせ、政策を学びとるには、もっと時間が必要であるし、われわれが身につけていないことはまだたくさんある。わが党の力はまだそれほど強大ではないし、党内もまだそれほど統一されてはおらず、まだそれほど強固になってはいないので、いまよりももっと大きな責務をになうことはまだできない。今後の問題は、抗戦をつづけるなかで、わが党、わが軍、わが根拠地をいっそう発展させ、いっそう強固にすることであり、これこそ、将来偉大な事業をになうための第一に必要な思想的準備であり、物質的準備である。このような準備なしには、われわれは、日本侵略者をおいだすことも、全中国を解放することもできない。
 大都市と主要な交通線にたいするわれわれの活動は、これまでずっと、ひじょうに不十分であった。もし、われわれが現在でもまだ、大都市と主要な交通線で日本帝国主義に抑圧されている何百何千万の勤労大衆と市民大衆をわが党のまわりに獲得せず、大衆の武装蜂起を準備しないとしたら、われわれの軍隊と農村根拠地は、都市の協力をうることができないで、さまざまな困難に直面するだろう。われわれは、この十余年らい農村にいて、農村をよく知り農村に根拠地をつくるように提唱してきたが、これは必要なことであった。党の第六回全国代表大会で決定された都市での蜂起を準備する任務は、この十余年のあいだ実行されなかったし、その可能性もなかった。だが、いまでは事情がちがっており、第六回全国代表大会の決議は、第七回全国代表大会後に実行されることになるだろう。わが党の第七回全国代表大会はまもなくひらかれるが、この代表大会では、都市における活動の強化と全国的勝利の獲得の問題が討議されるはずである。
 ここ数日らい、陝西《シャンシー》・甘粛《カンスー》・寧夏《ニンシァ》辺区でひらかれている工業会議は、重要な意義をもっている。辺区の工場労働者は、一九三七年にはまだ七百人にすぎなかったが、一九四二年には七千人になり、いまでは一万二千人になっている。このような数字をけっして軽視してはならない。われわれは、大都市の商工業と交通機関をどのように管理するかを、根拠地にいるあいだに学びとらなければならない。そうしなければ、そのときになってどうしてよいかわからなくなるだろう。大都市と主要な交通線における武装蜂起を準備し、また商工業の管理を学ぶこと、これは、第二に必要な思想的準備であり、物質的準備である。このような準備なしには、われわれはやはり、日本侵略者をおいだすことも、全中国を解放することもできない。

     三

 あらたな勝利をかちとるためには、党の幹部のあいだで、ふろしき包みをすてることと、機械をうごかすことを提唱しなければならない。ふろしき包みをすてるというのは、われわれの精神的な多くの重荷をとりさらなければならないということである。多くの物事は、それに盲目的になり、自覚を欠くと、われわれのふろしき包みになり、重荷になりうる。たとえば、あやまりをおかせば、自分はどうせあやまりをおかしたのだと考えて、それからのちはしおれてしまうだろうし、あやまりをおかしていなければ、自分はあやまりをおかしたことがないのだと考えて、おごり高ぶるだろう。仕事の成績があがらないと、しょげかえってしまうだろうし、仕事の成績があがると、鼻息があらくなるだろう。闘争経歴の短いものは、それが短いということから、無責任になるだろうし、闘争経歴の長いものは、それが長いということから、ひとりよがりになるだろう。労働者、農民出身のものは、自分の光栄ある出身を鼻にかけて、知識人を見さげるだろうし、知識人は自分のいくらかの知識を鼻にかけて、労働者、農民出身のものを見さげるだろう。さまざまな特殊技能は、みな傲慢不遜《ごうまんふそん》、傍若無人の元手となりうる。それどころか、年齢でさえも傲慢の道具となりうる。若いものは、自分が聡明《そうめい》有能だということで、年をとったものをばかにするだろうし、年をとったものはまた、自分の経験が豊富だということで、若いものをばかにするだろう。こうしたさまざまなことにたいしてもし自覚を欠くと、それは重荷またはふろしき包みになる。一部の同志たちがお高くとまり、大衆から浮きあがって、しばしばあやまりをおかすのは、このようなふろしき包みを背負っていることにひとつの大きな原因がある。したがって、自分の背負っているふろしき包みをしらべ、それをすてて、自分を精神的に解放することは、大衆と結びつき、あやまりをすくなくするため、ぜひとも必要な前提のひとつである。わが党は、これまでの歴史でいくたびかひじょうに傲慢になったことがあるが、そのつど失敗のうき目をみた。一回目は一九二七年の前半である。当時、北伐軍が武漢に到達すると、一部の同志は傲慢になり、自分は大したものだとおもいこみ、国民党がわれわれを襲撃しようとしていることを忘れてしまった。その結果、陳独秀路線のあやまりをおかして、この革命を失敗させてしまった。二回目は一九三〇年である。赤軍が蒋《チァン》、馮《フォン》、閻《イェン》の大戦〔11〕という条件を利用して、いくらか勝ちいくさをすると、また一部の同志は傲慢になり、自分は大したものだとおもいこむようになった。その結果、李立三路線のあやまりをおかして、やはり革命勢力に若干の損失をこうむらせた。三回目は一九三一年である。赤軍が三回目の「包囲討伐」をうちやぶり、つづいて、全国人民が日本の進攻にたいしてあらしのような抗日運動をまきおこすと、また一部の同志は傲慢になり、自分は大したものだとおもいこむようになった。その結果、いっそう重大な路線上のあやまりをおかして、苦心さんたんしてつみあげた革命勢力の九〇パーセント前後をうしなってしまった。四回目は一九三八年である。抗戦がはじまり、統一戦線がうちたてられると、また一部の同志は傲慢になって、自分は大したものだとおもいこむようになり、その結果、陳独秀路線にいくらか似かよったあやまりをおかした。このときも、これらの同志のあやまった思想の影響がもっとも大きかったところの革命活動は大きな損失をこうむった。全党の同志は、このいくたびかの傲慢、いくたびかのあやまりを今後のいましめとしなければならない。最近、われわれが李自成《リーツーチョン》についての郭沫若《クォモールォ》の論文〔12〕を刊行したのも、勝利すると傲慢になるというあやまりを二度とおかさないよう、同志諸君にいましめとしてもらうためである。
 機械をうごかすというのは、思考の器官をじょうずにつかうことである。一部の人は、ふろしき包みを背負っておらず、大衆と結びつく長所ももってはいるが、思考することが不得手で、頭をつかって、くりかえしじっくり考えようとしないので、やはり物事をなしとげることができない。さらに、一部の人は、ふろしき包みを背負っているため、頭をつかおうとせず、かれらの聡明さはふろしき包みでおしつぶされている。レーニン、スターリンはつねづね物をよく考えるようにとすすめているが、われわれもまたそのようにすすめたい。頭という機械の作用は、もっぱら思考することにある。孟子は「心の官はすなわち思なり」〔13〕といったが、かれは頭の作用について正しい定義をくだしたのである。なにごとも、頭をつかってよく考えるべきである。俗に「ちょっとまゆ根をよせれば、名案がうかぶ」というが、これは、じっくりと考えれば知恵がでるという意味である。わが党内にある濃厚な盲目性をとりのぞくためには、思考することを提唱し、事物を分析する方法を身につけ、分析する習慣をやしなわなければならない。こうした習慣は、わが党内ではあまりにもたりない。もし、われわれがふろしき包みもすて、機械もうごかすなら、つまり身軽にもなり、よく考えることもできるなら、われわれは勝利をおさめることができる。



〔注〕
〔1〕 第四回中央委員会総会とは、一九三一年一月の中国共産党第六期中央委員会第四回総会をさす。
〔2〕 レーニンの『共産主義』にみられる。本選集第一巻の『中国革命戦争の戦略問題』注〔10〕を参照。
〔3〕 本選集第一巻の『日本帝国主義に反対する戦術について』注〔29〕にみられる。
〔4〕 第五回中央委員会総会とは、一九三四年一月の中国共産党第六回中央委員会第五回総会をさす。
〔5〕 この会議では、党の歴史上の政治路線、とくに第二次国内革命戦争の時期における政治路線の問題について批判した。
〔6〕 山頭主義の偏向とは、一種の小集団主義の偏向のことであり、主として、長期にわたる遊撃戦争のなかで、農村の革命根拠地が分散して、たがいに接触をもたない状況のもとでうまれたものである。これらの根拠地は、はじめ、大半が山岳地域につくられ、一つの集団があたかも一つの山のようであったところから、このあやまった偏向は山頭主義とよばれた。
〔7〕 ここで、一方だけに税を納める地区というのは、根拠地のなかの比較的強固な地区をさす。そこの人民は、抗日民主政府だけに現物と金で税を納めた。両方に税を納める地区というのは、根拠地の間緑地区と遊撃区をさす。それちの地区では、敵がつねに侵害してくるため、人民は抗日民主政府に税を納めるほか、つねにかいらい政権にもいくらかの税を納めることをよぎなくされた。
〔8〕 これは、日本帝国主義か抗日根拠地にたいする大規模な進攻に失敗したのち実施した方法で、つまり急速な「鯨呑《げいどん》」の方法から、長期の漸次的な「蚕食」の方法にあらためたのである。日本帝国主義は着実に、一歩一歩分割していくという段どりをとって抗日根拠地をせばめ、その占領区をひろげようとくわだてた。
〔9〕 一九四一年三月、華北の日本侵略軍と民族裏切り者は、いわゆる「治安強化運動」のスローガンをうちだした。「治安強化」というのは、捜査、保甲制度の実施、戸籍調査、かいらい軍の組織によって、抗日勢力を弾圧することである。
〔10〕 一九四四年三月、日本侵略軍は五、六万の兵力をもって河南戦役をおこした。国民党軍の蒋鼎文、湯恩伯、胡宗南の各部隊四十万は、日木侵略軍の姿を見ただけで崩壊し、鄭州、洛陽など三十八県があいついで陥落し、湯恩伯部隊は兵員二十万をうしなった。
〔11〕 蒋、馮、閻の大戦とは、天水=連雲港、天津=浦口両鉄道の沿線でおこなわれた蒋介石と馮玉祥、閻錫山とのあいだの大規模な軍閥戦争をさす。この戦争は一九三〇年五月から十月まで半年つづき、双方の死傷者は三十万にのぼった。
〔12〕 一九四四年、郭沫岩は、明朝未年に李自成が指導した農民蜂起の勝利三百周年を記念して、『甲申三百年祭』という論文を書いた。それには、一六四四年、李自成の農民蜂起軍が北京にはいってのち、一部の指導者の生活が腐敗し、派閥闘争が生じたために、一六四五年には、ついに失敗するにいたったことがのべられている。この論文は、まず、重慶の『新華日報』に発表され、そのご延安村よび各解放区で単行本として刊行された。
〔13〕 『孟子』巻十一「告子上」かちの引用。
〔訳注〕
① 本選集第一巻の『中国革命戦争の戦略問題』注〔4〕を参照。
② 本選集第一巻の『中国革命戦争の戦略問題』注〔5〕を参照。
③ 本選集第一巻の『中国革命戦争の戦略問題』訳注⑤を参照。
④ 本巻の『きわめて重要な政策』注〔1〕を参照。
⑤ 本選集第二巻の『抗日根拠地の政権問題』を参照。
⑥ 三風整頓とは、党内にあった三つの悪い作風を是正し整頓することをいったもので、主観主義に反対して学風を整え、セクト主義に反対して党風を整え、党八股に反対して文風を整えることである。くわしくは、本巻の『われわれの学習を改革しよう』、『党の作風を整えよう』および『党人股に反対しよう』を参照。
⑦ 精兵簡政とは、軍隊を精鋭化し、行政機構を簡素化することである。くわしくは、本巻の『きわめて重要な政策』を参照。
⑧ 擁政愛民とは、根拠地の軍隊が政府を擁護し、人民を愛護することである。くわしくは、本巻の『根拠地での小作料引き下げ運動、生産運動および擁政愛民運動をくりびろげよう』注〔2〕を参照。
⑨ 本選集第二巻の『おもいきって抗日勢力を発展させ、反共頑迷派の進攻に抵抗せよ』注〔8〕を参照。
⑩ 本巻の『国民党中央執行委員会第十一回全体会議と第三期国民参政会第二回会議を評す』のなかで列挙されている蒋介石のおこした三回にわたる反共の高まりの事実を参照。

maobadi 2011-01-14 21:09
人民に奉仕する
          (一九四四年九月八日)
     これは、毛沢東同志が中国共産党中央直属機関のひらいた張思徳同志追悼の集会でおこなった講演である。

 われわれの共産党と共産党の指導する八路軍、新四軍は革命の部隊である。われわれのこの部隊は、完全に人民を解放するための部隊であり、徹底的に人民の利益のためにはたらく部隊である。張思徳同志〔1〕はわれわれのこの部隊のなかのひとりである。
 人はいずれ死ぬものだが、死の意義にはちがいがある。むかし、中国に司馬遷《しばせん》という文学者がいて、「人はもとより一死あれども、あるいは泰山より重く、あるいは鴻毛より軽し」といった〔2〕。人民の利益のために死ぬのは、泰山よりも重い。ファシストのために力をつくし、人民を搾取し人民を抑圧するもののために死ぬのは、鴻毛よりも軽い。張思徳同志は人民の利益のために死んだのであって、その死は泰山よりも重い。
 われわれは人民に奉仕するものであるから、もし自分に欠点があれば、人から批判され指摘さわることをおそれない。どんな人でも指摘してくれてよい。言ってくれたことが正しければ、われわれはあらためる。だされた方策が人民のためになるなら、われわれはそのとおりにする。「軍隊の精鋭化、行政の簡素化」という意見は、党外の人李鼎銘《リーティンミン》氏〔3〕がだしたもので、人民のためになるよい意見であるから、われわれは採用した。われわれが、人民の利益のためにあくまでもよいことをつづけ、人民の利益のためにまちがったことをあらためていくかぎり、われわれのこの部隊はきっと栄えるであろう。
 われわれは、全国の津々浦々からやってきた。共通の革命の目標をめざして集まったのである。われわれはさらに、全国の大多数の人民とともにこの道をあゆまなければならない。われわれは、こんにちすでに九千百万の人口をもつ根拠地〔4〕を指導しているが、これではまだ不十分である。もっと大きくしなければ全民族の解放をたたかいとることはできない。われわれの同志は、困難なときには成果に目をむけ、光明に目をむけ、勇気をふるいたたせなければならない。中国人民はいま苦難のなかにある。われわれにはかれらを救う責任があり、われわれは奮闘努力しなければならない。奮闘すれば犠牲が出ることもあるし、人が死ぬようなこともつねにおこる。だが、人民の利益、大多数の人民の苦しみを考えるなら、人民のために死ぬことは死に場所をえたということになる。ただ、われわれは不必要な犠牲をできるだけ少なくすべきである。われわれの幹部は、一人ひとりの戦士に心をくばらなければならず、革命の部隊のすべてのものは、心をくばりあい、いたわりあい、助けあわなければならない。
 今後、われわれの部隊では、だれが死んでも、それが炊事員であろうと兵士であろうと、いくらかでも有益な仕事をしたものであれば、かならずそれを弔い、追悼会をひらかなければならない。これは一つの制度にしていかなければならない。この方法は、一般の人びとのあいだにもひろめるべきである。村のものが死ねば、追悼会をひらく。このような方法で、われわれの哀悼の気持ちをあらわし、全人民を団結させるのである。



〔1〕 張思徳同志は中国共産党中央警備連隊の兵士であった。一九三三年に革命に参加し、長征にくわわり、負傷したこともあり、人民の利益のために忠実に奉仕した共産党員であった。一九四四年九月五日、陝西省北部安塞県の山中で炭を焼いていたとき、炭焼きがまがくずれたために犠牲になった。
〔2〕 司馬遷は西紀前二世紀の中国の有名な文学者、歴史家で、『史記』百三十編をあらわした。ここのことばは、かれの「任少卿に報ずる書」から引用されたものである。
〔3〕 李鼎銘は陝西省北部の開明紳士で、陝西・甘粛・寧夏辺区政府の副主席にえらばれたことがある。
〔4〕当時の陝西・甘粛・寧夏辺区と華北、華中、華南各解放区の人口総数をさす。

maobadi 2011-01-14 21:09
蒋介石の双十節演説を評す
          (一九四四年十月十一日)
     これは、毛沢東同志が新華社にかわって書いた論評である。

 からっぼで中味がなく、人民の関心をもっている問題になにひとつ答えていないのが、蒋介石《チァンチェシー》の双十節演説の特色のひとつである。蒋介石は、大後方にはまだ広大な土地があり、敵をおそれるにあたらないといっている。寡頭独裁の国民党指導者たちには、いまになってもまだ、政治を改革して敵をくいとめるどんな意図も能力もみられず、敵を防ぎとめるのに「土地」というできあいの元手しかない。だが、だれの目にもあきらかなように、この元手だけでは不十分である。なぜなら、正しい政策と人びとの努力がないために、日本帝国主義はまいにちこの残りの土地に脅威をあたえているからである。蒋介石は敵のこうした脅威をつよく感じていることだろう。そのことは、かれが脅威はないとくりかえし人民にのべていること、さらには「自分が黄埔《ホヮンプー》で建軍していらい二十年、革命情勢がこんにちほど堅固であったことはない」といっていることをみさえすればわかる。これこそ、かれがこうした脅威を感じていることのあらわれである。かれはまた、くりかえし、「われわれは自信をうしなって」はならないといっている。これこそ、国民党の隊列のなかに、国民党支配区の知名人のあいだに、すでに自信をうしなっている人が数多くいることのあらわれである。蒋介石はいま、この自信をもりかえそうとその方法をさがし求めている。だが、かれは、政治、軍事、経済、文化のどの政策どの活動にも、もりかえす方法を求めず、忠言をこばみ自己の非をつくろうという方法をさがしあてた。かれにいわせると「外国の観察家」はみな「わけのわからない」人間で、「外国の世論がわれわれの軍事と政治についてさかんに議論している」のはみな「日本侵略者と民族裏切り者のデマや悪だくみ」に乗せられているためだ、という。不思議なことには、ルーズベルトなどのような外国人までが、宋慶齢《ソンチンリン》などのような国民党員や国民参政会の多くの参政員およびすべての良心的な中国人とおなじように、蒋介石とその側近の耳ざわりのよい言いわけを信用しないで、「われわれの軍事と政治についてさかんに議論して」いる。蒋介石は、こういう現象に悩まされながらも、筋のとおった堂々たる論拠とおもえるものがなにひとつ見つからないでいたのだが、ことしの双十節になってようやくそれをみつけだした。なんと、かれらが「日本侵略者と民族裏切り者のデマや悪だくみ」に乗せられているためだ、というのである。そこで蒋介石は、その演説のなかでながながと、この「日本侵略者と民族裏切り者のデマや悪だくみ」なるものをひどくののしった。かれは、このようにののしれば、すべての中国人や外国人の口をふさぐことができると考えている。おれの軍事と政治についてこれ以上「さかんに議論する」ものがあれば、それは「日本侵略者と民族裏切り者のデマや悪だくみ」に乗せられているのだ、というわけである。われわれは蒋介石のこの指摘は笑止干方だと考える。なぜなら、国民党の寡頭独裁、抗戦の怠慢、腐敗と無能にたいし、国民党政府のファッショ的政令や敗北主義的軍令にたいしては、日本侵略者と民族裏切り者は、これまで批判したことがないどころか、それをたいへん歓迎しているからである。人びとからひとしく不満を買っている蒋介石の著書『中国の運命』については、日本帝国主義はなんども心からの賛辞をおくっている。また、国民政府とその統帥部の改組について、日本侵略者や民族裏切り者が一言半句でも口にしたのをきいたことはない。なぜなら、まいにち人民を抑圧し、まいにち負けいくさをやっているいまのような政府と統帥部をそのままにしておくことは、それこそ日本侵略者と民族裏切り者ののぞむところだからである。蒋介石とその一味が、これまで日本帝国主義から投降勧誘の対象とされてきたことは、事実ではないとでもいうのか。日本帝国主義がもとかかげていた「共産党反対」、「国民党消滅」という二つのスローガンのうち、「国民党消滅」はとっくにすてられ、「共産党反対」だけが残っているのは、事実ではないとでもいうのか。日本帝国主義者は、いまなお国民党政府にたいして宣戦していない。かれらは、日本と国民党政府とのあいだにはまだ戦争状態が存在していないといっているのである。国民党の要人たちの上海《シャンハイ》、南京《ナンチン》、寧波《ニンポー》一帯にある財産は、いまでも、日本侵略者、民族裏切り者によってりっぱに保管されている。敵の頭目、畑俊六は代表を奉化《フォンホヮ》におくって、蒋介石の祖先の墓前祭をした。蒋介石の側近たちは、こっそり使者をおくって、ほとんどたえることなく上海などで日本侵略者と連係をたもち、秘密交渉をすすめている。とくに日本侵略者の進攻が激化したときには、このような連係や交渉がますます多くなる。これらすべては、事実ではないとでもいうのか。このことからみて、蒋介石とその一味の軍事と政治について「さかんに議論している」人びとは、いったい「わけのわからない」人間なのか、それともわけのわかっている人間なのか。この「わけ」の出どころは、いったい「日本侵略者と民族裏切り者のデマや悪だくみ」なのか、それとも蒋介石自身とその一味にあるのか。
 蒋介石の演説のなかには、中国に内戦がおこることはないと言明したところもある。だが、かれはまた、「汪精衛《ワンチンウェイ》のやからの行為のごとく、あえて民国を裏切り、抗戦を破壊する人間は二度とあらわれない」ともいっている。蒋介石は、ここに内戦の理由をさがしもとめ、しかも、それをさがしあてたのである。記憶のいい中国人なら忘れることはないだろうが、一九四一年、ちょうど中国の裏切り者どもが新四軍の解散を宣告し、中国人民が内戦の危機を阻止するためにたちあがったとき、蒋介石はある演説のなかで、将来けっして「共産党討伐」戦争はおこるまい、おこるとすれば、それは反逆者討伐の戦争であろうといったことがある。また、『中国の運命』をよんだことのある人びとは、蒋介石がそのなかで、中国共産党は一九二七年の武漢《ウーハン》政府の時期に、汪精衛と「結託」したことがあるといったのをやはりおぼえているだろう。一九四三年の国民党中央執行委員会第十一回全体会議の決議では、さらに、中国共産党に「抗戦を破壊し、国家を危うくする」といういいがかりをつけている。いままた、蒋介石のこの演説をよむと、内戦の危険が存在しているばかりでなく、増大しつつあることを感じさせられる。中国人民がいまからしっかりと頭にいれておく必要があるのは、蒋介石がある朝とつぜん、いわゆる「反逆者」の討伐令をくだすだろう、そのときの罪名は、いわく「民国を裏切った」、いわく「抗戦を破壊した」、いわく「汪精衛のやからの行為のごとし」だということである。蒋介石はこういうやり方が得意である。かれは、[”广”の中に”龍”]炳勲《パンピンシュィン》、孫良誠《スンリァンチョン》、陳孝強《チェンシァオチァン》〔1〕などのやからを反逆者と宣告することは不得意であり、かれらを討伐することも不得意であるが、華中の新四軍と山西《シャンシー》の決死隊〔2〕を「反逆者」と宣告することは得意であり、しかもそれを討伐することはひじょうに得意である。中国人民がけっして忘れてはならないのは、蒋介石が内戦をおこさないと言明しているときに、そのかれがすでに七十七万五千の軍隊をさしむけており、これらの軍隊がいまもっぱら八路軍、新四軍、および華南の人民遊撃隊を包囲したり攻撃したりしている、ということである。
 蒋介石の演説は、積極的な面からいえば、からっぽで中味がなく、中国人民が熱望している抗日戦線の改善については、なんらの解答をもあたえていない。だが、消極的な面からいえば、この演説は、危険性にみちている。蒋介石の態度は、ますます常軌を逸したものとなっている。かれは、政治を改革せよという人民の要求にあくまでも反対し、中国共産党をはげしく敵視し、その準備している反共内戦のための口実をにおわせている。だが、蒋介石のこうした企図は、すべて実現できるものではない。かれが自分自身のやり方を変えたがらないなら、かれはもちあげた石で自分の足をうつことになるだろう。かれのいまのやり方はぜったいに適用するものではないから、われわれは、かれがそれをあらためるよう心から希望する。かれはすでに「言論のわくをゆるめる」と宣言している〔3〕以上、「日本侵略者と民族裏切り者のデマや悪だくみ」に乗せられているといった侮辱的なことばで人びとをおどかし、「さかんに議論」する口を封ずるべきではない。かれはすでに「訓政時期をちぢめる」と宣言している以上、政府を改組し、統帥部を改組せよという人びとの要求を拒否すべきではない。かれはすでに「政治的な方法によって共産党問題を解決する」と宣言している以上、内戦準備の理由をさがし求めるべきではない。



〔1〕 [”广”の中に”龍”]炳勲、孫良誠、陳孝強は、あい前後して、公然と日本侵略者に投降した国民党の将軍である。
〔2〕 山西省の決死隊とは、抗日戦争の初期に、共産党の指導と影響のもとで発展してきた山西省人民の抗日武装組織のことである。本選集第二巻の『すべての抗日勢力を結集して反共頑迷派に反対しよう』注〔3〕を参照。
〔3〕 一九四四年いらい、国民党の専制支配をやめ、民主主義を実行し、言論の自由を保障せよという要求が国民党支配地域人民の普遍的な声となっていた。人民の切実な要求にたいし、国民党は一九四四年四月、いわゆる「言論のわくをゆるめる」という宣言をおこなって、ごまかした。五月には、国民党中央執行委員会第十二回全体会議は、さらに「言論の自由を保障する」と宣言した。だが、国民党がやむをえずおこなったこれらの表示は、その後すこしも実現をみず、人民の民主主義運動の高揚につれて、人民の言論を抑圧する措置がつきることなくつぎつぎにとられた。
訳注
① 一九一一年(辛亥年)十月十日、革命の影響を受けた清朝の軍隊の一部が武昌で蜂起をおこなった。ついで、全国が熱烈にこれに呼応し、清朝の反動支配は急速に崩壊し、清朝の皇帝はうちたおされた。これが辛亥革命である。一九四九年、中華人民共和国が成立するまでは、十月十日を「双十節」とよんでいたが、いまでは、この日を辛亥革命記念日という。
② 本巻の『延安の文学・芸術座談会における講話』注〔11〕を参照。
③ 本選集第二巻の『戦争と戦略の問題』注〔9〕を参照。

maobadi 2011-01-14 21:10
文化活動における統一戦線
          (一九四四年十月三十日)
     これは、毛沢東同志が陝西・甘粛・寧夏辺区文化教育活動家会議でおこなった講演である。

 われわれの活動はすべて日本帝国主義を打倒するためである。日本帝国主義はヒトラーとおなじように、まもなく滅亡するだろう。しかし、それを最終的に消滅するには、われわれはひきつづき努力しなければならない。われわれの活動は、第一が戦争であり、つぎが生産であり、そのつぎが文化である。文化をもたない軍隊はおろかな軍隊であり、おろかな軍隊では敵にうち勝つことはできない。
 解放区の文化には、すでにすすんだ面もあるが、まだおくれた面もある。解放区には、すでに人民の新しい文化もあるが、まだ広範な封建的遺物もある。人口百五十万の陝西《シャンシー》・甘粛《カンスー》・寧夏《ニンシァ》辺区には、まだ文盲が百余万人、巫神《みこ》が二千人もおり、迷信思想がまだ広範な大衆に影響をあたえている。これらはいずれも大衆の頭のなかにある敵である。大衆の頭のなかにある敵とたたかうことは、多くのばあい、日本帝国主義とたたかうことよりも困難である。われわれは大衆に、みずから立ちあがって自分たちの文盲、迷信および不衛生な習慣とたたかうよう教えなければならない。このたたかいのためには、広範な統一戦線がなくてはならない。陝西・甘粛・寧夏辺区のような人口が希薄で、交通の不便な、これまで文化水準の低かった地方で、しかも、戦争中であってみれば、こうした統一戦線はとくに広範でなければならない。したがって、教育活動の面では、集中的な、正規の小学校、中学校が必要であるばかりでなく、分散的な、正規でない村の学校、新聞をよむサークル、識字班も必要である。新式の学校が必要であるばかりでなく、ふるい村塾《そんじゅく》も利用し改造する必要がある。芸術活動の面では、新劇が必要であるばかりでなく、秦腔《チンチァン》〔1〕や秧歌《ヤンコー》も必要である。新しい秦腔や新しい秧歌が必要であるばかりでなく、ふるい劇団や秧歌隊の総数の九〇パーセントをしめるふるい秧歌隊も利用し、これを一歩一歩改造していく必要がある。医薬の面ではなおさらそうである。陝西・甘粛・寧夏辺区では、人畜の死亡率が高く、まだ巫神を信じている人が多い。このような状況のもとでは、たんに新式の医者にたよるだけでは問題を解決することはできない。もちろん、新式の医者は旧式の医者よりもすぐれてはいるが、もしも新式の医者が、人民の苦しみに心をくばらず、人民のために医者を養成せず、辺区にいまいる千余人の旧式の医者や旧式の獣医と提携せず、かれらが向上するよう援助しないなら、実際には、巫神を援助することになり、大量の人畜を見殺しにすることになる。統一戦線には二つの原則がある。第一は団結であり、第二は批判、教育、改造である。統一戦線のなかでは、投降主義はあやまりであり、他人にたいして排斥、軽べつの態度をとるようなセクト主義もあやまりである。われわれの任務は、すべての役にたつ旧知識人、旧芸人、旧式医者と提携して、かれらを援助し、感化し、改造することである。改造するためには、まず団結しなければならない。われわれのやり方が適切でさえあれば、かれらはわれわれの援助をよろこんでうけいれるはずである。
 われわれの文化は人民の文化である。文化活動家は人民に奉仕する高度の熱誠をもち、大衆と結びつかなければならず、大衆からはなれてはならない。大衆と結びつくには、大衆の必要と自発的意志にしたがわなければならない。大衆のためのすべての活動は、大衆の必要から出発すべきであって、たとえ善意のものであれ、いかなる個人的願望からも出発すべきではない。往々にして、大衆は、客観的にはある種の改革を必要としていても、主観的にはまだそのような自覚をもたず、決意をしておらず、まだ改革の実行をのぞんでいない。そうしたばあいには、われわれは辛砲づよく待たなければならない。われわれの活動をつうじて、大衆の多数が自覚をもち、決意をし、みずから改革の実行をのぞむようになってから、このような改革を実行すべきである。さもなければ、大衆からはなれてしまうだろう。すべて大衆の参加を必要とする活動は、もし大衆の自覚と自発的意志がなければ、いたずらに形式に流れて失敗するだろう。「速やかならんことを欲すれば則《すなわ》ち達せず」〔2〕というのは、速やかなることを必要としないという意味ではなく、盲動主義になってはならず、盲動主義はかならず失敗するという意味である。あらゆる活動においてすべてそうであり、大衆の思想を改造する文化教育活動では、とりわけそうである。これには二つの原則がある。一つはわれわれの頭のなかの幻想からうまれた必要ではなく、大衆の実際の必要ということである。もう一つは大衆の自発的意志であり、われわれが大衆にかわって決意することではなく、大衆自身が決意することである。



〔1〕 秦腔は陝西省の旧式の歌劇である。古代、陝西省は秦の国であったので、秦腔といわれる。
〔2〕 「速やかならんことを欲すれば則ち達せず」は、孔子のことばで、『論語』の「子路」編にみられる。
訳注
① 秧歌は、むかしから中国の華北、東北、陝西省北部地方などの農村で広くおこなわれた踊りの一種であって、とくに、一九四二年延安でひらかれた文芸座談会以後、中国共産党の指導する解放区では、労働者、農民、兵士の娯楽として大いに奨励され、形式と内容も豊富多彩になった。

maobadi 2011-01-14 21:10
経済活動に習熟しなければならない

          (一九四五年一月十日)
     これは、毛沢東同志が陝西・甘粛・寧夏辺区の労働英雄と模範活動家の会議でおこなった講演である。

 労働英雄のみなさん、模範活動家のみなさん。
 みなさんは会議をひらき、経験を総括した。われわれはみな、みなさんを歓迎し、尊敬している。みなさんは三つの長所をもっており、三つの役割をはたしている。第一は、率先的役割である。つまり、みなさんがとくに努力し、多くの新しいものをうみだしたので、みなさんの活動は一般の人びとの模範となり、仕事の基準はたかまり、人びとがみなざんをみならうようになっているのである。第二は、骨幹の役割である。みなさんはほとんどがまだ幹部ではないが、すでに大衆の骨幹であり、大衆の中核であって、みなさんがいるから仕事が推進しやすくなっているのである。みなさんは将来幹部になるだろう。いまは幹部の予備軍なのである。第三は、かけ橋の役割である。みなさんは上の指導者と下の広範な大衆とのあいだのかけ橋であって、大衆の意見はみなさんをつうじて上につたえられ、上の意見はみなさんをつうじて下につたえられているのである。
 みなさんには多くの長所があり、大きな功労があるが、しかし、傲慢《ごうまん》にならないよう十分に注意しなければならない。みなさんが人びとから尊敬されるのは当然のことなのだが、このために傲慢にもなりやすい。もしみなさんが傲慢になって、謙虚さをうしない、努力をつづけず、他人を尊重せず、幹部を尊重せず、大衆を尊重しないようになれば、みなさんは英雄にも模範にもなれなくなるだろう。これまでこういう人がいくらかいたが、そのまねをしないよう希望する。
 みなさんの経験はこんどの会議で総括された。この総括は非常にりっぱなもので、この地方に適用できるだけでなく、各地にも適用できるが、これらについてはふれないでおこう。 ここでは、われわれの経済活動について少しのべてみようとおもう。
 ここ数年らい、われわれは経済活動に習熟しはじめ、経済活動のなかで大きな成績をあげているが、これはほんの序の口にすぎない。われわれは、二、三年のうちに、陝西《シャンシー》・甘粛《カンスー》・寧夏《ニンシァ》辺区と敵の後方にある各解放区で食糧と工業品の全部または大部分を自給でき、さらに余裕をもてるまでにならなければならない。われわれは、農業、工業、貿易の三つの面で、いまよりもっと大きな成績をあげるようにしなければならない。そのときになってはじめて、より多く学び、よりりっぱに学んだといえるのである。もし、軍隊と人民の生活が改善されず、反攻のための物質的基礎がまだ不安定で、農業、工業、貿易が年ごとに上昇するのではなく、停滞し、さらには低下しているような地方があるとすれば、それは、その地方の党、政府、軍隊の活動家がまだ経済活動に習熟していない証拠であり、その地方はきわめて大きな困難にあうだろう。
 ここに、みんなの注意をもういちど喚起しなければならない問題がある。それは、われわれの思想をいまわれわれのおかれている環境に適応させるということである。いまわれわれのおかれている環境は農村であり、この点にはなんら問題がないようにみえる。われわれが農村にいるということを知らないものはいないだろう。だが、実際にはそうではない。われわれのなかの多くの同志は、まいにち農村におり、そのうえ自分では農村のことがわかっているつもりでいるが、しかし、かれらは農村のことがわかっていないか、すくなくとも深くはわかっていないのである。かれらは、小私有経済を基礎とした、敵に分割された、したがってまた、遊撃戦争がおこなわれている農村という環境から出発しないために、政治問題、軍事問題、経済問題、文化問題、党活動の問題、労働運動、農民運動、青年運動、婦人運動などの問題で、しばしばその処理が適切でなかったり、あまり適切でなかったりしている。かれらは、都市の観点で農村を処理し、多くの適切でない計画を主観的につくりあげてむりやりに実施するので、しばしば壁につきあたっている。ここ数年らい、整風運動によって、また活動のなかでつまずいたことによって、われわれの同志たちは大きく進歩した。だが、われわれの思想をわれわれのおかれている環境に完全に適応させるよう、なお注意しなければならず、そうしなければ、われわれはどの分野の活動でも効果をあげることができず、しかもすみやかにあげることができない。もし、われわれのおかれている環境が、小私有経済を基礎とした、敵に分割された、したがってまた、遊撃戦争がおこなわれている農村根拠地だということをほんとうに理解したなら、もしわれわれのする仕事がすべてこの点から出発したなら、一見、効果のあがるのがおそく、はなばなしくないようにみえるだろうが、この点から出発しないで、他の点、たとえば都市の観点から出発したばあいにくらべて、実際には、仕事の効果はどうだろうか。それはけっしておそくはなく、むしろはやいのである。なぜなら、もしわれわれがこんにちの実際の状況からはなれて、都市の観点から出発したなら、それは効果のあがるのがはやいかおそいかという問題ではなく、しょっちゅうつまずき、さっぱり効果があがらないという問題になってしまうからである。
 たとえば、われわれが現在の形の軍民生産運動を提唱して、非常に大きな効果をおさめているのは、そのあきらかな証拠である。
 われわれは、日本侵略者に打撃をあたえなければならず、また都市を攻略し、失地を回復する準備をしなければならない。だが、小私有経済の、分割された、遊撃戦争の農村という環境のなかで、どうすればこの目的を達成できるだろうか。われわれは、自分では労働せず、もっぱら外国人にたより、綿布などの日用品まで外国に依存している国民党のようなまねをしてはならない。われわれは自力更生を主張する。われわれは外からの援助をのぞむが、それに依存してはならず、自分の努力にたより、軍民全体の創造力にたよる。それでは、どのような方法があるだろうか。われわれは、軍民が同時に大規模な生産運動をおこすという方法をとる。
 農村であり、人力も物力も分散しているから、われわれの生産と供給は「統一指導、分散経営」の方針をとっている。
 農村であり、農民はみな分散した小生産者で、おくれた生産用具を使用しており、しかも、大部分の土地は依然として地主が所有し、農民は封建的な小作料による搾取をうけているから、われわれは、農民の生産意欲と農業労働の生産性をたかめるために、小作料と利子を引き下げ、労働の相互援助を組織するという二つの方針をとっている。小作料の引き下げは農民の生産意欲をたかめ、労働の相互援助は農業労働の生産性をたかめている。わたしは、華北、華中各地の資料を手にいれたが、これらの資料によると、小作料を引き下げたのち、農民は生産意欲が大いにあがって、われわれのところの変工隊とおなじような相互援助団体をすすんで組織しており、そのため三人分の労働能率が四人分のそれに匹敵するようになったという。そうだとすれば、九千万人が一億二千万人に匹敵することになる。そのほか、二人が三人に匹敵するようになったところもある。もし、強引に命令したり、急《せ》いて事を仕損じたりするような方針をとらずに、辛抱づよく説得し、典型によって模範をしめす方針をとるなら、数年のうちに、大多数の農民を農業生産と手工業生産の相互援助団体に組織することができるだろう。このような生産団体がみんなのものになれば、生産量が大幅にふえ、さまざまな新しいものがうみだされるだけでなく、政治も進歩し、文化もたかまり、衛生も重んじられ、のらくら者も改造され、風俗習慣もあらためられるだろうし、遠からぬうちに生産用具も改良されるだろう。そのときには、われわれの農村社会は、新しい基礎のうえに一歩一歩うちたてられていくだろう。
 われわれの活動家たちがこの仕事を熱心に研究し、大きな精力をさいて農村の人民が生産運動をくりひろげるのをたすけるなら、数年のうちに、農村は食糧と日用品が豊富になり、戦闘を堅持し、凶作に対処することができるだけでなく、将来のために大量の食糧と日用品をたくわえることもできるようになるだろう。
 農民の生産を組織するだけでなく、部隊と機関もいっせいに生産をおこなうよう組織しなければならない。
 農村であり、つねに敵からふみにじられている農村であり、長期にわたって戦争がおこなわれている農村であるから、部隊と機関は生産をしなければならない。また、分散した遊撃戦争であるから、部隊と機関は生産をすることもできる。ましてわが陝西・甘粛・寧夏辺区では、辺区の人口にくらべて部隊と機関の人数のしめる割合が大きすぎるので、自分で生産しなければ飢えてしまうし、人民に求めすぎれば人民が負担しきれなくなり、人民も飢えてしまう。だから、われわれは大規模な生産運動をくりひろげることにきめたのである。陝西・甘粛・寧夏辺区を例にとると、部隊と機関は毎年食糧(粟《あわ》)二十六万担(一担は三百斤)を必要とし、そのうち人民に求めているのは十六万担、自分で生産しているのは十万担であるが、もし自分で生産しなければ、軍隊と人民のうちどちらか一方が飢えることになる。生産運動をくりひろげたために、われわれはいま飢えていないばかりか、軍隊と人民のどちらも十分に食べている。
 わが辺区の機関では、食糧、被服の二項目をのぞいて、他の経費は大部分を自分でまかなっており、一部の部門では、その全部を自分でまかなっている。また、他の多くの部門では、食糧の一部と被服の一部をも自分でまかなっている。
 辺区の部隊の功績はいっそう大きい。多くの部隊では、食糧、被服、その他すべてを完全に自給している。すなわち一〇〇パーセント自給しており、政府からは何一つもらっていない。これは最高の基準であり、第一の基準であって、数年かかってしだいに達成されたものである。
 前線では戦わなければならないので、この基準を採用することはできない。前線では第二、第三の二つの基準をもうければよい。第二の基準は、食糧、被服の二項目を政府が支給するほか、その他のもの、たとえば油(一人一日半両)、塩(一人一日半両)、野菜(一人一日一斤ないし一斤半)、肉(一人一ヵ月一斤ないし二斤)、薪炭費、事務費、雑費、教育費、保健費、武器手入れ費、葉タバコ、靴、靴下、手袋、手ぬぐい、歯ブラシなどはすべて生産によって自給するというもので、それは全費用のほぼ五〇パーセントをしめるが、二年ないし三年のうちにしだいに実現することができる。現在、すでにそれを実現したところもある。この基準は根拠地内の強固な地区では実行できる。
 第三の基準は周縁地区と遊撃地区で実行するもので、そこでは、五〇パーセントを自給することは不可能だが、一五パーセントないし二五パーセントを自給することはできる。それだけできれば結構である。
 要するに、特殊な事情のあるばあいをのぞいて、すべての部隊と機関が戦闘、訓練、仕事のあいまに、一様に生産に参加するということである。部隊と機関は戦闘、訓練、仕事のあいまを利用して集団的に生産に参加するほか、専門に生産に従事する人を組織して、農場、菜園、牧場、手工業場、小型工場、輸送隊、協同組合を創設したり、農民と共同で食糧や野菜をつくったりしなければならない。当面の条件のもとで困難をのりきるためには、どの機関、どの部隊もみな家計を確立すべきである。家計を確立したがらないのらくら者の習性は恥ずべきものである。さらに、質によって等級をきめた個人別利益配当制度をさだめて、直接生産に従事する人びとが利益の配当を受けられるようにし、それによって生産の発展を刺激しなければならない。また、生産活動を効果的に推進するためには、指導者が責任をもち、みずから陣頭にたって、指導的骨幹と広範な大衆とを結びつけ、一般的よびかけと個別的指導とを結びつける方法をとらなければならない。
 部隊が生産をやれば作戦や訓練ができなくなり、機関が生産をやれば仕事ができなくなる、というものがいる。このようないい方はまちがっている。ここ数年らい、わが辺区の部隊は、大々的に生産をおこなって衣食をゆたかにするとともに、練兵もおこない、政治や文化の学習もおこなってきたが、それらはみな以前よりいっそう大きな成績をあげており、軍隊内の団結や軍隊と人民との団結も以前よりいっそうよくなっている。前線では昨年一年間に、大規模な生産運動をおこなったが、作戦の面でも大きな成績をあげたし、練兵運動もいたろところではじめられた。機関が生産を対こなったために、辺区でも前線でもそうだが、勤務員は生活が改善されて、仕事にいっそう腰をすえるようになり、能率もいっそうあがるようになった。
 以上のことからわかるように、農村での遊撃戦争という環境におかれた機関と部隊が、もし生産自給運動をおこせば、戦闘、訓練、仕事にはいっそう力がはいり、いっそう活発になるし、規律、内部の団結、外部との団結もいっそうよくなるのである。これは、わが中国の長期にわたる遊撃戦争の産物であり、われわれの誇りである。生産自給運動に習熟すれば、われわれはどのような物質的困難をもおそれなくなる。われわれは、年とともにますます活気と力にあふれ、戦えば戦うほど強くなり、敵を圧倒することはあっても、敵に圧倒されるおそれはまったくなくなる。
 ここでもう一つ、前線にいるわれわれの同志たちの注意を喚起しなければならない点がある。われわれの一部の地区は創設されてから日が浅く、かなりゆたかなので、そこの活動家たちはこれをたのみにして節約しようとせず、生産しようともしないことである。これは非常によくないことで、将来、かれらはかならずひどい目にあうだろう。どの地方でも、十分に人力、物力をたいせつにしなければならず、けっして目先のことだけにとらわれて濫用、浪費してはならない。どの地方でも、仕事をはじめたその年から、将来の長い年月のことを計算にいれ、長期にわたって戦争をやりぬくことを計算にいれ、反攻のことを計算にいれ、敵を追いだしてからの建設のことを計算にいれておかなければならない。一万では、けっして濫用、浪費せず、他方では、生産の発展につとめることである。これまで一部の地方では、遠い先のことを考えず、人力、物力の節約にも生産の発展にも注意しなかったために、たいへんひどい目にあった。こうした教訓があるので、いま注意を喚起しなければならないのである。
 工業品については、陝西・甘粛・寧夏辺区は、二年以内に、綿花、綿糸、綿布、鉄、紙、その他多くのものを完全に自給することを決定している。これまで全然生産しなかったか、わずかしか生産しなかったものを、まったく外部にたよらずにすべて自分で栽培し、自分で製造し、自分で供給するようにする。これらの任務はすべて、公営、私営および協同組合経営の三者によって遂行する。すべての生産物は量をふやすだけでなく、質もよくし、長もちするようにする。辺区政府、八路軍連合防衛司令部、党中央西北局がこれらの点に大きな力をそそいでいるのは非常に正しい。前線の各地でもこのようにするよう希望する。多くの地方ではすでにこのようにしているが、その成功を期待する。
 わが辺区でも、解放区全体でも、すべての経済活動に習熟するにはまだ二年ないし三年の時間が必要である。われわれが食糧と工業品の全部または大部分を自分で栽培し、自分で製造し、自分で供給し、なおそのうえに余裕ができるようになったときこそ、われわれが農村で経済活動をどうおこなうかということにすっかり習熟したときである。また将来、都市から敵を追いだしたときには、われわれは新しい経済活動もやれるようになるだろう。中国の建設はわれわれにかかっており、われわれは学習につとめなければならない。


訳注
① 本選集第一巻の『湖南省農民運動の視察報告』訳注⑩を参照。

maobadi 2011-01-14 21:11
遊撃区でも生産をおこなうことができる
          (一九四五年一月三十一日)
     これは、毛沢東同志が延安の『解放日報』にかわって書いた社説である。

 敵後方の解放区のなかの比較的強固な根拠地では、軍隊と民衆の生産運動をおこすことができ、またおこさなければならないこと、これはすでに解決すみであり、もう問題にはならなくなっている。だが、遊撃区でも、つまり敵後方にある敵後方でも、そうすることができるかどうかは、これまで、多くの人びとの頭のなかでまだ解決されていなかった。それはまだ裏づけがなかったからである。
 だが、いまではもう裏づけがある。一月二十八日の『解放日報』にのった山西《シャンシー》・察哈爾《チャーハール》・河北《ホーペイ》遊撃隊の生産運動についての張平凱《チャンピンカイ》同志の報道によると、山西・察哈爾・河北辺区の多くの遊撃区では、すでに一九四四年に大規模な生産をおこない、ひじょうによい成果をあげている。張同志の報道でとりあげられている地域および部隊には、河北省中部の第六分区、第二分区の第四区隊、第四分区の第八区隊、徐水《シュイショイ》・定興《ティンシン》支隊、保定《ポオティン》・満城《マンチョン》支隊、雲彪《ユィンピャオ》支隊があり、山西省の代《タイ》県と[山+享]《クォ》県の部隊がある。それらの地域の条件はひじょうにわろくて、「敵軍とかいらい軍の拠点やトーチカがたちならび、濠や防壁や道路が網の目のようにはりめぐらされ、敵は軍事上の優勢と交通の便利な点を利用して、たえずわが方を襲撃し、包囲し、『討伐』してくる。遊撃隊はこの条件に対処するため、日に数ヵ所も移動することがしばしばある。」だがそれでも、かれらは戦闘のあいまに生産をおこなうことができた。その結果、「みんなの給養が改善され、一人一日あたり油と塩が半両、野菜が一斤、肉は一ヵ月一斤半というところまでふえた。そのうえ、数年間つかったことのない歯ブラシ、歯みがき粉、読み書きの読本もいまではもうそろっている。」どうだろう、これでも遊撃区では生産をおこなうことができないといえるだろうか。
 多くの人は、人口の密集している地方には土地がないという。だが、はたして土地がないだろうか。山西・察哈爾・河北辺区をみてほしい。「まず、農業を主とする方針のもとに土地問題を解決した。かれらには九つのやり方がある。第一に、封鎖用の防壁や濠をつぶして平らにすること、第二に、敵に利用されるおそれのある道路をつぶして、その両側に農作物をうえること、第三に、小さな荒れ地を利用すること、第四に、民兵に協力し、武装力の掩護《えんご》によって、月明かりの夜に、敵のとりでの下にある土地の作付けを強行すること、第五に、労働力のたりない農民と共同で耕作すること、第六に、部隊が変装して、なかば公然たる形で、敵の拠点やトーチカの近くの土地を耕作すること、第七に、川べりを利用して、そこに堤防をきずいて砂州を改造し、砂をとりのぞいて耕地にすること、第八に、農民に協力して非灌漑地を灌漑地に改造すること、第九に、自分たちが活動するすべての村落で野良仕事を援助することである。」
 農業生産はやれるとしても、手工業その他の生産は多分やれないのではないか。だが、はたしてやれないだろうか。山西・察蛤爾・河北辺区をみてほしい。「濠封鎖線の外にある部隊の生産としては、農業だけではなくて、根拠地内の強固な地区と同様、手工業や運輸業もおこなわれている。第四区隊ではフェルト帽をつくる手工業場を一つ、油をしぼる手工業場を一つ、粉をひく手工業場を一つつくり、七ヵ月のあいだに辺区の貨幣で五十万元の収益をあげた。こうして自分の困難を解決したばかりでなく、遊撃区の大衆の需要をもみたした。毛糸のジャケツや靴下なども、兵士たちは全部自給できるようになった。」
 遊撃区ではあれほどひんぱんに戦闘があるのだから、軍隊が生産に従事すれば、おそらく作戦に影響するのではあるまいか。だが、はたしてそうだろうか。山西・察蛤爾・河北辺区をみてほしい。「戦闘の任務と生産の任務とをおなじように重視し、労働力と武装力との結合という原則が実現された。」「第二分区の第四区隊を例にとろう。春の耕作がはじまると、専門の部隊を派遣して敵に打撃をあたえるとともに、強力な政治攻勢をおこなった。だからこそ、軍事行動も活発になり、部隊の戦闘力も高まったのである。この小部隊は二月から九月のはじめまでに七十一回の戦闘をおこなって、朱東社《チュートンショー》、上荘《シャンチョヮン》、野荘《イエチョヮン》、鳳家寨《フォンチァチャイ》、崖頭《ヤートウ》などの拠点を攻略し、敵軍とかいらい軍に百六十五人の死傷者をださせ、かいらい軍九十一人を捕虜にし、軽機関銃三ちょう、小銃と拳銃百一ちょうをぶんどった。」「軍事行動と大生産運動の宣伝とを結びつけ、『大生産運動を破壊するものがあれば、それをやっつける』という政治攻勢をただちにおこした。代県、[山+享]県などの県都にいる敵が民衆に、『なぜ八路軍は近ごろこんなに手ごわいのか』とたずねたところ、民衆は、『お前さんたちが辺区の大生産運動を破壊するからだよ』と答えた。かいらい軍の兵士たちは、『向こうさんは大生産運動をやっているんだから、出ていくもんじゃない』とささやきあっている。」
 遊撃区の人民大衆も生産運動をおこすことができるだろうか。それらの地方は、まだ小作料を引き下げていないかもしれず、引き下げていても不徹底かもしれないのに、それでも農民は増産に乗り気になれるだろうか。この点についても、山西・察哈爾・河北辺区の回答は肯定的である。「濠封鎖線の外にある部隊がくりひろげた生産運動は、また地元の大衆に直接的な援助をあたえている。一方では武力によって大衆の生産を掩護しているし、他方では労働力を提供してひろく援助をおこなっている。ある部隊は、農繁期に五〇パーセントの力をさいて、無償で大衆の生産を援助することをきめている。そのため、大衆の生産意欲が大いに高まり、軍民の関係がいっそううちとけたものとなり、大衆はだれも食うにこと欠かなくなった。遊撃区の大衆が共産党、八路軍によせる共鳴と支持は、それいらい、いっそう強まっている。」
 遊撃区では、軍隊と民衆の大規模な生産運動をおこなうことができるし、またおこなわなければならない。このことについては、すべての疑問が解決された。われわれは、解放区の党、政府、軍隊のすべての要員、とくに遊撃区の要員にたいし、この点を完全に認識することを要求するものであり、この「できる」と「なければならない」とを認識すれば、この仕事はどこででもおこせるようになる。山西・察哈爾・河北辺区も、まさしく、このことからはじめたのである。すなわち、「濠封鎖線の外にある部隊の生産運動では、幹部がその考え方をあらためて、生産を重視し、労働力と武装力との結合を重視し、大衆のあいだの英雄、模範(初歩的な総括では、六十六名の英雄、模範)をそだてたため、わずか五ヵ月間に、濠封鎖線の外にあるわれわれの部隊は、生産任務の面で計画を期日どおりに完遂したばかりでなく、また、とりわけ、実際にそくした多くの新しい創造をおこなったのである。」
 一九四五年には、全解放区のすべての人びとがこぞって、これまでよりも大規模な、軍隊と民衆の生産運動にたずさわらなければならない。そして、ことしの冬には、各区の成績をくらべてみよう。
 戦争は、軍事上、政治上の競争であるばかりでなく、経済上の競争でもある。日本侵略者にうち勝つためには、われわれは、他のすべてのことに努力するとともに、経済活動にも努力しなければならず、二、三年で、この分野のことに完全に習熟しなければならない。そして、ことし――一九四五年には、これまでよりもいっそう大きな成績をおさめなければならない。これは中国共産党中央が全解放区の全要員と全人民に心から切望するところである。われわれはこの計画が完遂されるよう希望する。


訳注
① 区隊とは当時山西・察哈爾・河北辺区の地方武装組織の骨幹部隊のことである。区隊は軍分区に所属し、数県の遊撃隊を統率していた。一区隊は通常五、六コ中隊からなり、およそ六、七百人であった。

maobadi 2011-01-14 21:11
中国の二つの運命
          (一九四五年四月二十三日)
     これは、毛沢東同志が中国共産党第七回全国代表大会でのべた開会のことはである。

 同志諸君。中国共産党第七回全国代表大会がきょうここに開会された。
 われわれのこの大会は、どんな重要な意義をもっているだろうか。こんどの大会は、全中国四億五千万の人民の運命にかかわる大会だというべきである。中国には二つの運命がある。その一つについては、ある人がすでに本を書いた〔1〕。われわれのこの大会は、中国のもう一つの運命を代表するものであり、われわれもこれについて本を書く〔2〕。われわれのこの大会は、日本帝国主義をうちたおし、全中国人民を解放するためのものである。この大会は、日本侵略者をうちやぶり、新中国を建設する大会であり、全中国の人民を結集し、全世界の人民を結集し、最後の勝利をかちとる大会である。
 現在は時機がひじょうによい。ヨーロッパでは、ヒトラーがうちたおされようとしている。世界の反ファシズム戦争の主要な部分は西方にあるが、そこでの戦争はもうすぐ勝利する。それはソ連赤軍の努力のたまものである。ベルリンではすでに赤軍の砲声がきこえており、まもなく攻めおとされるであろう。東方でも、日本帝国主義をうちたおす戦争が勝利にちかづいている。われわれの大会は、反ファシズム戦争の最後の勝利の前夜にひらかれているのである。
 中国人民のまえには、二つの道、光明の道と暗黒の道とがよこたわっている。中国には二つの運命、光明の中国の運命と暗黒の中国の運命とがある。いま、日本帝国主義はまだうちやぶられていない。日本帝国主義をうちやぶったとしても、やはりつぎのような二つの前途がある。独立、自由、民主、統一、富強の中国、すなわち光明の中国、中国人民の開放された新しい中国か、それとももう一つの中国、半植民地・半封建的な、分裂した、貧弱な中国、すなわちふるい中国か、である。新しい中国か、それともふるい中国か、この二つの前途は依然として中国人民のまえに、中国共産党のまえに、そしてわれわれのこんどの大会のまえによこたわっている。
 日本はまだうちやぶられておらず、日本をうちやぶったのちにもなお二つの前途が存在するということであれば、われわれの活動はどうあるべきか。われわれの任務はなにか。われわれの任務はほかでもなく、おもいきって大衆を立ちあがらせ、人民の力を強大にし、結集できる全国のすべての力を結集して、わが党の指導のもとに、日本侵略者をうちやぶり、光明の新中国を建設し、独立、自由、民主、統一、富強の新中国を建設するためにたたかうことである。われわれは全力をあげて、光明の前途、光明の運命をかちとり、もう一つの暗黒の前途、暗黒の運命に反対すべきである。われわれの任務はこれ以外にない。これがわれわれの大会の任務であり、これがわれわれ全党の任務であり、これが全中国人民の任務である。
 われわれの希望は実現できるだろうか。われわれは、実現できると考える。これを実現する可能性は存在する。なぜなら、現在、われわれには、つぎのようないくつかの条件がそろっているからである。
 第一に、経験のゆたかな、百二十一万の党員を擁する強大な中国共産党がある。
 第二に、強大な解放区があり、この解放区には九千五百五十万の人口、九十一万の軍隊、二百二十万の民兵がいる。
 第三に、全国の広範な人民の支援がある。
 第四に、全世界各国の人民、とくにソ連の支援がある。
 強大な中国共産党、強大な解放区、全国人民の支援、国際的な人民の支援というこうした条件のもとで、われわれの希望は実現できるだろうか。われわれは、実現できると考える。こうした条件は、中国にはいまだかつてなかったものである。これまで長いあいだ、いくらかの条件はあったが、いまほどととのってはいなかった。中国共産党はかつていまほど強大になったことはなかったし、革命根拠地はかつていまほど多くの人口と大きな軍隊をもったことはなかった。日本および国民党の支配する地域の人民のあいだにおける中国共産党の威信も、これまでになく高まっているし、ソ連や各国人民の革命勢力も、これまでになく大きくなっている。これらの条件のもとでは、侵略者をうちやぶり、新中国を建設することは、まったく可能だというべきである。
 われわれには正しい政策が必要である。この政策の基本点は、おもいきって大衆を立ちあがらせ、人民の力を強大にして、わが党の指導のもとに、侵略者をうちやぶり、新中国を建設することである。
 中国共産党は、一九二一年に誕生してから、すでに二十四年になるが、その間に、北伐戦争、土地革命戦争、抗日戦争という、英雄的にたたかった三つの歴史的時期をへて、豊富な経験をつんできた。いまでは、わが党は、すでに中国人民の抗日救国の重心となり、中国人民の解放の重心となり、侵略者をうちやぶり、新中国を建設する重心となっている。中国の重心は、他のいかなる側にもなく、われわれの側にある。
 われわれは、現在、全国人民を結集して日本侵略者にうち勝つために、また、将来、全国人民を結集して新民主主義の国家をうちたてるために、謙虚で、慎重で、おごりをいましめ、あせりをいましめ、誠心誠意、中国人民に奉仕すべきである。われわれがそのようにし、正しい政策をもち、一致して努力しさえすれば、われわれの任務はかならず達成できる。
 日本帝国主義を打倒しよう!
 中国人民の解放万歳!
 中国共産党万歳!
 中国共産党第七回全国代表大会万歳!



〔1〕 蒋介石が一九四三年に発表した『中国の運命』という本をさす。
〔2〕 毛沢東同志がこの大会のために準備した『連合政府について』という報告をさす。

maobadi 2011-01-14 21:13
連合政府について
          (一九四五年四月二十四日)
     これは、毛沢東同志が中国共産党第七回全国代表大会でおこなった政治報告である。


     一 中国人民の基本的要求

 われわれの大会はつぎのような状況のもとでひらかれている。中国人民が日本侵略者にたいし、八年ちかいあいだ断固とした、英雄的な、不撓不屈のたたかいをおこない、数かぎりない苦難と自己犠牲をへたのち、新しい局面、つまり、全世界におけるファシスト侵略者反対の神聖な正義の戦争がすでに決定的意義をもつ勝利をおさめ、中国人民が連合国と協同して日本侵略者をうちやぶる時機がすでにまじかに追っている、という局面があらわれた。ところが、中国はいま依然として団結していないし、中国には依然として重大な危機が存在している。このような状況のもとで、われわれはどうすべきだろうか。疑いもなく、中国がさしせまって必要としているのは、各党各派や無党無派の代表的人物を結集して、民主的な臨時の連合政府を樹立することであり、それによって民主改革をおこない、当面の危機を克服し、全中国の抗日の力を動員、統一し、連合国との協同作戦を強力におこない、日本侵略者をうちやぶって、中国人民を日本侵略者の手から解放するのである。そうしたのちは、広範な民主主義の基礎のうえに、国民代表大会を招集し、各党各派や無党無派のより広範囲な代表的人物をふくむ、おなじく連合的性格の民主的な正式の政府を樹立することであり、それによって、解放後の全国人民を指導し、中国を独立、自由、民主、統一、富強の新国家にきずきあげるのである。一言でいえば、団結と民主の路線をあゆんで、侵略者をうちやぶり、新中国を建設することである。
 われわれは、こうすることによってはじめて、中国人民の基本的要求が反映されると考える。したがって、わたしの報告では、主として、これらの要求について検討する。中国に民主的な連合政府を樹立すべきかどうかの問題は、すでに中国人民ならびに連合国の民主的言論界にとって大きな関心事となっている。したがって、わたしの報告では、この問題に重きをおいて説明することにしよう。
 中国共産党は、八年間の抗日戦争で、すでにいくたの困難を克服し、巨大な成果をおさめた。しかし、当面の情勢のもとでは、わが党と人民のまえに、なお重大な困難がよこたわっている。当面の時局は、わが党にたいし、緊急な、より着実な活動を一歩すすんでおこない、ひきつづき困難を克服して、中国人民の基本的要求を実現するために奮闘することをもとめている。

     二 国際情勢と国内情勢

 中国人民は、われわれがいま提起したような基本的要求を実現できるだろうか。それは中国人民の自覚、団結、努力の程度いかんによってきまる。だが、当面の国際、国内情勢は中国人民にきわめて有利な条件を提供している。中国人民が、もしこれらの条件をよく利用し、積極的に、断固として、一段と奮闘をつづけるなら、侵略者にうち勝ち、新中国を建設できることは、少しも疑う余地がない。中国人民はいっそう努力し、自己の神聖な任務を達成するために奮闘しなければならない。
 当面の国際情勢はどうか。
 当面の軍事情勢をみると、ソ連軍はすでにベルリンを攻撃し、イギリス、アメリカ、フランスの連合軍も、いまそれに呼応してヒトラーの残存部隊に打撃をくわえており、イタリア人民もすでに蜂起している。これらのすべてによって、ヒトラーは最後的に消滅されるであろう。ヒトラーが消滅されたのちには、日本侵略者のうちやぶられる日もそう遠くはない。内外の反動派の予想に反して、ファシスト侵略勢力はかならず打倒され、人民の民主勢力はかならず勝利する。世界は進歩にむかってすすむのであり、けっして反動にむかってすすむのではない。もちろん、歴史の過程では、一時的な、ひいては重大な、若干の曲折がなお生ずる可能性があること、また、多くの国では、自国の人民や外国の人民が団結、進歩、解放を獲得するのを心よくおもわない反動勢力がなお強大であることを考えに入れて、十分警戒心をたかめるべきである。こうしたことを無視するものは、政治的にあやまりをおかすであろう。だが、歴史の全般的な趨勢《すうせい》はすでに定まっており、それを変えることはできない。このような状況は、ファシストと事実上それを助けている各国の反動派にとって不利であるだけで、すべての国の人民およびその組織された民主勢力にとっては、いずれも福音である。人民、ただ人民のみが世界の歴史を創造する原動力である。ソ連人民は強大な力を創造し、ファシスト打倒の主力軍の役をになった。ソ連人民の努力に他の反ファシズム連合国の人民の努力がくわわって、ファシスト打倒を可能にした。戦争は人民を教育した。人民は戦争の勝利をかちとり、平和をかちとり、そして進歩をかちとるであろう。
 この新しい情勢は、第一次世界大戦時代の情勢とは大いに異なっている。当時は、まだソ連が存在せず、また多くの国の人民もいまほど自覚してはいなかった。二度の世界大戦はまったく異なった二つの時代なのである。
 ファシスト侵略国がうちやぶられ、第二次世界大戦が終結し、国際平和が実現したのちには、闘争がなくなるというのではない。広範に散在するファシスト残存勢力は、かならずまた攪乱《かくらん》するにちがいない。ファシズム侵略戦争に反対する陣営内にも、民主に反対し他民族を抑圧する勢力が存在しており、かれらは依然として各国人民や植民地、半値民地を抑圧するであろう。したがって、国際平和が実現したのちでも、依然として反ファシズム人民大衆とファシスト残存勢力との闘争、民主と反民主との闘争、民族解放と民族抑圧との闘争が、世界の大部分の地域にひろがるであろう。長期の努力をつうじて、ファシスト残存勢力、反民主勢力およびすべての帝国主義勢力にうち勝ってのみ、もっとも広範な人民の勝利がえられるのである。その日のくるのは、けっしてはやくはないし、たやすくもないが、しかし、その日はかならずくる。反ファシズムの第二次世界大戦の勝利は、戦後のこの人民闘争の勝利に道をひらくのである。この後者の闘争で勝利してこそ、強固な恒久的な平和が保障されるのである。
 当面の国内情勢はどうか。
 中国の長期の戦争は中国人民に重大な犠牲を払わせたし、また、これからも払わせるであろう。しかし、同時に、中国人民をきたえたのはまさにこの戦争であった。この戦争が中国人民の自覚と団結をうながした度合いからいって、この百年らいの中国人民のあらゆる偉大な闘争のなかで、これにくらべられるものは一つもない。中国人民のまえには、強大な民族の敵が存在しているばかりでなく、民族の敵を事実上たすけている強大な国内反動勢力が存在しているということ、これが一つの面である。だが、もう一つの面では、中国人民はすでに、過去のどの時期よりも高い自覚をもっているばかりでなく、強大な中国解放区と日ましに高揚しつつある全国的な民主運動をもっている。これは国内の有利な条件である。中国の百年らいの人民の闘争はすべて失敗、あるいは挫折《ざせつ》したが、これは国際、国内の必要な若干の条件が欠けていたためであったとするなら、こんどはそれとちがって、これまでのどの闘争よりもすべての必要な条件がそなわっているのである。失敗を避け、勝利をうる可能性は十分に存在する。もし、全国人民を結集して奮闘努力し、これを適切にみちびくなら、われわれは勝利することができる。
 中国人民が団結して侵略者をうちやぶり、新中国を建設するという確信は、いまや非常につよまっている。中国人民がすべての困難を克服して、偉大な歴史的意義をもつ基木的要求を実現する時機はすでに到来している。この点にまだ疑問があるだろうか。わたしはないとおもう。
 以上が当面の国際、国内の一般情勢である。


三 抗日戦争における二つの路線


   中国問題の鍵

 国内情勢にかんしていえば、われわれは、さらに中国の抗日戦争について、具体的な分析をくわえるべきである。
 中国は世界で反ファシズム戦争に参加しているもっとも大きな五つの国の一つであり、アジア大陸で日本侵略者とたたかっている主要な国である。中国人民は抗日戦争できわめて大きな役割をはたしたばかりでなく、戦後の世界平和を保障するうえでもきわめて大きな役割をはたすであろうし、東方の平和を保障するうえでは決定的な役割をはたすであろう。中国は八年にわたる抗日戦争において、自己を解放するために、また、連合諸国を援助するために、偉大な努力をはらってきた。この努力は主として中国人民の側にぞくするものである。中国の軍隊の広範な将兵は前線で血を流して戦い、中国の労働者、農民、知識層、実業界は後方で仕事にはげみ、海外華僑は私財をさしだして戦争をたすけ、すべての抗日政党は、一部の反人民分子をのぞけば、いずれも戦争のためにつくすところがあった。要するに、中国人民は、自己の血と汗をもって、八年ものあいだ、日本侵略者と英雄的に戦ってきた。ところが、中国の反動分子は多年らい、抗日戦争で中国人民がはたしてきた役割の真相を世間に知らせまいとして、デマをとばし、世論を欺いてきた。同時に、中国の八年にわたる抗日戦争の各方面の経験について、まだ全面的な総括もされていない。したがって、われわれの大会は、人民を教育するとともに、わが党の政策決定のよりどころとするため、これらの経験について適切な総括をおこなうべきである。
 経験の総括についていうなら、だれもがはっきり見てとることができるように、中国には二つの異なった指導路線がある。一つは日本侵略者をうちやぶることのできる路線であり、一つは日本侵略者をうちやぶれないばかりか、いくつかの面からいって、事実上日本侵略者をたすけ、抗日戦争に危害をあたえている路線である。
 国民党政府は、日本にたいしては消極的な作戦をおこなう政策をとり、国内にたいしては積極的に人民を蹂躙《じゅうりん》する反動政策をとって、戦争の挫折、国土の大量の喪失、財政経済の危機、人民の被抑圧、人民の生活苦、民族の団結の破壊をまねいている。このような反動政策は、中国人民のあらゆる抗日の力を動員し統一して戦争を効果的に遂行することをさまたげ、中国人民の自覚と団結をさまたげている。だが、中国人民の自覚と団結の運動は停止することなく、日本侵略者と国民党政府の二重の抑圧のもとで、曲折しながら発展している。二つの路線、すなわち中国人民を抑圧して消極的抗戦をおこなう国民党政府の路線と、自覚し団結して人民戦争をおこなう中国人民の路線とは、はやくから、はっきりと中国に存在してきた。すべての中国問題の鍵《かぎ》はここにある。

曲折した道をたどってきた歴史

 この二つの路線の問題がなぜすべての中国問題の鍵であるかをあきらかにするには、われわれの抗日戦争の歴史をさかのぼってみなければならない。
 中国人民の抗日戦争は曲折した道をたどって発展してきた。この戦争は、はやくも一九三一年にはじまっていた。日本侵略者は、一九三一年九月十八日に瀋陽《シェンヤン》を占領し、数ヵ月のうちに東北三省を占領した。国民党政府は無抵抗政策をとった。だが、東北三省の人民、東北三省の一部の愛国的な軍隊は、中国共産党の指導または援助のもとに、国民党政府の意志にそむいて、東北三省の抗日義勇軍と抗日連合軍を組織し、英雄的な遊撃戦争をおこなった。この英雄的な遊撃戦争は、一時は大きな規模にまで発展し、その後多くの困難や挫折をへたが、終始敵に消滅されることはなかった。一九三二年、日本侵略者が上海《シャンハイ》に進攻したとき、国民党内の愛国者の一派は、ふたたび国民党政府の意志にそむき、十九路軍をひきいて日本侵略者の進攻に抵抗した。一九三三年、日本侵略者が熱河《ローホー》、察哈爾《チャーハール》に進攻してくると、国民党内の他の愛国者の一派は、みたび国民党政府の意志にそむいて、共産党と協力し、抗日同盟軍を組織して抵抗した。ところが、これらすべての抗日の戦いには、中国人民、中国共産党、その他の民主的諸党派および海外の愛国的な華僑が援助をあたえただけで、国民党政府は、その無抵抗政策にもとづいて、なんらの援助をもあたえなかった。それどころか、上海と察哈爾での抗日行動は、どちらも、国民党政府の手で破壊された。一九三三年、十九路軍が福建《フーチェン》省で樹立した人民政府もまた国民党政府によって破壊された。
 当時の国民党政府はなぜ無抵抗政策をとったのか。その主な原因は、一九二七年、国民党が国共両党の協力を破壊し、中国人民の団結を破壊したことにある。
 一九二四年、孫中山《スンチョンシャン》先生は中国共産党の提案をうけいれて、共産党員の参加する国民党第一回全国代表大会を招集し、連ソ、連共、農労援助の三大政策を定め、黄埔《ホヮンプー》軍官学校を開設し、国共両党および各界人民の民族統一戦線を実現した。これによって、一九二四年から一九二五年には広東《コヮントン》の反動勢力が一掃され、一九二六年から一九二七年には北伐戦争が勝利のうちにすすめられ、長江《チャンチァン》流域と黄河《ホヮンホー》流域の大部分がわが手にはいり、北洋軍閥政府がうちやぶられ、中国史上空前の大規模な人民解放闘争がまきおこされた。だが、一九二七年、春から夏にうつるとき、北伐戦争がまさに発展しつつあった重大な時機に、中国人民の解放事業を代表する、この国共両党および各界人民の民族統一戦線とそのすべての革命政策は、国民党当局の背反的、反人民的な「党内粛清」政策と虐殺政策によって破壊されてしまった。きのうの同盟者――中国共産党と中国人民は仇敵《きゅうてき》とみなされ、きのうの敵――帝国主義者と封建主義者は同盟者とみなされるにいたった。このようにして、中国共産党と中国人民にたいする信義をふみにじった突然の襲撃がくわえられ、活気にみちあふれていた中国大革命は葬りさられた。それ以後、内戦が団結にとってかわり、専制が民主にとってかわり、暗黒の中国が光明の中国にとってかわった。だが、中国共産党と中国人民は威圧もされず、征服もされず、根絶もされなかった。かれらは地面からたちあがり、からだの血のりをぬぐいさり、仲間のしかばねを葬ると、ふたたび戦闘をつづけた。かれらは革命の旗を高くかかげて、武力による抵抗をおこない、中国の広大な地域で、人民の政府を組織し、土地制度の改革を実行し、人民の軍隊――中国赤軍を創設し、中国人民の革命勢力を保持し発展させた。国民党反動分子によって投げすてられた孫中山先生の革命的三民主義は、中国人民、中国共産党およびその他の民主的な人びとによってうけつがれた。
 日本侵略者が東北三省に侵入したのち、中国共産党は一九三三年に、革命根拠地および赤軍を攻撃していたすべての国民党軍にたいし、一致して抗日するために、攻撃を停止すること、人民に自由の権利をあたえること、人民を武装すること、という三つの条件のもとに停戦協定を結ぶよう提案した。しかし、国民党当局はこの提案を拒否した。
 このあと、一方では、国民党政府の内戦政策がますます狂気じみてきたが、他方では、内戦停止、一致抗日を要求する中国人民のさけびがますます高まってきた。人民のさまざまな愛国的な組織が上海その他の多くの地方でつくられた。一九三四年から一九三六年までに、長江の南北各地の赤軍主力は、わが党中央の指導のもとに、あらゆる苦難をかさねて西北地方に移動し、西北地方の赤軍と合流した。この二年間、中国共産党は新しい情勢に即応して、団結抗日と新民主主義共和国樹立を奮闘目標とする、抗日民族統一戦線の新しい、系統だった政治路線を決定し、これを実行した。一九三五年十二月九日、北平《ペイピン》の学生はわが党の指導のもとに英雄的な愛国運動をおこし、中華民族解放先鋒隊〔1〕を結成し、さらに、この愛国運動を全国の各大都市におしひろめた。一九三六年十二月十二日、国民党内の抗日を主張する二派の愛国者――東北軍と十七路軍は、連合して国民党当局の対日妥協と対内虐殺の反動政策に勇敢に反対し、有名な西安《シーアン》事変①をおこした。また、国民党内の他の愛国者も国民見当局の当時の政策に不満であった。このような情勢のもとで、国民党当局はやむなく内戦政策をすて、人民の要求をみとめた。西安事変の平和的解決は、新しい情勢のもとでの国内の協力関係がつくられ、全国的な抗日戦争がまきおこされる時局転換のかなめとなった。蘆溝橋《ルーコウチァオ》事変②の前夜、すなわち一九三七年五月に、わが党は歴史的な意義をもつ全国代表者会議を招集した。この会議は、党中央の一九三五年いらいの新しい政治路線を承認した。
 一九三七年七月七日の踵溝橋事変から一九三八年十月の武漢陥落までの時期には、国民党政府は対日作戦に比較的力を入れた。この時期には、日本侵略者の大がかりな進攻と全国人民の民族的な怒りの高まりによって、国民党政府はその政策の重点をまだ日本侵略者反対にむけており、このため全国の軍隊と人民の抗日戦争の高まりが比較的順調に形成されて、一時は活気にみちた新しい気運があらわれていた。当時、全国人民、われわれ共産党員、その他の民主政党は、みな国民党政府にきわめて大きな期待をよせていた。つまり国民党政府がこの民族の危機と人心奮起の時機にあたって、民主改革を断行し、孫中山先生の革命的三民主義を実行にうつすことを期待していたのである。だが、この期待ははずれてしまった。この二年においても、国民党当局は、一方では比較的積極的な抗戦をおこなったが、他方では依然として、広範な民衆を動員した人民戦争に反対し、人民の自発的な団結による抗日と民主の活動を制限した。国民党政府は、一方では中国共産党およびその他の抗日諸政党にたいする態度を、過去にくらべて多少あらためはしたが、他方では依然として、各政党に平等な地位をあたえず、いろいろ手をつくしてその活動を制限した。数多くの愛国的政治犯も釈放されはしなかった。もっとも主要なことは、国民党政府が依然として、一九二七年に内戦をおこしたときからの寡頭独裁制度を保ちつづけており、挙国一致の民主的な連合政府をいまなお樹立できないでいることである。
 すでにこの時湖のはじめ、われわれ共産党員は、勝利にみちびく人民の全面的な戦争か、それとも、敗北に終わる人民抑圧の一面的な戦争か、という中国の抗日戦争の二つの路線を指摘した。われわれはさらに、戦争は長くつづき、多くの苦難をもたらすにちがいないこと、だが、中国人民の努力によって、最後の勝利はかならず中国人民のものとなることを指摘した。

人民戦争

 この時期には、中国共産党の指導する、西北地方に移動した中国赤軍の主力は、中国国民革命軍第八路軍に編成がえし、長江の南北各地にふみとどまっていた中国赤軍遊撃部隊は、中国国民革命由新綿第四軍に編成がえして、あいついで華北、車中の戦いにおもむいた。内戦の時期の中国赤軍は、北伐の時期の苗補軍百学校および国民革命軍の民主的伝統を保持し発展させ、一時は数十万にまで拡大した。だが、南方各根拠地にたいする国民党政府の残酷な蹂躙のために、また万里の長征のさいの損耗およびその他の原因のために、抗日戦争がはじまったときには、その数はわずか数万人に減少していた。そこで、一部の人はこの軍隊をみくびり、抗日は主として国民党にたよるべきだと考えた。だが、人民は最良の判定者である。かれらは、八路軍、新四軍は当時、数こそすくなかったが質は高く、其の人民戦争をおこなえるのはこの軍隊だけであること、この軍隊がひとたび抗日の前線におもむいてその土地の広範な人民と結びついたなら、限りない前途がひらけることを知っていた。人民は正しかったのである。わたしがここで報告している現在、われわれの軍隊はすでに九十一万人に発展しており、農村にいて生産労働からはなれない民兵は二百二十万以上に発展している。いまのわれわれの正規の軍隊は、国民党の現存の軍隊(中央系も地方系③もふくめて)よりも数のうえではずっとすくないにもかかわらず、迎えうっている日本軍とかいらい軍の数やひきうけている戦場の広さからいっても、戦闘力からいっても、広範な人民の呼応のもとに戦っていることからいっても、また政治的な質や内部的な統一と団結などの状況からいっても、すでに中国抗日戦争の主力軍となっている。
 この軍隊が強力なのは、この軍隊に参加しているすべての人がみな自覚的な規律をそなえているからであり、少数の人または狭隘《きょうあい》な集団の私的利益のためにではなく、広範な人民大衆の利益のため、全民族の利益のために、結集し戦っているからである。しっかりと中国人民の側にたって、誠心誠意、中国人民に奉仕すること、これがこの軍隊の唯一の目的である。
 こうした目的から、この軍隊は勇往邁進《まいしん》の精神をそなえている。この軍隊はあらゆる敵を圧倒するのであり、けっして敵に屈服するようなことはない。いかなる艱難《かんなん》辛苦の状態にあっても、生き残っているものが一人でもいるかぎり、戦いつづけるのである。
 こうした目的から、この軍隊は内外ともにりっぱに団結している。内部では、将兵のあいだ、上級と下級のあいだ、軍事活動、政治工作と後方勤務活動とのあいだで一致団結しているし、外部にたいしても、軍隊と人民のあいだ、軍隊と政府のあいだ、わが軍と友軍のあいだで一致団結している。団結をさまたげるすべての現象は、克服しなければならないものとされている。
 こうした目的から、この軍隊は敵軍の将兵を味方に獲得し、捕虜を取り扱ううえでの正しい政策をもっている。敵側から帰順してくるもの、蜂起してくるもの、あるいは武装解除されたあと共通の敵とのたたかいに参加することをのぞむものにたいしては、これを一様に歓迎し、これに適当な教育をほどこす。どの捕虜にたいしても、殺害し、虐待し、侮辱することをゆるさない。
 こうした目的から、この軍隊は人民戦争の必要とする一連の戦略戦術をつくりあげている。この軍隊は変化する具体的条件におうじて弾力性にとむ機敏な遊撃戦争をおこなうことに長じており、また運動戦にも長じている。
 こうした目的から、この軍隊は人民戦争の必要とする一連の政治工作の制度をつくりあげている。その任務は、わが軍を団結させ、友軍と団結し、人民と団結し、敵軍を瓦解《がかい》させ、戦闘の勝利を保障するためにたたかうことである。
 こうした目的から、遊撃戦争の条件のもとで、全軍は、経済困難の克服、軍隊生活の改善、人民の負担の軽減のために、戦闘と訓練の合い間を利用し、食糧および日用必需品の生産に従事して、軍隊の自給、半自給または部分的自給を達成することができるし、またすでにそのようにしている。各軍事根拠地でも、あらゆる可能性を利用して、すでに多くの小規模な軍事工業を建設している。
 この軍隊が強力なのは、また、人民自衛軍や民兵のような広範な大衆の武装組織がそれと呼応して戦っているからである。中国解放区では、すべての青壮年男女が、自由意志の原則、民主の原則、生産労働からはなれないという原則のもとに、抗日の人民自衛軍のなかに組織されている。自衛軍のなかの精鋭は、軍隊と遊撃隊に参加したもの以外は、民兵の隊伍に組織されている。これらの大衆の武装力の呼応がなければ、敵にうち勝つことは不可能である。
 この軍隊が強力なのは、また、自分を主力兵団と地方兵団の二つの部分にわけており、前者はいつでも超地方的な作戦任務を遂行することができ、後者は民兵、自衛軍と協同して地方を防衛し、その地方の敵を攻撃することが任務とされているからである。このような分けかたは人民の心からの支持をえている。もし、このような正しい分けかたをしないなら、たとえば、主力兵団の役割に心をそそぐだけで、地方兵団の役割を無視するなら、中国解放区の条件のもとで、敵にうち勝つことはやはり不可能である。地方兵団の面では、りっぱな訓練をうけていて、軍事、政治、民衆運動などの活動のうえでいずれもいっそう健全な武装工作隊④がたくさん組織されている。これらの工作隊は、敵後方にある敵後方に深くはいり、敵に打撃をあたえ、民衆の抗日闘争をまきおこして、各解放区の正両戦線の戦いに呼応し、大きな成果をおさめている。
 中国解放区では、民主政府の指導のもとに、すべての抗日の人民にたいし、労働者、農民、青年、婦人、文化の各団体、およびその他の職業団体、大衆団体に参加して、軍隊を援助するさまざまな活動を熱心におこなうようよびかけている。これらの活動には、軍隊への参加、軍隊のための食糧運搬、抗日軍人家族の優遇、軍隊の物質的困難解決への援助に人民を動員することがふくまれるばかりでなく、さらに、襲撃運動と爆破運動の展開、政情の偵察《ていさつ》、奸徒《かんと》の粛清、負傷兵の後送と保護、軍隊の作戦への直接的援助に遊撃隊、民兵、自衛軍を動員することもふくまれる。同時に、全解放区の人民はまた政治、経済、文化、衛生などのさまざまな建設の仕事に熱心に従事している。この面でもっとも重要なことは、長期の抗日戦争をささえるために、全人民を食糧と日用品の生産に動員するとともに、すべての機関、学校でも特殊な事情のあるもののほかは一律に、仕事または学習の余暇に生産自給にたずさわらせ、それによって、人民と軍隊の生産自給に協力させ、偉大な生産の高まりをもりあげることである。中国解放区では、敵による破壊がきわめてひどく、水害、干害、虫害もつねに発生している。しかし、解放区の民主政府は、抗日戦争を長期にわたって堅持できるよう、全人民を指導してさまざまな困難を組織的に克服してきたし、また克服しつつあるのであって、イナゴの撲滅、治水、災害救済の偉大な大衆運動で史上に前例のない効果をあげている。要するに、すべては前線のために、すべては日本侵略者の打倒と中国人民の解放のためにということ、これが中国解放区の軍民全体の全般的スローガンであり、全般的方針である。
 これが真の人民戦争である。このような人民戦争によってのみ、民族の敵にうち勝てるのである。国民党が敗北しているのは、必死になって人民戦争に反対しているからである。
 中国解放区の軍隊は、ひとたび新式兵器によって装備されるなら、いっそう強大になり、日本侵略者を最後的にうちやぶることができる。

 二つの戦場

 中国の抗日戦争は、最初から、二つの戦場、すなわち国民党の戦場と解放区の戦場とにわかれている。
 一九三八年十月、武漢陥落後、日本侵略者は、国民党の戦場にたいする戦略的な進攻を停止し、しだいにその主要な軍事力を解放区の戦場にうつした。同時に、かれらは国民党政府の敗北的気分に焦点をあわせて、国民党政府と妥協的講和をはかる用意があると言明し、また、売国奴汪精衛《ワンチンウェイ》を重慶《チョンチン》から誘いだし、南京《ナンチン》にかいらい政府を成立させて、民族的欺瞞《ぎまん》政策を実施した。このときから、国民党政府は政策を変えはじめ、その重点を対日抗戦からしだいに反共、反人民にうつしてきた。それはまず第一に、軍事面にあらわれた。国民党政府は、対日消極作戦の政策をとって、その軍事力を温存する一方、日本侵略者に解放区を大挙進攻させ、戦争の重荷を解放区の戦場に買わせて、自分自身は「山上に坐して相うつ虎の倒るるを待つ」ようになったのである。
 一九三九年、国民党政府は反動的な「異党活動制限措置法」なるものを実施し、抗戦の初期に人民や抗日諸政党がたたかいとったいくらかの権利をすっかり取り上げてしまった。このときいらい、国民党政府は、国民党支配区では、すべての民主政党、まず第一に、そして主として、中国共産党を地下においこんだ。国民党支配区の各省の監獄や強制収容所は、共産党員、愛国青年および民主主義の戦士でいっぱいになっている。一九三九年から一九四三年秋までの五年間に、国民党政府は三回にわたる大規模な「反共の高まり」をおこして〔2〕、国内の団結を分裂させ、重大な内戦の危機をつくりだした。新四車の「解散」および安徽《アンホイ》省南部の新四軍部隊九千余人の殲滅《せんめつ》という内外を震撼《しんかん》させた事変は、この時期におこったものである。現在にいたるまで、国民党軍が解放区の軍隊を攻撃するという事件はまだやんでいないし、それをやめようとするなんのきざしもみられない。このような状況のもとで、あらゆる中傷や悪罵が国民党反動分子の口から吐かれてきた。「奸党」「奸軍」「奸区」とか、「抗戦を破壊し、国家を危うくする」など、共産党、八路軍、新四軍および解放区を中傷するよび方やきめつけは、みなこれらの反動分子がつくりだしたものである。一九三九年七月七日、中国共産党中央委員会は宣言を発表して、当時の危機にたいし、「抗戦を堅持し、投降に反対せよ。団結を堅持し、分裂に反対せよ。進歩を堅持し、後退に反対せよ」というスローガンをかかげた。こうした時宜に適したスローガンにしたがって、わが党は、五年のあいだに、三回にわたる反動的、反人民的な「反共の高まり」を力づよく撃退し、当時の危機を克服した。
 その数年間、国民党の戦場では、実際には、はげしい戦争はなかった。 日本侵略者のほこ先は、主として、解放区にむけられていた。一九四三年には、中国侵略の日本軍の六四パーセントとかいらい軍の九五パーセントを解放区の軍民が迎えうっていた。国民党の戦場がうけもっていたのは日本軍の三六パーセントとかいらい軍の五パーセントにすぎなかった。
 一九四四年、日本侵略者が大陸交通線の打通作戦をおこなったとき、国民党軍はまったく抵抗する能力がなく、なすところを知らなかった。数ヵ月のうちに、河南《ホーナン》、湖南《フーナン》、広西《コヮンシー》、広東諸省の広大な地域が敵の手におちた。この時だけは、二つの戦場のうけもつ敵の比率に多少の変化がおきた。しかし、わたしがこの報告をおこなっている現在、中国侵略の日本軍(満州の分をのぞく)四十コ師団、五十八万人のうち、解放区の戦場が迎えうっているのは二十ニコ師団半、三十二万人で、全体の五六パーセントをしめているが、国民党の戦場が迎えうっているのはわずか十七コ師団半、二十六万人で、全体の四四パーセントにすぎない。かいらい軍を迎えうっている状況には全然変化がない。
 さらに指摘しなければならないことは、八十万以上にたっするかいらい軍(正規のかいらい軍と地方のかいらい武装部隊をふくむ)の大部分は、国民党の将官にひきいられて敵に投降した部隊か、もしくは敵に投降した国国党の将校によって組織された部隊だということである。国民党反動分子は、これらのかいらい軍が日本侵略者に呼応して中国人民の解放区に反対するよう、事前には、いわゆる「曲線救国」というでたらめな売国論をかれるに提供し、事後にはまた、精神的、組織的にかれらを支持している。そのほかに、なお七十九万七千人にもたっする大量の軍隊をくりだして、陝西《シャンシー》・甘粛《カンスー》・寧夏《ニンシァ》辺区および各解放区を封鎖し攻撃している。国民党政府の報道封鎖政策のもとで、多くの中国人、外国人はこのような重大な状況を知るよしもない。

 中国解放区

 中国共産党の指導する中国解放区には、いま九千五百五十万の人口がある。その地域は、北は内蒙古《ネイモンクー》から南は海南島《ハイナンタオ》にまでたっし、敵のいるところにはほとんど、八路軍、新四軍、その他の人民軍隊が活躍している。この広大な中国解放区には十九の大きな解放区があり、その地域としては、遼寧《リァォニン》、熱河、察哈爾、綏遠《スイユァン》、陝西、甘粛、事夏、山西《シャンシー》、河北《ホーペイ》、河南、山東《シャントン》、江蘇《チァンスー》、浙江《チョーチァン》、安徽、江西《チァンシー》、湖北《フーペイ》、湖南、広東、福建などの省の大部分もしくは小部分がふくまれている。延安《イェンアン》はすべての解放区の指導の中心である。この広大な解放区のうち、黄河以西の陝西・甘粛・寧夏辺区は、人口が百五十万しかなく、十九の解放区のうちの一 つにすぎない。しかも浙江省東部と海南島との両区をのぞけば、人口からいってもっとも小さい解放区である。一部の人は、こうした状況を知らないで、中国解放区とは主として、陝西・甘粛・寧夏辺区のことだと考えている。これは国民党政府の封鎖政策によってもたらされた誤解である。これらすべての解放区では、抗日民族統一戦線の必要とするあらゆる政策が実行され、共産党員と抗日諸政党、無党無派の代表的人物との協力による民選の政府、つまり地方的な連合政府が、すでに樹立されているか、または樹立されつつある。解放区では全人民の力がのこらず動員されている。これらのすべてによって、中国解放区は強敵の圧迫のもとにありながら、また国民党軍から封鎖され攻撃されているという状況のもとにありながら、さらに外部からなんらの援助もうけていないという状況のもとにありながら、厳然としてゆるがず、しかも、日一日と発展していき、敵の占領区を縮小し、自己の地域を拡大して、民主的中国の雛型《ひながた》となっており、連合国と協同して戦い、日本侵略者を駆逐し、中国人民を解放する主要な力となっているのである。中国解放区の軍隊――八路軍、新四軍およびその他の人民軍隊は、対日戦争の作戦で英雄的、模範的な役割をはたしているばかりでなく、抗日民族統一戦線の民主的諸政策を遂行するうえでも模範的な役割をはたしている。一九三七年九月二十二日、中国共産党中央委員会は、「孫中山先生の三民主義は中国がこんにち必要とするものであり、わが党はその徹底的実現のために奮闘するものである」という宣言を発表したが、この宣言は中国解放区において完全に実践されている。

 国民党支配区

 国民党内の主要な支配集団は、専制支配を固持し、消極的な抗日政策と反人民的な国内政策とを実行してきた。このため、かれらの軍隊は半分以下に縮小し、その大部分がほとんど戦闘力をうしなっている。このため、かれら自身と広範な人民とのあいだには深い裂け目が生じて、人民の生活の疲弊《ひへい》、不満の沸騰、蜂起の続発という重大な危機がもたらされている。またこのため、抗日戦争におけるかれらの役割は非常に小さくなったばかりでなく、かれらは中国人民のすべての抗日の力を動員し統一するうえでの障害物となっている。
 なぜ、国民党の主要な支配集団の指導のもとでこのような重大な事態がうまれたのだろうか。それはこの集団が中国の大地主・大銀行家・大買弁層の利益を代表しているからである。これらのごく少数の者が形成している反動層は、国民党政府管轄下の軍事、政治、経済、文化のすべての重要な機構を独占している。かれらは自分たち少数の者の利益を保つことを第一位におき、抗日を第二位においている。かれらは「民族至上」などといってはいるが、その行為は民族のなかの大多数の人民の要求に合致していない。かれらは「国家至上」などといってはいるが、かれらのさしている国家とは、人民大衆の民主国家ではなく、大地主・大銀行家・大買弁層の封建的ファッショ専制国家なのである。したがって、かれらは人民が立ちあがるのをおそれ、民主運動をおそれ、全人民をほんとうに動員した抗日戦争をおそれている。これが、かれらの日本にたいする消極的作戦の政策、国内にたいする反人民、反民主、反共の反動政策の大もとである。かれらはさまざまな面でこのような二面政策をとっている。たとえば、一面では、抗日しながらも、他面では、消極的作戦の政策をとっており、しかも日本侵略者からつねに投降勧誘の対象に選ばれている。一面では、口先で中国経済の発展をとなえながらも、他面では、実際には、官僚資本、すなわち大地主・大銀行家・大貫弁の資本を蓄積し、中国の主要な経済動脈を独占して、農民、労働者、小ブルジョア階級と自由主義ブルジョア階級を残酷に抑圧している。一面では、口先で「民主」を実行し、「政権を国民にかえす」といいながらも、他面では、実際には、人民の民主運動を残酷に抑圧し、民主改革を少しも実行しようとしていない。一面では、口先で「共産党問題は政治問題であり、政治的方法によって解決すべきである」といいながらも、他面では、共産党をかれらのいわゆる「第一の敵」とみなし、日本侵略者は「第二の敵」とみなして、軍事、政治、経済の面から中国共産党を残酷に抑圧しており、まいにち内戦を積極的に準備し、共産党を消滅しようと苦心さんたんしている。一面では、口先で「近代国家」の樹立をとなえながらも、他面では、実際には大地主・大銀行家・大貫弁の封建的ファッショ専制支配を必死になって保持している。一面では、ソ連と形式的に外交関係を保持しながらも、他面では、実際にはソ連を敵視する態度をとっている。一面では、アメリカの孤立派といっしょに「まずアジア、それからヨーロッパ」を合唱して、ファシスト・ドイツの寿命をひきのばし、つまりはすべてのファシストの寿命をひきのばし、中国人民にたいする自己のファッショ支配の寿命をひきのばそうとしながらも、他面では、外交上でうまくたちまわり、自分を反ファシストの英雄に仕立てている。自己矛盾するこのようなさまざまな二面政策はどこからくるかといえば、それは大地主・大銀行家・大買弁の社会層という大もとからきている。
 だが、国民党は複雑な政党である。それは大地主・大銀行家・大賀弁層を代表するこの反動集団によって支配され指導されているとはいえ、全部がこの反動集団そのものだというわけではない。その一部の指導的な人物はこの集団にはぞくしておらず、しかもこの集団から打撃をくわえられたり、排斥されたり、軽視されたりしている。そのうちのすくなからぬ幹部、党員大衆および三民主義青年団の団員大衆は、この集団の指導に満足しているわけではなく、なかにはその指導に反対しているものさえいる。この反動集団によって統御されている国民党の軍隊、国民党の政府機関、国民党の経済機関および国民党の文化機関のなかには、いずれもこのような状況が存在している。これらの軍隊および機関にはすくなからぬ民主的な人びとがふくまれている。この反動集団は、また幾派かにわかれてたがいに闘争しており、厳密な統一体ではない。国民党を反動派一色とみることは、疑いもなく非常に不適当である。

対比

 中国人民は中国解放区と国民党支配区にはっきりした対比をみいだしている。
 事態はまだはっきりしていないとでもいうのだろうか。二つの路線、人民戦争の路線と人民戦争に反対する消極的抗日の路線がある。その結果、一つは中国解放区のように、条件のわるい、外部からの援助の少しもない状態におかれながらも勝利しており、もう一つは国民党支配区のように、きわめて有利な、しかも外国の援助をうけている状態におかれながらも敗北しているのである。
 国民党政府は自分の敗北を武器の欠乏のせいにしている。ではたずねるが、武器が欠乏しているのは国民党の軍隊なのか、それとも解放区の軍隊なのか。中国解放区の軍隊は中国の軍隊のなかでも武器がもっとも欠乏している軍隊であって、かれらは敵の手から武器を奪うか、もっともわるい条件のもとで自分で武器をつくるよりほかないのである。
 国民党の中央系軍隊の武器は地方系の軍隊よりはるかによいではないか。だが、戦闘力をくらべると、中央系の多くは地方系におとっている。
 国民党は広大な人的資源を擁しているが、そのあやまった兵役政策によって、人力の補充は極度に困難になっている。中国解放区は、敵に分割され、戦闘がひんぱんにおこなわれている状況のもとにありながらも、人民の要求にかなった民兵と自衛軍の制度の普遍的な実施によって、また人的資源の濫用と浪費の防止によって、人力は尽きることなく動員できるのである。
 国民党は食糧の豊富な広大な地域を擁しており、毎年七千万担ないし一億担の食糧を人民から供給されているが、その大部分がこれを取り扱う人たちのふところにはいってしまうため、国民党の軍隊はいつも食糧が欠乏し、兵士は飢えてやせこけている。中国解放区の主要な部分は、敵後方に切りはなされ、焼きつくし殺しつくし奪いつくすという敵の「三光」政策に蹂躙されており、なかにはこの陝西省北部のような非常にやせた地域もあるのに、自分の労働によって農業生産を発展させるという方法で、食糧問題をりっぱに解決している。
 国民党地域の経済危機はきわめて深刻で、工業の大部分は破産し、綿布のような日用品までもアメリカから運んでいる。ところが、中国解放区は、工業を発展させるという方法で、綿布やその他の日用品の需要を自分で解決している。
 国民党地域では、労働省、農民、店員、公務員、知識人および文化関係者の生活の苦しさは極点にたっしている。中国解放区の人民はみな食べるものがあり、着るものがあり、仕事がある。
 抗戦を利用して国難成金になり、官吏はすなわち商人である、汚職ははんらんし、廉恥は地を払う、これが国民党地域の特色の一つである。刻苦奮闘し身をもって手本をしめす、仕事のほかになお生産をおこなう、廉潔を奨励し汚職行為を禁絶する、これが中国解放区の特色の一つである。
 国民党地域では人民のすべての自由が奪われている。中国解放区では人民に十分な自由があたえられている。
 国民党支配者はこうした異常な状態に直面して、だれをせめるべきだろうか。他人をせめるべきか、それともかれら自身をせめるべきか。外国の援助が足りないことをせめるべきか、それとも国民党政府の専制支配と腐敗無能をせめるべきか。これがまだわからないとでもいうのだろうか。

「抗戦を破壊し、国家を危うくする」ものはだれか

 まぎれもなく中国人民の抗戦を破壊し中国人民の国家を危うくしているのは、国民党政府ではないとでもいうのか。この政府は、まる十年のあいだひたすら内戦をつづけて、ほこ先を同胞にむけ、すべての国防事業をすててかえりみず、そのうえ無抵抗政策によって東北四省をさしだしてしまった。日本侵略者が山海関《シャンハイコヮン》以南に攻めこんでくると、あわてて応戦し、蘆溝橋から貴州《コイチョウ》省まで退いた。それなのに、国民党の人びとは「共産党が抗戦を破壊し、国家を危うくする」(一九四三年九月の国民党中央執行委員会第十一回全体会議の決議案にみられる)といっている。その唯一の証拠とは、共産党が各界の人民と連合して、英雄的に抗日する中国解放区を創設したということである。これら国民党の人びとの論理は中国人民の論理とこんなにもちがっているのであるから、多くの問題で話が通じないのも不思議ではない。
 ここに二つの問題がある。
 第一は、いったいどういう原因によって、国民党政府は黒竜江《ヘイロンチァン》から蘆溝橋にいたるまで、さらに蘆溝橋から貴州省にいたるまでの、このように広大な国土とこのように多くの人民をなげすてたのかということである。それは国民党政府のとった無抵抗政策、消極的な抗日政策および反人民的な国内政策によるのではないとでもいうのだろうか。
 第二は、いったいどういう原因によって、中国解放区は日本侵略軍およびかいらい軍の長期にわたる残酷な進攻にうち勝ち、民族の敵の手からこのように広大な国土を奪いかえし、このように多くの人民を解放したのかということである。これは人民戦争の正しい路線によるのではないとでもいうのだろうか。

いわゆる「政令、軍令に服従しない」こと

 国民党政府は、またたえず、「政令、軍令に服従しない」ということで、中国共産党を非難している。だが、われわれはつぎのようにいうほかはない。さいわいにも、中国共産党員はまだ中国人民の普通の常識をもっており、中国人民が艱難辛苦のすえ日本侵略者の手から奪いかえした中国解放区を、実際にはふたたび日本侵略者の手にわたすようないわゆる「政令、軍令」には服従していない。たとえば、一九三九年のいわゆる「異党活動制限措置法」、一九四一年のいわゆる「新四軍の解散」ならびに「旧黄河以北への撤退」、一九四三年のいわゆる「中国共産党の解散」、一九四四年のいわゆる「十コ師団以外のすべての軍隊の期限づき解散」、また、最近の交渉で提起された、いわゆる軍隊と地方政府の国民党への移管なるもの、つまり、その交換条件としてただ数人の共産党員が国民党専制政府にはいって官職につくことだけをゆるし、連合政府の樹立はゆるさず、しかもそれを国民党政府の「譲歩」と称するようなやり方などが、そうした「政令、軍令」である。さいわいにも、われわれはそんなものには服従せず、中国人民のためにけがれのない土地を保持し、英雄的に抗日する軍隊を保持してきた。このように「服従しない」ことを、中国人民が慶賀すべきではないとでもいうのか。国民党政府は自分のファッショ的政令と敗北主義的軍令によって、黒竜江から貴州省にいたる広火な土地と人民を日本侵略者にさしだしていながら、まだ足りないとでもおもっているのか。こうした「政令、軍令」を歓迎するのは日本侵略者や反動派だけであって、良心のある愛国的な中国人でこんなものを歓迎する人がいるとでもいうのか。形式的ではなく実際的な、ファッショ専制的ではなく民主的な連合政府ができていないのに、解放をかちとった中国解放区と抗日に功績のある人民軍隊とを、われわれ中国共産党が勝手に敗北主義とファシズムの国民党ファッショ専制政府にひきわたすということを、中国人民がゆるすなどと考えられるだろうか。もし中国の解放区とその軍隊がなかったとすれば、中国人民のこんにちの抗日事業がありえただろうか。わが民族の前途が考えられるだろうか。

内戦の危機

 国民党内の主要な支配集団は、こんにちにいたるまで専制と内戦の反動的方針をとりつづけている。多くの兆候がしめしているように、かれらは、ある連合国の軍隊が中国大陸から日本侵略者をある程度まで駆逐したらすぐに内戦をはじめようと、はやくからそうした行動を準備してきたし、とくに現在ではそうしている。しかもかれらは、イギリスのスコービー将軍〔3〕がギリシアで果たしたような任務を、一部の連合国の将軍たちが中国国内で遂行してくれることをのぞんでいる。かれらはスコービーやギリシア反動政府の大虐殺に歓呼している。かれらは中国をふたたび一九二七年から一九三七年までのような国内戦争の大海になげこもうとたくらんでいる。国民党の主要な支配集団は、現在、「国民大会の招集」とか、「政治的解決」とかの煙幕のかげで、ひそかに内戦の準備をすすめている。もしわが国の人びとがそれに注意せず、その陰謀を暴露せず、その準備を阻止しないなら、ある朝とつぜん内戦の砲声をきくことになるであろう。

 二つの前途

 全体の情勢からみて、また上にのべた国際的、国内的なあらゆる実際状況の分析からみて、わたしが注意をうながしたいのは、われわれの事業がすべて順調に、見事にはこぶなどとは考えないようにということである。たしかに、そんなことはありえない。よい方とわるい方の二つの可能性、二つの前途が存在しているのが事実である。民主改革がゆるされないでファッショ専制支配がつづけられ、重点が日本侵略者への反対におかれないで人民への反対におかれ、たとえ日本侵略者がうちやぶられても、中国には依然として内戦の可能性があり、中国が独立、自由、民主、統一、富強でない、苦痛にみちたむかしどおりの状態にひきもどきれる、これが一つの可能性、一つの前途である。この可能性、この前途は依然として存在している。これは国際情勢がよくなり、国内の人民の自覚がたかまり、組織された人民の力が発展したからといって、存在しなくなるとか、自然に消滅してしまうとかいったようなものではない。中国にこの可能性、この前途が実現するのをのぞんでいるのは、国内では国民党内の反人民集団であり、国外では帝国主義思想をいだく反動分子である。これが一面であり、注意しなければならない一面である。
 だが、他の一面では、おなじく全体の情勢からみて、また上にのべた内外のあらゆる状況の分析からみて、われわれはいっそうの確信と勇気をもって第二の可能性、第二の前途をたたかいとることができる。すなわち、あらゆる困難を克服し、全国人民を結集し、国民党のファッショ専制支配を廃止し、民主改革を実行し、抗日の力を強化拡大し、日本侵略者を徹底的にうちやぶって、中国を独立、自由、民主、統一、富強の新国家にきずきあげることである。中国にこの可能性、この前途が実現するのをのぞんでいるのは、国内では広範な人民、中国共産党および他の民主的諸党派であり、国外ではわれわれを平等に遇するすべての民族、進歩的な人びと、人民大衆である。
 われわれと中国人民は、まだ大きな困難、多くの障害物に直面しており、多くの曲折した道をあゆまなければならないことを、われわれははっきり知っている。だが同様にわれわれは、どのような困難や障害物であっても、全国人民といっしょにかならずそれを克服して、中国の歴史的任務を達成できるということを知っている。全力をつくして、第一の可能性に反対し、第二の可能性をたたかいとり、第一の前途に反対し、第二の前途をたたかいとること、これがわれわれと全国人民の偉大な任務である。国際情勢、国内情勢の主要な面は、われわれと全国人民に有利である。これらの点についてはさきにはっきりとのべておいた。われわれは、国民党当局が世界の大勢のおもむくところ、中国の人心のむかうところを考えて、抗日戦争を勝利させ、中国人民の苦痛を減少させ、新中国を一日もはやく誕生させるために、現在のあやまった諸政策をきっぱりあらためることを希望する。どのように曲折した道をたどろうとも、中国人民の独立解放の任務はかならず達成されるし、しかもその時機がすでにきていることを知るべきである。百余年らい、革命に殉じた無数の戦士のいだいてきた雄大な志は、われわれのこの世代がかならず実現するのであり、だれが阻止しようとしても、とうてい阻止できるものではない。
四 中国共産党の政策

 以上、わたしは中国の抗日戦争における二つの路線について分析した。このような分析はぜひとも必要である。なぜなら、広範な中国人のなかには、いまなお中国の抗日戦争における具体的な状況を知らない人がたくさんいるからである。国民党支配区や外国では、国民党政府の封鎖政策によって多くの人が目かくしされている。一九四四年に、内外新聞記者の視察団が中国解放区にやってくるまでは、外部の多くの人は解放区についてほとんどなにも知らなかった。国民党政府は解放区の真実の状況がもれるのを非常におそれたため、一九四四年にきた新聞記者団が帰ると、ただちに門をとざし、新聞記者を二度と解放区にはいらせなかった。国民党地域の真相についても、国民党政府は同様に封鎖している。したがって、われわれには「二つの地域」の真相をできるだけ人びとにはっきり知らせる責任があるとおもう。中国のすべての状況をはっきりさせてはじめて、中国の二六政党――中国共産党と中国国民党の政策がなぜこのようにちがっているのか、なぜこのように二つの路線のあるそいがあるのかを理解することができる。そうしてはじめて、両党間の論争が一部の人のいうように、必要でない、重要でない論争、あるいは感情的でさえある論争にすぎないものではなくて、数億の人民の死活問題にかかわる原則上の論争であることを、人びとに理解させることができる。
 中国の時局の重大な情勢を前にして、中国人民、中国のすべての民主政党および民主的な人びと、中国の時局に関心をもつすべての外国の人民は、みな、中国の分裂の局面がふたたび団結にむかうことをのぞみ、中国で民主改革がおこなわれることをのぞんでおり、当面の多くの重要問題を解決するうえで中国共産党のとっている政策を知りたがっている。われわれの党員はもちろんこれらの点についていっそう関心をもっている。
 われわれの抗日民族統一戦線の政策は、これまでも明確であったし、八年にわたる戦争の試練をへてきている。われわれの大会はこれについて今後の奮闘の指針となる結論をくだすべきである。
 以下、わたしはわが党が中国問題解決のために重要政策の面でひきだした若干の確定的な結論を説明しよう。

  われわれの一般綱領

 中国人民のすべての抗日の力を動員し統一して、日本侵略者を徹底的に消滅し、独立、自由、民主、統一、富強の新中国を樹立するためには、中国人民、中国共産党およびすべての抗日的な民主政党は、相互に同意した一つの共同綱領をもつことがさしせまって必要である。
 この共同綱領は一般的な部分と具体的な部分との二つにわけられる。われわれはまず一般的な綱領についてのべ、そのあとで具体的な綱領についてのべよう。
 日本侵略者を徹底的に消滅することと新中国を建設することを大前提として、中国の現段階では、われわれ共産党員は、つぎのような基本点で中国の人口の最大多数と一致している。すなわち、第一に、中国の国家制度は大地主・大ブルジョア階級独裁の封建的、ファッショ的、反人民的な国家制度であってはならないということである。なぜならこのような反人民的な制度が完全に破産したことは、国民党の主要な支配集団の十八年間の支配によってすでに立証されているからである。第二に、中国はまた、純然たる民族ブルジョア階級のふるい型の民主主義独裁の国家を樹立することも不可能であり、したがってその樹立をくわだてるべきではないということである。なぜなら中国においては、一方では、民族ブルジョア階級が経済的、政治的に、非常に軟弱だからであり、他方では、中国の政治舞台で強大な能力をしめし、広範な農民階級、都市小ブルジョア階級、知識層およびその他の民主的な人びとを指導している、自覚をもった中国プロレタリア階級およびその指導者――中国共産党という新しい条件がすでにうまれているからである。第三に、中国の社会的、経済的な必要条件がそなわっておらず、中国人民の任務がまだ民族的抑圧と封建的抑圧に反対することにあるという現段階では、中国人民は社会主義の国家制度を実現することも不可能だということである。
 では、われわれの主張はなにか。われわれが主張するのは「日本侵略者を徹底的にうちやぶったのちに、全国の圧倒的多数の人民を基礎とした、労働者階級の指導する、統一戦線の、民主的同盟の国家制度を樹立することである。われわれはこのような国家制度を新民主主義の国家制度とよぶ。
 これは中国の人口の最大多数の要求に真に合致する国家制度である。なぜなら、第一に、それは数百万の産業労働者、数千万の手工業労働者および雇農の同意をえているし、また同意がえられるからである。つぎに、それは中国の人口の八〇パーセント、つまり四億五千万の人口のうち三億六千万をしめる農民階級の同意をえているし、また同意がえられるからである。さらに、それは広範な都市小ブルジョア階級、民族ブルジョア階級、開明紳士およびその他の愛国的な人びとの同意をえているし、また同意がえられるからである。
 もちろん、これらの階級のあいだには、依然として矛盾がある。労資間の矛盾がその顕著な一例である。したがって、これらの階級はそれぞれいくらかの異なった要求をもっている。こうした矛盾を抹殺《まっさつ》し、こうした異なった要求を抹殺することはいつわりであり、あやまりである。だが、こうした矛盾、こうした異なった要求は、新民主主義の全段階をつうじて共通の要求をしのぐほどに発展することはないし、また発展させるべきではない。こうした矛盾やこうした異なった要求は調節することができる。このような調節によって、これらの階級は、共同して、新民主主義国家の政治、経済、文化の建設をなしとげることができる。
 われわれの主張する新民主主義の政治とは、外部からの民族的抑圧をくつがえし、国内の封建主義的、ファッショ的抑圧をとりのぞくことであり、また、これらのものをくつがえし、とりのぞいたのちに、旧民主主義の政治制度を樹立するのではなくて、すべての民主的階級の連合する、統一戦線の政治制度を樹立することである。われわれのこの主張は孫中山先生の革命的主張と完全に一致する。孫先生は、「中国国民党第一回全国代表大会宣言」のなかでつぎのように書いている。「近世各国のいわゆる民権制度は、往々にしてブルジョア階級に専有され、まさしく平民を抑圧する道具になっている。国民党の民権主義についていえば、一般平民の共有するものであって、少数のものが私《わたくし》しうるものではない。」これは孫先生の偉大な政治的指示である。中国人民、中国共産党およびその他のすべての民主的な人びとは、このまったく正しい新民主主義の政治原則を擁護し発揚するために、この指示を尊重してだんここれを実行しなければならず、またこの指示にそむきこれに反対するどのような人びとや集団ともだんこ闘争しなければならない。
 新民主主義の政権組織は、各級の人民代表大会で政治の根本方針を決定し、政府を選挙するという民主集中制をとるべきである。それは民主的であると同時に、集中的である。つまり民主を基礎とした集中であり、集中にみちびかれた民主である。ただこの制度だけが、広範な民主を発揚して各級の人民代表大会に高度の権力をもたせることができ、また、国事を集中的に処理して、各級の政府に、各級の人民代表大会から委託されたすべての事務を集中的に処理させ、人民の必要なすべての民主的活動を保障させることができるのである。
 軍隊およびその他の武装力は新民主主義の国家権力機関の重要な部分であり、それがなければ国家を防衛することはできない。新民主主義国家のすべての武装力は、他の権力機関とおなじように、人民にぞくし人民を保護するものであって、少数のものにぞくし人民を抑圧するふるい型の軍隊、ふるい型の警察などとは、完全に異なる。
 われわれの主張する新民主主義の経済もまた孫先生の原則に合致するものである。土地問題では、孫先生は「耕すものに土地を」ということを主張した。商工業問題では、孫先生はさきにのべた宣言のなかでつぎのようにいっている。「すべて中国人および外国人の企業で、独占的性質をもつか、もしくは規模が大きすぎて私的な力では経営できないもの、たとえば銀行、鉄道、航空事業などのたぐいは、国家がこれを経営管理し、私有資本制度が国民の経済生活を左右できないようにする。これが資本節制の主旨である。」現段階では、経済問題について、われわれは孫先生のこれらの主張に完全に同意する。
 一部の人は、中国共産党員が個性を発展させることに賛成せず、私的資本主義を発展させることに賛成せず、私有財産を保護することに賛成しないのではないかと疑っているが、実際にはそれはまちがっている。残酷にも中国人民の個性の発展を束縛し、私的資本主義の発展を束縛し、広範な人民の財産を破壊しているのは、民族的抑圧と封建的抑圧である。われわれの主張する新民主主義制度の任務は、まさにこうした束縛をとりのぞき、こうした破壊をやめさせ、広範な人民が共同生活のなかでその個性を自由に発展できるよう保障し、「国民の経済生活を左右する」のではなくて国民の経済生活にとって有益な私的資本主義経済が自由に発展できるよう保障し、すべての正当な私有財産を保障することである。
 孫先生の原則と中国革命の経験によれば、現段階における中国の経済は、国家経営、私的経営、協同組合経営の三つによって構成されなければならない。そして、国家経営のその国家とは、けっして「少数のものが私しうる」国家であってはならず、プロレタリア階級の指導のもとに「一般平民の共有する」新民主主義の国家でなければならない。
 新民主主義の文化も、おなじように、「一般平民の共有する」もの、すなわち民族的、科学的、大衆的な文化であるべきで、けっして「少数のものが私しうる」文化であってはならない。
 以上のべたすべてが、現段階において、ブルジョア民主主義革命の全段階において、われわれ共産党員の主張する一般綱領、もしくは基本綱領である。われわれの社会主義制度および共産主義制度についての未来綱領もしくは最高綱領からいえば、これはわれわれの最低綱領である。この綱領を実行すれば、中国を現在の国家および社会の状態から一歩前進させることができる。つまり、植民地・半植民地・半封建の国家および社会の状態から新民主主義の国家および社会に前進させることができるのである。
 この綱領で規定されているプロレタリア階級の政治的指導権、プロレタリア階級の指導下での国営経済および協同組合経済は、社会主義的な要素である。しかし、この綱領を実行するだけではまだ中国を社会主義社会にすることにはならない。
 われわれ共産党員は、もともと自己の政治的主張をかくすようなことはしない。われわれの未来綱領もしくは最高綱領は、中国を社会主義社会および共産主義社会に前進させるものである。これは確定的で少しも疑問の余地がない。わが党の名称とわれわれのマルクス主義の世界観が、この将来の、かぎりなく輝かしい、かぎりなく美しい最高の理想を明確にさししめしている。共産党員はだれでも、入党のときから、現在の新民主主義革命のために奮闘し、将来の社会主義および共産主義のために奮闘するという二つの明確な目標を胸にいだいており、共産主義の敵どもの無知で卑劣な敵視、中傷、悪罵、嘲笑などを意に介していない。われわれはそれらを断固として排撃しなければならない。しかし、善意であるが疑いをもっている人びとにたいしては、排撃するのではなく、善意をもって辛抱づよく説明することである。すべてこれらのことは、きわめて明瞭であり、きわめて確定的であり、少しの曖昧《あいまい》さもないのである。
 だが、すべての中国共産党員、中国のすべての共産主義の支持者は、現段階の目標のために奮闘しなければならない。民族的抑圧と封建的抑圧に反対するために奮闘し、中国人民を植民地・半植民地・半封建の悲惨な運命からぬけ出させるために奮闘し、プロレタリア階級の指導する、農民解放を主要な内容とした、新民主主義の性質、つまり孫中山先生の革命的三民主義の性質をもった、独立、自由、民主、統一、富強の中国を樹立するために奮闘しなければならないのである。われわれは、たしかにこのようにしてきた。われわれ共産党員は広範な中国人民と協同して、このために二十四年のあいだ英雄的に奮闘してきたのである。
 共産党員あるいはその支持者でありながら、もしこの目標のために奮闘せず、もしこのブルジョア民主主義革命を軽視して、それへの努力を少しでもゆるめ、少しでも怠り、少しでも不忠実きや不熱心きをしめし、しかも自分の血と生命をささげる心がまえをもたず、ただ社会主義とか共産主義とかと空談義するだけなら、それは意識しようとしまいと、多かれ少なかれ社会主義と共産主義にそむくことになり、自覚した忠実な共産主義者とはいえなくなる。民主主義をへなければ、社会王義にたっすることはできない。これはマルクス主義の不変の真理である。そして中国では、民主主義のための奮闘はやはり長期にわたるものである。連合し統一した、新民主主義の国家がなく、新民主主義の国家経済の発展がなく、私的資本主義経済と協同組合経済の発展がなく、民族的、科学的、大衆的な文化、すなわち新民主主義文化の発展がなく、何億という人民の個性の解放と個性の発展がなければ、一口にいって、共産党の指導する新しい型のブルジョア的性質をもつ徹底した民主主義革命がなければ、植民地・半値民地・半封建の廃嘘のうえに社会主義社会を建設しようとしても、それはまったくの空想にすぎない。
 一部の人は、なぜ共産党員が資本主義をおそれず、かえって一定の条件のもとでその発展を提唱するのかを理解していない。われわれの答えは簡単である。すなわち、資本主義のある程度の発展が外国の帝国主義と自国の封建主義の抑圧にとってかわることは、ひとつの進歩であるばかりでなく、ひとつの避けられない過程でもある。それはブルジョア階級に有利であるばかりでなく、プロレタリア階級にも有利であり、プロレタリア階級にはいっそう有利であるともいえる。いまの中国によけいなものは、外国の帝国主義と自国の封建主義であって、自国の資本主義ではない。われわれの資本主義はむしろすくなすぎるのである。不思議なことに、中国のブルジョア階級の一部の代弁者は、正面から資本主義発展の主張をかかげる勇気がなく、遠回しにこの問題にふれている。このほかに、中国における資本主義のしかるべき発展を頭から否定し、一気に社会主義にたっすることができるとか、三民主義と社会主義とを「一挙に成功させる」とかといっているものさえある。あきらかにこうしたことは、あるものは中国の民族ブルジョア階級の軟弱性の反映であり、あるものは大地主・大ブルジョア階級の民衆にたいする欺瞞手段である。中国の条件のもとでは、新民主主義の国家制度のもとでは、国有経済、勤労人民の小私有経済および協同組合経済を発展させるほか、国民の経済生活を左右できない範囲で、私的資本主義経済に発展の便宜をあたえなければ、社会の発展にとって有利にはならないということを、われわれ共産党員はマルクス主義の社会発展法則にたいする認識にもとづいてはっきりと知っている。中国共産党員は、いかなる空談義や欺瞞によってもそのさえた頭脳をかきみだされるものではない。
 一部の人は、共産党員が、「三民主義は中国がこんにち必要とするものであり、わが党はその徹底的実現のために奮闘するものである」と言明しているのは、どうも誠実ではないようだと疑っている。これは、われわれの認めている、孫中山先生が一九二四年に「中国国民党第一回全国代表大会宣言」のなかで解釈した三民主義の基本原則が、わが党の現段階における綱領、つまり最低綱領のなかの若干の基本原則と一致しているということを理解していないからである。ここで指摘しなければならないのは、孫先生のこの三民主義とわが党の現段階における綱領とは、ただ若干の基本原則で一致しているだけであって、まったく一致しているものではないということである。わが党の新民主主義の綱領は、もちろん孫先生のものにくらべてはるかに完全である。とくに、孫先生死後のこの二十年間における中国革命の発展によって、わが党の新民主主義の理論、綱領、およびその実践はきわめて大きく発展しており、今後もいっそう大きく発展するであろう。だが、孫先生のこの三民主義はその基本的性質からいえば、それ以前の旧三民主義とは区別される新民主主義の綱領であって、もちろん、これは「中国がこんにち必要とするもの」であり、もちろん「わが党はその徹底的実現のために奮闘するもの」である。中国共産党員にとっては、わが党の最低綱領のために奮闘することと孫先生の革命的三民主義、つまり新三民主義のために奮闘することとは、別々のことではなく、基本的には(あらゆる面においてではない)おなじことである。したがって、中国共産党員が革命的三民主義のもっとも誠実な、もっとも徹底した実現者であるということは、過去と現在においてすでに証明されているばかりでなく、さらに将来においても証明されるであろう。
 一部の人は、共産党が権力をえたのち、ロシアにならってプロレタリア独裁と一党制度をうちたてるのではないかと疑っている。われわれは、いくつかの民主的階級の同盟による新民主主義国家はプロレタリア独裁の社会主義国家とは原則的にちがったものであると答える。われわれのこの新民主主義制度は、プロレタリア階級の指導のもとに、共産党の指導のもとに樹立されるものであるが、新民主主義制度の全期間をつうじて、中国は一階級の独裁および一党による政府機構独占の制度ではありえないし、したがってそうあるべきでないことは、少しも疑問の余地がない。共産党以外のどんな政党、どんな社会集団あるいは個人でも、共産党にたいして敵対的ではなく協力的な態度をとるかぎり、われわれにはそれと協力しない理由はない。ロシアの制度はロシアの歴史から形成されたものである。そこでは、人が人を搾取する社会制度が廃止され、もっとも新しい型の民主主義、すなわち社会主義の政治、経済、文化の制度が実現され、社会主義に反対するすべての政党が人民からみすてられ、ボリシェピキ党だけが人民から支持されている。だからこそロシアのあの局面が形成されたのであって、それはかれらにとってぜひとも必要で、まったく合理的なものである。だが、ボリシェビキ党以外に他の政党が存在しないという条件のもとであっても、ロシアの政権機関で実行されているのは、やはり労働者、農民、知識人の同盟、または党員と非党員の同盟の制度であって、労働者階級あるいはボリシェピキ党員しか政権機関ではたらけないというものではない。中国の現段階の歴史から、中国の現段階の制度が形成されるであろう。われわれにとってぜひとも必要で、まったく合理的な、そしてロシアの制度ともちがう特殊な形態、つまりいくつかの民主的階級の同盟による新民主主義の国家形態と政権形態は、長い時期をへていくうちにうまれるであろう。

    われわれの具体的綱領

 うえにのべた一般綱領にもとづいて、わが党はさらにそれぞれの時期における具体的な綱領をもつべきである。ブルジョア民主主義革命の全段階をつうじて、つまり数十年間にわたって、われわれの新民主主義の一般綱領は変わらない。しかし、この大きな段階のなかのそれぞれの小さな段階では、状況が変化したし、また変化しているので、われわれの具体的綱領があらためられなければならないのは当然のことである。たとえば、北伐戦争の時期、土地革命戦争の時期、また抗日戦争の時期をつうじて、われわれの新民主主義の一般綱領には変化はなかったが、その具体的綱領には、三つの時期に変化があった。それは、三つの時期においてわれわれの敵軍と友軍に変化があったからである。
 現在、中国人民はつぎのような状況におかれている。(一)日本侵略者はまだうちやぶられていない。(二)中国人民は、団結して民主改革を実現することをさしせまって必要としている。それによって、民族の団結を形成し、あらゆる抗日の力をすみやかに動員し統一し、連合国と協同して、日本侵略者をうちやぶるのである。(三)国民党政府は民族の団結を分裂させ、このような民主改革を妨害している。こうした状況のもとで、われわれの具体的綱領、つまり中国人民の当面の要求とはなにか。
 われわれはつぎのような要求が適切であり、また最低限のものであると考える。
 あらゆる力を動員し、連合国と協同して、日本侵略者を徹底的にうちやぶり、国際平和を確立すること。国民党一党独裁を廃止し、民主的な連合政府と連合統帥部を樹立すること。民族の団結を分裂させ人民に反対する親日分子、ファッショ分子、敗北主義分子を処罰して、民族の団結を形成すること。内戦の危機をつくりだす反動分子を処罰して、国内の平和を保障すること。民族裏切り者を処罰し、敵に降伏した将校を討伐し、日本のスパイを処罰すること。人民を弾圧するあらゆる反動的な時務機関と特湾活動を廃止し、強制収容所を廃止すること。人民の言論、出版、集会、結社、思想、信教、身体などの自由を弾圧するあらゆる反動法令を撤廃して、人民に十分な自由の権利をあたえること。すべての民主政党の合法的地位を承認すること。すべての愛国的政治犯を釈放すること。中国解放区を包囲し攻撃しているすべての軍隊を撤退させ、これらの軍隊を抗日の前線へ出動させること。中国解放区のすべての抗日軍隊と民選政府を承認すること。解放区およびその軍隊を拡大強化して、すべての失地を回復すること。被占領区の人民が地下の軍隊を結成して武装蜂起を準備するのを援助すること。中国人民が自発的に武装して郷土と国土を防衛するのをゆるすこと。国民党統帥部に直接指導されて、つねに戦いに敗北し、つねに人民を抑圧し、つねに他系統のものを排斥している軍隊を政治的軍事的に改造し、敗退に責任のある将領たちを処罰すること。兵役制度を改善し、将兵の生活を改善すること。抗日軍人の家族を優遇し、前線の将兵が安心して戦えるようにすること。国のために殉じた戦士の遺家族を優遇し、傷痍《しょうい》軍人を優遇し、退役軍人の生活と就職の問題の解決を援助すること。軍事工業を発展させ、戦争に役立たせること。連合国の武器および財政の援助を各抗日軍隊へ公平に分配すること。汚職官吏を処罰し、廉潔な政治を実現すること。中下級公務員の待遇を改善すること。中国人民に民主的権利をあたえること。人民を抑圧する保甲制度〔4〕を廃止すること。難民を救済し、災害、飢饉《ききん》の救済をすること。大量の救済基金を設置し、被占領区で苦しみにあえいでいる人民を国土回復ののち広範に救済すること。苛酷《かこく》で雑多な税金を廃止し、統一的な累進税を実施すること。農村の改革を実行し、小作料と利子を引き下げ、小作権を適度に保障し、貧しい農民に低利の貸し付けをおこなうとともに、農民を組織して、農業生産の発展を有利にすること。官僚資本を取り締まること。現在の経済統制政策を廃止すること。無制限な通貨膨脹と無制限な物価騰貴を抑止すること。民間工業に資金の借り入れ、原料の購入、製品の販売の便宜をあたえ、民間工業を援助すること。労働者の生活を改善し、失業労働者を救済するとともに労働者を組織して、工業生産の発展を有利にすること。国民党の党化教育〔5〕を廃止して、民族的、科学的、大衆的な文化教育を発展させること。教職員の生活および学問の自由を保障すること。青年、婦人、児童の利益を保護し、勉学の道をうしなった青年を救済するとともに、青年、婦人を組織して、抗日戦争と社会の進歩に有益な諸活動に平等な立場で参加させ、婚姻の自由と男女平等を実現し、青年と児童に有益な学業をうけさせること。国内の少数民族の待遇を改善し、各少数民族に民族自治の権利をあたえること。華僑の利益を保護し、帰国華僑を援助すること。日本侵略者の圧迫をうけて中国に亡命した外国の人民を保護するとともに、日本侵略者に反対するかれらの闘争を援助すること。中ソ両国の関係を改善すること、等々。そして、これらすべてをなしとげるうえでもっとも重要なことは、国民党一党独裁をただちに廃止し、すべての抗日政党および無党無派の代表的人物をふくむ挙国一致の、民主的な、連合的な、臨時の中央政府を樹立することである。この前提条件がなければ、全国的範囲、いいかえれば国民党支配地域で多少ともまじめな改革をおこなおうとしても、それは不可能である。
 これらすべては、中国の広範な人民の声であり、また連合諸国の広範な民主的言論界の声でもある。
 抗日的な民主的諸政党が相互に同意する最低限の具体的綱領はぜひとも必要で、われわれはうえにのべた綱領を基礎としてかれらと話しあう用意がある。各党は異なった要求をもってもよいが、一つの共同の綱領をとりきめるべきである。
 このような綱領は、国民党支配区にとっては、いましばらくのところまだ要求の綱領であり、被占領区にとっては、地下の軍隊を結成して武装蜂起を準備するという項目以外は、そこを奪回したあとでなければ実施できない綱領であり、解放区にとっては、はやくから実施されているし、またひきつづき実施されるべき綱領である。
 うえにのべた中国人民の当面の要求、または具体的綱領のなかには、戦時および戦後の重要な問題が数多くふくまれているので、つぎにそれを説明する必要がある。これらの問題を説明するにあたって、われわれは、国民党の主要な支配集団のいくつかのあやまった観点を批判すると同時に、その他の人びとのいくつかの疑問にも答えることにしよう。


    第一 日本侵略者を徹底的に消滅し、中途での妥協はゆるさない

 カイロ会議〔6〕は日本侵略者に無条件降伏をせまるべきことをきめたが、これは正しい。だが、いま日本侵略者は妥協的な講和をもとめて裏面工作をすすめている。国民党政府内の親日分子も南京かいらい政府をとおして日本の密使と気脈を通じており、それはァ止されていない。したがって、中途で妥協する危険は完全にすぎさったわけではない。カイロ会議はまた東北四省、台湾《タイワン》、澎湖《ポンフー》列島を中国に返すことをきめたが、これはよいことである。だが、国民党政府の現在の政策では、この政府にたよって鴨綠江《ヤールーチァン》岸まで進撃し、すべての失地を回復しようとしても、それは不可能である。このような状況のもとで中国人民はいかにすべきか。中国人民は、日本侵略者を徹底的に消滅するよう国民党政府に要求すべきであり、中途での妥協をゆるしてはなるない。妥協のためのすべての陰謀活動はただちに阻止されなければならない。中国人民は、国民党政府が現在の消極的な抗日政策をあらため、すべての軍事力を積極的な対日作戦につかうよう要求すべきである。中国人民は、連合国との直接の協同作戦、すべての失地の回復のための準備として、自己の軍隊――八路軍、新四軍およびその他の人民軍隊を拡大するとともに、また敵のいるすべてのところで、広範に自発的に抗日武装組織を発展させるべきであり、けっして国民党だけにたよってはならない。日本侵略者をうちやぶることは中国人民の神聖な権利である。反動分子が中国人民のこの神聖な権利を剥奪《はくだつ》し、中国人民の抗日活動を抑圧し、中国人民の抗日の力を破壊しようとするなら、中国人民は、かれらに勧告しても効果がないばあい、自衛の立場に立って断固とした反撃をくわえるべきである。なぜなら、民族の利益にそむく中国反動分子のこのような反動行為は、まったく日本侵略者をたすけるものだからである。


    第二 国民党の一党独裁を廃止し、民主的な連合政府を樹立する

 日本侵略者を徹底的に消滅するためには、全国的範囲で民主改革をおこなわなければならない。だが、それは、国民党の一党独裁を廃止し、民主的な連合政府を樹立しないかぎり不可能である。
 国民党の一党独裁というのは、実際には国民党内の反人民集団の独裁である。この独裁は中国民族の団結の破壊者であり、国民党戦場における抗日の失敗の責任者であり、中国人民の抗日の力を動員し統一するうえでの根本的な障害物である。八年にわたる抗日戦争の痛ましい経験から、中国人民はこの独裁の罪悪をよく知っているので、その即時廃止を要求するのはごく当然のことである。この反人民的な独裁はまた内戦の禍根であり、それをただちに廃止しないなら、内戦の惨禍がふたたびふりかかってくる。
 この反人民的独裁の廃止を要求する中国人民の声はいたるところにひびきわたっており、国民党当局自身も「訓政⑥をくりあげて終わらせる」と公約せざるをえなくなっている。このことから、このいわゆる「訓政」や「一党独裁」がどれほどまでに人心をうしない、威信をおとしているかを知ることができる。「訓政」や「一党独裁」にはなにかのとりえがあるから廃止したり「終わらせ」たりすべきではないといいきるものは、中国にはもう一人もいない。これは当面の時局の大きな変化である。
 「終わらせる」べきであることは確定的で、少しも疑問の余地がない。だが、どのようにして終わらせるかということになると意見がわかれる。一方は、ただちにそれを終わらせて、民主的な臨時の連合政府を樹立せよという。もう一方は、終わらせるのをしばらく待て、「国民大会」を招集して「政権を国民にかえす」が、連合政府にかえすことはできないという。
 これはどういう意味か。
 これはほんとうにやるのと、ごまかしにやるのとの二つのやり方をあらわしたものである。
 一つは、ほんとうのやり方である。つまり民族の団結をとりもどし、日本侵略者をうちやぶるため、ただちに国民党一党独裁の廃止を宣言して、国民党、共産党、民主同盟⑥および無党無派の代表的人物の連合による臨時の中央政府を樹立し、われわれが中国人民の当面の要求としてさきに提起したような民主的な施政綱領を公布することである。こうしたことを討議するために諸政党および無党無派の代表的人物の円卓会議を招集して、協定をむすび、それを実行にうつす。これは団結の方針であって、中国人民は断固としてこの方針を支持している。
 もう一つはごまかしのやり方である。それは広範な人民やあらゆる民主政党の要求をかえりみずに、国民党反人民集団お手盛りのいわゆる「国民大会」を独断的に招集し、その会議で、実際には専制を維持し民主に反対するいわゆる「憲法」を採択し、わずか数十人の国民党員が勝手に委任して、むりやりに人民におしつけた、まったく民意の基礎をもたない、違法の国民政府なるものに合法の衣をきせ、いかにも「政権を国民にかえす」かのようにみせかけながら、実際にはやはり国民党内の反人民集団に「政権をかえす」ことである。もし賛成しないものがあれば、ただちに「民主」を破壊し、「統一」を破壊するものだとして、それに討伐令をだす「理由」にされる。これは分裂の方針であって、中国人民は断固としてこの方針に反対している。
 反人民的なわが英雄諸君がこの分裂方針にもとづいてとろうとしている段どりは、かれら自身を断崖におしやる危険性をもっている。かれらは自分の首に縄をまきつけ、しかもそれを永久にほどけないようにしようとしているが、その縄とは「国民大会」とよばれるものである。かれらの元来の意図は、「国民大会」なるものを万能の宝としてふりかざし、それによって、一つには連合政府の樹立を拒否し、二つには専制支配を維持し、三つには内戦の理由を準備するということにある。だが、歴史の論理はかれらの予期に反した方向にむかい、「もちあげた石で自分の足をうつ」ことになるであろう。現在はだれもが知っているように、国民党支配地域では人民に自由がないし、日本侵略者の占領地域では人民は選挙に参加できない。そして自由のある中国解放区はといえば、国民党政府から認められていない。このような状況のもとでは、いったいどこから国民代表がうまれるのだろうか。いったいどこから「国民大会」がうまれるのだろうか。現在ひらくといってさわいでいるのは、内戦の時期に、つまり八年もまえに国民党専制政府が一手に偽造したあの国民大会なるものである。もしそのような大会がひらかれようものなら、全国人民がこぞって反対するにちがいない。そうなれば、反人民的なわが英雄諸君はどのように結末をつけるつもりなのかうかがいたい。要するに、偽造の国民大会がひらかれようものなら、かれら自身を断崖におしやることにしかならないのである。
 われわれ共産党員は国民党一党独裁を終わらせる二つの段どりを提起する。第一の段どりでは、当面の時期に、各党各派および無党無派の代表的人物の協議をへて、臨時の連合政府を樹立するのであり、第二の段どりでは、将来の時期に、制限のない自由な選挙をへて、国民大会を招集し、正式の連合政府を樹立するのである。要するに、どちらも連合政府であり、参加をのぞむすべての階級とすべての政党の代表を結集して、民主的な共同綱領のもとで、現在の抗日と将来の建国のために奮闘するものである。
 国民党あるいはその他の政党、集団および個人がどのように考えようと、またこれらのものが希望しようとしまいと、意識しようとしまいと、中国はこの道をすすむ以外にない。これは歴史の法則であり、必然的な、避けることのできない趨勢であって、どんな力もそれを逆転させることはできない。
 この問題および民主改革にかんする他のすべての問題について、われわれ共産党はつぎのように声明する。いま国民党当局があやまった政策をいかに固持しているとしても、また時間をひきのばし、世論をごまかす手段としていかに交渉を利用しているとしても、いったんかれらがいまのあやまった政策を放棄することをのぞみ、民主改革をおこなうことに同意しさえすれば、われわれはかれらとの交渉を再開する用意がある。しかし、交渉の基礎は抗日と団結と民主という全般的方針のうえにおかれなければならない。この全般的方針からはなれた方策、構想なるものやその他の空論は、それがどれほど耳ざわりのよいものであってもわれわれは賛成できない。


    第三 人民の自由

 当面の中国人民の自由のための闘争のほこ先は、まず第一に、しかも主として日本侵略者にむけるれている。だが、国民党政府は、人民が日本侵略者とたたかえないように、その自由を奪い、その手足をしばっている。この問題を解決しなければ、すべての抗日の力を全国的範囲で動員し統一することはできない。われわれが綱領のなかで、一党独裁の廃止、連合政府の樹立、特務の廃止、自由を弾圧する法令の撤廃、民族裏切り者、スパイ、親日分子、ファッショ分子、汚職官吏の処罰、政治犯の釈放、民主的諸政党の合法的地位の承認、解放区を包囲し攻撃している軍隊の撤退、解放区の承認、保甲制度の廃止およびその他の多くの経済的文化的要求や民衆運動の要求を提起しているのは、人民のからだにまきつけられている縄をといて、人民に抗日と団結と民主の自由を獲得させるためである。
 自由はだれかから恵まれるものではなく、人民がたたかいとるものである。中国解放区の人民はすでに自由をたたかいとっている。他の地方の人民もこのような自由をたたかいとることができるし、また、たたかいとるべきである。中国人民のたたかいとった自由が多ければ多いほど、組織された民主勢力が大きければ大きいほど、統一的な臨時の連合政府を樹立する可能性はますます大きくなる。このような連合政府がひとたび樹立されたら、今度はその政府が人民に十分な自由をあたえることになり、連合政府の基礎を強固にする。そうしてはじめて、日本侵略者がうちたおされたのちに、全国士で制限のない自由な選挙がおこなわれ、民主的な国民大会がうまれ、統一的な正式の連合政府が樹立されるのである。人民の自由がなければ、真の民選の国民大会はないし、真の民選の政府もない。これでもはっきりしないというのだろうか。
 人民の言論、出版、集会、結社、思想、信教、身体などの自由は、もっとも重要な自由である。中国の国内でそれを徹底的に実現しているのは、解放区だけである。
 一九二五年、孫中山先生はその臨終の遺言のなかでつぎのようにのべた。「余は、国民革命に力を致すことおよそ四十年、その目的は中国の自由、平等をもとめるにあった。四十年の経験を積んで、この目的を達成するためには、民衆をよびさまし、そして、世界でわれらを平等に遇する民族と連合し、ともに奮闘しなければならないことを深く知るにいたった。」孫先生を裏切った不肖の子らは、民衆をよびさますのではなくて、民衆をおさえつけ、民衆の言論、出版、集会、結社、思想、信教、身体などの自由の権利をのこらず奪いさっている。そして、しんけんに民衆をよびさまし、しんけんに民衆の自由の権利をまもる共産党、八路軍、新四軍および解放区にたいしては「奸党」「奸軍」「奸区」よばわりしている。われわれは、このような是非を転倒した時代が早くすぎさることを希望する。このような是非を転倒した期間を長びかせようとするなら、中国人民はがまんできなくなるであろう。


    第四 人民の統一

 日本侵略者を消滅し、内戦を防止し、新中国を建設するためには、分裂した中国を統一した中国に変えなければならない。これは中国人民の歴史的任務である。
 だが、どのように統一するのか。独裁者の専制的な統一か、それとも人民の民主的な統一か。袁世凱《ユァンシーカイ》⑦いらい、北洋軍閥⑧は専制的な統一を強調した。だが結果はどうであったか。これら軍閥の意図に反して、かれらのえたものは統一ではなくて分裂であり、最後にはかれる自身が舞台からころがりおちてしまった。国民党の反人民集団は袁世凱のあゆんだ道を踏襲して、専制的な統一を追求し、まる十年も内戦をつづけたが、その結果は日本侵略者を攻めこませてしまい、自分も峨眉山〔7〕にひっこんでしまった。いままた、山の上でその専制的統一論をわめきたてているが、いったいだれに聞かせるというのか。良心のある愛国的な中国人で、それを聞こうとする人がいるとでもいうのだろうか。十六年にわたる北洋軍閥の支配をつうじ、また十八年におよぶ国民党の専制支配をつうじて、人民はすでに十分な経験を積み、くもりのない目をもっている。人民が必要としているのは独裁者の専制的な統一ではなくて、人民大衆の民主的な統一である。われわれ共産党員は、すでに一九三五年に抗日民族統一戦線の方針を提起しており、一日としてそのために奮闘しない日はなかった。一九三九年、国民党が反動的な「異党活動制限措置法」を実施して、投降、分裂、後退の危機をもたらし、専制的統一論をわめきたてていたときには、われわれはつぎのようにいった。投降に統一するのではなく抗戦に統一するのであり、分裂に統一するのではなく団結に統一するのであり、後退に統一するのではなく進歩に統一するのである。後者のような統一だけが真の統一で、他のすべてのものはにせの統一である〔8〕。その後さらに六年たったが、問題は依然としておなじである。
 人民の自由がなく、人民の民主政治がなくて、統一ができるだろうか。これらのものがあれば、すぐに統一できるのである。自由をかちとり、民主をかちとり、連合政府をかちとる中国人民の運動は、同時に統一をかちとる運動である。われわれが具体的綱領のなかで、自由をかちとり、民主をかちとる多くの要求を提起し、連合政府についての要求を提起したのは、同時にこの目的のためである。国民党内の反人民集団の独裁を廃止し、民主的な連合政府を樹立するのでなければ、国民党支配区でどのような民主改革を実行することも、そこのすべての軍隊と民衆を日本侵略者打倒に動員することもできないばかりでなく、内戦の惨禍をまねくにいたるであろうということ、これは多くの人の常識となっている。国民党内の多くの民主的な人びとをふくめて、政党にぞくするかどうかにかかわりなく、これほど多くの民主的な人びとが一致して連合政府の樹立を要求しているのはなぜだろうか。それはかれらが時局の危機をはっきりとみぬき、こうしないかぎりこの危機を克服することも、団結して敵にあたり団結して国家を建設する目的を達成することもできないということを知っているからである。


    第五 人民の軍隊

 中国人民が自由をもとめ、統一をもとめ、連合政府をもとめ、日本侵略者の徹底的な打倒と新中国の建設をもとめていても、人民の立場にたつ軍隊がなければ、それはできるものではない。徹底的に人民の立場にたつ軍隊としては、いまのところ、解放区にあまり大きくない八路軍と新四軍があるだけで、これではまだまだ足りない。ところが、国民党内の反人民集団は、解放区の軍隊を破壊し消滅しようと苦心さんたんしている。一九四四年、国民党政府は共産党にたいし、解放区の軍隊の五分の四を「期限づきで解散」せよという「提示案」なるものをもちだした。一九四五年、すなわち最近の交渉では、さらに共産党にたいし、解放区の軍隊を全部かれらに引きわたせば、かれらは共産党に「合法的地位」をあたえてやるといった。
 この連中は共産党にたいして、軍隊を引きわたせば自由をあたえてやるという。この説でいけば、軍隊をもたない政党は自由をもっているはずである。ところが、一九二四年から一九二七年にかけて、中国共産党はごくわずかの軍隊しかもっていなかったのに、国民党政府の「党内粛清」政策と虐殺政策がはじまると、自由はあとかたもなくなった。現在の中国民主同盟や中国国民党内の民主的な人びとは軍隊をもっていないが、同時に自由ももっていない。この十八年のあいだ、国民党政府の支配下にある労働者、農民、学生、および進歩をもとめる文化界、教育界、実業界のすべての人びとはみな軍隊をもっていないが、同時に、自由ももっていない。上にあげたこれらの民主政党や人民が自由をあたえられなかったのは、軍隊とやらを組織し、「封建的割拠」とやらを実行し、「奸区」とやらを設置し、「政令、軍令」とやらに違反したためだとでもいうのだろうか。まったくちがう。それとは正反対に、まさにかれらがそうしなかったからである。
 「軍隊は国家のものである」という。まったくそのとおりで、国家にぞくさない軍隊は世界に一つもない。しかし、その国家とはどんな国家か。大地主・大銀行家・大買弁の封建的ファッショ専制の国家か、それとも人民大衆の新民主主義の国家か。中国が樹立すべき国家は新民主主義の国家だけで、それを基礎にして新民主主義の連合政府が樹立されるのである。人民の自由を保障し、外国の侵略者と効果的にたたかうために、中国のすべての軍隊はこの国家のこの政府にぞくすべきである。いつの日か中国に新民主主義の連合政府が出現すれば、中国解放区の軍隊はただちにその政府に引きわたす。だが、国民党のすべての軍隊も同時にそれに引きわたさなければならない。
 一九二四年、孫中山先生は「こんにちより国民革命の新しい時代を画すべきである。……その第一歩は、武力を国民に結びつけることであり、第二歩は、武力を国民の武力にすることである」〔9〕といった。八路軍、新四軍はこの方針を実行して、「国民の武力」、つまり人民の軍隊となったからこそ、戦いに勝つことができたのである。国民党の軍隊は、北伐戦争の前期には、孫先生のいわれた「第一歩」を実行したので戦いに勝った。北伐戦争の後期から現在までのあいだは、その「第一歩」さえすてて、反人民の立場に立ったので、日一日と腐敗堕落していき、「内戦のくろうと」ではあったが、「対外戦争」では「しろうと」でしかなかった。国民党軍隊内の良心のある愛国的なすべての将校は、孫先生の精神を復活させて自己の軍隊を改造するため、立ちあがるべきである。
 ふるい軍隊を改造する仕事では、教育できるすべての将校に適切な教育をほどこして、かれらが正しい観点を学びとり、ふるい観点を一掃し、これからは人民の軍隊のために勤務するよう援助すべきである。
 中国人民の軍隊をつくりあげるために奮闘するのは、全国人民の責任である。人民の軍隊がなければ、人民のすべてはない。この問題については、けっして空談義に終わってはならない。
 われわれ共産党員は、中国の軍隊を改造する事業を支持したいとおもっている。人民と団結して日本侵略者に反対することをのぞみ、中国解放区に反対しないすべての軍隊にたいしては、八路軍と新四軍はそれを自己の友軍とみなし、適切な助力をあたえるべきである。


    第六 土地問題

 日本侵略者を消滅し、新中国を建設するためには、土地制度の改革を実行して、農民を解放しなければならない。孫中山先生の「耕すものに土地を」という主張は、当面のブルジョア民主主義的性質の革命の時代における正しい主張である。
 なぜ、当面の時代の革命を、「ブルジョア民主主義的性質の革命」とよぶのか。それは、この革命の対象が、ブルジョア階級一般ではなく、民族的抑圧と封建的抑圧だからである。この革命でとられる措置が、一般的に私有財産の廃止ではなく、私有財産の保護をめざすものだからである。また、この革命の結果、労働者階級が力を結集して、中国を社会主義の方向へ発展させることができるようになるが、しかし、かなり長期にわたってなお資本主義が適度に発展するようになるからである。「耕すものに土地を」とは、土地を封建搾取者の手から農民の手にうつし、封建地主の私有財産を農民の私有財産に変え、農民を封建的な土地関係から解放し、そうすることによって、農業国を工業国に変える可能性をつくりだすことである。したがって、「耕すものに土地を」という主張は、プロレタリア社会主義的性質の主張ではなく、一種のブルジョア民主主義的性質の主張であり、われわれ共産党だけの主張ではなく、あらゆる革命的民主派の主張である。ただちがう点は、中国の条件のもとでは、われわれ共産党だけが、この主張をとくにしんけんにとりあげ、口でいうだけではなく、実際にそれをおこなっているということである。では、革命的民主派とはどんな人びとだろうか。もっとも徹底した革命的民主派であるプロレタリア階級は別として、農民が最大の革命的民主派である。農民の圧倒的多数、つまり封建的なしっぽを身につけている富農以外は、「耕すものに土地を」を積極的に要求しないものはない。都市小ブルジョア階級も革命的民主派であり、「耕すものに土地を」は農業生産力を発展させるので、かれらにとって有利である。民族ブルジョア階級は動揺する階級である。かれらは市場を必要とするから、やはり「耕すものに土地を」に賛成する。だが、かれらの大半は土地とつながりをもっているので、多くのものは「耕すものに土地を」をおそれるのである。孫中山は中国最初の革命的民主派であり、民族ブルジョア階級の革命派、都市小ブルジョア階級および農村の農民を代表して、武装革命を実行し、「地権の平均」および「耕すものに土地を」という主張を提起した。だが残念ながらかれは、政権をにぎっていたとき、すすんで土地制度の改革を実行しはしなかった。国民党の反人民集団は、政権をにぎると、完全に孫中山の主張にそむいた。現在、「耕すものに土地を」に頑強《がんきょう》に反対しているのは、まさにこの反人民集団である。それはかれらが大地主・大銀行家・大買弁層を代表しているからである。中国にはただ農民だけを代表するような政党がなく、民族ブルジョア階級の政党には徹底した土地綱領がない。したがって、農民およびすべての革命的民主派の指導者となったのは、徹底した土地綱領を制定、実施し、農民の利益のためにしんけんに奮闘し、それによってもっとも広範な農民大衆を自己の偉大な同盟軍としてかちとった中国共産党だけである。
 一九二七年から一九三六年にかけて、中国共産党は土地制度を徹底的に改革する方策を実行し、孫先生の「耕すものに土地を」という主張を実現した。牙《きば》をむきだし爪《つめ》をといで、十年にわたる反人民戦争、すなわち「耕すものに土地を」に反対する戦争をおこなったのは、孫中山のすべての不肖の子らがよりあつまった団体――国民党内の反人民集団であった。
 抗日の期間中、中国共産党は大きく譲歩して、「耕すものに土地を」の政策を小作料・利子の引き下げの政策にあらためた。この譲歩は正しかった。それは国民党の抗日への参加をうながしたし、われわれが農民を抗日に動員するさいの解放区における地主の抵抗をすくなくしたのである。もし特別の障害がなければ、われわれは戦後もこの政策を実行していくつもりであり、まず全国的範囲で小作料・利子の引き下げを実現し、そのうえで適切な方法をとり、段どりをおって「耕すものに土地を」を達成するのである。
 ところが、孫先生を裏切った人びとは「耕すものに土地を」に反対するだけでなく、小作料・利子の引き下げにさえ反対している。国民党政府は、「小作料の二割五分引き下げ」といった法令を公布しておきながら、かれら自身は実行していない。それを実行したのはわれわれの解放区だけであり、そのためにこそ「奸区」という罪名をきせられたのである。
 抗日の期間中、民族革命の段階と民主民生革命の段階という二段階論なるものがあらわれたが、これはあやまっている。
 大敵を前にして、民主民生改革の問題は提起すべきでなく、日本人が去ってから提起すればよこれは国民党の反人民集団のでたらめな理屈で、その目的は抗日戦争の徹底的な勝利をかちとらせまいとするところにある。一部の人は、こともあろうに付和雷同して、このでたらめな理屈に追随している。
 大敵を前にして、民主民生の問題を解決しなければ、抗日根拠地を樹立して日本の進攻に抵抗することはできない。――これは中国共産党の主張であり、すでにそのとおり実行して、よい成果をおさめている。
 抗日の期間中は、小作料・利子の引き下げ、およびその他のすべての民主改革は抗日のためである。抗日にたいする地主の抵抗をすくなくするため、地主の土地所有権はとりあげずに、小作料・利子の引き下げだけを実行し、同時にまた、地主の資産を工業の面にうつすよう奨励するとともに、開明紳士をほかの人民代表といっしょに抗日の社会活動や政府の活動に参加させる。富農にたいしては、生産を発展させるよう激励する。これらすべては、農村で民主改革をだんこ実行する路線のなかにふくまれており、ぜひとも必要なことである。
 ここに二つの路線がある。中国農民の民主民生問題の解決に頑強に反対して、自分を腐敗させ、無能にし、抗日の力をうしなってしまうか、それとも、中国農民の民主民生問題の解決をだんこ支持して、全人口の八〇パーセントをしめるもっとも偉大な同盟軍をかちとり、それによって強大な戦闘力を組織するか。前者は国民党政府の路線であり、後者は中国解放区の路線である。
 この両者のあいだを動揺し、口先では農民を支持するといいながら、小作料・利子の引き下げ、農民の武装化、農村民主政権の樹立の断固たる実行をしないのが、日和見主義者の路線である。
 国民党の反人民集団は、すべての力を動員して、公然および暗々裏の、軍事および政治の、流血および非流血のありとあらゆる毒矢を中国共産党にむけてはなっている。両党の争点は、その社会的性質からいえば、実質的には農村関係の問題にある。われわれは、いったいどの点で国民党の反人民集団の怒りにふれたのか。ほかでもなく、この問題においてではないだろうか。国民党の反人民集団が日本侵略者から歓迎され、激励されているのは、この問題において日本侵略者を大いに手助けしているからではないだろうか。「共産党が抗戦を破壊し、国家を危うくする」とか、「奸党」「奸軍」「奸区」とか、また「政令、軍令に服従しない」とかいわれているのは、中国共産党がこの問題において共に民族の利益に合致したしんけんな事業をおこなってきたからではないだろうか。
 農民――それは中国の労働者の前身である。将来もなお、何千万の農民が都市にはいり、工場にはいっていく。中国には強大な民族工業の建設、数多くの近代的大都中の建設が必要であるとすれば、農村人口を都市人口に変えていく長い過程が必要である。
 農民――それは中国の工業市場の主体である。もっとも豊富な食糧と原料を供給するとともに、もっとも大量の工業品を吸収できるのは、かれらだけである。
 農民――それは中国の軍隊の源泉である。兵士とは軍服を着た農民であり、かれらは日本侵略者にとって不倶戴天《ふぐたいてん》の敵である。
 農民――それは現段階における中国の民主政治の主要な力である。二億六千万の農民大衆の援肋にたよらなければ、中国の民主主義者は何事もできないであろう。
 農民――それは現段階における中国の文化運動の主要な対象である。文盲一掃とか、教育の普及とか、大衆的な文学・芸術とか、国民衛生とかいっても、三億六千万の農民からはなれるなら、大半は空談義になってしまうではないか。
 もちろん、こういったからといって、人口約九千万にのぼるその他の人民が政治、経済、文化の面でもつ重要性を無視するものではない。とりわけ、政治的にもっとも自覚が高く、全革命運動を指導する資格のある労働者階級を無視するものではない。この点で誤解があってはならない。
 これらすべてを認識することは、中国共産党ばかりでなく、すべての民主派にとってぜひとも必要である。
 土地制度が改革されると、それが小作料・利子の引き下げのような初歩的な改革にすぎないものでも、農民の生産意欲は増大する。そのあとで農民を援助して、自由意志の原則のもとにしだいに農業生産協同組合やその他の協同組合に組織するようにすれば、生産力は発展する。このような農業生産協同組合は、いまのところまだ変工隊、互助組、換工班⑨などのような、農民の小私有経済を基礎として(農民の私有財産を基礎として)つくられる集団的、相互援助的な労働組織でしかないが、それでも労働生産性の向上と生産高の増加には、すでに驚くべきものがある。このような制度はすでに中国解放区で大いに発展しており、今後も、できるだけそれをおしひろめなければならない。
 ここで指摘しなければならないのは、変工隊のような協同組織はまえから農民のあいだにあったが、当時は農民が自分のみじめな生活をきりぬけるための方法にすぎなかったという点である。現在の中国解放区の変工隊は、形式も内容も変化しており、農民大衆が自己の生産を発展させ、ゆたかな生活をかちとるための方法になっている。
 中国のすべての政党の政策とその実践が中国人民のあいだで果たす役割がよいかわるいか、大きいか小さいかは、結局のところ、それが中国人民の生産力の発展にとって助けとなるかどうか、その助けが大きいかどうかによってきまり、それが生産力を束縛するか解放するかによってきまるのである。日本侵略者を消滅し、土地改革を実行し、農民を解放し、現代工業を発展させ、独立、自由、民主、統一、富強の新中国を樹立すること、こうしたことがあってはじめて、中国の社会生産力が解放され、中国人民から歓迎されるのである。
 ここで、もう一つ指摘しなければならないのは、農村は、いまのところ、分散的な、たちおくれた小私有経済が基礎となっているという特徴があること、解放区ではそのうえ、一時、敵に分割された、遊撃戦争の環境にあるという特徴がつけくわわっていることを、都市から農村にいって活動している知識人は理解しにくいという点である。これらの特徴を理解していないために、かれらは、都市で生活し活動していたときの観点をもったまま農村の問題を観察し、農村の活動を処理するという的はずれなことをしがちで、そのため農村の実状からかけはなれ、農民ととけあうことができない。このような現象は、教育するという方法で克服しなければならない。
 中国の広範な革命的知識人は自己を農民に結びつけることの必要性を自覚すべきである。農民は、いまかれらを必要としており、かれらの援助をまっている。かれらは熱意をもって農村にはいり、学年服をぬぎすてて粗末な服に着かえ、どんなささいな事もいとわずにそこからやりはじめ、農民の要求を理解し、農民の自覚と組織化をたすけ、中国の民主主義革命におけるきわめて重要な事業、すなわち農村の民主主義革命の達成のために奮闘しなければならない。
 日本侵略者が消滅されたのちには、日本侵略者とおもだった民族裏切り者の土地を没収して、土地のない農民と土地のすくない農民に分配すべきである。


    第七 工業問題

 日本侵略者をうちやぶり、新中国を建設するためには、工業を発展させなければならない。だが、国民党政府の支配のもとでは、すべてを外国に依存しており、その財政経済政策は人民の経済生活のすべてを破壊している。国民党支配区にあるわずかばかりの小型の工業でさえ、大部分が破産するという状態におちいらざるをえなくなっている。政治が改出されなければ、あらゆる生産力は破壊の運命にさらされる。農業がそうであり、工業もそうである。
 全般的にいえば、独立、自由、民主、統一の中国がなければ、工業を発国させることは不可能である。日本侵略者を消滅するのは独立をはかるためである。国民党の一党独裁を廃止し、民主的で統一的な連合政府を樹立し、全国の軍隊を人民の武装力にし、土地改革を実現し、農民を解放するのは、自由、民主、統一をはかるためである。独立、自由、民主、統一がなければ、真に大規模な工業を建設することは不可能である。工業がなければ、強固な国防も、人民の福祉も、国家の富強もない。一八四〇年のアヘン戦争⑩いらいの百五年の歴史、とくに国民党が政権をにぎってからの十八年の歴史は、この重要な点をはっきりと中国人民におしえている。貧弱ではなくて富強な中国は、植民地・半植民地的ではなくて独立した中国、半封建的ではなくて自由で民主的な中国、分裂しているのではなくて統一した中国と、切りはなすことができない。半植民地的、半封建的な分裂した中国において、工業を発展させ、国防を建設し、人民の福祉をはかり、国家の富強をもとめることを、どれだけ多くの人が長年夢にえがいてきたことだろう。だが、それはすべて幻滅に終わった。善意をもった多くの教育家、科学者、学生は、政治に関心をはらわずに、自分の仕事や勉強に没頭し、それで学んだものを国家に役立てることができるとおもいこんでいたが、結局はそれる夢と消え、すべて幻滅に終わった。これは結構なことである。このような幼稚な夢が幻滅に終わることこそ、中国が富強にむかう出発点である。中国人民は抗日戦争のなかで、多くのことを学びとっており、日本侵略者がうちやぶられたのちには独立、自由、民主、統一、富強の、新民主主義の中国を樹立する必要があること、そしてこれらの条件が相互に関連していて一つでも欠けてはならないことを知っている。ほんとうにそうなるなら、中国には明るい未来がある。中国人民の生産力を解放して、これに十分な発展の可能性をもたせるには、新民主主義の政治的条件を中国全土で実現しなければならない。この点を理解する人は、日一日と多くなっている。
 新民主主義の政治的条件を獲得したのちには、中国人民とその政府は、適切な措置をとって、一定の年月内に、重工業と軽工業を一歩一歩建設していき、中国を農業国から工業国に変えなければならない。新民主主義の国家は、もし強固な経済をその基礎としてもたなければ、もし現在よりはるかに発達したすすんだ農業をもたなければ、もし全国の経済の比重において非常な優位をしめる大規模な工業およびそれにふさわしい交通、貿易、金融などの事業をその基礎としてもたなければ、強固なものとはなりえない。
 われわれ共産党は、全国の民主的諸政党、各分野の実業界と協力して、上述の目標のために奮闘することをのぞんでいる。中国の労働者階級は、この任務を遂行するなかで偉大な役割をはたすであろう。
 中国の労働者階級は、第一次世界大戦いらい、自覚的な態度で中国の独立、解放のためにたたかってきた。一九二一年には、その前衛――中国共産党がうまれ、それ以後中国の解放闘争は新しい段階にはいった。北伐戦争、土地革命戦争、抗日戦争の三つの時期をつうじて、中国の労働者階級と中国共産党は、中国人民の解放事業にきわめて大きな努力をはらい、きわめて貴重な貢献をした。中国の労働者階級は、日本侵略者を最後的にうちやぶるたたかい、とくに大都市と主要交通線を奪回するたたかいで、きわめて大きな役割をはたすであろう。抗日が終わったのち、中国の労働者階級がさらに大きな努力と貢献をするであろうことは、いまから断言することができる。中国の労働者階級の任務は、新民主主義の国家を樹立するためにたたかうだけでなく、中国の工業化と農業近代化のためにもたたかうことである。
 新民主主義の国家制度のもとでは、労資間の利害関係を調節する政策がとられる。一方では、労働者の利益を保護し、異なった状況におうじて、八時間ないし十時間の労働制、適切な失業救済と社会保険を実施し、労働組合の権利を保障するとともに、他方では、国家企業、私営企業、協同組合企業の合理的な経営による正当な利潤を保障する。それによって、公私、労資の双方が工業生産発展のため、ともに努力できるようにするのである。
 日本侵略者がうちやぶられたのちには、日本侵略者とおもだった民族裏切り者の企業と財産を没収し、政府の処理にまかせるべきである。


    第八 文化、教育、知識人の問題

 民族的抑圧と封建的抑圧が中国人民にもたらした災禍には、民族文化のうけた災禍もふくまれている。なかでも、進歩的な意義をもつ文化事業や教育事業、進歩的な文化人や教育家がこうむった災禍はいっそう深刻である。民族的抑圧と封建的抑圧を一掃し、新民主主義の国家を樹立するためには、人民の教育家と教師、人民の科学者、技師、技手、医師、ジャーナリスト、著述家、文学者、芸術家、および一般の文化関係者が大量に必要である。かれらは人民に奉仕する精神をもって、困難な仕事にたずさわらなければならない。人民に奉仕する活動においてとくに功績のある知識人はすべて、国家と社会の貴重な財産とみなされ、尊重されるべきである。中国は民族的抑圧と封建的抑圧のため、文化のおくれた国であり、中国の人民解放闘争は知識人をさしせまって必要としている。したがって、知識人の問題はとりわけ重要になっている。過去半世紀の人民解放闘争、とくに五・四運動いらいの闘争および八年らいの抗日戦争において、広範な革命的知識人は、中国の人民解放事業のために大きな役割をはたしてきた。今後の闘争においても、かれらはいっそう大きな役割をはたすであろう。したがって、今後、人民の政府は広範な人民のなかから各分野の知識人幹部を計画的に養成すべきであり、またいまいるすべての有用な知識人を結集し、教育することに注意をはらわなければならない。
 全人口の八〇パーセントをしめる文盲を一掃することは、新中国の重要な仕事である。
 奴隷化の、封建主義の、ファシズムの文化と教育はすべて、適切な確固とした措置をとって一掃すべきである。
 人民の疾病《しっぺい》を積極的に予防、治療し、人民の医薬衛生事業を発展させるべきである。
 ふるい型の文化関係者、教育関係者、医師にたいしては、かれらが新しい観点と新しい方法を身につけて人民に奉仕できるよう、適切な方法で教育するという態度をとる。
 中国の国民文化と国民教育の方針は、新民主主義的なものでなくてはならない。つまり、中国は自己の民族的、科学的、人民大衆的な新しい文化と新しい教育を確立しなくてはならないのである。
 外国文化にたいして排外主義的な方針をとるのはあやまりであり、中国の新しい文化を発展させるうえでの参考として、進歩的な外国文化をできるだけ吸収しなくてはならない。外国文化を盲目的にひきうつす方針をとるのもあやまりであり、中国人民の実際の必要にもとづいて、批判的に吸収しなくてはならない。ソ連の創造した新しい文化は、われわれが人民の文化を建設するうえでの手本としなくてはならない。中国古代の文化にたいしても同様であって、一律に排斥するのでもなければ、盲目的にひきうつすのでもなく、中国の新しい文化の推進に役立つよう、それを批判的にうけいれるのである。


    第九 少数民族の問題

 国民党の反人民集団は、中国に多くの民族が存在していることを認めず、漢族以外の各少数民族を「宗族」とよんでいる〔10〕。かれらは、清朝政府および北洋軍閥政府の反動政策を完全にうけつぎ、各少数民族にたいして抑圧と搾取のかぎりをつくしている。一九四三年のイクチァオ盟蒙古族人民にたいする虐殺事件⑪、一九四四年から現在までつづいている新疆《シンチァン》省の少数民族にたいする武力弾圧事件⑫、最近数年間の甘粛省回《ホイ》族人民にたいする虐殺事件⑬がそのあきらかな証拠である。これは大漢族主義のあやまった民族思想であり、あやまった民族政策である。
 一九二四年、孫中山先生は「中国自民党第一回全国代表大会宣言」のなかで、つぎのようにのべている。「国民党の民族主義には二つの面の意味がある。一つは中国民族がみずから解放をもとめるということ、もう一つは中国国内の各民族が一律に平等であるということである。」「国民党は、中国国内の各民族の自決権を認め、帝国主義反対および軍閥反対の革命において勝利をえたのちには、かならず自由、統一の(各民族の自由に連合した)中華民国を組織することをあえて厳粛に宣言する。」
 中国共産党は上述の孫先生の民族政策に完全に同意する。共産党員は、各少数民族の広範な人民大衆が、この政策を実現するために奮闘するのを積極的に援助しなければならない。また大衆とのつながりをもつすべての指導的人物をふくめて、各少数民族の広範な人民大衆が、政治、経済、文化の面での解放と発展をかちとり、大衆の利益をまもる少数民族自身の軍隊を結成するのを援助しなければならない。かれらの言語、文字、風俗、習慣、宗教信仰は尊重しなくてはならない。
 陝西・甘粛・寧夏辺区および華北の各解放区が、長年にわたって家古族、回族にたいしてとってきた態度は正しかったし、その活動は成果をあげている。


    第十 外交問題

 中国共産党は大西洋憲章およびモスクワ、カイロ、テヘラン、クリミアの各国際会議〔11〕の決議に同意する。これらの国際会議の決議はすべて、ファシスト侵略者をうちやぶり、世界平和を維持するのに役立つものだからである。
 中国共産党の外交政策の基本原則は、日本侵略者の徹底的打倒、世界平和の維持、国家の独立と平等の地位の相互尊重、国家および人民の利益と友情の相互増進を基礎として、各国との国交を樹立し強固にし、協同作戦、平和会議、通商、投資などすべての相互関係の問題を解決することである。
 中国共産党は、戦後の国際平和と安全を保障する機構の設立については、ダンバートン・オークス会議の提案およびクリミア会議におけるこの問題についての決定に完全に同意する。中国共産党はサンフランシスコの国際連合総会を歓迎する。中国共産党は中国人民の意志を表明するため、すでに自己の代表を中国代表団にくわえてサンフランシスコ会議に出席させている。〔12〕
 われわれは、国民党政府がソ連にたいする敵視の態度をやめ、すみやかに中ソ両国の関係を改善すべきだと考える。不平等条約を廃棄して中国とのあいだに平等な新条約を締結した最初の国はソ連であった。一九二四年、孫中山先生の招集した国民党第一回全国代表大会のさい、およびその後の北伐戦争遂行のさいに、当時の中国の解放戦争を援助した唯一の国はソ連であった。一九三七年に抗日戦争がはじまってから、日本侵略者とたたかう中国を援助した最初の国もまたソ連であった。中国人民はソ連政府とソ連人民のこれらの援助にたいし、感謝の意を表明するものである。ソ連の参加なしには、太平洋問題の最後的な徹底的な解決は不可能だとわれわれは考える。
 われわれは、連合国の各国政府、まずアメリカ、イギリス両国政府にたいし、中国人民の意志に反する外交政策をとることによって中国人民とのあいだの友情をそこなうことのないように、中国のもっとも広範な人民の声に大きな注意をはらうことを要求する。われわれは、いかなる外国政府であれ、中国の反動分子をたすけて、中国人民の民主主義の事業に反対するなら、このうえない大きなあやまりをおかすことになると考える。
 中国人民は、中国との不平等条約を廃棄して平等な新条約を締結すると宣言した多くの外国政府の措置を歓迎する。しかし、平等な条約を締結しただけでは、中国が真の平等の地位を実際に獲得したことにはならないとわれわれは考える。このような実際の真の平等の地位は、けっして外国政府からあたえられることだけにたよってはならず、主として中国人民自身の努力によってたたかいとるべきである。その努力の道は中国を政治的、経済的、文化的に新民主主義の国家にきずきあげることである。そうしなければ、形式的には独立、平等があっても、実際にはありえない。つまり国民党政府の現在の政策では、中国が真の独立と平等を獲得することはけっしてありえないのである。
 われわれは、日本侵略者がうちやぶられ、無条件降伏したのちには、日本のファシズム、軍国主義、およびそれがうまれる政治的、経済的、社会的原因を徹底的に消滅するために、日本人民のすべての民主勢力が日本人民の民主制度を樹立するようこれを援助すべきだと考える。日本人民の民主制度がなければ、日本のファシズムや軍国主義を徹底的に消滅することはできず、太平洋の平和を保障することはできない。
 われわれは、カイロ会議の朝鮮独立についての決定は正しいと考える。中国人民は朝鮮人民の解放を援助すべきである。
 われわれは、インドの独立を希望する。なぜなら、独立、民主のインドは、インド人民にとって必要であるばかりでなく、世界平和にとっても必要だからである。
 南方諸国――ピルマ、マラヤ、インドネシア、ベトナム、フィリピンについては、われわれは、日本侵略者がうちやぶられたのち、これらの国の人民が独立、民主の国家制度樹立の権利を獲得できることを希望する。タイ国については、ヨーロッパのファシスト従属国にたいしてとられている方法にならって処理すべきである。

          *    *    *

 具体的綱領についての説明は、主として以上のとおりである。
 もう一度くりかえしていえば、これらすべての具体的綱領は、挙国一致の民主的な連合政府がないかぎり、全中国でこれを順調に実現することはできないのである。
 中国共産党は、中国人民の解放事業のために奮闘してきた二十四年のあいだに、つぎのような地位をきずきあげてきた。それは、いかなる政党、社会集団であろうと、また中国人であろうと外国人であろうと、もし中国にかんする問題で中国共産党の意見を尊重しない態度をとるなら、きわめて大きなあやまりをおかし、かならず失敗するというそうした地位である。自分だけの考えをおしとおそうとして、われわれの意見を尊重しないような人は過去にもいたし、現在もいるが、結局みなゆきづまっている。それはなぜか。ほかでもなく、われわれの意見がもっとも広範な中国人民の利益にかなっているからである。中国共産党は中国人民のもっとも忠実な代弁者である。中国共産党を尊重しないものは、実際にはもっとも広範な中国人民を尊重しないことになり、かならず失敗するのである。

中国国民党支配区での任務

 以上、わたしはわが党の一般綱領と具体的綱領について十分に説明した。これらの綱領が全中国で実行にうつされることは疑いがない。国際、国内の全般的情勢が中国人民にこのような展望をあたえている。しかし、国民党支配区、被占領区、解放区の三つの地域では、現在、それぞれ情勢が異なるから、綱領を実行にうつすにあたってわれわれは区別をつけざるをえない。異なった状況から異なった任務がうまれる。これらの任務のうち、あるものについては、すでに上でのべたが、まだ補足しなければならないものもいくつかある。
 国民党支配区では、人民に愛国活動の自由がなく、民主運動は違法とされているが、多くの階層、多くの民主政党および民主的な人びとの参加する積極的な活動が発展しつつある。中国民主同盟は、ことしの一月、国民党一党独裁を終わらせ、連合政府を樹立することを要求する宣言を発表した。社会の各界でこれとおなじ性質の宣言を発表したものはほかにも多い。国民党内でも多くの人が、かれら自身の指導機関の政策に日ましに疑惑と不満をしめし、かれらの党が広範な人民のあいだで孤立していく危険性を日ましに感じとり、時宜にかなった民主改革をおこなうよう要求している。重慶その他の地方では、労働者、農民、文化界、学生界、教育界、婦人界、商工業界、公務員さらには一部の軍人の民主運動が発展しつつある。これらすべては、あらゆる被抑圧階層の民主運動がしだいに一つの目標にむかって合流しつつあることをしめしている。当面の運動の弱点は、社会の基本的な層の人びとがまだそれにひろく参加していないこと、非常に重要な地位にあって、しかもたえがたい苦しみをなめている農民、労働者、兵士および下層の公務員、教職員がまだ組織されていないことである。当面の運動のもう一つの弱点は、運動に参加している民主的な人びとのうち、まだ多くの人が、民主主義の原則にもとづく闘争をおこすことによって時局を転換させるという基本方針にたいし、明確な、断固とした気がまえに欠けていることである。しかし、客観情勢は抑圧されているすべての階層、政党および社会集団にたいして、しだいに自覚し、団結するようせまっている。国民党政府がどのように弾圧しようと、この運動の発展を阻止することはできない。
 国民党支配区内の抑圧されているすべての階層、政党、集団の民主運動は、これをひろく発展させるとともに、その分散した力をしだいに統一させて、民族団結の実現、連合政府の樹立、日本侵略者の打倒、新中国の建設のためにたたかわせるべきである。中国共産党と解放区の人民は、かれらにあらゆる可能な援助をあたえるべきである。
 国民党支配区では、共産党員はひきつづき広範な抗日民族統一戦線の政策を実行すべきである。どんな人であろうと、たとえきのうまでわれわれに反対していても、きょうは反対しないなら、その人と協力して共同の目標のために奮闘すべきである。

中国被占領区での任務

 被占領区では、共産党員は、すべての抗日の人民がフランスとイタリアを手本にして、武装蜂起を準備するため、さまざまな団体を組織し、地下の軍隊を組織し、機の熟するのをまって、外部から進攻する軍隊に協力し、内外呼応して日本侵略者を消滅するよう、よびかけなければならない。日本侵略者とその忠実な手先が被占領区のわれわれの兄弟姉妹にたいして蹂躙、略奪、姦淫《かんいん》、侮辱のかぎりをつくしていることに、すべての中国人は火のような怒りを燃やしている。このうらみをはらす時機はまもなく到来しようとしている。被占領区の人民は、ヨーロッパの戦場における勝利と八路軍、新四軍の勝利にはげまされて、抗日の意気が非常にあがっている。かれらが切実にもとめているのは、できるだけはやく解放をかちとるために組織化することである。したがって、われわれは被占領区における活動を解放区における活動とおなじような重要な地位にまでひきあげなければならない。大量の要員を被占領区におくって活動させなければならない。被占領区の人民のあいだで大量の活動家を訓練し、抜てきして、その地方の活動に参加させなければならない。被占領区のなかでも東北四省は、もっとも長いあいだ占領されており、日本侵略者の産業の中心、駐兵の要地でもあるから、われわれはそこでの地下活動を強化すべきである。山海関以南に避難してきた東北の人民にたいしては、失地回復を準備するため、かれらをいっそう結集すべきである。
 すべての被占領区で、共産党員はもっとも広範な抗日民族統一戦線の政策を実行すべきである。どんな人であろうと、日本侵略者とその忠実な手先に反対しさえすれば、その人と連合して共通の敵を打倒するためにたたかうべきである。
 敵を援助し、同胞に敵対しているすべてのかいらい軍、かいらい警察、その他のものにたいしては、つぎのように警告すべきである。すみやかに自己の罪悪行為をみとめ、いちはやく改心し、その罪をつぐなうために、同胞を援助し、敵とたたかわなければならない。そうしなければ敵が壊滅したあかつきには、民族の規律はかれらを容赦しないであろう。
 共産党員は、欺かれている大衆が、民族の敵とたたかうわれわれの戦線にたつよう、大衆の参加しているすべてのかいらい組織にはたらきかけ説得活動をおこなうべきである。同時に、悔いあらためようとしない極悪非道な民族裏切り者にたいしては、国土回復ののち、法にもとづいてかれらを処罰するため、調査をおこなう。
 民族裏切り者を組織して中国人民、中国共産党、八路軍、新四軍およびその他の人民の軍隊に敵対させている、民族を売りわたした国民党内の反動分子にたいしては、一日もはやく悔いあらためるように警告しなければならない。悔いあらためなければ、国土回復ののち、かならず民族裏切り者とおなじように処罰し、けっして容赦することはない。

  中国解放区での任務

 わが党の新民主主義の全綱領は、すでに解放区で実行されていて、しかもいちじるしい成果をあげており、きわめて大きな抗日の力を結集している。今後は各方面からこの力を発展させ、強固にすべきである。
 当面の条件のもとで、解放区の軍隊は、解放区を拡大し被占領区を縮小するため、日本侵略軍やかいらい軍に占領されてはいるが攻略できるすべての地方にたいし、広範囲にわたって進攻すべきである。
 だが同時に、敵がいまのところまだ力をもっていて、解放区に進攻する可能性があることに注意すべきである。解放区の軍民は、いつでも敵の進攻を粉砕する準備をするとともに、解放区を強固にする諸活動に注意をはらわなければならない。
 侵略者を最後的にうちやぶる十分な力を準備するため、解放区の軍隊、遊撃隊、民兵および自衛軍を拡大するとともに、整備・訓練に力をいれ、戦闘力をつよめるべきである。
 解放区では、一方では軍隊が政府擁護、人民愛護の活動をおこない、他方では民主政府が人民を指導して、軍隊擁護、抗日軍人家族優遇の活動をおこない、軍民関係をいっそう大きく改善すべきである。
 共産党員は、地方の各連合政府の仕事や社会活動のなかで、新民主主義の綱領を基礎にして、すべての抗日する民主的な人びととこれからもよく協力すべきである。
 同様に軍事活動においても、共産党員は解放区の軍隊の内外で、われわれと協力することをのぞむすべての抗日する民主的な人びととよく協力すべきである。
 労働者、農民、その他の勤労大衆の抗日および生産における積極性をたかめるために、小作料・利子の引き下げと労働者、職員の待遇改善の政策を十分に実行しなければならない。解放区の要員は経済活動に習熟することにつとめなければならない。あらゆる可能な力を動員して、解放区の農業、工業、商業を大規模に発展させ、軍民の生活を改善しなければならない。このために、労働競争をおこない、労働英雄や模範活動者を表彰しなければならない。都市から日本侵略者を駆逐したのちには、われわれの要員はすみやかに都市の経済活動に習熟しなければならない。
 解放区の人民大衆、まず広範な労働者、農民、兵士大衆の自覚をたかめ、大量の幹部を養成するために、解放区の文化、教育事業を発展させなければならない。解放区の文化関係者や教育関係者は、その活動を推進するさい、当面の農村の特徴にもとづき、農村の人民の必要と自由意志の原則にもとづいて、適切な内容と形式をとるべきである。
 解放区のさまざまな活動を推進するさいには、その地方の人力と物力を十分たいせつにするようにし、どの面でも将来のことを考えにいれ、濫用と浪費をさけなければならない。それは、日本侵略者をうちやぶるだけではなく、新中国を建設するためでもある。
 解放区のさまざまな活動をすすめるさいには、地元の人がその土地の事業を管理できるよう援助すること、地元の人民の優秀な人のなかからその土地の幹部を大量に養成することに十分注意をはらわなければならない。よその地方からきた人が、もし地元の人と一つにとけあわないなら、また地元の幹部にたいして心からの熱意と誠実さをもって、実情にそくした援助をあたえず、かれらを自分の兄弟姉妹のようにたいせつにしないなら、農村の民主主義革命という偉大な任務をなしとげることはできない。
 八路軍、新四軍およびその他の人民の軍隊は、どこにいってもすぐにその地元の人民をたすけて、地元の人民の幹部を指導者とする民兵や自衛車を組織するだけでなく、地元の人民の幹部を指導者とする地方部隊や地方兵団をも組織しなければならない。そうすれば地元の人の指導する主力部隊や主力兵団がうまれる。これは非常に重要な任務である。もしこの任務をなしとげることができなければ、強固な抗日根拠地を樹立することもできないし、人民の軍隊を発展させることもできない。
 もちろん、地元のすべての人は、よその地方からきた革命の活動家と人民の軍隊を心から歓迎し、援助すべきである。
 かくれた民族破壊分子に対処する問題については、人びとの注意をうながさなければならない。なぜなら、公然とした敵、公然とした民族破壊分子は、見わけることも処置することも容易であるが、かくれた敵、かくれた民族破壊分子は、見わけることも処置することも容易でないからである。したがって、後者にたいしては、厳然とした態度をとらなければならず、処置するばあいには慎重な態度をとらなければならない。
 信教の自由の原則にもとづいて、中国解放区は、各種の宗教の存在をゆるしている。キリスト教、カトリック教、回教、仏教、その他どの宗教にしても、その教徒たちが人民政府の法律をまもりさえすれば、人民政府はかれらを保護する。宗教を信ずるのも信じないのも各人の自由であり、強制や差別扱いをしてはならない。
 われわれの大会は、各解放区の行動の統一、各解放区の抗日活動の強化、国民党支配区の人民の抗日民主運動にたいする援助、被占領区の人民の地下軍隊運動にたいする援助、全国人民の団結と連合政府樹立の促進について討議するため、できるだけはやく延安で中国解放区人民代表会議をひらくことを、各解放区の人民に提案すべきである〔13〕。中国解放区は、現在すでに広範な全国人民の抗日救国の重心となっており、広範な全国人民の希望はわれわれにかけられている。われわれはかれらを失望させないようにする責任がある。中国解放区人民代表会議の開催は中国人民の民族解放事業にたいして巨大な推進作用をはたすであろう。

  五 全党は団結して党の任務の実現のためにたたかおう

 同志諸君、われわれはすでに、われわれの任務とその任務をなしとげるためにとる政策を理解したが、それではこれらの政策を実行しこれらの任務をなしとげるのに、どのような活動態度をとるべきだろうか。
 当面の国際、国内の情勢は、われわれおよび中国人民のまえに光明ある前途をはっきりとしめし、かつてなかった有利な条件をもたらしている。これぱあきらかで、少しも疑問の余地がない。だが同時に、きびしい困難な条件も依然として存在している。光明の面だッをみて困難の面をみない人は、党の任務を実現するためにりっぱにたたかうことができないであろう。
 わが党は中国人民とともに、党の二十四年にわたる歴史のなかでも、また八年にわたる抗日戦争のなかでも、中国人民のために巨大な力をつくりだしてきた。われわれの活動の成果はきわめてあきらかで、少しも疑問の余地がない。だが同時に、われわれの活動のなかには依然として欠陥がある。成果の面だけをみて欠陥の面をみない人も、党の任務を実現するためにりっぱにたたかうことができないであろう。
 中国共産党は一九二一年に創立されているい、その二十四年の歴史のなかで、北伐戦争、土地革命戦争、およびいまなお進めるれている抗日戦争という三回にわたる偉大な闘争をへてきた。わが党は、創立の当初から、マルクス・レーニン主義の理論を基礎としている。それはこの主義が全世界のプロレタリア階級のもっとも正しい、もっとも革命的な科学的思想の結晶だからである。マルクス・レーニン主義の普遍的真理がひとたび中国革命の具体的実践と結びつくと、中国革命の面目はこれによって一新され、新民主主義という一つの歴史段階がうまれた。マルクス・レーニン主義の理論と思想によって武装した中国共産党は、中国人民のあいだに新しい活動作風をつくりだした。それは主として理論と実践を結びつける作風、人民大衆と密接に結びつく作風および自己批判の作風である。
 全世界のプロレタリア階級の実践闘争を反映したマルクス・レーニン主義の普遍的真理は、中国のプロレタリア階級および広範な人民大衆の革命闘争の具体的実践と結びつくと、中国人民の百戦百勝の武器となる。中国共産党はまさにこのようにしてきたのである。わが党は、この真理にそむくあらゆる教条主義、経験主義と断固としてたたかう過程で発展し進歩してきた。教条主義は具体的実践から遊離するし、経験主義は局部的経験を普遍的真理と誤認するのであって、この二つの日和見主義思想はともにマルクス主義にそむくものである。わが党は、その二十四年にわたる奮闘のなかでこれらのあやまった思想を克服してきたし、いまも克服しており、これによってわが党は思想的にきわめて強固なものになった。わが党は現在すでに百二十一万の党員をもっている。そのうちの圧倒的多数は抗日の時期に入党したもので、かれらのあいだにはさまざまの不純な思想が存在している。抗日以前に入党した党員にもこうした状況がみられる。この数年らいの整風活動は巨大な効果をおさめ、これらの不純な思想を大いに是正した。今後もこの活動をつづけていき、「前のあやまりを後のいましめとし、病をなおして人を救う」という精神で、党内の思想教育をいっそう広く展開すべきである。理論と実践とのこのような密接な結合こそ、われわれ共産党が他のいかなる政党とも区別される顕著な指標の一つであることを、各級の党組織の指導的骨幹に理解させなければならない。したがって、思想教育をつかむことは、全党を団結させて偉大な政治闘争をおこなう中心的な環である。この任務を解決しなければ、党のすべての政治的任務をなしとげることはできない。
 われわれ共産党が他のいかなる政党とも区別されるもう一つの顕著な指標は、もっとも広範な人民大衆ともっとも密接に結びついているということである。片時も大衆から遊離せず、人民に誠心誠意奉仕すること、個人や小集団の利益から出発せず、すべて人民の利益から出発すること、人民にたいする責任と党の指導機関にたいする責任とが一致すること、これらがわれわれの出発点である。真理はすべて人民の利益に合致するものであるから、共産党員はつねに真理を堅持する心がまえがなければならない。また、あやまりはすべて人民の利益に合致しないものであるから、共産党員はつねにあやまりをあらためる心がまえがなければならない。二十四年にわたる経験がわれわれに教えているように、正しい任務、政策、活動作風は、すべてその時その場所の大衆の要求に合致し、大衆と結びついたものであり、あやまった任務、政策、活動作風は、すべてその時その場所の大衆の要求に合致せず、大衆から遊離しているものである。教条主義、経験主義、命令主義、追随主義、セクト主義、官僚主義、傲慢不遜《ごうがんふそん》な活動態度などの悪弊は、大衆から遊離するものだからこそ、どうしても好ましくなく、けっしてあってはならず、このような悪弊をもっているものは、どうしてもあらためなければならないのである。われわれの代表大会は、それぞれの部署で活動している一人ひとりの同志が大衆から遊離しないよう、全党が警戒心をたかめて注意することをよびかけるべきである。人民大衆を熱愛し、注意ぶかくその声に耳を傾けること、大衆の上にあぐらをかくのではなく、大衆のなかにふかくはいり、どこにいってもその土地の大衆ととけあうこと、大衆の自覚の度合いにおうじてその自覚をよびさまし、向上させ、大衆の心からの希望にもとづくという自由意志の原則にしたがって大衆がしだいに組織化するよう、またその時その場所の内外環境のゆるすすべての必要な闘争をしだいに展開するよう援助すること、これらのことについて、一人ひとりの同志を教育すべきである。あらゆる活動において、命令主義はあやまりである。なぜなら、それは大衆の自覚の度合いをとび越え、大衆の自由意志の原則にそむき、せっかち病にとりつかれているからである。わが同志たちは、自分の理解したことは広範な大衆もおなじようにすべて理解していると、ひとりがてんしてはならない。大衆が理解しているかどうか、また行動することをのぞんでいるかどうかは、大衆のなかにはいって調べてみてはじめてわかるのである。そのようにすれば、命令主義をさけることができる。あらゆる活動において、追随主義もまたあやまりである。なぜなら、それは大衆の自覚の度合いからたちおくれ、大衆を指導して一歩前進させるという原則にそむき、のろま病にとりつかれているからである。わが同志たちは、自分がまだ理解していないことは大衆もみな理解していないと、ひとりがてんしてはならない。多くのばあい、広範な大衆がわれわれを追いこし、一歩前進を切実にもとめているのに、わが同志たちは、広範な大衆の指導者となることができないばかりか、一部のおくれた人びとの意見を反映し、しかもこのおくれた人びとの意見を広範な大衆の意見と誤認して、おくれた人びとに追随している。要するに、共産党員のあらゆる言論、行動の最高規準は、もっとも広範な人民大衆の最大の利益に合致し、もっとも広範な人民大衆から支持されることであるという点を、一人ひとりの同志にはっきりわからせるべきである。われわれが人民に依拠しさえすれば、また人民大衆の創造力が無限であることを確信して、人民を信頼し、人民と一つにとけあいさえすれば、どんな困難も克服でき、どんな敵にも圧倒されず、われわれがこれを圧倒するだけだということを、一人ひとりの同志に理解させるべきである。
 まじめな自己批判の有無も、またわれわれが他の政党と区別される顕著な指標の一つである。かつてのべたことがあるように、部屋はつねに掃除すべきで、掃除しなければほこりだらけになってしまうし、顔はつねに洗うべきで、洗わなければほこりまみれになってしまう。わが同志の思想、わが党の活動にもほこりがかかるので、やはり掃除をし、洗いおとすべきである。「流れる水は腐らず、扉の心棒は虫がくわない」というのは、それらがたえず運動していて、微生物やその他の生物からの侵食に抵抗しているためである。われわれにとっては、つねに活動を点検し、点検のなかで民主的作風をおしひるめ、批判と自己批判をおそれず、「気づいたことは何でもいい、いうことは残さずにいう」、「いうものはとがめられず、聞くものはいましめとする」、「あやまりがあればあらため、なければいっそう努力する」という中国人民の有益な格言を実行することこそ、わが同志の思想やわが党のからだにたいする各種の政治のほこりや政治の微生物の侵食に抵抗する唯一の効果的な方法である。「前のあやまりを後のいましめとし、病をなおして人を救う」ことを方針とする整風運動が大きな効果をあげたのは、この運動のなかでわれわれの展開した批判と自己批判が、正しいものであって、ゆがめたものではなく、まじめなものであって、おざなりなものではなかったからである。中国のもっとも広範な人民の最大の利益を出発点とする中国共産党員は、自分たちの事業が完全に正義にかなっていることを信じ、個人のすべてを犠牲にすることを惜しまず、いつでも自分の命をわれわれの事業にささげる心がまえがあるのに、まだ捨てきれないような、人民の要求に合致しない思想、観点、意見、方法があるのだろうか。政治のほこりや政治の微生物がわれわれの清潔な顔をよごし、われわれの健全なからだを侵食するのを、われわれはまだ歓迎するのだろうか。無数の革命戦士が人民の利益のために命をささげたことをおもうと、生き残っているわれわれ一人ひとりは胸がいっぱいになるのに、まだ犠牲にしきれない個人の利益、捨てきれないあやまりがあるとでもいうのだろうか。
 同志諸君、大会が終われば、われわれはただちに戦場におもむき、大会の決議にもとづいて、日本侵略者を最後的にうちやぶり新中国を建設するために奮闘するのである。この目的をたっするためには、全国人民と団結しなければならない。くりかえしていえば、どの階級、どの政党、どの社会集団または個人であろうと、日本侵略者をうちやぶり新中国を建設することに賛成しさえすれば、われわれはかれると連合しなければならない。この目的をたっするためには、民主集中制の組織原則と規律原則にもとづいて、わが党のあらゆる力をかたく団結させなければならない。どんな同志であっても、党の綱領、規約、決議にしたがう意志さえあれば、われわれはその同志と団結しなければならない。わが党の党員は、北伐戦争の時期には、六万たらずであったが、その後、大部分が当時の敵の攻撃によって四散した。土地革命戦争の時期には三十万たらずであったが、これもその後、大部分が当時の敵の攻撃によって四散した。現在、われわれは百二十余方の党員をもっている。こんどはなんとしても、敵の攻撃によって四散することがあってはならない。われわれがこの三つの時期の経験を生かして、謙虚な態度をとり、傲慢な態度をやめ、党内ではすべての同志とよりよく団結し、党外では全国人民とよりよく団結しさえすれば、敵の攻撃によって四散することがないばかりか、反対に、かならず日本侵略者とその忠実な手先を、断固として、徹底的に、きれいに、のこらす消滅し、しかもかれらを消滅したのちに新民主主義の中国を建設することが保証されるのである。
 三回にわたる革命の経験、とくに抗日戦争の経験は、われわれおよび中国人民につぎのような確信をあたえている。それは、中国共産党の努力がなければ、また中国共産党員が中国人民の柱石とならなければ、中国の独立と解放は不可能であり、中国の工業化と農業の近代化も不可能だということである。
 同志諸君。三回にわたる革命の経験をへた中国共産党がある以上、われわれは偉大な政治的任務をなしとげることができるとわたしは確信する。
 何千何万の革命戦士は、人民の利益のため、われわれに先だって英雄的に命をささげたのである。われわれはかれらの旗を高々とかかげ、かれらの血の跡をふんで前進しよう!
 新民主主義の中国はやがて誕生する。われわれはこの偉大な日を迎えようではないか!



〔注〕
〔1〕 中華民族解放先鋒隊、略称「民先隊」は、一二・九運動に加わった先進的な青年が、一九三六年二月、中国共産党の指導のもとに組織した革命的な青年団体である。抗日戦争勃発後、多くの民先隊員は戦争と敵後方にある根拠地樹立の活動に参加した。国民党支配区の民先隊の組織は、一九三八年、蒋介石政府から強制的に解散させられた。解放区の民先隊の組織は、のちには、より広範な青年団体である青年救国会に合併された。
〔2〕 本巻の『国民党中央執行委員会第十一回全体会議と第三期国民参政会第二回会議を評す』に列挙されている、蒋介石のおこした三回にわたる反共の高まりの事実を参照。
〔3〕 スコービーは、イギリス帝国主義がギリシアに派遣した侵略軍の司令官である。一九四四年十月、ドイツ侵略軍がヨーロッパ大陸で敗退すると、スコービーはイギリス軍をひきい、ロンドンに亡命中のギリシア反動政府をともなって、ギリシアに進駐した。かれの指図と支持のもとに、ギリシアの反動政府は、長いあいだ勇敢にドイツ侵略更に抵抗していたギリシア人民解放軍を攻撃し、ギリシアの愛国人民を殺害し、ギリシアを恐怖の血の海になげこんだ。
〔4〕 保甲制度は、国民党反動派がファッショ支配をおこなうためにもうけた末端の政治制度であった。一九三二年八月一日、蒋介石は、河南、湖北、安徽の三省で、『各県保甲戸口編成調査条例』を公布した。それは、「保甲の編成は戸を単位とし、戸には戸長をおき、十戸を甲とし、甲には甲長をおき、十甲を保とし、保には保長をおく」ということを規定して、各口が相互に監視しあい告発しあう連坐法および各種の反革命的な強制労役措置を実施したものである。一九三四年十一月七日、自民党政府は、その支配下にある各省、市で、このようなファッショ支配制度を一律に実施することを正式に発表した。
〔5〕 国民党政府が実施した封建的、買弁的なファッショ教育のことをさす。
〔6〕 カイロ会議とは、一九四三年十一月、中国、アメリカ、イギリス三国がエジプトの首都カイロでおこなった国際会議のことである。この会議では中国、アメリカ、イギリス三国のカイロ宣言が発表された。この宣言は台湾などを中国に返還することについて、明確な規定をおこなった。 一九五〇年六月、アメリカ政府はこのとりきめに公然とそむき、台湾にたいする中国の領土主権を剥奪しようとして、海軍を派遣し台湾を制圧した。
〔7〕 峨眉山は四川省西南部の名山である。毛沢東同志がここでいっているのは、蒋介石支配集団が抗日戦争のときに最後の巣窟とした四川省の山地のことである。
〔8〕 本選集第二巻の『反動派を制裁せよ』、『すべての抗日勢力を結集して反共頑迷派に反対しよう』、『国民党にたいする十項目の要求』などにみられる。
〔9〕 一九二四年十一月十日の孫中山の『北上宣言』から引用。
〔10〕 これは蒋介石が反革命の小冊子『中国の運命』のなかでのべているでたらめな言い方をさしている。
〔11〕 大西洋憲章は、一九四一年八月、アメリカ、イギリスが大西洋会議の終了にあたって共同で発表した文書である。モスクワ会議とは、一九四三年十月、ソ連、アメリカ、イギリスの三国外相がモスクワでおこなった会議のことである。テヘラン会議とは、一九四三年十一月から十二月にかけて、ソ連、アメリカ、イギリス三国がイランの首都テヘランでおこなった会議のことである。クリミア会議とは、一九四五年二月、ソ連、アメリカ、イギリス三国がソ連南部のクリミア半島のヤルタでおこなった会議のことである。当時これらの国際会議は、みな、共同の力によってファシスト・ドイツと日本をうちやぶること、戦後は、侵略勢力およびファシスト残存勢力の再起を防止し、世界の平和を維持し、各国人民の独立と民主の願望を支持することをきめた。しかし、戦後、アメリカとイギリスの政府はこれらの国際的とりきめにそむき、これをふみにじった。
〔12〕 一九四四年八月から十月にかけて、ソ連、アメリカ、イギリス、中国の四ヵ国の代表が、モスクワ会議およびテヘラン会議の決定にしたがって、アメリカのダンバートン・オークスで会議をひらき、国際連合機構の組織草案を起草した。一九四五年四月から六月にかけて、アメリカのサンフランシスコで五十ヵ国の代表の参加する国際連合総会がひらかれたが、当時、中国解放区も菫必武同志を代表として派遣し、この会議に参加させた。
〔13〕 中国共産党第七回全国代表大会以後、延安で「中国解放区人民代表会議準備委員会」が発足し、また各解放区の代表が共同して準備委員会成立大会をひらいた。日本の降伏後、時局が変化したため、中国解放区人民代表会議はひらかれなかった。
〔訳注〕
① 本選集第一巻の『蒋介石の声明についての声明』注〔1〕を参照。
② 本選集第二巻の『日本の進攻とたたかう方針、方法および前途』注〔1〕を参照。
③ 中央系とは、主として蒋介石集団の部隊をさす。地方系とは、国民党地方軍閥の部隊、つまり雑軍をさす。本選集第二巻の『おもいきって抗日勢力を発展させ、反共頑迷派の進攻に抵抗せよ』注〔8〕を参照。
④ 武装工作隊とは、中国共産党の指導のもとに、軍隊の幹部、優秀な戦士および地方の幹部によってつくられた小型の工作隊のことである。工作隊の任務は、敵占領区に深くはいって大衆を動員し組織し、党の組織を樹立し復活させ、秘密の人民政権をうちたて、かいらい組織とかいらい政権をうちこわし、さまざまな闘争方法で日本侵略軍とかいらい軍に打撃をあたえ、それを瓦解させることにあった。
⑤ 本選集第二巻の『中央通信社、掃蕩報、新民報の三記者との談話』注〔2〕を参照。
⑥ 民主同盟の正式の名称は中国民主同盟で、当時、抗日民族統一戦線のなかの民主政党の一つであった。一九四一年に成立し、はじめは中国民主政団同盟とよんだが、一九四四年に現在の名称にあらためた。一九四九年、中国人民政治協商会議に参加した。
⑦ 本選集第一巻の『日本帝国主義に反対する戦術について』注〔1〕を参照。
⑧ 本選集第一巻の『矛盾論』訳注②を参照。
⑨ 本巻の『組織せよ』注〔4〕と本選集第一巻の『われわれの経済政策』注〔3〕を参照。
⑩ 本題集第二巻の『持久戦について』注〔6〕を参照。
⑪ 一九四二年の冬から一九四三年の春にかけて、内家古のイクチァオ盟に駐屯していた国民党反動軍隊は、蒙古族人民の牧草地の占拠を強行し、そのうえ、地元の人民から大量の食糧、家畜を強奪した。一九四三年三月二十六日、イクチァオ盟の蒙古族保安隊と人民大衆は、ついに武力による反抗にたちあがった。同年四月、国民党は軍隊をさしむけてこれを弾圧し、地元の蒙古族人民にたいして血なまぐさい虐殺をおこなった。
⑫ 一九四四年九月、新疆省北部イリ地区の各少数民族の人民は、国民党反動派の民族的抑圧と経済的収奪に反対して、大規模な武装蜂起をおこなった。これらの蜂起軍は、阿山、塔城一帯で蜂起した武装組織とあい前後して連合し、新疆省北部の大部分の地域を占領した。国民党は甘粛省と新疆省の各地から多くの反動軍隊をまわして、蜂起軍にたいし長期にわたる大規模な武力弾圧をくわえた。蜂起軍は、新疆省各民族の広範な人民の積極的な支持のもとに英雄的に抵抗し、一九四九年に新疆省が解放されるまで抵抗をつづけた。
⑬ ここでは主として、一九四二年から一九四三年にかけて国民党反動派が甘粛省南部の回族人民にたいしておこなった虐殺事件をさす。一九四二年の冬、甘粛省南部の臨[シ+兆]県、岷県一帯の回族人民は、国民党反動派の横暴きわまるとりたて、兵隊狩り、人夫狩り、イスラム教寺院の破壊などの反動的な措置に反対して、大規模な武装蜂起をおこなった。一九四三年四月以後、蜂起地区は二十余県にひろがり、参加者は一時は十万人をこえた。国民党反動派は、六コ師団の軍隊をあい前後してさしむけ、飛行機までもくりだして、地方の反動武装組織に呼応し、蜂起した大衆にたいして残酷な虐殺をおこなった。

maobadi 2011-01-14 21:25
愚公、山を移す

          (一九四五年六月十一日)


 これは、毛沢東同志が中国共産党第七回全国代表大会でのべた閉会のことばである。


 われわれは、りっぱな大会をひらくことができた。われわれは、つぎの三つのことをした。第一は、党の路線をきめたこと、すなわち、おもいきって大衆を立ちあがらせ、人民の力を強大にして、わが党の指導のもとに、日本侵略者をうちやぶり、全国人民を解放し、新民主主義の中国を樹立するという路線をきめたことである。第二は、新しい党規約を採択したことである。第三は、党の指導機関――中央委員会を選出したことである。今後の任務は、全党を指導して党の路線を実現することである。われわれの大会は、勝利の大会であり、団結の大会であった。代表諸君は、三つの報告〔1〕にたいしてたいへんよい意見をだした。多くの同志は、自己批判をおこない、団結の目標から出発し、自己批判をへて、団結にたっした。今回の大会は、団結の手本であり、自己批判の手本であり、また党内民主主義の手本であった。
 大会が終われば、多くの同志は自分の持ち場に帰り、それぞれの戦場におもむくことになる。同志諸君は、各地にいったら、大会の路線を宣伝し、また全党の同志をつうじて、広く人民にこれを説明しなければならない。
 われわれが大会の路線を宣伝するのは、全党と全国人民に、革命はかならず勝利するという確信をもたせるためである。なによりもまず前衛に、決意をかため、犠牲をおそれず、あらゆる困難を克服して、勝利をたたかいとるよう自覚させるべきである。だが、それだけではまだ不十分であって、さらに、全国の広範な人民大衆に、心からすすんでわれわれとともに奮闘し、勝利をたたかいとるよう自覚させなければならない。中国は反動派のものではなく、中国人民のものであるという確信を、全国人民にもたせるべきである。中国には、むかし、「愚公、山を移す」という寓話があった。その話というのは、むかし、華北に住んでいた北山の愚公という老人の物語である。老人の家の南側には、太行山《タイハンシャン》と王屋山《ワンウーシャン》という二つの大きな山があって、家に出入りする道をふさいでいた。愚公は、息子たちをひきつれ、くわでこの二つの大きな山をほりくずそうと決意した。智叟という老人がこれをみてふきだし、こういった。お前さんたち、そんなことをするのは、あまりにもばかげているじゃないか、お前さんたち親子数人で、こんな大きな山を二つもほりくずしてしまうなんてとてもできゃあしないよ、と。愚公は答えた。わたしが死んでも息子がいるし、息子が死んでも孫がいる、子々孫々と絶えることがないのだ。この二つの山は高いけれども、これ以上高くなりはしない。ほればほるだけ減るのだから、どうしてほりくずせないことがあろうか、と。愚公は智叟のあやまった考えを反ばくし、すこしも動揺しないで、毎日、山をほりつづけた。これに感動した上帝は、ふたりの神を下界におくって、二つの山を背負いさらせたというのである〔2〕。いま、中国人民の頭上にも、やはり帝国主義と封建主義という二つの大きな山がのしかかっている。中国共産党ははやくから、この二つの山をほりくずしてしまおうと決意している。われわれは、かならずやりぬき、たえまなく働きつづける。そうすればわれわれも上帝を感動させるであろう。この上帝とはほかならぬ全中国の人民大衆である。全国の人民大衆が、いっせいに立ちあがって、われわれといっしょにこの二つの山をほるなら、どうしてほりくずせないことがあろうか。
 きのう、わたしは帰国する二人のアメリカ人にこういった。アメリカ政府はわれわれを破壊しようとしているが、これはゆるせない。われわれは、アメリカ政府の援蒋反共政策に反対する。だが、われわれは、第一に、アメリカ人民とかれらの政府とを区別し、第ニに、アメリカ政府内の政策決定者と下部の一般職員とを区別するものである。わたしはこの二人のアメリカ人につぎのようにいった。あなたがたアメリカ政府の政策決定者につたえなさい。わが解放区は諸君がそこにはいるのを禁止する。なぜなら、諸君の政策が援蒋反共で、われわれは気がゆるせないからである。もし諸君が日本と戦うために解放区にはいるのならよいが、ただ、とりきめを結んでおかなければならない。もし諸君がこそこそとやたらに歩きまわるならば、それはゆるせない。ハーレーはすでに公然と、中国共産党とは協力しないと言明している〔3〕。それなのに、どうしてわれわれの解放区にきて、やたらに歩きまわろうとするのか。
 アメリカ政府の援蒋反共政策は、アメリカ反動派の凶暴さを物語っている。だが、中国人民の勝利をはばもうとするあらゆる内外反動派のくわだては、すべて失敗を運命づけられている。いまの世界の流れは、民主主義が主流であり、反民主主義的反動は逆流にすぎない。当面、反動の逆流が民族独立と人民民主主義の主流を圧倒しようとくわだてているが、反動の逆流は、結局、主流になることはありえない。スターリンがはやくからのべているように、いまなお、旧世界にはつぎの三つの大きな矛盾がある。第一は、帝国主義国におけるプロレタリア階級とブルジョア階級との矛盾、第二は、帝国主義国間の矛盾、第三は、植民地・半植民地国と帝国主義宗主国との矛盾である〔4〕。この三つの矛盾は、依然として存在しているばかりでなく、いっそう鋭くなり、いっそう拡大している。これらの矛盾が存在し、発展しているので、反ソ・反共・反民主主義の逆流があっても、このような反動の逆流はいつかはかならず粉砕されるのである。
 いま、中国では二つの大会がひらかれている。一つは国民党の第六回代表大会、一つは共産党の第七回代表大会である。二つの大会はまったく異なった目的をもっている。一つは、共産党と中国の民主主義勢力を滅ぼして、中国を暗黒にみちびくものであり、一つは、日本帝国主義およびその手先である中国の封建勢力をうちたおして、新民主主義の中国を建設し、中国を光明にみちびくものである。この二つの路線はたがいにたたかっている。われわれは、中国人民が中国共産党の指導のもとに、中国共産党第七回大会の路線にみちびかれて完全な勝利をかちとること、そして、国民党の反革命路線がかならず失敗することをかたく信ずるものである。



〔注〕
〔1〕 中国共産党第七回全国代表大会で毛沢東同志のおこなった政治報告、朱徳同志のおこなった軍事報告、劉少奇同志のおこなった党規約改正についての報告をさす。
〔2〕 愚公、山を移すというのは、『列子』の「湯問」編に出てくるつぎのような物語である。「太行、王屋の二山は七百華里四方で、高さは万仭もある。もと冀州の南、阿陽の北にあった。北山の愚公というひとは、もう九十に近い年であったが、その住まいが山に面していた。山の北側でふさがれているため、出入りのたびに遠まわりをするのに懲り、家族をあつめて、こう相談した。わしとお前たちが全力をあげて、山をほりくずし、これを平らにして、河南の南に通じ、漢水の北にも達するようにしたら、どんなものだろう、と。みなが口をそろえて、これに賛成した。妻が疑問をだし、こういった。あなたの力では魁父《かいふ》の丘さえつぶすことができないのに、どうして、太行山と王屋山をほりくずせましょう。そのうえ、土や石をどこへやるのですか、と。みながこういった。それは渤海の底、隠土の北にすてればよい、と。そこで、子や孫など運ぶもの三人をひきつれて、石をわり、土をほりくずし、箕《み》や畚《もっこ》で渤海に運びはじめた。隣人京城氏のやもめ婆さんに息子がおり、乳歯が抜けかわったばかりの年頃であったが、かけつけてきて、これに協力した。寒暑の季節もあらたまったとき、ようやく一度往復した。河曲の智叟がこれを笑い、思いとどまらせようとして、こういった。なんてまあお前さんは馬鹿なんだろう。年よりの力では、山の雑木一本だって折れはしないのに、どうして、土や石がほりくずせるものかね、と。北山の愚公は長いため息をついて、こういった。お前さんときたら、まったく手がつけられないほどの石あたまだね、やもめ婆さんやひよわい子どもよりもまだ物わかりがわるいよ。わたしが死んだとて、息子がいるし、息子はまた孫をうみ、孫はまた子どもをうむ。その子にはまた子どもができ、子どもにはまた孫ができる。このように、子子孫孫、無限につづいてゆくが、山はふえることはない。ほりくずせないなんて心配をする必要がどこにあろう、と。河曲の智叟は返すことばがなかった。操蛇の神がこれをきき、そのねばりづよい努力におそれをなして、これを上帝につげた。上帝はそのまごころに感動し夸娥《こが》氏の二人の子に命じて二つの山を背負わせ、一つを朔東に移し、一つを雍南に移させた。これからのち、冀州の南、漢水の北には交通をさまたげる丘陵はなくなった。」
〔3〕 ハーレーはアメリカ共和党の反動的政治家のひとりである。一九四四年末、アメリカの駐華大使に任命されたが、蒋介石の反共政策を支持したため、中国人民の断固とした反対にあい、一九四五年十一月、辞職せざるをえなくなった。ハーレーが中国共産党と協力しないと公然と言明したというのは、一九四五年四月二日、かれがワシントン国務省の記者会見でおこなった談話のことである。詳細は、「ハーレーと蒋介石の猿芝居はすでに破産した」という論文にみられる。
〔4〕 スターリンの『レーニン主義の基礎について』の第一部分「レーニン主義の歴史的根源」にみられる。

maobadi 2011-01-14 21:25
軍隊の生産自給、あわせて整風、生産の二大運動の重要性について
          (一九四五年四月二十七日)

     これは、毛沢東同志が延安の『解放日報』にかわって書いた社説である。

 われわれの軍隊が、極度の物質的困難にぶつかっている現状のもとでは、また、分散して戦っている現状のもとでは、けっして、上部の指導機関が物資供給の責任をすべて負うようなことをしてはならない。そうすれば、下部の広範な人びとの手足をしばることにもなるし、下部の要求をみたすこともできなくなる。われわれは、同志諸君、みんなで労働して困難を克服しようではないか、というべきである。上部が適切に任務を提起し、おもいきって下部に自力更生させさえすれば、問題は解決できるし、しかも、いっそうりっぱに解決することができる。もし上部がそうしないで、実際にはにないきれないすべての責任をいつまでも自分でにない、おもいきって下部にやらせようとせず、広範な大衆の自力更生の積極性をもりあげようとしないなら、たとえ上部が力をつかいはたしても、結局は、上下ともに苦境におちいることになり、現在の条件のもとでは、いつまでも問題を解決することはできない。数年らいの経験がすでにこの点を十分に立証している。わが解放区が当面の条件のもとですべての経済生活を組織するさいの正しい原則は、「統一指導、分散経営」の原則であることがすでに立証されている。
 解放区の軍隊は、すでに九十余万にたっしている。日本侵略者をうち負かすには、さらに軍隊を九十万の同情かに拡大することが必要である。しかし、われわれには、まだ外からの援助がない。たとえ将来、外からの援助があったとしても、生活必需品はやはりわれわれ自身でまかなうよりほかはないこと、この点についてはいささかの主観主義もあってはならない。近い将来、われわれは、必要な兵団を集中して、現在の分散作戦地区をはなれ、一定の攻撃目標地点にいって戦うことが必要となる。こうした集中して行動する大兵団では、生産自給ができなくなるばかりでなく、後方からの大量の物資供給も必要になり、これまでどおり戦いながら生産をつづけられるのは、残留する地方部隊と地方兵団(その数はやはり多いであろう)だけである。このように見てくれば、わが全軍が、いまのうちに、戦闘と訓練をさまたげない範囲で、一様に、部分的な生産自給の任務を完遂することに習熟しなければならないことは、疑問の余地もあるまい。
 軍隊の生産自給は、われわれのおかれている条件のもとでは、形のうえではおくれた、退歩的なものであるが、実質は進歩的なものであり、大きな歴史的意義をもっている。形のうえでは、われわれは分業の原則にそむいている。しかし、われわれのおかれている条件のもとでは  国の貧困、国の分裂(これらはみな国民党の主要支配集団によってつくりだされた罪憩的な結果である)および分散的な長期の人民遊撃戦争のもとでは、われわれがこうすることこそ進歩的なのである。みたまえ、国民党の軍隊は血色がわるく、やせこけているが、解放区の軍隊はたくましいからだをしているではないか。みたまえ、われわれ自身も、生産自給をしていなかったときには、なんと困難であったか、いったん生産自給をしてからは、なんと楽になったことか。いま、われわれの前にある二つの部隊、たとえば二つの中隊に、二つのやり方のうちのどちらかを選ばせてみよう。つまり、上部から生活必需品を全部支給するやり方か、それとも、生活必需品をあたえないか少ししかあたえないで、その全部、大部分、半分、または小部分を生産自給させるやり方か、そのどちらかを選ばせるのである。どちらがよりよい結果をうむだろうか。どちらをかれらは受けいれたがるだろうか。一年間、まじめに生産自給をやってみたあとには、きっと、あとのやり方がよい結果をうむと認めて、それを受けいれたがるようになり、きっと、前のやり方は結果がおとると認めて、それを受けいれたがらなくなるであろう。なぜなら、後者では、われわれの部隊のすべての成員の生活が改善されるが、前者では、物質的に困難な当面の条件のもとで、上部がどのように供給しても、かれらの要求をみたすことはできないからである。われわれが、こうした表面的には「おくれた」、「退歩的な」やり方をとったことによって、われわれの軍隊は生活必需品の困難を克服し、生活を改善し、一人ひとりがたくましいからだになった。その結果として、おなじく困難のなかにある人民の租税負担を軽減することができるので、人民から支持されるし、また、長期の戦争をささえ、軍隊を拡大できるので、解放区を拡大し、被占領区を縮小し、侵略者の最終的消滅、全中国の解放という目的をたっすることができるようになる。こうした歴史的意義は、それでも偉大ではないのだろうか。
 軍隊の生産自給は、たんに、生活を改善し、人民の負担を軽減し、しかもそれによって、軍隊を拡大することができたばかりでなく、ただちに、多くの副産物をもたらした。それらの副産物とはつぎのようなものである。(一)将兵関係が改善された。将校と兵士が生産労働をともにして、兄弟のように親しくなった。(二)労働観念が強化された。われわれの現行の制度は、旧式の募兵制でもなければ徴兵制でもなく、第三の兵役制――政治動員制である。これは、募兵制にくらべれはいくぶんましで、それほど多くののらくら者はつくりださないが、徴兵制にくらべれば、いくぶんおとっている。われわれの当面の条件のもとでは、まだ、徴兵制をとることはできず、政治動員制をとることしかゆるされない。動員されてきた兵士は長いあいだ軍隊生活をするので、労働観念が弱まり、そのため、のらくら者をうみだしたり、軍閥の軍隊にみられる若干の悪い気風に染まることもある。生産自給をはじめてから、労働観念が強まり、のらくら者の気風があらたまった。(三)規律が強化された。生産における労働規律の励行は、戦闘規律や軍人の生活規律を弱めるどころか、かえってそれらを強化することになる。(四)軍民関係が改善された。軍隊が家計を確立するようになってからは、民衆の財物を侵害するようなことがすくなくなったか、あるいはまったくなくなった。生産のなかで、軍隊と民衆が労働力を交換してたがいに助けあうようになったので、かれらのあいだの友愛関係がいっそう強まった。(五)軍隊が政府に不平をいうようなこともすくなくなり、軍隊と政府との関係もよくなった。(六)人民の大生産運動が促進された。軍隊が生産をするようになったので、機関の生産の必要性がいっそうはっきりし、いっそう熱がはいってきた。全人民の普遍的な増産運動も、当然その必要性がいっそうはっきりし、いっそう熱がはいってきた。
 一九四二年と一九四三年にあい前後してはじまった、普遍的な整風運動と生産運動は、それぞれ精神生活の面と物質生活の面で、すでに決定的な役割をはたしたし、またはたしつつある。この二つの環を適時につかまなければ、われわれは革命の全連鎖をつかむことができず、われわれの闘争をひきつづき前進させることもできない。
 周知のように、一九三七年以前に入党したわが党員で、残っているのは数万人にすぎないが、現在のわが党員は百二十余万人であり、その大多数は農民およびその他の小ブルジョア出身者である。かれらは愛すべき革命の積極性をもっているし、マルクス主義の訓練を受けいれたいともおもっている。しかし、かれらはマルクス主義に合致しないか、またはあまり合致しない本来の思想をもったまま入党したのである。このような状況は、一九三七年以前に入党した党員のあいだにもみられる。これはきわめて深刻な矛盾であり、きわめて大きな困難である。このような状況のもとでは、普遍的なマルクス主義の教育運動、すなわち整風運動をおこなわずに、はたして、われわれは、順調に前進できるだろうか。できないことは明らかである。しかし、われわれは、大量の幹部のあいだで、この矛盾――党内のプロレタリア思想と非プロレタリア思想(このなかには、小ブルジョア思想、ブルジョア思想があり、地主階級の思想さえあるが、おもなものは小ブルジョア思想である)とのあいだの矛盾、すなわちマルクス主義思想と非マルクス主義思想とのあいだの矛盾を解決したし、また解決しつつあるので、わが党は、思想的にも、政治的にも、組織的にも、これまでになく統一されて(完全には統一されていないが)、大幅に、しかし、着実に前進することができるようになった。今後、わが党は、いっそう大きな発展をとげるであろうし、またとげなければならない。しかも、われわれは、マルクス主義の思想的原則のもとで、将来の発展をよりよく掌握できるようになっている。
 もう一つの環は生産運動である。抗戦は八年つづいたが、はじめのうち、われわれには、食べるものもあったし、着るものもあった。その後、だんだん困難になって、食糧が不足し、食油食塩も不足し、被服も不足し、経費も不足するというたいへん困難な状態におちいった。これは、一九四〇年から一九四三年にかけての、敵の大がかりな進攻と国民党政府の三回にわたる大規模な反人民闘争(いわゆる「反共の高まり」)とともにやってきたきわめて大きな困難であり、きわめて大きな矛盾であった。もしこの困難を解決せず、この矛盾を解決せず、この環をつかまなかったとしたら、われわれの抗日闘争は、前進することができただろうか。できなかったことは明らかである。しかし、われわれは生産に習熟したし、またげんに習熟しつつある。これによって、われわれはふたたび活発になり、生気にあふれてきた。さらに数年もたてば、われわれはどのような敵をもおそれなくなり、すべての敵を圧倒するであろう。
 このようにみてくると、整風と生産の二大運動がどのような歴史的重要性をもっているかは、きわめてはっきりしている。
 われわれは、他の戦闘任務の基礎として、この二大運動をさらに一歩すすんで普遍的におしひろめよう。ほんとうにそれができれば、中国人民の徹底的な解放は、確実なものとなる。
 いまは、ちょうど春の耕作期であり、解放区の指導的同志、要員、人民大衆がすべて、時機を失せず、生産の環をつかんで、昨年よりもいっそう大きな成果をあげるよう希望する。とりわけ、まだ生産に習熟していない地区では、ことしはいっそう大きな努力をはらうべきである。

maobadi 2011-01-14 21:26
ハーレーと蒋介石の猿芝居はすでに破産した
          (一九四五年七月十日)
     これは、毛沢東同志が新華社にかわって書いた論評である。

 蒋介石の専制支配に粉飾をほどこす目的で招集された第四期国民参政会が、七月七日重慶でひらかれた。一回目の会議にあつまったものは、これまでの参政会にみられないほど少なかった。中国共産党の側からだれも出席しなかったばかりでなく、その他の方面でも欠席したものが非常に多かった。定員二百九十名の参政員のうち、出席したのは百八十名にすぎなかった。開会にあたって、蒋介石がひとくさり弁じた。「政府は、国民大会の招集にかんする問題では、各位が十分討議できるように、いかなる具体案も提出しないつもりである。政府は、もっとも誠実、卒直な態度で、これらの問題について各位の意見を拝聴したい」と蒋介石はいった。これで、ことしの十一月十二日に国民大会を招集するという案件もひっこめられたようだ。この案件はまた、帝国主義者ハーレーと関係がある。実は、この帝国主義者は、蒋介石がこの手をうつように極力そそのかしてきたのである。それで、蒋介石もようやく、ことしの元旦の演説〔1〕ではいくらか腰が強くなり、三月一日の演説〔2〕では大いに腰が強くなって、十一月十二日にかならず「政権を国民にかえす」といったのである。蒋介石は、その三月一日の演説では、中国共産党が中国人民の総意を代表して提起した、各政党の会議の招集と連合政府の樹立についての主張を、頭から拒否した。そして、アメリカ人の参加する三人委員会なるものを組織して中国共産党の軍隊を「再編成する」ことについて得々とぶった。蒋介石は、あろうことか、中国共産党はまず軍隊を自分に引きわたせ、そうしたら「合法的地位」をめぐんでやる、とさえいった。これらのことにはすべて、ハーレー旦那のしりおしが決定的な役割をはたしていた。四月二日、ハーレーは、ワシントンで声明を発表して、中国共産党の地位を抹殺《まっさつ》し、中国共産党の活動を中傷し、中国共産党とは協力しないなどという帝国主義のでたらめな言いぐさをならべたてたうえ、さらに蒋介石の「国民大会」などの鼻持ちならぬしろものを極力ほめそやした。このように、アメリカのハーレーと中国の蒋介石は、中国の人民を犠牲にすることを共通の目標として、一人が歌えば一人が踊りだすというふうに、にぎやかなことこの上なしであった。だが、それからあとは、腰くだけの運命をたどっている模様である。中国人と外国人とをとわず、国民党内と国民党外とをとわず、政党に属するものと属さないものとをとわず、これに反対するものがいたるところにいて、その数はかぞえきれない。その原因は一つしかない。つまり、ハーレーと蒋介石がいかにもっともらしくふいちょうしようと、しょせん、かれらのこのようなやり方は、中国人民の利益を犠牲にし、中国人民の団結をいっそう破壊し、中国の大規模な内戦をひきおこす地雷を埋め、したがって、反ファシズム戦争と戦後の平和共存におけるアメリカ人民その他の連合国の人民の共同の利益をも破壊するものだ、ということである。最近、ハーレーは、何が忙しいのか知らないが、とにかく、一時ひっこんだ形になり、おかげで蒋介石は参政会の席上わけのわからないことをしゃべらなければならなくなった。三月一日、蒋介石は、「わが国の事情は他国と異なるのであって、国民大会が開催されるまで、わが国には、人民を代表することができ、政府が民意を問うことのできるような責任ある団体は一つも存在しない」といったものである。そうだとしたら、わが委員長はなんのためにまた参政会から「意見」を「拝聴」するのかわからない。委員長の論法からすれば、中国の国内には「民意を問うことのできるような責任ある団体」は一つもなく、参政会はごくつぶしの「団体」にすぎないので、こんにちの「拝聴」には法的根拠がないわけである。だが、いずれにせよ、参政会が例のにせの「国民」大会の開催をやめると言いさえすれば、たとえ三月一日の聖旨にそむき、王法をおかしたとしても、やはり、善事をおこない、功徳をつんだことにはなる。参政会が、はたして、どんなことを委員長に「拝聴」してもらうかは、なお数日待たなければわからないのだから、こんにち、参政会について論評をくわえることは、もちろん、時期尚早である。だが、つぎの点は確実である。つまり中国人民がひろく立ちあがって反対してからは、「立憲君主」に熱心な人びとでさえも、わが君主のために憂い、豚の子国会とよばれたあの首締め縄にかかりたもうな、袁世凱《ユァンシーカイ》の死神にとりつかれたもうなと、かれに勧告しているということである。したがって、わが君主もこれで手をひっこめるようなことになるかもしれない。だが、わが君主と側近どもは、ほんのわずかでも権力をかるがるしく人民にあたえて、自分たちが毛すじ一本でもうしなうというようなことはけっしてしない。この君千が人民の合理的な批判を「勝手気ままな攻撃」といっていることが、身近な例としてあげられる。かれのいうところによれば、「戦争状態のもとでは、被占領地域でいかなる普通選挙もおこなえないことはあきらかである。したがって、二年まえに、国民党中央執行委員会全体会議は、戦争終結後一年以内に、国民大会を招集し、憲政を実施することについての決定をおこなった。ところが、いくつかの方面の人びとは、当時これを勝手気ままに攻撃し」、それではおそすぎるといった、というのである。そこで、かれが、「戦争の完全に終結する時期はあるいは長びくかもしれず、たとえ、戦争が終結したとしても各地の秩序はやはり短期間には回復しないかもしれないという点を考慮して、戦局が安定したときにただちに国民大会を招集することを主張」すると、意外にも、それらの人びとはまたもや「勝手気ままに攻撃」した。こうして、わが君主はたいへんやりにくくなってしまったのである。だが、中国人民は、蒋介石とその一味に、きみたちがどんなふうに言おうと、どんなふうにやろうと、およそ人民の意志にそむく欺瞞《ぎまん》ならだんじて許すことはできない、と言ってきかせる必要がある。中国人民がもとめているのは、政治犯を釈放し、時路を廃止し、人民に自由をあたえ、各政党に合法的地位をあたえる、などといった民主改革をただちに実行することである。諸君は、これらの点についてなに一つ実行しないでおいて、「国民大会」招集の時期の問題で小細工をろうしているが、こんなことでは三歳の子どもさえだませない。まじめな最低限の民主改革をぬきにしては、大会であろうが小会であろうが、みな、肥だめになげこまれるほかはない。「勝手気ままな攻撃」とよぶならそれもよかろう、こうした欺瞞はどんなものでも、断固として、徹底的に、きれいに、残らずたたきつぶすべきであり、けっしてひとかけらも残してはならない。その理由はほかでもなく、それが欺瞞だからである。国民大会が存在するかしないかということと、最低限の民主改革がおこなわれるかおこなわれないかということは、別のことがらである。前者はしばらくなくてもよいが、後者はどうしてもただちに実施しなくてはならない。蒋介石とその一味が、「期日をくりあげて」「政権を国民にかえし」たいというのなら、なぜ、「期日をくりあげて」いくつかの最低限の民主改革を実施しようとしないのか。国民党の諸先生、わたしはいま最後の数行を書いているが、諸君は中国共産党員が諸君を「勝手気ままに攻撃」しているのではないということを認めるべきである。一つの問題を提起するだけでもいけないというのだろうか。諸君はこれに答えないでいてもよいのだろうか。諸君が「政権を国民にかえし」たいといいながら、民主改革を実施したがらないのはなぜか、諸君はこの問いに答えなければならない。



〔1〕 これは、一九四五年一月一日の蒋介石の放送演説をさす。かれは、演説のなかで、過去一年間国民党軍隊が日本侵略軍の進攻のまえにしめした恥すべき敗退については一言もふれず、ほしいままに人民を中傷し、全国人民と抗日諸政党の支持している、国民党一党独裁の廃止、連合政府と連合統帥部の樹立についての主張に反対した。また、国民党一党独裁を固持し、人民に反対するための楯として、全国人民から唾棄されている国民党の御用「国民大会」開催の用意があるということをもちだした。
〔2〕 これは、一九四五年三月一日の重慶憲政実施協進会での蒋介石の演説をさす。蒋介石は「元旦の演説」の反動的主張を固持するとともに、アメリカの代表の参加する三人委員会を組織して八路軍、新四軍を「再編成する」ことを提案し、アメリカ帝国主義者が中国の内政に干渉することを公然と要求した。
訳注
① 一九二三年、北洋軍閥書[金+昆]は、「大総統」になるために、一票につき銀貨五千元の賄賂で議員を買収した。そのとき買収された議員は、「豚の子議員」とよばれ、その国会も「豚の子国会」とよばれた。毛沢東同志は、ここでは、国民党のまやかし選挙による「国民大会」を「豚の子国会」にたとえている。

maobadi 2011-01-14 21:26
ハーレーの政策の危険性について
          (一九四五年七月十二日)
     これは、毛沢東同志が新華社にかわって書いた論評である。

 中国駐在アメリカ大使ハーレーに代表されるアメリカの対中国政策が中国の内戦の危機をつくりだしているということが、ますますはっきりしてきている。反動政策にしがみつく国民党政府は、十八年前に成立したその日から、内戦でくらしをたててきたのであって、ただ、一九三六年における西安事変と一九三七年における日本の中国中心部侵入の時機に、やむなく、全国的規模の内戦を一時放棄しただけである。だが、一九三九年からは、また局部的な内戦をひきおこし、しかもやめたことがない。国民党政府の内部動員のスローガンは「反共第一」で、抗日は副次的な地位におかれている。いま、国民党政府のすべての軍事的配置の重点は、日本侵略者との闘争の面ではなくて、中国解放区にたいする「失地の回復」と中国共産党の消滅の面におかれている。抗日戦争の勝利のためにも、戦後の平和的建設のためにも、こうした状況を重大なものとして考慮に入れておかなければならない。ルーズベルト大統領は生前この点を考慮していた。かれはアメリカの利益のため、中国共産党にたいする国民党の武力攻撃をたすける政策はとらなかった。一九四四年十一月、ハーレーは、ルーズベルトの私的代表の資格で延安にやってきたとき、国民党の一党独裁の廃止、民主的な連合政府の樹立という中国共産党の計画に賛成したのである。だが、かれは、のちになって豹変《ひょうへん》し、自分が延安で口にしたことばにそむいてしまった。このような豹変は、四月二日、ハーレーがワシントンで発表した声明に露骨にあらわれている。このときになると、おなじハーレーの口で語られながら、蒋介石《チァンチェシー》に代表される国民党政府は美人に変わり、中国共産党は悪魔に変わっている。そのうえ、アメリカは蒋介石とだけ協力し、中国共産党とは協力しないと、かれはあからさまに言明している。もちろん、これはたんにハーレー個人の意見ではなくて、アメリカ政府内の一群の人びとの意見であるが、これはあやまった、しかも危険な意見である。ちょうどこのころ、ルーズベルトが世を去った。ハーレーは意気揚々と重慶《チョンチン》のアメリカ大使館にかえってきた。ハーレーに代表されるアメリカのこの対中国政策の危険性は、それが国民党政府の反動化を助長し、中国の内戦の危機を増大させたことにある。もし、ハーレーの政策がつづけられるならば、アメリカ政府は、中国反動派の臭くて深い肥だめにおちこんで足がぬけなくなり、すでに目ざめた、またひきつづき目ざめつつある幾億の中国人民に敵対する側に自分自身をおくことになって、当面は抗日戦争のさまたげとなり、将来は世界平和のさまたげとなるだろう。この必然的ななりゆきが、まだはっきり見えないのだろうか。中国の前途という問題について、中国人民の独立、自由、統一を要求する阻止しがたい勢力が必然的に民族的抑圧と封建的抑圧にかわって勃興《ぼっこう》するということをはっきりと見ているアメリカの一部の世論は、ハーレー式の危険な対中国政策にたいして焦燥を感じ、この政策の変更を要求している。だが、アメリカの政策が、いったい変更されるかどうか、また、いつになったら変更されるかについて、こんにちのところ、われわれはまだ何ともいえない。確実にいえることは、中国の反人民勢力をたすけ、このように広範な中国人民を敵とするこのハーレー式の政策がこれからも変わらないとすれば、それは、アメリカ政府とアメリカ人民に、たえがたい重荷と尽きることのない災禍をもたらすだろう、ということである。このことを、アメリカ人民にはっきりと認識させなければならない。

maobadi 2011-01-14 21:27
フォスター同志への電報

          (一九四五年七月二十九日)
 フォスター同志ならびにアメリカ共産党中央委員会御中
 アメリカ共産主義政治協会特別会議がブラウダーの修正主義の路線すなわち投降主義の路線〔1〕の放棄を決定し、マルクス主義の指導を再確立するとともに、すでにアメリカ共産党を再建したことを知り、喜びにたえない。われわれは、アメリカ労働者階級とマルクス主義運動のこの偉大な勝利にたいして、熱烈な祝意を表するものである。ブラウダーの修正主義――投降主義の路線全体(この路線はブラウダーの著書『テヘラン』に十分にしめされている)は、本質的には、アメリカ労働運動におけるアメリカ反動資本家集団の影響のあらわれである。この反動資本家集団は、現在なお中国におけるその影響を極力拡大しようとしており、中国国民党内の反動集団の反民族的反人民的なあやまった政策を支持し、中国人民を重大な内戦の危機に直面させ、中国、アメリカ両大国の人民の利益をそこないつつある。ブラウダーの修正主義――投降主義にたいするアメリカ労働者階級とその前衛であるアメリカ共産党の勝利は、中国、アメリカ両国人民が目下おこなっている反日戦争と戦後における平和と民主主義の世界の建設という偉大な事業に、疑いもなく大きな貢献をするであろう。



〔1〕 ブラウダーは、一九三○年から一九四四年までアメリカ共産党の書記長であった。第二次世界大戦中、ブラウダーに代表されるアメリカ共産党内の右翼思想は、反マルクス主義的修正主義――投降主義路線を形成した。ブラウダーは、一九四三年十二月いらい、多くの講演と論文のなかで、この修正主義――投降主義の主張を鼓吹し、一九四四年四月には、かれの右翼日和見主義の綱領としての著書『テヘラン』を出版した。ブラウダーは、帝国主義が独占的な、腐朽した、死滅しつつある資本主義であるというレーニン主義の基本理論を「修正」し、アメリカ資本主義の帝国主義的性質を否定し、それはまだ「年若い資本主義制度としてのいくつかの特徴をもっている」ものと考え、アメリカのプロレタリア階級と大ブルジョア階級とのあいだには「共通の利害」があると考え、トラスト制度の擁護を主張し、「階級協調」をつうじてアメリカ資本主義の不可避的な危機がさけられると夢想した。ブラウダーはアメリカ資本主義にたいするでたらめな評価から出発し、独占資本にたいする階級協力という投降主義の路線から出発して、一九四四年五月、自分が中心になって、アメリカのプロレタリア階級の政党――アメリカ共産党を解散させ、別に非党組織であるアメリカ共産主義政治協会を組織した。ブラウダーのこのあやまった路線は、最初から、フォスター同志を先頭とする多くのアメリカ共産党員によって反対されていた。一九四五年六月、アメリカ共産主義政治協会は、フォスター同志の指導のもとに、ブラウダー路線を批判する決議を採択した。同年七月には、また、アメリカ共産主義政治協会の特別全国代表者会議がひらかれ、ブラウダー路線を徹底的に是正し、アメリカ共産党を再建することが決定された。ブラウダーは、その後も、依然としてプロレタリア階級を裏切る主張を固執し、トルーマン政府の帝国主義政策を公然と支持するとともに、反党的な分派活動をおこなったので、一九四六年二月に、党から追放された。

maobadi 2011-01-14 21:27
日本侵略者にたいする最後の一戦

          (一九四五年八月九日)
 八月八日、ソ連政府が対日宣戦布告をおこなった。中国人民はこれを心から歓迎する。ソ連のこの行動によって、対日戦争の時間は大いに短縮されるであろう。対日戦争はすでに最後の段階にはいり、日本侵略者とそのすべての手先に最終的にうち勝つ時期がすでにやってきた。このような状況のもとで、中国人民のあらゆる抗日勢力は、全国的規模の反攻をおこない、ソ連およびその他の連合国と緊密に効果的に呼応して戦うべきである。八路軍、新四軍およびその他の人民軍隊は、あらゆる可能な条件を利用して、投降しようとしないすべての侵略者およびその手先にたいし広範囲にわたって進攻をおこない、敵の力を殲滅《せんめつ》し、その武器と資材を奪取し、はげしい勢いで解放区を拡大し、被占領区を縮小すべきである。武装工作隊をおもいきって組織して、何百隊何千隊と敵後方にある敵後方の奥深くへおくりこみ、かれらが人民を組織して、敵の交通線を破壊し正規軍に呼応して戦うようにさせなければならない。被占領区の何百何千万の大衆をおもいきって立ちあがらせ、ただちに地下軍を組織して、武装蜂起を準備し、外部からの進攻部隊に呼応して、敵を消滅しなければならない。解放区強化の活動にもひきつづき心をくばるべきである。ことしの冬から来年の春にかけて、現在の一億の人民とすべての新解放区の人民のなかで、小作料と利子の引き下げを普遍的に実行し、生産を発展させ、人民の政権と人民の武装力を組織し、民兵活動を強化し、軍隊の規律を強化し、各界人民の統一戦線を堅持し、人力、物力の浪費を防止すべきである。これらはすべて、敵にたいするわが軍の進攻を強化するためのものである。全国人民は、内戦勃発《ぼっぱつ》の危険を阻止することに心をそそぎ、民主連合政府の樹立を促進することに努力しなければならない。中国民族解放戦争の新しい段階がすでにやってきた。全国人民は団結を強化し、最後の勝利をかちとるためにたたかうべきである。

maobadi 2011-03-29 22:52
毛沢東選集 第四巻
北京 外文出版社
(1968年 初版を電子化)

     電子版凡例(原版の凡例相当部分を適宜変更)

一 本訳書は北京人民出版社一九六四年九月出版の『毛沢東選集』第一巻から第四巻までの完訳である。各論文の解題と注釈もこの版から訳出したものである。
一 注釈は底注と訳注にわかれ、原注は漢数字を〔 〕でかこみ(電子版は漢数字ではなく、半角数字を〔 〕で囲んでいる)、各論文の末尾においた。訳注は訳者がくわえたもので、算用数字を○(電子版では機種依存文字である①などで表現)でかこみ、原注のあとにおいた。
一 度量衡、通貨、行政区画については、一部をのぞいてすべて原文のままの単位を用い、訳注を付した。
一 読み仮名は、《 》で囲まれた範囲で示される。
一 第二水準で表現できない漢字は、基本的に[片+旁]で表現した。それ以外の表現も、適宜[ ]内で記した。
一 本電子版はMS IMEを用いて作成された。
一 傍点のある部分はhtml版では斜字、太字の部分はそのまま太字である。。
一 原文では旧字体などで表現されていても、電子版で表現できないなどの理由により新字体で表現しているところがある。例えば、蒋介石は原文では旧字体だが、電子版では新字体である。


     目次


  第三次国内革命戦争の時期
抗日戦争勝利後の時局とわれわれの方針(一九四五年八月十三日)
蒋介石は内戦を挑発している(一九四五年八月十三日)
第十八集団軍総司会から蒋介石にあてた二通の電報(一九四五年八月)
蒋介石のスポークスマンの談話を評す(一九四五年八月十六日)
国民党と和平交渉をすすめることについての中国共産党中央の通達(一九四五年八月二十六日)
重慶交渉について(一九四五年十月十七日)
国民党進攻の真相(一九四五年十一月五日)
小作料引き下げと生産は解放区をまもる二つの重要な仕事である(一九四五年十一月七日)
一九四六年の解放区活動の方針(一九四五年十二月十五日)
強固な東北根拠地をきずこう(一九四五年十二月二十八日)
当面の国際情勢についてのいくつかの評価(一九四六年四月)
自衛戦争によって蒋介石の進攻を粉砕せよ(一九四六年七月二十日)
アメリカの記者アンナ・ルイズ・ストロングとの談話(一九四六年八月)
優勢な兵力を集中して敵を各個に殲滅せよ(一九四六年九月十六日)
アメリカの「調停」の真相と中国の内戦の前途(一九四六年九月二十九日)
三ヵ月の総括(一九四六年十月一日)
中国革命の新しい高まりを迎えよう(一九四七年二月一日)
延安の一時放棄と陝西・甘粛・寧夏辺区の防衛についての中国共産党中央の二つの文書(一九四六年十一月、一九四七年四月)
西北戦場の作戦方針について(一九四七年四月十五日)
蒋介石政府はいまや全人民の包囲のなかにある(一九四七年五月三十日)
解放戦争第二年目の戦略方針(一九四七年九月一日)
中国人民解放軍宣言(一九四七年十月)
三大規律・八項注意をあらためて公布することについての中国人民解放軍総司令部の訓令(一九四七年十月十日)
当面の情勢とわれわれの任務(一九四七年十二月二十五日)
報告制度の確立について(一九四八年一月七日)
当面の党の政策におけるいくつかの重要問題について(一九四八年一月十八日)
軍隊内の民主運動(一九四八年一月三十日)
異なった地区で土地法を実施するうえでの異なった戦術(一九四八年二月三日)
土地改革の宣伝における「左」翼的な誤りを是正せよ(一九四八年三月十一日)
新解放区における土地改革の要点(一九四八年二月十五日)
商工業政策について(一九四八年二月三十七日)
民族ブルジョア階級と開明紳士の問題について(一九四八年三月一日)
西北地方の大勝利を評し、あわせて解放軍の新しい型の整軍運動を論ず(一九四八年三月七日)
状況についての通報(一九四八年三月二十日)
山西・綏遠解放区幹部会議での演説(一九四八年四月一日)
晉綏日報の編集部の人たちにたいする談話(一九四八年四月二日)
洛陽再攻略ののち洛陽前線指揮本部にあてた電報(一九四八年四月八日)
新解放区における農村活動の戦術問題(一九四八年五月二十四日)
一九四八年の土地改革活動と整党活動(一九四八年五月二十五日)
遼瀋戦役の作戦方針について(一九四八年九月、十月)
党委員会制度の健全化について(一九四八年九月二十日)
九月会議にかんしての中国共産党中央の通達(一九四八年十月十日)
淮海戦役の作戦方針について(一九四八年十月十一日)
全世界の革命勢力は団結して帝国主義の侵略とたたかおう(一九四八年十一月)
中国の軍事情勢の重大な変化(一九四八年十一月十四日)
平津戦役の作戦方針について(一九四八年十二月十一日)
杜聿明らに降伏をうながす書(一九四八年十二月十七日)
革命を最後まで遂行せよ(一九四八年十二月三十日)
戦犯の和を乞うを評す(一九四九年一月五日)
中国共産党中央委員会毛沢東主席の時局にかんする声明(一九四九年一月十四日)
南京行政院の決議についての中国共産党スポークスマンの論評(一九四九年一月三十一日)
元中国侵略日本軍総司令官岡村寧次の再逮捕と国民党内戦犯罪人の逮捕を国民党反動政府に命令することについての中国共産党スポークスマンの談話(一九四九年一月二十八日)
和平条件に日本人戦犯と国民党戦犯の処罰をふくむべきことについての中国共産党スポークスマンの声明(一九四九年二月五日)
軍隊を工作隊に変えよ(一九四九年二月八日)
四分五裂の反動派がなぜまだ「全面的和平」の空念仏をとなえるのか(一九四九年二月十五日)
国民党反動派は「和平のよびかけ」から戦争のよびかけに変わった(一九四九年二月十六日)
戦争責任の問題にたいする国民党のいくつかの答案を評す(一九四九年二月十八日)
中国共産党第七期中央委員会第二回総会での報告(一九四九年三月五日)
党委員会の活動方法(一九四九年三月十三日)
南京政府はどこへいく(一九四九年四月四日)
全国への進軍命令(一九四九年四月二十一日)
中国人民解放軍布告(一九四九年四月二十五日)
中国人民解放軍総司令部スポークスマンがイギリス軍艦の暴虐行為について発表した声明(一九四九年四月三十日)
新政治協商会議準備会での演説(一九四九年六月十五日)
人民民主主義独裁について(一九四九年六月三十日)
幻想をすてて、闘争を準備せよ(一九四九年八月十四日)
さらば、スチュアート(一九四九年八月十八日)
なぜ白書を討論する必要があるのか(一九四九年八月二十八日)
「友情」か侵略か(一九四九年八月三十日)
観念論的歴史観の破産(一九四九年九月十六日)

maobadi 2011-03-29 22:53
 第三次国内革命戦争の時期



   抗日戦争勝利後の時局とわれわれの方針
          (一九四五年八月十三日)

     これは、毛沢東同志が延安での幹部会議でおこなった演説である。この演説は、マルクス・レーニン主義の階級分析の方法にもとづいて、抗日戦争勝利後の中国の政治の基本情勢にふかい分析をくわえるとともに、プロレタリア階級の革命的戦術を提起している。毛沢東同志が、一九四五年四月、中国共産党第七回全国代表大会の開会のことばで指摘したように、日本帝国主義をうちやぶってからも、中国のまえには、新しい中国となるか、それとも、ふるい中国のままでいるか、という二つの運命、二つの前途が依然としてよこたわっていた。蒋介石に代表される中国の大地主・大ブルジョア階級は、人民の手から抗日戦争の勝利の果実をうばいとり、中国をこれまでどおりの大地主・大ブルジョア階級独裁の、半植民地・半封建の国家にしようとしていた。プロレタリア階級と人民大衆の利益を代表する中国共産党は、一方では、極力、平和のためにたたかい内戦に反対しなければならず、他方では、全国的な規模の内戦をおこそうとする蒋介石の反革命の計画にたいしても十分なそなえをもち、正しい方針をとらなければならなかった。それはつまり、帝国主義と反動派にたいして、幻想をいだかず、そのおどかしをおそれず、断固として人民の闘争の果実をまもりぬき、プロレタリア階級の指導する、人民大衆の、新民主主義の新中国をうちたてるために努力するということであった。中国の二つの運命、二つの前途の勝敗を決するたたかいが、抗日戦争の終結から中華人民共和国の成立にいたるまでのこの歴史的時期の内容であり、この歴史的時期とは、中国人民解放戦争の時期、または第三次国内革命戦争の時期のことである。蒋介石はアメリカ帝国主義の援助のもとに、抗日戦争の終結後、たびたび、和平についての取り決めをやぶるとともに、人民の力を一掃しようとして、空前の、大がかりな反革命の内戦をおこした。しかし、中国共産党の正しい指導により、中国人民はわずか四ヵ年のたたかいによって、全国的な範囲にわたって蒋介石をうちやぶり、新中国をうちたてるという偉大な勝利をかちとった。

 この数日間、極東の時局にひじょうに大きな変動がおきている。日本帝国主義降伏の大勢はすでにさだまった。日本降伏の決定的な要因はソ連の参戦である。赤軍百万の大軍が中国の東北地方にはいったが、これは手向かうことのできない力である。日本帝国主義はもう戦争をつづけられなくなった〔1〕。中国人民の苦難にみちた抗戦はすでに勝利をおさめた。抗日戦争は、ひとつの歴史的段階としてはすでにすぎさったのである。
 こうした情勢のもとで、中国国内の階級関係、国共両党の関係は、現在どうなっているか。将来はどうなるのか。わが党の方針はどうなのか。これは全国の人民が大きな関心をよせている問題であり、全党の同志が大きな関心をよせている問題である。
 国民党はどうなのか。その過去をみれば、その現在がわかるし、その過去と現在をみれば、その将来がわかる。この党は過去にまる十年間、反革命の内戦をおこなったことがある。抗日戦争中にも、国民党は、一九四〇年、一九四一年、一九四三年と三回にわたって、大がかりな反共の高まり〔2〕をひきおこしては、そのたびに全国的な内戦にもっていこうとした。ただそれがわが党の正しい政策と全国人民の反対によって実現をみなかっただけである。中国の大地主・大ブルジョア階級の政治的代表者である蒋介石《チァンチェシー》は、周知のように、このうえもなく残忍で陰険な男である。手をこまねいて勝利を待ち、実力を保存して内戦を準備する、というのがかれの政策であった。はたして、待ちのぞんだ勝利がおとずれ、この「委員長」はいよいよ「山をおりる」〔3〕ことになった。八年このかた、われわれと蒋介石は居場所をとりかえていた。以前はわれわれが山の上にいて、かれが水のほとりにいたが〔4〕、抗日の時期には、われわれが敵後方にいて、かれが山にのぼっていた。いま、かれは山をおりようとしている。山をおりて抗戦勝利の果実を横取りしようというわけである。
 わが解放区の人民と軍隊は、この八年らい、ぜんぜんほかからの援助のない状況のもとで、まったく自分だけの努力によって、広大な国土を解放し、中国侵略日本軍の大部分とかいらい軍のほとんど全部を相手に戦ってきた。われわれの断固とした抗戦、英雄的な奮闘があったからこそ、大後方〔5〕の二億の人民は日本侵略者の蹂躙《じゅうりん》をまぬかれ、二億の人民のすむ土地は日本侵略者の占領をまぬかれたのである。蒋介石は峨眉山《オーメイシャン》に逃げこんでいたが、前方でかれをまもってやったものがいた。それは解放区であり、解放区の人民と軍隊であった。われわれは大後方の二億の人民をまもったが、それは同時に、この「委員長」をもまもることになり、かれに、手をこまねいて勝利を待つ時間と場所をあたえた。時間――八年と一 ヵ月、場所――二億の人民のすむ土地、これらの条件はわれわれがかれにあたえたのである。われわれがいなければ、かれも手をこまねいてはいられなかったはずである。それなら、「委員長」はわれわれに感謝しているだろうか。とんでもない。この男はむかしから恩知らずである。蒋介石はどのようにして権力の座についたか。北伐戦争のおかげであり、第一次国共合作のおかげであり、当時人民がまだかれの素性をよく知らすにかれを支持していたおかげである。かれはいったん権力の座につくと、人民に感謝するどころか、人民をはりたおし、人民を十年にわたる内戦の血の海につきおとした。このあたりの歴史は、同志諸君がみな知っているとおりである。こんどの抗日戦争で、中国人民はまたかれをまもってやった。いま、抗日戦争は勝利し、日本は降伏することになったが、かれはけっして人民に感謝はせず、逆に、一九二七年のふるい帳面をめくってみて、もう一度おなじ手を打とうと考えている。蒋介石は、中国にはこれまで「内戦」などなかった、あったのは「匪賊討伐」だけだといっている。だが、それをなんとよぼうと、要するに、反人民的な内戦をおこそうとしているのであり、人民を殺そうとしているのである。
 全国的な規模の内戦がまだおこらないうちは、人民のあいだでも、わが党の多くの同志のあいだでも、まだこの問題について、みんながみんなはっきりした認識をもつわけではない。大規模な内戦がまだはじまっておらず、内戦がまだ普遍的な、公然とした、ひんぱんなものになっていないので、「まさか!」と考えている人がたくさんいるし、また、内戦になるのをおそれている人もたくさんいる。おそれるのにはわけがある。かつては十年間戦争をし、抗戦でまた八年間戦争をした、これ以上戦争をするのはたまらないからである。おそれる気持ちになるのも無理はない。内戦をおこそうとする蒋介石の陰謀にたいして、わが党がとっている方針は、明確であり、一貫している。それは、断固として内戦に反対することであり、内戦に賛成せず、内戦を阻止することである。今後さらに、われわれは最大の努力と辛抱づよさをもって人民を指導して、内戦をくいとめなければならない。しかし、内戦の危険性がひじょうに大きいことをはっきりと見ぬかなければならない。蒋介石の方針はもうきまっているからである。蒋介石の方針は、内戦をやることである。われわれの方針、人民の方針は、内戦をやらないことである。内戦をやらないのは中国共産党と中国人民だけで、残念ながら、蒋介石と国民党はそうではない。一方はやらないが、一方はやる。もし両方ともやらないのなら戦争にはならない。現在、やらないのは一方だけで、しかも、この一方にはまだ他の一方をおさえるだけの力がない。したがって、内戦の危険性はひじょうに大きい。
 蒋介石が専制と内戦の反動的方針をあくまで固持しようとしていることを、わが党は時をうつさずはっきり指摘してきた。党の第七回代表大会以前にも、第七回代表大会の開催中にも、第七回代表大会以後にも、われわれは内戦の危険性について人民の注意をうながす活動を十分におこなって、全国人民およびわれわれの党員と軍隊に、はやくから心がまえをさせてきた。これはひじょうに重要な点で、この点があるのとないのとでは大変なちがいである。一九二七年のころは、わが党はまだ幼年期の党で、蒋介石による反革命の突然の襲撃にたいしなんの心がまえもなかったために、人民がかちとった勝利の果実をたちまちうしない、人民は長いあいだ災いをこうむり、光明の中国は暗黒の中国と化した。しかし、こんどはちがっている。わが党はすでに三回にわたる革命のゆたかな経験をつみ、党の政治的成熟の度合いも大いにたかまっている。党中央は内戦の危険性をくりかえしはっきり指摘して、全国人民および全党の同志と党の指導する軍隊をそなえある状態においている。
 蒋介石は、人民からは、わずかな権利もかならずうばい、わずかな利益もかならずとりあげる。われわれはどうか。われわれの方針は、まっこうから対決し、一寸の土地もかならず争うことである。われわれは蒋介石のやり方にならってやっている。蒋介石はいつも人民に戦争をおしつけ、左手にも刀をもてば、右手にも刀をもっている。だから、われわれもかれのやり方にならって、刀をとる。これは調査研究のすえ、やっと見つけたやり方である。この調査研究はひじょうにたいせつである。相手が手にものをもっているのをみたら、われわれはすぐそれを調査してみる。かれが手にもっているのはなにか。刀である。刀にはどういう使いみちがあるか。人を殺すことができる。かれは刀をもってだれを殺そうとしているのか。人民を殺そうとしている。こうしたいくつかのことを調査したら、さらに調査をすすめる。中国人民にも手があり、刀をもつことができるし、刀がなければつくることもできる。中国人民は長いあいだ調査研究をしたすえ、この真理を発見した。軍閥、地主、土豪劣紳、帝国主義はみな手に刀をもっていて、人を殺そうとしている。それがわかったので、人民もそのやり方でやっていく。われわれのなかには、この調査研究に注意をはらわないものがいる。たとえば陳独秀《チェントウシウ》で、かれには、刀をもっていれば人を殺せる、ということがわからなかった。これはありふれた普遍的な真理で、共産党の指導者にわからぬはずはなかろう、というものもいるが、そうとばかりはいいきれない。陳独秀は調査研究をしていなかったので、このことがわからなかった。だから、われわれはかれに日和見主義者という名まえをつけた。調査研究がなければ発言権はない。そこで、われわれはかれから発言権をとりあげた。われわれは、陳独秀とはちがったやり方をとり、抑圧され、殺害されている人民に刀をとらせた。またもわれわれを殺そうとするものがあれば、われわれはおなじやり方をするまでである。ついさきごろ、国民党はわが関中分区の攻撃に六コ師団をさしむけ、そのうちの三コ師団が攻めこんできて、幅百華里、長さ二十華里の地域を占領した。そこでわれわれも相手のやり方にならって、この幅百華里、長さ二十華里の地域にいた国民党軍を、きれいに、徹底的に、のこらず殲滅《せんめつ》した〔6〕。われわれはまっこうから対決し、一寸の土地もかならず争うのであって、国民党がやすやすとわれわれの土地を占領し、われわれの人間を殺すようなことは、絶対にゆるさない。もちろん、一寸の土地もかならず争うとはいっても、かつての「左」翼路線のように「根拠地の土地は一寸も放棄しない」というのではない。こんど、われわれは幅百華里、長さニ十華里の地域を放棄した。七月の末に放棄して、八月のはじめにとりかえした。安徽《アンホイ》省南部事変ののち、国民党の連絡参謀がわれわれの動向について質問したことがあった。わたしは、君は毎日延安《イェンアン》にいながらまだわからないのか、「何応欽《ホーインチン》が攻めてくればわれわれも反撃するし、何応欽がやめればわれわれもやめる」〔7〕のだといってやった。そのときはまだ蒋介石の名はあげないで、何応欽だけをあげた。現在は「蒋介石が攻めてくればわれわれも反撃するし、蒋介石がやめればわれわれもやめる」で、かれのやり方にならってやっていく。蒋介石はもうすでに刀をといでいる。したがって、われわれも刀をとがなければならない。
 人民の獲得した権利をかるがるしく手放すことは断じてゆるされず、これは戦いによってまもらなければならない。われわれは内戦をのぞまない。だが蒋介石がどうしても中国人民に内戦をおしつけてくるなら、自衛のために、解放区の人民の生命、財産、権利、幸福をまもるために、われわれは武器をとってかれと戦うほかはない。この内戦は、かれがわれわれにおしつけてきたものである。もしわれわれが戦争に勝てなかったとしたら、天をうらまず、地をうらまず、ただ自分が戦争に勝てなかったことをうらむだけである。しかし、人民がすでに獲得した権利をやすやすと奪いとったり、だましとったりしようとしても、それはとうていできない相談である。昨年、あるアメリカの記者がわたしにたずねた。「あなたたちはだれから権限をあたえられて仕事をしているのか。」わたしはいった。「人民からあたえられている」と。人民があたえるのでなければ、ほかにだれがあたえるだろうか。権力をにぎっている国民党はあたえはしなかった。国民党はわれわれを認めないのである。われわれは国民参政会に参加しているが、参政会条例の規定によると、それは「文化団体」としての資格によるものである〔8〕。われわれにいわせれば、われわれは「文化団体」ではなく、軍隊をもっているから、「武化団体」である。ことしの三月一日に蒋介石は、軍隊をひき渡さなければ、共産党は合法的な地位がえられない、といった。蒋介石のこのことばは、いまでも生きている。われわれは軍隊をひき渡していないので、合法的な地位はなく、われわれは「無法者」である。われわれの責務は、人民にたいして責任をおうことである。一言一句、一つ一つの行動、一つ一つの政策がすべて人民の利益にかなっていなければならないし、もしあやまりがあれば、かならずあらためなければならない。これが人民にたいして責任をおうということである。同志諸君、人民は解放をもとめて、われわれ共産党員に、つまりかれらを代表できる、かれらのために忠実にはたらくことのできるものに権限をゆだねるのである。人民の代表者となったからには、われわれはりっぱに代表しなければならず、陳独秀のようであってはならない。陳独秀は、反革命が人民に攻撃をくわえてきたのにたいして、まっこうから対決し一寸の土地もかならず争うという方針をとらなかった。その結果、人民がすでに手にいれていた権利を、一九二七年の数ヵ月のうちに、一つ残らずきれいにうしなってしまった。こんどはわれわれも気をつけなければならない。われわれの方針は陳独秀の方針とはまったくちがっており、どんなごまかしもわれわれをだますことはできない。われわれははっきりした頭脳と正しい方針をもつべきであり、あやまりをおかさないようにすべきである。
 抗戦勝利の果実はだれのものであるべきか。それはひじょうにはっきりしている。たとえば一本の桃の木があって、その木に桃がなったとする。その桃は勝利の果実である。桃はだれがもぐべきか。それには、桃の木をだれがうえ、だれが水をくんできてかけたかを見なければならない。蒋介石は山のなかにひきこもって、一杯の水もくんでこなかったのに、いまになって、ながながと手をのばして桃をもごうとしている。かれはいう。この桃の所有権はこのおれ蒋介石のものである。おれは地主で、お前たちは農奴だ。お前たちがもぐのをゆるさない、と。われわれは新聞紙上でかれに反論した〔9〕。われわれはいう。お前は水をくんだことがない。だから、桃をもぐ権利はない。われわれ解放区の人民は毎日水をやった。もぐ権利をいちばんもっているのは当然われわれである、と。同志諸君、抗戦の勝利は人民が血の犠牲をはらってかちえたものであって、当然人民の勝利であり、抗戦の果実は当然人民のものである。蒋介石はどうだったか。かれは抗戦には消極的、反共には積極的で、人民の抗戦のじゃまものだった。いまこのじゃまものがのりだしてきて、勝利の果実をひとり占めにし、抗戦勝利後の中国をふたたび抗戦前の状態に逆もどりさせ、すこしの変化をもゆるすまいとしている。こうして闘争がはじまった。同志諸君、これはひじょうに重大な闘争である。
 抗戦勝利の果実が当然人民のものであるということ、これが一つのことである。しかし、勝利の果実がはたしてだれの手にはいるか、人民のものになるかどうかということ、これはまた別のことである。勝利の果実がすべてまちがいなく人民の手にはいるなどとおもってはならない。ひとやまの大桃、たとえば上海《シャンハイ》、南京《ナンチン》、杭州《ハンチョウ》などといった大都市は、蒋介石にうばいさられることになろう。蒋介石はアメリカ帝国主義と結託しており、それらのところでは、かれらの力が優勢なので、革命的な人民は基本的にはまだ農村しか占領できない。別のひとやまの桃は、双方でうばいあうことになるだろう。太原《タイユァン》以北の大同《タートン》=風陵渡《フォンリントウ》鉄道、北平《ペイピン》=包頭《パオトウ》鉄道の中部区間、北平=瀋陽《シェンヤン》鉄道、鄭州《チェンチョウ》以北の北平=漢□《ハンコウ》鉄道、石家荘《シーチァチョワン》=太原鉄道、白圭《パイクイ》=晉城《チンチョン》鉄道〔10〕、徳州《トーチョウ》=石家荘鉄道、天津《ティエンチン》=浦口《プーコウ》鉄道、青島《チンタオ》=済南《チーナン》鉄道、鄭州以東の天水《ティエンショイ》=蓮雲港《レンユィンカン》鉄道、こういった地方の中小都市はかならず争わなければならないところであり、このひとやまの中小の桃はすべて解放区の人民が血と汗をそそいでそだてたものである。これらの地方がはたして人民の手にはいるかどうかは、いまのところまだなんともいえない。いまいえるのは、あくまで争う、ということだけである。まちがいなく人民の手にはいるところはないだろうか。ある。河北《ホーペイ》省、察哈爾《チャーハール》省、熱河《ローホー》省〔11〕、山西《シアンシー》省の大部分、山東《シャントン》省、江蘇《チァンスー》省北部がそれで、これらの地方の広い農村や多くの都市は、農村と農村が一つにつながり、百ほどもの都市、七、八十もの都市、四、五十もの都市がかたまっており、そうしたものが大小あわせて三つ、四つ、五つ、六つとある。それはどういう都市か。中都市と小都市である。これはまちがいなく手にはいるところで、われわれには、これらの勝利の果実を手にいれることのできる力がある。これらの果実が手にはいるのは、中国革命の歴史にはじめてのことである。歴史上、われわれは一九三一年の後半に、敵の三回目の「包囲討伐」をうちやぶったのち、江西《チァンシー》省中央区であわせて二十一の県都〔12〕をもったことはあるが、まだ中都市はなかった。二十一の小都市がつらなって、いちばん多いときには人口二百五十万であった。これをよりどころにして中国人民は、あれほど長いあいだたたかい、あれほど大きな勝利をおさめ、あれほど大がかりな「包囲討伐」を粉砕することができた。その後、われわれは戦いに負けたが、これは蒋介石のせいではなく、われわれ自身がうまく戦わなかったせいである。こんど、大小何十もの都市が一つにつらなり、それが三つ、四つ、五つ、六つもあるということになれば、中国人民は、江西省中央区よりさらに大きな革命根拠地を三つ、四つ、五つ、六つももつことになり、中国革命の情勢は相当すばらしいものになるだろう。
 全体の情勢からみて、抗日戦争の段階はすぎさり、新しい状況と新しい任務は国内闘争である。蒋介石は「建国」するといっているが、どういう国を建てるかが今後の闘争である。プロレタリア階級の指導する、人民大衆の、新民主主義の国家を建てるのか、それとも、大地主・大ブルジョア階級独裁の、半植民地・半封建の国家を建てるのか。これはひじょうに複雑な闘争となるであろう。いまこの闘争は、蒋介石が抗戦の勝利の果実を横取りしようとし、われわれがその横取りに反対する、そうした闘争としてあらわれている。この時期にもし日和見主義があるとすれば、それはあくまでも争うということをせず、人民のものとなるべき果実をみずからすすんで蒋介石に献上するものである。
 公然とした、全面的な内戦はおこるだろうか。それは国内的な要因と国際的な要因によってきまる。国内的な要因は、主として、われわれの力と自覚の程度である。国際的、国内的な大勢のおもむくところと人心のむかうところによって、また、われわれの奮闘をつうじて、内戦を局部的な範囲にくいとめたり、全面的な内戦のおこる時期をひきのばしたりすることができるだろうか。その可能性はある。
 蒋介石がおもいきって内戦をはじめるのにも、いろいろ困難がある。第一に、解放区には一億の人民、百万の軍隊、二百余万の民兵がいる。第二に、国民党支配区の自覚した人民は内戦に反対しており、これが蒋介石にとって一種の牽制《けんせい》になっている。第三に、国民党の内部にも、一部に内戦に賛成しないものがいる。当面の情勢は、一九二七年のころと大いにちがっている。ことに、わが党の現在の状況は一九二七年のころの状況と大いにちがっている。あのころの党はまだ幼年期の党で、はっきりした頭脳も、武装闘争の経験も、まっこうから対決する方針ももっていなかった。いまでは党の自覚は大いにたかまっている。
 われわれの自覚、プロレタリア階級の前衛の自覚という問題のほかに、もうひとつ人民大衆の自覚という問題がある。人民がまだ自覚していないときには、革命の果実を他人にやってしまうようなことも十分にありうることである。こうしたことは、かつて歴史のうえにもみられた。こんにちでは中国人民の自覚も大いにたかまっている。人民のあいだにおけるわが党の信望がいまほどたかまったことはかってなかった。しかし、人民のなかには、主として日本占領区と国民党支配区の人民のなかには、蒋介石を信用し、国民党とアメリカに幻想をいたいているものがまだかなりいるし、蒋介石もまたそうした幻想をふりまくことに力をいれている。中国人民のなかに、そうしたまだ自覚していない人たちがいるということは、われわれの宣伝活動と組織活動がまだひじょうに不十分だということを物語っている。人民が自覚するのは容易なことではなく、人民の頭のなかのあやまった考えをとりのぞくには、われわれが多くの地についた活動をやっていく必要がある。中国人民の頭のなかにあるおくれたものは、ほうきで部屋を掃くように、われわれがそれを掃除しなければならない。掃除もしないで、ごみがひとりでになくなったためしはない。われわれは、人民が中国の実際の状況と動向を理解し、自分の力に自信をもつように、人民大衆のあいだで広く宣伝教育活動をおこなわなければならない。
 人民はわれわれが組織しなければならない。中国の反動分子は、われわれが人民を組織することによってうちたおさなければならない。すべて反動的なものは、たおさないかぎり、たおれはしない。これも掃除とおなじで、ほうきがとどかなければ、ごみはやはりひとりでに逃げはしない。陝西《シャンシー》・甘粛《カンスー》・寧夏《ニンシァ》辺区の南に介子河《チエツーホー》という川がある。介子河の南側は洛川県《ルオチョワン》、北側は[鹿+”おおざと”]県である。川の南側と北側とでは別々の世界である。川の南側は国民党のもので、われわれがいったことがないので、人民は組織されておらず、きたないものがたくさんある。われわれの一部の同志は、政治的影響というものを信じ、影響によって問題が解決できると考えている。これは迷信である。一九三六年にわれわれは保安《パオアン》〔13〕にいた。保安から四、五十華里のところに極悪地主の土塀がこいの部落があった。当時、党中央の所在地は保安だったので、政治的影響はこれ大なり、というべきであったが、しかし、その土塀のなかの反革命分子たちはなんとしても降伏しなかった。われわれがその南側を掃いても、北側を掃いても、だめだったので、あとでほうきをなかにつっこんで掃くと、やっと「こりゃかなわん、お手あげだ」といいだした〔14〕。世の中のことはこうしたものである。鐘はつかないと鳴らない。机ははこばないと動かない。ソ連の赤軍が東北地方にはいらなければ、日本は降伏しはしない。われわれの軍隊がやっつけなければ、敵軍・かいらい軍も武器を渡しはしない。ほうきがとどかないと、政治的影響も十分には効力を発揮しないのである。われわれのほうきは共産党、八路軍、新四軍である。ほうきを手にしたら、掃きかたを研究すべきであり、大風でも吹いてごみをすっかり吹きとばしてくれるだろうなどとおもって、寝台に寝ころんでいてはならない。われわれマルクス主義者は革命的現実主義者で、けっして空想などはしない。中国には「黎明に起きて、庭を掃除する」〔15〕という古いことばがある。黎明とは夜明けのことをいう。夜が明けたらすぐ起きて掃除をするように、むかしの人は教えている。これはわれわれにひとつの任務を教えたものである。こういうふうに考え、こういうふうにやってこそ、ためにもなり、またする仕事もできてくる。中国は土地が広いので、われわれが少しずつ掃いていくほかはない。
 われわれの方針は、なにを根底とすべきか。自分の力を根底とすべきで、これが自力更生である。われわれは孤立してはいない。帝国主義に反対する全世界のすべての国ぐにと人民はみなわれわれの友である。しかし、われわれは自力更生を強調する。われわれはわれわれ自身の組織する力によって、内外のすべての反動派をうちやぶることができる。蒋介石はわれわれとは逆で、まったくアメリカ帝国主義の援助にたより、アメリカ帝国主義をたのみの綱としている。専制、内戦、売国の三位一体、これが一貫して蒋介石の方針の根底になっている。アメリカ帝国主義は蒋介石をたすけて内戦をやらせ、中国をアメリカの従属国にしようとしているが、アメリカ帝国主義のこの方針もはやくからきまっているものである。しかし、アメリカ帝国主義はうわべは強そうでも、中味はからっぽである。われわれははっきりした頭脳をもっていなければならないが、それには、帝国主義の「甘いことば」を信じない、帝国主義のおどかしをおそれない、ということがふくまれている。かつてあるアメリカ人がわたしに「あなた方はハーレーのいうことをきいて、何人かの人を国民党政府におくって、役人にすべきだ」といったが〔16〕、わたしは、「役人も手足をしばられていたのではやりにくいから、われわれはならない。なるなら、手足をのばして自由自在にやりたい。つまり民主主義を基礎にして連合政府をつくることである」といってやった。かれは「ならないのはよくない」というので、「なぜよくないのか」とたずねると、「第一に、アメリカ人があなた方を悪くいうだろうし、第二に、アメリカ人が蒋介石のあと押しをするようになるからだ」という。そこでわたしはいった。「あなた方は、パンはたらふく食った、睡眠はたっぷりとった、それで、人の悪口をいい、蒋介石のあと押しをする、それはあなた方アメリカ人の勝手で、わたしは干渉しない。いま、われわれのところにあるのは粟《あわ》に小銃で、あなた方のところにあるのはパンに大砲だ。あなた方が蒋介石のあと押しをしたいのならすればよいし、好きなだけいつまででもあと押ししたらよい。ただ、一つのことだけはおぼえていてもらいたい。中国はだれの中国か。中国はけっして蒋介石のものではない。中国は中国人民のものである。いつかはかならず、あなた方があと押ししきれなくなる日がくるだろう」と。同志諸君、このアメリカ人のいったことは、おどかしである。帝国主義者は人をおどかすのがお手のものだし、植民地にはおどかしをおそれるものもたくさんいる。かれらは、どこの植民地の人間もおどかしがきくものとおもっている。だが、かれらは、中国に、そんな手をおそれない人びとがいることを知らない。われわれはこれまで、アメリカの援蒋反共政策を公然と批判し、暴露してきたが、これは必要なことで、今後もひきつづきそれをあばいていかなければならない。
 ソ連が出兵し、赤軍は中国人民が侵略者を追いだすのをたすけにきてくれたが、これは中国の歴史にかつてなかったことである。このことからうまれる影響には、はかりしれないものがある。アメリカと蒋介石の宣伝機関は、二発の原子爆弾で赤軍の政治的影響をはらいのけようとしている〔17〕。しかし、はらいのけられるものではないし、そんなにたやすいことではない。原子爆弾で戦争の解決ができるだろうか。できはしない。原子爆弾で日本を降伏させることはできなかった。原子爆弾だけで、人民のたたかいがないなら、原子爆弾も役にはたたない。もし原子爆弾で戦争が解決できるなら、どうしてさらにソ連に出兵をたのまなければならなかったのか。なぜ、原子爆弾を二発おとしても日本はまだ降伏しなかったのに、ソ連が出兵するとたちまち降伏したのか。われわれの同志のなかにも、原子爆弾を大したものとおもいこんでいる人がいるが、それは大きなあやまりである。そうした同志のものの見方は、イギリスの一貴族にもおよばない。イギリスにマウントバッテン卿という貴族がいる。かれは、原子爆弾で戦争が解決できるとおもうのは最大のあやまりだ、といっている〔18〕。これらの同志たちはマウントバッテンよりもおくれている。これらの同志たちが原子爆弾を世にも神秘なものとおもいこんでいるのは、なんの影響によるのか。ブルジョア階級の影響である。こうした影響はどこからきているのか。ブルジョア的学校教育からきており、ブルジョア新聞、ブルジョア通信からきている。世界観と方法論には、二つのものがある。プロレタリア階級の世界観と方法論、ブルジョア階級の世界観と方法論である。これらの同志たちは、ブルジョア階級の世界観と方法論はいつも手からはなさないが、プロレタリア階級の世界観と方法論はいつも頭の外におきざりにしている。われわれの隊列内にある唯武器論、軍事一点ばりの観点、官僚主義、大衆遊離の作風、個人主義思想などは、みなブルジョア階級の影響である。われわれの隊列内にあるこれらのブルジョア的なものはやはり、ごみを掃くように、いつも掃除しなければならない。
 ソ連の参戦は日本の降伏を決定的なものにし、中国の時局は新しい時期にはいった。新しい時期と抗日戦争の時期とのあいだには、過渡的な段階がある。過渡的な段階での闘争は、蒋介石が抗戦勝利の果実を横取りすることに反対する闘争である。蒋介石は全国的な規模の内戦をはじめようとしており、かれの方針はすでにきまっている。われわれはこれにたいして、そなえがなければならない。全国的な内戦がいつおこっても、われわれにはそなえができていなければならない。少しはやく、あすの朝戦争になってもよいように、われわれはそれにそなえておくのである。これが第一の点である。現在の国際情勢と国内情勢からみて、内戦を、しばらくのあいだ、局部的な範囲にとどめることは可能であり、内戦はしばらくのあいだ、いくつかの地方的な戦争になる可能性がある。これが第二の点である。第一の点では、われわれはそなえをしておくし、第二の点では、まえからそうなっている。要するに、われわれにはそなえがなければならない。そなえがあれば、いろいろな複雑な局面にも適切に対処することができるのである。



    〔1〕 一九四五年八月八日、ソ連政府か日本にたいして宣戦した。ハ月十日、モンゴル政府が日本にたいして宣戦した。ソ連赤軍は海陣両方面から中国東北地方と朝鮮にはいり、たちまち日本の関東軍を撃破した。ソ連・モンゴル連合軍は内蒙古の砂漠をこえて熱河省と察哈爾省にはいった。日本政府はやむなく、八月十日には降伏申し出の照会文書を発し、十四日には正式に無条件降伏を宣言せざるをえなくなった。関東軍は日本陸軍のもっとも精鋭な主力部隊であり、日本の戦略的な総予備軍であった。日本帝国主義はこの軍隊をたのみとし、また、中国東北地方と朝鮮の有利な戦略的地位にたよって、長期戦をおこなおうとたくらんでいた。だが、ソ連の参戦によって、日本帝国主義のこの計画が徹底的に破産したので、日本政府も敗北を認めざるをえなくなり、ついに降伏勧告をうけいれた。
    〔2〕 国民党反動派が三回にわたって反共の高まりをひきおこした経過については、本選集第三巻の『国民党中央執行委員会第十一回全体会議と第三期国民参政会第二回会議を評す』にみられる。
    〔3〕 ここにいう「山」とは峨眉山のことであるか、実際には、ひろく中国西南部、西北部の山岳地帯をさしている。一九三八年、武漢が日本軍に占領されてからは、蒋介石自身とその指揮下の主力部隊は、これちの山岳地帯にひきこもって、解放区の軍民が敵後方で日本侵略者と困難な闘争をおこなうのを傍観していた。
    〔4〕 抗日戦争前、中国共産党の指導する革命根拠地の多くは山岳地帯につくられていた。当時、蒋介石の支配の中心は、河川流域や沿海地帯の大都市にあった。毛沢東同志が、一方は「山の上」におり、一方は「水のほとり」にいたといっているのはそのためである。
    〔5〕 抗日戦争の時期、抗日の前線は華北、華東、華中、華南にあった。日本侵略軍に占領されず、国民党が支配していた中国の西南部、西北部はふつう「大後方」とよばれていた。
    〔6〕 一九四五年七月二十一日、国民党第一戦区司令長官胡宗南指揮下の臨時編成第五十九師団と騎兵第二師団は、突如、わが陝西・甘粛・寧夏辺区の関中分区にある淳化県の爺台山を攻撃してきた。二十三日にはさらに、予備第三師団を攻撃にくわわらせた。わが軍は、七月二十七日、主動的に爺台山とその西の四十一の村落から撤退した。国民党軍はひきつづき[木+旬]邑、耀県などの地方を襲撃した。わが軍は八月八日、国民党の侵入部隊に反撃をくわえ、爺台山地区をとりもどした。
    〔7〕 国民党の連絡参謀とは、抗日戦争の時期に国民党政府から延安に派遣されて連絡にあたっていた要員のことである。一九四〇年十月十九日と十二月八日に、蒋介石は国民党軍の参謀総長何応欽と副参謀総長白崇禧の名で、前後二通の電報を発して、敵後方で抗戦を堅持している八路軍、新四軍をほしいままに中傷し、黄河以南の人民の抗日武装部隊に、期限つきで黄河以北に撤去することを強制する命令をくだした。つづいて国民党反動派は、新四軍の北上部隊を襲撃するという「安徽省南部事変」をおこした。中国共産党は当時、反共の高まりをひきおこした国民党反動派の代表人物として何応欽をあげたが、じっさいには蒋介石をさしていた。
    〔8〕 「国民参政会」は、抗日戦争かはじまってから、国民党政府がもうけた一種の諮問機関であった。参政員はすべて国民党政府が「厳選」したもので、国民党員が大多数をしめ、中国共産党やその他の政党の代表はごく少数にすぎなかった。しかし、国民党政府は抗日諸政党の対等の地位と合法的地位をみとめず、また、それらの政党の代表が政党の代表という資格で「国民参政会」に参加することをゆるさなかった。国民党政府の公布した「国民参政会組織条令」なるものには、「かつて重要な文化団体あるいは経済団体に三年以上勤務して信望顕著なるもの、あるいは国事にはげんで多年信望の顕著なるもの」は国民参政会参政員になれる、という規定があった。当時、国民党は、この規定にしたがって、中国共産党の参政員を「厳選」した。
    〔9〕 毛沢東同志が新華社にかわって書いた論評『蒋介石は内戦を挑発している』をさす。
    〔10〕 白圭=晉城鉄道とは、山西省東南部の[示+”おおざと”]県の白圭から晉城にいたる、当時まだ完成していなかった鉄道のことである。
    〔11〕 察哈爾は、もとは一つの省であったが、一九五二年に廃止された。熱河も、もとは一つの省であったが、一九五五年に廃止された。そして、この二つの省の管轄区域は、河北省、山西省、遼寧省、内蒙古自治区にそれぞれ編入された。
    〔12〕 ここにいう二十一の県都とは、江四省の瑞金、会昌、尋[鳥+”おおざと”]、安遠、信豊、[”あまかんむり”の下に”一”、その下に”号の口のない字”]都、興国、寧都、広昌、石城、黎川、および福建省の建寧、泰寧、寧化、清流、帰化、竜岩、長汀、連城、上杭、永定をさす。
    〔13〕 保安は陝西省西北部の県で、いまの志丹県である。中国共産党中央は、一九三六年七月のはじめから一九三七年一月まで保安にあったが、その後、延安にうつった。
    〔14〕 ここにいう土塀がこいの部落とは、保安県の西南にあった旦八寨のことである。この部落には二百余戸の人家があり、ひじょうな要害の地であった。この地方の極悪地主で民団の首領をかねていた曹俊章は、反動武装力百余人をひきいて、長いあいだ、この部落を根城にしていた。赤軍はなんども包囲攻撃をしたが、攻め落とすことができなかった。一九三六年八月、赤軍は地方武装力をもってこれを包囲する一方、部落の基本大衆を獲得し、部落内の敵軍を瓦解させた。この年の十二月、曹俊章は少数の部下をつれて逃亡し、旦八寨は解放された。
    〔15〕 明朝末期の朱柏蘆の著『治家格言』にみられる。
    〔16〕 ここにいう「アメリカ人」とは、在延安米軍観察班班長バレット大佐のことである。この観察班は、当時対日作戦に参加していたアメリカ軍が、一九四四年、中国共産党の同意をえて、延安に派遣したものである。ハーレーは、アメリカ共和党の反動的政治家のひとりで、一九四四年九月、アメリ力大統領の私的代表の資格で中国にきた。そして、同年の末、中国駐在のアメリカ大使となった。本選集第三巻の『愚公、山を移す』注〔3〕を参照。
    〔17〕 一九四五年八月の六日と九日に、アメリカは日本の広島と長崎に、それぞれ一発の原子爆弾を投下した。アメリカと国民党の宣伝機関はこれについて、日本政府が降伏したのはアメリカの原子爆弾をおそれたためだと、大いに宣伝につとめた。かれらはこうした宣伝によって、ソ連の参戦が日本の降伏にたいしてはたした決定的な役割をけなそうとした。
    〔18〕 マウントバッテンは、当時、東南アジア連合軍の最高指揮官であった。一九四五年八月九日、かれはソ連の対日作戦参加を歓迎する談話を発表し、「原子爆弾によって極東の戦争を終わらせることができると考えるのは最大のあやまりである」といった。
    訳注
    ① 本選集第一巻の『中国社会各階級の分析』訳注④を参照。


maobadi 2011-03-29 22:54
 蒋介石は内戦を挑発している
          (一九四五年八月十三日)

     これは、毛沢東同志が新華社にかわって書いた論評である。

 国民党中央宣伝部のスポークスマンは談話を発表して、第十八集団軍の朱徳《チュートー》総司令が八月十日に延安《イェンアン》の総司令部で発表した、敵軍・かいらい軍を期限つきで投降させよとの命令〔1〕を、「唐突で不法な行為」だといっている。こうした論評はでたらめもはなはだしい。この見解でいくと、朱徳総司令がポツダム宣言〔2〕と敵の降伏の意向にもとづいて、所属部隊に敵軍・かいらい軍の投降をうながすよう命令したのはむしろまちがいで、敵軍・かいらい軍に投降を拒否するよう勧告することこそ正しいし、合法的なのだ、という理屈になる。中国のファシストの頭目・暴君・人民の敵蒋介石《チァンチェシー》が、まだ敵がほんとうに降伏をうけいれていないうちから、解放区の抗日部隊に「現在地にとどまって命令を待つべし」という「命令」までだして、その手をしばりあげ、敵の攻撃にまかせるようなことをするのもふしぎではない。また、おなじこのファシストの頭目が、解放区の抗日部隊には、敵軍・かいらい軍にたいして「勝手な行動」をとるのを許さず、いわゆる地下軍(実際には「曲線救国」〔3〕をやっているかいらい軍や、敵軍・かいらい軍と合流している戴笠《タイリー》系の特務〔4〕である)やかいらい軍には「地方の治安維持の任にあたれ」という「命令」までだしたのもふしぎではない。このような敵味方の転倒は、まさに蒋介石の自供であり、終始一貫、敵軍・かいらい軍と結託して、自分と異なる立場のものを一掃しようとしてきたかれの腹の中をあらいざらい如実にえがきだしている。しかし、中国解放区の人民抗日部隊は、そうした悪らつな計略にはぜったいにのらない。かれらは、朱徳総司令の命令こそ、「日本国が抵抗をやめるまで、同国にたいし戦争を遂行する」というポツダム宣言の第二条の規定をだんこ実行するものであり、蒋介石の「命令」なるものこそ、かれ自身の署名したポツダム宣言に違反するものであることを知っている。この点を比較しさえすれば、「連合国の共同協定の規定を厳格にまもって」いないのはだれであるかがすぐわかる。
 国民党中央宣伝部スポークスマンの論評と蒋介石の「命令」は、徹頭徹尾、内戦を挑発するものであって、それは、国の内外の注意力が日本の無条件降伏に集中しているこのさいに、抗戦が終わったらすぐ内戦にうつれるような口実をみつけようというねらいをもっている。実のところ、国民党反動派はあわれなほど間がぬけている。かれらは、敵軍・かいらい軍の投降と武装解除についての朱徳総司令の命令を口実としてみつけだした。これがりこうな口実といえるだろうか。いえない。このようにして口実をみつけるのは、国民党反動派が敵軍やかいらい軍を同胞よりも親しいものと考え、同胞を敵軍やかいらい軍よりも憎むべきものと考えていることを立証するだけである。淳化《チュンホヮ》事件〔5〕は、あきらかに、胡宗南《ホーツォンナン》軍が陝西《シャンシー》・甘粛《カンスー》・寧夏《ニンシァ》辺区に攻めこんで内戦を挑発した事件であるのに、国民党反動派はこれを中共の「デマ攻勢」だといっている。淳化事件というこの口実は、国民党反動派がやっとのことでみつけだしたものではあるが、内外の世論にたちまち見破られてしまった。そこで、こんどは、八路軍、新四軍は敵軍・かいらい軍に武器のひき渡しを要求すべきではないといいだした。八年の抗戦で、八路軍、新四軍は蒋介石と日本軍によるはさみ撃ちや包囲攻撃の苦しみをなめつくしてきた。抗戦はもうすぐ終わろうとしているが、蒋介石はこんどは、武器を八路軍、新四軍にひき渡さないよう日本軍に(そのうえかれの親愛なるかいらい軍にも)暗示して、武器はこのわたし蒋介石にしかひき渡してはならないといっている。蒋介石はその先をいわなかったが、それはつまり、その武器を手にして、わたしは共産党をやっつけ、また中国と世界の平和を破壊することができる、ということばである。そうではないだろうか。日本軍には武器を蒋介石にひき渡させ、かいらい軍には「地方の治安維持の任」にあたらせれば、どういう結果になるか。結果は一つしかない。すなわち、南京《ナンチン》と重慶《チョンチン》の合流〔6〕、蒋介石とかいらい政権の協力が、「中日提携」、日本とかいらい政権の協力にとってかわるだけであり、蒋介石の反共建国が、日本侵略者と汪精衛の反共建国にとってかわるだけである。これでもポツダム宣言にそむかないといえるだろうか。いったん抗戦が終われば、すぐに内戦の危険が全国人民の重大な脅威になるという点に、まだ疑問の余地があるだろうか。われわれはここに、全国の同胞と世界の連合諸国にうったえる。いっしょに立ちあがって、解放区の人民とともに、世界の平和を危うくするこの中国の内戦をだんこ阻止しよう。
 日本軍・かいらい軍の降伏を受理する権利は、はたしてだれにあるのか。中国解放区の抗日部隊は、国民党政府からなんの補給もうけず、また承認もされなかったという条件のもとで、まったく自分自身の努力と人民の支持だけにたよって、独力で、広大な国土と一億以上の人民を解放し、日本の中国侵略部隊の五六パーセントとかいらい軍の九五パーセントを相手にたたかってきた。この軍隊がなかったならば、中国にはこんにちの局面がぜったいにあらわれなかったであろう。卒直にいって、中国の領土内で、敵軍・かいらい軍の降伏を受理する権利をもっているのは、解放区の抗日部隊だけである。蒋介石はといえば、かれのとってきたのは手をこまねいて勝利を待つという政策であり、じっさいに、敵軍・かいらい軍の降伏を受理する権利は少しももっていない。
 われわれは、全国の同胞と全世界の人民に宣言する。重慶の統帥部は中国人民と中国の真の抗日部隊を代表することはできない。中国人民は、中国解放区の抗日部隊が朱徳総司令の指揮のもとで、直接その代表を派遣して、四大連合国による日本の降伏の受理と日本の軍事管理に参加する権利をもつことと、将来の講和会議に参加する権利をもつことを要求する。それが実行されなければ、中国人民は、きわめて不当だと考えるであろう。



    〔1〕 一九四五年八月十日、延安総司令部の朱徳総司会は、日本侵略者の降伏の受理について、各解放区のすべての武装部隊に命令を発した。その全文はつぎのとおりである。「日本はすでに無条件降伏を宣言した。連合国は、ポツダム宣言を基礎に、降伏受理の方法を協議することになるであろう。そこで、わたしは、各解放区のすべての武装部隊につぎの命令を発する。一、各解放区のいかなる抗日武装部隊も、ひとしくポツダム宣言の規定にしたがって、その付近の各部市や主要交通線の敵軍とその指揮機関にたいして、期限つきでその武器装備の全部をわが作戦部隊にひき渡すようにという、そしてまた武装解除後には、わが軍が捕虜優待条例にしたかってその生命の安全を保証するという通牒をだすことができる。二、各解放区のいかなる抗日武装部隊も、ひとしくその付近のいっさいのかいらい軍とかいらい政権にたいして、敵の降伏調印以前に部隊をひきいて帰順し、編成がえまたは解散の命令をまつようにという、またその期限をすぎたばあいには武器装備の全部をひき渡さなければならないという通牒をだすことができる。三、各解放区のすべての抗日武装部隊は、もし敵やかいらい政権の武装部隊か投降、武装解除を拒否したばあいは、断固としてこれを殲滅すべきである。四、わか軍は、敵軍・かいらい軍の占拠するいかなる都市や主要交通線にたいしても、部隊を派遣してこれを接収し、占領し、軍事管理をおこない、秩序を維持するとともに、また同地区のいっさいの行政事務の管理の任にあたる要員を任命する完全な権限をもつ。いかなる破壊事件あるいは反抗事件が発生したばあいにも、ひとしく民族の裏切り者として断罪すべきである。」ついで、八月十一日、延安の総司令部はさらに六つの命令をつぎつぎに発して、山西・綏遠解放区の賀竜同志指導下の武装部隊、山西・察哈爾・河北解放区の聶栄臻同志指導下の武装部隊、河北・熱河・遼寧解放区の武装部隊には、内蒙古と東北地方にむかって進軍するよう命じ、山西解放区の武装部隊には、大同=風陵渡鉄道沿線および汾河流域における日本軍とかいらい軍の一掃を命じ、各解放区の武装部隊には、敵の占拠するいっさいの主要交通線に積極的な攻撃を展開して、日本軍とかいらい軍に投降をせまるよう命令した。各解放区の解放軍は、断固としてそれらの命令を執行し、大きな勝利をおさめた。
    〔2〕 一九四五年七月二十六日、中、英、米三国がポツダム会議にだした、日本に降伏を要求する宣言のことである。そのおもな内容は、日本の軍国主義は永久に一掃されなければならない、日本の軍隊は完全に武装解除されなければならない、日本の軍事工業は解体されなければならない、日本の戦犯は裁判に付されなければならない、日本はこれまでに略奪した土地、たとえば朝鮮、中国の満州、台湾、澎湖列島などを放棄しなければならず、日本の領土は本州、北海道、九州、四国およびその他の小島嶼の範囲にかぎられるとするカイロ宣言は履行されなければならない、連合国軍は日本に民主政府が樹立されるまで日本を占領する、というものであった。ソ連も、八月八日に日本にたいして宣戦したのち、この宣言に署名した。
    〔3〕 「曲線救国」というのは、抗日戦争の時期に国民党反動派が、日本に降伏して共産党に反対するためにとった卑劣な手段のことである。国民党反動派はその一部の軍隊や官吏を日本侵略者に投降させてかいらい軍やかいらい政府官史にしたて、日本軍といっしょに解放区を攻撃させ、これを「曲線救国」と詐称した。
    〔4〕 戴笠系の特務とは、国民党軍事委員会調査統計局長の戴笠をかしらとする特務系統で、国民党の膨大な特務組織の一つである。
    〔5〕 淳化事件とは、一九四五年七月に国民党の軍隊が陝西・甘粛・寧夏辺区関中分区の淳化、[木+旬][”口”の下に”巴”]、耀県などを侵犯した事件である。本巻の『抗日戦争勝利後の時局とわれわれの方針』注〔6〕にみられる。
    〔6〕 「南京」とは当時南京にあった民族の裏切り者汪精衛一味のかいらい政権のこと、「重慶」とは当時重慶にあった蒋介石政権のこと、「南京と重慶の合流」とは当時日本帝国主義と国民党親日派が策動していた政治的陰謀のことである。


maobadi 2011-03-29 22:55
 第十八集団軍総司令から蒋介石にあてた二通の電報

          (一九四五年八月)

     この二通の電報は、毛沢東同志が第十八集団軍総司令にかわって書いたものである。当時、蒋介石政府は、日本侵略者か降伏を宣言していながら実際にはまだ降伏していないときに、アメリカ帝国主義の武力による援助をえて、日本の降伏を受理する権利を独占するとともに、降伏受理を口実に、大軍を移動させて解放区にせまり、積極的に反革命の内戦を準備していた。毛沢東同志が一通目の電報を書いた目的は、蒋介石の反革命的な正体を暴露し、蒋介石の内戦の陰謀を警戒するよう全国の人民を教育することにあった。二通目の電報では、蒋介石一味の内戦準備の陰謀をさらに暴露するとともに、内戦をくいとめることについての中国共産党の六項目の主張を提起している。おなじ目的から、毛沢東同志はまた新華社にかわって、本巻所載の二つの論評『蒋介石は内戦を挑発している』と『蒋介石のスポークスマンの談話を評す』を書いた。中国共産党か蒋介石の反動的な気炎にけっしてたじろがない、断固とした、果断な立場をとったことによって、解放区と解放軍は急速に拡大し、蒋介石は、中国の内戦に反対する国内国外の強大な政治的圧力のもとに、やむなく戦術をあらため、平和のよそおいをこらし、毛沢東同志を重慶にまねいて和平交渉をすすめた。

     一 八月十三日づけの電報

 われわれは重慶放送をつうじて中央通信社のふたつのニュースをきいた。ひとつは貴下がわれわれにあたえた命令であり、ひとつは貴下が各戦区の将兵にあたえた命令である。貴下がわれわれにあたえた命令には、「第十八集団軍所属のすべての部隊は、現在地にとどまって命令を待つべし」とあり、そのほかに、敵の兵器を接収してはならない、というようなことものべられている。貴下が各戦区の将兵にあたえた命令は、重慶十一日発中央社電によれば、こうのべている。「最高統帥部はきょう電報で、各戦区の将兵に、戦闘への努力を強め、いっさい、既定の軍事計画と命令にしたがって積極的に前進し、いささかも怠ることなきよう命令した」と。 われわれは、このふたつの命令は相矛盾するものと考える。前の命令によれば、「とどまって命令を待つ」ことになり、もう進攻もしない、戦争もしない、ということになる。現在、日本侵略者はまだ実際には降伏しておらず、しかも、四六時中、中国人を殺し、中国の軍隊と戦い、ソ連、アメリカ、イギリスの軍隊と戦っており、ソ米英の軍隊も、四六時中、日本侵略者と戦っているのに、なぜ貴下はわれわれに、戦ってはならないといわれるのか。あとの命令なら、ひじょうによいとわれわれは考える。「戦闘を強め、積極的に前進し、いささかも怠ってはならぬ」といっているが、これなら結構なことである。残念ながら、貴下はこの命令を貴下の直系の軍隊にあたえただけで、われわれにあたえたのではなく、われわれにあたえたのは、まったく別のものであった。朱徳《チュートー》は八月十日に中国各解放区のすべての抗日部隊に命令〔1〕をくだしたが、これこそ「戦闘を強める」趣旨のものであった。さらに、もうひとつ、「戦闘を強める」にあたっては、日本侵略者に投降を命じるよう、また敵軍・かいらい軍の兵器・装備などを接収するようにと抗日部隊に命じているが、これはひじょうによいことではなかろうか。疑いもなく、それはひじょうによいことであり、疑いもなく、それは中華民族の利益に合致するものである。しかし、「とどまって命令を待つべし」というのは、あきらかに民族の利益に合致しない。われわれの考えでは、貴下がこの命令をくだしたのはまちがいであり、しかもそのまちがいは実にひどいもので、われわれとしては、この命令をだんこ拒否するむね貴下に表明せざるをえない。なぜなら、貴下がわれわれにあたえたこの命令は、不公平であるだけでなく、中華民族の民族的利益にもそむいており、日本侵略者および祖国にそむいた民族裏切り者どもを利するだけだからである。

     二 八月十六日づけの電報

 われわれの共同の敵――日本政府が、すでにポツダム宣言を受諾して降伏を宣言したが、実際にはまだ降伏していないこのときにあたり、わたしは、中国解放区、中国被占領区のすべての抗日武装力と二億六千万の人民を代表して、ここに貴下にたいし、つぎの声明と要求を提出するものである。
 抗日戦争が勝利のうちに終わろうとしているこのときにあたり、わたしは、現在の中国戦場におけるつぎのような事実について貴下の注意をうながすものである。それは、敵軍・かいらい軍に占領され、貴下にみすてられた広大な被占領区内で、われわれが、貴下の意志にそむき、八年にわたる苦しい戦いをへて、百万平方キロに近い土地を奪回し、一億をこえる人民を解放し、百万をこえる正規部隊と二百二十余方の民兵を組織し、遼寧《リャオニン》、熱河《ローホー》、察哈爾《チャーハール》、綏遠《スイユァン》、河北《ホーペイ》、山西《シャンシー》、陝西《シャンシー》、甘粛《カンスー》、寧夏《ニンシァ》、河南《ホーナン》、山東《シャントン》、江蘇《チァンスー》、安徽《アンホイ》、湖北《フーペイ》、湖南《フーナン》、江西《チァンシー》、浙江《チョーチァン》、福建《フーチェン》、広東《コヮントン》の十九の省にわたって十九の大きな解放区〔2〕をうちたて、そのうち少数の地区をのぞいた大部分の地区は、一九三七年の七・七事変いらい敵軍・かいらい軍に占領された中国の都市、主要交通線および沿海地帯を包囲している、というこの事実である。このほか、われわれはまた、中国の被占領区(ここには一億六千万の人口がある)で、広範な地下軍を組織し、敵・かいらい勢力に打撃をあたえてきた。戦闘においては、われわれはいまも、中国(東北地方をのぞく)を侵略している日本軍の六九パーセントおよびかいらい軍の九五パーセントを相手に戦い、これを包囲している。ところが、貴下の政府と軍隊は、これまでずっと、手をこまねいて勝利を待ち、実力を保存して内戦を準備するという方針をとっており、わが解放区とその軍隊を承認することも、これに補給することもしなかったばかりか、九十四万の大軍をもってわが解放区とその軍隊を包囲し攻撃した。中国解放区の全軍民は敵軍・かいらい軍と貴下の軍隊の双方からはさみ撃ちされるという苦しみをなめつくしてきたが、抗戦、団結、民主を堅持する意志は、いささかもおとろえなかった。中国解放区の人民と中国共産党は、国内の紛争を停止し全中国人民の抗日勢力を動員し統一して、抗日戦争を勝利にみちびき、戦後の平和を保証するために、各党派による会議を招集して、民主的な挙国一致の連合政府をつくるよう、貴下と貴下の政府にこれまでいくたびも提案してきたが、貴下と貴下の政府によってことごとく拒否された。これらはすべて、われわれのはなはだ不満とするところである。
 現在、敵国の降伏について調印がおこなわれようとしているのに、貴下と貴下の政府は依然としてわれわれの意見を無視しており、しかも、八月十一日には、わたしにきわめて不当な命令をくだし、また、敵兵器の接収を口実に、大挙して解放区を圧迫するよう貴下の軍隊に命令した。こうして内戦の危機はかってないほど重大化している。こうした種々の点からして、われわれは貴下および貴下の政府につぎの要求を提出せざるをえない。
 一、わたしは、貴下と貴下の政府およびその統帥部が、日本およびかいらい側の降伏を受理し、また降伏受理後のいっさいの協定と条約を締結するさいには、貴下が事前にわれわれと相談し、意見の一致をはかられるよう要求する。なぜなら、貴下と貴下の政府は人民の不満とするところであり、中国解放区、中国被占領区の広範な人民とすべての抗日人民武装力を代表することができないからである。協定や条約のなかに、中国解放区、中国被占領区のすべての抗日人民武装力についてふれた箇所がありながら、事前にわれわれの同意をえていないばあいには、われわれは自己の発言権を留保するものである。
 二、中国解放区、中国被占領区のすべての抗日人民武装力は、ポツダム宣言および連合国のさだめた降伏受理規定〔3〕にもとづき、われわれの包囲している日本軍・かいらい軍の降伏を受理し、その兵器・資材を接収するとともに、降伏受理後に連合国のさだめるいっさいの規定を、責任をもって実施する権利をもつ。わたしは、八月十日、中国解放区の軍隊にたいし、敵軍にむかって進撃するようつとめるとともに、敵軍の降伏を受理する準備をととのえることを命令した。八月十五日、わたしは、敵軍の最高指揮官岡村寧次にたいし、その部隊をひきいて降伏するよう命令した〔4〕。だが、これは解放区の軍隊の作戦範囲内だけにかぎられ、他の地域に干渉するものではない。わたしのこれらの命令は、きわめて合理的で、中国と連合国の共同の利益にひじょうにかなっているものと考える。
 三、中国解放区、中国被占領区の広範な人民とすべての抗日武装力は、当然、連合国による敵降伏の受理と、敵国降伏後の事務処理に自己の代表を派遣して参加させる権利をもつ。
 四、中国の解放区とすべての抗日武装力は、当然、自己の代表団を選出して、将来、日本の処理にかんする講和会議および国際連合の会議に参加させる権利をもつ。
 五、内戦をくいとめるよう貴下に要請する。その措置としては、およそ解放区の軍隊に包囲されている敵軍・かいらい軍は、解放区の軍隊がその降伏を受理し、貴下の軍隊は貴下の軍隊の包囲している敵軍・かいらい軍の降伏を受理することとする。これはあらゆる戦争の通例であるばかりでなく、とくに、内戦をさけるためにはかならずそうすべきである。もし、貴下がそうしないなら、いきおい好ましくない結果をまねくであろう。この点について、ここに厳重な警告を発し、貴下がこれをなおざりにすることのないようのぞむものである。
 六、貴下にたいして、一党独裁の廃止、各政党による会議の招集、民主的な連合政府の樹立、汚職官吏とすべての反動分子の罷免、民族裏切り者の処罰、時務機関の廃止、各政党の合法的地位の承認(中国共産党とすべての民主諸政党はいまなお貴下と貴下の政府によって非合法とされている)、人民の自由を弾圧するいっさいの反動的法令の廃止、中国解放区の民選政府と抗日軍隊の承認、解放区を包囲している軍隊の撤退、政治犯の釈放、経済改革その他各種の民主改革などをただちに実行することを要請する。
 このほか、わたしは、貴下が八月十一日にわたしにあたえた命令に回答する電報を八月十三日に貴下あてにおくったが、すでにうけとられたものとおもう。わたしはここに、貴下のあの命令はまったくのあやまりであるということをかさねて声明する。貴下は八月十一日、わたしの軍隊に、「現在地にとどまって命令を待ち」、敵を攻撃しないよう命じた。しかし、八月十一日どころか、きょう(八月十六日)になってもなお、日本政府は口先で降伏を宣言しているだけで、実際には降伏しておらず、降伏協定はまだ調印されておらず、降伏の事実はまだうまれていない。わたしのこの見解は、英米ソ各連合国の見解と完全に一致している。貴下がわたしに命宅をくだしたその日(八月十一日)、ビルマ前線のイギリス軍当局は「対日戦争はいまなおおこなわれている」と宣言し、アメリカ軍の最高指揮官ニミッツ〔5〕は「戦争状態が存在しているというだけでなく、さらに、あらゆる壊滅的結果のともなう戦争がつづけられなければならない」と宣言し、ソ連の極東赤軍は「敵を容赦なく粉砕しなければならない」と宣言した。八月十五日、赤軍参謀総長アントノフ大将は、またつぎのように声明した。「八月十四日、日本の天皇が発表した降伏声明は、無条件降伏の一般的宣言にすぎず、敵対行動停止の命令はまだ武装部隊に発せられていない。そのうえ、日本軍隊はなおも抵抗をつづけている。したがって、日本の実際上の降伏はまだ実現していない。日本の天皇がその軍隊に、敵対行為をやめ武器を捨てるよう命令し、しかもその命令が実際に執行されたときでなければ、われわれは、日本軍隊が降伏したものとは認めない。上述の諸点にかんがみ、ソ連極東軍は、日本にたいする進攻作戦をつづけるであろう」と。これらのことからみても、連合諸国の統帥者のうちで、まったくあやまった命令をくだしているのは貴下ひとりだけである。真下のこのあやまりは貴下の私心からうまれたものであり、きわめて重大な性質のものであって、貴下の命令は敵を利するものであると考える。したがって、わたしは中国と連合国の共同の利益の立場にたち、貴下が公然とあやまりを認めるとともにこのあやまった命令を公然と撤回するまで、断固として徹底的に貴下の命令に反対するものである。わたしはここにひきつづき、わたしが統率する軍隊にたいし、敵が実際に敵対行為をやめて武器をさしだし、祖国のすべての国土が完全に回復されるまで、ソ連、アメリカ、イギリスの軍隊に呼応してだんこ敵にむかって進攻するよう命令するものである。わたしは一愛国軍人として、そうせざるをえないことを貴下に声明する。
 以上の諸項について、貴下が一日もはやく回答されることをのぞむ。



    〔1〕 本巻の『蒋介石は内戦を挑発している』注〔1〕にみられる。
    〔2〕 十九の解放区とは、陝西・甘粛・寧夏解放区、山西・綏遠解放区、山西・察哈爾・河北解放区、河北・熱河・遼寧解放区、川西・河北・河南解放区、河北・山東・河南解放区、山東解放区、江蘇省北部解放区、江蘇省中部解放区、江蘇省南部解放区、淮河北部解放区、淮河南部解放区、安徽省中部解放区、浙江解放区、広東解放区、海南島解放区、湖南・湖北・江西解放区、湖北・河南・安徽解放区、河南解放区をさす。
    〔3〕 一九四五年八月十日、日本政府はソ連、中国、アメリカ、イギリスの四ヵ国に降伏を申しでた。十一日、四ヵ国政府は回答文のなかで、「日本のすべての陸海空軍当局およびその支配下にあるすべての部隊は(それがどこにいようとも)」、「積極的な活動を停止し、武器をさしださ」なければならない、と規定した。
    〔4〕 岡村寧次は、当時、日本の中国侵略軍総司令官であった。岡村寧次にあたえた朱徳総司令の命令はつぎのとおりである。「(一)日本政府はすでに、正式にポツダム宣言の条項をうけいれて降伏を宣言した。(二)貴下は貴下の指揮下にあるすべての部隊に、いっさいの軍事行動を停止し、中国解放区の八路軍、新四軍および華南抗日縦隊の命令をまってわが方に降伏するよう命令すべきである。ただし、国民党政府の軍隊によって包囲されている部分をのぞく。(三)降伏の件にかんしては、つぎのようにすべきである。華北における日本軍については、下村定将軍にたいし、八路軍の阜平地区に代表を派遣して聶栄臻将軍の命令をうけるよう命じること、華東における日本軍については、貴下が直接代表を新四軍本部所在地の天長地区に派遣して陳毅将軍の命令をうけること、湖北、河南両省における日本軍については、武漢にいる代表にたいし、新四軍第五師団の大別山地区におもむいて李先念将軍の命令をうけるよう命じること、広東における日本軍については、貴下の指名する広州にいる代表が華南抗日縦隊の東莞地区におもむいて曽生将軍の命令をうけるようにすること。(四)華北、華東、華中および華南におけるすべての日本軍(国民党軍に包囲されている日本軍をのぞく)は、いっさいの兵器、資材をしばらく保存して、わが軍が降伏を受理するのを待つようにし、八路軍、新四軍および華南抗日縦隊以外の命令にしたがってはならない。(五)華北、華東のすべての飛行機、艦船は、そのまま現在地に停留させること。ただし、黄海、渤海に面した中国海岸の艦船は、それぞれ連雲港、青島、威海衛、天津に集結させること。(六)物資、施設はいっさい破壊してはならない。(七)貴下および貴下の指揮する華北、華東、華中および華南の日本軍指揮官は、上述の命令の執行にたいして、絶対的な責任を負うこと。」
    〔5〕 ニミッッは、当時のアメリカ太平洋艦隊兼太平洋戦区司令長官であった。


maobadi 2011-03-29 22:55
蒋介石のスポークスマンの談話を評す
          (一九四五年八月十六日)

     これは、毛沢東同志が新華社にかわって書いた論評である。

 蒋介石《チァンチェシー》のスポークスマンは、十五日午後の重慶《チョンチン》での記者会見で、共産党が蒋介石委員長の朱徳《チュートー》総司令にたいする命令に違反した件なるものについてのべ、そのさい、「委員長の命令には、かならず服従しなければならない」、「違反者は人民の共同の敵である」と語った。新華社記者はつぎのように指摘する。これは蒋介石が公然と発した全面的内戦の信号である。蒋介石はさる十一日、日本侵略者を最後的に一掃するこの重大なせとぎわに八路軍・新四軍およびすべての人民軍隊が日本軍・かいらい軍を攻撃することを禁ずるという、民族を裏切る命令を出した。この命令は、もちろん絶対にうけいれられないものであり、また、絶対にうけいれてはならないものであった。つづいて蒋介石は、かれのスポークスマンをつうじて、中国人民の軍隊を「人民の共同の敵」であると宣言した。これは蒋介石が中国人民にむかって内戦を宣言したことをしめすものである。蒋介石の内戦の陰謀は、もちろん十一日の命令にはじまったわけではなく、八年の抗戦をつうじて、かれの一貫した計画であった。この八年間に蒋介石は、一九四〇年、一九四一年、一九四三年と三回にわたって大がかりな反共の高まり〔1〕をひきおこしては、そのたびに全国的内戦にまでもっていこうとした。ただそれが、中国人民と連合諸国の人びとの反対によって実現をみなかっただけであり、蒋介石はそれをくやんできた。そこで、蒋介石は全国的内戦を抗戦終結のときまでもちこさざるをえなくなり、こうして出されたのが今月十一日の命令と十五日の談話である。蒋介石は内戦をひきおこすために、これまでいろいろなことばを発明してきた。たとえば「異見」「奸党《かんとう》」「奸軍」「叛軍《はんぐん》」「奸区」「匪区《ひく》」「軍令、政令に服従しない」「封建的割拠」「抗戦を破壊する」「国家を危うくする」とか、または、中国にはこれまで「共産党討伐」があっただけで、「内戦」はなく、したがって「内戦」は今後もありえないなどということばがそれである。今度いくらか変わっている点は、「人民の共同の敵」という新しいことばが一つふえたことである。しかし、人びとはこの発明を愚かなものと感じるにちがいない。それというのも、中国では、「人民の共同の敵」といいさえすれば、それがだれをさすかはみんなが知っているからである。中国にはこういう人間がいる。かれは孫中山《スンチョンシャン》の三民主義と一九二七年の大革命を裏切った。かれは中国人民を十年にわたる内戦の血の海につきおとし、そのために日本帝国主義の侵略をまねいた。するとかれは肝をつぶして一目散に逃げだし、一味徒党をひきつれて黒竜江《ヘイロンチァン》から貴州《コイチョウ》省まで退却した。かれは手をこまねいて勝利を待った。はたして勝利がおとずれた。かれは大手をふって南京《ナンチン》にかえるために、人民の軍隊には「とどまって命会を待つ」よう命じ、敵軍や民族裏切り者には「治安を維持する」よう命じた。これだけいえば、それが蒋介石だということは、中国人民にはすぐわかる。蒋介石はこうしたことをすべてやってのけたのである。かれが人民の共同の敵かどうかという問題に、まだ議論があるだろうか。議論はある。人民はそうだといい、人民の共同の敵はそうでないという。こういった議論があるだけである。人民大衆のあいだでは、そういう議論もますます少なくなってきている。いま問題なのは、この人民の共同の敵が内戦をやろうとしていることである。人民はどうしたらよいか。新華社記者はつぎのように指摘する。蒋介石が内戦をひきおこすことにたいして、中国共産党のとっている方針は、明確であり一貫している。つまり、内戦に反対することである。中国共産党は、日本帝国主義が中国に侵入しはじめたときからすでに、内戦をやめ一致して外敵にあたるよう要求してきた。そして、一九三六年から一九三七年にかけては、おどろくほどの努力をはらって、蒋介石にわれわれの主張をうけいれさせ、これによって抗日戦争が実現された。抗日の八年のあいだ、中国共産党は、内戦の危険をくいとめるよう、人民の喚起をうながすのを一度もおこたったことはなかった。昨年からは、共産党はさらに、抗戦の終わるのを侍って全国的な内戦をひきおこそうという、蒋介石によってたくらまれていた大陰謀について、再三再四、人びとの注意をよびおこしてきた。共産党は、中国人民ならびに中国の平和に関心をよせている全世界の人びとと同様に、新しい内戦を災厄《さいやく》だと考えている。しかし、共産党は、内戦はやはりくいとめることができるし、またくいとめなければならないと考えている。共産党が連合政府の樹立を主張しているのは、内戦をくいとめるためである。現在、蒋介石はこの主張をはねつけ、いまにも内戦がおこりそうな状態をつくりだしている。しかし、蒋介石のその手を封ずる方法はじゅうぶんにある。断固として、すみやかに、人民の民主勢力の拡大につとめ、人民の手で敵の占領している大都市を解放し、敵軍・かいらい軍の武装を解除し、もしこの暴君・人民の敵があえて人民を侵してくるならば、自衛の立場から、内戦挑発《ちょうはつ》者に勝手なふるまいをさせないよう、これにだんこ反撃をくわえる。これがその方法であり、またこの方法しかないのである。新華社記者は、全中国と全世界がつぎのようなもっともそらぞらしい、もっとも恥しらずな欺瞞に反対するようよびかける。その欺瞞というのは、蒋介石が中国人民にたいし、敵占領下の大都市を解放することを禁じ、敵軍・かいらい軍の武装を解除し民主政治を確立することを禁じ、かれみずからそれらの大都市にでかけていって、敵・かいらい勢力の支配を「世襲」(破壊するのではなく)すれば、かえって中国の内戦はさけられる、というものである。新華社記者はつぎのように指摘する。これは欺瞞であり、こうした欺瞞は、あきらかに中国人民の民族的利益と民主的利益に反するばかりでなく、中国近代史の全事実にまっこうから反するものである。つぎのことを永久に心にとめておかなければならない。一九二七年から一九三七年にかけて蒋介石が十年の内戦をおこなったのは、大都市が蒋介石の手中にはなくて共産党の手中にあったからではない。まったくその逆で、一九二七年からこんにちまで、大都市は一つとして共産党の手中にあったことはなく、蒋介石の手中または蒋介石からそれをゆずり渡された日本と民族裏切り者の手中にあったからこそ、内戦が全国的な規模で十年間もおこなわれ、しかも、局部的にこんにちまでつづいているのである。つぎのことも永久に心にとめておかなければならない。十年の内戦が停止されたのは、また、抗戦中の三回にわたる反共の高まりやその他の数しれぬ挑戦(さいきんの陝西《シャンシー》・甘粛《カンスー》・寧夏《ニンシァ》辺区南部への蒋介石の侵犯事件〔2〕にいたるまで)がくいとめられたのは、蒋介石の力が強大だったからではなく、まったくその逆で、蒋介石の力が相対的にそれほど強大でなく、共産党と人民の力が相対的に強大だったからである。十年の内戦は、全国の、平和をのぞみ戦争をおそれる人びとのうったえ(たとえば、かつての「内戦廃止大同盟」〔3〕などのうったえ)によってやんだのではなく、中国共産党の武力による要求や、張学良《チャンシュエリァン》、楊虎城《ヤンホーチョン》の指導する東北軍、西北軍の武力による要求によってやんだのである。三回にわたる反共の高まりやその他の数しれぬ挑戦は、共産党のきりのない譲歩と服従によって撃退されたのではなく、共産党が「相手が侵してこなければこちらも侵さない、相手が侵してくれはこちらもかならず侵す」〔4〕という厳正な自衛の態度を堅持したことによって撃退されたのである。もし共産党が、少しの力ももたず、少しの気骨もなく、民族と人民の利益のためにたたかいぬくことをしなかったら、どうして十年の内戦を終わらせることができただろうか。どうして抗日戦争をはじめることができただろうか。たとえはじめたとしても、どうしてこんにちの勝利まで堅持することができただろうか。また、どうして蒋介石のようなやからがこんにちまで無事に生きのび、前線からあれほどはなれた山奥で、命令とか談話とかを発表することができただろうか。中国共産党はだんこ内戦に反対するものである。「内部の平和状態を確立し」、「民衆のあいだのすべての民主的な人びとの代表が広範に参加する臨時政府を樹立するとともに、できるだけはやく、自由選挙をつうじて、人民の意志に責任を負う政府の樹立を確実に保証する」こと、これはソ米英三国がクリミアでのべたことばである〔5〕。中国共産党はまさにこの主張、つまり「連合政府」の主張を堅持している。この主張が実現すれば、内戦をくいとめることができる。その条件は力をもつことである。全人民が団結して自己の力を強大にすれば、内戦はくいとめることができる。



    〔1〕 蒋介石がひきおこした三回にわたる大がかりな反共の高まりの経過については、本選集第三巻の『国民党中央執行委員会第十一回全体会議と第三期国民参政会第二回会議を評す』にみられる。
    〔2〕 一九四五年七月、国民党軍が陝西・甘粛・寧夏辺区関中分区の淳化、[木+旬][”口”の下に”巴”]、耀県などの地方を襲撃した事件をさす。本巻の『抗日戦争勝利後の時局とわれわれの方針』注〔6〕にみられる。
    〔3〕 「内戦廃止大同盟」は、一九三二年八月に上海で成立したもので、主として一部のブルジョア人士によって構成されていた。かれらは「内戦をなくし、ともに外侮をふせぐ」ことを主張する宣言を発表した。
    〔4〕 本選集第二巻の『中央通信社、掃蕩報、新民報の三記者との談話』にみられる。
    〔5〕 これらのことばは、一九四五年二月十一日のソ米英三国クリミア(ヤルタ)会議のコミュニケからの引用である。
    訳注
    ① 本選集第一巻の『蒋介石の声明についての声明』注〔1〕にみられる。


maobadi 2011-03-29 22:56
国民党と和平交渉をすすめることについての中国共産党中央の通達
          (一九四五年八月二十六日)

     これは、毛沢東同志が蒋介石と和平交渉をおこなうため重慶へ出発する二日前に、中国共産党中央のために起草した党内通達である。中国共産党と中国の広範な人民が蒋介石のたくらむ内戦の陰謀に断固として反対していたため、また、アメリカ帝国主義が当時はまだ、蒋介石の内戦政策と専制政策に一致して反対していた世界の民主的世論の手前をはばかっていたためもあって、蒋介石は一九四五年八月十四日、二十日、二十三日の三回にわたり、毛沢東同志に和平交渉のため重慶をおとずれるよう要請する電報をおくった。当時の中国駐在アメリカ大使ハーレーも、このことで八月二十七日に延安にやってきた。中国共産党は、できるかぎりの手をつくして平和をかちとるため、また、平和をかちとる過程でアメリカ帝国主義と蒋介石の正体を暴露し、これによって広範な人民を結集し教育するため、毛沢東、周恩来、王若飛の三同志を重慶に派遣して国民党と和平交渉をおこなうことを決定した。毛沢東同志の起草したこの通達は、日本の降伏宣言俊二週間のあいだの中国情勢の発展を分析し、中国共産党中央の和平交渉にかんする方針、その交渉のなかでおこなう用意のある若千の譲歩、その交渉の結果うまれる二つの可能な状況にたいする対策について説明し、華北、華東解放区と華中、華南解放区での闘争についてそれぞれ原則的な指示をあたえ、さらに、全党にたいし、交渉をやっているからといって蒋介石にたいする警戒と闘争を絶対にゆるめてはならないということを教えている。毛沢東同志らは八月二十八日に重慶につき、自民党と四十三日間にわたって交渉をすすめた。この交渉では、「国共双方代表会談記録要綱」(すなわち「双十協定」)の発表という結果をみたにすぎなかったが、政治的には中国共産党がきわめて大きな主動性を獲得し、国民党は受動的な立場におちいることになった。したがって、この交渉は成功であった。十月十一日、毛沢東同志は延安に帰った。周恩来、王若飛の二同志はなお、重慶にのこって交渉をつづけた。この交渉の結果については、本巻の『重慶交渉について』を参照されたい。

 日本侵略者がたちまち降伏したため、全情勢は一変した。蒋介石が敵軍の降伏を受理する権利を独占したため、大都市や主要交通線は、当分(一定段階のあいだ)われわれのものになる見込みがない。しかし、華北方面では、われわれはなお、あくまでも争い、獲得できるところはすべて、全力をあげて獲得しなければならない。この二週間に、わが軍は大小五十九の都市と広大な農村をとりもどして、以前からのものを合わせると、百七十五の都市をもっという偉大な勝利をおさめた。華北方面では、威海衛《ウェイハイウェイ》、烟台《イェンタイ》、竜□《ロンコウ》、益都《イートー》、[シ+”巛”の下に”田”]川《ツーチョワン》、楊柳青《ヤンリュウチン》、畢克斉《ピーコーチー》、博愛《ポーアイ》、張家口《チャンチァコウ》、集寧《チーニン》、豊《フォン》鎮などをとりもどして、わが軍はすでに華北を震憾させており、長城の線までおしよせたソ連軍やモンゴル軍の勢いとあいまって、わが党の有利な地位をつくりだしている。今後の一時期は、なおひきつづき攻勢に出て、できるかぎり、北平《ペイピン》=包頭《パオトウ》鉄道、大同《タートン》=風陵渡《フォンリントウ》鉄道北部区間、石家荘《シーチァチョワン》=太原《タイユァン》鉄道、徳州《トーチョウ》=石家荘鉄道、白圭《パイクイ》=晉城《チンチョン》鉄道、道口《タオコウ》=清化《チンホヮ》鉄道を奪取し、北平=瀋陽《シェンヤン》、北平=漢□《ハンコウ》、天津《ティエンチン》=浦口《プーコウ》、青島《チンタオ》=済南《チーナン》、天水《ティエンショイ》=連雲港《レンユィンカン》、上海《シャンハイ》=南京《ナンチン》の各鉄道を切断し、たとえ一時的にでも、掌握できるところはすべて掌握しなければならない。同時に、必要な力を投じて、農村と府都、県都、小郡市をできるだけ多く占拠することである。たとえば、新四軍は南京、太湖《タイフー》、天目山《ティエンムーシャン》のあいだの多くの県都や、長江《チャンチァン》と淮河《ホヮイホー》のあいだの多くの県部を占領し、山東省のわが軍は膠東《チァオトン》半島の全部を占領し、山西《シャンシー》省、綏遠《スイユァン》省のわが軍は北平=包頭鉄道南北の多くの都市を占領して、きわめて有利な情勢をうみだしている。さらに一時期のあいだ攻勢に出れば、わが党は長江下流以北地区、淮河以北地区、山東、河北《ホーペイ》、山西、綏遠の各省のほとんど全部、熱河《ローホー》、察哈爾《チャーハール》両省の全部および遼寧《リァオニン》省の一部を支配することができるであろう。
 現在、ソ米英三国はいずれも中国の内戦に賛成していないし〔1〕、わが党も平和、民主、団結の三大スローガン〔2〕をかかげ、また毛沢東《マオツォートン》、周恩来《チョウエンライ》、王若飛《ワンルォフェイ》の三同志を重慶《チョンチン》に派遣して、蒋介石と団結建国の大方針について話しあうことになっているので、中国反動派のたくらむ内戦の陰謀はくじかれる可能性がある。国民党は上海、南京などを手にいれ、海への通路をひらき、敵の武装を解除し、かいらい軍を自軍に編入して、まえよりもその地位を強めているが、あいかわらず満身創痍《そうい》の状態で、内部の矛盾はひじょうに多く、困難ははなはだ大きい。交渉の結果、国民党は内外の圧力のもとに条件つきでわが党の地位をみとめ、わが党もまた条件つきで国民党の地位をみとめ、両党の協力(民主同盟〔3〕その他をくわえる)と平和的発展という新しい段階がうまれる可能性がある。こうした局面があらわれたばあい、わが党は合法闘争のあらゆる方法を身につけるよう努力し、国民党地域における都市活動、農村活動、軍隊活動の三大活動(いずれもわれわれの弱点である)に力をいれなければならない。交渉の過程で、国民党はかならず、わが方に解放区の面積と解放軍の数の大幅な縮小を要求し、紙幣の発行を禁止するにちがいないが、わが方としても、人民の根本的利益をそこなうことのない、必要な譲歩はおこなう用意がある。こうした譲歩がなければ、国民党のたくらむ内戦の陰謀をうちやぶることはできず、政治的に主動的な地位にたつことはできず、世界の世論と国内の中間派の共鳴を得ることはできず、わが党の合法的な地位と平和の局面をかちとることはできない。しかし、譲歩には限度があり、人民の根本的利益をそこなわないことを原則とする。
 わが党が上述の措置をこうじてもなお国民党が内戦をおこすなら、国民党は全国および全世界のまえで道理をうしなうことになり、わが党は、その攻撃を撃破するための自衛戦争をおこなう理由をもつことになる。同時に、わが党は強大な力をもっており、もし侵してくるものがあれば、条件が有利なかぎり、かならず自衛の立場にたって、断固として、徹底的に、きれいに、のこらずこれを消滅するであろう(軽率に戦ってはならず、戦うからにはかならず勝たなければならない)。ぜったいに反動派のいたけだかな勢いにのまれてはならない。しかしながら、団結もすれば闘争もし、闘争の手段によって団結の目的をたっすること、道理があり、有利であり、節度があること、矛盾を利用し、多数を獲得し、少数に反対し、各個に撃破することなどの原則〔4〕は、どんなときでも、忘れずに堅持しなければならない。
 広東《コヮントン》、湖南《フーナン》、湖北《フーペイ》、河南《ホーナン》などの省におけるわが党の勢力は、華北地方、長江・淮河地区におけるものよりも困難な状態にあり、中央はこれらの地方の同志たちに深い関心をよせている。しかし、国民党は隙《すき》だらけだし、地域もきわめて広いので、同志たちが軍事政策(行動と戦闘)や人民と団結する政策のうえで大きなあやまりをおかさず、謙虚で慎重で、おごらずあせらないかぎり、じゅうぶんに対処することができる。中央も必要な指示はあたえるが、これらの地方の同志は、自分で状況を分析し、問題を解決し、困難を突破して、その生存と発展をはからなければならない。国民党は、諸君にたいしてどうにも手のうちようがないというときになれば、両党の交渉の過程で諸君の力をみとめざるをえなくなり、双方に有利な措置をとることを承諾するであろう。しかし、諸君はぜったいに交渉にたよったり、国民党が善心をおこすことに期待をかけたりしてはならない。国民党は善心をおこすはずがないのである。諸君は、自分のもっている力、行動をみちびくうえでの正しさ、党内の兄弟のような団結、人民との良好な関係にたよらなければならない。断固として人民にたよること、これが諸君の活路である。
 要するに、わが党のまえにはひじょうに多くの困難があり、これを無視してはならない。全党の同志はじゅうぶんな心構えをしておかなければならない。しかし、国際、国内の大勢は、全般的に、わが党と人民に有利であって、全党が一致団結するかぎり、あらゆる困難に一歩一歩うち勝っていくことができる。



    〔1〕 日本降伏前後の一時期、ソ米英三国はいずれも、中国に内戦がおこることに賛成しないことを表明した。しかし、中国の内戦に賛成しないというアメリカの声明が、国民党反動政府の反革命的内戦の準備を積極的に援助するための掩護でしかなかったことは、その後まもなく事実によって立証された。
    〔2〕 平和、民主、団結の三大スローガンは、一九四五年八月三十五日、中国共産党中央委員会の『当面の時局についての宣言』のなかでかかげられたものである。宣言には、日本帝国主義の降伏後、「わが全民族の直面している重大な任務は、国内の団結をかため、国内の平和を保障し、民主主義を実現し、人民の生活を改善すること、これによって、平和、民主、団結の基礎のうえに全国の統一を実現し、独立、自由、富強の新中国を建設することである」と指摘されている。
    〔3〕 民主同盟は一九四一年に結成され、当時は中国民主政団同盟と称していたが、一九四四年に改組して中国民主同盟になった。
    〔4〕 本選集第二巻の『当面の抗日統一戦線における戦術の問題』と『政策について』を参照。


maobadi 2011-03-29 22:57
 重慶交渉について

          (一九四五年十月十七日)

     これは、毛沢東同志が重慶から延安にかえったのち延安での幹部会議でおこなった報告である。

 当面の時局の問題について話すことにしよう。これは同志諸君が関心をよせている問題である。こんど、国共両党は重慶《チョンチン》で交渉をおこない、四十三日間話しあった。交渉の結果は、すでに新聞に発表されている〔1〕。現在、両党の代表はまだ交渉をつづけている。こんどの交渉は収穫があった。国民党は、平和・団結の方針と人民の若干の民主的権利を認め、また、内戦をさけ両党が平和的に協力して新中国を建設することを認めた。これらの点については、取り決めができた。このほかに、取り決めのできなかったものもある。解放区の問題は解決されなかったし、軍隊の問題も実際には解決されなかった。すでにまとまった取り決めも、まだ紙の上のものにすぎない。紙の上のものは、現実のものではない。それを現実のものとするには、なお大きな努力をはらわなければならないことを、事実は立証している。
 国民党は、一方でわれわれと交渉しながら、他方ではさかんに解放区を攻撃している。陝西《シャンシー》・甘粛《カンスー》・寧夏《ニンシァ》辺区を包囲している軍隊はさておき、直接、解放区を攻撃している国民党軍だけでも八十万人にのぼっている。現在、解放区のあるところではどこでも、戦争をしているか、あるいは戦争の準備をしている。「双十協定」の第一条は「平和建国」であるが、紙に書かれたこのことばは事実と矛盾しているのではないか。そのとおり、矛盾している。だから、紙の上のものを現実のものとするには、このうえとも、われわれの努力が必要なのである。なぜ、国民党はあれほど多くの軍隊を動員してわれわれを攻撃してくるのか。それは、国民党の腹がとっくにきまっていて、人民の力を消滅し、われわれを消滅しようとしているからである。すぐ消滅できれば、それにこしたことはないが、すぐには消滅できなくても、われわれの形勢をもっと不利にし、国民党の形勢をもっと有利にしたいからである。平和という一ヵ条は、協定には書いてあっても、実際には実現されていない。現在、一部の地方ではかなり大きな戦いがおこなわれており、山西《シャンシー》省の上党《シャンタン》区がその一例である。大行山《タイハンシャン》、大岳山《タイユエシャン》、中条山《チョンティアオシャン》にかこまれて一つのたらいがあるが、それが上党区である。そのたらいのなかには魚もあれば、肉もあるので、閻錫山《イェンシーシャン》が十三コ師団をくりだして略奪しにきた。われわれの方針もとっくにきまっている。それは、まっこうから対決し、一寸の土地もかならず争うということである。こんど、われわれは「対決」し、「争」った。しかも、みごとに「対決」し、みごとに「争」った。つまり、かれらの十三コ師団をのこらず殲滅《せんめつ》したのである。攻撃してきたかれらの部隊が合計三万八千人であったのにたいし、われわれは三万一干人を出動させた。かれらは、三万八千人のうち、三万五千人を殲滅され、二千人が逃げのび、一千人がちりぢりになった〔2〕。こうした戦いは、これからもやるであろう。かれらは、われわれの解放区の土地を死にものぐるいで奪いにくる。この問題は説明のしようがないようにみえる。かれらは、なぜ、こうまでして奪いにくるのか。われわれの手中にあり、人民の手中にあって、それで結構ではないか。これはわれわれの考えであり、人民の考えである。もしかれらもそう考えるなら、それで統一したことになり、みんな「同志」だということになる。しかし、かれらはそう考えるはずがなく、あくまでもわれわれに反対する。かれらは、われわれに反対しなければ釈然としない。かれらが攻めてくるのは、きわめて自然なことである。われわれとしても、解放区の土地をかれらに奪われるのでは、やはり釈然としない。われわれが反撃に出るのも、きわめて自然なことである。釈然としないものがいっしょになると、いくさになる。両方とも釈然としないのに、なぜ交渉をしたり、「双十協定」を結んだりしたのか。世の中のことは複雑で、いろいろな面の要因によってきまる。問題は、一つの面からだけ見るのでなく、いろいろな面から見なければならない。重慶には、蒋介石《チァンチェシー》はあてにならない、うそつきだ、かれと交渉してなんらかの結果をえようとしてもそれは不可能だ、という考えの人も一部にいる。わたしの会った多くの人はそういっていたし、そのなかには国民党員もいた。わたしはその人たちにこういった。あなた方のいわれることには道理があり、根拠がある、そんなところだろうということは、十八年の経験から〔3〕よくわかっている。国共両党は、きっと交渉がうまくいかず、きっといくさになり、きっと決裂するだろうが、しかし、これはことの一面にすぎない。そのほかにも別の一面があり、多くの要因があって、蒋介石もなおあれこれと気がねをしないわけにいかないのである。それには、主として三つの要因がある。解放区が強大なこと、大後方の人民が内戦に反対していること、それに国際情勢である。わが解放区には一億の人民、百万の軍隊、二百万の民兵がおり、この力はだれも軽視することができない。わが党が国内の政治でしめている地位は、もはや一九二七年のころの状態とはちがっているし、また一九三七年のころの状態ともちがっている。国民党は、これまで共産党の対等の地位を認めようとしなかったが、いまでは認めるほかなくなっている。わが解放区の事業はすでに全中国、全世界に影響をおよぼしている。大後方の人民はみな平和をのぞみ、民主をもとめている。わたしはこんど重慶で、広範な人民がわれわれを心から支持していることをしみじみと感じた。かれらは国民党政府に不満をいだき、われわれの側に希望をかけている。わたしはまた、アメリカ人をもふくめて、多くの外国人がわれわれに大いに共鳴していることを知った。外国の広範な人民は、中国の反動勢力に不満をいだき、中国の人民の力に共鳴している。かれらも蒋介石の政策に賛成していない。われわれは全国、全世界に、多くの友人をもっており、われわれは孤立していない。中国の内戦に反対し、平和と民主を主張しているのは、われわれ解放区の人民だけでなく、大後方の広範な人民、全世界の広範な人民もそうである。蒋介石の主観的な願望は、あくまでも専制をつづけ、共産党を消滅することにあるが、その願望を実現するには、客観的に多くの困難がある。そこで、かれも現実主義でいかざるをえない。むこうが現実主義でくるなら、こちらも現実主義でいく。むこうが現実主義で招くなら、こちらも現実主義で交渉に出かける。われわれは八月ニ十八日に重慶についた。二十九日の晩に、わたしは国民党の代表にいった。九・一八事変のときから、平和・団結の必要がうまれた。われわれはそれを要求したが、実現されなかった。西安事変のあと、「七・七」抗戦のまえになって、やっと実現した。八年の抗戦では、みんなが一致して日本と戦った。しかしひっきりなしに大小の摩擦がおき、内戦は絶えたことがなかった。内戦などなかったというなら、それは人をあざむくものであり、事実に反している。八年のあいだ、われわれは交渉の用意があることを一再ならず表明してきた。われわれは党の第七回代表大会でも、国民党当局が「いったん、いまのあやまった政策を放棄することをのぞみ、民主改革をおこなうことに同意しさえすれば、われわれはかれらとの交渉を再開する用意がある」〔4〕ことを声明した。交渉の過程で、われわれは、第一に中国は平和を必要としている、第二に中国は民主を必要としている、と主張した。蒋介石は反対する理由がないので、しかたなく賛成した。「会談記録要綱」に発表されている平和の方針と若干の民主についての取り決めは、一方では紙に書かれたもので、まだ現実のものではないが、他方ではやはり各方面の力によって決定されたものである。解放区の人民の力、大後方の人民の力、国際情勢など、大勢のうごきによって、国民党はこれらのものを認めざるをえなかったのである。
 「まっこうから対決する」にも、情勢を見なければならない。時によっては、交渉に出かけないことが、まっこうから対決することになるし、時によっては、交渉に出かけることが、やはりまっこうから対決することになる。以前に出かけなかったのも正しければ、こんど出かけたのも正しく、どちらもまっこうからの対決である。こんど、われわれは、出かけていってよかった。これによって、共産党は平和をのぞまない、団結をのぞまない、という国民党のデマを粉砕したのである。つづけざまに三通も招請の電報をよこしたので、出かけていったわけだが、かれらにはなんの準備もなく、提案はみなわれわれのほうからださなければならなかった。交渉の結果、国民党は、平和・団結の方針を認めた。これは結構なことだ。国民党がまた内戦をおこすなら、かれらは全国と全世界のまえで道理をうしなうことになり、われわれは、なおさら、その攻撃を粉砕するための自衛戦争をおこなう理由をもつことになる。「双十協定」成立後のわれわれの任務は、この協定を堅持し、国民党にその実施を要求し、ひきつづき平和をかちとることである。もしかれらが戦うというなら、かれらを徹底的に消滅するまでである。相手が攻めてくれば、われわれはそれを消滅する、そうすれば相手はさっぱりする。つまり、すこし消滅してやれば、すこしさっぱりし、たくさん消滅してやれば、たくさんさっぱりし、徹底的に消滅してやれば、徹底的にさっぱりする。ものごとはそうしたものである。中国の問題は複雑だから、われわれの頭もすこし複雑にならなければならない。むこうが攻めてくれば、こちらも戦うが、戦うのは平和をかちとるためである。解放区をあえて攻撃する反動派に大きな打撃をあたえなければ、平和はやってこない。
 一部の同志から、なぜ八つの解放区〔5〕をわたすのか、という質問が出ている。この八つの地域をわたすのはひじょうに惜しいが、そうしたほうがよいのである。なぜ惜しいのか。それは人民が血と汗をながしてつくりあげ、苦労してきずきあげた解放区だからである。したがって、わたすことになったところでは、土地の人たちにはっきりと事情を説明し、適切な処置をとらなければならない。では、なぜわたすのか。それは国民党が安心しないからである。かれらが南京《ナンチン》にもどろうとしているのに、南方の一部の解放区が寝床のそばにあったり、廊下にあったりして、われわれがそこにいたのでは、かれらは安心して眠れない。だから、どうしても争うのである。この点でわれわれが譲歩すれば、国民党のたくらむ内戦の陰謀をうちやぶり、国内国外の広範な中間層の共鳴をうるのに有利である。現在、全国の宣伝機関は、新華社をのぞいて、みな国民党の手ににぎられている。それらはすべてデマ製造工場である。こんどの交渉にさいしても、それらの宣伝機関は、共産党はとにかく地盤をほしがる、とても譲歩はすまい、というデマをとばした。われわれの方針は、人民の基本的利益をまもることである。人民の基本的利益をそこなわないという原則のもとでいくらかの譲歩をし、そうした譲歩によって全国人民の必要とする平和と民主を手にいれるということは許される。われわれは以前、蒋介石と交渉したさいにも、譲歩したし、現在よりもっと大きな譲歩をした。一九三七年には、全国の抗戦を実現するため、われわれは自発的に労農革命政府の名称をとりけし、赤軍も国民革命軍と改称し、さらに、地主の土地の没収を小作料・利子の引き下げにあらためた。こんど、われわれが南方で若干の地域をわたしたため、国民党のデマは全国人民と全世界人民の目のまえで、完全に破産したのである。軍隊の問題もそうである。共産党はとにかく鉄砲を争いとろうとする、と国民党は宣伝した。われわれは、譲歩の用意があるといった。われわれは、まず、われわれの軍隊を現在の数から四十八コ師団にまで縮小する案をだした。国民党の軍隊は二百六十三コ師団だから、われわれは六分の一をしめることになる。その後、われわれはまた四十三コ師団、つまり、七分の一にまで縮小する案をだした。すると、国民党はかれらの軍隊を百二十コ師団にまで縮小するといった。そこで、われわれは、おなじ割合でへらして、われわれの軍隊を二十四コ師団に縮小してもよいし、さらに二十コ師団にまでへらしてもよい、やはり七分の一である、といった。国民党軍は、将校の多いわりに兵士が少なく、一コ師団は六干人にたっしない。かれらの編制でいくと、われわれの百二十万人の軍隊は、二百コ師団に編成できる。しかし、われわれはそうはしない。こうなっては、かれらも返すことばがなくなり、デマはすっかり破産してしまった。では、われわれは鉄砲をかれらにひき渡すのか。そうではない。ひき渡せば、かれらのほうがさらに多くなるではないか。人民の武装力は、たとえ一ちょうの銃、一発の弾丸ものこしておくべきであり、ひき渡してはならない。
 以上が、同志諸君に話そうとおもっていた時局の問題である。当面の時局の発展には、多くの矛盾した現象がみられる。国共間の交渉で、なぜ、一部の問題については取り決めができ、一部の問題については取り決めができなかったのか。「会談記録要綱」には平和・団結がうたわれているのに、なぜ実際には戦っているのか。こうした矛盾した現象が一部の同志には納得できない。わたしの話はこれらの問題に答えたものである。蒋介石は一貫して反共、反人民であるのに、なぜ、われわれはかれと交渉しようとするのか、一部の同志はこのことが理解できない。わが党の第七回代表大会では、国民党の政策に転換が見えさえすれば、かれらと交渉する用意があるという決定をおこなったが、これは正しかっただろうか。まったく正しかった。中国の革命は長期にわたるものであり、勝利は一歩一歩かちとられるものである。中国の前途がどうなるかは、われわれみんなの努力いかんにかかっている。半年ぐらいのあいだ、情勢はなお不安定なままであろう。われわれは情勢を全国人民に有利なほうへ発展させるため、いっそう努力しなければならない。
 われわれの活動についても、すこしばかり話しておきたい。ここにいる同志のなかには、前線におもむくものもいる。多くの同志は、先をあらそって前線へ仕事にいこうという熱意にもえているが、こうした積極性と熱意は非常にとうといものである。しかし、ごく一部にではあるが、まちがった考えをもっている同志もいて、むこうには解決しなければならない困難がたくさんあるとは考えず、なにもかもうまくいっていて延安《イェンアン》よりも楽だ、と考えている。こんなふうに考えているものはいないだろうか。いるとおもう。わたしはそうした同志に、自分の考え方をあらためるようすすめたい。いくのは、仕事のためにいくのである。仕事とは何か。仕事とは闘争である。そうしたところには困難があり問題があるので、われわれがいって解決しなければならない。われわれは困難を解決するために仕事をしにいくのであり、闘争をしにいくのである。困難なところほどすすんでいく、それでこそりっぱな同志である。そうしたところの仕事はひじょうな困難にみちている。困難な仕事は、われわれの目のまえにおかれている荷物のようなもので、それをかつぐ勇気があるかどうかが問題である。荷物には軽いのもあれば、重いのもある。なかには重いのをいやがって軽いのをとり、重い荷物は人におしつけ、自分は軽いのをえらんでかつぐものもいる。これでは、りっぱな態度といえない。ある同志たちはそうではない。楽しみは人にゆずり、荷物は重いのをえらんでかつぎ、人に先だって苦しみ、人におくれて楽しむ。こうした同志こそりっぱな同志である。こうした共産主義者の精神を、われわれは学ばなければならない。
 多くの地元の幹部は、いま郷里をあとにして、前線におもむこうとしている。また、多くの南方生まれの幹部は、以前に南方から延安にやってきたのだが、いまやはり前線におもむこうとしている。前線におもむくすべての同志は、むこうについたち、そこで根をおろし、花を咲かせ、実を結ぶよう、じゅうぶんな心構えをしておかなければならない。われわれ共産党員はいわば種子であり、人民はいわば土地である。われわれはいく先ざきで、そこの人民と結びつき、人民のあいだに根をおろし、花を咲かせなければならない。われわれの同志は、どこへいこうと、大衆との関係をよくし、大衆に関心をよせ、かれらをたすけて困難を解決しなければならない。広範な人民と団結すべきで、団結する大衆は多ければ多いほどよい。思いきって大衆を立ちあがらせ、人民の力を強大にし、わが党の指導のもとに、侵略者をうちやぶり、新しい中国をきずきあげる。これが党の第七回代表大会の方針〔6〕であり、われわれはこの方針のためにたたかわなければならない。中国のことは、共産党がやり、人民がやらなければならない。われわれには、平和を実現し民主を実現する決意があり、その万策がある。われわれが全人民といっそうよく団結するなら、中国のことはうまくいくであろう。
 第二次世界大戦後の世界の前途は明るい。これは全般的な趨勢《すうせい》である。ロンドンの五ヵ国外相会議は失敗したが〔7〕、これですぐ第三次世界大戦になるだろうか。そんなことはない。考えてもみたまえ、第二次世界大戦が終わったばかりなのに、どうして第三次世界大戦がおこりえよう。資本主義国と社会主義国は、多くの国際問題でやはり妥協するであろう。なぜなら、妥協したほうがためになるからである〔8〕。反ソ、反共の戦争には、全世界のプロレタリア階級と人民がみな断固として反対している。ここ三十年間に世界大戦が二度おきたが、第一次大戦と第二次大戦のあいだには、二十数年のへだたりがあった。人類の歴史五十万年のうち、世界戦争がおきたのはこの三十年間だけである。第一次大戦後、世界は大きな進歩をとげた。こんどの大戦のあとでは、世界はより急速な進歩をとげるにちがいない。第一次大戦後、ソ連がうまれ、全世界に数十の共産党がうまれたが、これはかつてなかったことである。第二次世界大戦ののち、ソ連はいっそう強力となり、ヨーロッパはその面目をあらため、全世界のプロレタリア階級と人民の政治的自覚はいっそうたかまり、全世界の進歩勢力はいっそう団結している。わが中国もはげしい変動のさなかにある。中国の発展の全般的な趨勢もわるくはならず、かならずよくなっていくであろう。世界は進歩しつつあり、前途は明るい。この歴史の全般的な趨勢は、だれも変えることができない。われわれは世界の進歩の状況と明るい前途をつねに人民に宣伝して、人民に勝利の確信をもたせなければならない。同時に、われわれはまた、道がまがりくねっていることを人民におしえ、同志たちにおしえなければならない。革命の道にはまだ多くの障害があり、多くの困難がある。わが党の第七回代表大会では多くの困難を予想した。困難はむしろおお目に考えておくほうがよいのである。一部の同志は、困難についてあまり考えたがらない。しかし、困難は事実であり、あればあるだけ認めるべきで、「不承認主義」をとってはならない。われわれは困難を認め、困難を分析し、困難とたたかわなければならない。世の中にはまっすぐな道はない。安易なことばかり考えずに、まがりくねった道をあゆむ覚悟がなければならない。ある朝突然、すべての反動派がのこらすみずから地べたにひざまずくなどということは、とうてい考えられないことである。要するに、前途は明るいが、道はまがりくねっている。われわれの前にはまだ多くの困難があり、これを無視してはならない。全人民と団結してともに努力すれば、かならず万難を排して勝利の目的をとげることができるのである。



    〔1〕 一九四五年十月十日、国共双方の代表によって調印された「会談記録要綱」、すなわち「双十協定」をさす。この記録要綱のなかで、蒋介石はうわべではしかたなく、中国共産党の提出した「平和建国の基本方針」に同意し、「平和、民主、団結、統一を基礎として……長期にわたって協力し、あくまで内戦をさけ、独立、自由、富強の新中国を建設する」こと、「政治の民主化、軍隊の国家化および諸政党の対等と合法化が平和建国を達成するためにかならず通らなければならない道である」ことを認め、また国民党の訓政期をはやく終わらせて、政治協商会議を招集すること、「すべての民主主義国の人民の平時に享有すべき身体、信教、言論、出版、集会、結社の自由を人民か享有できるよう保証し、この原則にしたがって現行法令をそれぞれ廃止あるいは改正する」こと、時粉機関を撤廃し、「司法および警察以外の機関か人民を逮捕、審問、処罰する権限をもつことを厳禁し」、「政治犯を釈放する」こと、「積極的に地方自治をおしすすめ、下からの普通選挙を実行する」ことなどにも同意した。だが、同時に、蒋介石政府は人民の軍隊と解放区の民主政権の合法的地位を承認することを頑強に拒否するとともに、「軍令の統一」と「政令の統一」を口実にして、中国共産党の指導する人民軍隊と解放区を完全に解消しようとたくらんだ。そのため、この問題について取り決めをまとめることができなかった。以下は、「会談記録要綱」のなかで解放区の軍隊と政権の問題についての交渉の経過を記載した部分である。ここでいわれている「政府側」とは蒋介石の国民党政府のことである。
     「軍隊の国家化の問題について、中国共産党側はつぎのような案をだした。政府は、全国の軍隊を公平に合理的に再編成し、数期に分けてそれを実施する計画をきめるとともに、軍区の再区画をおこない、補充徴集の制度をきめて、軍会の統一をはかるべきである。こうした計画のもとでは、中国共産党は、その指導する抗日軍隊を現在の数から二十四コ師団、さらには最少限二十コ師団にまで縮小する用意があり、また、広東省、浙江省、江蘇省南部、安徽省南部、安徽省中部、湖南省、湖北省、河南省(河南省北部をのぞく)の八地区に散在しているその指導下の抗日軍隊の復員にすぐ着手するとともに、再編成されるべき部隊を上述の地区から逐次撤退させて、天水=連雲港鉄道以北および江蘇省北部、安徽省北部の解放区に集結してもよい、と表明した。政府側はつぎのように表明した。全国的な再編成計画はいま立案中であり、このたびの交渉に提出された各項の問題か全面的に解決されるなら、中国共産党の指導する抗日軍隊を二十コ師団に縮小することは考慮してもよい。駐屯地の問題については、中国共産党側から案をたし、討議のうえ決定してもよい、と。中国共産党側はまたつぎのような案をだした。中国共産党およびその地方軍事要員は軍事委員会およびその各部の仕事に参加するのが当然である。政府は、人事制度を保障して、原部隊所属要員を再編成後の部隊の各級の将校に任用し、編成からはみだした将校にたいしては各区ごとに訓練をほどこし、公平で合理的な給与制度を設け、政治教育計画を確定すべきである、と。政府側は、提案された各項目については問題がない、詳細な方法についても相談したい、と表明した。中国共産党側は、解放区の民兵は一律に地方自衛隊に編成すべきである、と提案した。政府側は、地方の状況にしたがってその必要性と可能性があるばあいにのみ、適宜にこれを編成する、と表明した。本項にのべられた諸問題について具体的な計画をたてるため、双方は三人小委員会(軍令部、軍政部および第十八集団軍からそれぞれひとりを派遣する)を設けることに同意した。」
     「解放区の地方政府の問題について、中国共産党側は、政府が解放区の各級民選政府の合法的地位を認めるべきである、と提案した。政府側は、解放区という名称は、日本が降伏したのちには、過去のものとなるべきであり、全国の政令はかならず統一されるべきである、と表明した。中国共産党側が最初だした案は、いま十八の解放区が存在するという事情にてらして、省と行政区の再区画をおこなうとともに、もとからの各級民選地方政府の名簿をただちに中央に提出し、その任命の承認をもとめて、政令の統一をはかる、というものである。政府側はつぎのように表明した。蒋主席かかって毛氏に表明したように、中央は、全国の軍令、政令が統一されたのち、中国共産党の推薦する行政要員の人選を考慮してもよい。回復地区の抗戦関係のもとの行政要員にたいしては、その仕事の能力と実績におうじて、政府はこれを適宜に、ひきつづきその地方で勤務させるようにし、政党関係によって差別をつけるようなことはしない、と。そこで、中国共産党側は、第二の解決案、すなわち陝西・甘粛・寧夏辺区および熱河、察哈爾、河北、山東、山四の五省では、中国共産党の推薦するものを省政府の主席および委員に任命し、綏遠、河南、江蘇、安徽、湖北、広東の六省では、中国共産党の推薦するものを省政府の副主席および委員に任命し(以上の十一省には、広大な解放区または地域的な解放区があるからである)、北平、天津、青島、上海の四つの特別市では、中国共産党の推薦するものを副市長に任命し、また東北各省では中国共産党の推薦するものが行政に参加することを承認するよう、中央に要請するという案をだした。この件については、いくども討議をかさねたのち、中国共産党側で、上述の提案にいくらかの修正をくわえ、省政府の主席および委員への任命を要請するものを陝西・甘粛・寧夏辺区および熱河、察哈爾、河北、山東の四省にあらため、省政府の副主席および委員への任命を要請するものを山西、綏遠の両省にあらため、副市長への任命を要請するものを北平、天津、青島の三つの特別市にあらためることにした。政府側は、これにたいし、抗戦に顕著な働きのあったもので、政治的にも能力のある同志について、中国共産党が、政府に任用の決定を申請することはさしつかえないが、もし、中国共産党が某省の主席や委員、某省の副主席になどと推薦するなら、それは誠意をもって軍令、政令の統一をはかるということにはならない、と表明した。そこで、中国共産党は第二の主張を放棄してもよいと表明し、あらためて、つぎのような第三の解決案をだした。解放区の各級民選政府によって、あらためて人民による普通選挙をおこなう。諸政党および各界の人士が帰郷して、政治協商会議から派遣されたものの監督のもとで、選挙に参加することを歓迎する。過半数の区、郷がすでに民選を実行している県では、県の民選をおこなう。過半数の県がすでに民選を実行している省もしくは行政区では、省もしくは行政区の民選をおこなう。選出された省、行政区、県の政府は、一律に中央に報告してその任命の承認をもとめ、それによって政令の統一をはかる、と。政府側はつぎのように表明した。こうした省、行政区の任命方式は、政令の統一をはかるものではない。県の民選だけは考慮してもよいが、省の民選は、憲法が公布され、省の地位か確定するのをまって実施すべきである。目下のところ、行政をすぐ正常な状態にもどすには、中央から任命された省政府官吏が各地におもむいて行政をひきつぐほかはない、と。ここにいたって、中国共産党側はつぎのような第四の解決案をだした。それは、各解放区については、しばらく現状を維持して変えず、省政府の民選が憲法によってきめられ、実施されるのをまって、あらためてこれを解決することにし、いまは、臨時の規定をさだめて、平和的秩序の回復を保証する、というものである。同時に、中国共産党側はこの問題を政治協商会議に提出して解決すべきであるとした。政府側は、政令の統一を予定よりはやく実現すべきであるとし、この問題がいつまでも未解決のままになっていれば、平和建設の障害となるおそれがあるので、やはり、具体的解決案について話し合いがつくことを切望した。中国共産党側もまたひきつづき交渉することに同意した。」
    〔2〕 上党とは山西省東南部の長治県を中心とする地区のことで、むかしは上党郡に属していた。この一帯の山岳地区は、抗日戦争の時期には、八路軍第一二九師団の根拠地であり、山西・河北・山東・河南解放区に属していた。一九四五年九月、国民党の軍閥閻錫山は十三コ師団の兵力を集中し、日本軍・かいらい軍の協力のもとに、あい前後して臨汾、浮山、翼城および太原、楡次から出発し、山西省東南部解放区の襄垣、屯留、[シ+路]城などに侵入した。十月、同解放区の軍民は反撃にでて、侵入部隊の三万五千人を殲滅し、軍団長、師団長などの多くの高級将校を捕虜にした。
    〔3〕 「十八年の経験から」とは、一九二七年に国民党が革命を裏切ったときから一九四五年までのあいだ中国共産党が国民党とたたかってきた経験をいう。
    〔4〕 本選集第三巻『連合政府について』の第四部分の「われわれの具体的綱領」の第二節から引用。
    〔5〕 広東省、浙江省、江蘇省南部、安徽省南部、安徽省中部、湖南省、湖北省、河南省(河南省北部をのぞく)の八地区に散在していた人民軍隊の根拠地をさす。
    〔6〕 本選集第三巻の『中国の二つの運命』、『愚公、山を移す』にみられる。
    〔7〕 一九四五年九月十一日から十月二日まで、ソ、中、米、英、仏五ヵ国の外相がロンドンで会談し、ファシスト・ドイツの侵略戦争に荷担したイタリア、ルーマニア・ブルガリア・ハンガリー、フィンランドとの平和条約の締結、イタリアの植民地の処理などの問題について討議した。この会議は、米、英、仏などが帝国主義的侵略政策を固持し、反ファシズム戦争の勝利後に樹立されたルーマニア、ハンガリー、ブルガリアなどの人民政権の転覆をたくらみ、ソ連の道理にかなった主張を拒否したために、話がまとまらなかった。
    〔8〕 本巻の『当面の国際情勢についてのいくつかの評価』を参照。



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